【書評】『リアリティ・トランサーフィン1』 (ヴァジム・ゼランド)
お薦めの本の紹介です。
ヴァジム・ゼランドさんの『リアリティ・トランサーフィン1 振り子の法則』です。
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ヴァジム・ゼランド(Vadim Zeland)さんは、ロシア在住の作家で、元量子物理学者です。
「トランサーフィン」の本質とは?
「トランサーフィン」
この言葉の意味は、日常的な観点からすれば不可能と思えることを行う力、つまり自己の裁量(さいりょう)で運命をコントロールする力を与えてくれるという強力な手法
のことです。
ヴァジムさんは、この独自で驚異的な概念やノウハウを、夢の中でホームレス風の老人と出会うことで「思い出す」ことになります。
そんなある日、こんな夢を見た。私は自然保護区にいた。周囲は言葉で言い表せないほど美しかった。私は歩き回り、自然の魅力に感嘆の声を上げた。そこに白い顎髭(あごひげ)を生やした老人が、一見怒っているような面持ちで現れた。保護区の管理人だった。彼は黙って私を観察し始めた。私が近寄って行くと、老人は急に静止したので、私は驚いた。老人は冷たい口調で、何も聞きたくないということと、身勝手で欲深な訪問者たちにはもう疲れたという趣旨のことを言った。
訪問者たちは常に不満を持ち、始終何かを要求し、騒ぎ立て、後にはゴミの山を残して立ち去ると言う。私はそれにうなずくと、先へ進んだ。
保護区のたぐいまれな自然に、私はただ驚嘆していた。なぜもっと早くここを訪れなかったのだろう。私は魔法にかけられたように歩き回り、様々な場所を物珍(ものめずら)しそうにのぞきこんだ。取り巻く自然の完璧さは言葉では表現できなかった。思考は止まり、私は喜びであふれた。
しばらくすると、再び老人が私の目の前に現れた。険しかった表情はいくぶん和(やわ)らいでいる。彼は後についてくるように私に合図した。私たちは緑の丘の上まで登った。そこからは驚くほど美しい谷間の景色が見渡せた。谷間には名も知らぬ集落があった。木々の緑と花々の中に、おもちゃのような家々が埋もれていて、まるで魔法使いの出てくるお伽噺(とぎばなし)の挿絵(さしえ)のようだった。こうした景色全体が現実だと思えたのなら、私はただ感動に浸りきったまま眺めることができただろう。しかし、こんなことは夢の中でしかありえないと疑った。そして、私はいぶかしげに老人を眺めたのだが、老人は髭面でにやりと笑い、まるで「こんなところは他にはないだろう?」と言わんばかりだった。
私たちは谷間へと下りていったが、そのとき、どうやって保護区にたどり着いたのかも覚えていないことに気づいた。私は管理人の老人から何らかの説明を受けたかったので、「こんな美しい土地で暮らすことのできる幸せ者はさぞ気分がよいだろう」と老人に話しかけた。それが彼には気にくわなかったらしい。老人はむっとして答えた。「幸せ者の輪に混じって暮らしちゃならんと、いったい誰が言っておるのかね?」
「誰もが贅沢できる身分に生まれるとはかぎらないし、誰も自分の人生を自由に取りしきるなんてことはできない」と私は摩耗(まもう)したレコード盤のように反応した。老人は私の言葉には注意を払わず、こう言った。「誰だって好きな運命を自分に選んでやることは自由なんじゃ。我々が持っている唯一の自由とは、選択の自由というやつじゃ。誰でも欲しいものを選ぶことができる」
そんな考え方は私の人生観とはどうにも相容(あいい)れないものだったので、私は反論しかけたが、途中でやめた。老人は耳を貸そうともしなかったのだ。
「愚か者め! お前さんには選ぶ権利があるのに、それを利用してはおらん。選ぶということがどういう意味を持っているのか、ただ単にわかっとらんのだ」
それは戯言(たわごと)もいいところだ。私は気持ちが収(おさ)まらなかった。どうやったら自分が欲しいものを何でも選べるというのか? この世ではすべてが許されるという考え方もあるかもしれない。このとき突然、私が今見ているのは、ただの夢なのだと認識した。途方に暮れた私は、こんな奇妙な状況でどう振る舞うべきかわからなかった。
私の記憶が正しければ、これが夢であろうと現実であろうと、戯言を言うのはそれぞれの勝手だというようなことを私は老人にほのめかした。しかし、私の言葉がその老人をいらだたせた様子は少しもなく、返事の代わりに彼は大笑いした。私は状況がまったく馬鹿げていることを認めて(なぜ自分の夢の中の登場人物と会話するはめに陥ったのだろう)、そろそろ目を覚ましたほうがよいのでは、と思い始めた。どうやら老人は私の考えを察したようだ。「ああ、もう十分じゃわい。残り時間は短いからのう」と老人は言った。「あの人たちがお前さんたちがお前さんのような大馬鹿者のためにわしを寄こしたとは思わないんだ。しかしまあ、とにかく、わしはわしの使命を果たさんとな」
「使命」とは何なのか、「あの人たち」とはいったい誰なのか、私はあれこれ問いただしかけたが、途中でやめた。老人は私の質問を一切無視し、私には馬鹿げているとしかおもえない謎を出した。
「欲するものすべてを選択する自由を誰もが持つことができる、そこで問題じゃ。この自由はどのようにして受け取るのか? もしこの謎ができたら、お前さんの持っているりんごは空へ落ちていくじゃろう」
今度は「りんごが空に落ちていく」だって? 私は堪忍袋の緒が切れたかけていたので、謎解きをするつもりはさらさらないと答えた。夢の中やお伽噺の世界なら、どんなことでもありえるだろうが、現実世界では、りんごは地面に落ちるものだ。これに対して、老人はこう言った。「もういい! 行こう。お前さんに見せないといけないものが他にもあるんじゃ」
これ以降の夢の続きは私は覚えていない。しかしながら、管理人の老人が何らかの情報を私にくれたのではないかというはっきりとした感覚が残った。私はそれを口に出して表現することができなかった。ただ記憶に刻まれたのは、よく分からない一つの言葉ーートランサーフィンだけだった。そして「自分の世界を自分で整える必要はなく、すべては自分のあずかり知らないところで自分の幸福のためにずっと以前にできあがっている」という思いが残った。陽(ひ)のあたる場所を求めて、世界を相手に闘ってはいけない。これは最も効率の悪いやり方である。それよりも身を置きたいと思う世界を、自分のために選択することだ。それを誰も私に禁じているというわけではないのだ。
最初、こんな考えは馬鹿げていると思われた。そんな夢のことなどすぐに忘れてしまった。だが、大変驚いたことに、まもなく、管理人の老人が言う「選択する」ということの意味は何なのか、そして、それをどのようにして行うのかということを、極めて鮮明に思い出したのだ。『リアリティ・トランサーフィン1』 第1章 より ヴァジム・ゼラント:著
トランサーフィンは、まるでスーパーマーケットで商品を選ぶように、文字どおり運命を選ぶ方法
です。
本書は、そのトランサーフィンの本質を理解し、実践することで願望実現するためのノウハウをまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。
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「バリアント空間」とは?
私たちは、物質の動きを「法則」として表しています。
すべての物質は、この法則に従い、原因と結果として、あるべき姿であるべき場所に存在しています。
ゼランドさんは、物質の動きが可能なすべての点に関するデータは、情報フィールドとでもいうような場所に保管されて
いて、それを「バリアント空間」と呼ぶ
ことにすると述べています。
バリアント空間は、物質に関する情報構造である。これは無限の情報フィールドであり、起こりうるあらゆる事柄の全バリエーションを内包している。バリアント空間にはすべてがあるといえる。こうした情報はどのようにして保存されているのか、というような推論は行わない。そうすることは、私たちには意味がないからだ。バリアント空間は、時空における物質のあらゆる動きの鋳型(いがた)であり、座標目盛りである、ということだけが重要なのだ。
空間の各点には、何らかの事象のバリエーションが存在する。わかりやすくするために、そのバリエーションが台本と舞台装置から構成されていると考えよう。台本とは、物質がそれに沿って動く道のことであり、舞台装置とは、現象の外観、または形である。バリアント空間は便宜的(べんぎてき)にセクター(細分領域)に分割することができる。各セクターは自分の台本と舞台装置を持っている。セクターどうしの間の距離が大きくなればなるほど、台本や舞台装置も大きく違ってくる。そして、人間の運命にも多くのバリエーションがある。
バリアント空間は無限であることから、人間存在の台本と舞台装置には、理論上いかなる限界も存在しない。任意の些細な事柄が、運命の転換に影響することがある。人の人生は、他のあらゆる物質の運動と同様に、原因と結果の鎖である。バリアント空間において、結果は常にその原因に近接するところに配置されている。ある一つのことの次に別のことが続くため、運命のセクターは列を作って人生ラインとなる。こうした同じライン上にあるセクターの台本と舞台装置は、多少の違いはあれ、類似している。人生は、台本と舞台装置を変化させる何らかのことが起こらないうちは、一方向へ規則正しく流れる。変化させることが起こると、運命は転換し、別の人生ラインへと移る。
たとえば、あなたが劇を観たとしよう。翌日、あなたは同じ劇を観るために、再び劇場へと足を運んだが、劇は別の舞台装置で行われていたとする。これは近くに配置されている人生ラインである。翌シーズンにあなたは、かなり変更を加えられた台本によって、同じ役者たちが演じる劇を観たとしよう。この人生ラインは先のほうに配置されていることになる。それでは、同じ劇を別の劇場で観たが、内容はまったく異なる解釈になっていたとしよう。その場合、その人生ラインは最初のラインからまったく遠いところにあることになる。
バリアントの数が無限にあるということから、現実は多様な形で現れる。あらゆる出発点から、因果関係の鎖が始まる。出発点が選ばれると、そこから物事が次々と現実化していく。物事は、選択された出発点から続く人生ラインに沿って、展開するのだ。つまり、各人が選択したものを受け取るということだ。だから、バリアントがすでに無限に存在している、というまさにこのことによって、あなたは選択する権利を持っていることになる。あなたが心の赴(おもむ)くままに自分の運命を選択することを、誰も禁じてはいない。運命のコントロールはすべて、「選択を行う」という唯一の単純な事柄に帰するのだ。トランサーフィンは、「それをどうやって行うか」という問題に答えるものなのである。
このように独自の台本と舞台装置を持つ無限の数の潜在的な可能性ーーー「バリアント」を含む情報構造が存在する。物質的現実化の展開は、この構造に何が入っているかに応じて生じる。バリアント空間を通過する物質の運動過程は、次のような思考実験の形で示すことができる。
水の入ったパイプをイメージしていただきたい。パイプの外側に沿って、冷却リングがゆっくりと移動していき、その冷却リングに近い水だけが急速に凍っていく。つまり、水の入ったパイプに沿って、氷の結晶が移動して行く。水分子はほぼ同じ場所で相対的に自由な状態で留(とど)まる。冷却リングが通過する瞬間に、リングに近い水分子は一定構造の結晶となって固まり、その後、この場所の氷は溶けて、また分子は自由に動けるようになる。つまり氷の結晶自体が動くのではなく、構造、すなわち凍結した状態のほうが移動しているということである。
パイプの中の水に相当するものがバリアント空間であり、水の結晶化はバリアントの物質化である。水分子は人々であり、結晶構造の状態にある水分子は、運命のバリアントとして現実化されているわけだ。冷却リングは何にあたるのかという問いに対する絶対的な答えはない。この質問は、言い換えれば「なぜ、どのようにして、情報構造が物質に転換されるのか」という質問になる。ミクロの世界では、物質はエネルギーの塊(かたまり)として現れる。よく知られているように、真空では微粒子が絶え間なく生成と消滅を繰り返している。物質は存在しているようでも、固有の物質的実体を持っていない。唯一明らかなのは、触ることのできるものは、触ることのできないエネルギーの基盤を持っているということだけだ。
読者のみなさんがどうかこの物理学的説明に悩んでいませんように。今、私たちはトランサーフィンの出発点にいる。みなさんが本書から知り得ることは衝撃的である。そのため、理性の足元がぐらつかないように、ある程度の理論上の根拠をひもとかざるをえない。そのようなわけで、もうしばらく辛抱していただければと思う。
海の波は、バリアント空間における物事の現実化を具体的に説明してくれる、もう一つのアナロジーとなるだろう。地震によって海に波が発生したとしよう。波は海面を盛り上がって移動するが、この際、水自体はその場に留まる。大量の水が移動するのではなく、エネルギー・ポテンシャルの現実化されたものが移動するのだ。海岸付近でだけ、水は陸地に跳ね上がる。他のどんな波もこれと同じ振るまいをする。このアナロジーにおいては、海はバリアント空間であり、波は物事の現実化である。
このように物事の現実化は時空の中で展開する一方、バリアントはその場に留まり、永遠に存在する。そう考えると、いったいどういうことになるのだろう。あらゆるものが過去、現在、未来と存在し続けるということだろうか。いや、むしろ、なぜそうであってはいけないのかと私は思う。実際、時間は、空間と同様、静的である。時間の流れは、映画フィルムが回り、コマが次から次に映し出されないと知覚されない。映画フィルムを広げて、すべてのコマを同時に見てみよう。時間はどこかへ行ってしまう。すべてのコマが同時に存在するからだ。私たちがコマを次々に見ようとしないうちは、時間は止まっている。人生はまさにコマを次々と見ているように進行するため、あらゆるものが来ては去って行くという考え方が、私たちの意識の奥深くに根付いている。
実際、情報フィールドに記録されていることのすべては、常にそこにあって、これからもそこに留まっているのだ。人生ラインは映画フィルムのように存在する。起こったことは消滅せず、残っている。これから起こることは、今すでに存在している。人生の現在の断片は、今の人生ラインの断片がバリアント空間で現実化しているものなのだ。
多くの人々が困惑して、次のような疑問を投げかけることだろう。「私の人生の無数のバリアントが常に存在するなどということがどうして可能なのか? 誰にとって、そんなことが必要なのだ? 神か? 自然の法則か? そしてその理由は何なんだ?」。それでは、座標平面にある点をイメージしていただきたい。まだ学生の頃、私たちはこんなモデルを与えられた。平面上の点は任意の座標XとYを持つことができるというものだ。XとYはマイナスからプラスまで無限にあるどんな値でもかまわない。なぜ点は任意の座標を持つことができるのか? このような疑問が、どうして誰の頭にも思い浮かばないのだろう。ここで関数の線に沿って運動している一つの点が、次のように驚いている様子を想像願いたい。「僕の通ってきた道はずっと存在してきたし、これからも常に存在するだなんて、どうしてそんなことが可能なのか? 僕がこれから進む道も、前もって決まっているだなんて、どうしてそんなことが可能なんだ?」。しかし、点の通り道を上から眺めているあなたにとって、驚くべきことは何もない。
バリアント空間はどのようにして物事が現実となって現れるべきかを定める鋳型である。暗い森とランプを持った人間とを想像していただきたい。人間は森の中を歩き、自分の周囲のさほど広くない場所を照らす。現実化は、光があたったスポットとして現れる。暗い森全体がバリアント空間であり、照らし出された場所は、その場所におけるバリアントの現実化である。では、「照明器具」は何にあたるのだろう。言い換えると、何が「火を灯す」のか、つまり何が鋳型であるバリアント空間から物事を物質化するのだろう。
この質問への答えとして、もう一つの出発点を選択しなくてはならない。私たちの時代では、「思考」が「物質的」であるという事実に疑いの余地はないだろう。ところで、現実は自らを二つの形で示してくれる。つまり一方では、存在が意識を決定するということであり、他方では、意識が存在を決定するという、どちらも反論できないまったく逆の論証が存在するということである。思考は人間が行動する上での動機となるだけでなく、周りを取り巻く現実に対しても直接的に作用する。たとえば私たちが抱くよくない予想は、概して実現する。もちろんここでは、思考の物質化などではなく、来(きた)るべき不快な出来事を感じとっただけと考えることもできるだろう。実際、超常現象として不可解でさまざまに解釈できる多くのことが存在する。しかし現実が思考に直接影響を受けるという現象を無視はできない。現実に対する思考の直接的影響を裏付ける多くの事実は存在しているのだ。
ともかく人間の意識はその者の運命を形づくる。本書で私は、こうしたことのまさにどのようにして起こるのかについて述べていきたい。出発点として「思考エネルギーの放射は潜在的バリアントを物質化する」ということを取り上げよう。そうする価値は十分にある。意識に影響されて、現実が形になることがあるからだ。これは日常生活の事実からだけでなく、量子力学上の実験からも確かめられている。しかしながら、思考エネルギーの放射とバリアント空間との相互作用の仕組み自体を、ここで追求しても意味はない。情報伝達のブロセスがどのようにして行われるのか、エネルギーを基盤とするのか、それとも他の別の物に基づくのかは、今に至るまで解明されていないからだ。そこで、本書では便宜上、簡略化して次のように考えたい。思考エネルギーの放射は、バリアント空間の一定のセクターに「スポットライトをあてる」ことになり、その結果、バリアントは物質的に具現化する、ということだ。思考エネルギーの放射は、独自のパラメーターは物質的に具現化する、ということだ。思考エネルギーの放射は、独自のパラメーターを持つ。思考エネルギーの放射はそれに合った自分のセクターを見つけ、バリアントが現実化される。こうして実際に意識が現実を定める、ということになる。『リアリティ・トランサーフィン1』 第1章 より ヴァジム・ゼランド:著 監訳:成瀬まゆみ ヒカルランド:刊
バリアント空間は、パイプの中の水
であり、どのようにして物事が現実となって現れるべきかを定める鋳型
。
つまり、存在しうる、あらゆるもの(目に見えないものもの含めて)を生み出す可能性を持った空間です。
すべての可能性の集まりであるバリアント空間から、一つの可能性だけを切り取って現実化する。
その役目を担っているのが「思考」です。
思考することで、パイプや鋳型の形が決まり、その中にあるもの形が決まリます。
現実を変えるには、パイプや鋳型の形、つまり、思考を変えればいいということ。
「思考は現実化する」は、真実であり、これがそのメカニズムだということですね。
「振り子の法則」とは?
ゼランドさんは、同じ方向で物事を考える人々の集まりは、「エネルギー情報体」を形づくる
とし、これを「振り子」と呼ぶことにする
と述べています。
振り子は、同じ集団に属する人間の思考エネルギーは集まり、まとまった一本の流れ
となったもので、それ自身が一つの生命のように独立して歩み始め
ます。
なぜ振り子なのだろうか? なぜなら、より多くの人々、すなわち振り子の信奉者たちが振り子に自分たちのエネルギーを与えるようになると、振り子はそのぶん大きく揺れ動くようになるからである。どの振り子も自分特有の周期を持っている。たとえば、ブランコは一定の間隔で押すようにしないと、大きく揺れるようにならない。この間隔のことを共鳴周波(きょうめいしゅうは)と呼ぶ。ところで、もし振り子の信奉者の数が減少したら、振り子の振動は弱まる。そして、信奉者が一人もいなくなったたら、振り子の振動は止まり、死滅するのと同じになる。止まってしまった振り子の例をいくつかあげてみよう。古代の異教、石器、古代の武器、昔の流行、ソノシート(ビニール製のレコード盤)等々。これらは、言い換えれば、かつてあったが、今は利用されていないものだ。
本当にこれがすべて振り子なのかと、あなたは驚かれるかもしれない。そのとおり、人々の思考エネルギーによって作られ、自分の属性を持ついずれの構造も、振り子である。一般的に言えば、一定方向にエネルギーを放射できるどんな生物でも、遅かれ、早かれエネルギーの振り子を作ってしまう。自然界の生物による振り子の例としては、バクテリアのコロニー、生物の個体群、魚群、動物の群、森林帯、大草原、アリ塚など、生命体によって多少なりとも秩序立って作られている均質な構造はどれもそうである。
各生物体自らがエネルギー単位としての振り子が集まり、一緒に振動し始めると、グループとしての振り子ができあがる。グループとしての振り子は自分の信奉者たちの上に上部構造のように君臨し、別個の独立した構造として存在し、信奉者たちのための決まりを定める。決まりとは、信奉者たちをつなぎとめ、新たな信奉者を獲得するためのものだ。このような構造は、自らの決まりによってひとりでに成長を遂げていくという意味で、独立した存在である。信奉者たちは、自分の意思によって行動しているのではなく、振り子の決まりによって行動していることに気づいていない。たとえば、官僚組織は、個々の役人たちの意志とは関係なく、独立した構造として成長する。もちろん有力な役人は独自の決定を下すことができるが、こうした決定はシステムの決まりと矛盾することはできない。さもなければ、そのような信奉者は排斥(はいせき)されることになる。ひとりの人間であっても、その人自身がその人を代表する振り子であるが、常に自分の動機を自覚しているとはかぎらない。人の生命エネルギーを吸い取るエネルギー・バンパイアがその好例である。
どの振り子も本来は破壊的である。なぜなら自分の信奉者たちのエネルギーを奪い取り、彼らを支配しようとするからだ。振り子にとっては各々の信奉者の運命などどうでもよいというところに、振り子の破壊性が表れている。振り子の目的はただ一つ。それは信奉者のエネルギーをいただくことであって、信奉者の利益につながるかどうかなどはどうでもいい。システムの影響下の置かれた人間は、システムの決まりに従って自分の人生を築かなければならない。さもなければ、その者はシステムによって噛み砕かれ、吐き捨てられてしまう。破壊的な振り子の影響下に置かれてしまったら、そのものの人生など簡単にめちゃくちゃにされてしまう。脱出しようとしても、無傷ですむことはまず考えがたい。
もし運のいい者がいたとして、システムの中の自分の居場所を見つけ、水を得た魚のように感じることもあるとする。その者は信奉者となり、振り子にエネルギーを与え、一方、振り子のほうは、その者が存在するための環境を提供する。しかし、信奉者がシステムの決まりに違反するやいなや、その者の放射振動数は振り子の周波数と共鳴しなくなる。振り子はエネルギーを得られないので、このわがままをいう信奉者を追い払うか、または、抹殺してしまう。
もし人が自分にとって好ましい人生ラインから遠く離れたところへ連れて行かれたとしたら、本来縁のないはずの振り子システム内で送る人生は、苦役になるか、または憂鬱(ゆううつ)なだけの生活に変わってしまう。このような振り子は、信奉者にとって破壊的である以外の何ものでもいない。こうした振り子の影響下に陥った人間は、自由を失ってしまう。その者は、好むと好まざるとにかかわらず、自分の束縛する規則に従って生活し、巨大なメカニズムのちっぽけな歯車とならなければならない。
一方、振り子の庇護(ひご)を受ける立場に置かれ、抜きんでた成果を収める人間もいる。ナポレオン、ヒトラー、スターリンなどは、すべて破壊的な振り子の寵児(ちょうじ)である。しかし、いずれにせよ、振り子には自分の信奉者たちの幸福を気づかう気など毛頭(もうとう)なく、自分の目的のために彼らを利用し続ける。晩年、ナポレオンは、本当に幸福であったときがあったかと聞かれ、自分の人生の中から数日だけ数え上げたという。
新たな信奉者をおびき寄せるために、振り子は手の込んだ手法を用いる。蛾(が)が光へと飛んで集まるように、振り子による宣伝に惹きつけられた人々は、自分のすぐ隣で幸せが待っているにもかかわらず、そこから遠ざかっていく。たとえば軍隊に入って非業(ひごう)の死を遂げる。学校へ入って自分の専門とはなり得ないはずのことを無駄に修得する。自分に向いていないはずなのに、その権威に惹かれて仕事を選び、泥沼にはまって溺れる。自分の人生を見知らぬ他人に預けてしまい、後になって苦しむ。
振り子は高潔そうな仮面を被(かむ)り、自分の動機を隠そうとする。そして、しばしば信奉者たちの運命は、振り子の活動によって破滅へと導かれる。破壊的な振り子の影響下に陥った人間にとって一番の危険は、振り子が自分の信奉者を幸せの得られそうな人生ラインから遠くへ連れて行こうとするところにある。振り子の特徴をあげてみよう。▶︎振り子は、自分の信奉者たちのエネルギーを受け取り、それによって振幅を増大させる。
▶︎振り子は、より多くのエネルギーを受け取ろうとして、できるだけ多くの信奉者を自分に惹きつけようとする。
▶︎振り子は、自分の信奉者たちのグループを他のすべてのグループと対立させる(我々はこうであるのに、奴らは違う。奴らのほうが悪いのだ)。
▶︎振り子は、信奉者になりたくない者は攻撃的で、自分の側に引き入れるか、無力化するか、または排除するかしようとする。
▶︎振り子は、自分の行動を正当化し、より多くの信奉者を獲得するために、上品で魅力的な仮面を被り、高尚な目標を掲げて装い、人々の感情をかき立てる。
▶︎振り子は、本質的に神智学でいう「エグレゴール」というエネルギーの集まりである。
しかし「エグレゴール」の概念は、人間とエネルギー情報体との間における相互作用の微妙な陰影まで含めてはいない。振り子は、人生において、あなたが思っている以上に大きな役割を果たしている。振り子がどのようにして自分の信奉者たちのエネルギーを飲み込むのかについては、次の例がわかりやすいだろう。観客で満員の競技場を思い浮かべていただきたい。緊迫したサッカーの試合が行われている。熱狂は頂点に達し、ファンたちは興奮しきっている。すると、そのとき、一人の選手が言い訳できないようなへまをしでかし、それが相手チームの決勝点につながってしまった。ファンたちの憤懣(ふんまん)はこの選手に浴びせられ、八つ裂きにでもしてやろうかというくらいだった。どれほど途方もない負のエネルギーが、この不運な選手に注がれていることか、想像していただきたい。このように並外れた打撃を受けたら、その選手はその場で死んでしまっても不思議はない。だが、実際にはそんなことは起こらず、彼は自分の犯したミスのために、たとえうなだれてはいても、無事に生きている。では、選手に送り込まれたはずの大量の負のエネルギーはどうなったのだろう? これを取り込んだのが、振り子なのだ。もしそうでなければ、群衆の憎悪の的(まと)は絶命してしまっただろう。また、もしこれが喝采(かっさい)を浴びる人気絶頂のアイドルならば、実際に空中に舞い上がってしまうかもしれない。
振り子が命をもった存在なのか、それとも単なるエネルギー形態なのか、ということを判断しようというのではない。そんなことをしても、トランサーフィンの手法にとっては、何の意味もない。大事なのは、振り子の腹を読み、自分のためにならないゲームには乗らないようにすることだ。破壊的な振り子かどうかを簡単に見分けられる一つの特徴がある。それは、常に振り子が、自分と似たような振り子との間で人々の獲得競争を行って、張(は)り合っていることにある。振り子の目的はただ一つ。なるべく多くのエネルギーを得るために、できるだけたくさんの信奉者を獲得することである。信奉者獲得競争において、振り子が攻撃的に振る舞えば振る舞うほど、ますます破壊的な性質がむき出しになり、個々の人間の運命にとっては危険なものとなる。
慈善団体、自然保護団体、動物保護団体などもあるのに、それらの組織団体のどこが破壊的なのか、といった異論を唱える人がいるかもしれない。しかし、あなた個人にとって、こうした組織団体は、いずれにしろ、あなたのエネルギーを摂取する存在であって、あなたの幸福や平穏無事な暮らしには一切関心を持っていないのである。彼らは、あなたに対しては無関心でいるのに、他人に慈悲深くあれと訴える。こうした仕事に従事していて、あなたはこれで満足であり、本当に自分が幸せだと感じるのなら、それは天職と考えてよく、あなたは自分の振り子を見つけたことになる。しかし、ここであなたは自分の気持ちに正直になる必要がある。あなたは篤志家(とくしか)の仮面を被っていないだろうか? 他人の幸せのために、本当に心から自分の労力や金銭を提供しているだろうか? それとも、自分の気持ちを楽にしたいがために、慈善行為のまねごとをしているだけではないだろうか?
破壊的振り子は、人々が自分の運命を選ぼうとするのをやめさせる。なぜなら、もし人間が自由に選択できるようになると、その者は独立性を勝ち得ることになるからだ。そうなると、振り子はその者を自分の信奉者として取り込むことができない。けれども、私たちの意識は、運命が天から与えられたものであるという考え方に慣れてしまっており、もっと気にいるであろう別の運命を選ぶことができると信じるのは、実際、とても難しい。
一方、振り子としては、信奉者をコントロール下に置いておくほうが都合がよい。そのため振り子は自分の手先を使って操るために、ありとあらゆる手段を講じる。これから先は、振り子がそれをどのように行うかを説明していくことにしよう。『リアリティ・トランサーフィン1』 第2章 より ヴァジム・ゼランド:著 監訳:成瀬まゆみ ヒカルランド:刊
一人の力は大したことがなくても、大勢が集まると、とてつもなく巨大な力となり、信じられないような力を発揮する。
この現象は、まさに「振り子の法則」が働いているわけですね。
意思の力は「ベクトル量」、つまり方向性がある力です。
同じ方向性を持っている意思力は、信じられないような奇跡を起こすことがあります。
反面、その力の方向性が逆になると、破壊的な悲劇を引き起こします。
「幸せの波」に乗るには?
ゼランドさんは、思考をネガティブに撹拌(かくはん)されるままにしておくことは、破壊的振り子とのゲームに入り込み、振り子の周波数でエネルギーを放射すること
であり、非常に有害な習慣
だと指摘します。
破壊的振り子の影響力を抜け、幸せの波に乗る。
そのために必要なのは、「思考エネルギーの放射周波数」を変えることです。
ところで、思考エネルギーの放射周波数を変えるのはそんなに難しいことではない。第一に、感情を鎮めて、不平不満や恨み・つらみを口にするのはやめよう。いつどこででも好ましい面や理由は見つけられ、ささやかな喜びを感じることはできるものだ。たとえ今の家が気に入らないにせよ、せめてあなたを守ってくれていることに対しては感謝すべきである。外は風が吹き、雨が降る。今の家はそのすべてを引き受けて、あなたを守り、温めてくれている。これが感謝に値しないといえるだろうか。もしあなたが今持っているものに感謝し、あなたを取り囲んであなたの暮らしを助けてくれるものすべてに愛情を感じているならば、あなたはポジティブなエネルギーを放射していることになる。そうすると、お望みならば自分の居住条件が向上することは十分に期待できる。もし引っ越すことになれば、あなたを取り囲んできたすべてに必ず感謝しよう。放り出しておいた物にまで感謝すべきだ。このようとき、あなたからは周囲の世界にポジティブな振動が伝播(でんぱ)していて、その振動は必ずあなたに戻ってくる。
第二に、欲しいと思う家について考えてみるようにしよう。これを実行することは、現在あなたを取り囲む物にいらだつことよりも難しい。しかし、これは考える価値のあることである。牡蠣(カキ)のように外部の刺激に対して十年一日(じゅうねんいちじつ)のごとき反応をするのと、ちょっと努力して自分の習慣を変えてみるのとでは、どちらがいいだろう? 住宅の写真が載っているパンフレットを見て、調度品を売っている店を歩き回り、欲しいものをいつも考えることで自分を元気付けよう。私たちは常に、しっかりと心をとらえるものや状況を自分のものにすることができる。私たちの思考は常にブーメランのように私たちのところへ戻ってくるのだ。
ネガティブな反応を示すと、どれほど人生にダメージを与えるかについては、計り知れない。たとえば、あなたは南の地で休暇を過ごす予定だとしよう。あいにく現在こちらは悪天候に見舞われている。通りを歩くと、寒風に身を縮め、冷たい雨に降られ、全身濡(ぬ)れねずみとなる。こんな天候を喜べないのは当たり前である。それなら、この破壊的振り子を無視すべく、せめてニュートラルな状態にしてみよう。もしあなたが天候について不平不満を並べて立てると、振り子を受け入れて、それをさらに勢いづかせることになる。
あなたは自分自身に言い聞かせる。「もうすぐ南へ飛んで行けるぞ。太陽の光と暖かな海が待っている。しかし、それにしても、しゃくにさわるじゃないか、このぬかるみときたら!」。こんな対応では、楽園にいるような喜びの待つ人生ラインとは波長が合っていない。南の地へたどり着くことすらおぼつかない。飛行機のチケットはもうあるのかい? あるよ、それで? それなら目的地まで行くことだけはできるだろう。しかし、待ち受けているのは悪天候か、それとも他の不愉快な出来事だろう。たとえすべてが順調に運んでいても、ポジティブな波長に合わせておくことは抜かりなくやっておくべきだ。
ネガティブなエネルギーを自分に取り込まないというだけではなく、自分でもネガティブなエネルギーを放射してもいけない。たとえば、あなたが腹を立てて、誰かを怒鳴りつけたとしよう。これに続いて何らかの不快な出来事や問題が起こることは、まずまちがいないだろう。この場合、あなたの放射パラメーターは、あなたを憤慨させる幾本(いくほん)もの人生ラインに合致している。そして、まもなくあなたはそこへと移動させられる。それらのライン上では、不快な出来事の密度が平均以上の数値となっている。この不快な出来事はどうしたって避けられなかったようだ、などと言い訳して、自分を慰めてはいけない。このことについては、私があなたを説得したり、証明してみせる必要もないだろう。あなたがネガティブな反応をした後には、新たな腹立たしいことが続いて起こるものだということを、自分自身で注意すればいいだけだ。
ここからの結論は非常に単純でわかりやすい。つまり、あなたによる思考エネルギーの放射に見合うパラメーターを持つ人生ライン上に、あなたはいつも存在する、ということだ。あなたが自分の中にネガティブなエネルギーを取り込むと、不快な事象があなたの人生に生じる。あなたがネガティブなエネルギーを放射すると、それは新たな問題となってブーメランのように舞い戻ってくるというわけだ。破壊的な振り子ゲームを受けられる代わりに、あなたのためになるゲームを行う振り子を探してみよう。これはいいことやポジティブなことすべてに注意を払う習慣を身につけることを意味する。何かいいもの、楽しいもの、希望の持てるものについて、あなたが見たり、聞いたり、読んだりしたら、それを自分の思考の中に定着させて喜んでいただきたい。森の中を歩いているあなたをイメージしてみよう。そこには美しい花々咲き乱れている。毒と棘(とげ)を持っている植物もある。あなたは何を選ぶだろうか? もしあなたがニワトコの花を切って家へ持ち帰り、花瓶に生けたら、まもなく頭痛が始まることだろ。何であなたはこんな選択をしたのか? 破壊的振り子に反応することも、これと同様に有害なのだ。ジャスミンの花を持って帰り、世話してやり、芳(かんば)しい香りを楽しむほうがよかった。あらゆるポジティブなものを自分の中に取り入れると、あなたの進む道では、より多くのいい知らせや好ましい機会とめぐりあうことだろう。
さて、あなたが精神の高揚と歓喜を味わったとしよう。しかしその後、日常の決まり切った仕事が再びあなたをたぐり寄せる。祭りの日は過ぎ去り、また普段の生活に戻る。祭りの状態を自分の中でどうやって維持すればよいのだろう? そのためには、まず、祝祭の日々を思い出すのがいい。私たちは習慣から、単調な日常生活に没頭するあまり、楽しかったことを忘れてしまい、祝祭の記憶は封印され、私たちを喜ばせてくれなくなる。これは悪い習慣だ。それを忘れるように私たちに強いるのは、振り子である。
祝祭の明かりを自分の中で灯し続け、その感覚を大切にすることが必要である。人生がどのようにいい方向へ変わっていくのかをじっくり眺め、ごく小さな喜びでもよいからしっかりとつかみ、あらゆるところで好ましい兆しを探し求めるのだ。少なくともそれは、退屈なことではない。あなたはトランサーフィンを行っており、意識的に自分の夢へと向かって進んでおり、自分の運命をコントロールしているのだということを一瞬たりとも忘れてはならない。これだけでも安心、自信、喜びといった気持ちを植えつけてるれるから、祝祭はいつもあなたとともにあることになる。祝祭の日の感覚が習慣になってきたら、あなたはいつも幸運の波の上に乗っていることになる。
今持っているものすべてに対して喜ぶべきである。これは、単にそうすれば幸せになることができると主張するだけのものではない。満足することがとても難しい状況になることはときどきある。だが、不満を口にすることは、極めて実践的な観点から、大変に不利益なことである。なぜなら、あなたはすべてに満足できる人生ラインにたどり着きたいはずだから。しかし、あなたによる思考エネルギーの放射が不平不満でいっぱいだったら、どのようにしてそこに行き着くことができるだろうか。それどころか、こうした放射の周波数は、あなたの気分が悪くなってしまうラインに合致しているものだ。よいラインは、そこにいることが好ましく、あなたの思考が喜びと満足感であふれているという特徴を持っている。
よいニュースはそれほど人を興奮させず、すぐに忘れ去られる。反対に、悪いニュースには驚異が潜んでいることから、強い反応を引き起こす。自分の心の中に、すなわち自分の人生に悪いニュースを入れてはいけない。悪いニュースは遮断し、よいニュースのために窓を開けておこう。あらゆるポジティブな変化を見逃さないようにして、大切にしよう。それは幸運の波の予兆である。あなたが希望を抱くことのできるニュースを耳にしたならば、それがたとえどんなに些細なことであっても、以前のようにすぐに忘れてしまわないで、反対に、よく噛みしめ、よく調べ、その突きを追いかけよう。そのニュースをさまざまな視点から深く考え、喜び、予想を立て、この先の好転を期待しよう。こうしてあなたは幸運の波の周波数で考えるようになり、そのパラメーターに同調していくことになる。よいニュースは増えていき、人生は好転してくるだろう。こういったことが起こるのは、神秘的なことでもなければ、人間心理から来るものでもない。悲観論者は世界を黒ずんだレンズを通して見るのに対して、楽観論者はバラ色のレンズで見ている。そして、あなたは自分の思考エネルギーの放射パラメーターに相当する人生ラインへと移動する。これが現実の仕組みなのだ。
自分と周囲の世界とがよい関係にあるならば、あなたの調和の取れた放射は、周りの世界に伝播する。すべてがうまくいくように調和して振動する場を、あなたは身の回りに作っている。ポジティブな気分はいつも成功や創造へと導いてくれる。
反対に、ネガティブ思考傾向は常に破壊的であり、荒廃へと導く。たとえば、問題を探し回ることばかりしている人々がいる。解決方法を探すのではない。彼らは複雑な問題を活発に議論し、もっと多くの新たな障害を見つけてやろうと身構えている。通常、こうした人々は、現実的な解決策を提案することができない。なぜなら、彼らは最初から解決そのものではなく、問題を探すことのほうに気持ちが向いているからだ。問題探しに気持ちが向いていると、問題はたっぷりと出てくるが、事はその場からぴくりとも動かない。否定的な面を探しては批判するだけ、というのは常にそれに見合った結果をもたらし、有害に働く。周りをよく見ると、必ずこうした人々がいるものだ。彼らが別に悪い人とか、いい人とかいうわけではない。ただ彼らは、破壊的な振り子の罠にしっかりとはまってしまっているだけなのだ。
大多数の人々が、自分の人生で起こった望ましくない事柄を困ったこととして扱う。通常、私たちが望ましくないと思うことは、自分たちが用意した台本に載っていないことである。反対に、私たちは期待に沿うものだけを、幸運として迎える。極端な例を一つあげよう。ある人が飛行機に乗り遅れたために墜落事故を免(まぬが)れたのだが、その後、すっかり動揺してしまった。しかしその必要はない。こんな滅多に起こらない出来事に遭遇しなかったのは、ただそれがこの人の台本に入っていなかったからだ。
人が自分を取り巻く世界について悪く考えれば考えるほど、この世界はその人にとってますます居心地の悪いものとなる。失敗によって意気消沈すればするほど、新たな不運がこちらをめがけてどんどんやってくる。泣きっ面に蜂である。こんなことをしていたら、毎日、正反対のトランサーフィンに励んでいるようなものだ。本物の地獄が待つ人生ラインへ滑り落ちていくだけとなる。まったく逆のやり方を行ってほしい。面当(つらあ)てに失敗を喜んでみよう。失敗の中に、ほんのわずかでもよいから役立つことはないかと探してみよう。これはいつでも可能である。コップは半分空(から)なのではなく、半分も水が入っているのだ。
「終わりよければ、すべてよし」とよく言われるが、それがあなたが持つ信条なら、間違いなくそのとおりになるだろう。よい方向への目標設定を堅持し、きっかけがどんなものであれ、腹を立てたり、悔しがったりする古い習慣を断つ必要がある。
どんな失敗でも、少なくとも、教訓として役に立ち、あなたを強く鍛え、経験を豊かにしてくれる。あなたの世界のとんな現象でも喜ぼう。そうすればあなたのいる世界は楽園に変わる。これはもちろん普通とはかなり違った行動様式である。しかしありきたりのやり方で、「自分の望みを実現する魔神(まじん)ジニーになる」という目的が叶うわけはない。
とはいうものの、これを実行することは最初は大変である。望ましくていものに対してネガティブに反応する古い習慣がしつこく立ち現れる。忌々しい状況に陥ったときには必ず、振り子があなたをつかみ寄せようとしていることを思い出すようにするのだ。思い出しさえしたら、すぐに意識して選択できるはずである。自分のネガティブな感情をぶちまけて振り子にエネルギー渡すのか、それとも振り子に何も与えることなく、それによって勝利をもぎ取るのか。二つのうちのどちらかを選ぶのだ。
もしあなたがうまく思い出したならば、振り子から身をかわすか、手なずけるかは、もうそれほど難しいことではない。私たちはいつも無意識のうちに振り子にエネルギーを与えている。すでに述べたように、振り子は私たちの感情の糸を引っ張る。私たちの思考を乗っ取る仕かけを始動させる推進力は、私たちの習慣である。本章を読み終え、思い出すことを課題にしたとしても、再びあなたは望ましくないものにネガティブな反応をしてしまうこともあるだろう。もちろんその後で振り返り、「あのときはただ忘れていただけで、つい習慣によって無意識に行動してしまったのだ」と悔しがるかもしれない。しかしそうこうしているうちに、あなたがタイミングよく思い出すときがやってくる。すると、すぐに状況が、本当に自分のコントロール下に入ったことを実感するだろう。しばらく後に、あなたはこんな独り言をつぶやいて、にんまりするに違いない。「ああ、お前さんが振り子だね? 近頃の私は、そうやすやすと引っかけられないよ」。これであなたはもう操り人形ではない。振り子を意識的に受け入れるか、遠ざけるかは、あなたの自由なのだ。
もしあなたがこうした手法を粘り強く実践すれば、そのうちに古い習慣が新しい習慣にとって替わるだろう。しかし、習慣の交代がまだ起こらないうちは、振り子は事あるごとにあなたを引っかけようとしてくる。たくさんの腹立たしい事件が、あてつけがましくあなためがけて襲いかかってくるかもしれない。しかし、そこで諦めてはいけない。それらを不快なことであっても、まだ些細なことである。もしあなたが屈することなく、思い出すことを身につけたならば、大変に感動的な勝利がもたらされることだろう。それは今にわかることだ。
成果とは、おそらくこんな具合だ。あなたが幸運の波を迎えるとき、振り子はもはやあなたを脇へ引き寄せることができない。こうして幸せの鳥はあなたの手の中に留まる。では、幸せの鳥を惹きつけておくにはどうすればよいのか? それは自分の周りにポジティブなエネルギーを発することだ。すなわち、あなたがポジティブな受信機になるだけでなく、発信機にもなるのだ。その結果、周りの世界が短期間に好転するだろう。あなたはいとも簡単にもっと大きな幸運が待ち受けている人生ラインへと滑り移る。最終的に幸運の波があなたをめがけてやってきて、あなたを持ち上げると、成功に向かってまっしぐらに突き進む。しかし、トランサーフィンは幸運の波に滑り移ることだけに限られたものではない。これはまだ序の口である。この先、あなたを待っているのは、まだまだたくさんの驚くべき発見である。『リアリティ・トランサーフィン1』 第3章 より ヴァジム・ゼランド:著 監訳:成瀬まゆみ ヒカルランド:刊
振り子は、仕組みであり法則ですから、それ自体は「良い」も「悪い」もありません。
私たちがネガティブなエネルギーを放射すれば、ネガティブなエネルギーが返ってくる。
つまり、「破壊的な振り子」として作用します。
逆に、ポジティブなエネルギーを放射すれば、ポジティブなエネルギーが返ってくる。
つまり、「幸せの振り子」として作用します。
ネガティブな思考を手放し、ポジティブな思考に置き換える。
それが、振り子を味方にして現実を変える秘訣だということです。
「過剰ポテンシャル」とは?
例えば、空気は気圧が高いところから低いところへ流れ、均一化しようとします。
その空気の流れが「風」となるわけですね。
このように、自然にあるすべてのものが、平衡状態を目指そう
とします。
ゼランドさんは、いかなるエネルギーであっても、過剰ポテンシャルが生じたところならどこでも、不均衡を解消する平衡力が働く
と指摘します。
エネルギーレベルではすべての物質的対象が同じ意味を持つ。それらに一定の質を与えるのは私たちである。よい、悪い。楽しい、悲しい。美しい、醜い。善、悪。単純、複雑など。この世界にあるあらゆるものは、私たちによる評価を受ける。しかし、評価そのものは、エネルギー場における異質性を形成したりはしない。自宅の安楽椅子に腰掛けているあなたはこう評価する。ここは安全だが、崖っ縁に立つのは危険だと。だが、この瞬間、こうしたことがあなたを不安がらせたりはしない。あなたはただ評価をしているだけなので、平衡が破られることは決してない。評価に必要以上に大きな意義が与えられる場合にかぎって、過剰ポテンシャルが現れる。
大きな意義を持つ評価が現実をさらに大きく歪めているのであれば、過剰ポテンシャルの値は増大する。一般に、対象が私たちにとって非常に重要である場合、その質を客観的に評価することはできない。たとえば、崇拝の対象には威厳が、憎悪の対象には欠陥が、恐怖の対象には畏怖させる質が、それぞれ必ず必要以上に与えられている。思考エネルギーは、一定の質を、実際はそれが存在しないところで、人為的に再現しようとする。このような場合に、過剰ポテンシャルが形成される。そして、過剰ポテンシャルは平衡力の風を発生させる。
あなたの評価が次の二つの方向に向かうとき、現実は歪められる。対象に過度の否定的な質を与えるときか、あるいは、過度の肯定的な質を与えるときだ。しかしながら、評価上の誤り自体は何の役割も果たさない。もう一度注意を喚起(かんき)したい。あなたの評価が大きな意義を持っているときにだけ、過剰ポテンシャルは、目にも見えず、感じることすらできないのにもかかわらず、人々の暮らしの中で強い影響力を持つ。また、それだけでなく、意地悪な役割を果たすことが特徴といえる。こうした過剰ポテンシャルを解消するように働く平衡力の作用は、多くの問題を生み出す。意地悪な役割とは、しばしば意図したものとまったく逆の結果を得ることによる。こうなると、いったい何が起こっているのか、まったく理解できなくなる。こうしたことから、まるで何らかの説明できない悪意ある力、つまり一種独特の「マーフィーの法則」が作用しているように感じるのだ。私たちはそうあってほしくないものをなぜ受け取るのかということについて考えた際に、すでにこの問題に触れた。望んでいることがいかに簡単に手から滑り落ちてしまうのか、次の例で見てみよう。
仕事に全身全霊を捧げたら、優れた成果を得ることができるという意見があるが、それはまちがっている。平衡力という観点からは、「仕事に打ち込む」ということは、天秤皿の一方に仕事を載せ、他方に残り全部を載せるということになる。均衡は破れ、それにより、長く待たずに、結果は期待していたものとまったく正反対のものになるだろう。
もしあなたにとって、より多く働くということが、より多くを稼ぎ自分の能力を強化することを意味するのであれば、もちろんある程度の努力はする必要があるし、それによって何も問題は起こらないだろう。しかし、すべてにおいて節度を心得る必要がある。もしあなたがひどく疲れたり、仕事が苦役だと感じるのならば、テンポをゆるめるか、まったく別の仕事に就く必要がある。節度を超えた努力は、必ず否定的な結果をもたらすことになるだろう。
そうしたことはどのようにして起こるのかを見てみよう。仕事の他に、あなたには一定の価値体系がある。それは家、家族、趣味、自由時間などである。もしあなたがこれらすべてに仕事を対置させたとすると、あなたは仕事場に非常に強い過剰ポテンシャルを築いたことになる。自然におけるすべてのものは平衡状態へと向かうわけだから、あなたの意志とは関係なく、過剰ポテンシャルを減少させる方向に働く力が発生する。力の作用の仕方はさまざまである。たとえば、あなたが病気になったとしたら、給料がどうのこうのと言っていられなくなる。あなたをうつ病が襲うかもしれない。あなたにとって重荷と感じることを自分に強いたら、病気にならないわけがない。理性は「さあ、金を稼ぐのだ!」と繰り返す。しかし、あなたの魂(潜在意識)は驚いてこうつぶやく。「まさか私は、苦しみもがくためにこの世に生を受けたというのか? 私にとってこれらすべてのことは、いったい何のためなのだろう?」。結局、あなたは慢性疲労に陥る。こうなっては、生産性どころの話ではなくなる。生活をもっと楽にするため、あくせくと働いてきたのに、何の甲斐(かい)もなかったという気になることだろう。
このとき、あなたは、隣にいる他の人々が、はるかに小さな努力で、ずっと大きな成果を達成していることに気づくかもしれない。それはつまり、あなたが自分の仕事に与えている意義が、ある段階に達したあと、限界を超え始めていたということである。あなたにとっては、仕事に置く比重が重ければ重いほど、ますます多くのありとあらゆる問題が発生してくることになる。こうした問題発生のすべては当然なこと、つまり仕事の過程で生じた仕方のないことであるとあなたには思えるだろう。しかし、本当は、あなたが自分の「重要性のハードル」を引き下げさえすれば、問題はずっと少なくなるのである。
ここから導き出される結論は一つ。過剰ポテンシャルを解消するために、仕事と自分との関係を意識して見直す必要があるということである。仕事以外で、好きなことに携わることのできる自由時間は、あなたに絶対必要である。休息したり、気分転換したりすることができない人は、仕事もできない。職場に来たら、自分をリースに出すのだ。自分の両手と頭は貸し出すが、心までは譲り渡したりしないように。職場の振り子はあなたのすべてのエネルギーを欲しがっている。しかし、あなたは職場の振り子のために働くことだけを目的に、この世に生を受けたわけではない。自分の過剰ポテンシャルを解消し、振り子から解放されたならば、あなたの仕事の効率は目に見えてよくなることだろう。
自分をリースに出し、非の打ちどころなく活動せよ。つまらないミスをしてはいけない。つまらないミスは、初歩的な怠慢として非難されてしまう。するべきことは、もれなく履行すべし。「自分をリースに出す」とは、だらしなく無責任に働くことを意味するわけでは決してない。それは、過剰ポテンシャルを作らず、執着せずに行動することを意味し、その際、あなたは要求されたことをしっかりとやり遂げなくてはならない。さもないと、不快な出来事が発生することもありえる。たとえば、あなたの周囲には、あなたと違って、仕事づけの人々が必ずいるだろう。彼らは、無意識のうちに、あなたが特段の努力もせず、効率よく働いていることを感じ取っている。こうしたハードワーカーたちは、ライバルがしでかすミスを暴いてやろうと直感的に探し始めるものである。あなたがミスをするやいなや、彼らは待っていたとばかり、あなたに襲いかかる。ミスというのは初歩的なものであればあるほど腹立たしくもなる。たとえば、あなたが遅刻したとか、何かを忘れたとか、見落としたとかというものだろう。もしあなたが仕事にどっぷりと浸かっていたならば、彼らはミスに目をつぶってくれただろう。しかし、仕事づけではなかったあなたがつまらないミスをしたとしたら、仕事に不熱心だとして非難される立場に置かれるのだ。
似たような状況は職場だけでなく、家庭や知り合いとのつき合いでも起こりうる。だから、あなたが自分をリースに出す場合は、いかなる状況においても責められたりしないように、自分の義務をきちんと果たす必要がある。手抜かりがないかどうかは、内なる観察者、つまり見張り役が必要となる。さもないと、再び振り子のゲームに飲み込まれることになってしまう。内なる観察者と述べたが、これは二重人格とはまったく関係がないことだ。距離を置いて眺めてみることで、自分が何をどう行っているのか、あなた自身で気づくだろう。このことについては、第4章以降でまた触れよう。
「一心不乱に自分の仕事をする」ことは必要なのではないか、と異議を唱える向きもあろう。それは仕事次第なのだ。「仕事にのめりこむ」ことが正当化されるのは、唯一仕事があなたの目的である場合だけである。何があなたの目的なのかについては、シリーズ第2巻で述べることにする。もし仕事が目的ならば、それは成功へと導いてくれる架け橋となる。そういう仕事であれば、かえってエネルギーを充填(じゅうてん)してくれるだろうし、喜び、高揚感、満足感などをもたらしてくれる。もしあなたがめったに見ない幸せ者の一人で、自分の仕事について、これこそ目的であると自信を持って宣言できるならば、何も心配はいらない。
以上、述べたことは、勉学にも完全にあてはまる。『リアリティ・トランサーフィン1』 第4章 より ヴァジム・ゼランド:著 監訳:成瀬まゆみ ヒカルランド:刊
出来事をただの「現実」として、そのまま受け取っている限り、エネルギー的にはニュートラル(中立)であり、過剰ポテンシャルは生じません。
ただ、いつも不安や不満などを抱えながら行動していると、それがネガティブな過剰エネルギーとして蓄積します。
その状態を放置しておくと、いずれ振り子として平衡力が働き、大きな問題を引き起こします。
「過剰ポテンシャル」が生まれる状況とは?
では、過剰ポテンシャルが生まれる具体的な状況と、その際に平衡力がもたらす結果は、どのようなものでしょうか。
ここでは、典型的な例として、優越感や劣等感を紹介します。
優越感や劣等感は、純粋な形での依存である。あなたの資質が他の人々と比較されるので、過剰ポテンシャルが作られるのは避けがたい。あなたが自分と他人を比較して自分の優越性を公言しても、密かに自分を祝福しても、エネルギーレベルでは大差がない。しかし、自分の優越性を公言した場合は、周囲から反感以外に何ももたらされないことについては、証明の必要がないだろう。自分を有利にするために自他を比較することは、犠牲にしてまでわざわざ自己肯定を行おうとすることである。こうした姿勢は、もしそれがあからさまな表現ではなく、傲慢さのほんの微(かす)かな影であったとしても、常に過剰ポテンシャルを生み出す。この場合、平衡力の作用は、いつも鼻っ面に一発お見舞いされる形で現れる。
自分を取り巻く世界と比較しながら、自分の存在意義を証明しようとすることは理解できる。だが、比較による自己肯定は幻想にすぎない。このことはハエが窓硝子を突き破ろうとするのに似ている。すぐ隣にある換気用の小窓は解放されている。人が世界に自分の存在意義を知らしめようとすると、人為的に作られた過剰ポテンシャルを維持することのためにエネルギーが使われる。これとは逆に、自己感性は実際の長所を伸ばしてくれるのでエネルギーは浪費されず、有害な過剰ポテンシャルも生まれない。
比較することに使われるエネルギーは取るに足らないと思うかもしれない。しかし実際には、かなり強い過剰ポテンシャルを維持するために大量のエネルギーが使われる。ここで主な役割を果たしているのは、ある方向へエネルギーを向けようとする意図である。もし長所を身につけることを目的としたら、その者はエネルギー場で異質性を形成して空回りすることだろう。世界は勲章のきらめきに”感銘を受けて”平衡力が作用し始める。平衡力の選択肢は狭い。その人を取り巻く世界の褪せた色彩を活気づけるか、またはこの場違いなスターの輝きを吹き消すかのどちらかである。一番目の選択肢を選べば、大変に骨の折れる仕事となる。そうなると、残るは二番目だけである。二番目を実行に移すにあたって、平衡力は有り余るほどの手段を持っている。平衡力はこの野心家から必ずしも勲章を奪い取らなくていい。高慢な鼻をへし折るために、ありとあらゆる腹立たしく不快な出来事を献上することで十分に事足りるのである。
私たちはしばしばさまざまな不快、問題、障害などを、この世界で切り離すことのできない特性として受け入れる。それらは大小さまざまで、一生涯各人から離れずにつきまとっていることに誰も驚かない。私たちの世界がこうであることにみなが慣れてしまっている。本当は、不快なことは異常であって、正常なことではないのだ。それはどこからやってきて、なぜ、他ならぬあなたに起こるのか、しばしば論理的な方法で突き止めようとするのだが、うまくいかいない。不快な事柄の大部分は、あなたまたは周囲の人々によって生み出された過剰ポテンシャルを解消しようとする平衡力の作用によって引き起こされたものなのだ。あなたは自分自身が過剰ポテンシャルを生み出しているとは夢にも思っていない。また、不快な出来事は避けることのできない災いとして受け入れていて、平衡力の仕業であるとは思ってもみない。
もしあなたが過剰ポテンシャルを維持するための膨大な努力から解放されたら、不快な出来事の大半を味わわずにすむ。そうでなければ、膨大なエネルギーを浪費させらさるだけでなく、平衡力を差し向けられることになり、意図していたこととまったく正反対の結果を得ることになる。そんなわけで、いたずらに窓硝子にぶつかっていくハエの真似をすることはやめにして、長所を伸ばす方向へと気持ちを切り替えることが必要である。ことさら優劣を比較して、自分の位置づけに気をもまなくていい。自分の意義を高めるというお荷物を肩から下ろしたら、平衡力の働きから免れるのである。問題は減っていき、それに続いて、自分の力への自信が湧いてくることだろう。
また、自分を取り巻く外の世界を直接コントロールできるという考えは、多少なりとも抱いてはいけない。そうした態度では、社会的地位にかかわらず、あなたは必ず失敗の憂き目にあうだろう。周りの世界を変えようとする試みは、バランスを崩すのである。世界の構造に活発に干渉することは、程度の差こそあれ、多くの人々の利益を損なわせることになる。ところが、トランサーフィンは、誰の利益をも侵害することなく、運命を選ぶことを可能にしてくれる。これは、障害を克服しながら、がむしゃらに行動するよりも、はるかに効率のよい方法である。運命は、あなたが変えることはできないが、選ぶことはできるという意味において、本当にあなたの掌中(しょうちゅう)にある。運命を切り拓こうと奮闘した多くの人々は、敗北を喫(きっ)している。しかし、トランサーフィンでは闘うということがないため、あなたは安心して武器を置くことができる。
その一方で、優越感を放棄することと、自己卑下とはまったく別のものである。自分の長所を卑下することは、マイナス符合のついた優越感なのである。この符号がプラスであるか、マイナスであるかは、エネルギーレベルでは意味がない。発生するポテンシャルの大きさは、評価の値にそのまま比例する。平衡力が重要性と遭遇した場合、平衡力は重要性をもたらされた対象を、祀ってある高所から引きずり下ろす働きをする。過度に低められた資質がある場合、平衡力はあらゆる手段でそれを持ち上げるよう人に仕向ける。通常、平衡力は、人間関係の機微(きび)などにおかまいなく、単刀直入に作用する。そのため人は、不自然に振るまい、かえってそれによって隠そうとするところをずっと強調してしまうことになる。
たとえば、未成年は乱暴に振るまうことによって、自分の自信のなさを埋め合わせようとする。恥ずかしがり屋は、自分の内気な性格を隠そうとして、無遠慮に振るまうことがある。低い自己評価をしている人は、自分の最もよい面を見せようとして、ぎこちなく振るまいがちである。他にも例はたくさんある。いずれにせよ、自分のコンプレックスとの格闘は、コンプレックスそのものよりももっと不快な結末をもたらすのである。
じたばたしてもすべては空(むな)しいことを理解できたと思う。劣等感と闘うのは無益なことだ。不快な結末から逃れる唯一の方法は、コンプレックス自体を解消することである。しかしながら、それは大変に難しい。自分はすべて素晴らしいと自分自身を説得することも無駄である。自分を騙そうとしても、うまくいかない。ここでは「スライド技法」というものが役立つと思うが、それは次巻で紹介することにしよう。
現段階では次のことを明らかにしておくだけで十分だろう。それは、他人の長所と比べて自分の短所を心配することは、じぶんの相対的な優位性を示したいという望みと同じように作用するというものだ。結末は意図したこととまったく逆になる。周りにいる全員が、あなたの長所に対して、あなたが感じているのと同じような意義を与えていると思ってはいけない。本当は、各人はそれぞれ自分自身のことだけを気にしているのだから、その大変なお荷物は肩から降ろして大丈夫である。過剰ポテンシャルは消え去り、平衡力は状況を悪化させることをやめ、解放されたエネルギーは長所を伸ばすことに向けられる。
要するに、自分の短所と闘うことも、それらを隠すこともせず、他の資質で埋め合わせるべきなのである。美貌(びぼう)ではなくても、他の魅力で補うことはできる。容姿端麗(ようしたんれい)とはいえない人々がいる。だが、一緒に話し始めたとたん、魅力にすっかり参ってしまう。肉体的な短所が自分への自信によって補強されているのだ。歴史上、いったい何人の偉人が見栄えのしない風貌をしていたことだろう。
臆(おく)せずつき合うことが苦手であると、聴く能力がそれに取って変わることがある。「誰もが嘘をついているけれどどうってことない。どうせ誰も聞いてないから」とよく言われる。多弁(たべん)なことが人々の関心を引きつけることは稀である。あなた同様、みんなが自分の問題だけで頭がいっぱいなのである。だから、誰もが自分の心情を打ち明けることのできるよい聞き役というのは、本当に貴重な存在である。ところで、恥ずかしがり屋の人には一つ助言することができる。その性格を宝物のように大事にすべきだ! これは本当のことである。内気な性格というのは、隠れた魅力を持っている。あなたが自分の内気な性格と闘うのをやめれば、ぎこちなさが消えて、人々があなたに親近感を抱いていることに気づくことだろう。
もう一つ、埋め合わせの例をあげてみよう。「強い性格でありたい」という不自然な欲求があれば、気性が激しいことで定評のある人のまねをするようになる。思慮分別(しりょぶんべつ)なく他人の台本を模倣するのは、パロディー以外の何物でもない。人はそれぞれ自分の台本を持っている。自分の信条を選択し、それに従って生きていくだけで十分である。気性の激しさで異名を誇る人を模倣するのは、窓硝子に衝突するハエのやり方をまねることと同じだ。
たとえば、未成年者のグループでは、自分の信条に従って生きている者がリーダーになる。彼は、いかに振るまうべきかを誰かに相談する義務から解放されているからこそ、リーダーになれたのだ。リーダーは誰かを模倣することなく、ただ自分にふさわしい価値を定め、何をすべきかを知っていて、誰におもねるでもなく、誰に目にもの見せようかと意気込むこともない。こうして、リーダーは、過剰ポテンシャルから解放され、ふさわしい優越性を得る。どのグループのリーダーになる者も、自分の信条に従って生きている。もし人が過剰ポテンシャルを免れたら、どうしても固守しなければならないものはなくなる。なぜなら、その人の内面は自由で、自分に満足しており、より多くのエネルギーを持っているからだ。他のメンバーと比べての、こうした優越性がその人をリーダーたらしめる。
開け放たれた小窓がどこにあるか、もうおわかりだろうか? 「これはすべて私のことではない。私はこのことで苦しんではいないのだから」と思われるかもしれない。自分を欺(あざむ)くことはやめにしよう。どの人も程度の差こそあれ、自分の周囲に過剰ポテンシャルを発生させる傾向がある。しかし、もしあなたがトランサーフィンの原則に従って行動するならば、劣等感や優越感はあなたの人生から消えてなくなるのだ。『リアリティ・トランサーフィン1』 第4章 より ヴァジム・ゼランド:著 監訳:成瀬まゆみ ヒカルランド:刊
優越感も劣等感も、符号がプラスかマイナスかが違うだけで、実は同じエネルギーです。
優越感も劣等感も、他人との比較から生まれる過剰ポテンシャルです。
それを強く感じれば感じるほど、より大きな平衡力が働きます。
自分に対しても、他人に対しても、つねにフラットな視点を持つこと。
それが何よりも大切だということですね。
「バリアントの流れ」を妨げないこと!
情報は,バリアント空間にマトリックスの形で恒常的に存在
します。
それと同時に、情報構造が因果関係の鎖状に形作られて
いきます。
つまり、因果関係がバリアントの流れを生み出す
ということ。
ゼランドさんは、もしバリアントの流れを妨げなければ、ほとんどすべての問題、とりわけ小さな問題などは、ひとりでに解決されてしまう
と述べています。
解決方法がバリアント空間にすでに存在しているのであれば、強力な知性は用がない。もし厄介で込み入ったことに首を突っ込むわけでもなく、バリアントの流れを邪魔するのでもなければ、解決方法は自然にやってくる。それも、最も適切なものが。最適解は情報フィールドの構造の中にすでに備わっている。実は、因果関係がバリアントの流れの中に個々の小さな流れ、すなわち小川を生み出している。この小川は、物事が原因から結果へと流れるときの最適な道である。バリアント空間にはすべてが存在するが、高い確率で現実化されるのは、まさにこの最も適切であり、最小限のエネルギー消費ですむバリアントである。自然はエネルギーを浪費しない。人は足で歩くのであって、耳を使って歩くのではない。あらゆるプロセスが最小のエネルギー消費で行われるようになっている。そのため、バリアントの小川も、最小限の抵抗ですむように流れている。まさにこの小川にこそ最適な解決方法が存在している。振り子に取り憑かれた理性は、振り子の利益のために行動するようになるため、いつも小川から外れる。言い換えると、理性は厄介なものに首を突っ込む、すなわち単純な問題の複雑な解決方法を探しているということだ。
こうした考察のすべてが、抽象的すぎると思われるかもしれない。しかし、小川の存在がどれほど現実的なものであるか、あなた自身が実践することで納得することができる。小川の存在は、理性にとって本当に豪華な贈り物である。どの問題の中にも、その解決方法への鍵が暗号化されて入っている。一番最初の鍵は、最小限の抵抗で道を進むというものだ。普通、人々は複雑な解決方法を模索する。なぜなら、問題を障害として受け取るからだ。障害は、力を振り絞って克服すべきものと相場が決まっている。だから問題解決に際しては、たまたま近くにあった最も単純なバリアントを選ぶ習慣を、訓練して身につける必要があるのだ。
私たちはみな、何か新しいものを学ぶか、またはすでに知っているお馴染みのことを行うか、どちらかを行わなければならない。ここで問題。両方を最も効果的に行うにはどうすべきか? 答えは単純明快だが、その有効性が信じがたい。それは流れに沿って進むという原則に従って、最も簡単で単純な方法ですべてが行われるようにする、というものだ。
あらゆる行動の最適なバリアントが小川となっている。こうした小川は、最適な因果関係の鎖から構成されている。あなたの行動において、次の一歩を踏み出す決断を下すときに、あなたは次の鎖の輪を選択する。小川の一部を形成しそうな輪はどれなのかを決めればよい。このような場合に、人は何をするかというと、常識と日頃の経験から、最も正しいと思われるものを論理的に決定するのだ。
理性が意思決定を行う。理性は、すべてを予想して説明する能力が、自分に備わっていると考える。だが、そうではない。別のやり方があったと後で気づいて、はっとしたりすることが何度あったことか。これはあなた自身が証明できるだろう。注意散漫であったとか、頭の切れがいま一つであったとかの問題ではない。理性は常に最適なバリアントを選ぶとはかぎらないのだ。なぜなら、小川の鎖は理性の論理的思考体系と常に合致しているわけではないからである。
論理的な結論だけを用いて、最適な行動のバリアントを選択することは、いくら努力しても稀にしかできない。通常、理性はストレス、心配事、躁鬱状態による圧力を受けている。言い換えると、理性は常に振り子からゆさぶられているのだ。そのため、いつも理性はあくまで自分の考えを押し通そうとして、外の世界への正面攻撃を強行する。
小川の次の鎖を選ぶには、ただ振り子の糸から解放されて、この小川に素直に従うだけでいい。すなわち、バランスの取れた状態を保ち、過剰ポテンシャルを作らない必要がある。過剰ポテンシャルを作らないようにするには、常に重要性のレベルをチェックしなければならない。
周囲の世界とバランスが取れれば、小川にただ従うだけでよい。あなた自身を導こうとするたくさんの「サイン」を見かけることだろう。状況から少し距離を置き、参加者ではなく、外から見守る観察者になろう。奴隷でも、主人でもなく、ただの実行者になるのだ。理性が「合理的な」意志決定をしようと腰を上げそうになったら、自分に教えてくれるように内なる見張り役に命じておこう。実行者として自分をリースに出す、すなわち、自分の両手と頭は貸し出しても、心は常に解放しておき、自分自身はその仕事ぶりを外から観察するのだ。すべては、思ったよりもずっと簡単にできる。この簡単なやり方に身を委ねよう。滝つぼへと導くのは理性であって、バリアントの流れではない。
たとえば、あなたはある品物を手に入れる必要があるとしよう。しかし、どこでそれが売っているのかわからない。理性は最も合理的だが、ややこしいバリアントを耳打ちする。あなたは町の大半を探し回ったあげく、その欲しい物を自宅の隣で見つけることができた。もし目標の重要性を引き下げていたら、理性はこんな手間のかかる解決方法を考え出すことはなかっただろう。
別の例をあげよう。あなたの目の前に、やらなければならない仕事のリストがある。手始めに何を選び、次に何をやるのか。考える必要はない。もし順番が基本的に重要な意味を持っていないのであれば、手あたり次第にこなしていけばよいだけだ。小川とともに進み、自分の理性を振り子の影響から解き放つのだ。波に翻弄されるままの笹舟になれという話をしているのではない。水面を両手でばしゃばしゃと叩きつけることでもない。あなたにとっては簡単なはずのちょっとした泳ぐ動作を行えば、それで十分ということなのだ。
私はこれ以上の例をあげるつもりはない。たとえ一日でも流れに沿って進むことを試してみたならば、自分にとって有益で驚くべきことをたくさん発見することだろう。あなたが何らかの解決策を見つけ出さなければいけないときは、解決策を模索するのにどの道が一番簡単か、そのつど自分に問いかけてみよう。そして、一番簡単な道を選ぼう。もし誰かが、何かが、あなたをその道から引き離そうとしたり、または道を迷わせようとしたら、そのたびに焦って激しく抵抗したり身をかわしたりしようとしてはいけない。自分をリースに出して、これからどうなるのか、しばらく様子を見てみよう。何かをしなければならないときには、それをするのに一番簡単なやり方はどれか、そのたび自分に問いかけよう。物事は一番簡単な方法で処理されるようにしよう。あなたに何かを提案する人がいたり、または自分の見解を示そうとする人がいたら、そのたびに慌てて断ったり、口論したりするのはやめよう。ひょっとすると、あなたの理性は、それが自分に役立つことであったり、別の選択肢であったりすることを、まだ理解していないのかもしれない。内なる観察者の働きを活発化させよう。まずは観察し、行動はそれからにしよう。観客席へ降りて行っても、急いでその場を取り仕切ろうとはせず、ゲームが可能なかぎりひとりでに展開できるところまでは観察していよう。水面を両手で激しく叩きつける必要はない。あなたの人生が流れに沿って進むことを阻んではいけない。これでどれほど楽になるか、あなた自身が知ることになる。それにしても、迫り来る滝や暗礁などと小川の中にある通常のカーブとを、どうやって見分けたらよいのだろう。取り巻く世界におけるそのような判断の際には、十分に知覚可能な標識を利用することができる。世界はいつも私たちにこうした標識を与えてくれる。
最もよく知られている標識としては、言い伝えがある。よい言い伝えもあれば、悪い言い伝えもある。虹を見たら、それは吉報である。黒猫が道を横切ったら、災いが待ち受けている。こう考えるようにと言われている。一般に受け入れられている言い伝えは、幾度もの観察と比較考察の結果、できあがったものだ。もし言い伝えがそのとおりになる確率が十分に高いのなら、そこに世論が認める法則性があるのだろう。なぜなら、人々は不思議な現象についていつも話題にするからだ。しかしながら、言い伝えがそのとおりになることは滅多にない。なぜだろう?
人が忘れ物をして、戻らないといけないときに、よくないことが起こる、というロシアの言い伝えがある。その言い伝えを信じている人もいるし、信じていない人もいる。だが、社会が共有しているしつこい固定観念は、いずれにせよ潜在意識に何らかの影を投げかける。何かよくないことが待ち受けているのではないかという気持ちが芽生えるのだ。そして、鳥に戻ることはやめよう、そのその人は思い直す。しかし、そう思っても気休めにはならない。なせなら、さっきまで規則正しかった流れはすでに乱れ、その人は平衡状態から幾分外れてしまったからである。災いがどこかで起こるかもしれないという思いで思考放射のパラメーターに修正が加わり、その人は修正後のパラメーターに対応する人生ラインへと移動する。その人は危惧していたことを受け取る。自分の台本にそうした可能性が入り込むことを、その人自身が容認してしまった。まさにそのために、言い伝えのとおりになる確率は高まるのだ。
このように、一般に広く受け入れられている言い伝えは、それ自体としては、法則になるどころか、法則性すら見出すことができない。どうして黒猫が、私たちの人生に何らかの影響を及ぼしうるのか。影響を及ぼすのは黒猫ではなく、言い伝えに対するあなたの反応のほうである。もしあなたが言い伝えを信じるならば、言い伝えはあなたの人生の形成に関与してくる。もし信じない気持ちが払拭しきれないというのなら、言い伝えの影響力は弱まるが、とにかくそれでも残ることになる。もし全然信じないし、注意も払わないというのであれば、言い伝えはあなたの人生に何の影響も与えない。すべては非常に単純なことである。つまり、自分の人生の台本に入り込むのを容認したものを、あなたは受け取る、ということなのだ。言い伝えをただの迷信としてとらえる人は、自分の世界の層で、その迷信が実現されそうな予兆を何も感じない。しかし言い伝えは、他の人々の世界の層では確かに現実化する。なぜなら、そうした人々はそのとおりになったという何らかの証拠を見つけ出そうとするからである。しかし、信じない人には、そんな証拠など何もないことになる。
もし言い伝え自体が人生に影響を与えないのであれば、標識についての話をしても意味はない。黒猫は影響を与えないかもしれないが、それはバリアントの流れの途中で発生する事柄について警告する標識なのかもしない。問題は、どのようなものを標識と考えてる事柄について警告する標識なのかもしれない。問題は、どのようなものを標識と考えていいのかという点に尽きる。観察してみると、周囲で起こっていることすべてが標識に思えてくるからだ。それらをどうやって解釈すればよいのだろう。ここでは標識の解釈の仕方には取り組まないでおこう。それは非常に不確かでわかりづらく、そうする甲斐のない作業になるからだ。唯一実行できることは、標識を参考として受け入れ、内なる観察者の警戒心を高め、注意深くなることである。
そもそもバリアントの流れにカーブがあるかもしれないことを示してくれるものが、標識だ。言い換えると、標識とは、人生の規則正しい流れに、はっきりと感じられるような変化をもたらす事象の前兆のことである。もしあなたがたとえわずかでも、なにがしかのカーブを望んでいるとしたら、そのことについて合図を送ってくれる標識が現れるだろう。もしあなたが避けたいと思っているカーブが迫ってきたら、やはり何らかの特徴的な標識が現れるだろう。では、特徴的とはどういうことを意味するのだろう。
実は、バリアントの流れが曲がるときに、あなたは他の人生ラインに乗り移るのである。乗り移る先のラインは、多少の違いはあるだろうが、人生の質という点では、似たり寄ったりであることを思い出していただきたい。バリアントの流れの中にある小川は、さまざまなラインを横切っているかもしれない。人生のラインは、パラメーターによってそれぞれ違いがある。変化は気づかないほどかもしれないが、とにかく違いが感じられる。この質の違いについては、ちょっと前と何かが違うようだと、意識的に、または無意識にあなたは気づくのだ。
このように別の人生ラインへと移行が始まるときだけに、標識は現れる。個々の現象に注意を払わなくてもよい。たとえば、カラスが「カア」と鳴いても、それがあなたに警戒心を呼び起こすことにはならず、質的な違いを感じていないのであれば、つまり、あなたは依然としてもとの人生ラインにいるということだ。しかし、もし現象に注意を向け、そこに普段とは違う変わったものを感じたら、それは標識なのかもしれない。
標識とは、本質的に異なる人生ラインへの移動が始まったことについて、いつも信号を送ってくれるという点で、普通の現象とは異なる。別のラインへ移動した後、すぐに起こる現象は、通常、警戒心を引き起こすものである。なぜなら、ラインどうしが質的にはっきりした説明のつかない特徴もある。どこかいつものようでないような感じ、というようなものだ。ラインの乗り換えが終わったら、私たちはこれを直感的に感じる。標識によって明確な変化を見つけることもある。私たちは、流れの中に何か新しいものが現れると、ちらりと目にするか、うすうす勘づくものだ。標識というのはお知らせ看板であり、何かが変化したとか、何がか起きているということを、私たちに教えてくれる。
通常、今いる人生ラインで起こっている現象は、警戒心を引き起こしたりはしない。それは今起こった現象が同じ人生ライン上にある他の現象と質的に同じだからである。とはいえ、人が周りで起こっていることのすべてを無視すると、明確な標識にも気づかないことになる。本質的に異なるラインへの移動は、途中にあるラインを経由して、通常は段階的に行われる。途中にあるライン上における標識は、さまざまなレベルの警戒警報として現れることがある。最初の警報を無視することはよくある。移動が続けられ、二回目の警報が出て、その後、三回目が発せられる。もしこの後も警報が止まらないとしたら、最終ラインで起こるべきことが起こるということである。
すでに述べたように、標識を一つの解釈だけに絞ることは非常に難しい。あなたの注意を引きつける現象が標識となるかどうかについて、確信はありえない。しかし、世界が何かを伝えたいということを、参考までに受け入れることだけはできる。私たちに関心があるのは、迫り来る暗礁や早瀬である。先に何が待ち構えているのか、ヒントだけでももらいたくなることがときどきある。そんなときは、「はい」や「いいえ」という具合に、両方の極性のどちらかを帯びた答えを得られるような質問を作ってみよう。たとえば、うまくいくか否か、間に合うか否か、やりおおせるか否か、よいか悪いか、危険か否か、等々である。標識の解釈は「肯定的」または「否定的」という答えにつながるヒントにまで、簡略化させる必要がある。だが、高い精度を期待してはならない。
標識は迫り来るカーブの質へのヒントを帯びている。もし標識が心地悪い感じを伴うのであれば、それは不安、不信、不快、懸念、ネガティブな驚きといった感情を私たちに吹き込んでくれる。つまり、その標識は先行きの暗転について信号を送ってくれていることになる。もしその感じがいろいろな意味に取ることができる場合、評価しても信頼できないので、標識を解釈する意味がない。いずれにせよ、ひどく心配したり、その標識に大きな意味づけをするには及ばない。しかしながら、もしあなたがある標識に注目したのなら、無視するべきでもない。ひょっとすると、その標識には警告が含まれているかもしれない。したがってもっと注意深くするよう心がけ、自分の行動を変え、ほどよい頃合いに立ち止まり、または別の方向性を持つ行動を選択したりする必要があるだろう。
標識にはありとあらゆる形態がある。肯定的か否定的か、どちらの意味をその標識が持っているのか、見極めることだけは必要だ。例をあげよう。私が道を急いでいると、杖をついた老婆が私の行く手を塞いだ。そして、私はどうしても老婆を迂回することができない。このような標識は何を意味しているのだろう。きっと私は遅刻する。または、私の乗るバスが普段はゆっくり運行されるのに、今日にかぎってはなぜか猛スピードを出す。私がどこかで無茶なことをするので、用心する必要があるということだろうか。それとも、考えていたことがどうしても実行できず、何か厄介な障害が発生し、事がはかどらないという意味だろうか。私は行き止まりになっている道を選んだので、そこへ行ってはならないということなのかもしれない。
標識の主なメリットは、悪夢が現実となる前に、タイミングよくあなたの目を覚させ、破壊的振り子のために行動している自分が損失を被ってしまうことを悟らせてくれる点にある。しばしば人は、振り子による麻酔でゾンビ化され、破滅をもたらすような間違いをしでかす。そして、後になってから、あのときは自分の行為の意味を理解せず、警戒心を失っていたことを思い出す。このような場合、たわいない標識を警報として解釈することは、余計でことではないだろう。起こっていることへの用心深さとして、意識的に冷静になることは、決して妨げにはならない。しかし用心するあまり、不安感や猜疑心(さいぎしん)に駆られることのないようにすることが肝腎である。不安に陥ることなく、気を配る必要がある。自分をリースに出しつつ、非の打ちどころのないよう、行動しよう。
奇妙に思われるかもしれないが、最も明確で核心をついている標識は、人の発言である。それも、前もって用意されたものではない、偶然、自然に発せられた言葉である。もしあなたが強制的に意見を押しつけられたのなら、それは聞き流してもいい。しかし何気なく発せられた言葉が、何かを行うとか、どう行動するかなどについてのアドバイスだったら、真摯(しんし)に対応するべきである。
何気なく発せられた言葉は、よく考えられた上でのものではない。あなたが誰かのヤジに対して、あれこれ考えず、文字どおり瞬時に反応したときのことを思い出していただきたい。答えはあたかもどこか意識の深みですでに存在していたかのように、理性による分析官を経由することなく、あなたの唇(くちびる)から飛び出してきたものだ。これと同じような形で、何気ない言葉も、理性がまどろんでいたり、他のことに気を取られている隙(すき)に、発せられるのだ。理性がまどろんでいると、魂が口を開く。ちょうどそのとき、魂は情報フィールドに直接に接触しているのだ。
たとえば、たまたまあなたは、「マフラーをしなさい。風邪を引いてしまいますよ」と言われたとする。この言葉に従わなかったら、たぶん後悔することになるだろう。こんなこともある。あなたがある問題について心配していると、誰かが何かのついでにあなたにとってたいした意味のないアドバイスをした。むげに断らないで、耳を傾けてみよう。こんなのはどうだろう。あなたは自分が正しいことに自信があるのだが、誰かが何かの機会にそうではないことを何気なく示してくれたとしよう。強情を張らないで、周りをよく見るべきだろう。あなたは両手で水面を叩きつけてはいないだろうか。
魂の不快も、非常に顕著な標識ではあるが、通常私たちはそのことにあまり注意を払わない。もし決断を下す必要があるならば、それをどうすべきか、あなたの魂ほどよく知っているものは他にはない。あなたの魂が本当は何を伝えたいのか、理解に苦しむことがしばしばある。しかし、すでに述べたように、魂は理性の決断を気に入っているのかいないのか、明確に判断することは十分に可能である。
さて、ここであなたは何らかの決断を下す必要があるとする。立ち止まって、明け方の星々のさざめきに耳を傾けてみよう。もし理性が決断を下した後で、星々のさざめきのことを思い出したら、決断を下したときに、どのような気分になったか、記憶をたどってみよう。そのときの感情を「気分がよい」または「気分が悪い」というように特徴づけることができる。もしあなたがしぶしぶ決断したり、そのあと重苦しい状態になったりしたのであれば、それは「悪い」ということが明らかである。このような場合、すでに下した決断が変更可能ならば、勇気を出してそうすべきである。
魂の快適さを判定することは難しいことではない。難しいのは、自分の気持ちに耳を傾けることを手遅れにならないうちに思い出すことである。なぜなら、理性は権威を振り翳しながら思案を巡らし、自分以外に誰の意見も聞こうとはしないからだ。常識が大声をあげるために、魂のつぶやきがかき消されてしまうだけではない。理性は常にあらゆるところで自分の正当性を裏づけたり、証明したりしようと躍起になっている。
さて、あなたは「はい」か「いいえ」の選択に迫られているとしよう。魂は遠慮がちに「いいえ」と言って反対しようとしている。理性は魂が「いいえ」といっていることは理性の答えである「はい」の理論武装にみがきをかける。この数行を読んだら、自分の記憶の片隅に置いてもらって、次に判断を下す際にぜひ思い出していただきたい。すべてはまさにこのとおりであると納得されることだろう。
あなたの魂が「いいえ」と言っていることを判定するための、単純だが、確かな手法をしっかりと覚えておいていただきたい。もしあなたが自分自身を納得させたり、説き伏せたりして「はい」と言わなくてはならないのであれば、魂は「いいえ」と言っている。あなたの魂が「はい」と言っているとき、あなたには自分自身を説得する必要がない。この手法については次巻でまた触れたいと思う。『リアリティ・トランサーフィン1』 第6章 より ヴァジム・ゼランド:著 監訳:成瀬まゆみ ヒカルランド:刊
意図したこと、望んだことが実現しないのは「バリアントの流れ」に逆らっているから。
バリアントは、私たちが進むべき方向を、現実世界に“標識”として示してくれます。
例えば、ふと目についたり、ふと耳に入ったりしたこと、ふと思いついたこと。
そんな生活の中の何気ないことに、バリアントからのメッセージが隠れています。
人生という旅路も、“標識”を見逃さず、自分の思い通りに安全運転で進みたいですね。
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☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
「現実のほとんどは、自分ではコントロールできないもの」
「自分の力では、どうにもならないことが、この世にはある」
私たちの多くは、そのように思い込んでいますが、それは「現実がいかにして創り出されるのか」のメカニズムを知らないことが理由です。
「トランサーフィン」は、まさにこの現実世界(目に見えない世界も含めて)の仕組みを、ものの見事に解説してくれます。
バリアント空間、振り子、過剰ポテンシャルなど、なじみのない言葉が出てきますが、その概念はそれほど難しくありません。
それらの言葉を一つひとつ理解して、トランサーフィン全体を眺めてみると、この宇宙は実にシンプルな原理に従っていることに気づきます。
少々とっつきにくいところがありますが、理解できると、この世界を眺める視点が、まったく変わります。
現実を理解し、コントロールし、思いのままに創り出す。
本書は、まさにそんな“魔法の書”のような一冊です。
ぜひ、皆さんも手にしてみてください。
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【書評】「なぜ、J-POPは世界の心をつかむのか」(久道りょう) 【書評】「私が間違っているかもしれない」(ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド)