本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『武器になる哲学』(山口周)

 お薦めの本の紹介です。
 山口周さんの『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』です。

 山口周(やまぐち・しゅう)さんは、イノベーション・組織開発、人材/リーダーシップ育成が専門のコンサルタントです。

大切なのは、「プロセスからの学び」

「哲学を学んで、実生活に役立てたい」

 そう思って勉強を始めたけれど、結局、途中で挫折した。
 そんな人は多いでしょう。

 山口さんは、哲学に挫折する理由について「学びの種類」という軸から説明しています。

 哲学者の考察から、私たちが得られる学びには、次の二つの種類があります。

  • プロセスからの学び
  • アウトプットからの学び

 プロセスとは、その哲学者がどのようにして考え、最終的な結論に至ったかという思考のプロセスや問題の立て方を意味しています。一方で、アウトプットとは、その哲学者が論考の末に最終的に提案した回答や主張を意味します。
 この枠組みで考えてみれば、古代ギリシアの哲学者たちが至った結論である「世界は4つの元素から成り立っている」という指摘は、アウトプットということになるわけですが、ではこのアウトプットから現在の私たちが何かを学べるかというと、もちろん何もありません。せいぜい、頭の良かった古代ギリシアの哲学者たちも、こんな世迷いごとをほざいていたんだな、というくらいの学びしかないでしょう。
 しかしでは一方で、彼らがどのようにして世界を観察し、考えたかというプロセスについては、その限りではありません。そこには現在を生きる私たちにとっても大きな刺激となる、みずみずしい学びがあります。
 例えばソクラテス登場以前の古代ギリシア、時代としては紀元前6世紀ごろ、アナクシマンドロスという哲学者がいました。そのアナクシマンドロスがある日、ふとしたきっかけから当時支配的だった「大地は水に支えられている」という定説に疑問を持つようになります。その理由は実にシンプルで「もし大地が水によって支えられているのであれば、その水は何かによって支えられている必要がある」ということなんですね。つまり水を支えている「何か」がなければならない、と考えると、その「何か」もまた別の「何か」に支えられている必要がある、ということです。アナクシマンドロスはこのように考えた結果、「何かを支える何かを想定すれば無限に続くことになるが、無限にあるものなどありえない・・・・・。そうなると最終的に地球は何物にも支えられていない、つまり宙に浮いていると考えるしかない」と推論したわけです。
 アナクシマンドロスが最終的に出した「大地は何物にも支えられていない、宙に浮いている」という結論は、現在の私たちにとって陳腐以外の何物でもない。つまり、先ほどの枠組みで言えば「アウトプットからの学び」はないということになります。
 一方で、アナクシマンドロスが示した知的態度や思考プロセス、つまり当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説を鵜呑みにせず、「大地が水によって支えられているのだとすれば、その水は何にって支えられているのだろう」という論点を立て、粘り強く思考を掘っていくような態度とプロセスは、現在の私たちにとっても大いに刺激になります。
 まとめればこういうことになります。つまり、アナクシマンドロスが残した論考について、現在を生きる私たちにとっての学びを考えると、それは「プロセスからの学び」であって、最終的な結論としての「アウトプットからの学び」は、刺身のツマのようなもので、学びの「ミソ」はそこにはないということです。ところが、こういった思考プロセスの妙味を味わわずに、ただ単に「結論としての学び」を得ようとすると、「アナクシマンドロスは、地球は宙に浮いていると主張した」という結論だけを学ぶことになり、「そんなの当たり前だろ。この時代のやつはバカだったんだな」という感想しか思い浮かばないわけで、であれば「こんなことを学ぶのに一体なんの意味があるんだ」と思うのは当たり前なんですね。

『武器になる哲学』 第1章 より 山口周:著 KADOKAWA:刊

 本書は、「哲学・思想のキーコンセプト」50個を、「プロセスからの学び」という視点から、わかりやすく解説した一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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論理だけでは、人は動かない

 人の行動を、本当の意味で変えさせる。
 そのためには、ただ論理的に説得するだけでは難しいです。

 では、人が真に納得して動くためには、何が必要なのでしょうか。

 アリストテレス(紀元前384年〜紀元前322年)は、著書『弁論術』において、本当の意味で人を説得して行動を変えさせるためには「ロゴス」「エトス」「パトス」の三つが必要だと説いています。

「ロゴス」とはロジックのことです。論理だけで人を説得することは難しいと指摘はしたものの、一方で論理的にムチャクチャだと思われる企てに人の賛同を得ることは難しいでしょう。主張が理にかなっているというのは、人を説得する上で重要な要件であり、であるからこそアリストテレスも『弁論術』において、かなりのスペースを使って「ロゴス」について説明しています。
 しかし、ではそれだけで人が動くかというと、そうはいきません。つまり「論理」は必要条件であって十分条件ではない、ということです。これはディベートを思い出してみればわかりやすい。ディベートでは相手を打ち負かせばそれでよいわけですが、実社会で同じことをやれば、打ち負かされた相手は怨恨を内側に抱えることになり、結局のところ面従腹背するだけで全力以上の実力を発揮することはありません。論理だけでは人は動かないのです。
 ということでアリストテレスが次に上げているのが「エトス」です。「エトス」とは、エシックス=倫理のことです。いくら理にかなっていても道徳的に正しいと思える営みでなければ人のエネルギーを引き出すことはできません。人は、道徳的に正しいと思えること、社会的に価値があると思えるものに自らの才能と時間を投入したいと考えるものであり、であればこそ、その点を訴えて人の心を動かすことが有効であるとアリストテレスは説いているわけです。
 そして三つ目の「パトス」とはパッション=情熱のことです。本人が思い入れをもって熱っぽく語ることで初めて人は共感します。手を胸に当てて想像してみて欲しいのですが、もしシラケきった表情の坂本龍馬が、さもつまらなそうに維新の重要性を訴えていたとしたら、あれだけの運動を起こすことができたでしょうか? あるいは、いかにも「ヤル気ゼロ」といった表情のキング牧師が、カッタルそうに差別撤廃の夢を訴えていたとしたら、あなたはどう思うでしょうか? ・・・・・まったくピンときませんよね。彼らが「パトス」、つまり情熱をもって未来を語ったからこそ、世界はいまあるように変わりました。

『武器になる哲学』 第1章 より 山口周:著 KADOKAWA:刊

 これを、『車』に例えると、以下のようにいえるでしょう。

「ロゴス」は、車そのものを形づくる“車体(ボディー)”。
「エトス」は、進むべき方向を決める“ハンドル”であり、“タイヤ”。
「パトス」は、その動力源となる“ガソリン”。

 どんな高性能な車も、ガソリンが空っぽなら、1mも動くことはありません。

 最終的に人を動かすのは、「パトス」。
 情熱であり、共感です。

 リーダーの立場の人は、とくに覚えておきたいですね。

「わかりあえない人」こそが、学びや気づきを与えてくれる

 フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナス(1906〜1995)は、「他者」という言葉を、文字通りの「自分以外の人」という意味ではなく、どちらかというと「わかりあえない者、理解できない者」と定義しています。

 レヴィナスの言う「他者」の重要性。
 それは、「他者とは“気づき”の契機である」というものです。

 自分の視点から世界を理解しても、それは「他者」による世界の理解とは異なっている。この時、他者の見方を「お前は間違っている」と否定することもできるでしょう。実際に人類の悲劇の多くは、そのような「自分は正しく、自分の言説を理解しない他者は間違っている」という断定のゆえに引き起こされています。この時、自分と世界の見方を異にする「他者」を、学びや気づきの契機にすることで、私たちは今までの自分とは異なる見方を獲得できる可能性があります。
 レヴィナス自身は、このような体験を、ユダヤ教の師匠と弟子である自分との関係性の中から、体験的に掴み取っていたようです。この感覚は、師匠について何らかの習い事をやった経験のある人には、心当たりがあるのではないでしょうか。私自身について言えば、学生時代に長らく勉強した作曲がそうでした。習い始めの頃は、どうにもこうにも、師匠の言う「音を外に探しに行ってはならない」という注意が、感覚的によくわからない。ここで言う「わからない」というのは、もちろん日本語として「わからない」ということではありません。その文言でもって、師匠が意図するところが「わからない」のです。
 ところが、この「わからなさ」は、ある瞬間気づくと氷解している。その瞬間に何があったのかは、自分でも遡及的に体験することができません。とにかく、昨日まで「わからなかった」ことが、なぜかはわからないけれども、今日になって「わかった」と感じられる。そのような体験をした人も少なくないと思います。このとき「私」という言葉で同定される個人は、「わかった」後と前では、違う人間ということになります。なぜなら、今日の自分が、昨日の自分に同じ文言を投げかけても、それは「バカの壁」に当たって向こうに届かないからです。つまり「わかる」ということは「かわる」ということなんですね。そういえば、一橋大学の学長を務めた歴史家の阿部謹也は、指導教官であった上原専禄による指導について、その著書『自分のなかに歴史をよむ』の中で次のようなエピソードを紹介しています。

 上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告しますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。(中略)「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。
                  阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』

 未知のことを「わかる」ためには、「いまはわからない」ものに触れる必要があります。いま「わからない」ものを「わからないので」と拒絶すれば「わかる」機会は失われてしまい、「わかる」ことによって「かわる」機会もまた失われてしまう。だからこそ「わからない人=他者」との出会いは、自分が「かわる」ことへの契機となる。レヴィナスの言う「他者との邂逅(かいこう)がもたらす可能性」です。

『武器になる哲学』 第2章 より 山口周:著 KADOKAWA:刊

 戦争も含めて、すべての争いは、『「他者」を理解しようとしない』ことから引き起こされる。

 山口さんも指摘するとおり、真理を表しています。

 グローバル化が進み、世界が一つにつながった現代社会。
 だからこそ、「他者」を知ることの重要性は、ますます大きくなっていますね。

差別や格差は、「同質性」が高いからこそ生まれる

 現代は、いかなる組織も「公正さ」が強く求められる風潮があります。

「公正」がこれほど望まれるのに、実現していない現実がある。
 その理由は、どこにあるのでしょうか。

 有力な仮説の一つとして、「本音では誰も公正など望んでいないからだ」ということがあります。

 日本は、江戸時代まで続いた身分差別制度を撤廃し、民主主義社会を実現し、今に至っています。
 しかし、差別や格差は、根絶されるどころか、より陰湿で深刻な問題となっています。

 山口さんは、その理由を身分の差がなくなり、建前上は誰にでも機会が公平に与えられているからこそ、差別や格差がよりクローズアップされているからだと指摘します。

 この問題を2000年以上も前に指摘していたのが本書別箇所でも取り上げている古代ギリシアの哲学者、アリストテレスでした。アリストテレスは『弁論術』の中で次のように述べています。

 すなわち、妬みを抱くのは、自分と同じか、同じだと思える者がいる人々である。ところで、同じ人と私が言うのは、家計や血縁関係や年配、人柄、世評、財産などの面で同じような人のことである。(中略)また、人々はいかなる人に対し妬みを抱くかという点も、もう明らかである。なぜなら、他の問題と一緒にもう語られているから。すなわち、時や場所や年配、世の評判などで自分に近い者に対して妬みを抱くのである。
                    アリストテレス『弁論術』

 江戸時代における封建社会では、社会的な身分の違いは出生によって決まっていました。このような社会では、社会の階層に属している個人は上位層にいるそれとの比較を免れるため、羨望も劣等感も感じません。そもそも「比較する」ということがないからです。ところが社会的な制度としての身分制度がなくなれば、建前上、誰もが上位層に所属することができるようになります。自分と同じような人があのような素晴らしい立場にある以上、似たような出自や能力を持っている私がそのような立場に立てないのはおかしい。これが「公平性が阻害されている」という感覚に容易に結びつくことは誰にでも理解できるでしょう。公平・公正の対極にある差別は「異質性」によってこそ生まれると考えがちです。しかしそうではない。差別や格差というのは、全く逆に「同質性」が高いからこそ生まれると考えるべきです。人種差別について深い洞察を残したモスコヴィッシは次のように指摘しています。

 人種差別は逆に同質性の問題だとわかる。私と深い共通性を持った者、私と同意すべきであり、私と心情を分け合うはずの者との間に見いだされる不和は、たとえ小さくとも耐えられない。その不一致は実際の度合いよりもずっと深刻なものとして現れる。差異を誇張し、私は裏切られたと感じ、激しい反発を起こす。
       小坂井敏晶『社会心理学講義〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』

 問題となるのは大きな格差や差別ではありません。江戸時代の身分制度や、現在のイギリスやインドに見られる、いわゆる「クラス」によって分け隔てられた人々のあいだで「不公平」が心身を蝕むことはない。むしろ同質性が前提とされている社会や組織における「小さな格差」こそが大きなストレスを生み出すのです。誤解のないように注記しますが、私は身分差別制度が望ましいと言っているわけではありません。そのような社会においては、同質性が建前上は前提となっている社会や組織と比較して、ルサンチマンや妬みといった感情に絡め取られることが少なかった、と言っているだけです。
 格差や差別にも続く「妬み」の感情は、社会や組織の同質性が高まるほどに、むしろ構成員を蝕んていくことになります。19世紀前半に活躍したフランスの政治思想家、アレクシ・ド・トクヴィルは平等を理想として掲げる民主主義の台頭に際して、その矛盾を鋭く指摘します。

 不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ標準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである。
                 トクヴィル『アメリカのデモクラシー』

『武器になる哲学』 第3章 より 山口周:著 KADOKAWA:刊

 社会制度上の階級格差。
 圧倒的な収入や能力の差。

 それらは、妬みの対象には、なりにくいです。
「異質性」が大きい、つまり、あまりに自分とかけ離れているからです。

 逆に、自分と同じくらいのステータスだった人が、急に脚光を浴びたりしたとき。

 周りからの妬みの対象になりやすいです。
「同質性」が大きい、つまり、自分と近いと感じているからです。

 島国で、同一民族が大多数を占める日本。
 同質性が極めて高い社会は、まさに「いじめ」の温床となりやすいということですね。

学びは「もう知ってるから」と思った瞬間に停滞する

「無知の知」

 古代ギリシアの哲学者、ソクラテス(紀元前469年〜紀元前399年)の遺した有名な言葉です。
 意味は、平たく言えば「知らないということを知っている」ということです。

 この言葉が重要なのは、そもそも「自分は知らないのだ」という認識を持てないと学習がスタートしないことにあります。

 山口さんは、これを「達人=マスタリーへの道」として、次の4つのステップに整理します。

 ①知らないことを知らない
 ②知らないことを知っている
 ③知っていることを知っている
 ④知っていることを知らない

 最初の「知らないことを知らない」という状態はスタート以前ということになります。「知らない」ということすら「知らない」わけですから、学びへの欲求や必要性は生まれません。ソクラテスが指摘したのは、多くの「識者」と言われる人は「知ったかぶり」をしているだけで、本当は「知らないことを知らない」状態にある、ということですね。
 次に、なんらかの契機から「知らないことを知っている」という状態に移行すると、ここで初めて、学びへの欲求や必要性が生まれることになります。
 その後、学習や経験を重ねることで「知っていることを知っている」という状態に移行します。「自分が知っていることについて、自分で意識的になっている」という状態です。
 そして最後は本当の達人=マスタリーの領域である「知っていることを知らない(忘れている)」という状態になります。つまり、知っていることについて意識的にならなくても、自動的に身体が反応してこなせるくらいのレベルということです。
 コンサルティングのプロジェクトではよく「ベストプラクティス」をベンチマークとします。ベストプラクティスというのは「最もウマイやり方」という意味で、これを実践しているのがマスタリーということになるわけですが、このマスタリーへのインタビューはとても苦戦するケースが多い。なぜかというと、マスタリーには「なぜこんなに上手にできるんですか?」と聞いても、「知っていることを知らない」ので、「はあ、特に何もしていないんですが・・・・・」というような返答が返ってくることが多いんですね。なので、こういう場合にはインタビューで話してもらうよりも、実際の仕事現場を見させていただいて、観察からマスタリーの秘密を引き出すほうが有効な場合が多いんです。
 私たちは容易に「わかった」と思ってしまいがちです。しかし、本当にそうなのか? 英文学者で名著の『知的生活の方法』の著者である渡部昇一は「ゾクゾクするほどわからなければ、わかっていないのだ」と指摘しています。あるいは、歴史学者の阿部謹也が、その子である上原専禄から「わかるということは、それによって自分が変わることでしょう」と言われたというエピソードはすでに紹介しました。両者ともに「わかる」ということの深遠さ、自分へのインパクトを指摘しているわけです。私たちの学びは「わかった」と思った時には停滞してしまう。本当に「ゾクゾクするほど」わかったのか、わかることによって「自分が変わった」と思えるほどにわかったのか。私たちは「わかった」思うことについて、もう少し謙虚になってもいいのかも知れません。

『武器になる哲学』 第4章 より 山口周:著 KADOKAWA:刊

 私たちは、少し知識をかじっただけで「わかった」気がして、満足してしまいがちです。
 まさに「知らないことを知らない」状態です。

 達人の域に達するためには、まず、この壁を乗り越えなければなりません。

 ソクラテスを知の巨人たらしめた「無知の知」。
 この言葉の真意を、しっかりと噛みしめてみるのもいいかもしれませんね。

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 難しい言葉が多く、何が言いたいのかわからない。
 導き出された結果が、あまりに突飛(とっぴ)だったり、平易だったりして、重要性がわからない。

 私たちは、そんな理由から「哲学」を敬遠してしまいがちです。

 数千年に及ぶ人類の英知の結晶である哲学。
 それを単なる雑学ではなく、ビジネスや日常生活で生かすには、どうしたらいいか。

 そんな難解な命題に挑んだのが、本書です。

 哲学を年代別ではなく、用途別にまとめ直す。
 哲学が導く結論ではなく、それに至るプロセスや背景を重点的に解説する。

 山口さんのそんな工夫と努力により、難解な哲学が、より身近な存在となっています。

 一般のビジネス書感覚で、気軽に読める哲学書。
 私たちの知的好奇心をおおいに刺激してくれる、読みごたえ十分の一冊です。

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