【書評】『自分を嫌うな』(加藤諦三)

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 お薦めの本の紹介です。
 加藤諦三先生の『自分を嫌うな: もっと自信をもって生きたい人に贈る「心の処方箋」』です。

 加藤諦三(かとう・ていぞう)先生は、社会学が専門の元大学教授です。
 心理学や精神医学にも造詣が深く、それらに関連した著書も多数書かれています。

「自分を好きになる」が人生を楽しむキーワード


「今、私は苦しんでいる」
「今、私は悲しんでいる」

 そういう人はたいてい、自分が欲を出していることが原因です。

「もっと給料がほしい、もっと偉くなりたい、もっとモテたい」
 などさまざまな欲がありますが、それらは、周りの人と較べて考えることから生まれます。

 周りの人が気になるのは、自分が自分の望みをもっていないから
 加藤先生は、いろいろ自分に問いかけていくと、最後に自分の「自信のなさ」にたどり着くと指摘しています。

 自己蔑視の原因は、基本的には「ありのままの自分が愛されなかったこと」です。

 自分が嫌いな人は周囲の人からも嫌われます。
 自分を嫌いな人は周囲の人から尊敬されようとしますが、周囲の人を見下すからです。

 自分が好きな人は、「今の自分を楽しめている人」です。

「今、私は苦しいです」という人と「今、私は楽しいです」という人。
 その分かれ道は、どこにあるのでしょうか。

 本書は、「自分を嫌いな人」の心理をタイプ別に解説し、「自分を好きな人」になるためのヒントを与えてくれる一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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自分の宿命を受け入れる


 加藤先生は、“そのまんま”ということは、もっともやさしいようで、実は最も難しいと指摘します。

 例えば、一度の失敗を誇張(こちょう)して考えてしまい、経験を歪(ゆが)めて強いストレスを感じてしまう人がいます。
 このような人は、自己に対する要求が非現実的なまで大きすぎて、結果として自分の能力を充分に発揮することができません。

 加藤先生は、自分に対する期待が非現実的なまでに高くなってしまう理由は、心の底で漠然と、ありのままの自分に失望しているからではないだろうかと指摘しています。
 つまり、自分には価値がないという感じ方の抑圧が、意識の領域で自分への期待を過大なものにしているということ。

 あらゆる場面で“そのまんま”でいられずに身構えてしまう人は、まず漠然(ばくぜん)と心の底で感じている“ありのままの自分は価値がない”ということを、はっきりと意識することである。
 ここでウソをついてはいけない。ここで自分にウソをついて、自分はあらゆる能力があるすぐれた人間だと虚勢(きょせい)を張ってしまえば、これから先の人生も地獄である。
 自分の心の底を静かに見つめて、自分にウソをつかない――ここが天国と地獄の分かれ道である。
 ここで自分に正直になれば天国へ、ここで自分にウソをつけば地獄行きである。
 そして、残念ながら、地獄と天国の分かれ道で地獄に行く人が多い。
 虚勢というのは、自信喪失や恐怖を抑圧している時の態度である。
 そうした虚勢を張る人もいる。また自分を弁護する人もいる。自分が自分にウソをついているということを証拠をあげて問いつめていくと、最後には「自分にウソをつかない人なんかいるのかね」などと居直る人もいる。
 居直るのは、他人だって地獄に行くのだから、自分が地獄に行ってどこが悪い、というのと同じである。こうなれば、そんなに地獄に行きたければ、行ってください、もう止めません、としかいいようがない。
(中略)
 自分に正直になるということは、自分の宿命を受け入れるということでもある。
 ガンになって助からないとわかった時、とり乱して騒ぐ人もいれば、残された時間を大切に生きる人もいる。一瞬一瞬に生命を燃やす人もいれば、未来を思いわずらって生命を浪費する人もいる。自分に正直になる人は自分の宿命を受け入れ、一瞬一瞬に生命を燃焼させて生きることができる。
 また、人と会って、自分はいかにも奥深い人間だという“ふり”をする人もいれば、自分は“これっきり“だと、自らをさらけだす人もいる。大物の“ふり”をする人は人を恐れているが、“これっきり”と自分をさらけだす人は人を恐れていない。
 “これっきり”とは“そのまんま”ということであり、自分の宿命を受け入れていることである。

 『自分を嫌うな』 1章 より 加藤諦三:著 三笠書房:刊

 他人に対しては、いくらでもウソもつけますし、ごまかすことができます。
 しかし、自分に対してはそうはいきませんね。

 たとえ本心とは違うことを信じ込めたと思っても、それは意識の領域だけの話です。
 もっと心の奥底の「潜在意識」の領域までは、ごまかすことはできません。

「自分にウソをつかないことが天国と地獄の分かれ道」
 心に刻みつけておきたいですね。

一生懸命やってもうまくいかない人

 

 加藤先生は、いろいろなことを一生懸命にやるのだけれども、なぜかうまくいない人は、まず、自分が何を抑圧しているかをはっきりさせるべきであると述べています。

 一生懸命他人のために尽くしながらも、なぜかうまくいかない人は、たとえば、人生というものを悲劇的なものと感じていないだろうか。
 人間は完全に幸福になどなれないとか、悲惨なことが人間にはよく似合うとか、喜びは一瞬のことに過ぎないとか、極端になると悲劇以外に人間の生きる道はないのだとか、そんな人生観をもっていないだろうか。
 そうなってしまうのは、何かを抑圧しているからである。
 敵意を抑圧しながら、他人に親切にする。親切にされるほうも居心地が悪いが、親切にする人もどこか居心地が悪いはずである。居心地悪く生きることが人間には似合っているなどと感じているとすれば、それは何かを抑圧しているからである。
 低い自己評価を抑圧して傲慢になれば、居心地の悪さは避けられない。何かを抑圧して生きている以上、居心地の悪さは避けられないのである。
 自分は今まで、会社のためによく働いていた、いわゆる“会社人間”であった。それなのになぜか、同期生はおろか、後輩にまで追い抜かれてしまう、努力しているわりにはどうもうまくいかないという人は、会社での生活に、どこか居心地の悪さがあったのではないだろうか。神経ばかり張りつめて、本当に心から話せる友人がいなかったのではないだろうか。
 確かに“会社人間”であった。仕事もまじめにやった。周囲の人にも尽くした。しかし、会社にいることを楽しんだであろうか。仕事が楽しくて仕方がなかっただろうか。周囲の人といると楽しくて、つい時が経つのを忘れることがあっただろうか。
 会社の仕事や同僚が本当に好きなら、もっとリラックスしていたはずではないか。楽しいどころか、心のどこかに、苦しみに耐えることが立派だというような考えがあったのではないだろうか。
 つまり、こうある“べき”だと考えて、絶えず自分に負けないようにしていただけの話ではなかったか。
 何かを抑圧して生きている人は、まず何を抑圧しているかをはっきりさせ、一日もはやくその抑圧をやめることである。

 『自分を嫌うな』 1章 より 加藤諦三:著 三笠書房:刊

 自分の中に抑圧された感情を抱えている人は、心の底から純粋に「手助けをしたい」と思って他人に親切にできません。

「相手から褒められたい」
「相手に取り入りたい」
「相手より優位に立ちたい」

 そんな下心は、だいたい相手に見透かされてしまいますね。

八方美人で抑うつ的になってしまう人


 八方美人で抑うつ的になってしまう人は、他人の拒否を必要以上に恐れています。

 加藤先生は、その原因は、おそらく生まれて以来一度も、ありのままの自分を受け入れらず、他人の評価に飢えているためだと指摘します。

 我執(がしゅう)の強い親から、よい自分のみ受け入れられ、悪い自分は否認され続ける。
 そんな子どもは、自分の感情を押し殺し、親の喜ぶ言動ばかりをとる、抑圧された人間に育ちます。

 親はその人を“よい子”だと認識していますが、客観的には、その人はよい子などではありません。
 親から否定された攻撃性のようなものを心のなかに溜(た)め込み、無気力で鬱屈(うっくつ)した「子どもらしくない子ども」です。

 犬は、新しいところに行けば、そこらの建物や木にオシッコをひっかける。
 たとえば、新しい家に犬をつれて引越しをしたとする。犬らしい犬は、その大切な新居にオシッコをひっかける。
 犬のこの性質を否認したらどうなるか、主人にとって都合のよい性質だけを受け入れ、都合の悪い性質を拒否したら犬はどうなるか。
 主人にとっては、“よい犬”かもしれないが、犬はおかしくなるであろう。
 家庭にとっての“よい子”それが大人になって、企業にとっての“よい社員”となる。そして、そんな“よい人”が、抑うつ状態になるのである。
「角を矯(た)めて牛を殺す」ということわざがある。欠点をなおそうとして、物事の全体をダメにしてしまうことをいう。角をまっすぐになおして、牛が牛であろうか。
 問題のある親が子供のよい点のみを受け入れ、悪い点を否認するのは、これと同じである。
 牛の角にあたるのが、たとえば、子供の攻撃性であったり、自己主張であったりしよう。
 欠点と思えるのは、あくまで親にとって都合が悪いということでしかない。
 曲がった角は決して牛にとって都合が悪いわけではない。
 理想の子供のイメージを追求する親が、子どもと一体化してやっていることは、まさに牛の角を矯めていることなのである。その結果、牛が牛でなくなるように、子どもは子どもでなくなる。そして現在、子供らしさを失った子どものなんと多いことか。
 曲がった角のあるのが牛なのである。
 もしその人が本当に親に愛され、健康に育ったとすれば、どうしてそんなに疲れて神経質になっていることがあろうか。

 『自分を嫌うな』 1章 より 加藤諦三:著 三笠書房:刊

 一般的に“よい子”というのは、あくまでも親の視点からみた“よい子”であり、親の価値観や世間の常識に縛られたものです。

「子どもはかくあるべし」
 そういう、凝(こ)り固まった先入観に子どもをはめ込むことが、“子どもらしくない子ども”を生み出しています。

「角を矯めて牛を殺す」ことなく、欠点も個性として認められる寛容な社会が実現が望まれます。

なぜ受け身になってしまうのか


 加藤先生は、認めざるを得ない現実を否認し続けるということが、抑圧するということだと述べています。

 自分にウソをついている人は、自分に不都合な現実を認めないよう必死でこらえていますから、受け身にならざるを得ません。

 認めざるを得ない事実を認めた時、その人は初めて能動的になれるのである。
“妬み”や“嫉妬”などの根底にあるのが“くやしさ”である。だから、受け身の人間ほど、妬みや嫉妬にとらわれやすいのである。
 妬みから人の悪口をいう人は、それをいいながら、心の底の底では、その悪口がどこかおかしいと感じている。
 そして、どこかおかしいと感じるからこそ、その感情を抑圧しようとして、さらに激しく悪口をいうのである。誇張された悪口やくどい悪口は、何かを抑圧している人間のやることである。
 たとえば、自分に失望している人間が、その感情を意志で抑圧している場合など、他人をクドクドと非難しがちである。
 心の奥底では自分に失望しながら、表面は偉そうにしている人間の話すことには、トゲがある。
 このようにして、認めざるを得ない現実を否認しつづけていれば、不必要な力が体に入ってしまう。
 事実を認めることで、ほっとして力が抜けてリラックスできるのである。

 『自分を嫌うな』 4章 より 加藤諦三:著 三笠書房:刊

 何かから自分を守ろうとするとき、人は体に力を入れて縮こまります。
 抑圧する生き方をしている人は、無意識のうちに「作り上げた自分」を守ろうと、周囲を警戒して気が休まらないのでしょう。

 自分を正当化するために、他人の悪口を言ったり、正論を振りかざしたりすることほど、惨めなことはありませんね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

 長い間抑圧された人生を過ごしていると、自分がどんな欲を抑えこんでいるのか、自分でもわからなくなってしまいます。
 有名人への批判や、成功者への妬みは、それらに対する憧(あこが)れが心の底にあります。

 加藤先生は、実際の自分は、自分が考えている自分とまったく逆の人間であるかもしれない。大切なのは、この発想であるとおっしゃっています。

 抑圧された人生を過ごしている人は、見た目には普通の人です。
 そして、そういう人は、私たちの想像以上に、たくさん潜んでいます。

 その人たちの心理構造を知れば、幼稚で理不尽な言動に振り回されず、淡々と対処できますね。

 抑圧の心理を知ることは、抑圧の犠牲にならないこと。
 本書は、その理解のための価値ある一冊といえます。


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