本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『人生には「まさか」の坂がある』(安里賢次)

 お薦めの本の紹介です。
 安里賢次さんの『人生には「まさか」の坂がある』です。

 安里賢次(あさと・けんじ)さんは、沖縄民謡の奏者です。
 太鼓、三弦、ボーカル、軽妙な説法が人を惹きつけ、ご活躍されている人気アーティストです。

人生に、「回り道」はない

 中学卒業後、集団就職で千葉の靴工場で働き始めるも、なじめず、故郷の沖縄に戻った安里さん。
 その後も定職につかず、けんかに明け暮れる生活を送り、傷害での前科はなんと十三犯。

 その安里さんが、たったひとつのめり込んだものが、「三線(さんしん)」でした。
 独学で部屋にひきこもって寝食を忘れて取り組みます。

 あるとき安里さんは、沖縄民謡の大家、登川誠仁に見込まれて弟子入り、唄者の道を進みます。

 十代で三線に出会い、一度は「これで生きていきたい」と思った。だから他人にはアウトローの世界に入ったのは、回り道をしたように見えるだろう。
 でも、俺にとってはそれも必要な選択だったのだろう。むしろドロップアウトしていなかったら、いまのように「人のために何かやりたい」と強く思う自分になれなかったかもしれない。いろいろ巡って、結局三線に戻ってきたのも何やら運命的でおもしろい。
『ひめゆりの唄』に涙し、『兄弟小節』の明るい歌に「確かにそうだ」と感じた。見向きもしなかった三線のはずだった。それがふと耳にした体験が俺の原点になっている。
 そう考えると、誰しも人知れず人生を左右する何かと出会っているのではないかと思う。見落としていたり、人から「向いていない」とか「やったところで能力がないから」と諦めてしまったりしているような中に、あんがい自分の根本を支えるようなものがあるんじゃないか。

 『人生には「まさか」の坂がある』 序章 より  安里賢次:著  二見書房:刊

 人生には、回り道などはありません。
 人生での経験は、どんなことでも意味があり、これからの人生の糧になることを、自らの人生で証明した安里さん。

 本書は、アウトローから一流の三線奏者に這い上がった安里さんの人生観をまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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人生には「まさか」という坂がある

 安里さんは、「人を信用しすぎるのはよくない」と、安易に人を頼ることに警鐘を鳴らします。

「いったん敷居をまたいで家の外に出れば、七人の敵がいる」ということわざがあるけれど、俺の場合は外に出たら「七人の味方」しかいない。近づいてくる人間の中に、一見すると味方の顔をしているやつがいたとしても、ひょっとしたらそいつは裏切るかもしれないからね。
 まあ、これはあくまで俺の経験から言っていることだけど。

 でも、世間の人はけっこう簡単に「あの人は信用している」とよく言っているよ。絶体絶命のピンチに陥ったときどうなるかなんて誰にもわかりはしないのに。
 いざとなれば、やっばり我が身がかわいくなってしまうもの。「まさか自分があんなことをするなんて思いもしなかった」と予想外のことだってしかねない。そういう顔をもつのが人間さ。ずるいところや卑怯(ひきょう)なところもいっぱいもっている。

 だからこう思っておいたほうがいいんじゃないか。信用はあくまで勝手な期待。たとえ相手が彼氏や旦那、女房でも同じ。結局、自分自身しか頼れないよ。
 これを聞いた人は「人を信用しないなんて寂しい人生だ」と思うだろうな。だけど俺は「とにかく人を疑え」と言っているんじゃないよ。
 勝手に期待しておいて、あとで「裏切られた」とがっかりする。そのうえ相手を憎んだりする。そのほうがよほど身勝手な話じゃないか? そういう人は自分の力で生きることを忘れている。そう言いたいんだ。俺は会社だとか学歴だとかに頼れない生き方をしてきた。どんなピンチに陥ったとしても、とにかく自分で何とかするしかなかった。だからわかったことがある。とても単純なことだ。人生、何が起きるかわからないということさ。
 昨日まで上向きで調子よかった会社だっていつまで続くかわからない。夫婦の関係もいまは仲良くても、いつどうなるかなんてわからない。
 予想外の幸運も不運もすべて「まさか」の思いもよらないことだよ。上り坂で勢いがあるとき、調子に乗って我を忘れるか。下り坂になって慌ててしまうのか。「まさか」のときに他人を安易に信頼していたら、自分を見失ってしまう。ふだんから他人ではなく自分をしっかり頼っているかどうか。この一点に人生はかかっているよ。

 『人生には「まさか」の坂がある』 第一章 より  安里賢次:著  二見書房:刊

 誰にとっても、いちばん大切なのは自分です。
 信頼の厚い人でも、置かれた状況次第で、相手を裏切らざるを得ないこともあります。

 相手を信用しても、信用しすぎないこと。
 自分に起こったことは、すべて自分の責任。

 その覚悟を持って、相手に依存しない自立した人間関係を結びたいですね。

「仕返し」よりも「見返し」を!

 誰でも、人からバカにされたり、軽く見られたりした経験はあることでしょう。
 安里さんは、そのときに、「見下された相手に対してどう思うのか」が大事だと述べています。

 人からバカにされたり、軽く扱われたりした経験は誰しもあるだろう。やはりプライドがあるので、ムカッと来たり、落ち込んだりする。そんなとき「いまに見ていろ」と奮起することもあるだろう。それ自体は悪くはない。けれど、気をつけたいのは「いまに見ていろ」が「いまに見返してやる」なのか。それとも「いまに仕返ししてやる」なのかということだ。
 見返そうと思ったら、実力をつけるための努力を人知れず始める。そして一人前になったときは、バカにされたことも「そういえば嫌なことを言われたな」くらいの取るに足りない記憶になっていたりするものだ。自分を軽んじた人と違うステージにもう立っているので、過去のことがまったく気にならなくなっているいるものだ。
 ところが仕返しする場合、いつまで経っても相手のことが気になって仕方がない。自分の努力も向上もすべて「相手が自分を認めること」にかかっているから、いつまで経っても過去から離れられない。
 そして仕返しとは、相手への報復を果たすことだから、必ず相手を屈服させるまでやってしまう。すると、相手のプライドがズタズタに傷つくので、今度はその人が仕返しを誓う。やられたらやり返す。このサイクルから互いに出られなくなる。いわば互いに依存しあった関係だ。
 人生をそんな無駄なことに費やすのはもったいないよ。相手ではなく、過去の自分を見返せばいい。そうすれば誰も憎まずに、しかも自分の能力を向上させることができるはすだ。

 『人生には「まさか」の坂がある』 第一章 より  安里賢次:著  二見書房:刊

「仕返し」は、あくまで相手が主体の行為です。
「相手を叩いてやろう」と、自分の意識が相手に囚われてしまっています。

「見返し」は、あくまで自分が主体の行為です。
「自分が(相手より)成長しよう」と、自分の意識が自分に向いています。

 どちらが、自分にとって有益なのかは、考えるまでもないですね。

人が物欲に負けてしまう理由

 多くの人は「誰かのために生きたい」と願いながら、日々生きています。
 それでも、お金やモノ、その他のいろいろな我欲に負けてしまうときがあります。

 安里さんは、その理由を以下のように述べています。

 人が物欲に走ってしまうときは、物事を真剣に考えていないときだ。自分の中身がおろそかで何もないから、そのすきまを埋めようとする。ちょうど腹があまりにも減りすぎて、何でも手当たり次第に食べ物を詰め込むようなものさ。
 仏教では煩悩のひとつに「貪(むさぼ)り」があるけれど、貪欲とはお腹を満たすことよりも飢餓感に取り憑(つ)かれてしまって、本来の目的を忘れている様子を表しているんだと思う。
 それにしても、どうして我を見失ってまで欲求を満たすことに走れるのだろうか。理由を尋ねても、本人だってよくわからないかもしれない。

 人間は輪廻(りんね)転生していると言われている。本当かどうかわからないよ。科学的に解明もできないだろうし、解明したからといって誰の得にもならない。
 けれども「どうしてこの人とこのタイミングで会ったんだろう?」というような奇跡的なめぐり合わせを思うと「前世からの縁」としか言いようがないのは確かだ。
 この輪廻転生という考えから見ると、人を押しのけて、とにかく自分の欲を満たそうと必死な人に対しては、「ああ、この人は人間になりたてだから分別がないのだな」と余裕をもってい対応できるようになる。
 また、自分がつい欲で目が眩(くら)んだときも、「何度生まれ変わったかわからないけれど、まだ修行が足りないんだな。がんばろう」と思える。いつまで経っても修行だなと思うよ。

 『人生には「まさか」の坂がある』 第二章 より  安里賢次:著  二見書房:刊

 人は誰でも、その人の成長レベルなりに、精一杯に生きているということ。
 人生を一回限りだと思うと実感しにくいですが、輪廻転生をもとに考えると受入れやすいです。

「深刻」になるな、「真剣」になれ!

 安里さんは、物事は深刻に考えるな、真剣に考えろと強調しています。

 深刻に考えだした答えはろくなものにはならない。深刻になると必ず「ああ、どうしよう」と否定的な考えが浮かんでくるからだ。その行き着く先は自己否定、つまり自殺だ。
 世の中に深刻なことは、ひとつもありやしない。あるのはただの事実さ。何でもないことを重々しく考えるから深刻になるんだ。本人は「これはたいへんだ」とまじめに考えているつもりでも、それは迷っているだけにすぎない。
「家は買いたいが、この先ローンは払えるだろうか」
「子どもをいい学校に入れたい。でも、優秀な学校に入ったからといって、いい人生が送れるかわからない時代だ」
 そんなふうにさんざん悩んだところで出てくるのは、よい知恵でも解決策でもない。結局は「どうすればいいのだろう」という振り出しに戻るだけ。そんなの時間の無駄だ。
 なぜそうなるのか? それは真剣に考えていないからさ。真剣に考えようとすると「どうすればいいんだろう?」というような消極的な姿勢はなくなるよ。
「よし、これを解決してやろう!」という意気込みで物事に当たると責任と決断が生まれる。だから「こうすれば何とか解決できるかもしれないぞ」というような知恵がどうしたって出てくる。
 真剣に取り組まず、いい加減に考えていると「なんでこんなことをやらなきゃいけないんだろう。あいつのせいで俺がこんな目にあっているのに」とか「どうせ考えたところでうまくいきはしない。だってこれまでもいいことなんてなかったもの」といった愚痴が出てくる。
 だから愚痴が出そうになったら、自分が「決断するんだ」という覚悟をもって、問題に向かっていない証拠だと疑ったほうがいい。
 そして中途半端にしか考えていないと、その結果も中途半端にしかならないよ。自信をもって「これだ」と言えない態度で行なうから、結果に対し「いや、本当はこんなことになるはずではなかったのですが・・・・」とか「実はこれには理由があってですね・・・・」といった言い訳が必要になってくる。
 あれこれ考える人が世間には多いけれど、ほとんどの場合、愚痴と言い訳を言うために頭を使っているように見えるね。それは空回りできるだけの余裕とエネルギーがある証拠だ。暴走族と同じ。自分で何をしたらいいかわからないから無駄にエネルギーを使っているさ。

 深刻に考えたがるのは、そのほうが「考えているような気分」になれるからだ。そういう人が忘れているのは、あんがい「楽に楽しく生きる」ことだったりする。
 楽に楽しく生きようとしたら、深刻さ、重々しさは必要ないことがわかってくる。力を抜いて自然体になれば、前向きに真剣に生きられるはずだよ。

 『人生には「まさか」の坂がある』 第三章 より  安里賢次:著  二見書房:刊

 問題にぶち当たったら、真剣に解決策を考えること。
 そして、すぐに行動に移すこと。

 言い訳や愚痴を作りだすのに、時間や労力を使うのは、無駄以外のなにものでもありません。
 同じ時間と労力、エネルギーを使うなら、問題に体当たりして自ら道を切り開きたいですね。

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 安里さんは、今でこそ、沖縄民謡の第一人者として名が通った存在です。
 しかし、そこまでの道のりは波瀾万丈(はらんばんじょう)、“山あり、谷あり”でした。

 数々の困難に負けることなく、自分の力でそれらを乗り越えてきた安里さん。
 本書には、だからこそ書ける、味のある文章がぎっしり詰まっています。

 安里さんが奏でる三線や唄声にも、それまでに生きてきた人生経験がすべて生かされています。
 だからこそ、多くの人々の心を揺さぶるのでしょう。

「人生に無駄なことなど、ひとつもない」
 安里さんの奏でる三線同様、読む人すべてを勇気づける一冊です。

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