【書評】「私が間違っているかもしれない」(ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド)
お薦めの本の紹介です。
ビョルン・ナッティコ・リンデブラッドさんの『私が間違っているかもしれない』です。
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ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド(Bjorn Natthiko Lindeblad)さんは、スウェーデンの講演家、瞑想教師、元僧侶です。
キャロライン・バンクラー(Caroline Bankler)さんは、スェーデン出身の作家、プロデューサー、プロジェクトマネージャーです。
ナビッド・モディリ(Navid Modili)さんは、ポッドキャスター、講演家、作家です。
「17年間の僧侶生活を通して学んだ、最も重要なこと」とは?
大学で経済を学び、エリートビジネスパーソンとして輝かしいキャリアを歩んでいたリンデブラッドさん。
しかし、物質的豊かさを重視する生き方に疑問を持ち、20代半ばで仕事を辞め、タイのジャングルで森林派の仏教僧侶となりました。
リンデブラッドさんは,「知恵の中で成長する者」という意味のナティッコという僧名を与えられ、17年間、タイやヨーロッパの僧院などで生活を続けました。
その後、僧侶としての生活を捨て、スウェーデンへ戻ります。
ある時、新聞社のインタビューを受けました。
インタビューの中で、記者は私に100万ドルの価値のある質問をした。
「17年間の僧侶生活を通して学んだ、最も重要なことは何ですか?」私は動揺した。何か意味のあることを言わなければとは思ったが、性急には答えたくなかった。
目の前にいる記者は、スピリチュアルなことに関心を持っているようなタイプではなかった。僧侶時代の私が手放していたものを知って、明らかにショックを受けていた。この長い年月、私はお金を持たなかった。性的な禁欲も保った。テレビも見ず、小説も読まなかった。お酒も口にしなかった。休暇もなく、文明の便利さの恩恵も受けなかった。いつ何を食べるかを、自分で決めることすらなかった。
17年間ーー。
自分の意志でーー。そうした生活によって、私は何を得たのだろう?
正直に答えることが重要だった。嘘偽りのない、心から真実を言葉にしたかった。私は自分の内面に目を向けた。やがて、心の奥の静かな場所から、答えが湧きあがってきた。
「17年間の精神修行を通して私が最も大きな価値を見出すようになったのは、自分の考えが正しいと信じなくなったことです」
それが、私が手に入れた大きな力だった。
この大きな力の素晴らしいところは、誰でもそれを手にできるということだ。もちろん、あなたにも。
もしあなたがこの力を見失ってしまっているのなら、この本がそれを見つけ出すための道しるべとなることを願っている。スウェーデンに帰国して以来、私は精神的・人間的成長を目指して長年努力を続ける中で学んだことを、人々に伝える機会に恵まれてきた。
それは、とても光栄なことだった。そのたびに、こうした機会には深い意味があると感じる。
私はこれまでの人生で、自分を助け、生きやすくし、自分らしくあることを容易にしてくれるものをたくさん与えられてきた。同じように、本書の中に、あなたの役に立つ何かが見つかれば幸いだ。この年月の中で得た学びの中には、私の人生にとって極めて重要な教えになったものもある。
特に過去2年間は、それを強く実感してきた。
なぜなら私は、自分が望んでいたよりも早く、死の待合室にいることに気づいたからだ。
おそらく、私の人生はここで終わりなのだろう。けれども、もしかしたらここから始まるのかもしれない。『私が間違っているかもしれない』 プロローグ より ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バンクラー、ナビッド・モディリ:著 児島修:訳 サンマーク出版:刊
リンデブラッドさんは、2018年にALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病にかかり、2022年にこの世を去りました。
本書は、リンデブラッドさんが17年にわたる精神修行を通して学んだ人生の真理について、わかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。
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「今、この瞬間」に集中すること
リンデブラッドさんは、子どもの頃、「世界と一つになる」ような神秘的な体験をしています。
8歳のときのことだった。
その朝も、家族の中で私が一番に目を覚ました。カールスクローナ郊外の島にある祖父母の家の中を歩き回り、弟のニルスが起きるのを待った。キッチンの窓の前で立ち止まったとき、突然、心のざわめきが消えた。
その瞬間、すべてが静けさに包まれた。窓台に置かれたクロムめっきのトースターが美しすぎて、思わず息を呑んだ。
時が止まった。何もかもが輝いて見える。青白い朝の空に浮かぶ柔らかな雲が、微笑んでいる。窓の外の白樺の木が、きらきらと葉を揺らしている。
どこを見ても美しい。当時はこの経験をうまく言葉にできなかった。だが今、そうしてみたい。
それは、まるで世界から「おかえりなさい」とささやかれているような気持ちだった。生まれて初めて、この惑星にいて、完全にくつろいだ気分になれた。私は何も考えず、今、ここにいた。目が潤み、胸が温かくなった。
今その感覚に名前を付けるなら、「感謝」と呼びたい。そのとき私は、この気持ちが永遠に、少なくとも相当に長いあいだ続くかもしれないという希望を抱いた。
もちろん、そうはならなかった。
けれども今日に至るまで、あの朝の経験を忘れたことはない。私は、「マインドフルネス」という言葉に若干の違和感を覚える。過去や未来のことに気を取られず、「今、この瞬間」に集中できているときは、心が満たされている(マインドフル)とは感じないからだ。
そのとき私は、もっと大きくて何もない、あらゆる人やものを受け入れてくれるような心地よい空間にいる。自分がはっきりと存在しているのを感じる。
それに、マインドフルネスという言葉には、リラックスとは反対の、難しいことに取り組んでいるような響きがあるようにも感じる。だから、私は別の言葉を使うのを好む。それは、気づき(アウェアネス)だ。
それは、自分のことを一歩離れた場所から客観的に見ることだ。訓練を重ねていくと、自然とできるようになる。あの早朝、カールスクローナのトースターの横で、私はこの気づきの感覚を得た。何か大きくて柔らかいものに寄りかかったような、考えていることも、感じていることも、体の感覚も、すべてが「そのままでいい」と認められているような、不思議な感覚だった。
それ以来、今まで見えていなかった、自分の内面や周りにあるものに意識が向くようになった。
まるで心の中に、いつもそばにいてくれる友人がいるような感じだ。
あなたがどれだけ“今、ここ”に存在しているかは、当然ながら、他人との関わり方にも影響する。一緒にいる人が上の空で別のことを考えているとき、どんなにわびしい気持ちになるかは、誰だって知っている。そこには常に、何かが欠けている感覚がつきまとう。
幼い子どもたちは、そのことをよく知っている。子どもたちは、大人の論理的な考え方には興味を持たない。その代わりに、大人たちが今、この瞬間に心を開いているかどうかには驚くほど敏感だ。大人が、心ここにあらずといった態度でいたり、別のことを考えていたりすると、すぐに見抜く。
動物も子どもと同じように、人間の心がこの場にあるかどうかを見分けられる。私たちが雑念に気を取られず、今、ここに意識を向けていると、一緒にいる人ははるかに楽しい気分になるはずだ。相手は、私たちを信頼し、注意を向けてくれるようになる。
今、ここに意識を向けることで、私たちはこれまでとはまったく違う方法で周りの世界とつながれるのだ。
もちろん、あなたはすでにそのことを知っているはずだし、こんな話をあえてするのは陳腐だと思うかもしれない。
それでも、これを実践していない人は大勢いる。相手に賢く、良い印象を与えることばかりに気をして、“今、ここ”に真摯に意識を向けることがどれほどの価値をもたらしてくれるかを忘れてしまうのだ。『私が間違っているかもしれない』 1章 より ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バンクラー、ナビッド・モディリ:著 児島修:訳 サンマーク出版:刊
私たちは普段、意識の焦点をいくつもの点に分散させて過ごしています。
例えば、将来のことを不安に感じたり、過去のことを悔やんだり、ここにいない誰かに怒ってみたり。
それらは「雑念」となり、意識の曇りとなります。
「今、この瞬間」に集中したとき、私たちの意識は完全にクリアになり、世界をありのままに感じることができるようになります。
その状態が「マインドフルネス」であり、「気づき(アウェアネス)」だということです。
すべきことは「呼吸」だけ
人間の脳は、「何かについて考えないように」という命令をそのまま受け取れ
ません。
そのため、意図的に思考を完全に止めることは不可能です。
リンデプラッドさんは、それでも私たちは、思考を手放すことができ
、そして、それはとてつもなく役に立つものになる
と指摘します。
では、自分の心をとらえる思考の流れを手放すにはどうすればいいのだろうか? それは、注意を他に向けることだ。なぜなら、私たちの思考を掻(か)き立てているのは、注意だからだ。
物事や思考を手放し、それらをどこかに飛び立たせるのは、握った拳を開くことに似ている。拳骨を緩めて、5本の指を開くように思考を手放す。このごくシンプルなジェスチャーには、大きな意味がある。呼吸などのシンプル何かに意図的に注意を向けることで、混沌とした頭の中を落ち着かせ、心を癒す休憩の場をつくれるのだ。
試してみたいと思ったなら、次の手順に従ってやってみてほしい。きっと、役立つものになるはずだ。
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息を吸うときは、体が膨らんでいくことを想像する。上半身を、水が入ったボトルのようなものだととらえてみる。息を吐くと水位が下がってボトルが空になり、息を吸うと再び水位が上昇する。息を吸うことで、床やお尻の位置から、腹、胸、首の順番に水位が上がっていく。
水位は息を吐くときに下がり、吸うときに上がる。この2つの波のような動きにしばらく意識を集中しよう。呼吸の微調整が必要なときは、自分の体に尋ねるようにして、優しく、そっと行う。
心の中で、自分に問いかけよう。どんなふうに呼吸をするのが一番効果的だろう? 胸をもう少し開いたほうが空気を吸い込みやすい? もう少し肩を落としたほうがいい?
ちょうどいい感覚を探ろう。快適に感じられることがポイントだ。
すべきことは、呼吸だけ。他のあらゆることから自分を解放しよう。前頭葉のスイッチをオフにする。この瞬間、あなたは何の責任も負っていない。一切の計画を立てなくていいし、何の意見も述べなくていい。思い出すべことも何もない。
すべきことは呼吸だけ。好きなだけこの状態を続けよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーあなたは、こんなふうに自分の内側に注意を向けることがあるだろうか? それができるチャンスが来たら、恐れずに試してみてほしい。
そうするのは、何かを得ようとするためではない。人生のすべてを穏やかで平和なものにするためでもない。神秘的な体験を期待しているからでもないし、もっとスピリチュアルな人間になりたいからでもない。
呼吸そのものに価値があるからだ。熱望(Aspiration)、精神(Spirit)、スピリチュアル(Spiritual)といった言葉からも[訳註:どれもラテン語の「spiro(息をする)」に由来]、呼吸に大きな価値があることがわかる。活力を高めるには、呼吸に注意を向けることだ。
私が学んだ仏教の宗派の指導者であるタイの僧侶、アジャーン・チャーは「生まれてから死ぬまで、自分の息が体内を出入りしていることを一度も意識しない人がいる。その人は、自分から遠く離れて生きている」と述べている。どこに注意を向けるかを選ぶのは、簡単に思えるかもしれない。だが、実際にはとても難しい。
初心者のうちは、呼吸に集中しようとすると、心がヨーヨーのように激しく上下する。呼吸に意識を向けようとしても、些細なことで簡単に注意が逸れてしまい、それを根気よく何度も引き戻さなければならない。人間の心は、予想外の方向に際限なく走り出そうとする。
だが、焦点が外れるたびに、結局は気づくことになるーー自分にできるのは、集中できない己を責めたり、どれくらいうまくできたかを評価したりすることではなく、雑念が(またしても)浮かんだという事実を自覚し、その雑念を手放して、意図した対象に冷静に注意を向け直すことしかないのだ、と。途中でやめたくなるかもしれない。だが、頑張って続けてみる価値はある。
これは一個人の人生にとっては、ほんの小さな、地味な一歩にすぎないかもしれない。それでも、人類が全員がこのように自分を成長させることを目指せば、それは全体としてはとても大きな一歩になる。
私はそんな思いで瞑想に取り組んだ。心を鎮め、内面に耳を傾けることの価値は、太古の昔からあらゆる宗教で重視されてきた。だが、それは仏教や瞑想、祈りの儀式といったものを超える意味を持っている。
なぜなら、それは私たちが人間であることそのものに関係しているからだ。
人間には、自らの思考を手放す能力がある。誰でも、どこに注意を向けるかを選択できる。ネガティブな考えにどれだけ注意を向けるかを、自分で選べるのだ。もちろん、あなたもそうだ。
そのためには、ちょっとした訓練が必要なときもある。というのも、ネガティブな考えを手放すことを忘れたり、興味を失ったりすると、それまでと同じように、習慣化してすっかり染みついてしまった行動や考え方、パターンに流れされてしまうからだ。
いわば、私たちはそうした習慣に操られている。だから、同じ道を何度もぐるぐると歩き回り続けることになる。それは自由ではない。そこに尊厳はない。心に注意を向けることは簡単か?
ノー。簡単ではない。
それでも、自分のペースで、できる限りのことをしてみる価値はあるか?
イエス。その価値はある。『私が間違っているかもしれない』 3章 より ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バンクラー、ナビッド・モディリ:著 児島修:訳 サンマーク出版:刊
呼吸は、誰もが、いつでもどこでも、つねに行っている行為です。
しかし,そんな当たり前のことだからこそ、普段はそれをしていることすら忘れてしまっています。
いつもは無意識にしている呼吸を、意識してきに、しかも集中して行うこと。
それが、瞑想の基本だということです。
「ティッシュディスペンサーに記された知恵」とは?
タイの僧院での生活の基本は、あらゆる物事を一緒に行うこと
でした。
そして、どんな作業も、リンデブラッドさんにとって魅力的な原則に基づいて行われました。
それは、「何をするにしても、無心で集中すること」です。
その厳しくもシンプルな生活は、リンデブラッドさんの意識やひらめきを磨き、さまざまな気づきをもたらしました。
私は瞑想堂に座りながら、鮮やかな黄色とホットピンクのハローキティのディスペンサーに目を奪われていた。
退屈しのぎに、このディスペンサーを手に取り、何か言葉が書かれていないか確認してみた。私が子どもの頃、携帯電話が普及する前は、朝食を食べながら、退屈しのぎに牛乳パックの裏に書かれた文字を読んでいた人がいたものだが、それと同じような感じだ。
私の期待は裏切られなかった。筒の底のあたりに、英語の文字があった。そこには、こう書いてあった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「知識は、知っていることすべてを自慢する。知恵は、知らないことすべてに対して謙虚になる」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー誰が考えた言葉だろう! 時代を超越した知恵が、目を覆いたくなるほど派手なプラスチックの筒に記されている。この言葉は、思い込みにとらわれないことに価値があることを思い出させてくれた。
知っていると思っていることにしがみついていると、視野が狭くなり、多くのことを逃してしまう。高次の知恵が得たいのなら、知っていることはいったん忘れて、知らないことに目を向けなければならない。
「私はこれを知っている」と思い込んでいると、大きな問題を招くことが多い。一方、「私はこのことを知らない」という謙虚な態度が、大きな問題を招くことはめったにない。すでに知っていると思っていることにしがみついていたら、どうやって新しいことを発見するのだろうか? どうやって学ぶことができるのか? どうやって新しいことに挑戦したり、即興で何かをやってみたり、遊んだりできるのだろう? どうやって1+1を3にする方法を見つけられるのか?
西洋の知恵が詰まった古典的な傑作である『くまのプーさん』の物語には、自らの内なる知恵の声に耳を傾けたことがない人、自らの思考に永遠の催眠術をかけている人、頑迷な思い込みをしている人がどんなものかをよく表すエピソードがある。このシーンでは、くまのプーと子豚のピグレットが一緒に散歩をしている。いつものように、プーは小さな赤いTシャツを、ピグレットはピンクの服を着ている。
二人はうさぎのラビットの家の前で立ち止まる。
「ラビットは賢い」とプーが言う。
「そうだね。ラビットは賢い」とピグレットも言う。
「彼は頭がいい」とプーが言う。
「そうだね」ピグレットが言う。
しばしの沈黙の後で、プーが言う。
「そうだね。だから、彼は何もわかっていないんだ」誰もが、このシーンに共感できるのではないだろうか。自分の思考にとらわれていると、まっさらな目で物事を見ることができなくなる。自分で自分に制限を設けているのと同じだ。
たしかに、ラビットは賢く、頭がいいかもしれない。しかし、ラビットとプーのどちらのように生きたいかと尋ねられば、少なくとも私にとって答えは明らかだ。私は、誰もが自分の心の中にいるくまのプーさんを見つけることが必要だと思っている。
私たちはプーのように、目を大きく開き、自分は何も知らないという慎重な態度で、気づきを意識しながら世界と関わるべきなのだ。ラビットのように「自分は物事を知っている」という態度を取る人と話をしても、私は喜びを得られない。こういう人はたいてい、人の話をよく聞いていない。こちらが話を終える前から、次に自分が何を言うかを考えることで頭をいっぱいにしているようだ。
私の言うことを絶えず品定めし、自分なりの評価を下しているようにも思える。
私の意見や視点は、彼らの世界観を再確認し、それに同意する限りにおいて受け入れられる。
そこに魔法のようなひらめきや出会いはない。そういう人とは、一緒にいても楽しくない。その逆も然りだ。誰でも、自分に注意を向けてくれる人、オープンな好奇心を持って話を聞いてくれる人に心を開くことがどれだけ素晴らしいかを知っているはずだ。こちらの立場にとって考えてくれる人、同じ視点に立ってくれる人に話を聞いてもらえるのは、大きな癒しになる。
こうした会話を通して、私たちは自分自身についても多くを学べるようになる。
「わあ、すごい! 私は、自分が考えたり、感じたり、自覚していなかったようなことを、相手に話し、説明しているぞ。なんてワクワクするんだ!」というふうに。
偏見を持たず、判断をせずに人の話を聞くことは、自分自身を理解するのにも役立つ。それは決して小さなことではない。そこにはとても大切な何かがある。私は物語を引用するのが大好きだ。これから紹介する物語は、どこで知ったものかよく覚えていないのだが、とにかく語りたいと思う。
それは、山に登っている男の話だ。すでに約半分ほど登ってきたが、斜面はとても険しい。道は狭く、雨で滑りやすくなっている。
道の真ん中に、ひどく滑りやすい丸石がある。男はそれに気づかずに足を乗せ、足を滑らせて崖下に転落してしまう。
落下しながら、何かにしがみつこうとして必死に両手をばたつかせていると、奇跡的に崖から水平に生えている小さな木の枝をつかむことに成功した。男はそのまま枝にぶら下がる。
彼は信心深い人間ではなかったし、神の奇跡のようなものにも興味はなかった。時間が経過するにつれて、ゆっくりと腕から力が失われていった。筋肉が震え始めた。
眼下の地面まで、約500メートル。つまりもし手を離せば、500メートル下に落下することになる。
男はパニックに陥り始めた。あと少ししか持ちこたえられないだろう。たまらず、空に向かって試しにこう尋ねてみた。
「もしもし? 神様? 聞こえますか? 私は本当に助けが必要なのです。もしあなたがそこにいるなら、応えてくれますか?」
しばらくすると、空から深く威厳のある声が聞こえてきた。
「私は神だ。お前を助けることができる。ただし、そのためには私の言うことに従う必要がある」
「手を放しなさい」神は言った。
男は数秒間、考えてから言った。
「ええと・・・・・・誰か他に私を助けてくれる人はいませんか?」
この物語は、私の心に訴えるものがあった。自分が頑固な思い込みにとらわれていると気づくたびに感じるのと同じことが、描かれていたからだ。私は男が枝から手を離すのを嫌がったように、自分の考えが正しいと信じて疑わず、それを手放そうとしないことがある。
誰もが、このロジックに絡め取られることがある。気分が落ち込んでいるときは、特にそうだ。私たちは、凝り固まった考えにしがみついてしまう。
頭では、間違った考えがどれほど自分にとって有害なものになりうるか、そうした考えを信じることがどれほど不要な精神的苦痛に結びつくかを理解しているかもしれない。けれども次の瞬間には「でも、この考えは絶対に手放せない。これは間違いなく正しい」と思ってしまうのだ。
その瞬間は視野が狭くなっているので、自分の考えに疑う余地はないと思えるかもしれない。しかし、それはあなたにどんな影響を与えるだろうか?手放す練習は、私が仏教の修行を通じて学んだことの中でも、特に重要なものだ。この知恵は深い。手放すことが上達すれば、そこから得られる恩恵ははかりしれない。
私たちを傷つけ、卑小さや無力感、孤独、恐怖、悲しみ、怒りを助長させる思考を取り除く唯一の方法は、それらを手放すことだ。たとえそれらが「正しい」としても、手放すのだ。もちろん、それを実践するのは頭で考えるほど簡単ではない。
しかし結局のところ、私たちをもっとも苦しめるのは、なかなか手放すことができない考えであることが多いのだ。『私が間違っているかもしれない』 12章 より ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バンクラー、ナビッド・モディリ:著 児島修:訳 サンマーク出版:刊
知識は、それが役に立っている間は、大きな武器となります。
しかし,役に立たなくなると、それは無用の長物となります。
古く役に立たなくなった知識は、手放す必要があります。
それらを掴んだままでは、新しい知識を手に入れられないということです。
心の苦しみは、自ら招いたもの
リンデブラッドさんは、人間が経験する精神的苦痛のほとんどは、自ら招いたもの
であり、それは仏陀の発見の中でもとりわけ大きなもの
だと指摘します。
人は誰でも、成長する過程において、自分で自分の心を苦しめるようなことをしてしまう。それは、ごく自然なことである。
まさに私も、このことを何度も痛感させられてきた。私たちは、自らに害を与えるような考えを信じている。それは、ありのまま自分であることを難しく、重く、複雑にする考えだ。
意識的であれ無意識的であれ、私たちは心のどこかで、人生の困難の多くは、自らの考えによって引き起こされていることを知っている。心理的な苦しみはたいてい、外界の出来事ではなく、自分の心の中から生じたものだ。
私たちが苦しいと思うからこそ、それは苦しみになる。苦しみは、私たちの心の中で生み出され、そこで大きくなっていく。私たちがそれを許すからこそ、ますます膨らんでいくのだ。心の苦しみは自分が生み出したものだと理解できたとしても、苦しみが軽減されるわけではない。
けれどもその仕組みを理解すれば、苦しみと新たな方法で関われるようになる。だからこそ、人は自分の考えが常に正しいと信じるべきではないのだ。このことを理解するには、かなりの謙虚さが必要になる。原因が自分の心の中にあるのならば、もう苦しみを他人や状況のせいにはできなくなる。
同時に、それは私たちの興味をそそるものでもある。
つまり、どのような考えや感情を持てば、自分で心の苦しみを生み出さないようにできるのだろうか?人間は心のどこかで、すべてを他人のせいにしたいと思っている。
「もし別の両親のもとに生まれていたら・・・・・・」「もし職場の人たちから意地悪をされなかったら・・・・・・」「もし政治家がもっと良い決断をしていたら・・・・・・」
こんなふうに考えてしまうのは人間の性であり、それはどうにも変えられないものでもある。それは極めて自然なことなのだ。
人生が辛くなったとき、心理的なプレッシャーに直面したとき、何かに責任を押しつければ、自分は傷つきにくくなる。
しかし、結局は次のように自問自答をしなければならなくなるのだ。
「今、この恐怖を和らげるために、私自身に何かできることはないだろうか?」私たちが自分自身でいるために、他人を変える必要はないし、外界の何かを変える必要もない。
なぜなら、私たちがプレッシャーを感じたり、悲しくなったり、寂しくなったり、不安になったり、自信を失ったりしたとき、それを生み出しているのは自分の心だからだ。
私たちはこうしたネガティブな感情を生み出す自分の考えに、しがみつき、頑なに手放すことを拒んでいる。
その考えは、一見するとまったく理にかなっているように見える。そして、それにはしばしば「べき」という表現が含まれている。「父さんはあんなことをすべきではなかった」
「母さんはあんなことを言うべきじゃなかった」
「友達はあのことを覚えておくべきだった」
「子どもたちはあのことを気にすべきだった」
「上司はあのことを知っているべきだった」
「パートナーは別のことを言うべきだったし、違うことをすべきだったし、違うことを考えるべきだった」そして、私たちの心を傷つけるのは、「私は今と違っているべきだった。もっと賢く、もっと勤勉で、もっと金持ちで、もっと恵まれ、もっと痩せていて、もっと大人になるべきだった」と言う現在の自分を否定するような考えだ。
私たちは、こうした考えに閉じ込められてしまうことがある。だが、私たちはそこから抜け出せる。笑みを浮かべてこう言い、立ち去ることができるのだ。
「ご意見をありがとう。またどこかで会おう」『私が間違っているかもしれない』 16章 より ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バンクラー、ナビッド・モディリ:著 児島修:訳 サンマーク出版:刊
苦しみは、私たちの心の中にしか存在しません。
しかも、それは自分自身で作り出したもの。
苦しみを作り出すのも、自分自身の心です。
人生を過ごしていくうちに身についた、偏った考えやネガティブな感情が原因です。
自分自身の中にある「べき」に気づき、その重りを手放してみる。
それが苦しみを取り除く、最も有効な方法かもしれません。
それは「あなた」から始まる!
愛は、私たちの心の中で最も傷つきやすい部分と深く結びついている、デリケートなテーマ
です。
リンデブラッドさんは、だからこそ重要でもある
と指摘します。
仏陀は、4つの感情を神聖だと見なした。それは「四無量心」(四梵住)と呼ばれている。
それは、私たち人間の聖性が見つかる場所でもある。そして、私たちの中にある最も美しい特性だとも言える。この4つの感情の1番目は「慈心」、すなわち相手を慈しむ思いやりの心である。
2番目は「悲心」、すなわち相手の苦しみに共感する心だ。
3番目は「喜心」、すなわち自分や他人の成功に喜びを感じる心である。好きな人の人生がうまくいっているとき、その人が喜んでいるときに感じる感情だ。
4番目は「捨心」で、他の3つとはやや毛色が違っている。これは、大きな英知を含んだ感情だ。それは優しく、広い視野を持ち、気づきを持って、執着せずに目の前のものと接することだ。すべてを受け入れ、今この瞬間の物事を、あるがままに受け入れられる感覚。これは、あらゆる物事に対する基本的な態度につながるものになる。こうした神聖な美徳、人間の心の中にある美しい安息の場所を成長させる方法を説く中で、仏陀は単純明快に「常に、あなた自身から始めなければならない」と述べている。
まず自分自身を思いやることができなければ、他者を思いやる心は不足し、もろいままである。愛を育むには、自分自身を大切にする気持ちを持つべきだ。
残念ながらこの真理に気づかず、優先順位を間違えている人は多い。自分に批判的で厳しい目を向けてばかりいて、自分を思いやることの大切さを理解していないのだ。特に、自分が落ち込んでいるときはそうした余裕を持てなくなってしまう。もう少し繊細に、忍耐強く、共感を持って、自分の心の痛みに目を向けてみよう。
「この苦しみを必要以上に長く感じないようにするために、今この瞬間に自分にできることはないだろうか? もっと楽に自分らしくいるために何かできることは?」と正直に自問自答することで、自分の痛みに対処する。
こうした態度を心がけることには、大きな価値があるはずだ。しかし、頭の中で「こんな嫌な気分になるべきではない。私はこれに反応すべきではない。こんなに簡単に激昂したり、傷ついたり、妬んだり、恨んだりしたりしてはいけない」と叫んでいるとき、心の静かな声に耳を傾けるのは難しくなる。
そして、このように自分に厳しく接していると、辛い感情を味わっている人を助けるのが難しくなるのは確かだ。
だから、私たちは自分が味わっている辛い思いに、できる限りの思いやりと理解を持って接するべきなのだ。暗い考えに飲み込まれてしまうのではなく、それに明るい光を当てる方法を考えよう。
自分に対して優しく寛容になれば、自然と周りの人たちにも同じように接することができるようになる。自分に対して厳しく容赦のない目を向けている限り、他人に惜しみない愛を与えることができない。愛という言葉が大きすぎると感じるのなら、それ以外の言葉を使ってもいい。
僧侶時代、私は自分の父親と同い年の大柄なアメリカ人僧侶、アジャーン・スメドーをとても尊敬していた。彼はいつの頃からか、愛ではなく“非嫌悪”という言葉を使うようになったという。あまり心地よい響きの言葉ではないかもしれないが、これは私たちが他人と接するときの現実的な目標になるかもしれない。
非嫌悪の態度を持とうとすることは、自分自身のことも、他人のことも、嫌いにならないように努めるということだ。
自分が不完全な人間だと思っているために、他人への思いやりの心を持てない人は多い。自分は、そうした感情的なケアを他人に与えるに値しない人間だと思っているのだ。
しかし、自分がこうした愛を与えるのに値する人間だという感覚が魔法のように現れるのを待っていたら、永遠にそのときは来ないかもしれない。
自分自身が人間的な温もりを感じるのに値すると感じるためには、何が必要なのだろう? 私たちはどれだけ優秀で、善良で、成功しなければならないのだろう? 小さな過ちをどこまで償わなければならないのだろう? どれだけ完璧に物事を進めなければならないのだろう?
果たして、そんな非の打ちどころのない人間になれるのだろうか?大切なのは、完璧を求めず、「自分はできる限りのことをしている」と考えるようにすることだ。また「他の人も同じように、できる限りのことをしている」と考えよう。
そんなふうに自分や他人をとらえたり理解したりするのが難しい瞬間もあるだろう。だが基本的に、誰でも良いことがしたいと考えているものだ。
ときには、物事が思い通りにならないことはある。うまくいくこともあれば、そうではないこともある。それでも、「誰もが精一杯に生きている」という視点で自分や周りの人を見ることには大きな価値がある。人間関係の中で、生まれた瞬間から最期に息を引き取る瞬間まで、生涯続くものは1つしかない。それは自分自身との関係だ。
この自分自身との関係が、思いやりや温かさに満ちたものだったらどうなるだろう?
自分を赦し、小さな失敗を忘れ、穏やかで優しい目で己を見て、ユーモアのセンスを持って自分の欠点を見ることができたら?
自分の子どもや愛する人に対してするのと同じように、自分自身にも惜しみない愛情を注げたら?
それはきっと私たちに大きな恩恵をもたらしてくれるはずだ。そしてそれは、自分の中に神聖な感情を育むことにつながるのだ。『私が間違っているかもしれない』 27章 より ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バンクラー、ナビッド・モディリ:著 児島修:訳 サンマーク出版:刊
自分にとって、最も重要かつ身近な関係は、自分自身との関係です。
人生は、自分自身との関係次第だといっても過言ではありません。
誰よりも、自分自身を労ってあげること。
誰よりも、自分自身の味方になってあげること。
自分自身を愛せた人だけが、本当の意味で他人を愛することができる。
それがいつの時代も、人間関係の真理だということですね。
手本にしたいと思える人間になろう!
リンデブラッドさんがお手本にしている人物の一人に、タイでの最初の僧院長だったアジャーン・パサーノさんがいます。
パサーノさんは、誰に対しても親切かつ公平に接し
ていて、自分が弟子に説いた通りのことを自ら実践し、すべての教えを身をもって示して
いました。
リンデブラッドさんは、パサーノの心はいつも正しい場所にあった
と指摘します。
ある夜、お茶を飲んでいるとき、パサーノは私たちに向かって哲学を語り始めた。それは僧院を訪れていた私の母が彼に「僧侶になって、どれくらいしてから故郷に里帰りしましたか?」と尋ねたのと同じ日だった。
おそらくその会話がきっかけになって、記憶が呼び覚まされたのだろう。パサーノは16年ぶりに故郷に帰ったときのことを語り始めた。
それはクリスマスの時期で、彼は実家にいた。家族や親戚がクリスマス休暇を一緒に過ごすために集まっていた。ある夜遅く、パサーノは従兄弟とテーブルを囲んでいた。しばらくして、ウイスキーを飲んでいた従兄弟が、別のグラスに酒を注ぎ、パサーノの前に置いた。
「飲まないか?」
「いや、結構。森林派では、酒は厳禁だから」
「おい、堅いこと言うなよ」従兄弟はそれでも酒を勧めてきた。「誰も見ちゃいないさ」
パサーノは彼を見上げ、静かに正直に答えた。
「僕が見ている」私はパサーノがそう言ったとき、首の後ろの毛が逆立つようなゾクッとした感じがした。信頼し、尊敬する人からのメッセージは、ときに特別な重みがある。そうした人たちの言葉には、たとえそれが単純であっても、心を深く突かれることが多い。
アジャーン・パサーノは、私にとってまさにそのような人だった。私はこの逸話に感銘を受けた。それは誠実に生きることがなぜ大切なのかについて、これ以上ないほど美しい気づきを与えてくれた。
私の目指す倫理観もまさにこれだ。“誰も見ていなくても、自分が見ている”という意識で、自分の言動に責任を持ちたい。私が背筋を伸ばし、健全な道徳観に従って生きたいと思うのは、それがどこかの本に書いてあったからではない。古臭い宗教的な教義がそう教えているからでも、他人に立派な人間だと思われたいからでも、雲の上に鎮座する白髪の老人に行いを観察されているからでもない。
私自身が、自分の言動を覚えているからだ。自分が何か悪いことをしたとわかっているとき、私たちはそれを恥ずかしく感じ、人に知られるのを恐れる。それは人生の重い荷物になる。それを引きずって歩くのはとても大変だ。
その代わりに、自分の後ろめたい行いを頻繁に思い出して罪悪感を覚えたりすることなく、身軽に人生を旅することができたらどうだろうか。
だからこそ、自分の利益のために他人を欺いたり、その場の目的のために相手を傷つけたり、そのほうが便利だからといって真実を捻じ曲げたりしないことが大切なのだ。
こうした悪しき行為は人間の本性から生じるものであり、ゆえに人は簡単にそのような行為をしてしまう。
だが、自分の言動に責任を持つことを選べば、美しいことが起こり始める。心の負担が軽くなる。言動に責任を持つのは、相手のためだけではない。むしろそれは、自分自身のためなのだ。タイには、「仏陀の背に金箔を貼る」という素敵な表現がある。これは金箔とロウソクと線香を持って寺院を訪れ、しばらく瞑想してから、仏陀への敬意を示すためにそれらの贈り物を寺院に手渡すという伝統に関連した言葉だ。
タイの仏像はたいてい金箔で覆われている。仏陀の背に金箔を貼るとは、自らの善行を宣伝する必要はないという意味だ。
誰にも見られることのない仏像の背中に金箔を貼るという考えには、少なくとも比喩的には何か楽しいものがある。他人に知られたかどうかは重要ではない。あなたが知っていることが重要なのだ。そしてその事実とは、一生一緒に生きていかなければならない。
私たちの行動や記憶は、お風呂のお湯のようなものだ。それがきれいか汚いかは、自分次第だ。倫理的、道徳的に何が正しいかについては際限なく議論ができる。哲学者は何千年にもわたって、そのことを熟考してきた。
しかし私にとって、それは1つの単純な事実に集約される。それは、“私には良心があり、自分の行いや発言を覚えている”ということだ。それらは私の人生の荷物になる。私は、何を荷物にするかを自分で選ぶことができる。では、私たちは倫理的な領域において何に責任を持つべきなのだろう? 責任を持つべきは、行動のもとになった衝動そのものではない。誰もがときにおかしな衝動に駆られることはある。
そうした衝動に駆られたことがないふりをするのは難しい。パサーノはそのことをよく表す、1970年代のアメリカ大統領選挙中の出来事を話してくれた。当時、有力な大統領候補だったジミー・カーターは、あるインタビューでジャーナリストに「あなたは不倫をしたことがありますか?」と尋ねられ、「肉体的にはしていないか、想像の中では何度も」と答えた。世間の彼への信頼は急落した。
だがパサーノが述べたように、もしそのインタビューがもっと進んだ文化の中で行われていたら、カーターへの信頼はむしろ高まっていただろう。これ以上、人間らしい答えがあるだろうか? 誰もが共感できるはずだ。衝動は本能的なものであり、心の中で衝動を抱くことに私たちは責任を負う必要はない。
その意味で、どの衝動に基づいて行動し、どの衝動を手放すかを選択できる、成熟した人はたしかに素晴らしい。
仏陀もそのことをよく表現している。「自分の行動や言葉に責任を持ち、真実を貫き、規則を重んじ、故意に他人を傷つけない人は、熱帯夜の満月のように、雲の向こうからゆっくりと姿を現し、辺り一帯を照らす」若い頃、『小さな巨人』という西部劇を見たことがある。この映画には、オールド・ロッジ・スキンズというインディアンの長老が登場する。
彼は厳しい生活を送っていたが、ある朝、彼はティピーと呼ばれる可動式住居から出てきて、「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と宣言する。
私も、そんなふうに死を迎えたい。友人のように。死よ、ようこそ。君が「すべてはいつか終わる。後悔を残さないように」と私の耳元でささやいてくれることで、私は人生を俯瞰し、バランスを取ることができる。* * * 人生は突然に終わる。だからこそ、どう生きることを選んだかが問題になる。因果応報(カルマ)のような考えを信じているかどうかにかかわらず、過去に起きたことや現在のこと、これから待ち受けているかもしれないことについてどんなふうに考えているかは、私たちの日々の感情に影響を与えている。
世界のあらゆる宗教が、“人はいつか死ぬことを忘れないように”という教えを重視しているのは偶然ではない。人生の大きな選択をするときには、この教えを覚えておこう。
私たちは、自分の中にある美しいものを引き出すような行動を選択できる。昨日よりも今日、今日より明日、より良い自分になるための行いができる。
人生は短い。そのことを理解したとき、そして周りの人の存在や自分が手にしているものを当たり前だと思うのをやめたとき、それまでとは違った形で人生を歩んでいけるようになる。私たちは、起こり得るすべての結果に影響を与えることはできないし、あらゆる物事を思い通りにすることもできない。
しかし、良い行いをしようと思って、実際にその通りに行動しようとすることはできる。
道徳的に振る舞うことに責任を持つ。それは決して小さなことではない。とても重要なことだ。そして、それは誰にでもできる。自分の内面を美しくするために、他の誰かを変える必要はない。これはとてもシンプルなことだ。10歳の子どもでも、多かれ少なかれ、人間の心の美しさとは知っているだろう。忍耐力や寛大さ、親切さ、正直さ、今この瞬間を大切にすること、許す力、他人の立場になって考える力、共感力、傾聴、思いやり、理解力、思慮深さなどだ。
これらの資質を挙げるのは難しいことではない。
とはいえ私は、現代社会では、こうした資質を表現することが必ずしも求められていないような気がする。
だからこそ、私はこれらの価値を訴えたい。背筋を伸ばして、自分の中にある最も美しい特性を引き出すことを意識して生きる。
今、世界がこれ以上必要としているものがあるだろうか?これは全人類の行動を正し、地球規模の問題をすべて解決しなければならないということだろうか? 誰もが、グレタ・トゥーンベリやガンジーのような人間にならなければならないのか?
そんなことはない。もちろん、ごく少数だが、そのような考えで行動しようとしている人もいる。彼らは壮大なスケールで物事を考え、行動するのが好きなのだ。それは素晴らしいことだ。
しかし、目の前の小さな現実の中で道徳的に行動することも、同じように価値がある。日常の仕草に、心を配る。小さなことの中に、奇跡を見出す。自分の利益を優先せず、忍耐強く、寛容で、正直で、協力的な行動を選択する。
人生は、ごく小さなことの積み重ねだ。それらをまとめるとき、大きな意味や価値が生まれるのだ。どんな人生にも、充分な試練がある。一人ひとりが、毎日岐路に立たされている。自分だけが得をする道を選ぶべきか、それとも寛大で、美しく、包摂的で、思いやりのある道を選ぶべきか?
長い目で見れば、この2つの道はまったく違う目的地につながっている。
道徳を人生の羅針盤にすることを意識すると、人生はもっと簡単に、もっと自由になる。私はその証拠をよく目にする。私たちは偶然に支配された、物事に何のつながりもない宇宙に住んでいるわけではない。まったく逆だ。すべてのものはつながっている。世界は、私たちが何を考え、どんな行動をしたかに敏感に反応する。私たちが発信したものは、結局は自分に戻ってくる。
世界はただ存在しているのではない。世界はあなたの写し鏡なのだ。だからこそ、自分が見たいものになるように努めるべきだ。私の心に残っている、ある物語がある。それは、浜辺を歩いている少女の話だ。
嵐の夜の翌朝、波が無数のヒトデを浜辺に打ち上げていた。少女はヒトデを1つずつ拾って海に投げ返していく。1つ、また1つ。
そこに、気難しそうな顔をした一人の老人がやってくる。
「何をしているんだい?」
「ヒトデを海に戻してあげているんです」
「でも、この砂浜には何万ものヒトデがいる。君が何匹海に投げ返しても、たかが知れている。そうだろう?」
少女はかまわず、またヒトデを拾い、それを海に投げ込む。そしてこう言った。
「でも、このヒトデを助けることはできます」僧侶として17年を過ごした私には、その間に逃した本や映画やテレビ番組が約20年分も溜まっていた。だから、できる限りいろいろな作品に手を出した。
その中で気に入ったテレビ番組に、比較的最近制作された、ノルウェーの『スカム』というシリーズがある。ティーンエイジャーの視点から、青春を見事に描いた素晴らしい作品だ。大人たちは単なる背景に過ぎず、画面に顔が映ることもほとんどない。
この番組の中でもとりわけ輝きを放っているキャラクターは、ノーラと呼ばれている。彼女は外見も美しいが、内面はそれ以上に魅力的だ。
私は彼女にかなり惹かれている。こんな人が友達だったいいな、と誰もが思ってしまうような人物だ。
実際、彼女のような友人を持つ幸運な人もいるかもしれない。いつも支えてくれ、味方になってくれる友人。あなたを助けるためなら、自分の居心地の良い場所から外に出ることも厭わない友人。強い絆で結ばれているので、耳が痛くなるようなことでもきちんと指摘してくれる友人。だからこそ、心から信頼できると思える友人。
あるシーンで、ノーラが髪をブローしている。目の前の鏡の左に付箋が貼ってあり、次のような言葉が書かれていた。
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どんな人でも、人知れず大きな苦しみを抱えているもの
だから、他人にはいつでも親切にすること
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『私が間違っているかもしれない』 34章 より ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バンクラー、ナビッド・モディリ:著 児島修:訳 サンマーク出版:刊
言っていることと、やっていることが違っている。
そんな人は、信用できませんし、着いていきたいとは思いません。
他人は欺けても、自分は欺けません。
つねに自分の中にある信念や倫理観に照らし合わせて行動することを心がけたいですね。
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☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
リンデブラッドさんは、2018年に難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症され、2022年1月に帰らぬ人となりました。
迫る自分の死を見つめながら、本書を執筆したリンデブラッドさん。
彼は、物事がどうあるべきか、これからどうなるかについてあれこれ考えるよりも、今、この瞬間を生きることがこれまで以上に重要になってきた
とおっしゃっています。
死と真剣に向き合うことは、生と真剣に向き合うことと同じ。
「生きる」とは何か。
それをとことんまで突き詰めると、「今、ここ」しかないことに気づきます。
過去を嘆かず、未来を憂いない。
ただ、この瞬間だけを感じる。
それが最大限に生を輝かせることであり、生きること自体の素晴らしさに気づかせてくれます。
先の見えない今の時代、後悔のない生き方とは、いかなるものか。
本書は、私たちの人生という道を明るく照らしてくれる一冊です。
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レジリエンス・メンタルヘルス, 心理学・NLP・脳科学, 思考法・アイデア・哲学, 生き方・ライフスタイル
キャロライン・バンクラー, サンマーク出版, ナビッド・モディリ, ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド, メンタル, 仏教, 児島修
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