【書評】『神仏のなみだ』(桜井識子)
お薦めの本の紹介です。
桜井識子さんの『神仏のなみだ』です。
桜井識子(さくらい・しきこ)さんは、霊能者・介護士です。
神仏関係の波動の高いものを見たり、神様や仏様の声を聞くことができる特殊能力をお持ちです。
人気ブログ、『ひっそりとスピリチュアルしています』の執筆者でもあります。
「神様仏様の愛」を、もっと深く知る
これまで「神仏のありがたさ」について、著書やブログで発信してきた桜井さん。
神仏にご縁をいただくということ。
どこの神社仏閣に、どんな神仏がいらっしゃるのか。
祈願を叶えてもらいやすくするには、どうすればいいのか。
本書は、そんなこれまでの方向性とはちょっと違ったテーマになっています。
東日本大震災の津波到達ラインに沿って、寺社が多くあることはご存知の方が多いと思います。神様の力が津波を止めたとしか考えられないという寺社もあって、以前から取材をしたいと思っていました。今年の6月にやっと念願が叶って、被災地の寺社を訪れることができました。
東日本大震災が起こったあの日、神様や仏様はどうされていたのか・・・・・。
亡くなられた方が多くいたのはどうしてなのか、助けることはできなかったのか・・・・・。
本書を読んでいただければ、その疑問が氷解することと思います。私も被災地をまわって初めて神々の真の尊さを知りました。神様がどれほど崇高であるか・・・・・それは人間の想像をはるかに超えたものでした。
お願い事を叶えたり、守ってくれたり、癒やしをくれたり、そのような表面だけではない、奥深い部分には泣けてくるほどの切ない真実がありました。それを是非、皆様にも知っていただきたいと思います。『神仏のなみだ』 はじめに より 桜井識子:著 ハート出版:刊
桜井さんは、本書を読んでいただければ、神仏の深いところまで知ることとなり、神様仏様への感謝がより強く尊いものに変わられるのではないか
と述べています。
本書は、「神様仏様が私たちをいかに愛しているか」を知り、神様仏様とコンタクトする能力を目覚めさせるために書かれた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。
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昔と今の「信仰心」の違い
桜井さんが、兵庫県にある「龍山(りゅうざん)神社」を訪れ、そこの神様に聞いたお話です。
龍山神社の神様は、昔の人と今の人の「信仰心」の違いについて、以下のようにおっしゃったそうです。
ここの神様が言うには、信仰心を持つためには“素直な心の部分”が必要なのだそうです。
昔の人は“宗教”だのなんだのと難しいことは考えずに、「天」や「おてんとうさま」に手を合わせていました。それは教義として難しく教わったものではなく、親や祖父母の姿を見て自然と備わったものです。
そのような教義として知る信仰ではない、純粋に天や、おてんとうさま、ご先祖様などを信じる心を持つのは、心の中に素直な領域がないと成り立たないそうです。
清らかな信仰心とはその部分に発生するから、と言っていました。
たとえば、気分次第で人を罵(ののし)ったり、殴ったり、腕力にものを言わせてお金を奪ったり、そんな自分勝手に生きている荒れくれ者がいたとします。その人が「おてんとうさま、今日も1日ありがとうございました」と、謙虚な心を持てるのか? ということらしいのです。信仰心は素直な心の領域にしか種を植えられない、ということだと思います。
昔は身分制度があったため、農民も町人も殿様になろうなどと考える者はいなくて、また、なろうと思ってもいませんでした。そこには「あきらめ」とはちょっと違う、現実を「受け入れる」と言うか、「認める」というか、そのような寛容な部分がありました。
食べ物は天候に左右され、まともに食事をとれない日も少なくありませんでしたし、豊作だとたくさん食べられたわけです。それは「天」という見えないものに生かされている、身を委ねていることを実感する日々です。
字を読めない人も多く、読めたとしても学問をまともにしている人は少なかったわけですから、自分は賢くない、と本気で思い、そこには謙虚な気持ちもありました。
現代人はみんなが平等です。身分の上下はありませんし、誰もが自由に意見を発言できます。批判することも自由です。ネットがあるので、調べれば何でもわかります。誰もが自由で平等、便利な世の中になって暮らしやすくなりましたが、国民全体の心のあり方が少し昔とは違っているようです。
これは現代人に素直な心の領域がないというわけではありません。昔の人は持っている人が多かった、現代人より多かったという比較のお話です。
ご先祖様を大事に思う気持ちがある、“神様仏様”の存在を信じていて、神仏を敬う心もある、神社が好き、お寺が好き、自分は信仰心が厚いなぁ、と思われる方は、素直な心の領域が大きな人だと思って間違いないです。『神仏のなみだ』 第一章 より 桜井識子:著 ハート出版:刊
今は、昔と比べて、はるかに豊かになりました。
知り得る情報の量も、比較にならないほど多いです。
思想や職業の制限も、昔と比べれば、「ない」と言ってもいいほどです。
物質的に恵まれた生活を得たことは、喜ばしいことです。
ただ、その一方、「謙虚な心」を持つことが難しいのは、疑いようのない事実です。
現代は、信仰を持つには、とても難しい世の中。
だからこそ、余計に価値があるものだ、ともいえます。
「きぬさん」の100日参り
昔の人の信仰心の厚さは、どれほどのものだったのでしょうか。
桜井さんは、広島県にある「久井稲生(くいいなり)神社」の神様に聞いた「きぬ」という女性の物語を紹介します。
きぬ、という名前の若い女性がいました。
きぬは赤子を抱いて久井のお稲荷さんに、時々お参りに来ていました。というのは、きぬの可愛い赤子の目が、どうやら見えていないようだ、と気づいたからです。何を見せても目で追わない我が子に愕然としたきぬは、神様にすがるしかない、と思いました。そこで、願いがよく叶う、力が強いと評判の久井のお稲荷さんに参拝していたのです。
きぬは心の底から神仏を信じている、信心深い女性でした。心根も美しく、神様が好意を持つタイプの人間です。子どもを一心に思う親心に打たれた神様は、ある日、きぬの夢枕に立ちました。
「見えない目を見えるようにしてほしい、という大きな願掛けは、それなりの行為を示す必要がある。100日続けて神社に通って来い」
夢枕ですから、ただの夢だと捨ててしまう人のほうが多いと思われますが、きぬは違いました。神様が助けてくださる! と、感謝の涙を流しながらお礼言いました。
翌日から言われた通り、毎日、久井のお稲荷さんへと通いました。
雨の日も、風の日も、霜が降りて寒さでガチガチと震える日も、欠かさず通いました。赤子を背負って、片道4時間弱の道を歩いたのです(詳細を聞くと3時間30〜40分だったということです)。往復で8時間です。
その道のりをきぬはせっせと歩きました。可愛い我が子のために・・・・・。ひたすら神様を信じて・・・・・。
念願の100日目、神社に着いたきぬは、
「自分の気持ちとして、あと7日通います」
と、神様に申し出たそうです。助けてくださる神様への深い感謝と、自分の神様に対する気持ちを形にしたかったようです。
107日間、きぬは通いとおしました。そんなきぬを見て、神様は赤子の目を治してあげたそうです。赤子はきぬの初めての子どもでした。男の子だったそうです。
赤子の目を実際に治したのはお稲荷さんですが、きぬの信仰の深さ、信じる力、そして我が子を一心に思う母心、それらが治したと言っても過言ではないように思いました。『神仏のなみだ』 第一章 より 桜井識子:著 ハート出版:刊
往復8時間かかる道のりを、100日間、毎日欠かさずに通う。
よほどの信念がないと、やり切ることはできませんね。
回数だけが重要なのではありません。
桜井さんは、神様を信じて毎日通う、それを100日間欠かさず続けるという努力、しんどくても面倒くさくても毎日行くという揺るがない信仰心、それらが大事
だと述べています。
被災時の「神々の真実」
2011年3月11日に起こった、東日本大震災。
東北地方を襲った、未曾有の大地震においても、その土地の神様は、私たちを助けるために、あらゆる力を尽くしてくれました。
桜井さんは、神様から聞いた、その様子を以下のように説明しています。
神様によると・・・・・“地震”は、直前でなければわからないそうです。地震が来ることがわかると同時に、”津波”もわかるそうです。そこで地域の神々は、サッと話し合うというか、打ち合わせというか、そのようなものを一瞬で行い、守る態勢に入るそうです。
津波は地震が発生して起こるものです。ですから津波のエネルギーは、地震のエネルギーを帯びています。
その地震は、地球という”天体”の作用によって起こります。地震のエネルギーは、宇宙空間に浮かんで動いている地球という“惑星”のエネルギーであり、それはいってみれば、宇宙規模のエネルギーというわけです。それはもう、とてつもなく大きく強いもので、神様の力よりもはるかに強大です。
津波は地震のエネルギーも持っているため、想像を絶するくらい巨大な力となっています。この津波が勢いよく襲ってくる場所は、いくら神様といえども太刀打ちできません。比べ物にならない大きさなのです。
津波の勢いが強い場所にある神社と眷属は津波が来る前に、海岸から少し離れた、もしくは力がある神様の神社へ行ったそうです。そしてそこで、その神社の神様や眷属と力を合わせて(パワーを2倍にも3倍にもして)、津波と戦う、という方法を取ったのだそうです。実際に自分の足で津波にながされた土地に立って、震災の日に焦点をあわせると、あの日の神様方の姿が出てきました。
小さな神様も大きな神様もその土地の神様が全員で連携し力を合わせて人間を助けています。どの神様も出せる力を惜しまずに、躊躇することなく全部、出し切っています。
神様という存在は、究極の言い方をすればエネルギーです。体が・・・・・というより、存在自体がエネルギーの塊です。そのような存在が、出せる力を全部出す、ということは、自分自身を形づくっているエネルギーを全部放出して使う・・・・・つまり、自分自身を削ることを意味します。自分の体と言いますか、自分という存在をエネルギーとして使う、ということなのです。
自分=エネルギーですから、使えば自分という存在が減ります。消えてしまうギリギリ寸前まで、すべてのエネルギーを放出して津波を止めようと尽力した、というわけです。
その理由は、一人でも多くの人間を救いたい・・・・・ただ、それだけのために、です。『神仏のなみだ』 第二章 より 桜井識子:著 ハート出版:刊
日本人は、地震や噴火などの天災があると、「神様のたたり」だと言います。
自分たちでどうにもならない不幸を、神様のせいにしてしまいがちですね。
しかし、真実はそうではありません。
むしろ、その逆で、私たちをあらゆる天災から守ってくれています。
神様の、人間に対する底知れない深い慈悲と愛情。
今こそ、私たちは気づくべきでしょう。
教会は窓口、十字を切ってご挨拶
「癒やしの町」として人気があり、年間約400万人の観光客が訪れる、セドナ。
桜井さんは、そのセドナにある、「チャペル・オブ・ザ・ホーリー・クロス」という教会を訪れ、キリストと直接接触する機会を得ました。
キリストが目の前に出現している・・・・・。
その奇跡のような現象と高波動に圧倒されていた私ですが、ハッと我に返り、「いろいろと教えてもらわねば!」と思いました。しかし、いざお話をしようとしても会話ができません。あれ? と戸惑っていたら、キリストが笑顔で十字を切る仕草をします。どうやら十字を切らないとコンタクトがしにくいようです。
「へぇぇぇーっ! そうなんだー!」と、心底驚きました。
十字を切るジェスチャーは形式的なものだろう、と思っていたので、その行為が本当に力を持つことにびっくりしました。早速やってみると会話が可能になりました。不思議です。十字を切るのは一種のご挨拶だろうから、してもいいし、しなくてもいいのかなと思っていましたが、そうではなかったのですね。
祈りを捧げる、もしくは心の内を神様やキリストに聞いてもらいたい、という方は、小さくてもいいので十字を切ったほうがいいです。これで通話状態になるからです。とりあえず、基本的なことから質問しました。
「教会はキリストさまと繋がるための場所なのですか?」
「そうではない」
キリストは穏やかに微笑みながら返答をしてくれました。
教会は、人間がキリストと繋がるために行く場所ではなく、“キリストとその上にいる神様が愛を与える場所”だと言うのです。
これは、人間が「愛を下さい」と要求して、「はい、どうぞ」と与える・・・・・というものではありません。教会に行けば誰でも(欲しいと思っていなくても)、キリストとその上にいる神様から一方的に愛を与えてもらえる、そのような場所なのだそうです。
なるほど〜、とは思うものの、まだ何がなんだか、よくわかりませんから、質問を重ねます。
「キリストさまの上にいらっしゃる神様はお一人ですか?」
「そうだ」
「その神様は、私にはとても位が高い神様に見えるのですが?」
キリストによると、その神様は人類のためだけにいる”愛の神様”なのだそうです。
愛を蓄えた神様と言いますか、”愛”が神様の形として存在しているような、そのような神様です。愛でもって全人類をまとめる、束ねる、それがお仕事のようです。ここでも、「はぁ、なるほど〜」と思いましたが、まだ言葉の表面だけしか理解ができていません。
イメージとして見えたのは、神様の両手です。両手で水をすくうようにした、その手のひらの中に入った人々を、1人もこぼさない、1人も落とさない! と、包み込むようにして大事に守っています。
この神様は人類だけの、人類のための神様で、エネルギーをどうするとかこうするとか、自然環境を守るとか、そういったお仕事は一切なさいません。キリストはこの神様のお手伝いをしているようです。『神仏のなみだ』 第三章 より 桜井識子:著 ハート出版:刊
クリスチャンがよくやる、十字を切るしぐさ。
あれは、単なるジェスチャーではなく、キリストとつながるための儀式だったのですね。
神仏の、人智を超えた、深い愛情。
それは、洋の東西にかかわらず、万国共通だということです。
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☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
これまで、大災害があるたびに、自らを犠牲にし、人間を守ろうと力を尽くした神様や仏様。
そのような慈悲深い行為をなさる理由。
それは、神様には、“自分という存在”が一切ないからです。
守るべきものが何もない。
だから、「自分」を差し出してでも、人間を守ることができる。
信じてくれないからといって、怒ったりすることはありません。
当然、バチを与えたり、人間に危害を加えることはありません。
神仏は畏れ敬う存在。
そんなイメージは、神様ではなく、神様の周りにいる人々が植え付けた偏見にすぎません。
神仏の慈愛は、並の人間には、とうてい理解できないものです。
神様仏様に、今まで以上に親しみやありがたみを感じることができる一冊です。
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