本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健)

 お薦めの本の紹介です。
 岸見一郎先生と古賀史健さんの『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』です。

 岸見一郎(きしみ・いちろう)先生は、哲学者、心理学者です。
 ご専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、30年以上にわたってアドラー心理学を研究されています。

 古賀史健(こが・ふみたけ)さんは、フリーランスライターです。
 書籍のライティング(聞き書きスタイルの執筆)を専門とし、ビジネス書やノンフィクションで数多くのベストセラーを手掛けるなどご活躍中です。

必要なのは、「世界を直視する勇気」

 アルフレッド・アドラー(Alfred Adler、1870 〜1937)は、フロイト、ユングとともに「心理学の三大巨頭」と称される、オーストリアの心理学者であり哲学者です。

 その思想の根本は、人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれるというもの。

 私たちには矛盾に満ちた混沌(こんとん)のように感じる世界も人生も、それは「世界」が複雑なのではなく、ひとえに「あなた」が世界を複雑なものとしているだけです。

 ひとつしかない世界でも、一人として同じとらえ方をしている人はいません。
 つまり、世界が複雑なのは、「人の数だけ世界がある」からです。

青年 どういうことです? 先生もわたしも同じ時代、同じこの国に生きて、同じものを見ているじゃありませんか。
哲人 そうですね、見たところあなたはお若いようですが、汲み上げたばかりの井戸水を飲んだことはありますか?
青年 井戸水? まあ、ずいぶん昔のことですが、田舎にある祖母の家が井戸を引いていました。夏の暑い日に祖母の家で飲む冷たい井戸の水は、大きな楽しみでしたよ。
哲人 ご存じかもしれませんが、井戸水の温度は年間を通してほぼ18度で一定しています。これは誰が測定しても同じ、客観の数字です。しかし、夏に飲む井戸水は冷たく感じるし、冬に飲むと温かく感じます。温度計では常に18度を保っているのに、夏と冬では感じ方が違うわけです。
青年 つまり、環境の変化によって錯覚してしまう。
哲人 いえ、錯覚ではありません。そのときの「あなた」にとっては、井戸水の冷たさも温かさも、動かしがたい事実なのです。主観的な世界に住んでいるとは、そういうことです。われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり、自分の主観から逃れることはできません。
 いま、あなたの目には世界が複雑怪奇な混沌として映っている。しかし、あなた自身が変われば、世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです。
青年 わたしがどうであるか?
哲人 そう。もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているのかもしれない。そこから見える世界が暗くなるのは当然です。だったら、暗い世界を嘆くのではなく、ただサングラスを外してしまえばいい。
 そこに映る世界は強烈にまぶしく、思わずまぶたを閉じてしまうかもしれません。再びサングラスがほしくなるかもしれません。それでもなお、サングラスを外すことができるか。世界を直視することができるか。あなたにその“勇気”があるか、です。
青年 勇気?
哲人 ええ、これは“勇気”の問題です。

 『嫌われる勇気』 嫌われる勇気 より  岸見 一郎、古賀史健:著 ダイヤモンド社:刊

 アドラー心理学は、別名「個人心理学」とも「勇気の心理学」とも呼ばれています。

 幸福も、不幸も、すべて自分が「どう見ているか」という主観がすべて。
 どれだけ強烈な過去の体験も、人生を決定づける要因にはなり得ない。
 すべては、世界を直視する“勇気”を持つことができるかどうかにかかってる。

 アドラーの思想は、私たちに「自分自身と真剣に向き合うこと」を容赦なく迫ってきます。

 本書は、“劇薬”でもあるアドラーの思想を「青年と哲人の対話篇」という物語形式を用いてドラマチックに描いた一冊です。
 著者は、アドラー心理学は、「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに、極めてシンプルかつ具体的な“答え”を提示するものだと強調しています。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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人は常に「変わらない」という決心をしている

 アドラー心理学は、フロイト的な「トラウマ(心に負った傷)」の存在を完全に否定しています。
 哲人は、自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのであると述べています。

 たとえば、「自分は過去の出来事のために不幸だ」と思っている人は、「出来事」そのものために不幸なのではありません。
 その出来事に「不幸だ」という意味を与え続けたために、不幸な状態のままだということ。

 今の自分が、「経験」そのものではなく「経験に与える意味」によって成り立っている。
 ならば、その「経験に与える意味」を変えることで、自分自身を変えることができます。

 アドラー心理学では、人の性質や気質のことを「ライフスタイル」と呼んでいます。
「ライフスタイル」という言葉には人生における思考や行動、世界観や人生観という意味も含みます。

「ライフスタイル」は自ら選択するもので、いつでも新しく選びなおすことが可能です。
 つまり、あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからということ。

哲人 人は常に自らのライフスタイルを選択しています。いま、こうして膝を突き合わせて話しているこの瞬間にも、選択しています。あなたはご自分のことを、不幸な人間だとおっしゃる。いますぐ変わりたいとおっしゃる。別人に生まれ変わりたいとさえ、訴えている。にもかかわらず変われないでいるのは、なぜなのか? それはあなたがご自分のライフスタイルを変えないでおこうと、不断の決心をしているからなのです。
青年 いやいや、まったく筋の通らない話じゃありませんか。わたしは変わりたい。これは嘘偽りのない本心です。なのにどうして変わらない決心をするのです!?
哲人 少しくらい不便で不自由なところがあっても、いまのライフスタイルのほうが使いやすく、そのまま変えずにいるほうが楽だと思っているのでしょう。
 もしも「このままのわたし」であり続けていれば、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。いわば、乗り慣れた車を運転しているような状態です。多少のガタがきていても、織り込み済みで乗りこなすことができるわけです。
 一方、新しいライフスタイルを選んでしまったら、新しい自分になにが起きるかもわからないし、目の前の出来事にどう対処すればいいかもわかりません。未来が見通しづらくなるし、不安だらけの生を送ることになる。もっと苦しく、もっと不幸な生が待っているのかもしれない。つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。
青年 変わりたいけど、変わるのが怖ろしいと?
哲人 ライフスタイルを変えようとするとき、われわれは大きな“勇気”を試されます。変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」。きっとあなたは後者を選択されたのでしょう。
青年 ・・・・いま、また“勇気”という言葉を使われましたね。
哲人 ええ。アドラー心理学は、勇気の心理学です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ“勇気”が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。

 『嫌われる勇気』 第一夜 より  岸見 一郎、古賀史健:著 ダイヤモンド社:刊

 変われないのではなく、自分自身で変えないことを決断し続けているだけ。
「変わる」ということは、何らかのリスクを負わなければならないものです。

「変われない」というのは、そのリスクを引き受ける勇気がないことに対する“言い訳”に過ぎません。
 文句やグチを言いながらも、今いるところから離れないのは、現状に満足しているからといえます。

 

自慢する人は、劣等感を感じている

 人は無力な存在としてこの世に生を受けます。
 そしてその状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。
 アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。

 優越性と対をなすの言葉が「劣等感」です。
 劣等感とは、理想に到達できてない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱くこと。

 アドラーが、「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と語っているとおり、劣等感それ自体は誰もが抱く感情で、問題ではありません。

 ただ、劣等感を取り除こうという一歩を踏み出す勇気をくじかれてしまう人たちもいます。
 彼らは、「どうせ自分なんて」とあきらめの気持ちを抱え込んでしまいます。
 哲人は、そのような屈折した感情を「劣等コンプレックス」と呼んでいます。

「劣等コンプレックス」と「劣等感」はまったく別ものです。
 劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のことで、「AだからBできない」といっている人は、Aさえなければ、わたしは有能であり価値があるのだ、と言外に暗示しています。

 劣等コンプレックスは、もうひとつの特殊な心理状態に発展していくことがあります。
 それが「優越コンプレックス」と呼ばれるものです。

青年 優越コンプレックス?
哲人 強い劣等感に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段によって補償する勇気がない。かといって、「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。「できない自分」を受け入れられない。そうなると人は、もっと安直な手段によって補償しよう、と考えます。
青年 どうやって?
哲人 あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽(いつわ)りの優越感に浸るのです。
青年 偽りの優越感?
哲人 身近な例として挙げられるのが、「権威づけ」です。
青年 なんですかそれは?
哲人 たとえば自分が権力者——これは学級のリーダーから著名人まで、さまざまです——と懇意であることを、ことさらアピールする。それによって自分が特別な存在であるかのように見せつける。あるいは、経歴詐称(さしょう)や服飾品における過度なブランド信仰なども、ひとつの権威づけであり、優越コンプレックスの側面があるでしょう。いずれの場合も「わたし」が優れていたり、特別であったりするわけではありません。「わたし」と権威を結びつけることによって、あたかも「わたし」が優れているかのように見せかけている。つまりは、偽りの優越感です。
青年 その根底には、強烈な劣等感があるのですね?
哲人 もちろん。わたしはファッションに詳しいわけではありませんが、10本の指すべてにルビーやエメラルドの指輪をつけているような人は、美的センスの問題というより、劣等感の問題、つまり優越コンプレックスの表れだと考えたほうがいいでしょう。
青年 たしかに。
哲人 ただし、権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。ここは強く指摘しておかねばならないところです。

 『嫌われる勇気』 第二夜 より  岸見一郎、古賀史健:著 ダイヤモンド社:刊

 肩書をかさに威張っている人やブランド品に身を包んで自慢している人。
 彼らは、偽りの優越感に浸っている存在で、その根底には強烈な劣等感が存在します。
 自分に自信がないから、自分以外の権威あるものに頼ろうとするわけです。

 「優越コンプレックス」と「劣等コンプレックス」。
 他者の価値観を生きる人生から脱して、自分自身の人生を生きるためには、この二つは自分の力で絶対に乗り越えなければなりません。

「ほんとうの自由」とは何か?

 人間が「他人から認められたい」と思うこと、つまり「承認欲求」は本能的な欲望です。
 しかし、本能的な欲求に従って生きることは「自由」ではありません。

「承認欲求」が自然な欲望であったとしても、それを満たすことを人生の目的にしてはいけません。
 哲人は、ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度だと強調します。

哲人 何度もくり返してきたように、アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。ここまで考えれば、「自由とはなにか?」の結論は見えたも同然でしょう。
青年 なんですか?
哲人 すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。
青年 な、なんですって!?
哲人 あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。
青年 い、いや、しかし・・・・。
哲人 たしかに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。
 自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。
青年 違う! ぜったいに違う! そんなものは自由なんかじゃない! それは「悪党になれ」とそそのかす、悪魔の思想だ!
哲人 きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
青年 ・・・・先生は、わたしに「他者から嫌われろ」と?
哲人 嫌われることを怖れるな、といっているのです。

 『嫌われる勇気』 第三夜 より  岸見一郎、古賀史健:著 ダイヤモンド社:刊

 自分を押し殺して人のために尽くしても、すべての人から好かれることは不可能です。
 生きていく限り人間関係からは逃れることはできませんから、「承認欲求」は大きな足かせです。
 求めれば、求めるほど、身動きがとれなくなってしまいます。

 人間社会という組織の中で、自由に生きるためには承認欲求に振りまわされないこと。
「他者から嫌われても構わない」という強い信念を持つ以外に方法はないということですね。

「いま、ここ」を真剣に生きる

 哲人は、人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那(せつな)だと述べています。
『人生を「線」ではなく、「点」の集合としてとらえよ』とのこと。

 目的地を定めて、そこを目指す人生を「キーネーシス的(動的)な人生」、哲人のいう“ダンスを踊るような人生”は「エネルゲイア的(現実活動態的)な人生」と呼びます。

 キーネーシスとは、始点があって、終点があるような運動のことです。

 一方、エネルゲイアとは、「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きのことです。
 言い換えると、過程そのものを、結果と見なすような動きです。

 無心に「ダンスを踊る」ことは、エネルゲイアの典型ですね。

哲人 目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。
青年 真剣だけど、深刻ではない。
哲人 ええ。人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。
 そしてもうひとつ覚えておいてください。エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生はつねに完結しているのです。
青年 完結している?
哲人 あなたも、そしてわたしも、たとえ「いま、ここ」で生を終えたとしても、それは不幸と呼ぶべきものではありません。20歳で終わった生も、90歳で終えた生も、いずれも完結した生であり、幸福なる生なのです。
青年 もしも、わたしが「いま、ここ」を真剣に生きていたとしたなら、その刹那はつねに完結したものである、と?
哲人 そのとおりです。ここまでわたしは、何度となく人生の嘘という言葉を使ってきました。そして最後に、人生における最大の嘘はなにかをお話ししましょう。
青年 ぜひ教えてください。
哲人 人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。あなたはこれまで、「いま、ここ」から目を背け、ありもしない過去と未来ばかりに光を当ててこられた。自分の人生に、かけがえのない刹那に、大いなる嘘をついてこられた。
青年 ・・・・ああ!
哲人 さあ、人生の嘘を振り払って、怖れることなく「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てなさい。あなたには、それができます。
青年 わたしに、わたしにそれができますか? 人生の嘘に頼らず、この刹那を真剣に生き切る“勇気”が、このわたしにあると思われますか?
哲人 過去も未来も存在しないのですから、いまの話をしましょう。決めるのは、昨日でも明日でもありません。「いま、ここ」です。

 『嫌われる勇気』 第五夜 より 岸見一郎、古賀史健:著 ダイヤモンド社:刊

「過去」にも「未来」にも引きずられない生き方。
 それは、「今」この瞬間を生きることしかありません。

「今」この瞬間にできることに全力を傾けること。
 それが、最高の自由であり、幸福な人生です。

 この刹那を真剣に生き切る勇気、ぜひとも手に入れたいですね。

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 社会で生きていく以上、周囲の人間との関わりは避けては通れません。
 自分の気持ちを押し殺して、周囲の人間に合わせようとすればするほど、身動きがとれなくなります。

 アドラー心理学は、社会の枠組みの中で生きることと自分らしく幸せに生きることの両立は可能で、それは誰でも今この瞬間にも達成することができると力強く説いています。

 そのために必要なことは、ただひとつ。
「嫌われる勇気」をもつこと。

 自由であることは、孤独であることの裏返しです。
 たとえ誰からも認められなくても、自分の気持ちに正直に生きる。
 そう決心できた人は、最高に自由で、最高に幸せですね。

「自分を変えることができるのは、自分自身だけ」

 全編にわたってそう強く訴えかけてきます。
 アドラー心理学という“劇薬”を飲み込む覚悟があるか。
 読み手が、まさに“勇気”を試される最高に刺激的な一冊です。

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One thought on “【書評】『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健)

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