本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『探検家36歳の憂鬱』(角幡唯介)

 お薦めの本の紹介です。
 角幡唯介さんの『探検家36歳の憂鬱』です。

 門畑唯介(かどはた・ゆうすけ)さんは、ノンフィクション作家・探検家です。
 大学時代は探検部に所属され、国内外の秘境を巡るうちに探検の魅力に取りつかれます。
 卒業後、一旦は新聞社に入社されますが、探検への想いが募り数年で退社し、本格的な探検家としての道を進まれます。

探検家の憂鬱

 探検家は、世間では、職業として理解されていません。
 角幡さんも、その点については、色々悩みがあります。

 例えば、出会いを求めてコンパに行って女性と話す時にも、大変な思いをするとのこと。

 さらに悪いことには、私は探検家という日本で数人しかいない珍しい肩書を名乗っている。名刺的には「ノンフィクション作家、探検家」としているのだが、ノンフィクション作家などという普通の肩書は、、探検家という「希少種」を前にすると、アマゾン川にそそぐタバジョス川みたいなものでほとんど存在しないに等しくなる。私は探検をしてそれで生計を立てているわけではなく、探検をしてそれを文章に組み立て直すことで生計を立てているので、職業区分的にはノンフィクション作家の方に個人的な重みを置いているのだが、もちろんそんなこちら側の事情など女性陣には関係ない。恐らく探検家と聞いた時点で、彼女らの頭の中には川口浩やインディ・ジョーンズのようなサファリハットをかぶった人物が登場し、ノンフィクション作家という肩書は一瞬で吹き飛んでしまうのであろう。そのことを証明するように、私はこれまで一度も、どんな文章を書いているんですかという質問を受けたことがない。聞かれるのは、どんなところに行ってるんですか、そこで何をするんですか、何のためにそんなことするんですか、マゾとサドかといえばマゾですか、といった質問ばかりなのだ。

 『探検家36歳の憂鬱』 P8~9 より  角幡唯介:著  文芸春秋社:刊

 男性や秘境巡りなどが好きな女性にならともかく、普通のOLには到底理解できないマニアな世界です。

 それにしても、「アマゾン川にそそぐタバジョス川」とは、探検家らしい例えですね。
 分かりにくいようで分かりやすいです。

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冒険がノンフィクションに適さない理由

 角幡さんは、探検や山登りなどはノンフィクションの題材としてあまり適していないと述べています。

 冒険を実施する時には、現場で起こり得るあらゆるリスクを想定して計画を作る。それは言い換えると冒険という行為における筋書きだ。冒険の場合は命がかかっているので、基本的には現場で起きるあらゆるトラブルに対処できるように計画を作る。そのため予想を裏切る体験というのはなかなか起きないし、もし実際に起きたら、それは『死のクレバス』のように、限りなく死に近い深刻な事態に陥ったことを意味している。すなわち冒険の現場で筋書きのないドラマが優れたノンフィクションの条件であるなら、冒険という分野では遭難こそそれにあたるのである。
(中略)
 しかし遭難は狙ってできるものではないし、狙ってしてはいけないものでもある。そうすると、冒険ほどノンフィクションの作品に適さない分野はない、ということになる。

 『探検家36歳の憂鬱』 P71~72 より  角幡唯介:著  文芸春秋社:刊

 角幡さん自ら述べているように、私は探検や冒険がしたい。未知の空間の中ではらはらした時間に身を置き、それをうまく文章で表現したい。だけどうまくできなくて困っている状態です。

 なかなか困難な状況ですが、それも角幡さんのチャレンジ精神を刺激しています。

雪崩に遭うということ

 角幡さんは、過去に三度の雪崩に遭遇しています。
 その中でも、2009年3月に立山連峰の不帰一峰では、九死に一生を得る、際どい体験をしています。

 心のどこかではまだ、何かの間違いではないかという可能性にすがっていたが、どうやら今のこの事態は現実であるらしい・・・・。恐怖感はほとんど感じなかったが、死ぬことは無念の一言に尽きた。真っ暗闇の中、頭の中で展開していたのは、よく言われる走馬灯のようなものではなく、お母さんごめんなさいということの他には恐ろしくてどうでもいいことだった。
(中略)
 恐らく多くの人は死の間際には何か偉大な瞬間が訪れ、自己との大いなる対話があり、それまでの人生を総括して死んでいくと漠然と信じているに違いない。人間、誰しも自分の人生には価値があったと思いたいし、最後の瞬間ぐらい人生に納得したうえで迎えたい。しかし雪の下で最期を待っていたこの時の経験から言わせてもらうと、残念ながら死の間際にそうした偉大な瞬間が訪れることはなさそうだ。自己との大いなる対話もなければ、それまでの人生に対する総括も納得も何もない。頭に思い浮かぶのは、あきれるほどぐだらない日常的な雑事であり、多くの場合、人間はものすごくどうでもいいことを考えながら、つまらなく死んでいく。
 私がこのとき知ったのは、死は意外と日常のすぐそばにあるという単純なことだった。いつもと少しだけ違う細やかな状況の変化が、自分でも気がつかないうちに積み重なって、最悪の状況というのはやって来る。

 『探検家36歳の憂鬱』 P127~128 より  角幡唯介:著  文芸春秋社:刊

「死」というのは、意外と、そんなものかもしれませんね。

冒険をやめられない理由とは?

 そのような生死をさまようような体験をすると、もう二度と山になど登りたくなくなるのが自然だと思います。

 しかし、角幡さんはその逆です。
 それどころか、もっと厳しい体験を望んでいるようのところもあります。

 そうまでして冒険を続ける理由の一つとして、以下のように述べています。

 結局のところ冒険を魅力的にしているのは死の危険なのだ。死の危険が隣にあるからこそ、冒険や登山という行為の中には、人生の意義とは何なのかという謎に対する答えが含まれているように思える。ツアンポー峡谷や北極圏の氷原みたいなところを旅していると、人生で知りたいことの大部分が、その旅の中につまっている気がするものだ。しかし、もしかしたらそれは当たり前のことなのかもしれない。生とは死に向かって収斂(しゅうれん)していく時間の連なりに過ぎず、そうした生の範囲の中でも最も死に近い領域で展開される行為が冒険と呼ばれるものだとしたら、それは必然的に生の極限の表現ということになるだろう。
(中略)
 逆説的だが死を意識した瞬間に、その行為は最も生の煌めく瞬間に変わる。だから冒険者は冒険からなかなか足を洗えない。

 『探検家36歳の憂鬱』 P223~224 より  角幡唯介:著  文芸春秋社:刊

「死を意識した瞬間に、その行為は最も生の煌めく瞬間に変わる」

 死と隣り合わせの状況を、何度も経験してきた角幡さんが言うと、説得力があります。

 私たちは、やはり、「生きている」という事実を、当たり前に捉えすぎているのかもしれません。
 死を間近に感じた経験のある人は、「生きている」ことの本当の意味を身をもって知っているのでしょう。

 生きていることの、ありがたさや幸せ。
 それらを失う危機に立たされるまで、なかなか気がつかないものです。

 角幡さんは、ただ淡々と流れる日常こそが、「死」だと感じているのでしょう。

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「生」と「死」は全く別のものではなく、コインの裏表です。
「生」を突き詰めれば、おのずと「死」と向き合わざるを得なくなります。

「死」を意識すれば、「生」を見つめ直さないわけにはいきません。

 自分の人生を輝かせるために、あえて危険な場所へおもむこう。
 そう考える角幡さんの気持ちは、理解できますし、羨ましくも思います。

 生きることへの真摯な姿勢は、見習いたいですね。

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