本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵)

お薦めの本の紹介です。
孫泰蔵さんの『冒険の書 AI時代のアンラーニング』です。

冒険の書 AI時代のアンラーニング

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孫泰蔵(そん・たいぞう)さんは、連続起業家です。

これから旅立つ「冒険者」たちへ!

これまで起業家として、たくさんの新しいことにチャレンジしてきた孫さん。
たくさんの失敗や苦い経験を重ねながらも、多くの成功を収めてきました。

そんな孫さんでも、あの時ああすれば良かったのか、なぜこの時こうしなかったのかと後悔し、自分には才能がない、能力がないと自己嫌悪におちいったりもしたとのこと。

 それでも新しいことを思いついてしまうと、どうしてもやらずにはいられない自分がいます。こりずに何度も何度も失敗を繰り返しているうちに、たまに成功することがあり、それを人は「すごい才能だ」「とても優秀だ」と評価してくれます。それでよく「成功の秘訣は?」と聞かれるのですが、「それは僕が教えてほしいです」としか言えません。これは決して謙遜(けんそん)ではなく、「成功するにはどういった能力が必要か?」と聞かれても、どうにも答えられないのです。
成功するのに必要な「能力」ってなんなのだろう?
そもそも「能力」っていったいなんだ?
学校の教育についても同様です。僕は世界中の人工知能(AI)を開発している会社にたくさん関わっていますが、人工知能のパワー、その発達のスピードには目をみはるばかりです。その一方で、「このままだと、なんかマズいんじゃないか?」という不安も感じます。最先端の人工知能にふれればふれるほど、学校で行われている教育の内容がその意味をどんどん失いつつあると感じるからですた。
時代はこんなにも変わっているのに、学校の教育は、僕が受けた40年くらい前と内容もスタイルもほとんど変わっていません。当時の僕でさえ「こんなつまんない勉強して、いったいなんの意味があるんだろう?」と思っていたので、今の子供たちがそう思うのはなおさらでしょう。
学びって本来はすごく楽しいことのはずなのに、どうして学校の勉強はつまらないのだろう? 人生は本来すごくワクワクするもののはずなのに、どうしていつも不安を感じながら生きていかなければならないのだろう?
そんな疑問で頭がいっぱいになりました。そこで、この疑問の答えを求めて、行くあてもなく探究の旅に出ました。旅に出てみてわかったことは、僕の前にもたくさんの旅人たちが刺激に満ちた旅をしていたことです。時に彼らの旅を追体験(ついたいけん)してみたり、ちょっと寄り道してみたりして、僕自身その旅を大いに楽しみました。
この本に書かれているのは、その旅路の記録です。結論よりも、僕がどんな問いを立てたのか、どんな探究をしたのか、というプロセスそのものを詳しく書くことを意識しました。なぜか、ぞんな探究をしたのか、というプロセスそのものを詳しく書くことを意識しました。なぜなら、同じように疑問を持った人たちの旅の参考に少しでもなればと思ったからです。
ということで、僕が大いに影響を受けたり、インスピレーションを与えてくれた人たちの考えをなるだけ多く紹介しています。ちょっと読みにくいかもしれませんが、彼らが人生をかけて考え抜いたことは、じっくり味わいながら読むだけの価値があります。原典を巻末にまとめてありますので、それらを読むだけでも、ちょっとしたブックガイドとして楽しめるのではないかと思います。
僕の旅はともかく、彼らの探究の旅はとっても刺激的でおもしろいので、少しでも興味を持ったら彼らの本を読み、友だちと対話したりしながら、一緒に旅に出てみてはと思います。
それでは、よい旅を!

『冒険の書』 はじめに より 孫泰蔵:著 日経BP:刊

冒険とは、年齢や立場、世の中の常識など、「大人」と呼ばれる人たちのいうことに縛られることなく、自分の感覚を信じ「危険を承知で、成功するかどうかわからないこと」をあえてやってみること。

本書は、これから冒険に旅立つ人のために、孫さんをはじめ、これまでの偉大な冒険者のたちの旅の記録を記した一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「冒険」に旅立つきっかけとなった一冊

孫さんが「冒険」に旅立つことになったきっかけ。
それは、友人であるダイヤ・アイダ(会田大也)さんから、ある一冊の本を渡されたことでした。

「そうか、ついに泰蔵さんも冒険者になったんですね」
「冒険者」・・・・・・。予期せぬ言葉にとまどう僕に、彼は一冊の本を差しだしました。
「冒険者には、他の冒険者の声が聞こえます。そして、冒険を強く決意した人だけが『冒険の書』と呼ばれる本を読むことができます。『冒険の書』は世界中に散らばっていますが、冒険をしていない人にはただの本でしかありません。この本をはきっと、泰蔵さんの重要な導きとなってくれるはずですよ」
ぽかんとする僕を尻目に、彼はそう言って立ち去りました。
なんかいつものダイヤとちがう。
ともあれ、帰宅した僕は、彼に渡された本をカバンから取り出しました。表紙には『世界図会(1658)と書かれています。著者はヨハン・コメニウス。今から約400年前のボヘミアの歴史学者で、「近代教育学の父」といわれる人のようです。
「『冒険の書』とかって言ってたけど、これがそうなのか・・・・・・?」その時でした。白い光がゆらゆらとあたりを包み始め、僕はだんだんもうろうとしてきました。黒い人影と見たことのない風景がすごい勢いで交錯(こうさく)した後、一筋の鋭い閃光(せんこう)がほとばしり、その光で目がくらみました。

気がつくと、目の前にはゴシック調の高い塔がそびえるお城が見えます。あたりは多くの人がで騒然としています。誰かが大きな声で叫び、白の上のほうにある窓を指差しました。目線を向けると、窓から綺麗(きれい)な身なりをした人が次々と落とされています。
「うわああ! なんてことをするんだ!!」
僕は思わず叫びました。怖くなって逃げ出そうと思った次の瞬間、背後でうめくような声が聞こえてきました。後ろをふりかえると、そこには、悲痛な面持ちで嘆きの言葉をつぶやく老人が立っていました。あたりは薄暗いうえに、眉間(みけん)にしわを寄せうつむいているため、顔はよく見えません。巻き髪の長髪と立派なひげをたくわえているのが、かろうじて確かめられます。僕が呆然(ぼうぜん)とその老人を見つめていると、目があった彼は、少し驚いたような面持ちでこちらに向かって話しかけてきました。
「わしの声が聞こえるのか? 新しい冒険者じゃな?」
僕の口はカラカラに乾いています。でも、なんとか声は出そうです。
「あの、冒険者かどうかわかりませんが、友人に探究を始めたと言ったらこの本を渡されたのです・・・・・・」
僕がそう言おうとすると、さえぎるように彼は言葉を続けました。
「窓から投げ落とされとるのは、神聖ローマ帝国に仕えるカトリック教徒。落としているのは、圧政に反抗するプロテスタントの人々じゃ。後に『プラハ窓外放出事件』と呼ばれ、あの忌(い)まわしい三十年戦争の引き金になったのじゃよ」
これがあの「最後にして最大の宗教戦争」、そして人類史上最も悲惨な戦争のひとつといわれる三十年戦争の始まりだったのか・・・・・。
彼は大きな瞳でしばらくその出来事を見つめた後、奥の方を指差しました。
「見たまえ」
彼がそう言うと、あたり一面に映画のように様々な場面が映り始めました。いろんな旗を掲げた人々が互いに争い、生命を奪い合う姿が繰り返し繰り返し映し出されていきます。
「見てのとおり、人間は絶えず争ってきた。ある時は信じるもののちがいのために。ある時は、肌の色のちがいや、言葉のちがいのために。その結果、わたしの生きたこの時代のヨーロッパは、争いの絶えない、混乱の時代だったんじゃ」
そして、彼は低い声でこうつぶやきました。
「教育なくして人間は人間になることはできない」
僕は、目の前で繰り広げられる無惨な光景に押しつぶされそうになりました。ここまで混乱した状況で、彼がとりわけ教育に注目したのはなぜなんだろう。
彼はじっとこちらを見つめ、少し考えるような素振りを見せた後、静かに語りだしました。
「世界を正しく認識したうえで、正しく語り、行動することができる人間こそ、社会の混乱に終止符を打ち、新たな社会を創造しうる実行者たりうる。世の中から悲しい争いをなくすためには、あるべき世界を伝えることによって人間を人間らしくする以外に道はない。そうじゃろう?」
たしかに、世界を知らずに行動しても、それは新たな混乱を生み出すだけかもしれない。だから、彼はすべての人に世界のあらゆることを教え、立派な人間に育てなければならないと考えたのか・・・・・・。彼は黙ったまま、移ろいゆく光景をながめています。彼に同意したい気持ちでいっぱいでしたが、それでも僕にはもう一つ、彼に聞かずにはいられないことがありました。それは、すべての人にあらゆることを教えて立派な人間に育てるなんて、そんなこと本当にできるのか? という疑問です。
彼は僕を見つめた後、神に祈りを捧げるように点を仰ぎながらこう言いました。
「きっとできる。わしはそう信じておるのだ・・・・・」
険しい表情の中に、やさしいまなざしをたたえているのがわかります。
「人間とは、この『大宇宙(Macrocosmos)』があまねくひろげて見せるものを、ことごとくその内に秘めた『宇宙の縮図(Universali Epistome)』なんじゃからな。人間はこの宇宙のすべてをその内側に持っている。だから、我々はそれをすべて知るべきだし、それを知ることは可能なはずなのじゃ」
彼はゆっくりと話し続けました。
「だからわしは、子どもたちがこの世界を知る手始めとして、絵で自然や文化についてわかりやすく描いたこの本を書いたのじゃ。学びのきっかけとなる本は、ただ情報をならびたてるだけではダメじゃ。それよりも、まったく実用的で、まったく愉快なもの、すなわち、我々の生涯の心地よい前奏曲にふさわしいものであるべきだとわしは思うのじゃよ」
絵本とか教科書って、もとはそんな壮大な考えにもとづいてつくられたのか・・・・・。コメニウス先生はこういうものをつくろうと思ったんだろう。
「わしはかつて、カトリック教を強制するのに反対するモラヴィア教会のリーダーじゃった。そのせいもあって、三十年戦争で祖国を追われ、その後、二度と故郷の地を踏めなくなってしもうた。それだけでなく、あの戦争で妻、そして子さえも失ってしまったのだよ・・・・・・」
なにか声をかけたかったのですが、言葉が見つかりませんでした。
「わしは絶望した。そして、その絶望の底で考え続けたんじゃ。どうすればこの混沌(こんとん)とした悲しい時代に終止符を打てるのかを。そして見いだした。人類の破滅を青少年を正しく教育するより他にない、とな。だから、わしはその希望を教育に託したのじゃ」
そうだったのか・・・・・。三十年戦争が終わった後、ボヘミアとモラヴィアの人口は300万人から90万人に激減したといわれているけれど、そんな世の中ならそう考えるのも無理もない。
「わしはやるべきことをやった。それが後にどうなるのかは見当もつかないが、君のような冒険者が時折訪れてくること自体が、良い方向に向かっている証拠じゃと信じておるよ」
そう言うと、彼はすうっと消えていきました。
コメニウス先生はものすごい決意で絵本や教科書、百科事典のルーツとなった『世界図絵』(1658)をつくったんだなあ・・・・・。その発明が後世に与えた影響はすごいけど、その想いが強すぎたせいで、教育があとで少し強制的になってしまったのかもしれないなあ。そんな気もしてきて、僕は複雑な心境になりました。気がつくと、僕は自分のデスクの前に座っていました。

「すべての人に世界のあらゆることを教えたい」というコメニウス先生の想いはわかります。しかし、時代は変わり、社会の状況も当時とはだいぶ変わってしまいました。はたして彼の考え方がこれからもフィットし続けるものなのか。
これからの教育を考える時には、現在の教育のいちばんのルーツであるこのコメニウス先生の思想にまでさかのぼって考えなおすべきなのではないかと思います。「あらゆる人にあらゆることを教えて人間らしくする」という大前提に疑問を持ち、そこから「教育とはなにか」を考えていく必要があると思うのです。

『冒険の書』 第1章 より 孫泰蔵:著 日経BP:刊

あらゆる人間が人間らしい、文化的で創造的な生き方ができる。
教育は、そんな世界を目指して生まれました。

しかし、数百年の長い期間に、本来の目的から外れてきてしまいました。
私たちは、もう一度、原点に立ち返り、教育を再構築する必要に迫られています。

新しい時代に合った、これまでとまったく異なる画期的な教育を探し出す。
まさに「冒険者」の仕事にふさわしいですね。

「循環論法」のトリック

現代社会において、人の価値を測る大きな指標となっているのが「能力(ability)」です。

能力とは、もともと「知能(inteligence)」を測る「知能テスト」が一般に広まったことによって生まれた統計的な概念のことです。

統計的な概念に過ぎない「能力」。
それを私たちは、いつの間にか「人それぞれが生まれ持った特殊なもの」や「磨けばさらに高まっていくもの」のように考えるようになりました。

孫さんは、人々が「能力は実体として存在する」と考えたことにより、それをあがめる「能力信仰」が生まれ、人々の間で信じられるようになってしまったと指摘します。

「能力信仰」は、どのように生まれたのか。
孫さんは、以下のように解説しています。

「特別な能力を得るには、専門のコーチや先生についてもらいながら練習や本番の経験をたくさん積むに限る。能力の測定はテストなどの評価によって行う」と多くの人が言うことでしょう。しかし、これでは質問にきちんと答えたことにはならないと思います。なぜなら、経験をたくさん重ねたからといって、必ずしも成果が出るとは限らならいからです。
先の例でいうならば、「決定力」に絶対的な基準はありません。たとえば、「1試合平均で何点以上取る人は絶対的に決定力のある選手である」と決めることはできません。しかし、「あの選手はリーグ得点王のタイトルを獲った」と言われれば、「あの人は決定力が抜群にある」と誰もが認めるでしょう。
つまり、「能力」というのは、あくまで「結果論」であり、同じようなことをしている他人との比較でしかないのです。結果が良ければ「あの人は能力がある」、悪ければ「能力がない」、他人と比較して優れていれば「能力の高い優秀な人」、劣っていれば「能力の低いイマイチな人」と言っているだけなのです。
この図にあるように、人は常に、①「行動してみた」→②「だから、他の人にはなかなかできない良い結果が出た」→③「だから、他の人にくらべて能力が高いと言える」という順番で評価をくみたてています。必ずこの順番でしか認識しないにもかかわらず、そして「能力」の有る無しは、結果論と比較論によって生まれた「フィクション(つくりごと)」でしかないにもかかわらず、多くの人々はそのフィクションを実体として存在するものだと信じてしまっているのです(下の図1を参照)。
なぜか。それは、「能力」という概念が生まれるプロセスが、①「行動した」→②「良い結果が出た」→③「能力が高い」という順番なら逆もまたしかりで、③「努力して能力を高めれば」→②「きっと良い結果が出るはずだから」→①「能力が高まったら行動を起こそう」という流れも成立するはずだと人々が考えるようになったからです。
たしかに①→②→③は、「この条件が成立するならば、その条件も成立する」という「十分条件(sufficient conditions)」を満たしながら進んでいきます。
しかし、逆方向である③→②→①は、必ずしも成り立ちません。能力を高めたからといって、良い結果が出る可能性が高まるかどうかは保証されていませんし、仮に良い結果が出る可能性が高まるとしても、いつ行動を起こせばいいかはいつまでたってもわからないからです。
サッカーの例で考えてみると、まず、①シュートを打ってみた→②ゴールに入った→③「あの選手は決定力が高い」と評価される、というのは当然成り立ちます。しかし、だからといって、③’「決定力」を高める努力をすれば→②’ゴールが決まる可能性が高まる、となるかといえば、必ずしもそんなことはありません。
さらに、どういう状態になったら「決定力が高まった」と言えるかもわかりませんので、いつまでたっても→①’「シュートを打とう」ということになりません。なりようがないのです。
その結果、「自分は決定力が足りないから、シュートを打つにはまだ早い」などと考え、結局いつまでたってもシュートを打とうとしません。
実は、「努力をしても必ずしも報われるわけではない」ということは誰もが実感しています。うにもかかわらず、「良い結果が出たのは能力が高かったから」であり、「努力して能力を高めたからこそ良い結果が導き出されたのだ」と考えるようになりました。つまり、「高い能力こそが良い結果の原因である」と考えるようになったのです。
この理屈は「能力を高めなければならない。なぜなら、成果を出すためにはいろいろな能力をまず必要とするからだ」というように、説明しなくてはいけないことそのものがその説明の理由となっています。なので、これは理屈として成り立たない「詭弁(きべん)(sophisty)」でしかありません。このような理屈の立て方を「循環論法(じゅんかんろんぽう)(circular reasoning)」といいます(下の図2を参照)。
にもかかわらず、多くの人はそれが理屈としてちゃんと成り立つと考え、「勉強して学力を高めれば、きっといつか報われる」「能力を高めることが幸せになるための唯一の道だ」とかたく信じている。これが、能力信仰の正体なのです。
実際には存在しないものが存在すると信じることを「信仰」といいますが、信仰には信じること以上の理屈はもはや必要ないので、「能力信仰」については多くの人が完全に思考を停止させてしまいました。現代人はまさに「能力教の信者」です。「能力教」は、ひょっとしたらいまや世界最大級の信仰かもしれません。

なぜ、「能力」が実体として存在すると信じるようになったのか。
そんな疑問が浮かんだその時でした。机の上に積み上げてあった本の山が突然、強く光だしたのです。それはイリイチさんの『コンヴィヴィアリティのための道具』(1973)でした。「もしかして・・・・・」
その瞬間、僕は古びた講堂にいました。前方では、イリイチさんが講義をしています。
「・・・・・機械が発達した理由は、機械が人間のために奴隷(どれい)のかわりをすることができるという仮説にありました。機械が改良されれば、それだけ人間を労働から解放するはずだったのです」
彼の言葉には熱がこもっていましたが、つむぎだす言葉の切れ味とは別に、どこかそれを楽しんでいるような自由さをも感じました。
「しかし、『機械の主人』として君臨(くんりん)するはずだった人間は、実際には『機械の操作者』として不毛な労働をさせられ、機械がつくり出した商品をただ受け身で使い続ける『消費者』になったにすぎませんでした。つまり、機械がドレイのかわりになるのではなく、機械が人間をドレイにしたのです」
ううむ・・・・・。しかし、それがどうして「能力信仰」につながったんだろう。そう質問しようとした時、彼のほうから聴衆に向かってこのような質問が投げかけられました。
「より性能が良い新しい機械が登場すると、今ある機械はどうなると思いますか?」
性能が良いものが出てくれば、それは当然、新しい機械に置き換えられるよな。
「では、機械が壊れたら、どうなりますか?」
そりゃすぐに交換だよ。機械は「性能」で評価されるのが宿命だから・・・・・。そうか、人間も同じだ! 人間は機械が発達してきたこの200年、工場生産システムや管理システムの一部に組み込まれて働くうちに自分たちを機械のようなものだと考えるようになった。つまり、これまでは「人間の機械化」が進んだ200年だったんだ。
そんななか、次第に人間はシステムの中でうまく機能する価値の高い存在でありたい、じゃないと社会で生き残っていけないと考えるようになった。いや、考えさせられた。
「いかにも」
彼はこちらを見て、大きくうなずきました。
「機械化した人間」も「成果」で評価されるようになった。だから人々は、性能が良くて、壊れなくて、使い勝手が良い存在として「能力」をアップデートし続けなければならなくなったのか。「リスキリング(変化に対応するために新しいスキルを身につけること)」なんてまさにそうだ。
なんてことだ。人間をたいへんな労働から解放するためにつくられたはずの機械が、結果として人間を奴隷にしたなんて・・・・・。
僕が呆然(ぼうぜん)と立ちつくしていると、彼は静かに光の中に消えていきました。

能力信仰が「人間の機械化」によってもたらされたということ。そこには人間の「自由になりたい」という願いがあり、それが残念な結果をもたらしたこと。その皮肉に僕はとても切ない気持ちになりました。
先ほど、人々が能力を実態としてとらえるようになった背景には「循環論法」があるとお話ししました。人間なら誰にでもある「脳のクセ」のようなものですが、人類はこの「循環論法」で文明を発達させることができたという側面もあります。その際たる例が「お金」です。お金がお金となるのは、「他の人もこれをお金として受けとってくれる」と信じているからですが、これもまぎれもなく「循環論法」です。
「能力」も「お金」も同じくフィクションにすぎないのですが、一方で、それを信じたからこそ経済や社会が発達したところがあることも知っておくべきでしょう。
ちなみに日本では、良い結果が出て他人に「すごいですね!」とほめられたら、ほとんどの人が「いえいえ、たまたま運が良かっただけですよ」とへりくだります。
この「運」という概念も、結果から生まれるフィクションに他なりません。因果関係はよくわからないけれど、なぜか良い結果が出た時に、「そこに作用したであろう説明のつかないなにか」のことを私たちは「運」と呼んでいるのです。
「運」も「能力」と同じく、いつしかそれが本当に存在するかのように人々から信じられるようになりました。それで多くの人は、運気を上げるために神社に行ったり、お守りなど様々な「運勢が良くなるグッズ」を買ったりして、せっせと「運気向上」に励んでいるのです。その意味で、「能力」と「運」はまるで双子の姉妹のように似ています。

『冒険の書』 第3章 より 孫泰蔵:著 日経BP:刊

図1 能力 という概念が生まれるプロセス 冒険の書 第3章
図1.「能力」という概念が生まれるプロセス

図2 循環論法に導かれる 能力信仰 冒険の書 第3章
図2.循環論法に導かれる「能力信仰」
(『冒険の書』 第3章 より抜粋)

私たちが「能力」と呼んでいるもの。
それは、実は実体のないものであり、人間が作り出したものです。

それなのに、私たちは「能力を高めれば、幸せになれる」と信じ込んでいます。

決して手に入れることができない“青い鳥”を、ひたすら追い求めてきた。
そこに現代社会の不幸や生きづらさの根本があるといえますね。

これからは「ムダ」や「余白」が役に立つ時代

一般的に、教育は「社会の役に立つために能力を身につけること」だと考えられています。

では、「役に立つ」とか「役に立たない」とかいうのは、どうことなのでしょうか。
「社会の役に立つかどうか」という判断は、誰がどういう基準で下すのでしょうか。

孫さんは、それを考えるにあたり、フランスのアーティスト、マルセル・デュシャンが1913年に発表した「自転車の車輪」という作品を紹介しています(下の図3を参照)。

マルセル・デュシャンは、新しいコンセプトをまとった作品を次々に発表し、20世紀から21世紀の美術に最も影響を与えたアーティストの一人です。

図3 マルセル デュシャンの 自転車の車輪 冒険の書 第4章
図3.マルセル・デュシャンの「自転車の車輪」
(『冒険の書』 第4章 より抜粋)

 僕がその作品を初めて知ったのは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)を訪れた時のことでした。その作品は、陳列されている作品群の中でもひときわ異彩を放っていました。はじめは「なんだか奇妙な作品だな」と思っただけでしたが、なんだかその作品が心に引っかかった僕はその後、デュシャンの生涯や作品の解説書を手にとるようになりました。そしてふたたび、その作品を目にしたのです。
題名は「自転車の車輪」。丸いスツール(腰掛けイス)に自転車の車輪を逆さに取り付けただけ。これが作品? なにか「意味」があるのだろうか・・・・・・・? 僕がその写真をじっと見つめていると、車輪は今にも回り出しそうに思えました。
クルクルクルクル・・・・・
あれ? 本の中の車輪が本当に回っている!? 目をこすった瞬間、僕はまたしてもあの白い光に吸い込まれていきました。
そこは真っ白な直方体の部屋でした。その部屋をかこむ建物は、黒いガラスでおおわれた直線を基調とする建築で、軽やかさと重厚さが共存した不思議なたたずまいです。目の前には、「自転車の車輪」だけがポツンと置いてあります。その隣には、ピンストライプのシャツに黒いネクタイとジャケット、髪をオールバックにしたダンディな男性がひとり、回る車輪を見つめています。
「この作品を気に入ってくれたのかい?」マ、マルセル・デュシャン! 呆然(ぼうぜん)と見つめる僕に目もくれず、彼は車輪をじっと見つめています。彼は車輪に手を伸ばしながらこう語りかけてきました。
「ご覧のとおり、これはイスとして座れないし、自転車としても乗れやしない。まったくなんの役にも立たないシロモノだ。つまり、この物体の存在の意味は皆無。そうだろう?」
見れば見るほど本当に奇妙な物体だ。車輪の回転する音だけが、カラカラと不気味に響いています。
「人が乗って地面を転がるためにあるべき車輪が空中に投げ出され、人が座って身体を支えるためにあるべきイスが車輪に占拠(せんきょ)されている、というわけだよ。ククク」
彼は愉快そうに言いました。
「自転車の車輪しかり、スツールしかり、我々の身の回りにあるモノは、なにかに使われるために存在している。そしてそこには『機能』というものが存在する。だから、あるべきモノは、あるべきところにあるわけだ」
彼はポマードでかためた髪をなぞりながら、ゆっくりと話を続けました。
「その『あるべきものはしかるべきところにあるべき』というあたりまえを無視したのさ。モノが持っている意味をこっぱみじんに破壊してみせたんだよ」
彼はポケットから1枚の紙を取り出すと、それを朗読し始めました。
「あれは1913年のことだった。私はキッチンにあるスツールに自転車の車輪を取り付けると、それを回してみるのを楽しんだ。車輪が回転しているのを見ると和やかな気分になった。まるで暖炉の日を眺めているときのように」
そう読み終えると、彼はまた手を伸ばし、車輪を回転させました。
「私はくるくると回して楽しいものなのだがね。十分に役に立っているよ」
車輪を回すと、回転が速くなるにつれてスポークの残像がだんだんとけて見えなくなり、運動エネルギーが落ちて回転速度が遅くなるにつれてまた見えてくる。この車輪が自分の気持ちをとても和やかにしてくれた、と彼は言います。
そうか、もしかしたら彼はこの作品で、「役に立つとはどういうことか?」「モノが持つ意味とはなんなのか?」ということ自体を問いかけているのかな・・・・・・!? そして、「役に立つ」とか「便利だ」という点でいえばなんの価値も見いだせないこの物体は、まさに「意味がない」という一点において、私たちに「それを見いだす意味」をもたらしている・・・・・・!?
「意味というものは、人間がいる限りどこまでいっても必ずついてまわる。だから、この車輪にも必ず意味が存在しているのだよ」
車輪はくるくる回り続けています。
「思考には『これまで積み重ねたものを捨てることで、新たな思考が生まれる』という作用が根源的にひそんでいるのだよ。よく考えてみるといい」
ふと気がつけば、僕は美術書を手にいつものイスに腰かけていました。腰かけられないスツールを思い出し、僕は思わずイスをしげしげとながめました。

私は常に、「なぜそのモノが存在するのか?」という意味を考えずにはいられません。「つかえる」とか「便利だ」といった価値にしか意味を見いだせないのです。そんな「常識」というフィルターを取りはらって、そこにあるモノをただ純粋に見ることができれば、新しい意味を発見することができる。
「自転車の車輪」という「無意味な物体」には、僕たちにそのことを気づかせてくれるという大いなる「意味」があったのでした。
積み重ねたものを捨てることで新たな思考が生まれる。デュシャンさんのメッセージが、それ以来ずっと僕の心に響いています。
言葉で伝えようとすると本1冊くらいかかりそうなことを、デュシャンさんはひと目でズバッと直観できる芸術作品で表現してみせたのです。このような哲学的な思考を芸術的に表現した人は、デュシャンさん以前には誰もいませんでした。
「無意味」という否定の後の「だからこそ意味がある」という大いなる肯定。「壊して捨てる」という破壊的な姿勢の後の「だからこそ必ず新しいものが生まれる」という創造的な姿勢。この小さな作品は、スケールの大きいメッセージを力強く物語っています。
この観点からいえば「役に立つか立たないか」という判断基準や価値基準は、あくまでもいろいろとある基準のひとつにすぎません。「役に立つか立たないか」の基準は様々で、意味を見いだすのは私たちである。そのことを理解した時、僕は目からウロコがぼろぼろと落ちていくような感覚にとらわれました。この感覚は、これから問いを深めていくにあたってとても大事だとつくづく感じます。身体全体で得た理解は、常識にとらわれずに良い問いを立て続けるうえで大いに「役に立つ」からです。
そして同時に、人間は「役に立つか立たないか」という意味を見いだそうとする習性からなかなか逃れられないことにも気づかせてくれるのです。

デュシャンさんの「自転車の車輪」に込められた問いを考えているうちに、僕はある言葉を思い出しました。それは古代中国の「無用之用」という言葉です。あらためて、僕はその言葉の元となった戦国時代の思想家・荘子(そうし)の『人間世篇(じんかんせいへん)』(紀元前300頃)を紐解(ひもと)きました。

「無用之用」が出てくる前後を読み進めながら「無意味の意味」について考えをめぐらせているうち、気がつけばすっかり夜もふけていました。
本を片手にうとうとしてきたところへ、ひとひらの蝶(ちょう)がひらひらと舞い降りてきました。いつの間にか、あたり一面は花畑です。蝶は花のまわりをひらひらと飛びまわり、嬉々として蝶そのものでした。その姿を眺めているうちに、僕はもはや自分が自分であることもわからなくなっていました。僕は夢の中で蝶になっていたのです。
ところが、いいところでにわかに目が覚めました。僕はまぎれもなく僕でした。
今の蝶の夢は、僕が見ていた夢なのだろうか。
それとも、蝶が僕の夢を見ていたのだろうか。
花は蝶になにかをもたらしたのだろうか。
それとも、蝶が花になにかをもたらしたのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていた時、いきなり空中に小さな光の粒が現れました。その粒は少しずつ伸び始め、線となり、文字になっていきました。
「人皆知有用之用。而莫知無用之用也」
その文字か、先ほど読んだものと同じだと気づいたその時でした。どこからともなく、しわがれた老人の声がかすかに聞こえてきたのです。
「人はみな有用の用を知るが、無用の用を知るものはない。はて、おぬしにはこの意味がわかるかのう?」
人は「役に立つかか立たないか」という、せまいものの見方しかできない。一見役に立たないと思われているものが、実は大きな役割を果たしていることがよくあるのに、人はそういったものにはまったく目がいかない。確か、そういう意味でした。
すると、先ほどの声が少しずつ大きくなってきました。
「器は粘土をこねてつくるが、中が空っぽだから、器として役に立つ。家は戸や窓をくりぬいて建てるが、なにもない空間だから、部屋として用を為(な)す。つまり、形あるものが役に立つのは、なにもないからこそよ。のう?」
つまり、役に立つか立たないかは、ものの見方次第であり、実はこの世の中に役に立たないというものはない、ということだ。
僕たちは、つい目先のせまい視野で良し悪しを判断してしまう。本当はもっと広い視野でものを見られるのに、一度「役に立たない」と判断してしまうと、秘めた可能性になんか目もくれず、簡単に見捨てたりする。すぐに思考が停まってしまう。
「おぬしの生きておる世界はどうなんかのう」
最近の人間は効率や合理性ばかり追い求め、ムダを敵(かたき)にしていますよ・・・・・・。本当に省くべきムダはそのままになっていますけどね・・・・・・。あ、いかんいかん。つい皮肉を言ってしまった。
ともあれ、ものの見方をずらすこと。常識の枠組みを外し、新鮮な目で見ること。それを心理学では「リフレーミング(reframing)」って言うって聞いたことがあるけど、新しい時代をつくるにはそう言う態度が大事だと思います。その意味では、しくみの中に「ムダ」や「余白」は積極的に残しておいたほうがいいと思います。荘子先生。
姿は見えませんが、声の主が彼であると確信した僕はそう答えました。彼はそれに対してなにも答えず、こう問いかけてきました。
「そういうものの見方ができるのは、この世に人間しかおらんかものう」
そうか! 物事をリフレーミングして新しい意味を見出せるのは、動物でも人工知能でもなく、人間だけだ。それこそか人間の役割だ。つまり、これからの時代の僕たちの仕事は、「社会にいかにムダや余白を組みこむか」を考え、いつでもリフレーミングができるようにすることなんじゃないか!?
僕はすごく興奮して、深夜であることも忘れて思わずソファに飛び乗ってしまいました。すると、また声が聞こえてきました。
「わしは今日、おぬしになにも授けておらぬ。いくつか問うただけのこと」
たしかに。荘子先生にいくつか問われて、僕が自分で考えたり、気づいたりしただけだった。先生はただそこにいて、問いかけてきただけとも言える。
「わしは『空っぽ』じゃ。はて、これもまた『無用之用』なのかのう」
その言葉を最後に、声は二度と聞こえなくなりました。
答えはおろか、新しい知識もなにも授けることのない『空っぽ』の先生との対話ーー。たしかに、先生の存在は僕にとってあの器や家のようなものだったのかもしれない。つまり荘子先生は、その存在自体で「無用之用」を体現していたのか・・・・・・うわああ!
さっき以上に興奮した僕は、荘子先生の言葉を噛(か)みしめながら、おもむろに本を閉じました。

『冒険の書』 第4章 より 孫泰蔵:著 日経BP:刊

「有用之用」つまり目に見えて世の中に役立つこと。
それらのほとんどは、これからAI(人工知能)が担っていくことになるでしょう。

人間に残されるのは「無用之用」だけ。
つまり「ムダ」や「余白」などの一見役に立たないことです。

これまでの教育は、どれだけ知識を詰め込むかが勝負でした。
これからは、どれだけ余白を作れるかが重要です。

つまり、個性や想像力、ひらめきなどの“ムダ”が働くスペースを確保することがポイントになります。

人間は「与えることしか知らない存在」である

「誰かに依存しなくてもきちんとひとりで生きていけることを自立と呼び、自立は自由を楽しむ資格を持つ社会人の条件」

今の社会では、多くの人がそう信じています。

しかし、孫さんはそれは原理的にまちがっていると指摘します。

(前略)人は独(ひと)りでは生きていけない動物です。だからこそ社会をつくり、みんなで生きてきました。本来、自立なんかできるわけはないのです。にもかかわらず、人々が自立できると思うのはなぜでしょうか。
ここに資本主義のトリックがあります。サラリーマンは自分自身を「商品」として会社に売り、労働の見返りとして給料をもらいます。なんでも商品化された資本主義の社会では、生きていくのに必要なものはお金で買えるので、給料さえ得られればひとりで生きていけると思うように仕向けられているのです。実際、人との関わりが薄い無縁社会では、人は「誰にも頼らず、完全に自由な独立した存在として生きていける」という幻想を簡単に持ちえます。 それに対して、脳性麻痺(のうせいまひ)がありながら医師としても活躍する日本の研究者のシンイチロウ・クマガヤ(熊谷晋一郎)は、「自立するとは、頼れる人を増やすことである」と言います。

えっ!? どういうこと!? 「自立」って、誰にも頼らないで生きるってことじゃないの!?

脳性麻痺を持つ彼にとって、かつて頼れるのは親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかったそうです。しかし、一人暮らしをしてみて、友だちなど頼れる人を増やしていけば、自分はどうにでも生きていけるということがわかったと言います。
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「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障がいの有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍(ふへん)的なことだと私は思います。
ーーーシンイチロウ・クマガヤ
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どんな人だって、誰にも頼らず生きていくことなんかできない。親だけに頼っている状態から、徐々に社会の中に頼れる相手を増やしていくこと。それこそが自立だと彼は言うのです。
普段意識していなくても、私たちは実に様々なモノや環境にも頼っています。「Aがなくても生きていける」というのは、決して「なにもなくてもひとりで生きていける」ということではなく、「いざとなれば、BにもCにもDにも、頼れるものがたくさんある」ということなのです。
オーウェンさんはじめ、いろいろな教育者が強調していますが、環境こそが人間に大きな影響を与えます。人々を「自立」の呪いから解放するには、実は子どものうちから自分の好きなことを追究できる環境に身を置き、まずは自分を満たすのがいちばんだと確信しています。
人間は「なにかをふんだんに持つと、自ら積極的に他人に分け与えたくなる」という本性(ほんしょう)を持っています。そのことは、子どもを見ているとわかります。子どもは一見、欲望にストレートでわがままなようですが、自分が満たされたなら、それ以上についてはなんでも分かちあいます。日本の研究者で教育者のケンジ・サイトウ(斉藤賢爾)は、『信用の新世紀』(2017)で、子どもたちについて次のように言っています。
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人間である限り、まわりの人間を真似しようとする。人はそうやって育っていく。そして、まわりの人間は、自分に与えている。人間は、生まれたときには完全に無力なので、必ずそこから始まる。人は、与えることしか知らない状態から始まるのである。※
ーーーケンジ・サイトウ
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※乳児は自分になにかを与えてくる周囲を真似して生きるため、「与えることしか知らない」のです。

生まれたばかりの時は、誰かの手を借りないと生きていけない。つまり人間は、この世に生を受けた最初から与えられ、与えることしか知らない存在なんだ。だから、人に分け与えることは人間の本性だということか!

人間はお互いになにかを贈りあい、分け与えあって生きている存在だという事実。あまりにもあたりまえすぎてまったく意識していませんでしたので、それは僕にとってとても大きな発見でした。それ以来、「贈与こそが最も人間らしく、崇高(すうこう)で美しいものである」ということを常に自覚しようと思うようになりました。
幸いなことに、僕には好きなことをとことんやれる環境がありました。だから今、後に続く人たちにもそのような環境を与えてあげるべきだと本気で思います。そうやって豊かさを次の世代に贈り続けることを止めなければ、みんな今よりずっと豊かになれると僕は信じています。
つまり、自分に与えてもらった豊かさを、別の人に与えるのです。そういう行為を「ペイ・フォワード(pay forward)」と呼びますが、僕は別にペイ・フォワードでさえなくてもいい、ただ「無償の愛」でいいと思っています。なぜなら、僕は純粋に若い子たちが喜んでくれる顔を見たいだけだからです。彼らは、僕の贈りものを受け取ってくれることによって、僕とつながりを持つことを受け入れてくれる。そのことに喜びを感じるのです。私たちは普段あまり意識していませんが、実は、贈り物はもらうよりも贈り手になることによる喜びのほうがむしろ大きいのです。そしてそれは、実は昔の社会ではまったくあたりまえのことでした。
日本の教育者で研究者のユウタ・チカウチ(近内悠太)は『世界は贈与でできている』(2020)で「贈り手にとって、受け手は救いとなる存在だ」と言っています。
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この世に生まれてきた意味は、与えることによって与えられる。いや、与えることによって、こちらが与えられてしまう。
ーーーユウタ・チカウチ
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受け手の存在こそが、自分の人生の意味や生まれてきた意味を与えてくれる。つまり、私たちはただ存在するだけで他者に贈与をすることができると言えるでしょう。
与えることで与えられる。それなら「ギブ・アンド・テイク(give and take)」なんてさもしいことを言わず、ただ「ギブ・アンド・ギブン(give and given)」の関係があればいい。そうしても、いや、そうすることによってこそ、社会はきっとうまく回るはずだと僕は信じています。
豊かさを後の世代に贈り続けることを止めなければ、みんな豊かになれる。世界を贈与で埋め尽くすことこそが、世界をうまく回すための最良の方法であり、世界をなつかしくて新しいものに変えることになると僕は信じているのです。
ですから、僕はただひたすらに豊かさを与え続けようと思います。見返りなど求めず、ただひたすらに。それこそが本当の「豊かさ」なのだから。

『冒険の書』 第5章 より 孫泰蔵:著 日経BP:刊

人間は、「与えられないと生きらない」そして「与えることしか知らない」状態で生まれてきます。
赤ちゃんは、それで問題なく生きています。

それが、いつの間にか「与えること」と「受け取ること」がセットになっている世間一般的な考えに染まります。
「自立」という概念も、ねじ曲げられてしまうわけです。

「ギブ・アンド・テイク」から「ギブ・アンド・ギブ」へ。
これからの時代は、この流れが加速しそうですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

大いなる冒険に旅立った私たちの、最終的な目標は何でしょうか。
孫さんは、内村鑑三先生の言葉を借りて、「勇ましい高尚なる生涯」であるとおっしゃっています。

私たちは、生涯で、何か完成した立派なものを遺す必要はありません。
未知のものや高い障壁に挑んだ、その道のりこそが人類への最大の遺産になるということ。

私たちは、地上ではかけた孤であり、蒼穹(そうきゅう)の大きな螺旋(らせん)に連なる一辺の小さな孤です。

自分の遺した足跡は、必ず誰かの役に立つ。
私たちも、そう信じて、大いなる冒険に旅立ちましょう。

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