本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『運のいい人、悪い人の心の習慣』(水島広子)

 お薦めの本の紹介です。
 水島広子先生の『精神科医がみつけた 運のいい人、悪い人の心の習慣』です。

 水島広子(みずしま・ひろこ)先生は、精神科医・元衆議院議員です。
「対人関係療法」の、日本における第一人者として有名な方です。

「ラッキー」と「運のよさ」の関係

 水島先生は、「自分が運がいい」と思っている人は、本人が意識していないとしても自己肯定感が高いと指摘します。

 自己肯定感とは、無条件に自分という存在を肯定する気持ちのこと。
 つまり、特に根拠はなくても「自分は運がいい」と思える人は、自己肯定感が高いということです。

 水島先生は、「運のよさ」を、以下のように使い分けています。

  • 出来事としての「運のよさ」=「ラッキー」
  • 自分は運がいい」という感覚=「運のよさ」

「ラッキー」というのは、目で見てわかる、出来事としての幸運のこと。
 例えば、

  • 宝くじに当たる。
  • 持っていた不動産の価値が、たまたま上がる。
  • ギャンブルで大もうけする。
  • 予期していなかった遺産が手に入る。

 こういったものが、一般に「ラッキー」と言われるものです。
 努力して得られるレベルではない、本当に降ってわいたようなものを、本書では「ラッキー」と呼ぶことにします。
 しかし、「ラッキー」=「運がいい」というわけではありません。
 そもそも、誰が見てもうなるような「ラッキー」に恵まれる人は、むしろ稀(まれ)です。
 しかし「自分は運がいい」と思っている人は、もっとたくさんいるのです。
(中略)
 私は「ラッキー」そのものに対して否定的な気持ちは全く持っていません。私も「ラッキー」に恵まれたらいいな、とは思っています。
 しかし、「ラッキー」が何の基盤もなくそのまま「運のよさ」に変わることはほとんどないだろうとも思っています。
 その「基盤」の基礎は、「はじめに」でお話したように、「自己肯定感」ということになりますが、「自分は運がいい」という感じ方に達するためには、その基礎の上に「好循環」という要素が必要です。
 つまり、「運のよさ」とは、決して一つの「ラッキー」から得られる感覚などではなく、もっと総合的な「生き方」についての話なのです。
「運のいい人」が「ラッキー」を受け取ると、その「ラッキー」が好循環に乗り、とてもよい形で「運のよさ」に貢献するのだろうと思います。
 一方で、「ラッキー」に振り回されて人生の質を下げてしまっている人も相当数存在します。ギャンブルの世界にも多いでしょう。
「これさえうまくいけば」ということにすっかりとらわれてしまって、現実には何も得られていない。つまり、「これさえうまくいけば始まるはずの幸せな人生」が何も始まっていない、という人も多いのです。
 もちろん中には、幸せな人生が始まるどころか、様々なトラブルに巻き込まれて「人生の終わり」とも感じられる事態を迎えている人もいます。
「ラッキー」を待っていても、「運のいい人」にはなれない、ということでしょう。
 これだけ見ても、「ラッキー」と「運のよさ」を区別して考えることは、理にかなっていると思います。

『運のいい人、悪い人の心の習慣』 第1章 より 水島広子:著 海竜社:刊

 運がいい、運が悪い。
 それを決めるのは、出来事(ラッキー)ではありません。

 むしろ、出来事を、どう受け止めるか。
 日頃からの意識の持ち方のほうが、重要です。

 本書は、「自分は運がいい」と感じることで、人生を前向きに生きるための処方箋をまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「現実」は「現実」として、認めること

「運のいい人生」とは、ネガティブな目詰まりのない好循環です。
 自分の人生のどこかを否定してしまうと、それは「目詰まり」になります。

 水島先生は、「運のいい人」になるためには、「現実」は「現実」として認める必要があると指摘します。

 その際に重要なのですが、「現実を受け入れる」というのは、単に「起こった事実(多くがアンラッキーなこと)を否認しない」というだけの意味ではありません。
 先ほど、自分にとって不本意なことが起こったとき、それに対してネガティブな反応が起こるのは、自己防衛能力を持つ人間にとっては自然なことだとお話しましたが、「現実を受け入れる」ということは、「ネガティブな反応を起こす自分自身も受け入れる」ということなのです。
「ネガティブな反応」の中には、もちろん、「どうしてこんなことに」「どうして自分だけ」などという気持ちもあるでしょう。それはそれでよいのです。
 人間にとって、あらゆる変化がストレスです。心身が、その変化に適応しなければならないので、何かしらの変化がストレスです。心身が、その変化に適応しなければならないので、何かしらの負担がかかってくるのです。特に、その「変化」(何らかの出来事に見舞われることも、適応が必要な「変化」と言えます)の内容がネガティブな意味合いのものだったら、それに強くショックを受け抵抗する気持ちが生じるのは自然な反応です。
 それを知った上で、「人間だから、そういうふうに思うのは当然だなあ」と思えれば、案外その「反応」からは脱しやすくなります。
「反応」に巻き込まれてしまっているときにはそれが「全て」に思えますが、「人間として当然起こってくる反応」と客観的に見ることができれば、その時点で、本質的には「反応」から脱している、と言えます。すぐに「反応」がゼロになるわけではなくても、自分を支配するものではなくなるのです。「人間に起こりがちなこと」を知っておくのは、実に有用なのです。
「反応」から脱してしまえば、いつまでも「被害者意識」に引きずられることがなくなります。
「反応」から脱すること=「被害」は認めるけれども「被害者意識」からは脱すること。
 アンラッキーなことは確かに起こったけれども、「運が悪い」という感覚にとらわれる必要はないのです。この理解が、「運がいい人生」を可能にしていきます。
 本書では、「運のよさ」と「ラッキー」を区別して考えていますが、それはこんなところにも応用できるのです。
 また、そもそも自分はアンラッキーなことによって傷ついているのですから、「ああ、こんなことが起こってしまった。かわいそうな私。しばらく自分を労(いたわ)ってあげよう」と思えば、十分なのです。
 そんなふうに自分に優しく接する習慣をつけていけば、だんだんと、「反応」から脱するのが早くなります。

『運のいい人、悪い人の心の習慣』 第2章 より 水島広子:著 海竜社:刊

「どうして、自分だけ」

 嫌な現実(アンラッキー)が起こると、被害者意識にとらわれがちです。
 運のいい人生を送るには、そこから脱することが必要です。

 事実を、なかったことにする。
 事実を、無理なポジティブ思考で、ねじ曲げる。

 そんなことをしても、「運の悪さ」からは、逃れられません。

 事実は事実として、そのまま認める。
 嫌な感情が湧いてきたら、その感情も、素直に受け入れる。

 それが「運のいい人」になる第一歩です。

どうして「比較」してしまうのか

 自分の運の悪さを強く感じる。
 そんなタイミングのひとつが、「他人と自分を比べるとき」です。

 他人と自分の比較に意味がないということが頭でわかっていてもなお、比較せざるを得ないときがあります。
 それは、他人の「うまくいっていること」から衝撃を受けたときです。
 仕事での成功、私生活の充実など、他人についての何かしらの情報に触れると、衝撃を受けることがあります。
(中略)
 人は衝撃を受けると、そこから自分を守ろうとしますので、「もう傷つかないためには」という方向に心身がシフトします。
 他人の「うまくいっていること」から衝撃を受けたということは、「自分がうまくいっていない」ということですから、そういう自分を正そうとして深掘りするような精神状態になっていきます。
 つまり、「あの人はうまくやっているのに、どうして自分はこんなにダメなの?」と、自分を責め、どんどん追い込んでいくような精神状態になるのです。
 そんなときに「自分と他人を比べるなんて、ダメな人間だ」という考えを持ち込んでしまうと、さらに自分を責めることになってしまいます。
 もともと「ダメな自分」が気になっているのですから、ますます、「他人と自分の比較」構造が強まってしまうのです。
 こんなときもやはり、必要なのは「ポジティブ思考」でも「べき」でもなく、「癒やし」。
「衝撃を受けたのだから、反応としては仕方がないな」ととらえつつ、「自分には自分の事情がある。それを考えれば、『今は、これでよい』のだ」という方向に結論を設定しておけば、あとは時が癒やしてくれると思います
「今は、これでよい」は魔法のような「癒やし」の言葉です。そして実際に、真実でもあります。
 それぞれの人が、それぞれの「事情」の中で頑張って生きています。
「努力すれば何でもできるはず」「できていない自分はやる気が足りない」などというのは、「事情」を無視した考え方です。
 努力したときにどれほど「成果」が上がるか、というのはそれぞれの「事情」を反映します。また、「やる気」がどれほどあるか、ということも「事情」によります。
 何らかの理由により現在気力がないことも「事情」ですし、過去の失敗からやる気を失ってしまっている、というのも「事情」です。
 こうやって考えてみると、「事情」を無視する考え方というのは、自分が完璧で万能な存在であるかのような、非現実的で傲慢(ごうまん)な考え方だとも言えますね。

『運のいい人、悪い人の心の習慣』 第3章 より 水島広子:著 海竜社:刊

 今は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の時代です。
 周囲の情報に衝撃を受けることは、容易に起こり得ます。

 そのたびに、自己憐憫や被害者意識にとらわれては、気持ちが休まることはありません。
「運のいい人生」も、逃げていってしまいます。

「今は、これでよい」

 自分を守る、癒やしの言葉。
 ぜひ、忘れないようにしたいですね。

相手からの「助け」を受け入れてよいかどうかの判断は?

「運のいい人」は、人から支えられているという感覚を持ち、今の生活におけるストレスも少ないといえます。

「自分は運がいい」

 そう思っていると、基本的に心が開きますから、他人からの助けを得やすくなります。
 結果として、人から支えられている感覚を持ちやすくなり、「自分は運がいい」という感覚が強化されます。

 この好循環をつくることが、「運のよさ」を呼び込むポイントです。

 相手が助けてくれようとしたとき、それが受け入れてよいものなのか、警戒した方がよいものなのか、という判断は、基本的には日常的な人間関係の中で養われるセンスです。
 そのセンスを磨くポイントは、「誠実さ」だと言ってよいでしょう。まずは自分が誠実に生きること。「相手にどう思われるか」ではなく「自分は誠実か」を軸に生きることです。
 ここで対立軸を「誠実か」「不誠実か」に置くのではなく、「誠実か」「相手にどう思われるか」に置いているのには理由があります。
「誠実さ」を中心に置くと、視野から「自分」が消えるのです。
 誠実にしている限り、自分について気にする必要がないからです。すると、見えるのは「相手」だけになります。相手が誠実な人かどうかを見抜く能力が高まります。自分は誠実に関わっているのに、不規則な言動を返してくる人は、おそらく「事情」があるのだろうな、と「相手の問題」として見ることも容易になります。
 一方、「相手にどう思われるか」を軸に生きてしまうと、目に入るのは実は「自分」だけ。自分がどう見られているか、ということしか考えられなくなってしまい、目の前にいる相手の誠実さを推(お)し量(はか)ったり、相手の「事情」に思いを巡(めぐ)らせたりすることができなくなってしまうのです。
 相手が不規則な言動をとってくるとしても、それは「相手の問題」ではなく、「自分が何か悪いことをしてしまったのではないか」というふうにしか見ることができなくなってしまいます。
「相手はどういう人か」に目がいかなくなってしまうので、相手の誠実さを感じる体験などできなくなってしまいます。当然、相手の「助け」が本物かどうかの区別をする能力も身につきません。
 自己肯定感が低い人の中には、人が自分のために何かやってくれるというだけで、「受け取らなければならない」「断るなんて失礼」という感じ方をする人も少なくありません。あるいは、「こんな自分のことを気にかけてくれる人なんて、二度と現れない」と、しがみつくような気持ちになってしまうこともあります。しかし結果として相手から支配される関係に陥ってしまい、「運が悪い人生」を送らなければならなくなる、ということもあり得ます。
 このような態度も、一見「誠実」なようでいて実は違う、と考えてよいでしょう。「自分ごときが断るなんて」という感じ方は、要は「相手からどう思われるか」ということ。結局、自分のことばかりで、相手そのものに目が向いていないと言えるからです。
 また、「こんな自分のことを気にかけてくれる人なんて」というのも、極端に低い自己肯定感に基づくもの。「運のよさ」とは逆方向です。

『運のいい人、悪い人の心の習慣』 第4章 より 水島広子:著 海竜社:刊

「相手に、どう思われるか」

 を軸にして生きること。
 それは、相手のことを考えているようでいて、実は、自分のことにしか目に入っていない状態です。

「誠実さ」を中心に置くと、視野から「自分」が消える。
 その結果、相手の言動や心の動きが、よく見えるようになる。

 いい人間関係を築くための秘訣です。
 自分に対しても、他人に対しても、つねに誠実でありたいですね。

「怒っている」=「困っている」と、自動翻訳する

「運のよさ」を身につけるためには、メンタル面での安定は、欠かせません。
 ネガティブな感情への対処法を身につけることが、「運のいい人」になる近道です。

 水島先生は、「怒り」の感情への対処法を、以下のように述べています。

「怒り」という感情の扱い方は、「運のよさ」に直結してくるものです。怒りはネガティブな目詰まりを起こし、好循環を妨げるからです。
 実は、人が怒っているときというのは、困っているとき、と言い直すことができます。今まで自分が感情的に怒ったときのことを思い出してほしいのですが、そういうときには必ず困っていませんでしたか?
 人間が「怒り」を感じるのは、基本的に「予定狂い」のときです。「こんなはずではなかった」という思いが、怒りとして感じられるのです。
「こんなはずではなかった」という状況は、つまり、困っているということです。
「怒っている」=「困っている」という自動翻訳は、他人に対しても、自分に対しても、とても役に立ちます。
 他人に対しては、「自分が責められているわけではなく、相手が困っているだけなんだな」と思えれば、余裕も生じます。相手を気遣ったり、助けてあげたりすることもできるでしょう(もちろん、現に嫌なことを言われているわけですから、親切にしてあげなくてもよいのですが)。
 自分に対しては、「怒ってしまうなんて、自分はなんて人間として器が小さいのだろう」という自責感から解放されて、「自分は困っている。では、誰に助けを求めればよいのだろう」と前向きに思考を進めることができるようになります。
 いずれも、自己否定から脱し、対人関係をスムーズにする、という点で、「自分は運がいい」という好循環への回復を早めるものだと言えます。
 なお、怒りが尋常(じんじょう)でない人の場合、その怒りはトラウマ症状である可能性があります。自分を脅かすと感じる相手に対して、滅茶苦茶に自己防衛する、という症状なのですが、「困っている」という基本は同じです。「困り方」も尋常でない、というだけのことなのです。もちろん、治療の対象になります。

『運のいい人、悪い人の心の習慣』 第10章 より 水島広子:著 海竜社:刊

 相手の怒りに対して、自分も、怒りの感情で対抗する。
 それでは、お互いにエスカレートして、状況は悪化するばかりです。

「怒っている=困っている」

 という自動翻訳をする。
 相手の怒りにも、自分の怒りにも、距離を置くことができます。

 どんなときでも、自分を失わず、冷静でいられること。
 それも、「運のいい人」の、大きな特徴のひとつです。

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 水島先生は、「運のいい人」になるためには主体的に生きることが必要だとおっしゃっています。

 周囲の人や出来事に依存して生きると、よくないことが起こったときに、被害者意識を持ちます。
 主体的に生きると、チャレンジした結果が悪くても、納得して受け入れることができます。

「アンラッキー」も「ラッキー」も、たんなる出来事です。

 それらに振り回されて生きるか。
 それとも、淡々と受け入れて生きるか。

 それが、「運のいい人」と「運の悪い人」を分ける分岐点です。

 出来事は、受け取り方によって、プラスにもなれば、マイナスにもなります。

「起こることすべては、貴重な体験である」

 そう感謝しながら、「運のいい」人生を歩んでいきたいですね。

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