本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『センスは知識からはじまる』(水野学)

 お薦めの本の紹介です。
 水野学さんの『センスは知識からはじまる』です。

 水野学(みずの・まなぶ)さんは、クリエイティブディレクターです。
 熊本県公式キャラクター「くまモン」など、これまで数々のブランドづくり、ロゴ、商品企画、インテリアデザインなどを手がけられています。

「センス」は生まれついてのものではない

 アイデアが豊富な人、目のつけどころが鋭い人。
 そのような人たちはよく、「センスのよい」人と呼ばれます。

 私たちは、「センスのよさ」は生まれつきであり、特別な人間に与えられた才能だと考えがちです。
 水野さんはそれを否定し、「センスのよさ」は方法を知って、やるべきことをやり、必要な時間をかければ、誰にでも手に入るものだと指摘しています。

 本書は、センスとは何かを解説し、センスを鍛えるトレーニング法についてまとめた一冊です。

 水野さんは、誰でもセンスは等しく持っており、違いはそれをどう育てているか、どう使っているか、どう磨いているかとだと強調します。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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まず「普通を知ること」が必要である

 

 水野さんは、「センスのよさ」とは、数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力であると定義しています。

 おしゃれやかっこよさ、かわいらしさは数値化できないものです。
 しかし、その場の雰囲気や自分の個性に合わせて、服装のよし悪しを判断し、最適化することはできます。
 それを「かっこいい、センスがいい」といいます。

 センスのいい商品をつくるには、「普通」という感覚が大事です。
 水野さんは、普通こそ、「センスのいい/悪い」を測ることができる唯一の道具だと述べています。

 では、普通とは何でしょう?
 大多数の意見を知っていることでも、常識的であることとも違います。
 普通とは、「いいもの」がわかるということ。
 普通とは、「悪いもの」がわかるということ。
 その両方を知った上で、「一番真ん中」がわかるということ。
「センスがよくなりたいのなら、まず普通を知るほうがいい」と僕は思います。

 これは「普通のものをつくる」ということではありません。「普通」を知っていれば、ありとあらゆるものがつくれるということです。
 普通よりちょっといいもの、普通よりすごくいいもの、普通よりとんでもなくいいものというように、普通という「定規」であらゆる事象を測っていくことによって、さまざまなものをつくり出すことができるのです。
 たとえとして「定規」という言葉を使いましたが、数字であらわせない抽象的なものを測るのですから、「スイスアーミーナイフのような多機能ナイフを持つ」とイメージしてもいいでしょう。小さなナイフ、ワインのコルク抜き、はさみも爪切りも、すべてがコンパクトにまとまっている道具です。
 スイスアーミーナイフのナイフと庖丁(ほうちょう)を比べたら、庖丁のほうがよく切れるに決まっていますし、爪切りも単体の爪切りのほうが使いやすいのです。しかしスイスアーミーナイフを一つ持っていることで、「いざとなれば何かはできる」という安心感が芽生えます。普通を知るとは、これに似ています。
「ありとあらゆる資格を持っていればいいという、資格マニアのようなものなのか?」
 と思うかもしれませんが、僕の意味することは、ちょっと違います。
「たくさんの道具を持っているから何でもできる」のではなく、「あれもこれもできて、これもできるから、その真ん中がわかる」という状態になるのではないかと考えているのです。

 『センスは知識からはじまる』 Part1 より  水野学:著  朝日新聞出版:刊

「普通」から外れたものでないと「センスがいい」ものにはなりません。
 かといって、やみくもに奇をてらっても「センスのいい」商品は生まれません。

 基準となるものがあり、そこからどの方向にどれくらい外せばいいか。
 その明確な意図がないと「センスのいい」ものはつくれません。

 まずは、その基準となる「普通」を知ることが大切だということですね。

センスのよし悪しが個人と企業の存続に関わる時代

 水野さんは、センスが必要とされない仕事など一つもないとして、「センスのよさ」をもつことの重要性を以下のように説明しています。

 仮にセンスが水だとして、誰もがもともと水を持っているとします。
 ある人は、その時その時に最適な水の出し方を考え、表現する力があります。たとえば暑い夏の日にはきりりと冷やしてレモンをひとしずくたらし、冬には口にすると体の芯から温まりそうなお茶を淹(い)れるというように。
 ある人は、水の出し方などはなから考えず、同じように供するだけです。たとえば、生ぬるいうえに新鮮でない水を、三六五日差し出すというように。
 前者がセンスのよい人で、後者がセンスの悪い人。比べた場合、どちらが求められるかは明白です。

 もう少し、水をセンスに考えてみましょう。
 高度経済成長期は、水自体に価値がありました。水をたっぷり、あるいは素早く差し出せば、品質はまったく問われませんでした。味や出し方などどうでもよかったのです。つまり「質より量」という時代です。
 しかし高度経済成長期の後半から、水の品質や安全性が求められるようになりました。質そのものを追求した結果、さまざまな技術が発達していきます。精製度が高い水、清潔な水、アルカリ電解質の水などが誕生しました。つまり、「量より質」「技術による質の向上」という時代です。
 ところが技術の向上は、やがて頭打ちになります。どの会社もどの国も技術力をとことん高めていった結果、「質のいい水」がコモディティになってしまったのです。当たり前であれば、付加価値も利益も生まれなくなります。新たな技術や企業努力がしづらい世の中になっていきました。
 日本は幸いなことに、バブル崩壊という金融危機を生き延び、その後にやって来たIT革命という変化がカンフル剤となって生きながらえているのですが、そろそろ限界です。
 技術力だけに頼ってきた結果、ものづくりにあまりに重きを置きすぎた日本は、まったく売れなくなった「質のよい水」を抱えて、差し出す相手をなくしつつあります。

 世界でもこの状況は同じでした。しかし、まったく新しい「水」を次々生み出すことができた人も存在します。スティーブ・ジョブズが率いていたアップルです。
 コンピューターを、単なる技術だけでつくり出したのではありません。素晴らしい美意識とセンスのもとで製品にまで仕上げていきました。機能でも装飾でも、どちらの面からもセンスを形にしていた企業です。
 今後、まだまだ技術力が大きく伸びていく可能性はもちろんあります。しかしここしばらくの間は、停滞するのではないかと僕は感じています。だからこそ、センスのよさが最も求められるようになると思えてならないのです。
 企業の価値を最大化する方法の一つに、センスというものが挙げられる。それどころか、その会社が存続するか否かも決める。
 個人についてもそれは同じで、同じくらいの能力を持つビジネスパーソンであれば、その人のセンスが違いを生み出すのではないでしょうか。

 『センスは知識からはじまる』 Part2 より  水野学:著  朝日新聞出版:刊

「高品質」すら、コモディティ(差別化できない商品)になってしまった今の時代。
 他との決定的な違いを生み出すことができるのが、「センス」です。

 デザインだけでなく、機能性やコンセプトにも「センスのよさ」が発揮されないと売れない。
 そういう厳しい世の中に突入してきたということですね。

「客観的情報」を集めることがその人のセンスを決める

 水野さんは、センスとは知識の集約であると述べています。
 例えば、センスのいい文章を書くには、言葉をたくさん知っていることが必要条件です。

 ただし、知識ならなんでもかまわないというわけではありません。
 単に流行の情報の集積ではなく、「客観的情報」を集めることが重要となります。

 センスの最大の敵は思い込みであり、主観性です。思い込みと主観による情報をいくら集めても、センスはよくならないのです。
 僕たちはみなそれぞれ、自分なりの思い込みを持っています。考え方、これまでの生き方がその人の100%をつくり出しています。ファッションに限らず、ビジネスにおけるプランや企画においても、僕たちはなかなか主観性の枠から自由になれません。
 なかなか自由になれないからこそ、意識して思い込みを外すべきだと僕は感じます。思い込みを捨てて客観情報を集めることこそ、センスをよくする大切な方法です。
 僕は半ば冗談、半ば本気で「学校にセンスを教える授業があればいいのに」と言いますが、これは学校教育こそ客観情報の集め方を教える効率的な仕組みだと考えているからです。歴史の知識、数学の知識は客観情報として与えられるのに、美意識にまつわる知識はすべて自己学習として放置されており、その結果、客観情報を集められるAくんと集められないBさんという差を生じてしまう気がしています。
 2歳の男の子がものすごくセンスのいい服装を選べるかといえば、無理でしょう。もちろん子どもにも多少の差はあると思いますが、Aくんのような子どもも、Bさんのような子どももほとんどいないはずです。先天性のセンスというものが仮にあったとしても、それはわずか数パーセントであり、後天的要素が非常に強いのです。
 ピンクが好きだからピンク色の服を買う、アウトドアが好きだからアウトドア用品を買う、機能性が高いものが好きだからスポーツメーカーの服を買う、とにかく安いものが好きだから安い服を買う。
 どんな理由にしても、人は好き嫌いでものを選んでいます。好き嫌いというのは主観にほかなりません。
 そこに「どの服が自分にふさわしいのか」という客観性を加えれば、数値化されない事象を最適化するセンスの力が発揮されることでしょう。

 『センスは知識からはじまる』 Part3 より  水野学:著  朝日新聞出版:刊

 好き嫌いという主観に頼りすぎると、ごく狭い範囲のなかからの、偏った選択になりがちです。
 あえて、客観的な視点をもって幅広く情報を集めること。
「センスのよさ」を身につけるために意識したいですね。

知識のクオリティが精度の高いアウトプットをつくり出す

 水野さんは、プレゼンをするときに絶対に使わないと決めている言葉があります。
 それは、「感覚的に、これがいい」や「かわいいから」といった漠然とした表現です。

 クリエイティブディレクターやデザイナーの「感覚」もしくは「センス」を信じて仕事を依頼している、という風潮は、多くのクライアントの中にあります。
「僕の感覚では、この案がいいですよ」と言っても、通用するのかもしれません。現に、これを多用するデザイナーやものづくりをする人も存在します。
 しかし、センスが知識の集積である以上、言葉で説明できないアウトプットはあり得ません。自分のセンスでつくりあげたアイデアについて、きちんと言葉で説明し、クライアントなり消費者なりの心の奥底に眠っている知識と共鳴させる。これがクリエイティブディレクターの仕事であり、ものをつくるということだと僕は考えています。
 そのためには、知識の精度を高め、アウトプットの精度を高めなければなりません。
 そうした時、はじめて成り立つのがセンスだと思っています。

 僕はまた、このところ折にふれて「精度の時代だ」という発言をしています。精度とは言葉を変えればクオリティのこと。どんなものでも、クオリティが高くなければ選ばれない時代が来ていると感じます。
 たとえば福澤諭吉について三人の人が肯定的な評価をしたとします。
 Aさんは「福澤諭吉って、スゴイよね」と言います。
 Bさんは「福澤諭吉って慶應義塾大学をつくった人で、スゴイよね」と言います。
 Cさんは「福澤諭吉は『日本を変えてやる』と中岡慎太郎たちが騒いでいた頃、『次の時代には学問というものが必要になるだろう』と考えて慶應義塾をつくったところがスゴイよね」と言います。
 三人の意見は同じですが、その信用度とクオリティは格段に違います。彼らは自分の意見を述べていますが、その意見は「福澤諭吉についての知識」という土台からなる見識です。センスのある発言をするには、正確でハイクオリティな「精度の高い知識」が欠かせないということです。
 これは商品やアイデア、企画も同じだと僕は考えています。最終的なアウトプットとは、土台となる知識がいかに優れているか、いかに豊富かで、かなりの部分が決まってくると思うのです。センスがよい人は豊富かつ良質な知識を材料に発想しているはずだと。

 『センスは知識からはじまる』 Part4 より  水野学:著  朝日新聞出版:刊

「なんかいい感じ」
 そう表現するしかない場合でも、必ず知識としての裏付けがあるということ。

「センスのよさ」を身につけるためには、多くの知識を集めるだけではなく、言葉で説明できるくらいに精度を高める必要があります。

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 水野さんは、“ガラパゴス”で生きている自分を自覚しようとおっしゃっています。
 つまり、自分という存在がいかに小さな島の中で、閉じこもった生活をしているか、それを認識することから、世界は広がっていくということ。

 自分では、「◯◯について知っている」と思っていても、「知っている」のは、ほんの一つの側面に過ぎないということはよくあることです。
 頭のなかにあるちっぽけな知識だけでは、とうてい「センスのよさ」は身につきません。

 センスのある人とは、つねに「今の自分」という壁を越えて知識を吸収しようとする人です。
 私たちも、好奇心や成長しようという意欲を忘れず、「センスのよさ」を磨き上げていきたいですね。

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