本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『叱られる力』(阿川佐和子)

 お薦めの本の紹介です。
 阿川佐和子さんの『叱られる力 聞く力 2』です。

 阿川佐和子(あがわ・さわこ)さんは、エッセイストです。
 雑誌の連載やテレビ番組でレギュラー出演されるなど、多方面でマルチにご活躍中です。

誰もが「叱られる」ことを恐れる時代

 普段聞き手である阿川さんは、『聞く力』の大ヒットにより、立場を反転させて雑誌やテレビのインタビューを受ける側にまわることも多くなりました。

 阿川さんは、さまざまな取材に応じるなかで、ある考えに行き着きます。
 それは「誰もが対人関係に恐れを抱いているのではないか」という疑念です。

 どんな相手とも面と向かうことを避け、仲良くなりすぎることに警戒し、傷つくことを恐れて身を固めてしまう。
 その一方で、一人になることには心底、恐怖を抱いてしまう。

 そんなジレンマを多くの人が抱えています。

 阿川さんは、その様子をまるで殻に閉じこもった小動物が小さな穴から遠慮がちに外を覗(のぞ)いて、恐る恐る外界と接しているかのようだと表現しています。

 どうしてこういう事態になったのか。
 実際のところはどうなのか。

 阿川さんらしい、ユーモアとウイットに富んだ文章で、多くの日本人の悩みに鋭く切り込みます。

 本書は、「他人とのつきあい方」について、阿川さん自身の経験やさまざまな立場の人への取材を通して得たヒントをもとに解釈しまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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阿川流「怖い人」とのコミュニケーション術

 阿川さんは、テレビの仕事を始めたばかりの頃、出演している番組のボスを怖がって、目も合わさずにひたすら避けていました。

 あるとき、その番組のアナウンサーだった小島一慶さんから「明日から、用がなくても、いつもボスの隣に座るようにしなさい」と命じられました。

 怖い人の隣なんか、用事があったって近づきたくないと思っているのに、用事がなくてもそばに寄れなんて、そんな酷な。いやだなあ。でも先輩の命令です。従わないわけにはいかない。そこで及び腰ながら、翌日の深夜の生番組が終わってスタッフルームへ戻るたび、怖いボスの隣の席につき、「お茶」と言われればお茶を淹(い)れ、ビールのグラスが空になったらお酌をし、ボスの新聞記者時代の体験談や中東戦争の歴史話などに、よくわからないけれど必死で耳を傾けるよう心がけました。耳を傾けたところで、理解できるわけではないですが、わかったふりをしてたまに頷(うなず)いてみたりする。すると恐ろしいことに、ボスがときどき私に顔を向け、
「な?」
 同意を求めてこられるのです。ギョ。怖いけれど微笑み返すしかないでしょう。でもそのときのボスの顔は、なぜか穏やか。本番前の眉間に皺(しわ)が寄った厳しい表情とは明らかに違います。そのうち、「なんだか腹が減ってきたな。うどんでも食いにいくか? どうだい、サワコちゃん」と私を誘ってくださるようになったのです。画期的なことです。
 そもそも私がボスを避けていたのは、私が怖がっていただけではなく、おそらくボスは私のことを嫌いだろうと私が思い込んでいたからです。でももしかして、そんなに私を嫌いではないのかな。そんなふうに思ったとたん、私自身の恐怖心がしだいに薄らいでいったのです。
 これは正直なところ、率先してやりたくなるコミュニケーション術ではないと思います。私とて、ああ、この人、苦手だなとか、なんとなく会っていて好きになれない、なんて人には今でもあえて近寄りたいとは思いませんからね。でも、そんな苦手タイプとも毎日のように会話をしなければ、あるいは行動をともにしなければ仕事が進まないとかお給料をもらえないとかいう状況になれば、腹をくくるしかありません。好きなタイプの人は後回し。まずはいちばん苦手な人のそばにあえて近寄るのです。そうしてみれば、案外、発見がある。ああ、思ったほどいじわるじゃないんだ、優しいところもあるんだとか・・・・。
 今まで「ぜったい嫌いなタイプ!」と思っていた人に、少しだけシンパシーが湧くようになるかもしれません。「苦手、嫌い」という先入観が「そうでもないな」という気持ちに切り替わるときって、けっこう嬉しいものですよ。しかも毎日がぐっと気楽になるというものです。

 『叱られる力』 I 叱る覚悟と聞く力 より 阿川佐和子:著 文藝春秋:刊

 怖いから、嫌いだからといって避けていては、それ以上のコミュニケーションは望めません。
「嫌われている」というのも、単なる思い込みの場合が多いです。

『虎穴に入らずんば虎子を得ず』

 ときには、自ら相手の懐に飛び込む勇気も必要だということですね。

叱り方の極意「かりてきたねこ」

 阿川さんは、友達のある雑誌の女性編集者から「借りてきた猫(かりてきたねこ)」という“叱り方の極意”を教わりました。

「かりてきたねこ」とは、つまり、次の七項目の頭文字をとって名づけられたものです。

  • か・・・感情的にならない
  • り・・・理由を話す
  • て・・・手短に
  • き・・・キャラクター(人格や性格)に触れない
  • た・・・他人と比べない
  • ね・・・根に持たない
  • こ・・・個別に叱る

 この七項目に留意(りゅうい)して叱りなさいということらしい。誰が考えたのかは知らないけれど、うまい方法を思いつく人がいるものです。
 私と一緒にその「借りてきた猫」説を聞いていた、私よりかなり若い女性たちが一斉に騒ぎ出しました。
「えー、理由を話さなきゃ叱っちゃいけないの? そんなの自分で考えろって言われたよねえ、昔は」
 たしかに私も昔、「自分の胸に手を当てて考えてみろ?」と言われた記憶があります。でもあの言葉は、きつかった。そんな持って回った言い回しをしないで、説明してよとは思いました。子供の頃は父親に怒鳴られてさんざん泣いたあと、むしろ父から「なにがいけなかったかわかったか。わかったなら言ってみろ」とよく問われたものですが、あれもきつかった。なんで突然、父の機嫌が悪くなったのか、よくわからないんですもの。だからしかたなく、「わかりました。サワコが悪かったから」と言うのが精一杯の「理由」でしたっけ。
「他人と比べない」問題にしてみても、父はしょっちゅう、「なんでお前はお兄ちゃんみたいに本を読まないんだ。本を読まないからダメなんだ」と、それがたとえ約束の時間に帰宅しなかったときであろうと、ちょっと反抗的な態度を示したことが父の逆鱗(げきりん)に触れた理由であろうとも、「そもそもサワコはお兄ちゃんのように本を読まないからダメな人間になっている」と叱られたものです。たっぶり比較されておりました。
「感情的になるな」という件については多くの女性が、「なっちゃいけないとは思うけど、なるよねえ」。
 それも同感です。感情的になっていないつもりでも、いつのまにか叱る側の自分の声が震えていることに気づく。下手をすると叱っている私のほうが先に泣き出したりしかねません。修行が足りないのでしょうか。
「根に持たない」と言われても、一度、感情的になってしまうと、そうなった自分が情けなくて、根に持ちますね、私の場合。つまりはカラッとケロッとサラッと叱れということか。

 『叱られる力』 I 叱る覚悟と聞く力 より 阿川佐和子:著 文藝春秋:刊

 最近、「叱れない大人」が増えているといいます。

 叱り方がわからないから、相手に恨まれたり、逆ギレされることを恐れて、二の足を踏んでしまうのでしょう。

「かりてきたねこ」

 この言葉を頭のなかに刻み込んで、叱るべきときに叱れる人になりたいですね。

「恐れるものがある」ことのメリット

 阿川さんは、つねに「怖い存在」を意識して書いているとのこと。
 若い女性を対象とした雑誌のエッセイを書くときなどでも、「これが父の目に留まったら、また叱られるだろうな」と思うのだそうです。

 人は歳を重ねるにつれ、叱ってくれる年長の人間を一人ずつ失っていきます。そして、いつか、誰も自分を叱ってくれなくなるときが来る。その瞬間を迎えることを私は恐れます。本来のわがままな性格が野放図に現れて抑えが利かなくなり、なんだ、いい人だと思っていたのに、こんな嫌なヤツだったのかと周囲に幻滅(げんめつ)の目を向けられる。そうなりたくないと思います。
 人間には、そういうことを恐れるがために、宗教心というものが存在するのではないでしょうか。どの宗教という意味ではありません。しいて言えば私は八百万(やおよろず)の神様方面の信仰が好きです。娘時代にミッションスクールに通っていたおかげで、キリスト教の教えの影響も混ざっているようです。でも、人によって何でもいい。
「お天道様が見ているよ。ずるいことをしちゃダメだよ」
「ご先祖様に笑われるよ。そんないい加減な仕事をして」
 幼い頃、広島の伯母によく言われたのは、
「そんなわがまま言ったら、トンビにさらわれますよ」
 私は上空旋回するトンビが怖くてしかたなかったのを思い出します。自分には恐れるものがある。そのことが、なんとか自らを抑制してくれると思うのです。父に叱られるのは煩(わずら)わしいことだし、言い返したい理由もこちらにあります。でも、「怖くて煩わしい」存在がいるからこそ、私はどうにかこうにか人に信頼されたり仕事を継続できたり、ずるいことやいい加減なことしそうになったときに自制心が働くのではないかとも思うのです。

 『叱られる力』 Ⅱ 叱られ続けのアガワ60年史 より 阿川佐和子:著 文藝春秋:刊

 叱ってくれる人、頭の上がらない人の存在ほど貴重なものはありません。
 誰でも、叱られるのは嫌ですし、煩わしいもの。

 叱ってくれるということは、それだけ相手が自分のためを思ってくれているということです。
 いくつになっても、そのような存在は大切にしたいものです。

「最悪経験」を尺度にした楽観予測

 面倒なことへの対処法を見いだすとき、必ず「経験」が強みになります。
 阿川さんは、経験を繰り返すうちに乗り越え方を学び、「あんな経験をしてもなんとかなっているんだから、たいがいのことはなんとかなるだろう」という、「最悪経験」を尺度にした楽観予測をつけられるようになる、と述べています。

(前略)「贅沢(ぜいたく)は敵だ」は親の教育のおかげか、かろうじて身に染み込んでいますけれど、ときどき「贅沢はステキだ」と思うこともある。でも決して「我に七難八苦(しちなんはっく)を与えたまえ」なんて、戦国時代の武将じゃあるまいし、そんなことを月に向かってお祈りすることはありません。私にとって辛いときの慰めの言葉といえば、「明けない夜はない」です。
 でもきっと、昔の人だって本気で「七難八苦をもっともっと!」と望んでいたわけではないと思うのです。望んでいなくても襲ってくるからこそ、その艱難辛苦(かんなんしんく)をどう乗り越えようかと考えた末、「辛い経験をしたほうが人間は強くなる!」というモチベーションを見出したのではないでしょうか。実際、辛い経験をした人は確実に強くなりますからね。でも本心としては、避けられることなら避けたいと思うのが人の常。人生、便利なほうがいいし、楽になびきたいし、面倒はいやだ。その人々の願いが文明や科学の発達とともに実現し、今や、そんなややこしいことを経験しなくてもすむためのあらゆるツールが生まれている状況です。知らない人に電話をかけなくてもメールで用件を伝達できるし、苦手なディスカッションも人前に出ないで自分の部屋でできるし、愛の告白すら、わざわざ電話して、電車に乗って、相手を呼び出して、照れくさい台詞(せりふ)を言って、「ごめんなさい」と相手に拒否されて、深く傷つくこともなく済ませられる手立てがある。おかげでかぎりなく面倒を避けられるようになりました。でも大人になり、社会に出れば、まだ相変わらず旧態依然の「面倒な人間関係」が待ち受けているのです。生まれて初めて面と向かって怒られる。あるいは否定される。拒否される。たちまち、どうしていいのかわからなくなって、落ち込み度合いが予想以上に大きくなる。そういうマイナスの経験は、できれば若いうちから積み重ねて、慣れていったほうがのちのち楽になると思うのです。

 『叱られる力』 Ⅲ 叱られる力とは? より 阿川佐和子:著 文藝春秋:刊

 一度、“最悪”を経験してしまえば、あとはよくなるだけ。
 どんなことを経験しても、「あの時よりはマシ」と思って耐えられます。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」とは、よく言ったものです。

 楽しいことも苦しいことも、過ぎてしまえば“経験”として残ります。
 失敗を恐れず、いろいろチャレンジして、経験の幅を広げていきたいですね。

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 親が子供を、年配者が若者を、上司が部下を「叱れなくなった」と嘆く人は多いです。
 もちろん、叱る側が“叱り方”を知らないことも原因の一つです。

 しかし、それと同じくらい、叱られる側が“叱られ方”を知らないことも大きいのではないでしょうか。

 人間、『叱られているうちが花』だともいいます。
 叱る人は、その人が嫌いだから叱るのではありません。
 その人が見込みがあるから叱るのです。

 叱られ上手は、コミュニケーションの達人であり、さらに伸びる可能性を秘めた人です。
 人間関係が希薄になりがちな今の時代だからこそ必要な『叱られる力』、ぜひ身につけたいですね。

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