本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

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【書評】『世界史とつなげて学べ 超日本史』(茂木誠)

 お薦めの本の紹介です。
 茂木誠さんの『世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる教科書が教えない歴史』です。

 茂木誠(もぎ・まこと)さんは、予備校の世界史科の講師です。
 現代ニュースを歴史的な切り口から考察する「もぎせかブログ館」の運営者でもあります。

ありそうでなかった「世界史の目線からの日本史」

 近年、「歴史の学び直し」が、一大ムーブメントとなっています。
 書店にも、さまざまな時代、視点からの「世界史」「日本史」関連の書籍が平積みされていますね。

 しかしながら、世界史の目線で日本史を俯瞰できるような著作は、ほとんどありません。

 その理由は、日本の歴史学界では明治以来、「日本史(国史)」「東洋史=ほぼ中国史」「西洋史」の縦割りが続き、タコツボ的専門分野に閉じこもって、人的交流もほとんどない状態が続いてきたためです。

 敗戦後に「高校世界史」を新設したとき、東洋史学者と西洋史学者が執筆を分担したため、「各国史の寄せ集めとしての世界史」なる怪物(キマイラ)が出現しました。そして、この怪物のなかには祖国である日本が存在しないという、奇っ怪な事態が出現したのです。
 その一方、「高校日本史」の教科書は、重厚な日本史研究の成果を盛り込んだ結果、重箱の隅をつつくような法令や土地制度の記述が延々と続く無味乾燥なものとなりました。これでは東アジアや世界のダイナミックな動きのなかで、ざっくり日本史を掴むことは困難です。
「国際化」の美名のもとに、1992年度からの学習指導要領改訂で「高校世界史」が必修とされ、「高校日本史」が選択とされた結果、日本史をきちんと学べない高校生が量産されました。英語に習熟し、外国人とコミュニケーションできたとしても、“What is Japan?” と問われて何も答えられないという、笑えない事態になってしまったのです。
 ようやく事態の深刻さに気づいた文部科学省は、2020年からの学習指導要領改訂で、近現代の日本史と世界史を統合した「総合歴史」なる科目を新設し、必修とすることを決めました(実施は2022年度以降)。このこと自体は評価すべきですが、学界のタコツボ状態は変わっていません。今度は「世界史と日本史の寄せ集めとしての総合歴史」という怪物が出現するのではと危惧します。
「自分は何者なのか?」ということは、鏡に映ったいまの自分を見つめるだけではわかりません。過去の自分と比較し、さらには他者とのかかわり、他者との比較のなかで、初めて自画像は相対化されるのです。
 同様に、「われわれは何者か?」という根本の問いに答えるためには、日本史を世界史(人類史)の一部として位置づけ、祖先が世界とどうかかわってきたのか、ということを理解する必要があるのでしょう。

『世界史とつなげて学べ 超日本史』 はじめに より 茂木誠:著 KADOKAWA:刊

 本書は、日本史を専攻し、世界史を教えてきた茂木さんならではの「世界視点からの日本史」をわかりやすくまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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DNAが解き明かした「日本人の起源」とは?

 母親から子へ、代々受け継がれるDNA。
 それが「ミトコンドリアDNA」です。

 茂木さんは、ミトコンドリアDNAを遡っていけば、母系の祖先がどこから来たのかが特定できると述べています。

 このミトコンドリアDNAの鑑定が本格化し、「分子人類学」という新たな学問が爆発的に発展するのは、1990年代以降のことでした。
 遺伝子上には、進化の過程で起こった突然変異の痕跡が、ノイズのように記録されています。つまりDNAのサンプルを並べたとき、ノイズの少ないほうがより古い、ということになります。こうして古いものから新しいものへとサンプルを並べ、同じ変異をもつサンプルをA〜Zにグループ分けしていくと、系統樹のような図をつくることができます。それぞれのグループのことを「ハプログループ」と呼びます。「ハプロ」はギリシア語で「単一の」という意味で、片親から受け継いだDNAによる分類を指します。
 そこで最も古いタイプがグループL(L0〜L2 )で、これはすべてアフリカに存在します。現生人類の故郷がアフリカにあることが、DNAからも確認できたのです。
 米カルフォルニア大学のアラン・ウィルソン(1934〜1991年)は、現生人類の共通祖先にあたる女性が、16万年前のアフリカにいたことを突き止め、『旧約聖書』に出てくる最初の女性の名前を借りて、「ミトコンドリア・イブ」と名づけました。
「エデンの園(その)」は、アフリカにあったのです。
 その後7万年前にアフリカを出た現生人類には、二つのグループが存在しました。グループNはインド以西のユーラシアへ、グループMは東アジアへと拡散します。Mがさらに枝分かれしたのがDというタイプです。中国南部で生まれ、北東アジア(中国北部、朝鮮、日本)人のDNAの約4割を占めます。
 沖縄に近いフィリピンや台湾の先住民ではグループBの割合が多く、日本列島とは、際立った対照を示しています。沖縄やアイヌの人々はDが最も多く、本土日本人とよく似ています。
 縄文人の祖先であるDは、従来いわれていたように東南アジアから島伝いにやってきたのではなく、氷河時代に地続きだったシベリア方面から日本列島(当時は日本半島)に渡ってきたのです。
 また、縄文人、弥生人、現代の日本人をグループDの割合で比較してみると、弥生人は約50%に達するのに対し、縄文人は約20%、現代日本人は約40%となります。これは、両者が混血した姿を示しています。
 縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血が、現代の日本人であるという「混血説」が、DNA研究によって証明されたわけです。

『世界史とつなげて学べ 超日本史』 第1章 より 茂木誠:著 KADOKAWA:刊

図1 細胞図 超日本史 第1章
図1.細胞図
図2 D系統の移動ルート 超日本史 第1章
図2.D系統の移動ルート
(『世界史とつなげて学べ 超日本史』 第1章 より抜粋)

 母系のミトコンドリアから見るかぎり、日本人は「北東アジア人」の一つで、アイヌ人、本土日本人、沖縄人は同じ系統に属するということがわかります。

 科学の進歩が、私たちのルーツを、より鮮明に映し出してくれます。
 これからどんな新しい発見があるのか、楽しみですね。

「壬申の乱」は、唐と新羅の代理戦争だった

 660年、唐の第二代太宗(李世民)は、新羅の善徳女王と手を組み、百済を滅ぼしました。

 百済の重心だった鬼室福信(きしつふくしん)が、百済再興の兵を起こし、ヤマト国家に使者を送ります。

 当時、ヤマト国家の実験を握っていたのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。
「百済再興のために援軍を送る」という決断をします。

 そうして起こったのが、有名な「白村江の戦い」(663年)です。

当時のヤマト国家の人口は約500万人程度。唐の人口は約5000万人です。
 百済復興のために半島へ送られたヤマト軍は約5万人。人口の約1%ですから、いまの日本で言えば120万人の兵士を海外派遣するような大戦争です。
 しかし、開戦直後に、百済復興軍のなかで主導権争いが起こり、豊璋王子が鬼室福信を斬るという事件が起こったため、兵士の士気は下がります。
 決戦の場は、半島西南の白村江(いまの錦江(クムガン))の河口付近。
 この白村江の戦いで、ヤマト水軍1000隻のうち400隻が炎上して大敗しました。豊璋は東軍に捕らわれ、残った艦隊は百済の敗残兵を乗せてヤマトに戻りました。ヤマトは亡命してきた百済難民も受け入れ、百済貴族はそのまま貴族の待遇を受けました。
 勝利に沸く唐・新羅連合軍は、返す刀で高句麗に侵攻します。朝鮮半島全体が、中国寄りの政権になる危険が出てきたのです。建国以来、最初の危機を迎えたヤマト――。
 唐・新羅連合軍の侵攻に備えるため、中大兄皇子は、大阪湾に面した難波宮を安全保障上の理由から飛鳥へ、さらに琵琶湖畔の大津宮に移転します。亡命百済人の技術者を動員して瀬戸内海沿岸に城塞(朝鮮式山城)を築くとともに、最前線となる博多の大宰府防衛のため、巨大な土塁をつくって水を蓄えました(水城(みずき))。
 近江の大津宮で大王に即位した中大兄皇子(天智天皇)は、「高句麗平定を祝う」という名目で遣唐使を再開し(670年)、大陸の情勢を探ります。これに応えて唐は使節・郭務宗(かくむそう)を3000人の兵士とともに遣わし、服属を要求してきます。
 幸運だったのは、百済・高句麗の旧領をめぐり、唐と新羅が内輪もめをし始めたことです。

 A.唐に服属して、宿敵の新羅と戦う。
 B.新羅と結んで、唐を半島から駆逐する。

 天智天皇はAを選択しますが、政権内には唐に服属することへの反発が渦巻いていました。
 この重大局面で天智天皇が亡くなり、内戦が勃発します。天智天皇の遺児である大友皇子を擁立する「親唐派」勢力と、天智天皇の弟(異説あり)で「親新羅派」大海人皇子(天武天皇)が激突したのです。これをたんなる皇位継承争いと見ると、事の本質を見誤ります。
 この壬申の乱で勝利を収め、大津宮を攻略して大友皇子を自害に追い込んだ大海人皇子が即位し(天武天皇)、唐とは絶縁して新羅との関係を修復しました。このあと天武、持統、文武(もんむ)の三代30年間、遣唐使は中止されます。

『世界史とつなげて学べ 超日本史』 第4章 より 茂木誠:著 KADOKAWA:刊

図3 白村江の戦いの略地図 超日本史 第4章
図3.白村江の戦いの略地図
(『超日本史』第4章 より抜粋)

 歴史に「たら」「れば」はありません。

 ですが、もし、唐と新羅が内輪もめしていなかったら。
 日本は、唐の支配下に置かれていたと思うと、歴史の神秘性を感じますね。

明の光武帝は、なぜ「海禁令」を出したのか?

 13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部などで大暴れした「倭寇」

 倭寇は、いかにして生まれ、周囲の国々からどのように見られていたのでしょうか。

 フビライ・ハンの没後、14世紀になると元の求心力は急速に失われます。あいつぐ外征で財政が逼迫するなか、銀の裏づけのない紙幣(交鈔(こうしょう))の大量発行がインフレーションを引き起こし、凶作も重なって暴動が頻発します。
 江蘇省の張士誠(ちょうしせい)、浙江省の方国珍(ほうこくちん)は、塩の密売で財を成した大商人です。元朝の討伐を受けると海賊化し、大都への米輸送船を襲撃して元を苦しめました。
 浙江省の中心が寧波ですから、彼らは博多とのあいだで対日貿易も行なっていました。国家権力の統制を嫌う海上勢力だったのです。
 その一方、運河建設の労働者を組織した白蓮(びゃくれん)教徒が紅巾の乱(1351〜66年)を起こします。農民出身の朱元璋(明の建国者)がこれを引き継ぎ、南京を拠点とします。
 朱元璋政権は農村を基盤とし、朱子学的な農本主義と華夷(かい)思想をイデオロギーとしました。
 つまり元末の江南では「陸の勢力(ランドパワー)」である朱元璋と、「海の勢力(シーパワー)」である張士誠・方国珍が覇を競ったわけです。
 これと同じことが、日本でも起こりました。
 もともと「陸の勢力」だった鎌倉幕府は、平氏政権を支えていた「海の勢力」を支配下におさめ、元寇の際には松浦党など海賊衆の海軍力を動員して、モンゴル軍を撃退しました。
 しかし防衛費の過重で幕府が財政難に陥ると、恩賞もないまま動員される海賊衆は反発し、幕府の統制を離れます。九州の武士も幕府の統制を離れて勝手に動くようになり、幕府側は彼らを「悪党」と呼びました。この「悪党」と海賊衆が結びついて高麗や元朝の沿岸へ出没し、ときには交易を求め、ときには略奪に走るようになります。
 この日本側「海の勢力」と、中国(江南)側「海の勢力」が融合した結果、「倭寇」と呼ばれる海上武装集団が出現します。

 日本刀や、火薬の原料である硫黄の需要は高く、また日本の武士(悪党)が傭兵として中国側武装集団に参加しました。
 朱元璋は倭寇の脅威を深刻に受け止め、大軍をもって江蘇・浙江、福建を制圧。張士誠を捕らえ、方国珍には官位を与えて懐柔します。江南を統一した朱元璋は明を建国し(1368年)、皇帝に即位します。これが洪武帝です。
 海禁令は「寸板も下海を許さず」、つまり「板切れ一枚、海に浮かべてはならぬ」という強力な貿易・海外渡航禁止令で、違反者は厳罰に処しました。倭寇と結ぶ張士誠らの残党が復活することを恐れたためです。沿岸交易や漁業まで許可制とし、政府の軍船が沿岸をパトロールしました。
 猜疑心が強い洪武帝は建国の功臣を次々に粛清します。最側近である宰相の胡惟庸(こいよう)も1380年に突然逮捕され、連座して処刑された者は15000人に及ぶという大粛清が行なわれました。
 そのときの胡惟庸の罪状は、「日本と内通し、武器を輸入して謀反を企てた」というものでした。
 真偽はともかく、洪武帝が日本をどう見ていたのかがよくわかる事件です。

『世界史とつなげて学べ 超日本史』 第9章 より 茂木誠:著 KADOKAWA:刊

図4 元末期の群雄割拠 超日本史 第9章
図4.元末期の群雄割拠
(『世界史とつなげて学べ 超日本史』 第9章 より抜粋)

 中原を支配する明の皇帝が、海禁令を敷かざるをえなかった。
 それほど、倭寇の脅威は、すさまじかったということですね。

 倭寇に対するイメージも、世界史視点で眺めると、大きく変わってきます。

驚くべき早さで伝わった「鉄砲技術」

 1543年、種子島に来た二人のポルトガル商人によって、「鉄砲」が伝わります。

 当時、彼らは、日本は戦国時代に突入し、武器の需要が高いという情報を得ており、新たなビジネスのチャンスを虎視眈々と狙っていました。

 ジャンク船は種子島に到達し、領主で16歳の種子島時堯(ときたか)が初めて見る西洋人二人と面会しました。このとき通訳を務めたのが「大明儒生(じゅせい)五峯」、明の知識人である王五峯(王直)であったと『鉄炮記』は伝えます。
 時尭はポルトガル人から鉄砲二丁を2000両(数億円)という破格の値で買い上げました。一丁は手元に置いて、鍛冶職人である八板金兵衛(やいたきんべえ)に渡します。
 金兵衛は鉄砲を分解して徹底的に調べ上げました。ネジのつくり方がわからず、娘の若狭をポルトガル人に嫁がせて、技術を学んだという伝説もありますが、2年後には国産第一号の鉄砲製造に成功します。
 では、時尭が買い付けたもう一丁の鉄砲はどうなったのか?
 噂を聞いて種子島にやってきた津田数長(かずなが)(津田監物(けんもつ))という人物の手に渡ったのです。津田は紀州(和歌山県)の根来(ねごろ)寺の僧兵隊長で、根来の刀鍛冶である芝辻清右衛門(しばつじせいえもん)に預けて複製を命じました。その2年後、清右衛門は鉄砲のコピー生産に成功します。
 清右衛門はのちに堺へ移り、根来と堺は日本における鉄砲製造の中心となりました。この結果、紀州には鉄砲を自在に操る地侍(じざむらい)の集団が出現します。彼らは根来衆(ねごろしゅう)とか雑賀衆(さいかしゅう)と呼ばれ、各地の大名に傭兵として仕えました。紀州には浄土真宗(一向宗(いっこうしゅう))の門徒が多く、加賀の一向一揆、伊勢長島の一向一揆、大阪にあった浄土真宗の総本山・石山本願寺と信長との戦い(石山合戦(かっせん))でも、大量の鉄砲が使われています。
 鉄砲の産地としてはほかに近江国(おうみのくに)(滋賀県)、琵琶湖の東北の国友(くにとも)村が有名です。種子島で複製された鉄砲を、薩摩経由で献上された十三代将軍足利義晴が国産化を命じ、国友村の刀鍛冶たちがこれに成功したのが始まりです。織田信長から鉄砲の大量発注を受けたのがこの国友村で、天下統一に寄与しました。時系列で見ておきましょう。

 種子島(1543年)→紀伊の根来寺(1544年)→堺
 種子島(1543年)→薩摩→足利将軍家→近江の国友村(1544年)

 驚くべき技術伝達の速さです。

『世界史とつなげて学べ 超日本史』 第10章 より 茂木誠:著 KADOKAWA:刊

図5 種子島に伝来した鉄砲 超日本史 第10章
図5.種子島に伝来した鉄砲
図6 鉄砲の伝播に関係する地名 超日本史 第10章
図6.鉄砲の伝播に関係する地名
(『世界史とつなげて学べ 超日本史』 第10章 より抜粋)

 当時の日本人の鍛冶技術の高さがよくわかります。
 それとともに、日本人に鉄砲が与えたインパクトの大きさが伝わるエピソードです。

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 私たちが高校で学んだ「日本史」。
 それは、あくまで日本人から見た、内向きの「日本史」でした。

 グローバル化が進み、世界がひとつにつながった社会。
 その中においては、もう一つの視点が必要です。

 それが、世界から見た、外向きの「日本史」です。
 つまり、茂木さんのおっしゃる「世界史の目線からの日本史」が、より重要になります。

 皆さんも、本書を読んで新たな視点を手にし、日本史をより深く理解するきっかけにしてみてはいかがでしょうか。

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