【書評】『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子)

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 お薦めの本の紹介です。
 渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』です。


 渡辺和子(わたなべ・かずこ)さんは、ノートルダム清心女子大学(岡山)の学長を長年にわたって務められた方です。現在は、同学園の理事長を務められています。

神が植えたところで咲きなさい


 渡辺さんは、36歳の時に思わぬかたちで大学学長に任命されました。
 その時、一人の宣教師が以下の短い英詩を手渡してくれました。

 Bloom where God has planted you.(神が植えたところで咲きなさい)

「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのだ」

 そう告げる詩の言葉は、未知の土地で見知らぬ人たちに囲まれ、慣れない生活に四苦八苦していた渡辺さんを大いに励ましました。

 置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸せになったりしては、環境の奴隷でしかない。人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと、決心することができたと述べています。

 渡辺さんの「置かれたところで咲く」という信念や生き方は、学生、卒業生たちにも波及しました。

 本書は、環境に負けずしなやかに心穏やかに、「置かれた場所に咲く」ための生き方についてまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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人はどんな場所でも幸せを見つけることができる


 結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。

 渡辺さんは、そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいと強調します。

 雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。
 若くして亡くなったキリスト教詩人の、八木重吉の詩に、

   神のごとくゆるしたい
   ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
   花のようになったらば神のまへにささげたい
  (「しづかな朝」より“〝ゆるし”〟)

 というものがあります。
「置かれたところ」は、つらい立場、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的である時もあることでしょう。信じていた人の裏切りも、その一つです。
 人によっては、置かれたところがベッドの上ということもあり、歳を取って周囲から“〝役立たず”〟と思われ、片隅に追いやられることさえあるかもしれません。そんな日にも咲く心を持ち続けましょう。
 多くのことを胸に納め、花束にして神に捧げるためには、その材料が必要です。ですから、与えられる物事の一つひとつを、ありがたく両手でいただき、自分しか作れない花束にして、笑顔で、神に捧げたいと思っています。 

 『置かれた場所で咲きなさい』 第1章 より  渡辺和子:著  幻冬舎:刊

 
「置かれた場所」は、空間的な意味だけではなく、精神や心の部分にも当てはまります。
 理不尽なことや不条理な嵐に耐えられるだけのしっかりした土台を作ることが大切です。

「咲けない日は、根を下へ下への降ろす」

 いつか大輪の花を咲かせるためにも、その努力は怠らないようしたいですね。

順風満帆な人生などない


 生きていると、思いがけない試練で、心に穴がポッカリ開き、冷たい隙間風が吹くこともあります。
 それは大切な人の死であり、他人とのもめごとであり、穴の大小、深さもさまざまです。

 渡辺さんは、その穴を埋めることも大切だが、「穴から見る」ことも、生き方として大切だ、と述べています。
 開いた穴を覗くことで、その時まで気づかなかった他人の愛や優しさに、目を見開かされることがあります。

 以前、こんな話を読みました。深くて暗い井戸の底には、真っ昼間でも、井戸の真上の星影が映っている。井戸が深ければ深いほど、中が暗ければ暗いほど、星影は、はっきり映る。肉眼では見えないものが、見えるというのです。
(中略)
 たくさんいただいた穴の中で、私が一番つらかったのは、五十歳になった時に開いた「うつ病」という穴でした。この病のつらさは、多分、罹った者でなければ、わからないでしょう。学長職に加えて、修道会の要職にも任ぜられた過労によるものだったと思いますが、私は、自信を全く失い、死ぬことさえ考えました。信仰を得てから三十年あまり、修道生活を送って二十年が経つというのに。
 入院もし、投薬も受けましたが、苦しい二年間でした。その時に、一人のお医者様が、「この病気は信仰と無関係です」と慰めてくださり、もう一人のお医者様は、「運命は冷たいけれども、摂理は温かいものです」と教えてくださいました。「摂理」──この病は、私が必要としている恵みをもたらす人生の穴と受けとめなさいということでした。そして私は、この穴なしには気付くことのなかった多くのことに気付いたのです。
 かくて病気という人生の穴は、それまで見ることができなかった多くのものを、見せてくれました。それは、その時まで気付かなかった他人の優しさであり、自分の傲慢さでした。私は、この病によって、以前より優しくなりました。他人の弱さがわかるようになったのです。そして、同じ病に苦しむ学生たち、卒業生たちに、「穴から見えてくるものがあるのよ」といえるようにもなったのです。

 『置かれた場所で咲きなさい』 第2章 より  渡辺和子:著  幻冬舎:刊

 穴を無理に埋めようとせず、その穴をしっかり覗いて見る。
 心に穴が空くほどの経験こそ、「この出来事は自分に何を教えてくれるのか」という視点が大事です。
 忘れないようにしたいですね。

歳を重ねてこそ学べること


 渡辺さんは、「財産となるような歳を取りたい」という思いを持ちながらずっと生きてきたと述べています。

 肉体的成長は終わっていても、人間的成長はいつまでも可能であり、すべきことなのです。その際の成長とは、伸びてゆくよりも熟してゆくこと、成熟を意味するのだといってもよいかもしれません。
 不要な枝葉を切り落とし、身軽になること、意地や執着を捨ててすなおになること、他人の言葉に耳を傾けて謙虚になることなどが「成熟」の大切な特長でしょう。
 世の中が決して自分の思い通りにならないこと、人間一人ひとりは異なっていて、お互い同士を受け入れ許し合うことの必要性も、歳を重ねる間に学びます。そして、これらすべての中に働く神の愛に気付き、喜びと祈りと感謝を忘れずに生きることができたとしたら、それは、まぎれもなく「成長」したことになり、財産となる歳を取ったことになるのです。
 成長も成熟も、痛みを伴います。自分と戦い、自我に死ぬことを求めるからです。一粒の麦と同じく、地に落ちて死んだ時にのみ、そこから新しい生命が生まれ、自らも、その生命の中に生き続けるのです。
「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものだ」
 財産として残る日々を過ごしたいと思います。

 『置かれた場所で咲きなさい』 第3章 より  渡辺和子:著  幻冬舎:刊

「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものだ」

 重い言葉ですね。
 死んでも残り続けるものは、お金でもモノでもありません。
「目には見えないもの」です。
 喜びと祈りと感謝を忘れず、生きていきたいものです。

間違うことを許すという「ゆとり」


 同じ経験をしても、自分の感じ方と相手の感じ方とは、同じではありません。
 共通するところもあるけれど、わかり切れないところもあります。
 渡辺さんは、人間は決して完全にわかり合えない。だから、どれほど相手を信頼していても、「100%信頼しちゃだめよ、98%にしなさい。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておきなさい」とアドバイスします。

 人間は不完全なものです。それなのに100%信頼するから、許せなくなる。100%信頼した出会いはかえって壊れやすいと思います。「あなたは私を信頼してくれているけれども、私は神さまじゃないから間違う余地があることを忘れないでね」ということと、「私もあなたをほかの人よりもずっと信頼するけど、あなたは神さまじゃないと私は知っているから、間違ってもいいのよ」ということ……。そういう「ゆとり」が、その2%にあるような気がします。
 間違うことを許すという「ゆとり」。それは、教師との間にしてもお友だち同士にしても大事なことです。
 この話をすると、学生たちが初めは「えっ?」という顔をします。「シスターは不信感を植えつけるのですか」「シスターのことだから、120%相手を信頼しなさいというと思っていた」と。でも「その2%は許しのため」というと納得します。私でも、100%信頼されたら迷惑だといいます。私も間違う余地を残しておいてほしいから。誠実に生きるつもりだけれど、間違うこともあるかもしれないし、約束を忘れることもあるかもしれない。そういう時に許してほしいから。

 『置かれた場所で咲きなさい』 第4章 より  渡辺和子:著  幻冬舎:刊

 
『間違うことを許すという「ゆとり」を持て』

 荒波に揉まれながらも、多くの人を信じてきた渡辺さんだからこそ、発する言葉です。
 この世には、完璧な人間はいません。

 相手に対しても、自分に対しても、「2%のゆとり」を、つねに持っておきたいですね。

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「置かれた場所で咲きなさい」

 ただ、現状を受け入れ、我慢するだけの受け身な姿勢のようですが、決してそうではありません。
 自分ではどうしようもない部分は受け入れ、自分で変えることができる部分を変えていく。
 そうすることで、人生の花を咲かせなさいという意味です。

 国や地域、時代、両親も含めて、自分の望んだ状況で生まれてくるわけではありません。
 しかし、この時代、この場所に生を受けた理由が必ず存在します。
 咲かせる花は必ずあるということ。

 花が咲くか咲かないかは、本人の心持ちひとつです。
 土のせいや気候のせいにしているうちは、根も育たないし、茎も伸びることはありません。

 今、ここに生きていることに感謝し、アスファルトの隙間から咲く花のように、したたかに根気強く生き抜きたいですね。

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