【書評】『《唯識》で出会う未知の自分』(横山紘一)
お薦めの本の紹介です。 横山紘一さんの『《唯識》で出会う未知の自分』です。
横山紘一(よこやま・こういつ)さんは、仏教学者です。
私たちは、何のために生きているのか?
「あなたは何のために生きているのか」
誰もが、一度は考えたことがある疑問です。
しかし、その疑問を考え続けている人は、ほとんどいないでしょう。
ある人は、大人になってもその疑問を抱きつづけ、その解決に向かって努力しつづけるでしょう。 一方で、そんなことをいくら考えても解決できるはずがない、とあきらめる人もいます。でも心の底からあきらめる人は誰一人としていないのです。なぜなら、人間は、いつもいつも、「なぜ、なぜ、なぜ」と問いかける能力を持っているからです。いや、能力を持っているというよりも、そうせざるをえない宿命を負わされている、と言った方がよいかもしれません。 四、五歳の子供が「なぜ」「どうして」を連発して親を困らせている風景をよく見かけます。 大きくなるにつれて、問いの数は減っていきます。でもだからといってすべてを解決したわけではありません。本質的なこと、たとえば、自己の正体、死後の世界、さらには存在そのものとは何か、といったことについては、いぜん未解決のままで生きているのです。 現代は知識と情報の氾濫時代です。しかし、これほどネットに情報があふれていても、このような本質的なことについて教えてくれる知識や情報何一つないのです。なぜかといえば、本質的なことは、自分自身で考え、体験し、解決しなければならないからです。 だから、この本を読んですぐに何か結論めいたことを得ようとしないでください。本書はあくまでもわたしという個人が、学び、思索し、体験したことを述べたものにすぎないからです。 ただ、本書を通して、喧騒の現代に生きるあなたが、しばしの間忘れていた問いかけ、つまり、 「わたしはなぜ生きているのだろうか」 という疑問を、あらためて思い出していただき、これからのあなたの人生が少しでも豊かになればと願うばかりです。
『《唯識》で出会う未知の自分』 はじめに より 横山紘一:著 幻冬舎:刊
既成観念からの脱皮。 自己と宇宙とに対する深い洞察力の養成。
本書は、この2つをテーマに、仏教思想の観点から、わかりやすくまとめた一冊です。 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。
なぜ、知らなければいけないのか?
横山さんが、「知る」というテーマで、高校生たちと討論していたときのこと。
ある一人の生徒から、「人間はどうして知らなければならないのか」という質問を受けました。
事実、この質問にはわたしも一瞬たじろぎました。即座に答えるには、あまりにもむつかしい問題だからです。それは、人間の実存の根底にまでふれる問いであるからです。 そこで、わたしは次のたとえを出しました。 「目を閉じてから開いてみたまえ。黒板の文字が目の中に飛び込んでくるだろう。今君は、それを見ようと思ってみたのか? そうではないはずだ。目を開いた。そうしたら見えた。言い換えれば、見ざるを得なかったから見た、というのが事実だろう」 このたとえと同じく、「知る」とは、「知らざるを得ない」から知るのです。 「知る」ということを、「食べる」「歩く」「眠る」という概念に置き換えても良いと思います。これらは、つきつめれば結局、「生きる」ということに集約されます。つまり、「わたしたちは、生きざるを得ない」のです。 しかし、問題はこれで解決したわけではありません。というのは、「なぜ、そのように、なになにせざるを得ないのか」という質問が出てくるからです。 なぜ黒板の文字を見ざるを得なかったのか。それは、その黒板の前で目を開いたからです。ではなぜ、その黒板の前にいたのか。授業を受けるためです。それならばなぜ授業を受けるのか。その学校に入学したからです・・・・・。このように原因は無限にさかのぼってゆきます。 これはつまり、『現在の“なになにせざるを得ない”という状態は、過去からの無数の諸条件によってもたらされた結果なのです』(このことを仏教では業感縁起(ごうかんえんぎ)といいます)。 わたしたちは、過去からの数えきれないほどの諸条件によって、がんじがらめに束縛された存在なのです。この事実を、勇気を持って確認しなければなりません。 受動的な知り方、広くとらえれば受動的な生き方は、過去に規定された消極的なものといえましょう。したがって、積極的にそして創造的に生きるには、受動を乗り越え、能動的生き方に転換しなければなりません。それは、古き過去を断ち切り、未来向かって新たな自己を形成してゆくことなのです。
『《唯識》で出会う未知の自分』 第1章 より 横山紘一:著 幻冬舎:刊
「知る」ことは、「見る」こと、「食べる」こと、「眠る」ことと同じ。 生きるために、必要不可欠なことです。
生きていると、いやが上にも「知って」しまう。 問題は、その中身です。
受動的にしか知識を受け取らないと、受動的な人生にしかならない。 逆に、積極的に創造的に生きるには、能動的に「知る」ことが必要不可欠です。
行為には、必ず「責任」がある
現代人は、他人の行為を見て、すぐに善悪を判断しがちです。
しかし、横山さんは、その人の“心の内面”や、なぜそのような振舞いを敢えて行なったのであるかという“内的な動因”を察知してから、はじめてその人の行為を非難すべき
だと述べています。
つまり、重要なのは、言葉や行為ではなくて、その背後にある心のあり方
で、以下のように解説しています。
ある人を殴(なぐ)るという行為を考えてみましょう。殴るという行為は一瞬にして消えてしまいます。 さて、この行為は、はたしてどのような影響なり結果をもたらすでしょうか。 一つは、当然殴った相手に対する影響です。彼はコブができるか傷つくでしょう。 もう一つは自分に対する影響です。後悔の念がいつまでも自分を苦しめつづけるかもしれません。 しかしどのような行為でも、かならず消滅してしまいます。つまり、行為には消滅(しょうめつ)があるのです。もし、行為が消滅し、そこに何の影響も残さないとしたら、その行為に対しては何の責任もないことになってしまいます。 行為はかならず“結果”をもたらします。だからこそ責任があるのです。 その結果も、ただ他人に対してだけではありません。他人と同時に、いや、他人以上に、自分に対する結果が大きいのです。 “悪人面(づら)”と言われる人がいますが、彼は積年にわたる悪い行ないや考えの結果が積もり積もって、そのような醜い顔となったのです。 きのう食べた食事の内容は、ちょっと考えれば思い出すことができます。食事時の行為が記憶としてとどこかに残っているからです。 スキーやスケートの練習のことを考えてみましょう。日に日に上達してゆきます。それは、毎日の練習が、習慣として何かを残してゆくからです。 この習慣や記憶をプールする場所を、仏教では阿頼耶識(あらやしき)といいますが、これは前に述べたように意識の底にある深層心理です。 一瞬一瞬の行為は、行為と同時に(まったく同一刹那(せつな)にです。なぜなら次の刹那には行為はすでに滅しているから)、この阿頼耶識のなかに記憶や習慣を《種子(しゅうじ)》として植えつけるのです。植えつけられた種子は、ある時期を過ぎると、生長して、新たな芽をふき、具体的行為となって現われます。その行為は、また阿頼耶識に種子を植えつけます。このように、わたしたちの全存在は、一大有機的な循環運動をしているのです。 つまり、現在の行為は過去の行為に規定されていると同時に、未来の行為を規定し、創造してゆくのです。 未来に影響を与えるところに、現在の行為の重要性・責任性が出てくるのです。 責任といえば、ふつう、他人、集団、社会などに対する責任という意味に考えがちです。 もちろん、ふつうの意味での責任はそうですし、そのような社会的責任も、共同的な社会生活をしてゆくうえで非常に大切なことです。 しかし、一歩すすめて、自己の行為が同時に自己自身にはね返ってくると認識するならば、行為に対する責任感は一層強められるのではないでしょうか。 これは他人や社会を軽視することではありません。各人が、自己完成を目指して自己の行為を創造的に変革しつつ、一瞬一瞬の行ないに責任を持つところから、集団的にも社会的にも責任ある行為が生まれてくるのです。
『《唯識》で出会う未知の自分』 第2章 より 横山紘一:著 幻冬舎:刊
図1.阿頼耶識とは何か
(『《唯識》で出会う未知の自分』 第2章 より抜粋)
「行為」が残した“結果”は、阿頼耶識に取り込まれる。 阿頼耶識に「種子」として植えつけられ、新たな「行為」を生み出す。
そんな循環を繰り返しているのですね。
なぜ、「縁」を大切にすべきなのか?
人は、一人では生きていけません。 社会で生活するのに不可欠な人間関係を作るのが、「因縁」です。
横山さんは、「因」と「縁」の関係について、以下のように解説しています。
《縁》とは人間関係を成立させる基本概念です。それは神秘的なことばです。同時にそれは、夢と希望をもたらす創造的な言葉でもあるのです。 よくたとえに出されるのが種子と芽の関係です。芽を吹くためには種子がなければなりません。しかし、その種子を土中に埋めると同時に、さらに空気、温度、水があってはじめて芽が出るのです。つまり種子は直接原因であり、空気、温度、水などは間接的な補助因ということになります。この直接原因を《因》、補助因を《縁(えん)》というのです。 因があっても縁がなければ、因は具体的に結果を生み出さないという点が重要です。 結婚を例にとって考えてみましょう。 地球上に70億人がいるとします。その半分の35億が男か女です。すると、ある一人の男性は、35億人の女性と結婚する可能性を持っていることになります。つまり因は持っているのです。しかし具体的には、一夫一婦制であれば、一人の女性しか妻にしません。たまたまその女性と《縁》があったから結婚したのです。縁とはこのように35億分の1の可能性を現実化させるほどの、力強く、そして貴重な価値を持つものです。 だからこそ結婚というものを大切にしなければならないとは言いません。ただ、不思議なめぐり合わせであることだけは深く認識すべきです。その時、相手を新たな光のもとで見直せるようになるかもしれません。
『《唯識》で出会う未知の自分』 第3章 より 横山紘一:著 幻冬舎:刊
図2.「因」と「縁」と「果」の関係
(『《唯識》で出会う未知の自分』 第3章 より抜粋)
その可能性は、例えようのないほど小さなもの。 まさに「奇跡」としか言いようがないですね。
どんな出会いにも、何らかの意味がある。 そう思えてきます。
「一期一会」
この言葉どおり、すべての出会いを大切にすることが、豊かな人生につながるということです。
コンプレックスへの対処法とは?
コンプレックスは、「感情によって色づけされた複合体」と定義されます。
つまり、わたしたちの無意識のなかにあるさまざまな感情が、一つのかたまりとなって結ばれている心的内容の集まり
をいいます。
コンプレックス、つまり劣等感に悩む人は多いです。 抑えようと思えば思うほど、強くなる一方の曲者です。
横山さんは、コンプレックスは、自分一人だけが背負っているのではない−−こう認識する時、新たな世界が開けてくるもの
だと述べています。
事実、コンプレックスは程度の差や質的相違があるにしても、誰しもが持っているものです。それは人間である証拠です。一片のコンプレックスのない人間など、まずこの世のどこを探してもいないでしょう。 コンプレックスがあるということは、見方を変えれば病であるどころか健康そのものであるといえるのかもしれません。コンプレックスを意識することは、それに打ち勝とうとするたくましい余力を持っている証拠だからです。 「一度裸になって出なおしてみろ」これはよく、禅の師家たちが口にする励ましのことばです。自己の内心を洗いざらいさらけ出し、自己の本性を、善きにつけ悪しきにつけ覚(さと)る時、それは新たな飛躍に向かう一大転回期となるといえるでしょう。 「自分は気が弱い」「運動が苦手である」「女性に弱い」・・・・・こう思ってくよくよすることをやめ、「うん、自分とはそんなものか」と、あらためて自己を対象化しして眺めてみること。眺めている自己は、すでにコンプレックスに縛られていない新たな生き生きとした自己なのです。 コンプレックスの自覚は、もしかすると新たな上昇への、それも一段と力強い飛躍への契機ともなりかねません。前ページの図でいうならば、Bは、コンプレックスもなく、たとえあったとしても気付かずに人生を送る人です。Aは、Xというコンプレックスの自覚点をへて、新たな上昇をつづけはじめた人です。Bよりもその到達点はぐんぐんと高くなりつつあるのです(下の図3を参照)。 仏教でよく「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」といいます。この迷いにみちた世界がそのまま覚りであるという、大乗仏教が理想とする思想です。しかし、この命題を静止的にとらえると大きな間違いを犯します。何もしないでいれば、現実のこの世界がそっくりそのまま涅槃(ねはん)であり、真実の覚りの世界であるという意味ではありません。 それは煩悩を自覚し、その内で悪戦苦闘しながら、新たな創造の世界を目指して努力してゆく、いわば動的過程を意味しているのです。いわば静止的な、あるいは一円的な循環運動ではなく、常に前進して止(や)まないラセンの運動です。「煩悩即菩提」とは、いわば弁証法的な否定論理に裏づけられた生成発展の過程をいうのです(下の図4を参照)。 コンプレックスもあきらかに煩悩の一種です。煩悩を自覚し、その滅を目指し、新たな飛躍に向かって動的なラセン活動を続けようではありませんか。 その先に何があるのだろうか。それは各人が各様に体験する以外にないのです。
『《唯識》で出会う未知の自分』 第4章 より 横山紘一:著 幻冬舎:刊
図3.コンプレックスの自覚点
図4.「煩悩即菩提」のラセン運動
(『《唯識》で出会う未知の自分』 第4章 より抜粋)
自分では「劣っている」と感じている部分も、ちょっとした克服の努力で、逆にストロングポイントになり得るということです。
大事なのは、コンプレックスから逃げないこと。
「自分は〇〇にコンプレックスを抱えている」
その事実をしっかり直視したうえで、それを克服する方法を考えること。
それが人生をより能動的に、活動的に生きるための秘訣ですね。
インターネットが発達し、誰もが簡単にあらゆる情報にアクセスできる。
そんな便利な現代社会を生きる私たちに欠けている精神。
それは、確固たる「生きる目標」
です。
横山さんは、わたしたちの社会は「わたしたちはなぜ生きているのか」という現実(Sein)の認識と、「わたしたちはなぜ生きなければならないのか」という未来に向けた当為(Sollen)の認識
を見落としていると指摘されています。
必要なものが何でも簡単に手に入る便利な世の中になった。
私たちは、それと引き換えに「生きる」うえで、より大切なものを見失ったのかもしれません。
「自分」という存在と、あらためて真剣に向き合う。 生きることの意味と意義を、もう一度問い直してみる。
仏教の智慧に裏づけされた本書は、そのきっかけとなる最良の手引きとなります。
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