本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『令和の時代が始まりました!』(はせくらみゆき、森美智代)

 お薦めの本の紹介です。
 はせくらみゆきさんと森美智代さんの『令和の時代が始まりました!』です。

 はせくらみゆき(はせくら・みゆき)さんは、画家・作家です。
 芸術から科学、ファッションデザインまで、ジャンルに囚われない幅広い活動から「ミラクルアーティスト」と称されるなど、ご活躍中です。

 森美智代(もり・みちよ)さんは、鍼灸師です。
 1日約50キロカロリー青汁1杯とサプリメントだけの生活を20年以上続けられています。

変化を楽しみ進化していく時代へ

 2019年5月1日、元号が「平成」から「令和」に切り替わりました。

 はせくらさんが、「令和」の2文字の意味を内在の叡智に聴くと、「和して結びて、令(よし)成(な)して、命なりなむ 神さびて」という言葉が返ってきたそうです。

 なんだかうやうやしい言葉に首をかしげながらも、さっそく「令」の語源を、愛読書である白川静氏の『常用字解』(平凡社)で調べてみることにしたのです。
 すると、令という字は、ひざまずいて信託を受ける人の形から来たもので、神の信託として与えられるもののことを指すそうです。
 つまり、“神のお告げ”ですね。
 そして、令は、そんな神のお告げを受け、真意に沿って生きることで、「よい」や「立派」といった意味合いへとなっていったそうです。
 また、神に近い天子(てんし)などの上位の人が語る言葉も、令として、詔(みことのり)となっていったのだとか。

 今回、新元号の出典元となった『万葉集』、「梅の花の歌32首」の序文には、「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」と書かれ、令は“立派な”を意味する「令月」、和は「風和ぎ」の和からとったとのこと。
 見事な月に、和やかな風。梅の香漂う、はんなり美人のおもかげ、もう〜、なんとも麗しい和の言祝(ほ)ぎでしょうか。
 花鳥風月を愛で、柔和なお顔で集っている先人たちの姿が目に浮かぶようです。
 そんな令という字。もう一つ驚いたのは、命という字はなんと、令の字が元となって生まれたらしいのです。(『常用字解』より)。
 うーん、たしかに、形がとても似ていますね。

 再び内奥に意識を向けてみると、命という言葉は、ミコトとも呼ぶことができ、それは、大いなる意思(神、大我、真我)が分かれ出でた姿でもあります。
 つまり、みずから肉体を持った神として、わが命(いのち)に吹き込まれ、地上世界に降りてきたんだよ、という想いが静かに湧き上がってきます。
 そんな命たちの果たしたかったことが、次の一字に込められているのです。

 それは・・・・・和。わ、輪、環。
 和やか、穏やか、やわらぎの「和」。

 ・・・・・なるほどそうか。私たちの奥なる願い、真なる望みは、大調和。
 大いなる和の民がやりたかったのは、共に仲睦(むつ)まじく、慈(いつく)しみあい、尊びあえる大調和の世界、そんな世界を創ってみたかったんだよなぁ。
 湧き上がる想いを感じていたら、なぜか決まって胸の奥がキュンとなり、泣きたい想いに駆られてしまうんですよね。

 令和――言霊(ことだま)さきわうこの国で、天意は、誰もが使う元号に託して、命(みこと)の中に令(ミコト)を宿し、やり遂げたかった真なる望みを、思い出させてくれようとしているのかなぁと思いました。
 同時にそれは、万世に向けて、“後葉(のちの世)に流(つた)へむと欲す“(『万葉集』より)ることを望んでいた、御先祖さまたちからの伝言ではないだろうかと思えてなりません。

『令和の時代が始まりました!』 はじめに より はせくらみゆき、森美智代:著 徳間書店:刊

 はせくらさんは、令和の時代を一言で表すと、変化を楽しみ進化していく時代であると述べています。

 本書は、令和時代の歴史的意義について解説し、令和時代をパワフルに自分らしく生きるためのノウハウをまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「さなぎ」が「蝶」になるとき

 度重なる自然災害や不穏な社会事情、資本主義の行き詰まり、地球環境の悪化・・・・・。
 現在という時代は、一見、混迷を極めているように見えます。

 しかし、はせくらさんは、この状況を「新しい時代への序章」ととらえるか、あるいは「真逆」としてとらえるかによって、見える世界、現れる世界も変わってくるだろうと述べています。

 私自身は、目に見える混迷は、さなぎから蝶へと変容するがごとくの、一つの過程であるとしてとらえています。
 もし自分が青虫さんだったらどうなるでしょう。目に見える世界は、葉っぱや茎が見える世界です。おまけにとても食いしん坊なので、体積以上の餌をもりもりと食べ続けています。
 けれども時が来たら、食べるのをやめ、じーっとしています。
 そうすると次第に、青虫はさなぎになって、やがて蝶になります。
 蝶になった青虫は、かつて見ていた風景とまったく違うものを見ています。
 青い空に緑のじゅうたん、自分が食べた葉っぱも、上から全容を見渡すことができるのです。行きたいところはどこにでも、みずからの羽を使って飛んでいけます。
 青虫のときには、想像だにしなかった風景が、たった今、目の前に繰り広げられている、ということなのです。

 ところで、さなぎが蝶になるときは、もともとあった細胞組織のほとんどが、いったんドロドロに溶けてから、新たに再構築していくことで蝶になるそうです。これを「変態」というのですが、いってみれば私たちも皆、変態中! であるということです。

 この、さなぎから蝶になっていくようなパラダイムシフトの世界を、ある学者が表現した言葉があります。
 それは、ウクライナの地球化学者であるウラジミール・ヴェルナツキーと、フランスの地質学者であるテイヤール・ド・シャルダンが唱えた「ヌースフィア」という言葉です。

 ヌースフィアとは人間の思考の圏域を示す言葉で、ギリシャ語のヌース(精神・思考)と、スフィア(空間・球)をかけ合わせて創られました。
 私たち、生命が暮らしている場――バイオスフィア(生物圏)に対して、その上位に位置するものとして精神圏とも呼べるヌースフィアの概念が生まれたのです。

 ただ、生存するだけでなく、よりよく生きる。
 しかも誇り高く生きる。
 他を生かし、生かされながら、みずからも輝き、生きていく。

 こうした人間本来が持つ高次の精神性を発揮しながら、生命体としても進化を遂げていく精神圏の世界。
 令和の時代はまさしく、ヌースフィアへの幕開けを告げる時代となるでしょう。

『令和の時代が始まりました!』 第一章 より はせくらみゆき、森美智代:著 徳間書店:刊

 これまでの常識がくつがえり、社会の仕組みそのものが音を立てて崩れ始めている現在。
 まさに、いったんドロドロに溶けてから、新たに再構築していく「変態」と呼ぶにふさわしい状態です。

 今は「さなぎ」から「蝶」へ生まれ変わる過渡期。
 そう考えると、希望を持って前向きに生きていけますね。

「自己肯定感の低さ」がもたらすもの

 現在、私たち人類が立っている地点。
 それは、人類史上画期的なパラダイムシフトの転換点です。

 それは、神を外に見出すのか? それとも、神を内に見出して生きるか? のチョイスです。

 神を内に見出す。
 その妨げとなっているのが、私たちが抱えている悩みです。

 じつは、さまざまな悩みをもたらす感情の、おおもとを辿っていくと、その感情をもたらす「源泉の想い」にぶちあたります。

 それは、自己否定や自己嫌悪、無価値感という、自己肯定感(自分の存在を大切だと感じる感覚)や自愛(自分を愛すること)を低く見積もって自分自身を認識している想念領域です。

 この想いはしばしば、「自分には価値がない」とか「自信がない」「自分が嫌い」「私なんて」「どうせ〇〇だから」といった言葉などをもって、表現されたりします。

 自分の本質は、神とも呼んでよいほどの、大いなる意識そのものなのに、それを認めることなく、ダメ、無理、できないといった、忘却のフェイズを自分の真実と信じて、すっかり誤解してしまっているのです。
 なので、やっぱり勘違い。
 あるいは、自我意識が創り上げた一つの意識の冒険=「趣味」と呼んでもよいかもしれません。

 とはいえ、いったんいだいてしまった低い自己肯定感は、自分はダメな人間だとか、自分のことが嫌だ・・・・・とみずからに刃を向けて、パワーダウンさせるので、本来内側から湧き上がってくる生命エネルギーが低いまま、活性化することはできないため、結果として心も身体もアンハッピーな状態になりやすいのです。

 具体的に見ていくことにしましょう。
 たとえば、自分のことが愛せないと、その愛を他から埋めようとして、特定のモノや事柄、自分がフォーカスしたヒトに依存し、執着したりもします。
 また、それで満足が得られないときは、絶望感や無力感、嫉妬、憎しみ、虚無感が生まれたりもします。

 また、自己肯定感の低さからくる「自信のなさ」を、偽りの自己とそれにともなう行為で満足させるために、競争心を燃やしたり、他から承認されることにこだわったり、物質的なものに固執したりして、自己の価値を高く見せようと邁進します。
 あるいは、「自信のなさ」を、過度の「いい人」を演じることで、評価を得ようとします(その場合は、たいていあとから疲れます)。
 また、地位や名声、名誉に固執するとか、批判、不満、争いの中で窮屈に生きるなど、何かと不便です。
 かと思えば、批判されるのが怖いがために、なるべく目立たないように生きようとか、頼まれたらNOと言えない、行動できないといった、おどおどした生き方になってしまうこともあります。
 他にも、注目を集めて自分のすごさを周囲に知らしめようとしたり、反社会的行為やいじめ、DVや暴力、パワハラ、虚言なども、もとをただせば自己肯定感の低さが原因です。
 また、その思いが外ではなく自分自身に向かって流れていくと、つらい思いを紛らわせるために、過食や拒食、心身症や鬱(うつ)、自虐的な行為、深酒や種々の依存症などにもかかりやすくなってしまうのですね。

『令和の時代が始まりました!』 第二章 より はせくらみゆき、森美智代:著 徳間書店:刊

 その感情が、魂から来たものなのか、自我意識から来たものなのか。
 それは、自分自身がポジティブに感じるか、ネガティブに感じるかで簡単にわかります。

 感情は、私たちをより内側に、本質的な部分に向かう「ナビゲーター」です。
 有効に活用しましょう。

「共時性」の中で生きる

 はせくらさんは、高次元の波と共振しやすい方法論として、「新時代を生きる新3K」という言葉を提唱しています。

 3Kとは、「共感」「共時」「共有」の3つの言葉です。

 そのうちの一つ「共時」は、英語で言うと「シンクロニシティ(synchronicity)」です。

 シンクロニシティは、共時性の他に、同時性、同時発生とも呼ばれ、意味のある偶然の一致のことをいいます。
 もっと簡単に言うと、嬉しいビックリが起こってしまう状態(嬉しくないビックリもありますが)のことを指します。どんな出来事であれ、驚くことが驚くべきタイミングで起こってしまうわけです。
「偶然の必然」とも呼べるかもしれません。

 そんなシンクロニシティ。
 普段は、日本語訳になった共時性という表現よりも、そのまま英語を略して「シンクロが起こる」とか、「シンクロした」といった使い方のほうが馴染みがあるため、本文では、そうした表現も使いたいと思います。
 では、このシンクロ。あなたの暮らしの中で、どれだけ起こっていますか?
 たとえば・・・・・。

  • 街でバッタリ、会いたいと思っていた人に会えた。
  • 欲しいと思っていたものをプレゼントされた。
  • 同じ数字ばかりをよく見かける。
  • ヒトや本やネットから、知りたい情報がちょうどよくもたらされた。
  • 考えていたことが文字化されていた。誰かが言っていた。
  • 連絡しようとしたら、相手のほうから連絡が来た

 ・・・・・などなど。
 このように、ちょうどいいことが、ちょうどいいタイミングで、ちょうどよいように起こってくる(現れてくる)というシンクロニシティ。
 この現象がたくさん起こっている人というのは、すでに新時代のバイブレーションを生きている人です。
 たとえ、自分には、あまりないなぁと思った方でも、落ち込む必要はまったくありません。
 というのは、今までそのことをあまり意識していなかったため、すでに起こっていたとしても、気づかずやり過ごしていた可能性も大ですし、実際に、あまり起こっていなかったとしても、たった今、この瞬間に、「シンクロがある」ということを意識するだけで、すでに、意識のフォーカスが移行しているからです。

 つまり、その瞬間に、「シンクロがあまり起こらない時空」から、「シンクロがたくさん起こる時空」へと、自動スイッチで切り変わっちゃっているのです。
 あとは、暮らしの質を、いま・ここに意識を向けていきながら、遊び心と好奇心を持ってさまざまなものやコトに取り組んでいけば、いつのまにか、たくさんのシンクロに囲まれていることに気づくでしょう。
 楽しみですね!

『令和の時代が始まりました!』 第三章 より はせくらみゆき、森美智代:著 徳間書店:刊

 シンクロニシティが頻繁に起こるは、高次元と意識が共振共鳴したからと考えられます。

 はせくらさんは、目に見える物質的な3次元的肉体を持ちながらも、意識はより精妙な、高次元の時空間とチャンネルが合っているということだと説明しています。

 まさに、「さなぎ」から「蝶」へと変態するヌースフィアを象徴する言葉といえますね。

常識を超えた「量子の世界」、ウェルカム!

 最近、徐々に聞くようになった「パラレルワールド」という言葉。
 パラレルワールドとは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)のことです。

 パラレルワールドは、量子力学の進歩により、その存在が肯定されるような減少が次々と明らかになってきました。

 はせくらさんは、パラレルワールドが示す量子の世界の、今までの古典物理の世界にはない、大きな特徴を2つ挙げています。

 一つめは、量子は粒でもあり、波でもある性質を持っていて、観測されるまで、波として存在する量子はどこにいるのかわからない。けれども観測した途端に、物質として現れるということです。

 この、観測者によって変わる、量子が持つ二重(粒子でもあり、波動でもある)の性質のことを、「観測問題」というのですが、もう少しわかりやすく言うと、もし量子さんたちが「だ〜るまさんがこ〜ろんだ!」で遊んでいるのだとすると、最後の「だ!」のところで量子の位置と状態が特定され、最初の「だ〜るまさんがこ〜ろん」のところまでは、どこにでもいる可能性があるという、量子の重ね合わせの状態が生まれている、ということなのですね。

 このことを一般的な言葉で解釈すれば、客観的事実というのはもともと存在しているのではなく、事象は観測者の観測や認識によって、いかようにも変わってしまうんだよ、ということを意味します。

 そして同時に、観測されるまでの「どこにでもいる可能性」というのが、まだ観測されていないけれどすでに存在しているもう一つの「現実」ということになるのです。
 そのバージョンが無数に並行してある――そう、パラレルワールドです。

 この観測問題を、言い方を変えて表現すると、
「思考は現実化する」
 というよりも、
「すべての現実は、(観測者の)選択と思考の結果によるもの」だった、
 になっちゃうんですよね。
 ・・・・・あらら、ちょっとびっくり、かも。

 二つめは、非局在性といって、量子はたとえ何万光年離れていようとも、片割れが変化するとその情報が瞬時に伝わり、もう一つの状態も確定するというものです。
 つまり、量子は、時間も空間も超えてつながり合っていることになるんですね。
 言い換えると、すべての量子は互いに関連し合いながら、時空をまたいで、全宇宙とつながり合っていた! ということでもあります。

 このことを簡単に言うと、「私」が今思ったこと・感じたことは量子場となって、瞬時に、時空を超えて全宇宙に発振され、影響を与えてしまっている! ということになるのですね。
 私たちは決して孤独で無機的な宇宙にいるわけじゃなかったんです。
 私たちは、常に影響を及ぼし合っている、有機的でダイナミックな参加型宇宙の中にいた、というのが真実のようです。

『令和の時代が始まりました!』 第四章 より はせくらみゆき、森美智代:著 徳間書店:刊

 私たちが存在する世界(時空)以外に、別の世界(時空)が無限に存在する。
 そして、私たちの意識次第で、どの世界(時空)に存在するかを自由に選ぶことができる。

 にわかには信じられないような事実が、量子力学の研究によって明らかになりつつあるということ。

「引き寄せる」とは、自分の望むパラレルワールドを選択することと同じ意味になりますね。

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 はせくらさんは、この本を「令和」の元号が発表されてから、ほぼ3日間で執筆されたそうです。

 書き始めると、言葉がうわーっとあふれ出てくるので、パソコンを打つ手が追いつかず、もどかしいほどだったとおっしゃっています。

 執筆されているときに、繰り返し響いたのが「黎明令和」という言葉だったそうです。
 内なる存在に問うと、黎明令和は、夜明けて開く大調和(弥勒の世)という意味だと答えたとのこと。

 それは、もうすでに天岩戸(あまのいわと)は開いているから、あとは心の岩戸を開いて、天の御心のままに、進んでおくれという想いが込められています。

 自分らしさを発揮し、「本当の自分」を生きる時代。
 変化を楽しみ進化していく時代。

 本書を読むと、「令和」という新しい元号の始まりは、これまでとはまったく違う新しい時代(ヌースフィア)のファンファーレと呼ぶにふさわしい画期的な出来事と理解できます。

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