本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』(三宅香帆)

お薦めの本の紹介です。
三宅香帆さんの『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』です。

三宅香帆(みやけ・かほ)さんは、文芸評論家です。

「話の面白い人」になるには?

飲み会や初対面の雑談、あるいは会議のアイスブレイク。
そんな反射的な面白さが必要な場所で、どうすれば、頭の回転が速くて、話が面白い人になれるのか。

ある講義の後、そんな質問を受けた三宅さん。
それに対して、話が面白い人になるには、本や漫画などを読むことが必要であり、大切なのは、読み方だと指摘します。

つまり、ただ読むのではなく、本や漫画やドラマや映画を「鑑賞」として取り入れることが、必要だということです。

 話が面白くなるためには、本や映画で、言葉や感情や知識をインプットすることがかなり重要だと思う。でも、ただ読めばいい、観ればいいわけではない。そこには技術が必要だ。あたかも展覧会で芸術を鑑賞するかのように、本や映画もメモを取って解釈することで、話すネタとして醸成されていく。
面白い話をするには、技術が必要なんです。
ーーその技術を私は本書にまとめました。

なぜこんな本を書こうと思ったのか。それは、あのとき質問してくださった方が、なんだか過去の自分に重なって見えたからです。
というのも、私は昔から本が好きでした。暇さえあれば本を読んでいた。
けれど、けして話の面白い人間ではありませんでした。
なぜなら本を読んでも内容を忘れてしまう。面白かったとしてもそれを他人に話せない。本の話なんて、誰が興味あるんだろうと思っていた。
書くのは良くても、話せない。話すのは、うまくない。とっさに素早く、言葉が出てこない。
昔は本当に、そう思っていました。

ーーが、そんなことも言ってられなくなったのは、いまの仕事を始めてから。
私は文芸評論家という仕事をしています。本を書くのも仕事ですが、本について話すのも仕事です。
他人に喋ったり伝えたりすることが、Podcastや動画や講演で求められるのです。
・・・・・・となると、話す内容が面白くないと、本も買ってもらえないじゃないか! 死活問題だ! そう気づいてから、どうすれば話が面白くなるのか、頑張って考えました。お恥ずかしい話ですが、頑張ったんですよ。観察と研究を重ねました。

そこで気づいたのが、「鑑賞」の技術です。

つまり、読んだもの観たものを、「ネタ」に変える技術。

話が面白い人は、そもそも他人が話すことのネタを本で知っている、つまり「ネタバレ」しているんですよ。
だからこそ、他人から話されたことも「ああ、あの本に書いてあったことと似ているな」「じゃあこういうふうに返そう」など、とっさに答えが出ている。
予習済みの授業で話すときも、すでに本で仕込んでいる「ネタバレ」済みの知識があれば、どこをどう話せば面白くなるかがわかる。

教養があるとは、社会や人生の「ネタバレ」をたくさん知っているということ。
だから教養のある人は話が面白いのだと思います。

話が面白いなんて・・・・・・そんなの、先天的なものだよ。
話が面白い人は、もともと口が達者なんだよ。
いろいろ考えていても、とっさに言葉が出てこないのが当たり前だよ。

と、思う人も多いかもしれません。
でも、違うんです。
大切なのは、話が面白くなるような、本の読み方をすること。
重要なのは、本を読むときの姿勢。

ーーそれは、「ネタを仕込むつもりで本を読む」という姿勢です。

「話のネタ帳だと思って、本を読んでほしい」

そう、すべての読書はネタバレなのです。
教養ある人の話が面白いのは、漫才のネタを仕込むように、話すネタを仕込むための読書をしているからです。

そういえば、私の友人が言っていました。

「年齢を重ねると、同じ話しかしなくなる。それは昔のインプットをずっと使いまわしているからだ。自分は同じ話をするじいさんにならないために、本を読んでいるんだ」

ーーたしかに、常に新しい本を読み、そしてそれをネタとして使っている人は、いつも違う面白い話ができます。
それは、アップデートされたものを取り入れているから。

話の面白い芸人さんや上司は、年齢を重ねても、インプットを重ねています。
読むことで、人として、アップデートができる。

チャット式のAIがどれだけ発達しても、飲み会で使える返答をささやいてはくれません。
だけど、教養は、知識は、読書は、あなたの頭のなかで勝手にささやいてくれるAIの元ネタとなる。
正しさや賢さで人間はAIに勝てない。だけど、面白さではAIより人間のほうが、上回るかもしれないのです。なぜなら、AIは話が面白くなる知識の得方をしていないから。

本書では、話が面白くなる読み方をお伝えします。
人間だからこそできる読解方法を、やっていきましょう。

きっとあなたの紡ぎ出す言葉が、本書を読んだあと、「面白く」なっているはずです。

『「話が面白い人」は何を読んでいるのか』 まえがき より 三宅香帆:著 新潮社:刊

本書は、文芸評論家として活躍する三宅さんならではの「話が面白くなる読み方」を具体的な例を交えて、わかりやすく解説した一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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味わった作品を上手く「料理」してネタにするには?

三宅さんは、だれでも目指せる「話が面白い」こととは、インプットした内容を、面白く語ることができることだと指摘します。

まず、本を読んだり、ドラマや映画、あるいはドキュメンタリーを観たりして、さまざまな面白い話を「仕込む」
そして、その話を自分なりに「解釈する」
そのうえで、誰かと話すときにその話題を使う

このプロセスをたくさん踏むことが、話が面白くなる近道です。

なにかを読んだとき、それを「ネタ」にする。
そのためには、以下の「5つの技術」が必要です。

①〈比較〉ほかの作品と比べる
②〈抽象〉テーマを言葉にする
③〈発見〉書かれていないものを見つける
④〈流行〉時代の共通点として語る
⑤〈不易〉普遍的なテーマとして語る

 ひとつひとつ説明していきましょう。まずはざっくり説明するだけなので、詳細はそれぞれの章を読んでくださいね。
具体例は、ジブリ映画の『となりのトトロ』でいきましょう。

①〈比較〉ほかの作品と比べる
ある素晴らしい作品を観たりしたとき、「ああ面白かった!」と思う。
それだけで素材の味をかみしめたことにはなります。が、人に話すネタにはなっていない。面白かった、という感想だけでは、面白い話にはならないから。
では、まずやるべきは、「ほかの作品と比較する」こと。
読んだ後、どんな作品と比較できるか? を考えてみる。

例:『となりのトトロ』と『ハリー・ポッター』を比較すると、日本の『トトロ』は「バス」、イギリスの『ハリー・ポッター』は「汽車」が異空間に連れて行ってくれている。ネコバスは昔からいる前近代的な妖怪のような存在であるのと比較して、ホグワーツ特急はむしろ産業的で未来的なインフラのような存在。・・・・・・・ということは日本とイギリスの「ファンタジー世界」が担っているものが違うのかも!?
といった小話ができるようになりますね。日本は妖怪的なバスで、イギリスは産業的な汽車であるという対比があってはじめて、このような「話のネタ」に変わるのですよ。
ここから日本と欧米のインフラへの意識の差の話になるかもしれないですし、ファンタジーの捉え方の違いの話になるかもしれない。
あなただったら、『となりのトトロ』とどんな作品を比較しますか?

②〈抽象〉テーマを言葉にする
ある作品を観終わった後「この話のテーマは何だったのだろう?」と考えてみます。
ただ漠然と考えただけではわからないかもしれません。そこで大切なのは、「正解はない」ということ。
はっきり言って作品のテーマに正解なんて、ありません。あったら、作り手はそのテーマを言葉にしたらいいのですから。でも、はっきりと言葉にできるテーマなんてないからこそ、作品を作っているのです。
そういう意味で、むしろテーマをつくりだすのは、「鑑賞者」の仕事です。
たとえば、トマトはトマトなのです。でも、トマトに「リコピンが多い」とか「彩りがある」とか「ソースにするとおいしい」とかそういったテーマを見出すのは、料理する人=鑑賞者の仕事です。
というわけで、正解はないとわかりながら、テーマを考えてみる。
ポイントは「変化」や「結末」に注目することです。

・この作品は主人公がどんな変化を遂げているか?
・とくに力を込めて描かれているのはどんな場面か?
・最終シーンはどんな結末で終わっているか?

これを考えてみましょう。

例:『となりのトトロ』のテーマは「子供は、大人に隠れて、成長する」ではないか。サツキやメイが成長する場面は、いつも父母には見えない。その代わり、トトロが二人の危機や変化を見守ってくれている。つまり、父母が知らないところで、二人は大冒険をして成長していることこそが本作のテーマなのでは。

テーマを語ることができれば、人に話すときのネタになりやすいです。汎用性か高い。

③〈発見〉書かれていないものを見つける
これはもう秘密レシピなのでちょっと教えたくないくらいなのですが・・・・・・。秘技「描かれていないことを探す」。結構玄人っぽい手なのですが、お手軽に面白い話ができるので、とてもおすすめ。
「これ、書かれていてもおかしくない話なのに、書かれていないよね?」
「なぜかこういうキャラクターが出てこないなあ」
「こういう話をしてもいいのに、この人、しないなあ」
という、「出てきてもいいはずなのに出てこない」ものには必ず理由があります。作者が意図的に避けているのです。そしてそこには、作者なりの、深いこだわりがある。あってもいいはずなのに、なぜか、ないもの。
それを見つけるだけで、鑑賞体験はぐっと深くなります。そして話のネタに、変わるのです。

例:『となりのトトロ』には、電化製品がほぼ登場しない。物語はオート三輪に荷物を載せて親子三人で田舎に引っ越してくるところから始まるが、それ以外、電化製品らしきものはほぼ登場しないのが本作の特徴。かろうじて電気が通っているくらいだ。ということは、この映画で宮崎駿監督が描きたかったのは、単なる自然と子どもの交流だけでなく、テレビや冷房や冷蔵庫などの電化製品が奪ってしまったものなのかも・・・・・・?

書かれていないものを考えていくと、テーマもわかりやすくなってきます。

④〈流行〉時代の共通点として語る
同時代に流行している別のもの比較すると、共通したテーマが見えてくる。すると「ああ今これをみんなが求めているんだ」という理解が進み、自分なりにその時代が見えてくる瞬間があったりします。
小説と映画を比べてみたり、あるいは友人の言葉とアニメの台詞を比べてみたりすると良いですよ。

例:『となりのトトロ』が公開された1988年、巷では「おたく」という言葉が広まっていた。そう、アニメやゲームに熱中する若者がいる、と社会的に認知されていた時代なのだ。宮﨑監督が『トトロ』でテレビもパソコンもなかった時代の田舎を理想的に描きヒットしたことは、結局、その裏側でどんどん皆がそれらに夢中になっていた証ではないか。現実にはないからこそ、フィクションに求めるようになったのだ。

⑤〈不易〉普遍的テーマとして語る
これは④の逆で、むしろ時代を超えて、普遍的なテーマを知っておいて当てはめるのです。
普遍的なテーマとは、もはや相場が決まっているので、慣れてくると「ああ、このテーマの類型か」と分類できるようになります。これは応用編なので、ドラマや小説を観慣れたり読み慣れたりしている人のほうが簡単にできますが、それでも慣れたらできるようになるものです。
ほかの作品と比較しつつ、さまざまなテーマを知っていきましょう。

例:『となりのトトロ』のトトロ、『ベイマックス』のベイマックス、『ハリー・ポッター』のハグリッド。どれもぬいぐるみが大きくなったようなパートナーが、子どもたちを守ってくれる。「ライナスの毛布」という言葉もあるけれど、包み込んでくれる毛布のようなものが子どもたちの成長のそばには欠かせないのかも?

といったふうに、があります。
これだけ読むと「そんなに料理なんてできないよ」と思われるかもしれません。
しかし大丈夫。実践的にやっていくには、次のようなプロセスを踏めばいいのです。

『「話が面白い人」は何を読んでいるのか』 第一部 技術解説編 より 三宅香帆:著 新潮社:刊

観たり読んだりした作品を、「話のネタ」に変えるには、料理をする必要があります。
そのための具体的な方法として「鑑賞ノート」をつくることです。

三宅さんは、ノートはスマホのアプリでじゅうぶんで、なんでもいいので、とにかくメモする習慣をつけると、作品を料理できるようになると述べています。

〈比較〉ほかの作品と比べる

第一の技術は「比較」です。

三宅さんは、AIよりも人間のほうが得意なことは「比較」だとし、違うジャンルを混ぜて、新しい文脈をつくりだすこと。思いがけないジャンルのもの同士を、組み合わせて、語ることが、面白い話のネタになります。

「ここ」を肯定して生きる
ーー「成瀬」シリーズvs.『桐島、部活やめるってよ』『あまちゃん』

2024年本屋大賞を受賞した『成瀬は天下をとりにいく』(宮島未奈)と、その続編『成瀬は信じた道をいく』。大好きな「成瀬」シリーズの魅力を解説したい。
このシリーズの面白さ。それは従来の「青春」物語を更新したところにある、と私は思っている。
「成瀬」シリーズの主人公・成瀬あかりは、滋賀に住む学生である。
成瀬は、大津の西武デパートが閉店するところで、ある企画を親友とやってみたり、M-1を目指して地元のお祭りに参加してみたり、勉強はできるのであっさりと京大に進学したりする。そんな成瀬の特徴は、進路や友人関係に悩む様子をほとんど見せないところ。大学受験のときすらほとんど動じずに、やるべきことをやる。
彼女のやりたいことはかなり明確である。たとえば「大津市の魅力を発信する」という目標をもって観光大使になったり、大学での勉強を楽しんだりする様子が、シリーズ二巻『成瀬は信じた道をいく』では描かれている。成瀬は、滋賀で、自分なりの情熱をもって生きているのだ。

「ここ」=教室で悩む従来の青春小説
青春。それは日本のフィクションで繰り返し描かれてきたテーマである。
1990年代の青春といえばたとえば『いちご同盟』で『リバーズ・エッジ』。2000年代の青春といえば『リリイ・シュシュのすべて』で『野ブタ。をプロデュース』。2010年代の青春といえば『桐島、部活やめるってよ』で『君の名は。』である。
さてこのような作品を概観してみると、ざっくりと

90年代:教室の外にある死
00年代:教室の閉塞感
10年代:教室からの解放

というテーマが描かれていたような印象が私にはある。
特徴的なのは、青春といえば教室=学校であり、学校とはつまりこの国のムラ社会的なものの象徴であるところだ。
閉鎖的で、同調圧力が強く、ヒエラルキーは固定されているが、逃げることも許されない空間。それが教室であり、日本という国を表現したものそのものでもあった。「ここ」に生きなきゃいけないけれど、「ここ」から出たい、でも出られない。それが教室が比喩として表現していたものだった。
2010年代に『桐島、部活やめるってよ』や『君の名は。』において「教室(=『桐島〜』であれば部活、『君の名は。』であれば自分の住んでいる土地)から出ていく」様子とは、グローバル化する日本そのものを描いていた、と解釈することができる。
教室の内側で悩む学生ーーこれこそ青春小説が常に描いてきたものだった。悩むテーマは友情でも恋愛でも生死でも部活でも将来でもなんでもいいのだが、まあ、学生は教室の内側で、教室を出ていくかどうか、教室を出ていけるかどうか、悩んでいなくてはいけない。「ここではないどこかに行きたい」と思うか、あるいは「ここではないどこにも行けない」と思うか。それが青春小説だった。
なぜなら、青春小説の「ここではないどこかへ」という願望は、日本というムラ社会で生きる人々の悩みを表現しているからである。それがいままでの青春小説だった。
そう、青春小説とは、学生が「ここ(教室)」で悩んでいるところを描く物語だった。
が、そこを更新したのが「成瀬」シリーズだ。
なぜなら成瀬あかりは、「ここ(教室)」を肯定するからだ。

「ここ」=地元を愛する成瀬あかり
突然文芸界に現れた成瀬あかりというニューヒロインは、滋賀を舞台に、自分のやりたいことに突っ走る。周囲の人間ーー小学生から親友から家族に至るまでーーは彼女の独走っぷりに感心しながらも、彼女のことを理解している。成瀬は天才で変人だが、決して孤独ではない。
そんな成瀬も、「人並みに悩む」ことはあるらしい(と二巻では描かれている)。しかし彼女が悩んでいるところは決して作中で重視されない。「成瀬」シリーズの魅力のひとつは、「青春は、悩まなくても面白い」ということを証明して見せたところにある。
従来の青春を描いた小説や映画を見ると、どうしても私たちは思春期の煩悶を見出したくなってしまう。それはなぜなら先ほど書いたように、青春小説とは閉鎖的な教室=ここで悩む私たちの日本のアイデンティティそのものを描いた作品だからだ。
しかし「成瀬」シリーズは、そんな従来の日本=ムラ社会に悩む人々のアイデンティティを吹っ飛ばそうとする。
成瀬あかりは、滋賀に住んでいる。しかし滋賀から出て行こうともしないし、あるいは滋賀から出て行けないことを嘆きもしない。むしろ、滋賀をとても愛している。成瀬は、滋賀を否定せず、しかし同時に滋賀以外の場所を否定することもない。中学、高校、大学と、それぞれの教室での人間関係や地元の人間関係を楽しんでいる。彼女は変人だが、お祭りや地元のデパートといったムラ社会にむしろ積極的に乗り込んでいる。教室=地元の人間関係を肯定する青春、それが成瀬の日々なのだ。
教室=地元・滋賀から成瀬あかりは出て行かない。
先述の通り、従来の青春小説が

90年代:教室の外にある死
00年代:教室の閉塞感
10年代:教室からの解放

を描いていたとすれば、「成瀬」シリーズが表現するものは、

20年代:教室の肯定

と言えるのである。
地元を愛して、人間関係も良好で、しかし決してマイルドヤンキー的ではなくエリート街道を突っ走る成瀬あかり。その姿は、いままでの青春小説を更新している。そこがこの小説の魅力である。
本書は2020年代を代表する物語になる。動機や過去を気にせず、自分のやりたいことをやり、自分の生きたい場所で生きる。それが一番良いはずだ、と成瀬あかりは伝えている。

「ここ」を出て行った『あまちゃん』、出て行かない『成瀬』
「成瀬」シリーズを読んでいると、私はNHK連続テレビ小説『あまちゃん』を思い出す。宮藤官九郎脚本、のん(当時は能年玲奈)主演の『あまちゃん』においては、東北に住むことになった女子高生が、東京でのアイドル経験を経て、東北を元気づけるアイドルになる。『あまちゃん』は震災以後の2010年代を代表する作品のひとつだった。
しかし「成瀬」シリーズは、『あまちゃん』のテーマを更新し、2020年代のモードを見せている。ーーもはや地元を出る必要はないのだ。成瀬あかりは、地元を出ず、地元で友人と生きることを肯定する。
『あまちゃん』の場合は、「そうはいっても若者が地元に残る選択には逡巡と悩みがともなう」という意識があった。だからアキは一回東京へ行くことでむしろ東北を再発見するプロセスが必要だった。東京を否定しないと、東北を肯定できなかった。
しかし「成瀬」シリーズの場合、成瀬あかりは、東京に行かなくても、滋賀の良さはわかっているのだ。あるいは他の友人との否定的な交流体験(「成瀬」シリーズは、『あまちゃん』のテーマを更新し、2020年代のモードを見せている。ーーもはや地元を出る必要はないのだ。成瀬あかりは、地元を出ず、地元で友人と生きることを肯定する。
『あまちゃん』の場合は、「そうはいっても若者が地元に残る選択には逡巡と悩みがともなう」という意識があった。だからアキは一回東京へ行くことでむしろ東北を再発見するプロセスが必要だった。東京を否定しないと、東北を肯定できなかった。
しかし「成瀬」シリーズの場合、成瀬あかりは、東京へ行かなくても、滋賀の良さは分かっているのだ。あるいは他の友人との否定的な交流体験(『あまちゃん』の場合は東京でいじめられていた体験)がなくとも、自分の幼馴染である島崎を肯定できる。
成瀬の親友である島崎はこう語る。

あれほど滋賀を見下していた母も、「こっちは病院の待ち時間が長すぎる」とか「滋賀のスタバでは全然並ばなかったのに」などと愚痴を言っている。勝手なものだが、実際に暮らしてみないとわからないことはあるし、気持ちはわかる。
わたしも滋賀にいればよかった。生まれ育ったときめき地区で、成瀬とつかず離れず暮らしていることが当たり前だったなんて、今思えば贅沢だ。
(宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』新潮社)

私はこの箇所を読んで、やっぱりグッと来てしまった。そう、この物語に閉じ込められているのは、島崎の「わたしも滋賀にいればよかった」という感覚なのだ。一方で、成瀬は滋賀を離れなくとも、滋賀にいることが最強だと分かっている。成瀬は天才だから。
島崎は一度滋賀を離れないと、滋賀の良さを肯定できない。しかし成瀬は、滋賀を離れなくても、滋賀を肯定できる。「ここ」=地元を、地元にいながら、最上級に肯定する。それが『成瀬』の物語なのだ。
成瀬は「今ここ」を肯定し、そこで、やりたいことをやる。日本のムラ社会を否定せず、むしろムラ社会的地元のアイドルになることを決して「ダサい」ことと捉えない。滋賀こそが一番いい場所なのだ。成瀬にとって。
悩む、ということは、何かを否定して何かを選択するプロセスである。だとすれば、成瀬が悩まないように見えるのは、何も否定していないように見えるからだろう。成瀬は決して東京を否定しない。だけど滋賀を肯定する。
それはたぶん、日本のムラ社会から出て行くかどうかなんて悩むことをやめて、ここを肯定して生きよう。ここでやりたいことをやればいいんだ、という現代の私たちがうっすら感じていることを表現しているのかもしれない。というか、そういう物語に私は希望を見出したいのかもしれない。それはナショナリズムとひとことでまとめるには単純すぎる、日本の今の空気なのだ。
「わたしも滋賀にいればよかった」「ここがいちばん贅沢だ」と気づく、それが「成瀬」シリーズの見出した2020年代の地点なのだと私は思う)
(「note」2024年4月10日)

『「話が面白い人」は何を読んでいるのか』 第二部 応用実践編 1〈比較〉ほかの作品と比べる より 三宅香帆:著 新潮社:刊

『成瀬シリーズ』の成瀬あかりと『あまちゃん』のアキ。
時代やジャンルの違う他の作品の登場人物を比較することで、作品のテーマが際立ちますね。

前提として、たくさんの作品に触れることが必要です。
そのうえで、「この作品とあの作品の、この部分の対比は面白い」という思いつきやひらめきを大切にしたいですね。

〈抽象〉テーマを言葉にする

第二の技術は「抽象」です。

抽象化、すなわち〈テーマを言葉にする〉こと。
一見、難しく感じますね。

しかし、三宅さんは、実は抽象化くらい自由なものはなく、間違っていてもいいと指摘します。
その理由は、抽象化は、作者にはできない、読者の仕事だからです。

 父性の在り方を問う物語ーー『不適切にもほどがある!』『喫茶おじさん』

ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)が人気である。宮藤官九郎脚本、阿部サダヲ主演のこのドラマは、1986年を生きていた阿部演じる小川市郎が、ある日突然2024年にタイムスリップするところから始まる。小川は令和にやってきて、「昭和とはまったく違う世界になっている」ことに愕然とする。が、逆に令和から昭和にタイムスリップしてきた向坂親子と出会ったり、コンプライアンスを知らないがゆえに自由な発言をすることで令和の人々の問題を解決する。
このドラマを見ていると、小川と同じく「昭和と令和はまるで違う世界になっている」ことに驚く(個人的には昭和のシーンで挿入された、教室で先生がタバコを吸っているところが衝撃でした・・・・・・)。しかし実際に、1986年と2024年はそれほどの差があるのだった。昭和と令和と行き来するだけで、まるで「ファンタジー世界にいるかのような感覚を作り出せる。そして、だからこそ主人公の小川は戸惑い、活躍することができる。
そう思って今年の冬ドラマを見渡してみると、『不適切にもほどがある!』だけでなく、『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』(フジテレビ系)も、『春になったら』(同)も、『さよならマエストロ』(TBS系)も、『父親』のあり方が物語のテーマに捉えられている。
時代の流れについていけない父親が、それでも周囲とコミュニケーションを取ろうと奮闘する物語ーーそれが今期の物語の流行であるらしいのだ。
コンプライアンスや、時代の変化、そして父親自身の自信のなさが、父親と周囲のコミュニケーションを阻む。しかしそれでも彼らは新しい父性のあり方を探ろうとする。
父性、とはたしかに長らくふわっと手付かずで置いておかれたテーマである。高橋源一郎・斎藤美奈子『この30年の小説、ぜんぶ 読んでしゃべって社会が見えた』(河出新書)において、「2010年代になると父性はほとんど姿を消しており、代わりに母性が小説の主題になってきた」という指摘がなされていた。が、このドラマのあり方を見ると、そんな姿を消していた父性取り戻さなくてはいけないのでは? でも、どうやって? 今の時代に会う父性のあり方とは? という戸惑いが存在しているように感じる。
小説の世界を覗いてみると、右に挙げたドラマたちとほぼ同じ主題を扱ったのが、原田ひ香『喫茶おじさん』(小学館)。時代に合わない振る舞いで、元部下や家族からも疎まれている父親が、喫茶店巡りをする物語である。
本書の面白いところは、主人公の松尾が孤独になりながらも、ぽやんとして過ごしているところにある。周囲から「何も分かっていない」ことを受け入れていく。おじさんであることに対して悲壮感を持たず、しかし自分が世間と離れていることを自覚する。
松尾の姿勢は、「自分がした失敗とどう向き合うのか」という問いにもつながる。たしかに、年齢を重ねると、失敗の経験も当然ながら増えていく。そして父性とは、これまでは他人のした失敗を断罪する側にあった。たとえば上司が部下を叱ったり、父が子を怒ったりするのも、失敗を許さない態度そのものだろう。
しかし時代が変化し、父がそもそも最も「間違える」存在になったら?ーーつまり、コンプライアンスが厳しくなり、父性が失敗を断罪する側ではなく、むしろ父性の方が失敗しやすいような社会になった時、父性はどう存在するべきなのだろう。
そんな問いが、今期のドラマの「父親」というテーマの多さ、そして『喫茶おじさん』には通底している。
そう考えると、今後小説界にも父性の物語は復活してくるのかもしれない。しかし注目すべきは、まだ父性の「正解」は何処にも出ていないところだ。
『喫茶おじさん』の松尾も、周囲とコミュニケーションを取ろうとしてはいるものの、しかし結局ディスコミュニケーションは解消されずに終わる。また冒頭で挙げたドラマたちも、新しい父性を獲得しているのかと言われると、まだ迷っている最中であることが強調されている。それほどに今、父性というものは、揺れ動いているテーマなのだと思う。
あえて時事ネタと紐づけるならば、お笑い芸人の松本人志や、旧ジャニーズ事務所の性加害問題もまた、「父性」が既に時代遅れになり、しかし新しい「父性」は存在し得るのか、という問いに繋がっているように感じる。
父性とはつまり家族の中だけの問題ではなく、組織の問題でもある。
「おじさん」と呼ばれる存在になって、どう生きたらいいのかわからない。
そう嘆く父親たちにとっての、ロールモデルは、まだ見つかっていない。しかし、その問いはたしかに、世の中で発され始めている。       (2024年3月)

『「話が面白い人」は何を読んでいるのか』 第二部 応用実践編 2〈抽象〉テーマを言葉にする より 三宅香帆:著 新潮社:刊

作者の意図はともかく、その作品を通して、何を感じるかは、鑑賞者の自由です。
自由に感じたこと、それが独自の視点になり、ユニークな感想になります。

他人と違うことは、それだけで価値です。
恐れずに、自分の意見としてアウトプットしてみましょう。

〈発見〉書かれていないものを見つける

第三の技術は「発見」です。

三宅さんは、不在を読むことこそ,批評の醍醐味であり、何がいないのか? 何が隠れているのか? それを読めるようになると、ぐっと「読む愉しみ」が増えると指摘します。

 令和の「こじらせ男子」が持っていないものーー『こっち向いてよ向井くん』

ドラマ『こっち向いてよ向井くん』(日本テレビ系)がとても良い。
私はもともと原作漫画が好きだったのだが、ドラマも想像以上に楽しく視聴している。キャストがみんなハマり役で、魅力的。あとスタイリングのセンスがすごく良い(波瑠演じる坂井戸さんのスタイリングが可愛すぎて髪を切りました・・・・・・)。
『こっち向いてよ向井くん』という物語は、ざっくり言ってしまえば、「主人公・Tシャツ会社勤務正社員男子こと向井くんが、30代になって、10年ぶりの恋愛模様に戸惑う」話である。
向井くんは仕事もできるし、毎日そこそこ楽しく、社会人一年目くらいまでは彼女もいた。が、恋愛からはすっかり遠ざかる日々。元カノとの思い出を引きずり、しかし結婚願望はなんとなくある気がする。これが向井くんの現在地なのである。
・・・・・・と、ここまで読んで連想した方もいるかもしれない。
そう、このフォーマット女性向け恋愛ドラマで幾度となく繰り返されてきた、親の顔よりよく見たやつである。
『ホタルノヒカリ』しかり、『東京タラレバ娘』しかり、『#リモラブ』しかり。
「仕事はできるし、毎日は楽しい。でも恋愛だけ干物女! 恋の始め方がわからない」と。
ちなみに『こっち向いてよ向井くん』のインスタアカウントのドラマ紹介文はこちら。

全ての男女にグサグサ刺さる、「恋愛の仕方忘れちゃってる男子」の物語♡ 結婚だけが幸せのゴールじゃない時代の恋愛のゴールとは? #赤楚衞二が演じる主人公、恋愛迷子の向井くんが2023年夏、新たなる恋をはじめます!

完全にフォーマットは「仕事を頑張るアラサー女性恋愛ドラマ」のそれである。

「欲望すること」を去勢された男性たち
しかし面白いのは、向井くんが「モテないわけではない」という設定にある。向井くんは決して非モテ男子ではない。可愛らしい顔立ちで、人付き合いもそこそこ上手く、むしろ大学時代はそれな理にモテていたらしい描写まである。だからこそ今も、ちょっと女の子に「この人いいかも」とすり寄られているのだ。
「ならいいじゃねえか、モテるなら何の問題もないじゃねーか」・・・・・・と、思ったそこのあなた、怒るにはまだ早い。これは決して「非モテ」ではない、男性性の問題なのだ。
向井くんの悲劇は、むしろ「欲望される」ことはあっても、「欲望する」主体になれないところにある。
向井くんは基本的に素直である。憧れの会社の先輩が「いい時計買って、家族守っていく覚悟を決めるんだ」と言ったら、それに自分も倣(なら)って、いい時計を30歳で買う。「今は仕事を頑張る時期だから、彼女との旅行を蔑ろにして、仕事の付き合いを優先する。ちょっと意識している同性の後輩が「あの子可愛いですよね、狙おうかな」と言った女の子のことを、意識し始める。
つまり周囲の男性ーー社会が提示する欲望を、素直に、なぞる。
それは会社では重宝される姿勢だろう。会社で変な自我を出すと「仕事のできないやつ」と見做される。とりあえずは先輩の言うことを聞いて、先輩の欲望を模倣するのが「仕事のできるやつ」とされる世界だ。
しかし、向井くんは彼女ができない。たとえばドラマの第二話でアンちゃんという可愛い女の子にちょっかいをかけられても、10歳下の義弟の店のバイトの女の子という向井くんは「自分がアンちゃんを好きかどうか分からない」と立ち止まる。それは彼自身が欲求する主体にーーつまり欲しいものを手に入れるために自ら動く主体になる、という練習を積んでいないからだ。
欲望する主体になれない男子の悲劇。それが『こっち向いてよ向井くん』という物語なのである。

社会じゃなくて、こっちを向いてよ、向井くん!
欲望とかなんとか、やや大げさに書いてしまったが、これって周囲でよく聞く話だと感じる。
とくに今の男性のアラサーくらいまでの人生は、「選択肢を広げる」ことが肯定されやすい。
どこにでも就職できるように、勉強を頑張る。どこにでも転職しないように、どんな生活もできるように、いいとこに就職したほうがいい。誰とでも結婚しやすいように、モテているほうがいい。誰にでも評価されやすいように、仕事はできたほうがいい。
つまり野心というよりは、「選択肢を狭めないために」頑張れ、と言われがちなのだ。
一方で、じゃあ選択肢を広げた先で、あなたはどんなものを望むのか? という欲望の主体ーーそれはある意味「選択肢を狭める」行為でもあるのだーーになることを、基本的に去勢されている。
あまり男女二元論で語るのは良くないけれど、この国のジェンダーギャップを考えると、まだ女性の方が「自分はどう生きたいか」を早めに決めなくてはいけない。つまり欲望の主体になることを求められる社会ではある。子供を産みたいのか産みたくないのか、仕事をどれくらい頑張りたいのか、容姿にはどれくらいお金をかけたいのか、女性は大人になると常にジャッジを迫られる。でもそれは逆に言えば、欲望の主体になることに慣れることでもある。

10年ほど前に、雨宮まみさんのエッセイ『女子をこじらせて』が流行した。それはまさに「こじらせ女子」、つまり「自分の欲望がわからない」女子のエッセイであった。
しかし10年経って、「え、男子も自分の欲求わかってなくない・・・・・・?」「男子って社会の欲望ばっかりなぞってない? でもそんなんじゃ話し合えないんですけど!!」と女性側から「こじらせ男子」の存在を世間に提示したのが『こっち向いてよ向井くん』だった。
タイトルの「こっち向いてよ」とは、「社会じゃなくて、こっちを向いてよ!!」という女子からの叫びだったのだ。
なお『こっち向いてよ向井くん』は女性向け漫画である。

そしてもうひとつ思い出すのは、五年ほど前、『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマが流行したことである(これも原作は女性向け漫画)。ここには、星野源演じる「草食系男子」ーー恋愛にも物欲にも興味のない「プロの独身」こと平匡さんというキャラクターが登場した。
そこでの「草食系男子」とは、むしろ「社会の欲望に沿うことを諦めた男子」のことだった。今でいう「非モテ男子」に近い。
一方で向井くんは、ポスト・逃げ恥の世界に存在する。つまり、向井くんは「草食系男子」ではない。ばっちり社会の欲望に沿って生きている。だから結婚も諦めていないし、彼女も欲しい。しかし、向井くんは社会の欲望に沿いすぎて、自分の欲望の輪郭がわからないのだ。だから女の子との会話が噛み合わない。
「社会」に沿いすぎた言葉を出されても、「は? こっちはあんた自身の言葉を聞きたいんですけど! 仕事じゃないんだし!」となるだけだ。
令和の「こじらせ男子」、誕生。
がんばれ向井くん、私は向井くんを応援している。         (「note」2023年7月22日)

『「話が面白い人」は何を読んでいるのか』 第二部 応用実践編 3〈発見〉書かれていないものを見つける より 三宅香帆:著 新潮社:刊

同じ恋愛もののドラマでも、時代の違うものを並べてみることで、見えてくるものがあるということ。

時代が巡ることで、変わるもの、変わらないものがある。
そういった視点で作品を見比べても、新しい発見があるかもあれませんね。

〈不易〉普遍的なテーマとして語る

第五の技術は、「不易」です。

三宅さんは、結局、古典こそが、強いし、古典的なテーマを知れば知るほど、物語を読むことは面白くなり、そしてどんな世代の人とも、話やすくなると指摘します。

 物語は陰謀論に対抗しうるかーー『方舟を燃やす』『女の国会』『一番の恋人』

鮮烈だった。角田光代さんの久しぶりの新作長編『方舟を燃やす』。いやはや、凄かった。
1950〜60年代の日本に生まれたふたりの男女が、昭和から平成の日本を駆け抜け、令和のコロナ禍に「陰謀論」にハマるまでを描いた物語。そう、私はこの小説を「陰謀論」と向き合う物語として読んだ。
考えてみれば、たとえば村上春樹『IQ 84』をはじめとして、平成以降の日本において「物語は陰謀論に対抗し得るのか?」という主題は脈々と受け継がれてきたのだ。陰謀論は時代によって姿を変える。たとえばオウム真理教の言説や、ノストラダムスの大予言、反ワク・・・・・・さまざまな現象の中で、手を替え品を替え「この世界を悪化させている巨大な敵をつくる論理」を社会は探し続けている。『方舟を燃やす』は、日本の昭和、平成、令和の時代史をたどりながら、その論理に溺れる人々を描く。そして彼らは私たちの写し鏡でもある。
戦争が起きれば、黒幕は誰か、と犯人探しを始める。選挙があれば、政策内容よりも候補者の人柄ーーとくにその悪い側面にスポットライトを当ててしまう。なぜか私たちは、何か事が起きた時の原因を、システムではなく誰かひとりの人間の問題に、収斂させてしまう。どうしても人間は誰かに敵役を押しつけたくなる。そのうえで「方舟」を探したくなる人々は、どうすれば幸せを手に入れられるのだろう。
政治の話が出たところで、もうひとつ面白かった小説といえば、新川帆立さんの『女の国会』。いやあ本当に面白かった、とさまざまな場所で言いすぎて帯の推薦コメントまで寄せさせてもらった。すみません。しかし本当に面白かったのだ。
国会を舞台にした、女性議員や女性記者、女性秘書たちの物語。ミステリ仕立てで、最後まで一気に読める。個人的には何といっても、女性議員たちの生き様が描かれたことへの喜びが強い。海外ではドイツのメルケル元首相のような女性首脳が次々と登場しているが、日本では女性総理が誕生したことがない。ドラマ『地面師たち』を見たり『女の国会』を読んだりしていると、「不動産業界と政治は最後の男社会かもなあ」と思ったりした。『女の国会』を読むと、いかに女性議員へのセクハラがまかり通っているかが分かる。「そりゃ女性議員は増えないよ!」と叫びたくなる。
海外と比較して、なぜ「女性管理職が主人公の物語」が日本では生まれてこないんだろう?
Netflixをザッピングしていても、日本製の作品では、女性のピカレスクロマンとでもいうべき、女王の物語、すなわち女性管理職の物語はなかなか登場しない。不思議だ。こんなに物語に溢れた国なのに。女性が上に立って仕事している時の、忍耐や葛藤を描いてほしいのになあ、と心底思う。あえて挙げるなら『大奥』などの時代劇だろうか。・・・・・・ということを考えていたところだったので、『女の国会』の面白さになおさら感動してしまったのだ。こういう話をもっと読みたい。私は大好きだ。
そして逆に、男性側の物語で「おお、面白いー!」と感動したのが、君嶋彼方さんの『一番の恋人』。君嶋さんのド直球男性アラサー恋愛小説。この小説、よかった! 主人公の道沢一番は、親の期待に応えて、勉強も会社の人付き合いもそつなくこなしてきた。自分自身、そんな人生に満足している。が、ある日、一年付き合って同棲もしている彼女にプロポーズしたところ・・・・・・断られてしまった。青天の霹靂。自分の一体何が悪かったのか? そんなときに彼女から聞かされたのは、衝撃の事実だった。
面白いのは、本書で描かれている一番くんが、悩みつつ成長している様子がすごく好感が持てるところ。結婚を考えるような年齢の男性の話なのに、爽やかでどこか切なくて、なんだか「こういう読み味の男性恋愛小説って初めてかも」と驚いてしまう読後感なのである。女性主人公でなくて、男性主人公だと珍しい。
もしかしたら、三十歳くらいの男性が悩んで成長する等身大の話、というものが案外描かれてこなかったのかもしれない。そうだとしたら、この小説は紛れもなくエポックメイキングだ。まあ、そんな小難しい話を考えなくても楽しめる恋愛小説なのでぜひ読んでほしい。
面白い小説に出会えた時の幸福は計りしれない。これからもつい誰かに話したくなるような、そんな物語に出会いたい。             (2024年10月)

『「話が面白い人」は何を読んでいるのか』 第二部 応用実践編 5〈不易〉普遍的なテーマとして語る より 三宅香帆:著 新潮社:刊

愛や憎しみ、人の生き様や死に様、そしてお金や権力にまつわること。
これらは、古今東西で取り上げられているテーマです。

テーマとして取り上げ続けられるのは、人間の根幹にかかわる大事なことだから。
焼き直されて、何度も取り上げられているからこそ、価値がある。

変わらないもの「不易」は何かの視点は、忘れないようにしたいですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

三宅さんは、物語を楽しみ方という技術は、たしかに存在するとおっしゃっています。

その理由は、なによりも文脈を理解したり、背景を知ったり、同時代性を見出したりする、そのような「読む」快楽を得るのには、技術が必要になるからです。

「読む」技術を手に入れれば、物語を理解が深まります。
ただ話すよりも、さまざまな角度から掘り下げて、ユニークな視点で話すことができます。

「読む」技術は、「話す」技術。

私たちも、本書の技法を学び、「話の面白い人」を目指したいですね。

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