【書評】「働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている」(侍留啓介)
お薦めの本の紹介です。
侍留啓介さんの『働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている』です。
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侍留啓介(しとみ・けいすけ)さんは、京都大学で博士号(経営科学)、また、シカゴ大学でMBAを取得されています。
三菱商事、マッキンゼーなどを経て、経営と投資サービスを提供するバロック・インベストメンツを創業されています。
「働かないおじさん」に学ぶ、生き残りの術とは?
コロナ禍に始まり、未曾有の物価高が止まらないが、それに見合った給料の上昇がない。
そんな経済的な苦しみを抱えている人は多いです。
一方、グローバルな経済は、米国を中心に好調です。
多くの国の株式市場では、株価が上がり続け、多くの企業がバブル崩壊後の高値を更新しています。
マクロな景気感とミクロな景気感がまったく異なっている、今の世界。
その原因を探るには、資本主義の成り立ちやメカニズムにメスを入れる必要があります。
資本主義とは、いったい何なのだろうか。
かつて資本主義は、煌々(こうこう)と輝く光であった。王侯・貴族・平民といった中世以前の固定された「身分」の壁を壊し、「階級」という越境可能なスキームに置き換えてくれる資本主義社会は、多くの人々に魅力的に映ったはずだ。
実際、資本主義はうまく機能もしてきた。現代においてすら、運と才能に恵まれた人にとっては、資本主義の輝きはなお失われていないであろう。成功の可能性(あくまで可能性なのだが)を示す資本主義は、そうでない人にとっても希望の星なのかもしれない。
しかしこの資本主義に、拭いがたい違和感を覚える人々がいることもたしかである。「親ガチャ」に象徴されるように、人生の早い段階で半ば運命づけられ、不遇な者は不遇なまま捨て置かれる。そして、格差は広がり続ける。かつての身分制と異なり、資本主義はなまじ個々人に希望をもたらすがために、かえって「無能」や「怠惰」のレッテルとともに格差を正当化してしまう。ここに、資本主義の残酷さがある。
現代の資本主義は、どのように発展してきたのか? 資本主義をめぐる両義性ーー「アメとムチ」を兼ね備える二律背反性は、なぜ生じたのか? そして資本主義はどこへ向かっていくのか? これらの問いこそが、本書の出発点である。
格差や搾取の問題を見ればわかるように、資本主義が機能不全を起こしていることは自明である。一般市民から知識人まで多くの現代人が、恩恵よりも問題に目を向けているーーその意味では、資本主義はもはや瀕死の状態にあると言えるのかもしれない。それでも現代人が資本主義にすがりつくことをやめられないのは、これといった代替案が見つからないからである。代案が見つかったとて、易々と人為的に変革できないことは、たとえば共産主義の失敗を見ても明らかだろう。
私たちにできうることは、資本主義の現状と行く末を冷静に考察し、個々人として生き延びる術を考えることではないだろうか。本書では、その処方箋を提示したい。『働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている』 はじめに より 侍留啓介:著 光文社:刊
私たちが生きている限り、資本主義から逃れることはできません。
であれば、その枠の中で、いかにうまく立ち回るかが重要になります。
本書は、今、世の中で問題となっている「働かないおじさん」を題材に、資本主義の荒波を乗り越えるノウハウをわかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。
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資本主義が産んだ人工国家「アメリカ」
資本主義は、16〜17世紀にイギリスやオランダで生まれ、発展してきました。
そして、現在に至るまで、そのシステムは継続しているわけですが、途中、何度もバブルの崩壊などで潰れかけています。
資本主義存亡の危機を救ったのは、アメリカでした。
アメリカーー資本主義が産んだ人工国家。
こういうとラディカルに聞こえるかもしれない。しかし、アメリカが人工国家であるとの見立ては、1785年に設立されたポトマック社の社長が、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントン、取締役が第三代大統領のトマス・ジェファソンであったという事実が物語っている。
そもそも北アメリカの13の州が、宗主国であるイギリスに対する独立宣言を批准したのは、イギリス産業革命のさなか、1776年7月2日のことであった。つまりは近代資本主義の誕生と同時期に、この人工国家も誕生したのである。
独立から日が浅いアメリカでは、インフラ整備が最優先課題であった。運河、道路、銀行、市役所、教会、大学といった無数のインフラ開発や運営は、いずれも特別な独占権を与えられた特許会社によって担われた。
会社が株を発行することで資金を募ることができる株式会社の仕組みは、複数の資本家から迅速に資金を集める上で好都合であった。先にふれたように、アメリカでは有限責任が一般化したことも、こうした背景を反映していた。株式会社が、国家のインフラ整備を導いたのである。
こうしてアメリカでは、投資と企業経営とが一体化していくという動きが一般化していった。代表的な資本家は、コネティカット州生まれのJ・P・モルガン(1837〜1913)である。父親J・S・モルガンがロンドンで創業した金融業を引き継ぎ、19世紀には世界最大の銀行家となった。他方で、事業再編も積極的に行なった。例えば、現在でも米国を代表する企業であるUSスチールは、もとをただせばモルガンが中心となって幾つかの企業を合併してつくった会社である。同社は、1901年にはアメリカの鉄鋼生産の70パーセント近くを占めるようになっていた。モルガンはUSスチール以外にもGE(ゼネラル・エレクトリック)などの買収を手がけたほか、鉄道業界の再編も主導している。モルガンの成功は、第二、第三のモルガンたらんとする金融投資家たちの野心を駆り立てていった。
企業合併によって財をなした他の例は、スタンダード・オイルの創業者として知られるジョン・ロックフェラー(1839〜1937)であろう。
1870年に同社を設立したロックフェラーは、それから間もない1872年に、アメリカの石油精製拠点のひとつであったオハイオ州クリーブランドを中心に、競合する製油所を次々と買収した。競合企業26社のうち22社もの吸収合併を果たしたことは、「クリーブランドの虐殺」と称されている。同社の買収提案を拒否した他の競合企業は、当然ながら競争力を失っていった。スタンダード・オイルは、1870年代末にはアメリカ産の石油の90%を精製するまでに事業を拡大した。
しかし、こうした強引な買収に問題がなかったわけではない。当時、オハイオ州で法人化していたスタンダード・オイル社は、オハイオ州外で株式を保有することは禁止されていた。そのため、事業を拡大していた同社は、各州で独立した企業を運営するしかなかった。これが経営の非効率をもたらしていた。
この非効率な経営から脱するため、ロックフェラーは、強引で脱法的な手段にでていった。スタンダード・オイルは、40社に及ぶ傘下の石油会社の議決権付株式を「信託」の形で一社に集中させ、ロックフェラー一族とその信頼を得た9人の受託者がこの一社を経営することで、実質的に全米中の会社を支配したのである。こうして1882年に誕生したのが、スタンダード・オイル・トラストであった。「トラスト(信託)」による経営形態の誕生であった。
このように、アメリカは、新興国家であったが故に、国家開発と企業が金融投資によって密接に結びついてきた。
また、アメリカが「合“州”国」であることも、企業にとっては好都合であった。会社法は州によってさまざまで、たとえばニュージャージー州は、州法でトラストを許容していた。企業に抜け道や助け舟を用意する州が存在したのである。このような事情もあり、結果として企業によって国家インフラの整備が進められ、国家もまた、こうした企業にインセンティブを与える関係がうまれたのである。米国においてこそ、資本主義は20世紀へ向けてますます勢いを増し、巨大化していったのである。
「アメリカを動かしているのは、大統領ではなくて巨大資本である」という陰謀論めいた言説があるが、アメリカという国は、むしろ初めから金融資本や企業によって成り立っていたとみるべきであろう。アメリカで、投資と企業経営、そして国家運営が一体化していく動きをみてきた。もうひとつのアメリカの特徴は、資本と戦争が密接にからんでいったことである。アメリカの経済発展は、現代に至るまで、戦争というカンフル剤の上に成り立っている。特に、1914年7月に勃発した第一次世界大戦は、アメリカの経済力を大幅に躍進させるきっかけとなった。
それまでのアメリカは、日本同様の新興国にすぎなかった。当のアメリカ自身が、自らをヨーロッパの列強諸国に比して後進国であるとみなしていた。
実際、坂本龍馬が愛読していたとされる国際法の解説書『万国公法』でも,世界の「五大国」とはイギリス、フランス、オーストリア、プロシア、ロシアを指しており、アメリカは「新興国」という位置づけになっていた。
「新興国」であったアメリカが、日本と並んで「五大国」の仲間入りを果たしたのは、第一次世界大戦を経てのことである。
世界最初の総力戦とされる第一世界大戦に際して、アメリカは当初、中立を守っていた。先に参戦していたイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国はその間に物資が窮乏し、アメリカからの借款(しゃっかん)に依存せざるをえなくなっていった。アメリカは、鉄鋼や小麦の生産量を飛躍的に増大させ、軍需品生産に追われているヨーロッパ諸国に積極的に輸出していった。
1917年4月には、アメリカもドイツに宣戦布告して大戦に参入する。先述のような経緯もあり、参戦までにアメリカの経済力は格段に上向いていた。大戦前には純債務国であったアメリカは、大戦後の1919年には貿易黒字を実現、132.3億ドルもの対外債権を保有する債権国にさえなっていた。
第一次大戦後、欧州では戦勝国も敗戦国も経済的に疲弊している中、アメリカは新たに勃興した「世界の工場」として、急速な経済成長を遂げたのである。この大戦を通じて日本も同様の発展を遂げた。
1929年の世界恐慌で冷や水を浴びせられるまでは、「狂騒の20年代」とも称され、株式や国債が濫発され、投資熱が煽られた。次第にアメリカ人の間には、「地道に働くより、投資したほうが儲かる」という価値観が浸透していった。
さらに新興国アメリカでは、政府は市場に積極的に介入しようとせず、民間企業に市場運営を委ねる「小さな政府」が志向された。「小さな政府」がなすことといえば金融政策、徴税、公共投資である。見方によっては、戦争も公共投資の一種である。
第一次世界大戦がアメリカにもたらしたものはほかにもある。コンサルティング業界の隆興である。コンサルティングが、第一次世界大戦を通じて、にわかに脚光を浴びることとなったのは、以下のような経緯による。
アメリカ合衆国は、第一次世界大戦の影響による歳入不足を埋め合わせるため、また参戦してからは戦費調達を目的として、特別税、超過利得勢、戦時利得税など、税制上の新法を矢継ぎ早に成立させていった。
これによって、会社などの法人は高率の税負担を強いられた上に、法制度は複雑になり、専門家による助言が必要とされた。その結果、特に会計コンサルティングの需要が急増したのである。
プライス・ウォーターハウス(現・プライスウォーターハウスクーパース)は、1849年にロンドンで創業されると、1890年にニューヨーク事務所を設立。その後は合衆国政府をクライアントとして、財務顧問のような役割を果たしていった。その一方で、法人向けにも税務サービスを提供し、政府と民間の両面にわたる事業を展開していった。複雑な税制へのアドバイスに定評があった。
また、初めて「経営コンサルティング」を名乗ったブーズ・アンド・カンパニーは1914年に、マッキンゼーも、シカゴ大学教授で、会計の専門家であったジェームズ・マッキンゼーによって1926年に、いずれもシカゴで設立された。
そして第二次世界大戦までの戦間期、コンサルティング業界は、経営管理手法を生み出していった。企業が巨大化し、海外展開や多角化が進展していくにつれて、経営管理(マネジメント)の必要性がにわかに高まってきたからであった。
この時期に生み出されたマネジメント手法の代表が「事業部制組織」である。
経営史学者のA・D・チャンドラーは、『組織は戦略に従う』(ダイヤモンド社。原著は1961年)の中で、第一次世界大戦直後から1920年代にかけて、アメリカの先鋭的な巨大企業が、それぞれの必要性から事業部制を取り入れていった経緯を、明らかにしている。
化学企業のデュポン、自動車企業のゼネラル・モーターズ(GM)、石油企業のスタンダード・オイル、そして小売業のシアーズ・ローバックの4社では「管理された分権化」がみられた。各事業部が、事業に必要な機能をすべて備えているため、事業部単位で計画を立て、利益を出していくことが可能になった。その結果として、事業の多角化に対応しやすくなるだけでなく、事業部ごとに経営者を育成していくことにもつながっていったのである。
企業は、20世紀初頭のような、創業者の独断によって経営されるものから、マネージャーによって管理(マネジメント)される対象へと変化していった。『働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている』 第1章 より 侍留啓介:著 光文社:刊
ヨーロッパで生まれた資本主義の種は、アメリカという肥沃の大地で大きく花開きました。
アメリカ型の資本主義経済は、二度の世界大戦を経て、アメリカが世界の中心になることで、世界のスタンダードとなりました。
敗戦国として、アメリカの指導を受けながら経済を復興させた日本も、当然、その勢力下に組み込まれています。
効率重視、利益重視の今の世の中の風潮も、もとを辿ると、そこに行き着きます。
「宗教化」する資本主義
「グローバル資本主義」というと、あたかも普遍的なシステムであるかのように聞こえます。
しかし、侍留さんは、「主義」という名が示す通り、これはイデオロギーのひとつの形態にすぎない
と指摘します。
ここで金融システムの根幹をなす株式に目を向けてみよう。株式それ自体は使用価値がない。株式それ自体が物やサービスを提供するわけでもない。そもそも株式の発行元である法人すら、「人」になぞらえられた、フィクショナルな存在である。
株価もまた実態がない。ファンダメンタルズ(企業ごとの業績、資産・負債などの財政状況)という一応の指標は存在するものの、市場に参加している者たちの心理的バイアスや市場環境が反映されて、株価はランダムに変動する。
株式を売買する証券市場は、カジノに近い。個人からヘッシファンドまで、さまざまなプレイヤーが日々売買しているが、売却リターンを得ることが究極の目的である。そして、投資家のリターンが発行体企業に与える影響は、直接的にはほとんどない。
もちろん、ここで述べた本質に対する建前としての反論はありうる。例えば、企業の成長を支援する果実としてリターンをうけとっている、と主張する投資家がいる。しかし、少数株主が企業経営に与えられる支援は限定的であり、時に有害ですらある。真に企業経営に貢献するのであれば、バイアウトのように、株のマジョリティーを保有して、経営陣と一体化して経営にあたる必要がある。
また株価の動きは、投資家や経営陣、株主の関心事ではある。最近では物言う株主(アクティビストファンド)も増えてきた。しかし、株価が企業経営に与えている直接の影響は曖昧(あいまい)である。私は個人投資家からヘッジファンドマネージャーにいたるまで、何百という投資家にこの実質的な価値を問うてきたが、明快な回答を得られなかった。
なお、念のため補足しておくと、「証券市場」には「プライマリー市場」と「セカンダリー市場」がある。
「プライマリー市場」は、IPO(新規公開株)を含め、企業が株式等を発行して資金調達を行なう場を指す概念である。「プライマリー市場」という実際の取引所があるわけではない。ただしIPOの場合は、発行体企業の資金調達というよりは、上場前からの既存投資家による株式売却の側面が強い。また、銀行借入が一般化している日本においては、プライマリー市場によって資金を調達しようとするインセンティブが希薄である点にも注意が必要である。さらに、発行体企業が「プライマリー市場」で資金調達のために新株を発行すると、株主に難色を示されることも少なくない。一株あたりの株式の価格が下がる「株式の希薄化」を伴うためである。
対する「セカンダリー市場」とは、すでに流通している株式等を売買する場のことである。皆さんが「証券市場」と聞いて一般的にイメージする株式市場のことである。
先ほどの「明快な回答を得られなかった」というのは、このセカンダリー市場に関するものである。セカンダリー市場は、流通している証券の売り買いなので、当該の株式を発行している企業の財務に直接の影響を与えるものではない。
「ならばセカンダリー市場などなくてもいいのではないか」という本質的な議論が出てきても良さそうなものだが、市場プレイヤーにとって、ゲームの場がなくなることは、そもそも想定しえない。
MBO(マネジメント・バイアウト)によって非上場化し、(経営陣・創業家以外の)株主圧力を排除する企業も増えてきている。また投資家も市場ではなく、市場外の未上場取引を選好するようになってきた。アメリカでは1996年までの23年間に、上場企業数が半減した。
なお、MBOとは、企業の創業家や経営陣が、経営の自由度を高めるために、自社の株式の過半数を買い取ることで経営権を取得するM&Aの手法のひとつである。その際、経営陣の資金不足を補うために、投資ファンド(プライベート・エクイティ)を活用するケースも珍しくない。上場を前提としたインセンティブの制度設計にも見逃されがちな問題がある。上場企業からスタートアップ企業にいたるまで、ストックオプションによって、従業員や役員のモチベーションを高めることも一般的になりつつある。こうした現代的な成功物語は「ボロから金持ちへ(Rags-to-riches)とも呼ばれ、特にアメリカでは根強く支持されてきた。しかし、株価が値上がりして、売却できて、はじめてストックオプションは価値をもつ。通常は取得からリターンの実現までに5年はかかる。逆にいえば、こうした一連の奇跡が起こらなければ、ストックオプションは紙屑(かみくず)となる。
また、金融リテラシーの低い経営陣や従業員では、株価がどの程度になるのか、いつ自分のストックオプションを売却できるのか、正確な見通しを立てることは難しい。付与された側としていかほどの価値なのかわからないので、「せっかくストックオプションを付与したのに、従業員のモチベーションが上がらない」と嘆く経営者も少なくない。
仮に正確な株価を予想できたとしても、ストックオプションは、「株価を上げるために経営する」といういびつなインセンティブを誘発する危険性が高い。「株価を上げるためだけに何年も働く」という奴隷や囚人のような従業員を生み出す結果ともなりかねない。証券市場の成功者は誰なのであろうか。
1987年公開のオリバー・ストーン監督による映画『ウォール街』を観るとよい。金融関係者であれば、誰もが一度は観ている映画である。マイケル・ダグラス扮する投資家ゴードン・ゲッコーは、不動産投資をきっかけに貧しい暮らしから抜け出し、成り上がった人物として描写されている。実在の投資家アイヴァン・ボウスキーがモデルとされている。“Greed is good”(強欲は善だ)という有名なセリフが出てくる。
映画の舞台は、バブル景気に沸く日本と対照的に、不況のどん底にあった80年代前半のニューヨークである。株式市場におけるインサイダー取引や仕手戦などを題材として、金銭欲の暴走をリアリスティックに描いたものであった。
こうした金融街の狂気を社会問題として扱った映画であるにもかかわらず、公開後、ゲッコーに憧れて投資銀行に入社する若者が後を絶たなかったと言われている。今でもアメリカで「あなたはゴードン・ゲッコーのようだね」と言えば、皮肉なニュアンスを含みながらも、成功者へのちょっとした褒め言葉になる。
資本家のジョン・ロックフェラーは、「まわりの蕾(つぼみ)は小さいうちに摘み取るべきだ。ビジネスに邪魔だからそうするのではない。自然の法則と神の法則がそうさせるのだ」と述べて自らが率いていたスタンダード・オイルの独占を神の名をつかって正当化しようとした。ロックフェラーはまた「富は神のしもべであり、富める者は神の代理人である」とも語っている。
成功した資本家や経営者こそが、現代の神であり、伝道師であるーーゲッコーにも通じるロックフェラーの言葉は、このような世界観を含意している。
資本家礼賛の世界観がアメリカで発展した背景には、アメリカン・ドリームに象徴される個人主義がある。身ひとつでボストンに辿りついた移民たちによって建設された国家では、誰にでも均等に成功の道が開かれているという資本主義の価値観が、うまく整合したのである。
経営者の神格化には、アメリカ特有の寄付文化も寄与している。アメリカでは、資本家や経営者が多額の寄付によって大衆の支持を集めることが珍しくない。先に述べたロックフェラーのスタンダード・オイル・トラストも、解体までには時間を要した。ロックフェラーが大衆から支持されていたことが要因としてあった。
現代でも同じである。たとえば、アメリカの名だたるビジネス・スクールに目を向けると、そのほとんどが寄付者の名前を冠している。
ペンシルベニア大学ウォートン・スクール、MITスローン・スクール、カーネギーメロン大学テッパー・スクール、シカゴ大学シカゴ・ブース・・・・・・。「ウォートン」「スローン」「テッパー」「ブース」は、いずれも寄付者の名前である。たとえば、私の通ったシカゴ・ブース(Chicago Booth)の「ブース」は、デービッド・ブースにちなんだものである。ブースは2008年に、シカゴ大学に対して個人で3億ドルを寄付している。
こうしたビジネス教育への盛んな寄付が、成功した経営者や資本家、投資家らへの信奉を強固なものにしている。日本でしばしばやっかみの対象となるのとは少し違った、憧れや尊敬の眼差しである。そして信者であるMBA取得者たちが、次なる教祖たらんと必死に働き、さらに資本主義を加速させるという循環につながっている。
資本主義社会における神とは、「見えざる手」を持った抽象的な存在ではなく、「札束を持った資本家」なのである。そもそも資本主義は、誕生した時点である種の宗教性を帯びていた。初期資本主義の誕生は、ヨーロッパにおけるプレ近代から近代への転換期、つまり16世紀に展開された宗教改革に端を発する。
宗教改革とは、免罪符を買えば罪が贖(あがな)われ、救済が保証されると謳っていた当時のローマ・カトリック教会に対して、マルティン・ルターが意を唱えたことに端を発する一連の社会運動である。ルター派、カルヴァン派などのプロテスタント諸派はそこから生まれた。
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、プロテスタントの信徒らの間で育まれた倫理観こそが、続く17世紀に勃興した初期資本主義を支え、資本の形成を促していったのだと看破した。
ウェーバーが1905年に発表した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は難解なことで有名だが、その概要を軽くまとめておこう。
ローマ・カトリック教会の腐敗と権威主義を弾劾し、聖書に書かれたことを重んじようとしたプロテスタント諸派の思想のうち、結果として資本主義の発達に寄与したとウェーバーが考えているのは、ルターに由来する「天職」の観念と、カルヴァンが掲げた「予定説」である。
「天職(ドイツ語ではBeruf’(ベルーフ)、英語ではCalling)」は、神から与えられた使命としての職業を意味する。ルターは、自らが生活している世俗社会で勤勉に仕事に励むことこそが神の意志にかなうのだと考えた。
一方、「予定説」は、死後に自分が救済されるかどうかは、神によってすでに決められているとする考え方である。しかし、人間はこの神の定めた運命を知ることはできない。人間が為(な)しうるのは、厳正で与えられた職を天職とみなして、励むことだけであった。この「天職」と「予定説」の追求により、浪費は咎(とが)められ、節制が推奨されたため、結果としてカルヴァン派の人々は財を蓄えることになった。
それまでは、利潤を追求することは、ユダヤ人の高利貸しがそうであったように、「守銭奴」と呼ばれて忌避される傾向が強かった。しかし、一連の宗教改革を通じて、勤労対価として蓄財することは、神の思(おぼ)し召しと見なされるようになってきたのである。
そして、財産の余剰分を、資本として投下することか選好された。節制しつつ、資本再投下によって財産をさらに膨らませることが、よりいっそう神の意志にかなうのだとみなされるようになってきた。
プロテスタンティズムにおける禁欲こそが資本の形成を促し、資本主義の精神として浸透していったーー。一言で言えば、これがウェーバーの見立てであった。
前節で、最初に本格的な株式会社と証券取引所を整えたのはオランダ、資本主義が大きく育ったのがイギリス、そして資本主義がグローバル・モデルとして成熟したのがアメリカであると述べた。オランダ・イギリス・アメリカは、いずれもプロテスタント国家である(英国国教会もプロテスタントの一派)。ウェーバーの主張を踏まえるならば、これは単なる偶然とは思えない。実は日本でも、宗教が動機となって資本主義の萌芽(ほうが)が築かれた。
寺西重郎(じゅうろう)は、その著書『日本型資本主義』で、12世紀から13世紀にかけて、日蓮・道元・親鸞らが興した鎌倉新仏教が、大衆の間に職業的求道主義を定着させていったこと、そこから派生した「勤勉」「正直」「倹約」という道徳意識が、江戸時代に至って日本型資本主義の基礎を形成したことを論証している。
かつての奈良仏教における救済とは、悟りによる輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)を意味し、僧院での厳しい修行を通じてしか会得できないものだった。鎌倉新仏教は、在家信者であっても念仏を唱えることのみで極楽往生できるとする考えなどを通じて「易行(いぎょう)化」を推し進めた。さらに、僧院ではなく日常生活で積み上げた精進や善行こそが、悟りに近づくものだとする「廻向(えこう)」の観念も重視していた。
つまり、日常の職業生活をまじめに務める、という職業的求道こそが、悟りへの近道となっていった。ここに鎌倉新仏教徒、16世紀以降のプロテスタンティズムとの類似点を見出すことができるのである。そして日常の職業生活を修行とみなすこうした職業観が、江戸時代には、二宮尊徳、石田梅岩(ばいがん)らによって、「勤勉」「正直」「倹約」を何よりも尊ぶ実践的な道徳となり、大衆の間に広く流布(るふ)していくことになったと考えられる。
「勤勉」さは生産性を高めることにつながり、商いをする者同士が「正直」に向き合うことは、信用に基づく効率的な取引システムに結びついた。「倹約」が富の増大を導いたことは言うまでもない。
寺西の説に基けば、明治維新以後、日本が短い間に欧州に比肩(ひけん)しうる経済力を身につけることができ、また第二次世界大戦後には世界第2位の経済大国にまで登り詰めることができた背景には、文明開花以前に、資本主義的な価値観の下地があったためである。
もちろん、同じ資本主義とはいっても、欧米型ーー特にアメリカ型資本主義と日本型のそれとでは、随所に違いもある。欧米のようには資本主義が発展しなかった。
しかし、宗教的な背景が大きく異なっている国の間で、同時期に、結果として相似した現象が起きていた点は興味深い。『働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている』 第1章 より 侍留啓介:著 光文社:刊
アメリカ型資本主義は、「株式市場」という“車”に、「欲望」という“ガソリン”を注ぎ込んで突き進んできました。
「宗教」は、その動きをさらに加速させる“追い風”となりました。
アメリカ同様、日本が敗戦から瞬く間に世界的な経済大国にのし上がれたのは、このシステムがうまくはまった結果ですね。
「キャリアアップ」という幻想
アメリカ型資本主義は、利益追求主義が基本です。
企業も、そこで働く従業員も、知らないうちに、その歯車として組み込まれています。
侍留さんは、企業側としては、「従業員からどれだけ多く搾取できるか」という視点が、無自覚的にせよ働いて
いて、勤め人の側からみれば、「貢献の大きさ」、つまり「それぞれが社にもたらしている利益」において、その従業員の給与が高い水準に達することは、むしろ稀
だと指摘します。
しかし、この不都合な真実を、勤め人に対して会社がストレートに伝えることはまずない。勤め人が認識した瞬間に、モチベーションが下がるためである。企業としては、本音を隠しつつ、不満を解消したい。そのために巧妙な仕組みを用意することになる。
その最たるものは、「企業フィロソフィー」という美辞麗句である。「大事なのは金じゃない」として報酬を抑えつつ、勤勉に労働することの大切さを従業員に叩き込んで生産性をあげていくのです。これを「従業員教育」と呼ぶのか、「理念浸透」と呼ぶのか、「洗脳」と呼ぶのかは、人によって解釈が分かれるところだろうが、名経営者と言われる人たちは、例外なく「企業フィロソフィー」を浸透させることに長けている。
斎藤貴男(たかお)著書『カルト資本主義』(ちくま文庫)から、稲盛和夫の人物評を見てみよう。精神世界に深く入り込み、あるいは使い捨て文明を批判して、“愛”や“共生”を声高に叫ぶ稲盛だが、外の社会から見た京セラ・DDIグループの企業活動のベクトルの角度は、普通の大企業と寸分変わらない。生産性が高い分だけ、企業の論理の徹底ぶりは、むしろ凄まじい。だからこそ稲盛は、わが国企業社会において躍進を続けてくることができた。(傍線は引用者による)
また、国友隆一(くにともりゅういち)も、『稲盛和夫語録にみる京セラ 過激なる成功の秘密』(こう書房)で、京セラにおける従業員の勤務実態について、「長時間の拘束はまったくない。しかし自発的に夜更けまで働くことは、各人の燃える情熱の表現だ」と皮肉まじりに表現している。
伊藤忠商事の会長や日本郵政の取締役などを歴任した丹羽宇一郎(にわういちろう)も、「汗出せ、知恵出せ、もっと働け!」という名言を残している。私自身も、若き商社マン時代はこの名言に鼓舞されてよく徹夜したものだった。しかし、今にして思えば、単に「(給料は変わらないけど)もっと働け」という経営者視点の美辞麗句に聞こえなくもない。
また、企業は個々人の生産性と給与の関係をわかりづらくしようともする。たとえば、報酬はそれほど高くなくても、福利厚生的なベネフィットが充実している会社は少なくない。オフィスの中に無料のカフェやレストランを設けたり、タクシー利用や接待費について寛大な企業もある。
こうした経費は、日々恩恵を享受できるため、従業員の満足度は高くなる。企業側からすると、経費を損金計上できるという意味で節税にもなるため、給与水準を引き上げるより安上がりになることが多い。人間は、給与明細の数字が少し上がるよりは、毎日タクシーを利用できることや飲食の負担を減らせる直接的体験を肯定的に評価しがちである。
自分たちが搾取されているという事実を、いかにして従業員たちに悟らせないかーー。
「使う側」のそうした発想や心理を本音ベースで述べる経営者も学者もあまり見た覚えがない。しかし、この不都合な真実を正面から見据えない限り、資本主義社会の搾取構造は見えてこない。資本主義による搾取は、労働者のみならず、商品を購入する消費者にも向けられている。企業はあの手この手で価格を上乗せして、消費者に少しでも多く払わせようとする。
そのために、世の中で成功しているビジネスモデルの多くは、価格構造を意図的にわかりにくくすることで成り立っている。
先日、私が携帯電話を買いに行ったときも、店員の説明する価格の仕組みがとにかくわかりにくくて往生した。頭が混乱しているさなかに、「今なら数万円分のポイントを還元しますよ」などと言われると、ついつい、「あ、それはお得だな」と思ってしまう。
ところがその後、いったん店を出て、説明された価格体系を、ノートにすべて書き出して計算してみたところ、ものすごく割高な商品を買わされそうになっていることがわかった。そこでもう一度店に戻って店員に計算式を示してみたところ、店員は非常にばつの悪そうな顔をしつつも、私への説得を諦めていた。
私は職業柄、ノートとペンを持ち歩いて真偽をたしかめる癖がついているが、一般にはそういう人の方が珍しいだろう。これでは、普通の人も簡単に情報弱者に仕立て上げられてしまう。あるいは、サブスクリプションの幽霊会員のように、支払いの認識すらないまま支払いを続けていることもよくある。
ただし、こうしたビジネスを一概に糾弾するつもりはない。資本主義が利益のあくなき追求を要求するものである以上、1円でも多くの金額を顧客に払わせることは、労働搾取同様に、企業の至上命題である。そのため、サブスクリプションや複雑なビジネスモデルとしてはひとつの理想的な姿ですらある。
ビジネスというのは、結局のところ、何を売ろうが、どんな売り方をしようが、利益を最大化することこそが重要である。たとえば砂糖と油まみれのスナック菓子や、中毒症状を引き起こすスマホアプリ、あるいは「エコ」を謳った割高な雑貨が、本当に人類の役に立っているのかどうかは怪しいものだが、利益をしっかりと上げている以上、資本主義の観点からみれば、「立派なビジネス」ということになる。資本主義は必ず利潤を必要とする。利潤獲得の手段は、人件費を中心としたコストを下げることや、価格を見直すことだけでなく、人為的に需要を喚起することも有効である。
マクロレベルでの需要喚起は、法改正を伴うことも少なくない。たとえば、2024年から拡大されたNISA(少額投資非課税制度)を考えるとわかりやすい。NISAがどのような意図で作り上げられたのかはわからないが、政府や金融機関による盛んなメディアキャンペーンを伴って導入されたことは事実である。この制度が、個人投資家にどの程度の恩恵をもたらしうるのかについては意見が分かれるところであろうが、結果として、金融機関の手数料収入や上場企業の株価増進に貢献していることは間違いないであろう。我々のタンスや銀行に眠っていたお金の一部は、新たな需要喚起によって金融機関の手数料として徴収され、株価上昇を通じて上場企業や機関投資家の懐(ふところ)を潤したことになる。
同じ意味において、定期的に湧き出てくる企業の社会貢献活動施策も、需要喚起の側面が強い。SDGsを考えてみよう。「持続可能な成長」という、いかにも折衷的な、中途半端な印象が拭えない。本来、少しでも多くの利潤を獲得するのが企業倫理であるなら、こうした社会貢献活動はその足枷(あしかせ)にしかならないはずである。にもかかわらず多くの企業が積極的に取り組むのには、企業に何かしらのメリットが伴っているはずである。
企業側のメリットのひとつとしては、イメージ向上であろう。資本主義を貫いている限り、企業活動には強欲な側面が必ずあるが、かといってこの強欲さを露骨に見せることは得策ではない。常日頃から社会貢献活動を積極的にアピールしていれば、強欲なイメージを中和することができると同時に、消費者からの支持を得ることさえもできるはずである。
もう一つの企業メリットは、社会貢献活動それ自体が、直接的に利潤をもたらす場合があることである。レジ袋の削減と、エコバッグの流行を例に取ってみればわかりやすい。
レジ袋をやめることは、当然、企業にとっては実質的なコスト削減をもたらし、さらにはエコバッグの購入需要を新たに生み出しもする。エコバッグのような、たいしたデザイン性もない布製品それ自体にいかほどの魅力があるのかは疑問だが、「エコ」という免罪符のおかげで、消費者の間に瞬(またた)く間に定着していった。
レジ袋からエコバッグへのこのシフトが、実際にどれだけ環境保護に寄与しているのかは疑問が残る。エコバッグを使用するのとレジ袋を使用するのとで、どちらがエコロジーにより配慮していることになるのか、簡単には結論づけられない。
レジ袋は大きさや規格が統一されているため、同じものを量産していけばいいだけの話だが、耐久性を売りにするエコバッグは、ひとつひとつ個別に設計し、ゼロから作り上げていかなければならない。その分、環境コストも余分にかかっているはずだ。
また、一般には、同じエコバッグを3年間使えば、レジ袋よりも環境コストが低くなると言われているが、同じエコバッグを3年間も使いつづける人がどれだけいるだろうか。
斎藤幸平(こうへい)は、宗教を「大衆のアヘン」と呼んだマルクスにあやかって、「SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』である」と述べている。マイボトルやエコバッグの流行に関しても鋭く切り込んでいる興味深い見方である。良心の呵責(かしゃく)から逃れ、現実の危機から目を背けることを許す「免罪符」として機能する消費行動は、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーン・ウォッシュにいとも簡単に取り込まれてしまう。
私は現在アメリカに住んでいるが、日本ほどにはSDGsの標語をみる機会がない。かつてCSR(Corporate Social Responsibility、企業の社会的責任)や社会起業家(Social Entrepreneurship)といった概念が流行となったが、現在ではほとんどきくことはない。SDGsも、きっとそのような流行語として忘れ去られるであろう。しかしまた、似たような新たな流行が現れ、便乗して利益を得ようとする企業が出現し、一般消費者が踊らされる未来が来るであろうことは想像に難くない。我々にできることは、自らの頭で考え判断することだけである。
『働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている』 第2章 より 侍留啓介:著 光文社:刊
「環境に良い」として導入されたエコバックも、ビジネス的な要素が強いです。
SDGsは、社会貢献が強調されていますが、ビジネス主導で進められている側面は否定できません。
「キャリアアップを目指すべき」
「もっと働いて、もっと稼ぐべき」
そんな考え方も、アメリカ的な資本主義が自らを拡大するために、私たちを「洗脳」するためのもの。
私たちは、知らず知らずのうちに資本主義のシステムに組み込まれ、その歯車の一つなっている。
その現実に気づく必要があります。
「資本主義ゲーム」を生き抜くには?
資本主義社会を巧みに生き抜くには、資本主義を知悉(ちしつ)した上で、足元を掬われないようにすることが最低限求められ
ます。
侍留さんは、個人にとっての資本主義における目的とは、一言で言えば、「より多くの収入を得る」こと
であり、個人としては、まずこの目的をしっかりと見つめなければならない
と指摘します。
「より多くの収入を得る」ために、最初に理解すべきは、アメリカの投資家・ロバート・キヨサキさんが掲げる「キャッシュフロー・クワドラント」です(下の図1を参照)。

四象限とは、E(employee=従業員)、S(self-employed=自営業者)、B(business owner=経営者)、I(investor=投資家)である。収入を得ている人は必ず、このうちのいずれかのタイプに属している。
上の図を見ていただければわかる通り、四つのグループはさらに、左側のE、Sと、右側のB、Iに分けることができる。キヨサキは、「経済的自由」を手に入れるには、クワドラントの右側、すなわちB(経営者)やI(投資家)として権利収入を得ることが近道であると主張している。
ただ、キヨサキも、E(従業員)やS(自営業者)のような生き方を否定しているわけではない。お金を手に入れるに際して、権利収入、労働収入それぞれの道に違うやり方があると述べている。
EやS(従業員や自営業者)は「貧乏・負け組」であり、BやI(経営者や投資家)が「金持ち・勝ち組」であるという解釈をする人がいるが、これは誤解である。E、S、B、Iの四象限は枠組みであって、上下のある「階層」ではない。E→S→B→Iの順に成長していくことが望ましいという読み方は必ずしも正しくない。E(従業員)として成功する人もいれば、I(投資家)として失敗する人もいる。キヨサキ自身も「どのクワドラントにも、大金持ちになる人もいれば破産する人もいる。あるクワドラントに属しているからといって金銭的な成功が約束されるわけではない」と述べている。つまり、E、S、B、Iそれぞれにおいて勝ち筋があるのである。「使う側」と「使われる側」とで、生き抜くための処方箋は大きく違ってくる。
「使う側」とは、キヨサキのキャッシュフロー・クワドラントで言う右側のB(経営者)、I(投資家)のことであり、「使われる側」とは左側のE(従業員)、S(自営業者)に当たる。キヨサキのいう「権利収入」と「労働収入」の違いは、言いかえれば、「(人を)使う側」と「(人に)使われる側」の違いでもある。
Sは独立した自営業者なので、「使われる側」に組み入れることに違和感を覚える人もいるかもしれないが、自営業者の多くは従業員を雇い入れず、個人として業務を請け負っている。業務を委託する側、つまりお金をくれる側の勝手な都合に振り回されることが多く、その意味では、E=従業員と同じく、「使われる側」に属する。
私も自営業者として働いた経験があるが、多少、上司と揉めたとしても毎月一定の収入が確保されるE=従業員と違って、自営業者は、委託元の機嫌をそこねれば、すべての収入を失ってしまう。自営業者こそが、実は取引先を含むビジネスパートナーにおもねる必要性が高いのである。「上司に媚びへつらうのが嫌だから独立したいけど、独立したらもっと媚びないといけなかった」と気づく自営業者は少なくない。「使われる側」が勤務する企業や取引先からいかに身を守るかが大切であるのは当然のこととして、「使う側」は「使う側」で、自らの身を守る手立てが必要になる。資本主義を一種のマネーゲームと捉えるなら、きれいごとばかりを言ってられない。
「使う側」としては、第2章で述べたように、果敢にM&Aを繰り返して自らの経営する会社の時価総額を上げ、その会社を売却して一攫千金を実現するというのもひとつの方法である。また、労働力をうまく使って(悪く言えば、うまく「搾取」して)、会社を巧みに回していくことを視野に入れておかなければならない。
このように言うと、日本では経営者の価値観が問われそうなものであるが、「使う側」に倫理を問うというのは、本来おかしなことである。彼らはただ、「より効率的により多くの利益を獲得する」ことを目的とする資本主義のルールに従っているだけであるし、逆に言えばこのルールに従わない限り、自らが経営者として立ち行かなくなる。企業経営に失敗すれば、結果として、従業員や取引先にも迷惑をかけることになる。B(経営者)を志す人には、Eつまり一従業員の立場から昇進して社長にまで登りつめるというルートもなくはないが、それよりは自ら起業する方が近道だろう。
起業というと、誰もが「スティーブ・ジョブズを目指せ」といった方向に構えがちだが、「スティーブ・ジョブズ」を目指すという取り組みは、二つの意味で間違っている。
第一に、ジョブズにせよ、ジェフ・ベゾスにせよ、あるいは孫正義にせよ、カリスマ経営者と呼ばれるような人々は、ごくひと握りの傑出した能力の持ち主なのであり、誰もが目指してなれるものではない。
第二に、“宇宙をへこませる”ようなアイディアは簡単には生まれない。世界を変えるようなアイディアでジョブズを目指すよりも、むしろ確実な利潤確保を目指した方が、起業としては成功しやすい。
実際の成功企業事例を見ても、誰でも思いつきそうな、ありふれたアイディアで手堅く展開することで、目を見張るような業績を挙げている会社が少なくない。
ヘアカット専門店「QBハウス」を展開するキュービーネット株式会社などは典型例だろう。単価の安い理髪店のアイディアだけなら誰にでも発想できただろう。しかし、空想にとどめず、アイディアを実行に移した。
設備やシステムを徹底的に合理化し、精緻に原価計算した上で、従業員全員にしかるべき給与を支払って、それでもなお十分な利潤が残る優れたビジネスモデルを構築している。何度も株主が変わり、経営者が変わっても運営できるビジネスモデルとなっている。それがカリスマ経営者による“宇宙をへこませる”理髪ビジネスであったならば、赤字の垂れ流しで終わっていたであろう。QBハウスが未来永劫続くかどうかはわからないが、固定化された理髪ビジネスに、結果として鉄杭を打ち込んだことは事実であろう。
最近では、巨大な事業を目指すよりも成功確率が高く、安定性もあるという理由で、事業規模や資金規模の小さいいわゆる「スモールビジネス」を目指すケースが増えている。小規模で堅実な事業を目指すのは、B(経営者)としてのひとつの道であるだろう。
日本の「マイルドヤンキー」と呼ばれる経営者たちも、スモールビジネスに似た立ち位置にある。投資家の藤野英人(ふじのひでと)が著者『ヤンキーの虎 新・ジモト経済の支配者たち』(東洋経済新報社)の中で取り上げている、東京に憧れを抱かず、地元で経済的基盤を確保して成功を謳歌しているような経営者のことである。
スティーブ・ジョブズのような地位を目指して起業するのはリスクが高く、成功できるのもごく一部の限られた人だけであるが、一方では、マイルドヤンキーのように、自分が育った地元で、自分やれることをやって成功している経営者が数多く存在する。こうした経営者を目指す方が、スティーブ・ジョブズを目指すより現実的である。
スティーブ・ジョブズを目指してはいけない、さらなる理由としては、経営者のカリスマ性が強いほど、会社を売却することが困難になる点である。これは第2章の〈「一攫千金」のためのM&A入門〉で述べた通りである。誰が経営を引き継いでも回していける形にしておかないと、企業価値はかえって下がってしまう。
起業したら、毎年、コツコツと利益を積み上げていき、企業価値をある程度まで高めてから、M&Aで会社を売却することもよいかもしれない。そうすれば、第2章で述べたように、その会社から生み出される利益を何年分も上乗せして受け取ることができる。ただしこの場合、会社を売却できる状態にしておく必要がある。そうでなければ、いつまでも創業者が経営から離れることはできない。
会社を売ったお金を原資にしてI、つまり投資家になるというのが、資本主義ゲームにおけるひとつの勝ち筋ではある。ZOZOを売却した前澤友作、ライフネット生命保険を立ち上げ、会長を勤めてから退任した岩瀬大輔など、B(経営者)からI(投資家)に転身している。
E、S、B、Iは必ずしも連続したコースでないことは先に述べた通りだが、I(投資家)はひとつの到達点である。本田圭佑(けいすけ)など様々な業界における成功者が最終的に投資家になっている。成功した経営者が投資家となることで、資金の出し手となるとともに、経験に基づいた助言を行ない、異業種で培った知見を新規事業に取り入れることが可能となる。
Iとして投資する元手を確保することを想定するのであれば、最終的には会社を売却することを起業時点で想定しつつ、「出るだけ高く売れる会社を作っていく」ことこそが、Bの人とっても勝ち筋になる。『働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている』 第3章 より 侍留啓介:著 光文社:刊
四つの象限、どれでも大きな収入を得る方法はあります。
その中でも、最も効率的に稼げるのがI(投資家)だということ。
今時点で、どの象限にいるとしても、最終的にはI(投資家)となる。
それが、今の資本主義社会を生き抜く「勝ち筋」だということですね。
「使われる側」の戦い方とは?
E(従業員)もしくはS(自営業者)、つまり「使われる側」として生きていく場合、どうすればいいのでしょうか。
侍留さんは、雇い主(あるいは業務委託先)から多かれ少なかれ搾取されることは避けられ
ないが、その上で、「使われる側」としては、「搾取される度合い」をできるだけ低くするように努めたい
と述べています。
ひとつの方法としては、労働に対する対価の水準が明確なものや、成果報酬が魅力的な仕事を選ぶのがよい。このような判断の下であれば、第2章の〈フリーランスという危険な選択肢〉で取り上げたフリーランサーという選択は、決して悪い働き方でない。
フリーランスと一口にいっても、美容師などの技能保有者に対しては、「売上の××%」と分配率が明確に規定されているケースが多い。また、弁護士や医師などの国家資格は参入障壁が高いため、委託報酬が叩かれにくい。こうした業種であれば、働けば働くほど報酬を上げることができ、フリーランスは魅力的な選択肢となりうる。
収入が上がらないとしても、フリーランサーは勤務時間を任意に増減できるため、子育てなどで時間の制約がある人にとって都合がいい仕組みだろう。
営業保険のセールスなど、大きな上昇余地のある成果報酬型の仕事も魅力である。こういう仕事では、一定の顧客を確保できれば、顧客が顧客を呼ぶという状態になりやすいため、年収も桁違いに膨れる可能性がある。
私の友人にも、保険のセールスで成功している方が何人もいる。一定の評判と顧客ネットワークを築いてしまえば、それ以降は口コミで顧客層を無限に拡大できる。いわば「ファンコミュニティ」が形成されるので、充実した人生にもつながるだろう。「使われる側」として、E(従業員)はいかにして身を守っていけばよいのであろうか。もしも現在、いずれかの企業に正社員として雇われているのなら、その立場にしがみつくことも視野に入れた方がよい。起業家や資本家、あるいはフリーランサーに憧れる気持ちがあったとしても、安易な転職は危険である。
特に気をつけたいのは、40代以降の転職である。40歳以上なら、転職しても現在の勤務先より待遇が下がる可能性がある上に、立場もいっそう不安定になる。こういう職場に移ってもメンタルがもたない。採用する企業側からみても、そもそも50歳以上の人材から大きな利潤が生まれることは期待しづらい。
こうなると、高齢の転職者の側にしてみれば、酷使されるか、ものすごく待遇が悪いかの二択になってしまう。つまり、この場合、転職した方がむしろ「搾取される度合い」が大きくなってしまうということだ。そんなところで定年までを過ごすよりは、今の勤務先にしがみついて、趣味などを増やした方がいいのではないだろうか。
そもそも米国に比べて日本の労働市場は、転職が難しい。たとえばトヨタとホンダの例で考えると、両社とも似たような製品を生産しているにもかかわらず、トヨタの従業員がホンダに転職するのはなかなか難しい。なぜなら、その人が会得している経験値は、トヨタという独自の生産システムの中で培われたものであり、その経験値をそのままホンダに適用させることができないからである。逆もまた然(しか)りである。
一方で、ひとつの会社に勤め続けるメリットは少なからずある。企業側の視点として、(人件費を抑制するという目的に照らして)企業のブランドやそこで提供できる経験の質も重要である、と先に述べたが、従業員の立場で言えば、個人事業の個人企業では得られない経験ができる、ということを意味する。これは、企業に勤めることの大きな魅力になっている。このような日本の伝統企業での就労スタイルは、昨今の起業やフリーランサー美化の風潮の中で軽視されているようにみえるが、実は魅力的である。
三菱商事のような年商数兆円規模の、世界レベルでの企業におけるビジネス経験は、小規模の企業や、ましてや個人事業では得られない。たとえば、東京証券取引所のグロース市場の時価総額合計は7兆円超であるが、これは三菱商事一社の時価総額13兆円にも及ばない(2024年10月現在)。
三菱商事のような大企業ではなくても、企業で働くことの魅力は享受できる。どのような会社であっても、長年の信用やブランドによって成り立っているビジネスであれば、多様な取引先にも恵まれ、目的さえ持って行動すれば、個人の枠を超えた仕事をすることができるからである。
また、企業人であれば転勤もあり、出世もあり、勤務先が変わらなくても立場や視座が変わることはありうる。しかし、これが個人事業の立場であれば、自らが相当な努力をしない限り、また、相当な幸運に恵まれない限り、現状の延長線上にない仕事をすることは難しい。
労働とは本来、賃金ではなく自己実現のために行なうものである。安定賃金と終身雇用の約束された日本企業でこそ本来の労働が実現しうる、とも考えられる。先に挙げたロバート・キヨサキによるE、S、B、Iのキャッシュフロー・クワドラントは、「どこから収入を得るか」ということを可視した区分だが、仕事に関しては、「待遇がいいか悪いか」「楽しいか、楽しくないか」ということを軸にして四象限で捉えることも可能である。上の図をご覧いただきたい(下の図2を参照)。
そうすると、「待遇が悪い上に楽しくない」というのが最低の状態で、その反対である「待遇もよくて楽しい」というのが最高の状態ということになる。最高の状態はなかなか実現できない。
よって現実的には、「待遇はそれほどよくないが、楽しい立場」か、あるいは「待遇はいいが、楽しくはない立場」のいずれかを目指すのが妥当だということになる。
まず「待遇はいいが、楽しくはない立場」をみてみよう。
この象限に属する人は、具体的には外資系金融に多い。自らが外資系投資銀行で働いた経験をもつ勝間和代は、仕事が楽しくなからこそ待遇が良い、と再三指摘している。
金融業界がなぜ、従業員の受け取る報酬を高い水準に保てるのかといえば、粗利益が大きいからである。高額な給与を支給したとしても、投資銀行としては十分な収益が見込めるのである。
待遇の良い業界の他の例としては、不動産会社もある。取引額に応じて高額な手数料が期待できる一方で、人件費以外の費用はあまり多くない。そのため、従業員への報酬を高くできるのである。
もうひとつ、E(従業員)にとって現実的な選択肢は、「待遇はそれほどよくないが、楽しい立場」である。
仕事に「楽しさ」を求めるのもいいが、会社での仕事ではできるだけ「楽」をして、その分、趣味などを充実させて「楽しく」過ごすこともありえる。むしろ仕事の「楽」さと、人生の「楽しさ」を追求する生き方こそが、E(従業員)の人にとっての理想である。
極論すれば、E(従業員)として生きるなら、その会社で自己実現を果たすことは期待しない方がよい。「こうすれば必ず出世できる」ということを保証するルートなどは存在しないからである。
もちろん企業としては、出世をニンジンとしてぶら下げることで従業員を働かせたいので、ことあるごとに出世の可能性をちらつかせてくるが、ほとんどの人にとって、満足のいく出世は単なる幻想でしかない。そして不幸なことに、転職価値のなくなった40〜50歳になってはじめて、この現実に気づくのである。
出世方法を説く自己啓発本が飛び交っているが、そうした類のアドバイスを実践しようとしたところで、出世も果たせない上に、いたずらな疲弊に見舞われる。
したがって、従業員の立場で自己実現を果たそうと思うのが、多くの場合、そもそも間違っているのである。変に頑張って失敗する危険すらある。体調を崩しては本末転倒である。会社のために不要なリスクを犯す必要もない。従業員としては、特に大企業に身を置いているならなおのこと、現在の立場にしがみついて、いかに楽をしていくかを考えるべきである。
「楽をする」ということにおいては、私生活において楽しめる趣味を持てるかどうか」ということが、大きな鍵となるだろう。
趣味で本当の友人に巡り会えるのであれば、それは職場づきあいよりも豊かな人間関係につながるかもしれない。
ハーバード大学では1938年から現在にいたるまで、ハーバード大学の卒業生と、同地域の貧困層を対象に幸福度の変化を追跡調査している。ハーバード大学を卒業した彼らは、一見すると輝かしいキャリアを築いているように見えるが、必ずしも幸福であるとは限らないことがわかっている。一方で、貧困層の調査対象者の中には、支え合うコミュニティや深い人間関係を持つことで、比較的高い幸福度を示した例もあったという。この研究から、幸福の最大の要因は物質的な成功ではなく、良好な人間関係にあることが明らかにされている。
もし趣味がない、というのであれば、大学に通うことはどうだろうか。現在は、日本の大学でも多くが、社会人を受け入れている。私はこれまで5つの大学に通ったが、豊かな人間関係を築く上でも大学は優れている。また、半強制的に何かを学ぶことは、自分の新しい興味や可能性を広げることにもつながっていくであろう。これはいずれ別の機会に書くつもりであるが、5つの大学での学びは、確実にビジネスに役立っている。シカゴ大学やハーバード大学に通っていなければ、こうして本を書く機会も得られなかったかもしれない。もちろん、地方に住んでいても他地域の大学に通うことは可能である。近年ではオンラインの学位プログラムも充実している。学びの選択肢は無限に広がっているであろう。話を元に戻すと、「待遇はそれほどよくないが、楽しい立場」にあるE(従業員)の人を探していくと、浮かんでくるのは、昭和を象徴する漫画の登場人物たちである。
『美味しんぼ』(原作・雁屋哲/作画・花咲アキラ、小学館)の山岡士郎、『釣りバカ日誌』(原作・やまさき十三/作画・北見けんいち、小学館)の浜崎伝助(でんすけ)=浜ちゃんなどだ。山岡は東西新聞社文化部の記者、浜ちゃんは中堅ゼネコン会社・鈴木建設の一ヒラ社員という設定である。ともに、堅実な経営基盤を持つ、安定企業に勤務している点が共通している。
さらに、山岡も浜ちゃんも、会社での仕事にはあまりやる気がなく、勤務態度も悪いが、そのかわり一芸に秀でており(山岡は食に対する知識や能力、浜ちゃんは釣りのスキル)、結果としては会社に貢献するストーリーとなっている。
上司からはしょっちゅう「おまえはクビだ」とどやしつけられているが、いないと困るので、実際には解雇されずに済んでいるという点も、二人の共通点だ。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(秋本治、集英社)の主人公・両津勘吉(りょうつかんきち)も、同じカテゴリーに入れるべきかもしれない。出世には縁がないものの、公務員として収入は安定しているし、しばしば失策をやらかして始末書を書かされているわりに、いざというときには人並外れた力を発揮するため、結果としては人の役に立っている。また両津も、賭け事のみならず、ラジコン、プラモデル、ゲーム一般と多趣味で、それぞれに一家言(いっかげん)持っている。
考えてみれば、『サザエさん』(朝日新聞社)の磯野波平も、いわば彼らの祖型である。第一線でバリバリ働いているという気配はないものの、「山川商事」という安定していそうな企業に勤務している。そして午後5時には退勤し、囲碁や盆栽などの趣味に時間を割いている。家族とのコミュニケーションも大事にしている。たまには、大酒を飲んでストレスを発散してもいる。こんな生き方も、決して悪いものではないのではないだろうか。
かつて植木等(ひとし)は、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と歌ったが(『ドント節』ハナ肇(はじめ)とクレージーキャッツ)、歌詞は「社長や部長にゃ なれそうもねぇが/定年なんての まださきの事/競輪競馬にパチンコマージャン/負けりゃやけ酒 また借金」と続く。
まさに、昭和の漫画に描かれてきた「気楽なサラリーマン」たちをそのまま引き写したような描写となっている。借金をしてまでギャンブルに明け暮れるのは両津勘吉くらいかもしれないが、ここで前提となっているのは、仮に一時的に金欠になったとしても、毎月決まった額の給金が間違いなく振り込まれるという安定そのものの人生なのである。
昭和のサラリーマンたちが、令和の企業社会からは姿を消してしまったかというと、そんなことはない。現在においても、とりわけ大企業には、「働かないおじさん」と呼ばれる種類の人々が、少なからず棲息(せいそく)している。毎月従業員にお金を振り込まないといけない身となった私からすれば、ある意味で、「働かないおじさん」こそ理想的な職業人なのではないかと思うことすらある。
たしかに「働かないおじさん」ーーつまり、一定以上の規模の企業で悪くない給料をもらっていながら、仕事へのモチベーションも低く、仕事のパフォーマンスも悪いような人たちは会社にとって厄介者だ。
しかし従業員個人の立場からすれば、昭和時代を彷彿(ほうふつ)させる彼ら「働かないおじさん」こそが、資本主義社会おける「勝ち組」のひとつのモデルなのではないだろうか。
「働かないおじさん」とは、大企業の安定性と悪くない収入を確保した上で、解雇されないギリギリのパフォーマンスを発揮し、人生を楽しむ生き方である。個人の生き方として、これ以上のものがあるだろうか。
逆に考えどころなのは、『サラリーマン金太郎』(本宮ひろ志、集英社)の矢島金太郎のような熱血サラリーマンである。金太郎のように結果を出せればいいが、こうした熱血サラリーマンタイプはスタンドプレーまがいのものが多く、かえって会社に損害を与えかねない危険な存在である。良かれと思ってとんでもないミスを犯したりもする。また、単に熱意があるだけの社員は自己顕示欲が強く、時として会社全体の和を乱す存在ともなりかねない。あるいは周りを疲弊させる。
さらに個人のキャリアから見ても、熱血サラリーマンは中途で燃え尽きてしまう恐れがある。社長になれるかどうかは、運によっても大きく左右される上に、仮に社長まで上り詰めることができたとしても、大企業の場合、創業家や歴代社長、株主など睨(にら)みを利かせる存在が目白押しで、好きなようには振る舞えない公算が高い。熱血サラリーマンの辿りつく先として、こうした状況は厳しそうだろう。「坂の上に雲があると思っていたら、雲は見つからなかった」といった結果に終わる可能性が高い。
むしろサラリーマンとしては、なまじの出世などを考えずに、いかに楽をしながら会社に居座るかを画策していく方が得策である。そういう意味で「昭和のサラリーマン」は、E(従業員)にとってロールモデルとなりうる。もちろん「ただ何もしなければいい」というわけではない。文字通り何もせず、生産性を発揮できない社員は、会社にとってはお荷物である。山岡も両津も、会社が必要とする「なにか」があるからこそ活躍できるのである。
では、その「なにか」とは何なのか。多くの人はスキルだと考えるかもしれない。「キャリアアップのために」と思い、さまざまな資格を取得したり、特殊なスキルを磨いたりする人も少なくないだろう。しかし、スキル磨きは多くの場合、長く続かない。
プロ野球の投手を例に取るとわかりやすい。中継ぎ投手で2年以上活躍できる投手は稀(まれ)である。一芸に秀でている人こそ、消耗も早く、対策も立てられやすい。スキルが高いからこそ切り捨てられるのも早い。ビジネスでも、単に高いスキルを提供するだけなら、外注で十分である。
ひと昔前なら、「英語が話せる」という技能だけでも切り抜けられたかもしれないが、今では通用しなくなっている。会計やITなどのスキルも、ただそれだけの人であれば街中に溢れている。もっとも、地方ではまだ重宝される場合もあるかもしれない。この点については後述する。
「なにか」とは、むしろ、21世紀のビジネスに「こんなものは必要ない」と言われてきたような「なにか」である。
たとえば山岡や浜ちゃんは、人脈が充実している。人脈を通じて、自分の知識や経験を共有し、さらに人脈を拡げていける点が強みとなっている。こうしたネットワークの輪を拡大しつづけ、しかもその輪の中心に座り続けることができるのである。そして彼らは、やる気がないから転職することも会社を裏切ることもない。雇用する会社側から見ても、簡単には転職しない彼らのような人材は、雇い甲斐も育て甲斐もあるのである。結局、彼らは、ある局面では活躍してしまう存在なのである。
このような「昭和のおじさん」的なスペックや能力には、思いのほか、時代を超えた「なにか」があるのではないかと私は思っている。たとえば「ゴルフ人脈」、あるいは「上役にひたすらゴマをする能力」はどうだろうか。ゴマすりで出世し、確固たる地位を占めている人は、意外と多い。
私は、これまで何千という企業のトップを経営幹部を実際に見てきたが、高い実績と能力を正当に評価されることは、むしろ珍しい。実績を持っている人間は、かえってやっかみを受けたり、攻撃の対象となってしまうので、結果として出世していないケースが多いように感じる。
逆に、実力主義とみられる外資系企業やIT系企業などですら、「どうしてこういう人がこの会社に雇われているのだろう」と不思議に思うようなタイプの従業員と出くわすことが少なくない。特別なスキルはあまりなさそうに見えるが、活躍している。彼らの何が評価されているのかと言えば、マインドセットである。GAFAMのようなグローバル展開をする最先端のITグローバル企業でも、正社員として採用する決め手は、スキルであるとは限らない。むしろ、ハイスキルを持つ人材は業務委託やアウトソーシングで活用すればいいのであって、社内に抱え込むべきは、会社の文化を良い方向に変える力を持つ人材なのである。
意外に感じかもしれないが、外資系企業も、スキル以外の要素を重視している。例えば、私の古巣であるマッキンゼーでは、人事評価においてClient First(顧客第一主義)、Obligation to Dissent(反論する義務)に重きを置いている。これらはスキルセットでもあるが、マインドセットでもある。さらにはPMAとよばれるPositive Mental Attitude(前向きな態度)も重視される。これは「どうすれば状況がより良くなるだろうか」と問題を肯定的に捉える姿勢であり、単なる熱意とは異なる。
日立製作所の人材改革が注目されているが、社員に対しては、能力が高いか低いかよりも、むしろ会社が推し進める改革に意欲的に取り組んでいけるメンタリティを持っているかどうかを重視している。これもPMAに近いマインドセットであろう。
同社は、社内変革に対しての意欲や気構え、すなわちマインドセットを重視している。同社は求める社員を「自燃性(自発的な成長)」と「可燃性(文化を変える巻き込み力)」を備えた「人財」だと定義している。
21世紀初頭には、英語やITといった可視化されたスキルの重要性を謳うキャリア論が多かったが、今後はマインドセットを含めたソフトスキルに変わっていく可能性もある。さまざまなスキルが陳腐化して目新しいものでもなくなった今だからこそ、他で代替できないマインドセットの持つ重要性が増してきているのだと思う。『働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている』 第3章 より 侍留啓介:著 光文社:刊

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「働かないおじさん」として生き残るには、どう身を処していけばいいのか。
侍留さんは、「俺は評価が低いし、ことさらに頑張ることもできないが、役に立つこともあるはずだから、この会社に堂々と居座り続けてやる」という居直りのマインドセット
を持つことだとおっしゃっています。
スキルやノウハウは、流行り廃りがあります。
せっかく身につけても、意味がなくなってしまう可能性もあります。
「どんな手段を使っても、今の会社にしがみついてやる」
そんな戦略的なしたたかさを身につけていくことが、最善の策なのかもしれません。
今は、先が見えない激動の時代。
だからこそ、最小限の労力で、最小限の結果を出して同じポジションに居座り続ける「働かないおじさん」の知恵が有効です。
まだ先の長い若い世代の皆さんにこそ、一読いただきたい一冊です。
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