本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『しない生活』(小池龍之介)

 お薦めの本の紹介です。
 小池龍之介さんの『しない生活 煩悩を静める108のお稽古』です。

 小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ)さんは、日本は日本初期仏教の僧侶です。
 月読寺(神奈川県鎌倉市)と正現寺(山口県山口市)の住職を務めるかたわら、執筆活動にも積極的に取り組まれています。

入ってくる情報が増えれば増えるほど心は乱れる

 情報技術(IT)が高度に発達した現代社会。
 私たちはどこでも手軽に必要な情報を入手できるなど、様々な恩恵を享受しています。

 一方、情報が氾濫している環境は、私たちの精神の平安を妨げる大きな要因でもあります。

 自分にとってちょっと気にくわない芸能人がテレビに出ているのを見た瞬間、心にはイライラの雑音が生まれるでしょうし、友人に送ったメールの返信が思ったより遅いというだけで不安の雑音が散らかるかもしれませんね。そう、心は、ほんのちょっとしたきっかけさえあれば、怒ったり後悔したり、不安になったり迷ったり、妬んだり、自慢して偉そうになったり、自分から進んで乱れていこうとしてしまいます。いやはや。
 これらの乱れた心理状態は仏道では煩悩(ぼんのう)と名付けられておりますが、その特徴は、情報量を増やすことと言えそうな気がしています。先ほどの例で申せば、「メールの返信が遅い」という現実の情報に対して、「自分は嫌われているのでは」とか「まだ返事をくれないなんて失礼だ」などという余計な情報を新たに脳内で付け加えている。こうした情報が増えるほど、心は乱れるのですけれども、あいにく人間の脳は、「情報の量は多ければ多いほど、生き延びるために役立つ」という発想で設計されていしまっているのです。ゆえに、無駄な、自分を悩ませる情報ですら、好んで集めて心を乱してしまいます。

 『しない生活』 第一章 より 小池龍之介:著 幻冬舎:刊

 小池さんは、仏道とは、乱れる心を丁寧に解剖してみせる心理学でもあると述べています。

 煩悩のもととなるものであふれかえっている今の世の中。
 だからこそ、煩悩を捨て去って悟りを開いたブッダの教えがより輝きを増します。

 本書は、「心を保つお稽古」という題で新聞に連載してきたエッセイをまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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すぐにメールの返信がなくてもイライラしない

 相手にメールを書いたのに、返事が来ないとついイライラしてしまいます。

 待ちきれなくなり、返事を催促するために、さらにメールを送ってしまう・・・
 そんなことをしても相手の心証を悪くするだけですね。

 こんな見苦しい催促行為へと私たちを駆り立てる煩悩は何なのか、分析してみましょう。それは「私は労力を払って連絡したのだから、相手はその労力をいたわって返事を返すべきだ。でなければ、私だけが労を払うことになり不公平である」といった思考です。
 つまり、ものごとは公平に、釣り合いが取れてなきゃ気が済まない、という強迫観念がつきまとっているのです。この強迫観念につけられた名前こそまさに「正義(justice)感」という煩悩に他なりません。その語幹「just」は天秤の釣り合いであることからも、人の脳は釣り合いのとれなさに不協和を感じてイライラするものなのだということが、よくわかりますね。
 すると、自分の連絡にすぐ返事がないとイライラするのも、ストーカーが「自分が愛しているのだから相手も愛してくれてないとおかしい」と妄想するのも、天秤は釣り合いが取れているべきだという「正義感」ゆえ、と申せましょう。
 自分が「これが当然なのに」と思い込んでいることは、単に脳が天秤の不協和にイライラしているだけだと、ハッと気づくこと。学校で習った「公平さ」という甘い妄想を捨て、この世は、不公平なのが当たり前だという厳然たる事実に目を開いてみる。
 それにより「返事はくれるのが公平だ」という正義の妄想を離れれば、ゆったり気長に「待つ能力」が育ちます。待つ力は、自分を優美にしてくれるうえに相手もせかされず考えられるので、お互いのためになるのです。

 『しない生活』 第一章 より 小池龍之介:著 幻冬舎:刊

「自分がこれだけやっているのだから、相手もこれくらいはやるのは当然だ」
 人は、つい、そんなことを考えてしまいます。

 どんなに親しい間柄であっても、相手の言動をコントロールすることができません。
 それを理解できていない状態が「正義感」の煩悩ということです。

他人へのイライラは、その人と自分の煩悩の連鎖

 私たちはちょっとした他人の言動に対してつい、腹を立てて心を乱してしまいます。
 小池さんは、何が許せないのかを冷静に分析すると「相手の煩悩」が原因であることに気づくと指摘しています。

 たとえば「ネチネチした嫌な言い方をしてくるのがイラつく」。つまり相手の「怒り」の煩悩が許せない。
「政治家や官僚が不当に私腹を肥やしているのがイラつく」。つまり相手の「欲望」の煩悩が許せない。
「いつもモタモタして、失敗してくれるのが不快」。つまり相手の「愚かさ」の煩悩が許せない。
 ここに挙げた「怒り」「欲望」「愚かさ」の三つの煩悩は、仏教で心を分析するための基本要素です。
 それをふまえますと、私たちが他人にイライラするとは、「相手の怒り、欲望、愚かさに対して、我が怒りの煩悩が連鎖している」と言い換えることができそうですね。
 私たちは他人の煩悩に対しては、ずいぶんと敏感に察知するうえに、手厳しく怒りを返すのです。
 注意されると、イラッとして言い訳したくなるのも、注意する人の怒り、すなわち攻撃性を察知しているから。あるいは、約束を破られたり、嘘をつかれたりして腹が立つのも、相手が欲望を優先しているのを察知するから。他人の失敗が許せないときも、愚かさを察知するがゆえに、怒っているのです。
「許せないッ、イライラ」となるたびに、この連鎖を自覚することをお勧めします。
「なるほど、怒りに対して怒っているんだな」「欲望に怒っているだな」「愚かさに私の怒りが連鎖しているんだな」などと。原因と結果、つまり因果がわかれば、落ち着くはずです。

 『しない生活』 第二章 より 小池龍之介:著 幻冬舎:刊

 他人は自分の“鏡”です。
 気にしてしまう「相手の煩悩」は、自分自身の中にも存在しています。

「人のふり見て我がふり直せ」
 相手の言動にイライラを感じたら、自分の心の動きを冷静かつ客観的に見つめること。
 ぜひ、習慣として身につけたいですね。

脳は善悪を自分に都合がよいように決めている

 私たちの脳は、ありのままの世界を認識していません。
 眼や耳などの感覚器官によって、切り取られた情報のみを取り込んでいます。

 自己中心的な思惑によって、世界をゆがめて認識すること。
 それを仏教では、「渇愛(かつあい)」と呼んでいます。

 たとえば雨が降る/晴れる、地震が起こるなどは自然現象であり、本来それに良いも悪いもありませんよね。が、水不足を心配していた人なら、久しぶりの雨を「良い」とゆがめるでしょうし、買い物に出る予定の人は、冷たい雨を「悪い」とゆがめるでしょう。
 私たちの都合に合う、合わないによって、自己中心的に良い悪いとレッテルをつけているのです。
 ここでひとひねり。雨の予報を見て、「買い物なのに、雨なんて嫌だな」と思い、雨傘を持って出たとします。なのに雨が降らなかったら、私たちは肩透かしをくらったかのような気持ちになりがちですね。「傘を持って出た自分の選択が、正しくなかった」と感じるのが嫌な、「正しさの煩悩」ゆえです。雨は嫌いだったはずなのに、対策を打った時点で、ひそかに雨を望み始める。あらら、なんだか、ヘンテコですねぇ。
 あるいは地震が嫌いで怖い、という人が、強固な地盤に立つ耐震設計のマンションを高額で購入したとします。すると地震は嫌いだったはずでありましたのに、「地震がきても自分のマンションは無事だった」という事態を潜在的に望みがちなのです。もし何十年も地震がこなければ、地震対策に高額のお金を支払った自分の選択は、正しくなかった、と感じるハメになるのですから。
 つまり、地震をひそかに渇望し始める。かくして、もともとは「悪い」とゆがめていたはずの雨や地震も、ひそかに「良い」にゆがめ直してしまうまでに、この脳は自分さえ正しければよいというわがままさんなのです。

 『しない生活』 第三章 より 小池龍之介:著 幻冬舎:刊

 起こる現象自体には、「良い」も「悪い」もありません。
 それを判断するのはあくまで「人」であり、ゆがめられた世界観から生み出されたもの。

 すべての争いごとは、この「渇愛」から生まれているといっても過言ではありません。
 人間の脳には、自己中心的なわがままな一面があることは忘れないようにしたいですね。

ものごとに集中するには、頑張りすぎず、だらけすぎず

 頑張ることもときには大切です。
 しかし、頑張るだけではものごとはうまくいきません。

 一つの立場や考え方にとらわれずバランスのとれた状態。
 そんな状態を仏教では「中庸(ちゅうよう)」と呼びます。

 小池さんは、仏典から以下のような逸話を引用し、「中庸」の大切さを説明します。

 釈迦(ブッダ)の弟子の一人に、出家前は大富豪の息子だったソーナという青年がいました。甘やかされ贅沢に育てられてきたことを恥じたソーナは、ろくに睡眠も取らず、体がボロボロになるほど、死にものぐるいで瞑想修行に打ち込むのですが、修行の境地はいっこうに深まりません。
「こんなに自分に厳しく頑張っているのに」と落ち込むソーナを察した釈迦は、こんな問いを投げかけます。「ソーナよ、君がハープを弾くとして、調弦で硬くしすぎたり緩くしすぎたりしたら、良い音色がするだろうか」と。「いいえ」という答えを待って、「それと同じで、瞑想修行も頑張りすぎても、だらけすぎてもうまくゆかぬもの。君は頑張りすぎの邪精進に陥っている」と指導したのでありました。
 それ以来、ソーナはほどよくリラックスして修行に取り組むようになり、悟りを開いたと言われます。
 さて、現代人は一般に「頑張りすぎ」のように思われるのですが、それは何かの欲望を追求するのに必死だからです。欲望が強く働くとき自律神経のうち興奮や緊張にか関わる交感神経が優位に立ちます。
 思うに、ソーナも「立派にならなきゃ」という欲望が強すぎて、交感神経が優位になり過剰興奮していたため、瞑想の精神集中がうまくゆかなかったのでしょう。心を安定させ集中させるためには、ほどよい緊張感とリラックスが同居している、つまり交感神経と副交感神経がバランスよく活性化している必要があります。
 通常、頑張りすぎか、だらけすぎか、どちらかに極端に傾いて自律神経のバランスを崩しがちな私たち。その両極端の間にある細い中道を、ソーナの例から学ぶことができそうです。

 『しない生活』 第四章 より 小池龍之介:著 幻冬舎:刊

「過ぎたるは及ばざるがごとし」
 そんな言葉もあるように、何ごとにもちょうどいい具合があります。

 力が抜けすぎず入りすぎず、絶妙なバランスで成り立っているのが理想の状態です。

 交感神経と副交感神経がバランスよく活性化していること。
 まずは心の状態を「中庸」に保つことが基本になるということです。

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 さまざまな技術が発達したおかげで、本当に便利な世の中になりました。
 食べものも着るものも遊ぶものも、つねに膨大な選択肢が用意されています。

 一方、選択肢があり過ぎることで、それらに振り回されて、自分を見失ってしまいがちです。

「する」ことが身の回りにあふれている。
 だからこそ、あえて「しない」という選択が重要です。

 何もせず、一歩引いて自分の心を省みる。
 現代人には、そんな余裕をもつことが、もっとも貴重で忘れざるべき心構えですね。

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