【書評】『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』(岡本隆司)

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お薦めの本の紹介です。
岡本隆司さんの『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』です。

岡本隆司(おかもと・たかし)さんは、東洋史・近代アジア史がご専門の博士で、現在、京都府立大学の教授を務められています。

「東洋史」から「日本史」を捉えなおす

日本史は、日本だけで完結しません。
例えば、「遣唐使」では唐、「元寇」ではモンゴルなど、外国が登場します。

ただ、それはあくまで“脇役”としてであり、日本側の視点からしか描かれておらず、グローバルな視点から見て解釈されることはありませんでした。

西洋の場合、その世界史が外国史も兼ね、自国史と直結していました。
つまり、「自国史=西洋史」であり、「自国史=世界史」といっても過言ではないということです。

 一方、日本の場合はそうはいきません。いくら日本史を掘り下げても、全体的な世界史は出てきません。折に触れて外国が登場はしても、あくまで日本からする意味づけにすぎず、客観的な文脈はほとんど重視されません。また西洋の「ワールド・ヒストリー」では、日本どころか、東アジア全体についてもほとんど説明されません。
そのため内藤湖南たちが草創したのが、東洋史学という学問でした。明治の日本人はすでに漢字で、中国の史書・史実には親しんでいましたので、西洋史ばかりの世界史とは別に、東洋の「ワールド・ヒストリー」を作って、あらためて日本自身を見つめなおしてやろう、そして東西あわせた世界全体の世界史を構築しようと考えたのです。当時の日本人がいかに歴史学・世界史と日本史とのギャップに悩んで、自分たちの位置を真摯に研究しようと考えたか、この一事だけでもわかります。
とりわけ東アジアで圧倒的な存在の中国の歴史を抜きにして、空間的にも時系列的にも日本の位置を理解することはできません。日中両国は日本海をはさんで対峙し、お互いに不断の影響を受け続けてきたのです。
東洋史によって中国や東アジアという世界を説明できれば、その関係性から日本のありようも明らかにできるわけで、ひいては世界全体における日本も位置づけられます。日本の歴史学が構想されたとき、これが多くの研究者のコンセンサスになりました。だから当時は大学のみならず、中等教育の授業科目にも「東洋史」と「西洋史」が存在したのです。日本史との接続も十分に意識されていました。
ところが戦後、この二つの科目は「世界史」に統合されました。かくて中等教育では東アジア世界の比重が著しく低下し、大学にはかろうじて「東洋史」が残りましたが、今や解体寸前の絶滅危惧種です。つまり日本人は、先人が築いたはずの東アジアからの目線と日本を世界全体に接続する有力なよすがを失いつつあります。そのことは、先に述べた「グローバル化」しながら「ガラパゴス化」するという一見矛盾する、日本人と日本史学の現状と無関係ではないでしょう。
(中略)
日本史は西洋の各国史と違って、世界史と容易に結びつかない宿命を負っています。隣接する中国は自国こそが世界の中心とみなす中華意識が強く、他国への関心は希薄です。そのため、日本史は近接する東洋史にも直結しづらく、ましてそこから広く世界史に結びつくのも困難だという構造上の問題をはじめから抱えているのです。
言い換えるなら、日本人はかなり無理をしなければ中国の世界観も、世界全体から見た日本の立ち位置も見えないということです。日本史・世界史の学びも同じでしょう。しかし意識しなければ、無理をしなければ、いよいよトリビア化とガラパゴス化を深めてしまいます。グローバル化の時代だからこそ、われわれはこの“ハンディキャップ”を乗り越える必要があると思います。「低能」なままでは、世界と対峙できません。
精細精密な自画像より粗いタッチの肖像画のほうが、モデルの本質を的確にとらえていることがあります。東洋史が専門の筆者では、日本史家が仕上げるような細密画は、とても描くことはできません。ですが、逆に日本史家が描かない、描けない日本史の肖像なら、できるかもしれません。そんな肖像画をめざしたのが、本書です。

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 まえがき より 岡本隆司:著 東洋経済新報社:刊

本書は、東洋史という広い視点から、より深く多角的に見つめた日本の歴史をわかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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日本の歴史は「6世紀末」から始まった!

中国や日本が属しているユーラシア大陸は、ごく大雑把にいうと、二つの自然環境が存在しています。
海岸に近い地域の「湿潤気候」と、内陸の「乾燥気候」です。

湿潤気候は、農耕が発達し、穀物を再生産しますから、定住型の暮らしが可能です。

一方、乾燥気候は、家畜から生産物を得る、いわゆる牧畜が生活の中心になり、そのためには常に牧草を求めて移動しながら生活する必要があります。

中国史の起源である「黄河文明」は、この遊牧・農耕の境界地帯が出発点となりました。

図表1−1 梅棹文明地図 日本全史 第一章
図表1−1.梅棹文明地図
図表1−2 分割地図とシルクロード 日本全史 第一章
図表1−2.分割地図とシルクロード
(『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第一章 より抜粋)

 生態環境・生活様式の違う者どうしが関わり合って、交わってゆくには、音声言語のみならず、お互い広い範囲で認識でき、一定の期間保存できる書記言語と記録手段が必要です。そこで文字が編み出され、やがて漢字文明に発展し、その空間的な範囲を拡大し、やがて中国の全土を覆い、さらにはその外にまで伝わっていくことになっていきました。これが中国古代史のもっとも基本的な流れです。

以上を地図に照らしながら、具体的に考えてみます。
すでに前著『世界史とつなげて学ぶ中国全史』で使った図になりますが、少し「日本史」向けにアレンジしています。図表1−1は、梅棹忠夫(うめさおただお)が描いた「文明地図」と呼ばれる概念図に手を加えたものです(上図を参照)。アジアは、嶮峻な山岳・不毛の砂漠などの地理的条件によって東西南北に隔てられ、それぞれに乾燥地域・農耕世界をともに含む、二元的世界が存在していたことを示しています。その境界線上に伸びているのが、いわゆるシルクロードです。それを実際の地図に落とし込んだのが、図表1−2です(上図を参照)。
注目すべきは、この地図の西のはずれに西ヨーロッパ、東のはずれに日本が位置していることです。アジアから見て辺境という意味では共通していますが、両者の地理的な条件、したがってその条件の下でたどった歴史は、まったく違います。
まずアジアの西側ではオリエント文明が興り、おそらく交通や公益がもっとも早くかつ急速に発展し、やがてアケメネス朝ペルシャという大帝国の登場に至ります。
さらにその西端では、海を隔てた二元的世界も存在していました。「レバシリ商人」という言葉がありますが、現在のレバノン・シリアを拠点としていたフェニキア人は、大陸で培った交易のノウハウをもとに、やはり地中海沿岸一帯へ進出し、都市国家を形成していきました。
それによって、オリエント文明は当時後進地域だったギリシャやローマなどに伝播します。後にここには地中海文明が栄え、ローマ帝国が誕生し、西ヨーロッパがその後継者を自任して自己形成するにいたったことは周知のとおり。つまり、西ヨーロッパの文明形成はオリエント文明から連続したプロセスと見なすことができます。実際にこれまでの世界史・西洋史は、そのように描かれてきました。
一方、アジアの東側では、オリエント文明が中央アジアを経由して中国に伝わります。それにって黄河文明が形成されました。そのため、ローマ帝国と黄河文明は時系列的によく似た成長・展開を辿ることになります。
ところが、西側と同様にそこから海を超えて日本に伝わったかといえば、地中海とシナ海とでは、状況がまったく異なりました。
日本は黄河文明の影響を受けてはいますが、オリエント文明がギリシャ・ローマを経て連続した西ヨーロッパとは違い、スムーズに接続するプロセスはなかったのです。したがって、文明からずっと取り残されることになります。この遅れが、その後の日本史に大きな影響を及ぼすことになるのです。

では実際、日本の歴史はどれほど遅れていたのか。
前出の宮崎市定は、「世界史略年表」を提示しています(図表1−3、下図を参照)。東西のアジアの歴史をヨーロッパ史の時代区分の基準で比較したもので、いずれも「古代」「中世」など時代の範疇は、ほぼ歩調を合わせて変化しつつ、その変化が互いに前後して進んだことを示しています。
たとえば「古代」に該当するのは、西アジアでは最も古くオリエント文明が栄えて、ペルシャ帝国が誕生し、滅亡するまでの間です。同じ時期、東アジアでは黄河文明が始まり、地中海世界ではオリエント文明の影響を受けて、それぞれ都市国家が形成されています。のち東西とも、ペルシャ帝国にかなり遅れて、それと同規模の秦漢帝国やローマ帝国をつくりあげました。
ところが、いずれも体制を維持できず、自壊していきます。そこまでのサイクルが「古代」であると、宮崎は指摘しています。中国の場合でいえば、黄河文明が興ってから春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝が統一を果たし、ついで漢という王朝政権が形成されます。その漢が自壊して解体し、三国時代が始まるあたりが、「古代」と「中世」の境界ということになります。西暦でいえば3〜4世紀に当たります。
ちょうどそのころ、日本はようやく中国に存在を認識されました。漢が滅びて三国時代に移る3世紀末に書かれた「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に、初めて「倭」として登場したのです。中国から見て、日本列島で何か気になる動きがあったのかもしれません。
ただし、これはあくまでも中国の記録です。当時、アジアで文字を持っていたのは中国だけ。日本列島の人々が主体的に書いたものはいっさい存在しません。それはつまり、文字を使って利害を主張する主体も対象も存在しなかったことを意味します。前述の定義にしたがうなら、当時の日本はまだ国家ではなかったということになり、何らかの統治機構が存在していた可能性はありますが、資料がない以上は不明です。
日本が自前の記録を残し始めたのは、6世紀末から。このとき、ようやく国内統治や対外的な交渉を行う組織ができあがったと見るべきでしょう。それまでに組織が存在していたとしても、この時点で新しい組織が取って代わったと考えるしかありません。

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第一章 より 岡本隆司:著 東洋経済新報社:刊

図表1−3 世界史略年表 日本全史 第一章
図表1−3.世界史略年表
(『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第一章 より抜粋)

東洋史という大きな視点から見ると、アジアの中心は中国であり、日本は辺境の一国にすぎなかったことがよくわかります。

日本の歴史は、中国と切っても切れない関係にあります。

日本史をより深く理解するには、東洋史の視点が必要となるのは当然ですね。

モンゴル帝国からみた「元寇」とは?

13世紀に入って、東アジアで起こった大きな出来事が「モンゴル帝国の勃興と膨張」です。

チンギス・ハンが複数のモンゴル部族を統一したのが1206年。
それ以降、わずか半世紀の間にモンゴルはユーラシアのほぼ全域を制覇します。

岡本さんは、この動きは温暖化によって活動がいよいよ活溌(かっぱつ)になった遊牧民と、経済発展を遂げた農耕世界による集大成的な動きと考えます。

 モンゴルは武力のみで各地を制圧したわけではありません。遊牧国家として政治と軍事を受け持つ一方、各地の商社・財閥とタイアップし、その活動を保護しながら支配するというギブ・アンド・テイクの関係を築く。このパターンをそれぞれ自立していた国家・地域でくり返すことにより、当時の交通・商業の幹線だったシルクロードに沿うように支配地域を広げ、ついにユーラシア全域を単一の政権のもとにまとめあげたのです。
したがって、モンゴル以前の旧国家それぞれの文化的・経済的な自立は維持されました。それを一つにつなぎ合わせる形で、モンゴル帝国が存在していました。
周知のとおり、そのモンゴルはやがて日本にも食指を動かします。一般に「元寇」または「蒙古襲来」と呼ばれますが、それは単に戦争に勝つか負けるか、侵略されるか否かという問題ではありません。アジアにおける日本の立ち位置・向き合い方が試される出来事だったと思います。
すでに述べたとおり、東アジアはもともと遊牧と農耕の二次元的世界でした。それが温暖化にともなって多元化していったのですが、モンゴルの台頭によって一転、一つにまとまります。ここに、多元的な複数の集団が政治、経済、文化を分業しつつ共存するというユーラシア的な秩序体系、いわばアジア・システムが生まれたのです。
そこで日本に突きつけられた課題は、そういうアジア・システムとどう向き合うかということです。これまでも、日本は中国をはじめアジアと関係を持ってきました。しかし第一章の冒頭でも指摘しましたが、アジアの歴史をポジとすれば、日本の歴史はネガでした。二元的世界の境界から文明が生まれたわけではないですし、6世紀以前のことは国家の形態すらわかりません。ほとんど神話だけで成り立っている状態です。

その日本がモンゴルに呑み込まれるとすれば、政治的な従属のみならず、社会・経済も多かれ少なかれアジア・システムのなかに包摂されることを意味します。モンゴルがそれを打診しに来たのが“元寇”ないし“蒙古襲来”であり、これを日本は断固拒否したのです。
日本側から見れば、これにはいくつかの理由が考えられます。戦争まで盛んに喧伝されたように、「日本は神国だから」というのは、いささか荒唐無稽かもしれませんが、そうした方向も要因の一つでしょう。政治体制ばかりか思想信仰のありようがまったく異なって、相容れなかった、というところでしょうか。
あるいはいっそう実地の問題として、経済発展が格段に遅れていた、ないし異質だったこともあげられます。アジアでは、貨幣が重たくて不便だとして、すでに紙幣が普及していました。そのころ日本では、ようやく銅銭が出回り始めた段階です。今日に置き換えるなら、有価証券の取引決済システムが発達した経済に対して、駄菓子屋でお菓子を買う程度の経済だったのです。これほど次元が違うので、アジアの経済に組み込まれて、その一部として機能すること自体がおそらく不可能でした。
かたやモンゴル側から見ても、日本のあり方は理解不能だったと思います。とりわけ政治体制およびそれと関わる思想信仰について、アジアでは遊牧民と農耕民の離合集散、分立と提携の歴史の上に成り立っているのに対し、日本ではなぜか中央が文化的な権威を持ちつつ、地方が武断政治を行っている状況でした。おそらくモンゴルにとっては、日本の首都がどこにあるのか、誰と交渉すればいいのか、もわからなかったことでしょう。
したがって、仮にもしモンゴルが軍事力で日本政府を撤廃し、代わりにモンゴル政府の出先機関を発足させたとしても、日本社会を自在にマネジメントできたとは思えません。いかに大陸との交流が盛んだとしても、アジア・システムの完全な一部にはなりえなかったはずです。
実際、モンゴルとしては、さほど真剣に日本を征服しようとは考えていなかったかもしれません。所詮は極東の、しかも海を隔てた国であり、政治も経済も異質。アジア・システムに組み入れるメリットはあまりなかったはずです。
ただし、モンゴルにとって朝鮮半島は重要でした。特に首都と定めた大都(だいと)(現在の北京)に近い高麗を服従させることは必須です。そこで攻略し、服従させたところ、海の向こうに小さな島を発見する。ならば“ついで”に征服しておこうというのが、“蒙古襲来”の発端だったのではないでしょうか。
ところが、たまたま暴風に見舞われて撤退を余儀なくされた。これが1274年の文永の役です。日本にとっては未曾有の国難であり、物量・武力でとても太刀打ちできない相手でしたが、まさに“神風”に救われた恰好です。
そのリベンジが1281年の弘安の役です。文永の役が予想外に失敗したので、少し本腰を入れてみようと思ったのでしょう。高麗軍や江南軍を中心として、前回より10万人以上も多い、14万人の連合軍で押し寄せます。しかしこのときも、結局は台風で大損害を受けて撤退しました(図表2−5、下の図を参照)。
その後、モンゴル帝国内部で混乱が起きたため、“元寇”はこれで終わります。表向きは戦争に負けて断念したように見えますが、歴史を俯瞰してみると、そもそも異質な世界なのでさほど熱意を注いでいなかった、というのが実情だと思います。

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第二章 より 岡本隆司:著 東洋経済新報社:刊

図2−5 モンゴル軍の襲来 日本全史 第二章
図2−5.モンゴル軍の襲来
(『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第二章 より抜粋)


元寇といえば、日本では、国の存亡を左右する一大事件として、その歴史に刻まれています。
しかし、東アジア全体という視点でみると、辺境での小競り合いくらいの出来事でした。

元寇以降、日本は、世界史の表舞台に立つことになります。
岡本さんは、これを日本史と西洋史がなければ、世界史が成り立たない時代に入ってきたと指摘します。

日本を豊かにした「倭寇的状況」

中国で明朝の時代になると、「朝貢一元体制」打ち出します。

これは、原則として内外の交通を遮断し、いわば鎖国はするものの、冊封国、つまり臣下と認めた国からの朝貢だけは使節団を受け入れて、一定の交易なども許可するというスタンスです。

明朝と日本で実権を握っていた室町幕府との間で始まったのがいわゆる「勘合貿易」です。

これにより、明朝が発行する「勘合符」を持つ者だけが貿易を許可される朝貢制度の一種で、日本では幕府だけがその権利を得たことになります。

 15〜16世紀にかけて、明朝の「朝貢一元体制」は揺らぎ始めます。一面の水田地帯・米作モノカルチャーだった江南デルタ地帯が工業化するとともに新しい産業が発展し、中国における経済・文化の中心地になっていきました(図表3−4、下の図を参照)。それが各地域の開発と商業化を促進し、分業体制が築かれます。
この時代の中国では、「湖広(ここう)熟すれば天下足る」という成句ができました。これは江南デルタ地帯が産業化するとともに、人口が増加集中しててかれらを養う食糧に不足をきたすようになったため、なお未開発だった長江中流域の湖北・湖南地方で、米作がさかんになって穀倉化したことを表しています。これが地域間の分業体制が確立する大きな契機になりました。
それなら、江南デルタの工業化がうながした周辺地域の再開発は、西ばかりにとどまるはずはありません。東の、海を越えた周辺に及んでもおかしくないでしょう。そう考えれば、日本中世の経済発展も、「湖広熟すれば天下足る」となった東西パラレルな動向として捉え、中国の地域間分業の一環を日本列島が担っていたと見ることが可能でしょう(図表3−5、下の図を参照)。それでは、その役割とはどのようなものだったでしょうか。
当時の中国には通貨がありません。商業的センスに長けたモンゴル帝国とは対蹠的に、明朝は物々交換で経済を回そうとしていたためです。しかし民間主導で地域化の流通が活溌になると、これはたいへん不便です。そこで人々は、自ら通貨を作り出していきます。それを「私鋳銭(しちゅうせん)」といいます。とはいえ民間どうしでは信用か足りないので、金や銀のような貴金属が重宝されました。
もちろん国内だけでは足りないので、海外から持ってくるしかありません。そのため、積極的に貿易に乗り出していくわけです。ちょうどヨーロッパは大航海時代であり、中国沿海の貿易は活況を呈します。つまり、物々交換を定めて海外貿易を禁じた政治の統制を、民間のパワーが覆していきました。
ただ歴史が古い地域の金銀は、古くから使われたので早くに採り尽くされてしまうのが歴史の常です。中国も例外ではなく、鉱脈はもはやありませんでしたので、金銀を得る主なターゲットは新興地域になります。それが「発見」されたばかりのアメリカ大陸であり、なお未開の日本列島でした。

なお通貨については、これ以前、つとに日本は中国から影響を受けています。そもそも貨幣というものを生み出したのは中国です。すでに貨幣それ自体は春秋戦国時代から使われていますが、それがわれわれも想像できる通貨らしい機能をそなえるようになったのは、唐代からです。
唐宋変革の10世紀以降、宋の時代には、銅銭を本位通貨として流通させ、いよいよ通貨らしくなってきました。流通経済の時代になったのですが、当時の経済を賄うには、今度は銅銭じたいの量が圧倒的に足りなかったため、試行錯誤のすえ、新たに紙幣を生み出します。
しかし紙幣はじめ、素材価値のない貨幣は、額面価格のコントロールが難しいものです。宋の政権は紙幣をうまくコントロールできなかったのですが、そこに支配者として登場したモンゴル帝国はその政策を積極的に推し進め、銀などとうまく噛み合わせることで、むしろ紙幣のみを流通させます。
さらに明の時代には、前述のとおり通貨自体がほとんど使われません。こうして、大量に余った宋銭は海外に輸出されることになりました。鎌倉時代から室町時代にかけて、日本で宋銭が広く使われたのはそのためです。
その後、中国では産業が発達して、貨幣需要が高まりましたが、明の政府は通貨政策に失敗したので、必要な貨幣を民間で独自に調達、創造しなくてはなりません。私鋳銭がしきりに作られるようになったのも、そのためでした。その風習は日本にも伝わり、いわゆる「びた銭」が多数作られます。
しかし私鋳銭では通用価値に限界があります。その価値を認め会える一定の範囲・集団の内部でしか通用しないのです。つまりその埒外(らちがい)との遠隔・大口の取引には使えないということになりますので、誰もが価値を認めることのできる貴金属が合わせて必要でした。そこで、海外から金銀を求めるようになっていきます。
日本はそれに応じて、主に銀を中国に輸出します。それが日本各地の鉱山開発や経済発展、商業化に拍車をかけることになりました。また日本国内でも貨幣の需要は高まりますが、宋銭のストックと銅鉱脈が少なからずあったため、後の江戸時代に政権が発行管理する正規の銅銭が作られます。それがたとえば、有名な寛永通宝です。

中国に銀を輸出するようになると、日本人は贅沢に目覚めます。中国から江南産の高価な絹や木綿を大量に輸入できたからです。
当然、勘合貿易だけでは賄い切れません。そこで明朝が認めていないはずの、民間による密貿易が横行します。実は明朝も、それをある程度黙認します。禁令どおりに取り締まったとしたら、たちまち国内経済が回らなくなることをわかっていたからです。もはや密貿易とは呼べないほど、その規模を勘合貿易を大きく上回っていました。この時点で、「朝貢一元体制」はほぼ崩壊していたといえるでしょう。
ただし、あまりに放置すれば政権の威信にかかわります。そこで16世紀半ば、明朝政府は突如として密貿易に対する制限・弾圧に乗り出します。主なターゲットは、北方で茶と馬との貿易を求めていたモンゴル人と、南西部の沿岸地域で密貿易を行っていた日本人業者、つまり「倭寇」です。この両面作戦はほぼ同時期に実行され、それで大きな騒擾(そうじょう)が起こったことから、合わせて「北虜南倭」と呼ばれています。
中国の事業者、生産者、それに倭寇のような海外の事業者も、政府の弾圧に軒並み反抗します。結局、明朝はそれを抑え込むことができず、北でも南でもかえって内憂外患を引き寄せることになりました。
特に南の沿岸部には、密貿易基地のような拠点が生まれました。もともと寧波(ニンポー)が勘合貿易の集積地でしたが、その南に位置するマカオや、後には少し北の厦門(アモイ)なども栄えます。国内と海外の事業者がより多く集まり、かえって恒常的・積極的に取引が行われるようになったのです。
現代の研究では、「倭寇的状況」と表現しています。一過的な事件ではなく「状況」という常態というわけです。中国的な表現に言い換えるなら、「華夷同体」といったところでしょう。明朝の「華」人と海外の「夷」人(野蛮人)が寄り集まってアングラ・マーケットを形成したわけです。

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第三章 より 岡本隆司:著 東洋経済新報社:刊

図3−4 江南デルタの発展 日本全史 第三章
図3−4.江南デルタの発展
図3−5 湖広熟すれば天下足る 日本全史 第三章
図3−5.湖広熟すれば天下足る
(『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第三章 より抜粋)

倭寇は、日本人が中国の沿岸で乱暴狼藉を働いたイメージが強いです。
しかし、それは倭寇の一面を表しているに過ぎません。

倭寇は、一過的な事件ではなく「状況」という常態であり、勘合貿易で賄い切れない分の民間による密貿易の要素が大きいです。

当時から、中国と日本は、経済的にも切っても切れない関係。
まさに「華夷同体」だったのですね。

17世紀は「危機」の時代だった

日本では、一般的に、江戸時代を「近世」、明治時代以降を「近代」と呼んでいます。

 中国では、10世紀半ばに始まる宋の時代から「近世」、19世紀後半もしくは20世紀以降を「近代」”と呼びます。

一方、西洋史においては、14世紀のルネサンス以降18世紀の産業革命・市民革命を境にして、それまでを「近世」、それ以降の産業化・民主化した社会を「近代」と呼ぶのが一般的です。

 日本の歴史に戻りますと、たしかに江戸時代は、明治以降の時代とも違うし、それ以前の中世と呼ばれる時代とも違います。だからこそ、この時代を「近世」として切り離して概観することは、おおいに意義があると思います。
そして東洋史でも西洋史でも「近世」の時代区分がある以上、それぞれ比較するにも好都合でしょう。実際にそうした世界それぞれの「近世」をどう見るか、学会でもおおいに議論になっているのです。

まず、ヨーロッパの「近世」について概観してみます。14世紀にルネサンスがあり、続いて大航海ブームが始まって好景気に沸くのが初期段階。それが一段落すると、今度は内輪揉めが顕在化します。もともと内輪揉めをくり返してきた地域ですが、当時は寒冷化の時代でもあり、少し条件が悪化するだけで生命に危機が及ぶような状況だったため、いわば真剣な生存競争に発展したのです。
その最たる例が16世紀初頭に始まる「宗教改革」と、それに端を発する17世紀前半の「30年戦争」です。生死の瀬戸際の生活を送るなか、ほんとうの信仰を突きつめようとする精神の動きは、よく理解できます。それだけに、正しい信仰というものが新たに生死を賭けた争いの火種になったのは何とも皮肉なことですが、歴史は往々にしてそういう残酷なものです。後者は全ヨーロッパを巻き込んで、おびただしい犠牲者を出し、ドイツの人口を激減させる凄惨な戦いとなりました。こうした一連の歴史過程は、西洋史では「17世紀の危機」と呼ばれたほどです。
その危機を乗り越えた後、18世紀から産業革命が始まり、富強になったヨーロッパは世界を席巻していきます。時代区分でいえばここからが「近代」で、特にイギリスが台頭してヨーロッパ、そして世界の覇権を握りました。
一方、東アジアでも17世紀に「危機」を迎えていました。14世紀から続いた明朝政権はすでに弱体化していましたが、16世紀以降は大航海時代や「北虜南倭」、武力集団による辺境の騒擾、豊臣秀吉による朝鮮出兵、あるいは農村の飢饉や都市部の暴動など、内憂外患のカオス的状況に直面し、さらに衰退の一途をたどります。これらは明朝の悪政も一因ながら、明朝という政権ばかりでなく、当時の体制そのものを打倒しようという運動が噴出した結果だったように思います。
そして17世紀に入ると、体制の経済的・社会的な矛盾が常態化し、明朝そのものが否定されるに至りました。かくして新しい体制が模索される中で、新たに勃興した清朝政権による統治支配が始まります。
つまり17世紀の百年は、西洋史でも東洋史でも大きな混乱を経て、そこからようやく抜け出し、一つの方向が見えてくる、という時代でした。それをパラレルな現象と見て共通の「近世」という語彙で名づける見方があるのです。
それに対し、日本列島は16世紀の戦国時代が終わり、「危機」の17世紀には、徳川幕府が成立して政治の安定期に入ります。西洋史・日本史もたしかに世界史の一部だということになります。

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第四章 より 岡本隆司:著 東洋経済新報社:刊

多少の時差はあるとはいえ、国の歴史というのは、東洋西洋かかわらず同じような成長の経緯をたどります。
「近世」という一つの時代をとっても、世界はつながっていることがわかりますね。

インターネットが発達した現代ならいざ知らず、数百年も前から世界が密接に結びついていたのには驚きます。

時間軸に沿って掘り進める「縦の関係」だけでなく、国や地域間の関わりという「横の関係」を学ぶ。
それが歴史を学ぶうえで、とても重要だということですね。

「開国」が引き起こした最も大きな変化とは?

250年以上に渡って続いた江戸時代。
19世紀半ばに黒船が来航し、いよいよ日本は「開国」へと向けて動き出します。

岡本さんは、「開国」によって生じた大きな変化は、急速なインフレだと述べています。

 理由ははっきりしています。これまでの経済の安定を支えてきたのは、田沼意次時代に発行された通貨「南鐐(なんりょう)二朱銀」以降の通貨政策でした。金属としての素材価値に由来する貨幣から、そこに刻印した額面で価値を決める通貨に転換することで、幕府はマネーサプライ・物価をコントロールできるようになったのです。
しかし「開国」して本格的な貿易が始まると、金銀の価値の違いが狙い撃ちされました。日本の金銀の交換比率は約1対5、それに対して欧米では約1対15。つまり日本は欧米に比べて銀の価値が三倍も高く、相対的に金の価値は三分の一でした。
そこで欧米にとっては、銀貨を日本の銀通貨と等価交換し、それを金小判と交換して海外に持ち出せば、三分の一の銀貨で金を得られます。具体的には、1ドル銀貨と一分銀三枚のレートで交換され、一分銀四枚で金小判一両に交換、その金を売却すれば4ドルになりました。これを外国商人はもちろん、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスをはじめ外国領事までこぞってくり返したため、日本の金が大量に国外流出したわけです。
これに対し、幕府は新たに「安政二朱銀」を発行します。「南鐐二朱銀」と同様の信用通貨ですが、銀の含有量を増やして金属としての価値を三倍にし、1ドル銀貨の交換レートを一分(=四朱)に設定しようとしたのです。ただし、国内の銀はほとんど枯渇していたため、貿易専用の通貨として少量だけ鋳造されました。
しかし欧米にとっては、日本国内でほとんど使えないうえ、1ドル銀貨の国内での価値も三分の一に落とされることを意味します。そのため各国領事の激しい反対に遭い、結局わずか22日で通用が停止されることになりました。
業を煮やしたのが、イギリス初代公使のラザフォード・オールコックです。貿易の秩序を取り戻すため、金銀相場を国際水準に改めるよう求めます。それに応えるように、幕府は金の含有量を従来の三分の一まで減らした「万延小判」「万延二分金」などを発行します。これにより、金の流出にようやく歯止めがかかりました。
その代わり、銀の価値が大幅に下がり、また幕府が財政を維持するために万延二分金などを大量に発行したことで、相対的に物価が急上昇しました。それは同時に、幕府の通貨が急速に信用を失ったことを意味します。
この一連の経緯には、大きな見落としがありました。「南鐐二朱銀」も「安政二朱銀」も、素材価値にかかわらず、額面で通用する信用通貨・計数貨幣なのに、幕末当時の誰もそれを理解していなかったことです。オールコックもそうですが、幕府の勘定方もおそらく同じです。慣例に従っていただけで、貨幣の内実の違いについて深く考えていなかったように思います。
だから、欧米列強の圧力に対して理屈で反論できなかった。当時の東アジア・中国でやっていたように、金属そのものの価値で調整せざるを得なくなったのです。それが百年続いてきた通貨システムの崩壊を招いたことは、当然の帰結といえるでしょう。
幕府が倒れた理由はいくつも考えられます。ただ商業にせよ農業にせよ、江戸時代を通じて産業政策は比較的うまく機能していました。その要になっていたのが、通貨システムの維持です。それが崩壊したという一点だけを見ても、もはや幕府の存在意義は失われたも同然です。

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第六章 より 岡本隆司:著 東洋経済新報社:刊

長期に渡って安定的な体制を築いていた江戸幕府。
それが「開国」という一つの事件で、あっけなく崩壊したのは、土台となっていた通貨システムが根底から覆されたからだということです。

通貨の信用性を維持することは、その国の存亡に関わる重大事である。
それがよくわかるエピソードですね。

日中関係の対立は、明治維新の頃から始まっている

今、日本と中国の対立が激しさを増し、大きな社会問題になっています。
その原点をたどると、明治維新の頃に遡ります。

岡本さんは、しかもそれは、双方の秩序観や統治観、社会構造や思想言語、語彙概念の相違にまで由来するだけに、かなり根深いといえると指摘します。

日本と中国の対立が最初に表面化した事件が、いわゆる「台湾出兵事件」です。

 発端はちょうど日清修好条規が結ばれた1871年、琉球王国に属する宮古島の島民が乗った琉球御用船が台湾の南端に漂着した際、そのうち54名が現地の先住民「生蕃(せいばん)」に殺害されたことにあります。
日本は台湾を清朝所属の「邦土」と見なしていたため、この一件の賠償を清朝に求めます。それに対して清朝側は、取り合おうとしません。生蕃の「生」は文字どおり「なま」、「蕃」は「蛮」を表します。つまり「生蕃」は生粋の野蛮人であり、中華文明はそこに及んでいない。だから実効支配もしていないし、そもそもいっさい関知していないというのが清朝の立場です。こういう対象を「化外(けがい)」と表現しました。要するに、中華皇帝の影響力の及ぶ範囲ではないということです。
加えて、宮古島の島民はあくまでも琉球王国の人々であり、日本人ではないとも指摘。つまり清朝としては、二重の意味で日本に賠償する義理はないと返答してきたのです。
これを受けて、日本は1874年に台湾へ軍隊を送り込みます。台湾の先住民の居住地が清朝の実効支配の及ばない「化外」なら、国際法上は主権者のいない「無主の地」になる。また琉球王国は17世紀初頭から薩摩藩の支配下にあり、維新後もそれは変わらない。したがってその住民は日本人とみなす。その日本人が被害を受けた以上、日本政府として単独で報復行動に出るのは当然、という理屈です。その機に乗じて台湾の先住民居住地を植民地化するほどの勢いでした。
当然ながら、清朝は猛然と非難します。たしかに「生蕃」は「化外」だが、台湾自体は中国に属している。そこに軍隊を送り込むのは、明らかに日清修好条規の第一条(不可侵条項)に違反する、というのです。ただし、実力で日本を阻止する力が清朝にはありませんでした。まだ海軍を持っていなかったからです。
やがて、交渉で妥協点を探ろうという話になるのですが、その場もおおいに難航します。大久保利通が北京へ乗り込んだものの、水掛け論で平行線をたどるばかりでした。結局、イギリス公使が仲裁に乗り出し、両国間で「北京専条」という協定を結ぶことでようやく落ち着きます。
「北京専条」は前文と三カ条で成り立っています。このうち前文では、「生蕃」が危害を加えたのが「日本国属民等」であると明記しています。つまり宮古島の住民、琉球王国の人々が日本人であると、清朝側に認めさせたことになります。
これを機に、日本政府は清朝の朝貢国でもあった琉球を清朝から切り離し、正式に日本に組み込もうとします。いわゆる「琉球処分」の進展です。台湾出兵が、日本と沖縄の関係にとって歴史的転換点にもなったわけです。
また第三条では、逆に日本が譲歩する形で、台湾が「生蕃」も含めて清朝の支配下にあることを確認しています。清朝は以後、海軍の建設に着手するのに加え、台湾の統治を強化します。「北京専条」は直近の事態を収集するための妥協の産物に過ぎません。台湾出兵に始まる一連の日本の行動は、清朝に前例のない衝撃を与えました。
これまで西洋諸国にもさんざん痛めつけられてきましたが、互いを拘束する条約を結ぶことによって、おとなしくさせることができるというのが、清朝が経験から得た教訓でした。それに西洋とは地理的に距離が離れているため、そう継続的に関わることもありません。
ところが日本は、そんな“常識”をことごとく覆したことになります。ほんの三年前に条約で相互不可侵の条項を盛り込んだはずなのに、何の歯止めにもならなかった。しかも隣国なので、いつでも再来のおそれがある。この一件で危機感を募らせた清朝は、「仮想敵国」の最上位をロシアから日本に変更しました。

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第七章 より 岡本隆司:著 東洋経済新報社:刊

日本と中国は、その後も琉球(沖縄)や朝鮮半島の処遇をめぐって対立を深めていきます。

そして、その対立が、台湾出兵からわずか二十年後、日清戦争という形でふたたび顕在化することになります。

 対立の焦点は、やはり朝鮮半島でした。清朝との関係で見ると、朝鮮には外交を含めてある程度の自主権は確保されていました。ただし清朝と対等な立場を求めたり、リスペクトがなかったり、あるいは中国と敵対する国家と結びついたりすることは許されない。こういう制約があるという意味では、明らかに属国でした。
このルールにしたがうなら、何ら問題ありません。ところが日本は、朝鮮と独立国家どうしとしての関係強化を望みました。この時点でまず清朝の思惑とバッティングするわけです。加えてアメリカやロシアをはじめとする西洋諸国も、清朝と朝鮮の関係を理不尽と捉えるようになっていました。
それに対して清朝は、まったく譲歩しません。むしろ朝鮮が清朝を差し置いて他国と関係を緊密にしたり、援助や指導を求めたりすると、とたんに態度を硬化させるような場面もあったようです。
それでも1894年までは、なんとかパワーバランスが保たれていました。ところがこの年、朝鮮国内で三たび大きな反乱が起こります。「甲午農民戦争」または「東学の乱」と呼ばれるものです。
朝鮮の政権が鎮圧のために清朝に援軍を要請すると、それを脅威と捉えた日本も軍隊を派遣しました。このとき、日本側にはある種の“覚悟”があったようです。
過去に二度、「壬午軍乱」と「甲申事変」において、日本軍は清朝軍と対峙して圧倒されています。三たび同じことをくり返すようなら、朝鮮半島における日本のプレゼンスが壊滅的に劣勢に立たされることは必至でした。そうならないためには、清軍と正面から一戦を交えるしかない。結果的にその考え方に日本政府も傾いていきました。
そのあたりの事情を克明に記したのが、当時外務大臣だった陸奥宗光による『蹇々録(けんけんろく)』です。たとえば以下のように述べています。
「日清両国か朝鮮において如何に各自の権力を維持せんとせしやの点に至りては、ほとんど氷炭相容れざるものあり。日本は当初より朝鮮を以て一個の独立国と認め、従来清韓両国の間に存在せし曖昧なる宗属の関係を断絶せしめんとし、これに反して神国は 疇昔の関係を根拠として朝鮮が自己の属邦たることを大方に表白せんとし、実際において清韓の関係は普通公法上に確定せる宗国と属邦との関係に必要なる原素を欠くにもかかわらず、せめて名義上なりとも朝鮮を以てその属邦を認められんことを勉めたり。」(陸奥一九八三)

清朝と朝鮮の関係は、国際ルールに定められた宗主国と属国の関係とは違うにもかかわらず、清朝は朝鮮を一方的に属国扱いしている。この曖昧な関係を絶って朝鮮を独立国にしなければならないとして、それを戦争の大義としたのです。
一方、当時の総理大臣だった伊藤博文は、開戦に反対の立場でした。清朝側の李鴻章の外交手腕をリスペクトしていたため、二人で協議すれば破局は回避できるだろうと考えていたようです。ところが陸奥をはじめ、政府の中枢が現地当局と気脈を通じて、開戦やむなし、という論調に固まったため、それに従わざるを得なくなりました。

1894年に日本側から仕掛けて始まった日清戦争は、予想外に日本の圧勝で終わります。朝鮮半島のみならず遼東半島まで制圧し、ついには北京にまで迫るほどの勢いでした。
しかしこの“勝ち過ぎ”が、その後の日本に禍根を残すことになります。翌1895年に締結した下関講和条約により、日本は朝鮮の独立のほか、遼東半島・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の割譲、賠償金を獲得しました。しかしその直後、ロシア・フランス・ドイツから三国干渉を受け、遼東半島については清朝に返還せざるを得なくなります。
そればかりか、かえってロシアの東アジア進出を誘発することにもなりました。清朝は日本をいっそう脅威に感じ、警戒する必要に迫られます。その勢いと対峙するには、強国のロシアと組むしかない。そこで東三省(マンチュリア)の利権を代償にして引き入れることにしました。以下、東三省(現在の遼寧・吉林・黒龍江の三省)は、当時の日本人の呼称にしたがって、「満洲」と表記します。
北京から見ますと地政学的に、朝鮮半島と遼東半島あたりは一体で考える必要があります。朝鮮半島の安全を確保したければ、地続きの「満洲」も押さえなければならない。逆に「満洲」の安全も、朝鮮半島に担保されている。両方とも一体一括で、いずれも敵対勢力に取られては困る。
だから清朝は「満洲」の安全のために、朝鮮半島を日本から守ることに固執してきました。そのための日清修好条規であり、「琉球処分」への反対であり、日清戦争でもあったわけです。ところがすべて失敗したため、いよいよロシアに頼らざるを得なくなったということです。
日本にとっては、朝鮮半島を確保したものの、その先を強国ロシアに塞がれ、しかも押し戻されるような形です。清朝以上にたいへんな脅威であることはいうまでもありません。そこで日本はロシアに対し、「満洲」と朝鮮半島でそれぞれ棲み分け、互いに干渉しないことを提案します。
ところがロシアは、それを拒否しました。そもそも日本を見下していたうえ、やはり清朝と同様、地政学的に「満洲」と朝鮮半島を一体一括で捉えていたからです。「満洲」を支配する以上、喉元に日本がいては危険ということです。この反応に絶望した日本は、しだいにロシアとも対決姿勢を強めていきます。
1904年から始まった日露戦争は、周知のとおり辛うじて日本が勝つわけですが、その対立の構図は日清戦争と同じでした。日本史上の意義では、両者はまったく違うのでしょうが、地政学的、もしくはそれを含めた国際政治的な観点で見ると、やはり朝鮮半島をめぐる勢力争いが最大の焦点だったのです。その意味で、日露戦争は日清戦争の再来だったと捉えるべきでしょう。

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』 第七章 より 岡本隆司:著 東洋経済新報社:刊

明治維新から太平洋戦争に至る、いわゆる「日本近代史」。
歴史的な大事件や主要な人物が数多く登場するため、覚えるのに苦戦した人もの多いでしょう。

ただ、それも中国史の視点を交えて、複眼的に捉えると理解しやすくなりますね。

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同じものでも、見る人、見る位置によってまったく違う形に見える。
それは「歴史」にも当てはまります。

私たちが学校で学んできた日本史は、あくまで日本人の視点で書かれたもの。
客観的に考えると、かなり偏った見方だといえるかもしれません。

そこに中国・韓国・琉球などの視点を加えることで多角的、立体的にとらえることができます。
それが「東洋史」を学ぶ大きな意義だということですね。

現在の日本と中国は、かなり深刻な対立関係にあります。
それは過去の両国のやりとりから生まれた根深いものです。

解決の第一歩は、お互いをよく知ることから。
国同士の関係でも、それは変わりません。

私たちの日本という国の理解をより一層深めてくれる一冊。
ぜひ、皆さんもお手にとってみてください。
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