【書評】「移動と階級」(伊藤将人)
お薦めの本の紹介です。
伊藤将人さんの『移動と階級』です。
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伊藤将人(いとう・まさと)さんは、社会学がご専門の博士です。
地方移住や関係人口、観光など地域を超える人の移動に関する研究や、持続可能なまちづくりのための研究・実践に長年携わられてきました。
移動には「格差」がある!
伊藤さんは、実は、現代社会には、「移動できる人」と「移動できない人」の間に大きな”格差”が存在する
と指摘します。
移動をめぐる困難や苦労を抱えたり、不平等さを感じたりしている人はたくさんいる。それは非日常的な出来事が起きたとき、一段と顕著なものとなり、可視化される。最たる例が、「災害」だ。
2005年、大型ハリケーン「カトリーナ」が、アメリカを直撃した。死者1800人以上、アメリカ史上最悪の自然災害と言われている。当時小学生だった私も、水没した街の映像が鮮明に記憶に残っている。
ハリケーンが街を襲ったとき、中流階級以上の白人たちは、自動車や連絡手段、通信手段を持っていたために比較的早く逃れることができたという。しかし、オンラインやオフラインのつながりが乏しい人たちは取り残された。自力ではどうにもならず、行政に身を委ねるしかなかった犠牲者の多くは、貧しい黒人住民や高齢者だったと言われている。
それから約20年後の2024年1月1日、私は電車に乗り地元の長野県に向かっていた。帰省に加えて、専門である地方移住に関する調査研究のためだった。ところが16時過ぎ、電車は緊急停車した。能登(のと)半島地震が起きたのだ。いつ動き出すかわからない電車の中、小さな子どもがいる家族やお年寄りの方は、電車を降り、近くの宿泊施設へと歩いて向かった。待つこと数時間、電車は動き出した。
能登半島地震のあと、ある政治家がSNS上で発した「地震前から維持が困難だった集落で、地震で甚大な被害を受けたところは、復興するより移住を組織的に考えるべきだ」といった意見が話題を呼んだ。このつぶやきに対しては、賛同と批判の声が入り混じった。
たしかに、人口減少や少子高齢化が進むなかで、長期的に考えたら移住は必要なのかもしれない。しかしそれは、政治が誘導し道筋をつくり、住んでいる人たちが合意するという、「みんなが移動できること」を前提にした意見である。「移動したほうがよいと思っていてもできない人」や「移動の判断や決定が難しい人」がいるかもしれないという、他者の移動への想像力は欠けていたように思う。
地震から少し時間が経って問題となったのは、被災者が比較的長期間にわたって避難生活することを想定した場所への移動を意味する「二次避難」である。一見すると、すべての人が二次避難したほうがよいように思うかもしれない。しかし、被災者の中にはさまざまな理由で移動が難しい人もたくさんいた。
たとえば、重度の障害者など、生活するうえでさまざまな配慮を必要とする人たちの中には、住み慣れた場所を離れることが難しい人も少なくない。知的障害のある人たちが生活している施設では、生活環境が変わることが負担となったり、気持ちが不安定になり自分を傷つけたりする人もいるため、二次避難はしないという決断をしたところもあった。自然災害は、日本で暮らす私たちにとって他人事ではない。
だからと言って、移動をめぐる困難や格差が非常時にしか目に見えないかといえば、そんなことはない。日々の暮らしに近いところにも、移動をめぐる困難や格差は存在する。
日本は、極端なまでの車社会である。特に郊外や地方で暮らす人にとっては、車は生活必需品である。私は18歳になったばかりの春に免許を取った。あえて、マニュアル車で取ったのは軽トラックを運転する可能性がある地方の出身ならではという感じだが、近所の人に軽トラを借りて、父を助手席に乗せ、近くの空き地で駐停車の練習をした。
そんな自動車の価格は、今から35年前、1990年は大学卒初任給のおよそ7.5ヵ月分だった。しかしいま、大学卒初任給のおよそ15.5ヵ月分にまで上がっている。約2倍である。価格の上昇には、物価高やハイブリッド車の普及、自動運転機能や安全運転機能の標準装備化といった、機能の高度化、半導体不足などが関係している。
「安全で安心な車なんだから、高くてもいいじゃないか」と思うかもしれないが、高くなり続ける新車を買うのが困難な人にとって、こうした状況は歓迎だけではないだろう。
より安全で、より高機能な車が増えるのはたしかに良いことである。しかし、同時に、社会階層が高い人は「新しくてオートマティックでより安全な車移動」を実現する一方で、社会階層が低い人は「一昔前の自動性や安全性が相対的に低い車移動」を選ばざるをえないーーそんな格差を生じさせているとも言える。
(中略)
アメリカの歴史学者クリストファー・ラッシュが著書『エリートの反逆』で書いたように、成功がこれほど密接に移動と結びついたことはかつてなかった。グローバル化が進む世界で、新しい時代のエリートたちは、より忙(せわ)しなく、より移動性に富んでいる。ラッシュは、成功をめぐる19世紀的な考え方では周辺的な位置にあった移動が優越的な地位を占めるにいたったことは、それ自体が、民主主義的な理想の腐食の指標であるとまでいう。ビジネスや専門の職業において有利な地歩を占めるには、チャンス到来のサイレンが鳴り響くや、すぐさま、どこまでも、それについてゆく気構えでなければならず、故郷にとどまるものは上昇移動のきっかけを失ってしまうのだと(Lash:1995)。
移動は都市や地域の構想とも深く関わる。どこに、どんな道を通すか、いかにして暮らしやすい街を計画するか。こうした都市と移動をめぐる構想、建設を考えるとき、階級と不平等の問題を無視することはできない。
イギリスの社会学者で社会階級と不平等の分析を専門とするマイク・サヴィジをはじめ多くの研究者が明らかにしてきたように、エリート階級は、最上級の「ジェントリフィケーション(都市の再編による高級化)」によって、都市を物質的にも社会的にも新しい空間に劇的に作り替え、移住(移動)することができてしまう(Sabage:2015)。放っておけば、不平等や分断はますます拡大していくだろう。
では一体、私たちはこうした移動をめぐり人々の間で生じる格差や問題と、どのように向き合えばよいのだろうか。どうすれば、よりよい移動の構想は実現するのだろうか。『移動と階級』 はじめに より 伊藤将人:著 講談社:刊
本書は、「移動格差(mobility gap)」という言葉をキーワードに、移動を問い直し、現代の移動の実態と、移動がつくる社会の姿を明らかにする
一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。
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「モビリティ」と「ムーヴメント」
「移動」という概念を理解するうえで鍵を握るのが、「モビリティ」と「ムーヴメント」の使い分けです。
移動は、社会の中で独立して存在しているのではなく、社会の構造や文脈などとの相互作用の中で成り立っている。どういうことだろうか。具体的な考えてみよう。
たとえば、車や鉄道の移動は、道路や線路というインフラがなければ成り立たない。ある日、朝起きたら高速道路が急にできていた、なんて魔法みたいなことはない。高速道路は専門的な技術や特殊機械を使って、スキルを持つ人や企業が力を合わせて作る。高速道路の作り方をめぐっては細かな取り決めが多くあり、それを定める法律や制度政策は、政治家や官僚、専門家などによって日々議論されアップデートされている。そこには、住民の運動や政治行動、SNSでの発言といった市民の声も反映されている。
ここでは高速道路の建設を例に取ったが、その上を車で走る人も制限速度や車体のルール、他の車との車間距離などを意識しながら走っている。自分一人で、自由にスピードを出したり、蛇行運転したりはできないし、ほとんどの人はできるチャンスがあってもしない。これが、移動は社会から独立して存在していないという意味である。いま、あなたの眼の前にAとBという点があるとする。このとき、Aを始点、Bを終点としてA→Bと移動する物理的な「運動」を「ムーヴメント(movement)」と呼ぶことにする。そこにはなんの意味も付与されておらず、ただ物体が一つの物理現象として動いただけである(図表3上、下図参照)。しかし、現実には、特定の空間や地理的状況で起きるムーヴメントは、それを囲む社会構造や文脈との相互作用の中で生じることとなる。移動は独立して存在しているわけではないからである。高速道路の例もそうだし、都市から地方への移住という移動であれば、どの地域からどの地域への移住なのか、もともと移住先地域とつながりがあったのか/なかったのか、移住に支援施策を利用したのか/していないのか、などの複雑な要因が絡みあった中で、個人の地方移住という移動は成立する。
このようにA→Bというムーヴメントを社会構造や文脈の中に位置づけて捉え、それらと切り分けて移動は存在し得ないと考えた場合の「A→B」という移動を、本書は「モビリティ(移動/移動性)」と呼ぶこととしたい。A→Bというムーヴメントを囲む環境や構造、文脈、背景をセットで考えた際の移動が、モビリティというわけである(図表3下、下図参照)。
以降、断りがない場合は、単なる移動と書く場合にも、基本的にはモビリティを指すと考えてもらって構わない。移動とは、社会的で、政治的で、経済的なものなのである。移動を社会的なものとして捉え、移動と社会には相互作用があるという考え方に基づいて眼の前の世界を眺めると、私たちが固定的かつ静態的に捉えすぎていた社会の新たな姿が見えてくる。
社会学をはじめ、人文社会学では20世紀末から現在にかけて、移動という視点を前提に社会を研究しよう、社会を移動に溢れたものとして捉え直そう、移動をめぐる不平等性や公正さを問い直そうという新たな潮流、運動が高まってきた。それらの研究群は「モビリティーズ・スタディーズ(吉原:2022)」と呼ばれている。モビリティーズ・スタディーズにおける議論と研究の蓄積は、私たちが移動をめぐる格差や不平等を考えるための有益な考え方や枠組みを授けてくれる。
移動は、過去20〜30年のうちに学術的に大きな関心を集めるようになった。特に、私が専門とする社会学では、一つの研究分野として認められてきている。こうした潮流の登場は「移動論的転回」などと呼ばれてきた。
移動論的転回とは、「移動を出発点に人々や社会の活動や関係を再認識しよう」「意図を捉える学術的観点をアップデートしていこう」という一連の主張と転換である。気づいた人もいるかもしれないが、ここまでの議論と私の考え方は、この移動論的転回を経たモビリティーズ・スタディーズの考え方に多くを拠っている。
特徴としては、従来の人文社会科学における定住や動かないことを”普通”とする考え方への批判、複雑な移動の組み合わせによって生まれる距離を超えたつながりへの着目、移動へのアクセスと機会をめぐる構造的な不平等への注目などがある。それは、移動を前提に学問や社会を捉え直す試みであり、研究対象は人に限らず、移動するもの、移動と関連するものすべてにわたる。こうした考え方は多くの研究者に受容され、研究がグローバルに進み、日本でも関連した書籍がいくつも登場している(ブックリストを参照)。ここまで読んで、移動論的転回が「移動は、これまでになかった新しい現象である」「これまで以上に人々は移動するようになっている」と主張する考え方だと思う人もいるかもしれない。しかし、それは間違っている。そして、移動が極端に理想化されたり、期待されたりする根本的な理由も、実はこの勘違いにある。
移動論的転回に関する議論を引っ張ってきたアーリは、過去にこう書いている。「私は移動が全く新しいものであるという考えに一貫して反対の立場で議論してきた」ーー。現代社会における移動の新しさは、世界中をめぐる移動のスケールの拡大、目下作動している移動システムの多様性、ますます拡張する自動車移動システムとそれに伴うリスク、コミュニケーションと通信の入り組んだ結びつき、人々の生活の社会的、感情的側面でみられる多元的な移動の重要性の高まりなどにある(Urry:2007、Eliot and Urry: 2010)。
つまり、モビリティーズ・スタディーズは、移動を称揚し、移動に期待し、移動を理想化し、移動を価値が高いものと位置づけるものではない。単純に移動を新しいものと捉えたり、移動を特権化した、移動を所与のものとして捉えたりする視点でもない。そうした移動の見方や考え方を疑い、多面的に考え直してみようと呼びかけているのである。
本書も、こうした立場に立って議論を進めていく。そのため、近年たびたび話題になる「移動すると人生が成功する」「技術イノベーションが移動の明るい未来を切り開く」といった類の主張はしない。どちらかと言えばそういった主張を疑い、その問題性を明らかにする本だと思って読んでみてほしい。
そこで、私たちが移動と移動格差を考える際に、見通しをよくしてくれる、いくつかの“移動の見方”を紹介したい。グローバル化と移動には、切っても切れない密接な結び付きがある。グローバル化がもたらした人やモノ、お金、情報のボーダレスな移動は、一つのまとまりとしての国家やそれを形作る国境などを問い直すとともに、移動を秩序への脅威と捉え、定住を安定とみなす「定住主義」の存在基盤を大きく掘り崩した。
しかし、グローバル化と言われながらも、いまだに人の移動は国籍や国境により強く制限されている。移動が関心を集めるからこそ、逆に地域の伝統やナショナリズムが強まっている部分もある。グローバル化には、ローカル化を呼び出す力があるのである。
たとえば、ときとして視野狭窄的なものになりがちな“地域へのこだわり”は、グローバルな自意識の表れに伴い、再起的に私たちのアイデンティティを問う動きが強まることで生じている傾向がある。グローバルな競争と比較の中で、「自分たちとは?」という問いが重要性を帯びている。そして、グローバルなものが私たちの眼前に現れることによって、人々の生き方の基盤となっている、ローカルな文脈や場所に目を向けるようになるというわけである(Giddens: 1999、Cohen and Kennedy:2000、鈴木:2007)。アメリカのトランプ大統領の一国主義による通商政策、イギリスのEU離脱や世界で高まる反移民感情などは、象徴的な例だろう。
グローバルなものとローカルなものは、動的で不可逆なつながりを通して結びついている。グローバルなものもローカルなものも、片方がなければ存在ができない。いまある社会も含め、実に多様な社会的かつ物理的な現象が、「グローカル(グローバル+ローカル)」なものへと引き寄せられており、グローカルなものは共生的で、不可逆で、不安定なつながりの組み合わせのなかで発展しているのである(Urry:2003)。
移動について考えるうえで重要なのは、グローバル化と反グローバル化、移動の推進と移動への抵抗という対立的な動きが併存してきたという事実をまずは押えることだ。現在進行形で生じている移動をめぐる動向は、対立的な動きと並進(へいしん)的な家庭の延長で読み解いていく必要がある。さらには、グローカル化に象徴されるように、常にマクロ(グローバル)とミクロ(ローカル)の相互作用を意識して読み解くことが鍵を握っている。
いま、日本のさまざまな地域で、外国人移住者とのローカルな共生が課題となっている。その背景には人の移動の高まり、人手が不足するなかで世界的な人材の奪い合いというグローバルな動向があることを考えると、理解しやすいだろう。移動は、多くの人々にとって日々の行動であるが、実はそれだけではない側面をもっている。移動は資本、すなわち「所有・蓄積し、活用する」ものでもある。だからこそ、格差が生じる。一体、どういうことだろうか。ここでは、資本としての移動(移動資本/mobility capital)という考え方を示してみたい。
現代社会において、人々が移動する能力は、社会的に不可欠な資源、資本の一形態になっている。このことについては、地理学や社会学などを中心に「移動資本」「ネットワーク資本」「可動性」といった概念と共に、過去の移動経験の蓄積、現在の移動をめぐる認識や実践、スキル、将来の移動の可能性、そして移動することに価値があると思われる場合に再び移動できる能力の不均等性などが論じられてきた。
移動資本には大きく二つの側面がある。
一つ目は、「過去の移動経験の蓄積」という側面である。移動は、さらなる移動を可能にする源泉となる。つまり、移動できるという「知識」や「経験」は、移動そのものと同じくらい重要なのである。
思い返してみると、はじめて海外を訪れたとき、税関の通過方法やセキュリティチェック時の振る舞い、滞在中のコミュニケーションなどわからないことばかりだった。
だが、何度か海外を訪れるうちに、国境を越えるために役立つ知識(より安く航空券を取る方法や、より簡単に支払いをするコツ)やスキル(現地在住者とのコミュニケーション、チェックイン時の受け答え)、眼の前の出来事の認識・判断能力(安心なタクシーかそうでないか、危険な地域かそうでないかの判別)が、蓄積していった。回数を重ねることで、海外渡航前の緊張感は薄くなり、準備にかける時間も減っていった。
時間の経過や経験回数が増えるとともに、移動を計画し、準備し、実行しやすくなる。また、移動経験の蓄積は、特定の移動を終えれば消えてしまうものではなく、次の移動のハードルを低くし、さらなる移動を可能にする。自動車の運転、電車や新幹線への乗車、引越しなども同じである。
二つ目は、「将来の移動可能性や、今後、移動する価値があると判断したとき再び移動できる能力は不均等である」という側面である。
移動資本には、望むか必要があれば移動できるという意味合いが含まれる。同時に重要なのは、「移動しない」という選択肢も含まれていることである。自分の移動能力をある程度コントロールできるからといって、常に人は動きまわるわけではないし、動きまわることを望むとも限らない。自由にどこでも住めるようになったと言われながら、未だに、戸建て住宅に住む日本人が半数を超えているのも、そういうことだろう。
なお、何度も強調するが、移動をめぐる議論で重要なのは、人々が頻繁に移動するか、たくさん移動するかどうかではない。事実,人は強制されると、移動が負担として感じられ、不都合が生じることも多い。本当に重要なのは、人々が将来にわたって、上手に、そして自らの判断によって移動できるように蓄積した資本を活用できるかどうかである。
また、移動資本は「ある」もしくは「ない」、「持っている」もしくは「持っていない」、と二項対立的に捉えられるものでもない。移動資本は“グラデーション”であり、中長期的にみれば、ある個人の中で増える可能性も、減る可能性もある。
人は誰しも、ケガや病気、心身の障害、経済的な挫折、結婚や離婚などの個人的な事情や外部状況の変化によって、移動資本の一部を失う可能性がある。外部状況とは、たとえば財政的に厳しいバス路線や鉄道路線が廃止になったり、災禍によって移動が一時的に制限されたりすることを指す。移動は、政治や政策によって規制・制限されることもあれば、逆に促進・推進されることもあるのである。『移動と階級』 第1章 より 伊藤将人:著 講談社:刊

私たち日本人は、国内であれば、ほとんどの場合、行きたいときに行きたい場所に移動することができます。
そのため、「移動できる」ことのありがたさに、あまり気づいていないのかもしれません。
移動を単なる行動や手段(ムーブメント)ではなく、能力や資産(モビリティ)として捉える。
これからの時代,ますます重要になる考え方といえます。
「移動格差」の実態とは?
「移動格差」は、具体的にどのような形で表れるのでしょうか。
私たちが最も直接的かつイメージしやすいのが、「交通手段・移動手段」です。
(前略)通勤通学している人の大半は、電車かバス、自動車、自転車のどれかを日常的に使っているだろう。利用する側ではなく、交通手段や移動手段に関する仕事に就いている読者もきっと多いはずである。それでは、一体、誰がどんな移動手段を使っているのだろうか、移動手段の利用をめぐる差は存在するのだろうか。
図表4(下図参照)は、自家用車、タクシー、新幹線、飛行機を「利用したことがない」人の割合を示したものである。日々、これらを使って移動するのが当たり前の人は、驚くかもしれないが、移動手段の利用をめぐっては明確に格差が存在する。それは、4つの移動手段すべてにおいて、年収が低いほど利用したことがない人の割合が高いという事実である。
ここでは、比較的、移動費用や所有にお金がかかると思われる移動手段を図表にしてみた。本調査では他にも自転車、公共交通バス、高速バス、鉄道(在来線)について同様の質問をしているが、年収が低い層ほど、利用したことがない人の割合が高い傾向があった。つまり、最も日常生活に近い移動手段の利用という観点でみても、移動をめぐる格差が存在しているのである。
自家用車の保有に関しては、一般社団法人日本自動車工業会が保有世帯のより詳しい調査結果を示している(2024年)。それによれば、年収を5つの層に分けた場合、低所得層では56.7%の世帯しか車を保有しておらず、ほぼ半分の世帯は自家用車社会の恩恵を十分に受けられていない。平等な移動を実現していくためには、この階層により幅広く移動サービスを提供していくことが求められるのである。移動にかかる費用もみてみよう。平日1日の移動にかかる平均費用を示した図表5(下図参照)からは、年収が低い回答者ほど、移動にかかる平均費用が少ない人が多い傾向が読み取れる。
顕著なのは、1日の平均費用が1000円以上の回答割合である。年収600万円以上の回答者は36.6%なのに対して、年収300万円未満の回答者だと16.5%となっており、約20%ポイントの差がある。これは、お金がある人ほど遠い距離からの、日々の費用がかかる移動が選択しやすいためだと考えられる。経済的な余裕があるからこそ、住まいと移動の自由さを享受できるともいえるだろう。経済資本が移動格差を生み出すことをわかりやすく示す結果だ。「21世紀は観光の時代である」というスローガンは、学術と産業の両方で多用されてきた。いまや国境を越える観光客の増加は全世界的な傾向であり、観光産業は21世紀の最も有望な成長産業の一つであるともいわれている。
学術的にも、人文社会学が捉えようとしてきた「社会的なもの」は、今や「観光」にこそ明白に現れると言われており(遠藤:2017)、ジョン・アーリとヨーナス・ラースンの『観光のまなざし』や哲学者の東浩紀による『観光客の哲学』、社会学者の遠藤英樹による『ツーリズム・モビリティーズ』など、観光・観光客という概念を鍵に現代社会を思考する試みも多くなされている。資本主義、グローバル化、消費社会、そして移動、観光には現代社会を特徴づける要素か詰まっているのである。
実際、いま世界には推定12億8600万人の国際観光客(宿泊客)がいる。さらに、観光産業は世界のGDPの9〜10%を占めるほどになっている。
そんななか、猛威をふるった新型コロナは観光業を壊滅的な状況に陥れた。今では、ほぼコロナ禍前の水準まで観光産業は復活したが、あの経験を忘れることはできない。
より中長期的に国境を越えて移動する移民や難民にも目を向けてみると、国際移住者は推定2億8100万人、紛争や暴力、災害、その他の理由による経済活動は世界全体のGDPの1割に相当しており、これはアメリカや中国の割合に次ぐ大きさである。移動は大国と同じだけの経済的影響を、世界に与えているというわけだ。国境を越える移動者をめぐる格差を考え、明らかにする意義が、わかっていただけただろうか。そこでまずは、回答者の過去1年間の旅行経験からみてみよう。以降、「過去1年間」という場合は、2023年10月から2024年10月までの1年間を指している。
この分野においては、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレンが、子どもの体験格差をテーマに類似の調査を行っている。それによれば、観光旅行は、数ある文化的体験の中で、世帯年収の多寡で生じる“体験格差”が最も大きい。旅費交通費てどの支出が避けられず、保護者の時間的余裕も必要なことが理由である。本書調査は、主に大人の移動経験と移動格差を調査対象とする点が、チャンス・フォー・チルドレンとの違いである。
はじめに、衝撃的な数字を共有したい。それは、過去1年以内に居住都道府県外への旅行経験がない人の割合が、年収600万円以上の人だと18.2%、年収300万〜600万円未満の人は30.7%、年収300万円未満の人は45.6%という調査の結果である。つまり、居住都道府県外への旅行をめぐって、年収600万円以上の回答者と300万円未満の回答者で、およそ27%ポイントもの差が存在するのである。
“誰もが観光旅行できる時代”といわれる現代においても、実際には一定以上の距離の移動を伴う観光旅行経験には、年収、社会階層による格差が生じているのである。国内旅行経験の実態を知ったら、海外渡航経験も気になるところである。2020年以降の移動をめぐる状況は新型コロナの影響が少なからずあり、調査時点では十分に状況が回復していなかった。特に、海外渡航となると避けている人も一定数いると思われる。そこで、これまでの人生におけるすべての海外渡航経験について質問した。
その結果、娯楽目的の海外渡航経験がない人は、年収600万円以上の人で20.5%、年収300万〜600万円未満の人で33.2%、年収300万円未満の人で46.3%という結果となった。海外渡航経験についても、年収300万円未満の回答者と、600万円以上の回答者では、約26%ポイントもの差があったのである。
さらに、300万円未満だと海外旅行を1年に1回も経験しない人が、約2人に1人であるのに対して、600万円以上だとそれは約5人に1人という実態も浮かび上がってきた。行き先の国内国外を問わず観光旅行をめぐる移動機会には決して小さくない格差がたしかに存在するのである。
では、娯楽目的の観光旅行以外の海外渡航はどうなるだろうか。結果は、娯楽目的の渡航以上に大きな差が存在した。一生のうちに仕事目的で海外渡航を経験する人の数は限られるものの、年収300万円未満の人の15.0%に対して、年収600万円以上の人だと43.6%となった。ここまで読んで、「年収600万円以上といっても多様では?」と思った人がいるかもしれない。その指摘は鋭い。実際、「年収600万円以上」の内実はさまざまなであり、本調査の場合は、個人年収が1000万円以上の回答者が263人(8.9%)、1500万円以上の回答者が62人(2.1%)いた。国税庁の調査と比較すると少々割合が高いが、これは男性回答者の割合が高いことと調査方法に起因すると考えられる。
こうした年収がより高い人々は、海外渡航経験が多い、つまりは移動性が高く、安全な日常のための資源として移動性を用いることができる可能性が高く、“モビリティ・グローバル・エリート”も少なからずいると思われる。別の言い方をするならば、より主体的に移動を実行するかしないかを選択でき、次々と新天地に移動することも可能な、移動性の階層の高い位置にいる存在である。
格差や不平等と聞くと、貧困をまず思い浮かべる人が多いと思うが、誰が貧困かだけでなく、誰がお金持ちか、といったことも不平等の議論の一部である。格差や不平等はマクロな視点であり、いうなればすべての者が、格差や不平等の対象になる(白波瀬:2010)。この本を読んでいるあなたも、書いている私も、含まれているのである。
話を戻そう。モビリティ・グローバル・エリートを含む彼らは、勝者総取り方式のグローバル資本主義の中で、新しくて極端な不平等が生じた結果として、高い移動性を享受している。そのことを示すように、年収1500万円以上の人の海外渡航経験を分析すると、これまでの観光娯楽目的の海外渡航経験が10回以上とかなり多い回答者が35.5%(全体平均12.7%)、仕事目的の海外渡航経験10回以上の回答者が41.9%(全体平均6.7%)と、全体平均よりも圧倒的に高い割合で経験していることが明らかになった。観光旅行をめぐっては、移動の自由との関連で興味深い実態もみえてきた。図表6(下図参照)は、「あなたは、観光旅行目的で、自分が移動したいときに自由に移動できますか?」という質問に対する回答である。
調査の結果、年収300万円未満の回答者と600万円以上の回答者は、観光旅行目的での自由な移動可能性に14%ポイントほどの差があることが明らかになった。将来の移動可能性や、今後、移動する価値があると判断したとき再び移動できる能力が不均等であることを示唆する結果である。移動をめぐる経験と、認識や意思は密接に関連しているというわけだ。『移動と階級』 第2章 より 伊藤将人:著 講談社:刊



お金を持っている人ほど、移動の自由度は格段に大きくなります。
「経済資本が移動格差を生み出す」
現在の日本を取り巻く観光事情は、まさにそれを如実に表しているともいえます。
「成功は移動距離に比例する」は本当か?
古くから、「成功は移動距離に比例する」とか「成功者は移動距離が多い」というような格言があります。
実際のところ、移動資本の大きさは、人生の成功に、どの程度関わるのでしょうか。
「移民が成功を導く」「移動がイノベーションを生み出す」という主張は、多くの場合、経験則や直感に基づいて語られることが多い。デジタル化が進み、移動しなくてもできることが増えているからこそ、移動することで偶然な出会いやつながり、発見が生まれる。そして、それがイノベーションにつながるというわけである。
しかし実は、特定の分野では、学術的にも古くからこの手の議論はされてきた。たとえば、移民がもたらす経済効果や企業に関する研究は、多くのことを私たちに教えてくれる。
経済学者のペトラ・モーザーらは、特許出願数と取得数を調査することで、ナチス・ドイツから逃れたドイツ系ユダヤ人が、アメリカの特許取得数に大きな影響を与えたことを明らかにした(Moserほか:2014)。同じく、アメリタカにおける特許データを分析することで、イノベーションのうち高スキルの移民が直接的に発明したものが15%、間接的な影響によるものが23%で、38%程度の発明が高スキルの移民によるという研究もある(Bernsteinほか:2022)。
さらに、米国の移民は、米国生まれの市民よりも米国で起業する可能性が80%高いという研究結果もある(Azoulayほか:2022)。2006年から2012年の間にベンチャーキャピタル投資を受けて株式を公開した企業の33%は創業者の少なくとも一人が移民であること、アメリカの主要企業の40%は移民かその子どもによって設立されていること、2016年にはユニコーン(時価総額10億ドルを超える稀有なスタートアップ企業)の半分が、移民の設立した会社であることも明らかにされている(Diamandis and Kotler:2020)。
他にも、1995〜2005年にアメリカで設立されたハイテク企業の創業者を調べた結果、創業者に外国人が含まれている企業は2005年には520億ドルを売り上げ、45万人弱の雇用を創出していることを明らかにした研究もある(Wadhwaほか:2007)。こうした研究成果から、何が見えてくるだろうか。一見すると、「国境を越えて移動する移民は成功者になりやすい」と読めるが、そこに共通しているのは「移動は高度人材のアントレプレナーシップ(起業家精神)を高揚させる」という点である。「移動を経験した高度人材は機会を認識する能力が磨かれている(Saxenian:2006)」といった成果はその象徴であるが、移動経験によって機会の認識能力が磨かれ、アントレプレナーシップが向上し、イノベーションが活発になるという説明が成立するわけである(安田:2013)。
ただし、紹介したうちいくつかの研究は、すべての移動がアントレプレナーシップやイノベーションと関連する分けてはないことを、はからずとも教えてくれている。
何度も登場する「高スキルの移民」「高度人材」という言葉が示すように、移民の中でも専門性や能力がもともと高い人々を前提に調査や議論が行われているケースが少なくないからである。つまり、「移動はアントレプレナーシップを高める」というより、「移動は”高度人材”のアントレプレナーシップを高める」のであり、「移動がイノベーションを生み出す」というより、「移動が“高度人材”のイノベーションを生み出す」のである。そうなると、なぜ高度な専門性やスキルが、「成功」への移動の効果を高めるのだろうか。移動自体はもちろん重要だが、移動から生まれる”何が”成功の可能性を高めているのだろうか。ここで鍵を握るのが、「ネットワーク資本」である。
おさらいすると、ネットワーク資本とは近くにいる人だけでなく、「必ずしも近くにいない人々との社会諸関係を生み出し維持する力」(Urry: 2007)である。ネットワークを活用し、インターネットの情報から得た知識を活用したり、オンラインの関係を作って維持したり、必要な資源を得るための友人と友人との間接的なつながりも含めたオンライン・オフラインのつながりを指す言葉である。
ネットワーク資本を考え出したジョン・アーリは、著書『モビリティーズ』の中で、「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という考え方との関連でネットワーク資本を説明する。それは、つながりの効用とでも言えるものである。アーリによれば、社会関係資本はつながりと近しいコミュニティを前提とする点で今の時代に合っていない部分がある。長距離移動が広く発達し、さまざまな社会関係がますますグローバル化している状況があまり踏まえられていないというわけである。
では、なぜここでネットワーク資本に言及したのか。それは、高い水準でネットワーク資本を有する人々は、高いレベルで地理的な移動を経験しており、興味深いことに、他の人にもかなりの移動性の高さを要求するからである(Elliot and Urry:2010)。つまり、社会的に成功者であると言われたり、そのことを自負したりする人の中には、「移動=成功」を他者に押し付けたがる人がいるのだ。この理由が、ネットワーク資本から説明できる。
インターネットが普及したことでオフライン・オンラインを含む多様な移動が自身のつながりを拡張し、蓄積できる時代に成功したからこそ、移動=成功を押し付ける成功者は、ネットワーク資本を重要なものと認識し、それを口にするわけである。
さらに、ネットワーク資本は、成功者をさらに成功者にし、貧者をより貧者にする、そういった社会的不平等を再生産するメカニズムも有している。このことは、世界で最も裕福で移動性の高い300人の人々が、最も貧しく移動性の低い30億人と同じ収入を得ていることからもわかるだろう(Elliot and Urry:2010)。移動資本とネットワーク資本によって富めるものはどんどん富み、格差が拡大していくわけである。
また、裕福で移動性の高い人々のネットワークは、とくに女性や社会的弱者、ネットワークのメンバーシップに入れなかったり維持できなかったりする他者を、しばしば社会的に差別するような性質もある。実際、資産3000万ドルを超える超富裕層のプライベートジェットの所有状況を中東を中心に調査した結果によれば、男性の所有率が96.8%であり、女性はたったの3.2%であった(WEATH-X:2023)。移動と成功をめぐる議論には、もう一つ、よく聞くパターンがある。それは、「移動中の時間を無駄にしない人が成功する」という“移動時間術”に関するものである。
その多くは、生産性やタイパ(タイムパフォーマンス)の向上を達成するために、移動中に実践するべきことを教えてくれる。よくあるのは、移動時間は読書するべき、最新ニュースをチェックするべき、メールの返信は移動中に行うべきなどの”ハック”である。一見すると、これらはスマホが登場し、Z世代のタイパ重視が叫ばれる現代固有の主張に思われるが、調べてみると数十年前の本でも同じような主張はされていた。
ただ、パソコンとインターネット、そしてスマートフォンの登場と普及が、これらを利用できる人々、駆使して仕事をする人々の生活様式や働き方、さらには自己と他者の新しい関係の形式をもたらすようになったことは明らかである。パソコンやスマートフォン、電子タブレットやスマートウォッチなどといった「小型化されたモビリティーズ(Elliot and Urry:2010)」は、高まる「移動しながらの生活」を促し続けている。小型化されたモビリティーズに侵食された世界では、移動時間は、移動をしながら遂行される仕事、ビジネス、レジャーなどの活動を中心にまわるようになっている。つまり、今日の輸送システムと新しい情報伝達技術の間に存在する複雑な結びつきが意味するのは、移動時間は個人にとって退屈で、非生産的で、無駄な時間ではなく、むしろ、職業上あるいは私的な活動において生産的に使われているという事実である。
小型化されたモビリティーズが登場する以前も、船の上で会議をしたり、電車で書類を読んだりする人もいた。しかし小型化されたモビリティーズの普及と新しい情報伝達技術が生み出した即時性、グローバルなデジタル・ネットワークの広がりは、以前の移動時間術とは次元を異にするレベルで、移動時間を生産的な時間へと変えた。生産性の向上と無駄の排除が高い価値を持つようになった現在、小型化されたモビリティーズの登場と普及が合流したことで、ますます成功するための移動時間術が広く支持を得ているのである。
こうした流れは、個人レベルの実践にとどまらず、商品やサービスの世界も侵食している。たとえば、コロナ禍を経て、鉄道各社が社内で作業する人向け車両を導入・拡充したことは象徴的である。JR東日本はワーク&スタディ優先車両TRAIN DESKを導入したが、紹介文に登場する一節「新幹線での移動時間を、仕事や勉強・読書などの自分時間として有意義に活用したい皆さまへ。」は、移動時間の生産性向上=有意義とする価値観を提示している。
でも立ち止まって考えてみると、不思議な話である。本来、移動時間に何をするかは、個人の自由である。移動のどんな行動に意義を感じるかも、人によるだろう。ぼーっと窓の外の景色を眺めることも、目を閉じることも、読書をすることも、仕事をすることも、本質的に意義に優劣はない。
しかし、こうした広告とサービスは、明確に「何もしない移動」「成長や仕事につながらない移動」を価値の低いもの、移動中に作業や仕事ができることを意義の高いものと位置付けている。生産性やタイパの向上を目的とする移動時間術は、それ自体が“生産性至上主義”と結びつき、商品化され、提供されているのである。
なお、今回の調査からは、「移動時間は無駄だ」「移動時間には生産的な活動をしたい」と考える人の割合は、年収が高いほど強い傾向が示唆された。移動時間の捉え方にも、社会階層間で違いがあるようだ。ここまでみてきたように、「成功したいなら移動せよ」という主張は、多くの場合、自身が移動とネットワーキングによって成功し、移動時間でさえも無駄にしなかったという自信と自負によって支えられている。
そうした自信と自負は、実力もしくは能力によって達成されたと認識される傾向にある。表現を変えよう。移動をめぐる格差や不平等が存在する社会において、高い移動性を有し、それを実現する人々の多くは、自身の移動資本やネットワーク資本、それらがもたらした成功を、“道徳的に正当なもの”だと思っているのである。
なぜこうした発想に至るのか。それは、グローバル化と新自由主義に覆われた21世紀の社会が、イノベーションやアントレプレナーシップ、成長の追求、そして移動を重要な価値としているからである。しかし、実はほかにも「成功したいなら移動せよ、なぜなら私はたくさん移動したから成功したのだ」という確信と論理を支える一種のイデオロギーが存在する。それが、能力主義(メリトクラシー)である。
能力主義は、イギリスの社会学者マイケル・ヤングが著書『メリトクラシー』で世に送り出した概念である。個人の能力に基づいて社会的地位や権力が分配されるべきという理念と、それに基づく社会を意味する。
それでは、能力主義という観点から人々の移動を考えてみよう。
階級や階層を超えて、すべての人が能力・実力だけに基づいて移動する/できる平等な機会を手に入れたら、どんな世界になるだろうか。素直に考えれば、それは理想的な世界に思われる。社会階層が低い労働者階級の人々が、社会階層が高い特権階級の人々と肩を並べ、公正に競いあったうえで高い移動資本を獲得し、オンライン・オフラインを問わず好きなときに好きなところに移動できるようになり、移動資本を蓄積していくのだから。
しかし、残念ながら、能力主義はこのような理想的な移動をめぐる状況を実現できない。能力主義がはびこる眼の前の社会を見れば、わかることである。なぜなら、勝者の中にはおごりを、敗者の間には屈辱を育まずにはおかないからである(Sandel:2020)。
勝者は自分たちの移動や人脈、成功を「自分自身の能力や努力、優れた実績の結果に過ぎない」と考え、自分よリも移動しない人々を見下すだろう。現に、「できないとか言ってないで、いますぐ移動すればいいのに」「海外に移動してチャレンジする勇気がないから成功しないんだ」といった言葉が、移動強者とでも呼べる人々から聞こえてくる。そして、成功していると感じない移動性が低い人々は、こうなった責任は自分にあると思ってしまう。
ヤングにとって能力主義は目指すべき理想ではなく、社会軋轢を招く原因だったが、今日、移動をめぐる格差や不平等についてもそうした分断や軋轢を招く状況が広がっているのである。
結局、「成功したいなら移動せよ」という主張の何が問題なのか? 答えは、実力や能力以外の構造的な不平等や環境要因によっても、人々の移動資本やネットワーク資本は成り立っているからである。
心身に障害があったり、目が離せない子どもがいたり介護が必要な家族がいたりすれば好きなときに出かけることはできない。稼ぎが少なく移動に充てられる金銭的な余裕がなければ海外旅行はおろか国内旅行も難しい。移動をめぐる機会と可能性は、ジェンダーや階級社会階層、国籍、エスニシティ、生まれ育った地域といったものに強く規定され、影響を受ける。移動による成功も失敗も、決して“自己責任”ではないのだ。
もっと言えば、移動力を発揮して成功するという思想は、好きなときに好きな場所に移動できる、極めて限られた特権的な人間を中心とした思想なのである。
ある大学で担当している講義の中で、ここまでの話をしてみた。すると、「移動で多くのことを見て経験して視野が広くなっているはずなのに、なぜ、『移動しないの? 早くすればいいじゃん』というような態度をとる、視野が狭い人間になってしまうのですか?」と質問された。理由は、能力主義と生存者バイアスにより、失敗した経験を脇において、自身の成功した経験のみを基準に判断してしまっているからだと考えられる。
移動をめぐる自己責任や能力主義、生存者バイアスから抜け出すには、移動が困難であったり、自分とは移動をめぐる状況が異なったりする人がこの世界にいることへの想像力を働かせることが大切だ。そして、移動をめぐる格差や不平等の実態を知ることが、過剰な移動崇拝と移動がもたらす成功神話を解体していくことにつながるはずである。『移動と階級』 第3章 より 伊藤将人:著 講談社:刊
成功と移動距離、それと移動時間の質は、大きな相関があるのは間違いないようです。
ただ、その機会が平等に与えられているかといわれると、そうではありませんね。
生まれた国や場所、家庭環境などで「移動格差」は確かに存在します。
世界的に見ると、私たち日本人は、日本に生まれたというだけで、かなりの「移動資産」をもっているとも言えます。
移動は「エネルギー」なしに成立しない
自動車や飛行機の移動で、絶対に欠かせないもの。
それは「エネルギー」です。
日々の移動を成立させるインフラなどのシステムは、24時間365日止まることなく、時間通りに配送し、常に通信を利用可能にし、物流ネットワークを成立させるために、莫大な量のエネルギーを消費している。人口の増加によって拡大する世界のエネルギー・インフラだが、近年では資本主義におけるスピードと不均等な発展の問題をますます悪化させていることも次第に明らかになってきた。
エネルギーなき移動は存在しないし、エネルギーがなければ私たちは生きていけない。しかし、エネルギーに根ざした文化は、自然環境や定住生活に甚大なダメージを与え、ネガティブな影響を与えてしまうというジレンマがある。
日本の場合、石油の用途は約42%が自動車である。さらに、飛行機や運輸船舶など他の交通、日々の暮らしを支えるさまざまな製品にも化学用原料が用いられている。
一昔前まで、世界中の石油供給量減少傾向にあると言われていた。しかし、石油生産技術の進歩や新たな油田の発見により採掘できる石油量が増えたことで、意外かもしれないが可採年数は増加傾向にあるとも言われている。ただし、油田の発見や技術開発の進展は予測が難しく、将来の可採埋蔵量は不確実である。さらに、今後新たに発見される石油は生産条件が悪くコストが高い石油が中心になるとも言われている。つまり、完全なエネルギーの枯渇は今後数百年起きないとしても、石油の値段は上下しながら徐々に上昇し、私たちの暮らしに影響を与えることは間違いない(藤井:2019)。
結局のところ、移動とエネルギーにはどんな関係があり、どんな問題があるのだろうか。オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチは、エネルギーと自動車に象徴される「速度」をめぐる不公正について、こんな指摘をしている。
イリイチは、交通は速ければ速いほどよいと言われるが、そんなことはないという主張の下、交通とエネルギー消費の関連性についてこう指摘する。少々長いが紹介したい。本来の移動性に対して新しい運輸技術が加える改良は、本来の移動性の価値を保障するとともに、移動範囲の拡大、時間の節約、快適さ、身体障害者の移動の機会促進といったようなあらたな価値を加えるものでなければならない。いままでのところは、このような結果がうまれてはいないのである。それどころか、運輸産業の成長は、いたるところで、逆の効果をうんでいる。・・・・・(中略)この産業は人間同士の平等を減少させ、人間の移動性を産業的に規定された道路網に制約し、未曾有の厳しい時間の欠乏をうみだしたのである。乗り物の速度がある境界をこえると、市民は運輸機関の消費者となり(中略)知人の家にたち寄るとか、仕事に向かう途中に公園を通って行くといったようなことができなくなる。極度の特権がうみだされる代償として、万人が奴隷にならねばならないのである。(中略)少数の人間が魔法の絨毯にとび乗ってはるかに隔たった地点と地点との間を旅行して(中略)いる一方で、多数の人びとは、通勤の距離と速度の増大、および通勤のための準備と疲労の回復とに費やす時間の増大を強いられている(後略)。(Ilich:1974)
いまからおよそ50年前、イリイチは、交通・運輸産業の現状を批判的に論じたうえで、交通に依存する状況を「際限のないエネルギー消費というイデオロギー」と表現した。そして、移動とエネルギーの消費のあり方を考え直すよう促した。
エネルギーの消費量が増えれば生活が豊かになるわけではなく、エネルギーをたくさん使ってより遠く、より速く移動できるようになっても、私たちの暮らしや心が必ずしも豊かになるわけではない。要するに、エネルギーに依存しすぎた移動社会は持続不可能であり、人々の格差や不平等さを拡大しているというわけだ。ここまで、移動が地球温暖化や気候変動に与える影響をみてきたが、気候変動も異動に影響を与え、新たな移動をめぐる課題を生じさせている。象徴的な問題のひとつが、近年、世界的に関心が高まる「気候難民」問題である。
「気候難民」とは、海面上昇や洪水、干ばつなど、地球温暖化や気候変動で住む場所を追われる人たちを意味する。気候難民は、大きく二つに分けられる。一つは気候変動により激甚化した災害により住まいを失った人たち、もう一つは温暖化による海面上昇や砂漠化により済む場所を失った人たちである。
では一体、気候変動はどれだけの人たちの移動に負の影響を与えているのだろうか。世界的な人の移動を専門に扱う国際移住機関は2022年に、次のように推計している。・過去10年間、台風や洪水、干ばつなどの天候に関連した災害により生じた避難民は、年間平均2016万人で、60%以上が中東、北アフリカ、東アジア、太平洋地域に集中
・2030年までに世界人口の50%が洪水や嵐、津波に晒される沿岸に住む
・気温が2度上昇する場合、2050年までに3億5000万人以上が居住不可能な気温に晒される
・気候変動による直接的な影響と農業生産力の低下などの二次的な影響をあわせると、2050年までに4400万人から2億1600万人の国内移住者が生じる
・気候の人の移動への影響は、地域や社会階層により異なり、特に最貧困層の移住が阻害される数字だけではイメージが湧きづらいかもしれないが、危機的な状況にあることは伝わるだろう。気候難民をめぐっては、日本でも突然の豪雨や豪雪、猛暑などで感じ始めた人もいるのではないだろうか。
ただし、気候難民と呼ばれる人たちの存在を過度に強調し、粒立てることにも気をつけなければならない。
たとえば、私たちは「気候難民」と「気候難民ではない難民」を区別することが可能だという前提でここまで話を進めてきたが、果たしてそれは本当に可能なのだろうか。日々の自分の移動を振り返り、その原因を明確に特定することは可能だろうか。
また、気候変動のなかで人々が移動する方法は意外と多様だったりする。国境を越える移動だけでなく、国内の他の地域に移動する人のほうが多いという指摘もある。(Farbotko:2017)。さらに、多くの予測は問題を単純化しすぎており、科学的厳密さに欠け、官僚的で西洋中心的な考え方に根ざしているという批判もある(Fabotko:2018)。
気候難民は、意外と国境を越えておらず、国内の移動者も多いのでは?という議論は、国家間の貧富の差からも説明できる。気温の変化やさまざまな自然災害の結果として生じる移動は、中所得国からの場合は国境を越える移住が増加する一方で、貧困国だと逆に国外への移住が減少するという研究結果がある(Cattaneo and Peri:2016)。これは、「閉じ込められた人口」などと呼ばれる。なぜそうなのかと言えば、移動資本やネットワーク資本は人によって異なり、移動にあてられるお金や移動の自由さが相対的に低い人たちほど、気候変動や自然災害の影響を大きく受けているからである。要するに、消極的移動(「〇〇からの移動」)のチャンスも、人によって差があるというわけだ。
話は少々ややこしくなってきたが、気候難民をめぐる立場や認識の違いは、本書のテーマでもある「移動とは、社会的で政治的である」を通して考えると理解しやすくなる。
まず、気候変動による緊急事態は実際に生じている。人間の移動に直接的・間接的に影響を与えていて、今後、影響が大きくなる可能性もある。しかし、センセーショナルに伝えられる気候難民については、「その要因をすべて気候で説明すること」は難しく、慎重でなければならない。なぜなら、政治的な決定や、経済資本の多寡、どこに住んでいるかという地理的な地理的な側面も移住の意思決定と実現に影響を与えているからである。移動をめぐり、どんな困難があるのか、どんなふうに眼の前の状況を認識しているのか、丁寧に声を聞いていくことが求められている。異常気象や気候変動などに由来する災害時の政治的な決定は、ときに緊急性を盾に「ショック・ドクトリン」の形で決定を下すことがある。ショック・ドクトリンとは、戦争、自然災害、政変などの惨事につけこみ、人々が茫然自失している間に過激な政治や経済の改革を行うことを指す(Klein:2007)。
気候変動によって住む場所を失った人たちが、その地を離れざるをえなくなったり、再建に関する決定をしたり、立ち退きを余儀なくされても構わないという気持ちになるとき、政府やその関係者の影響は計り知れない。
気候難民を過大に見積もる発言や言説は政治的であり、ときに気候変動の影響を受けやすい人たちを他の地域に移動させることを「正しいこと」のように演出する論理として、気候難民という言葉が利用されたりもする。危機に乗じて、あたかも気候難民のためかのように政権が有利な政策を推し進めることは多々あるのである。
むろん、これは政治だけに留まらない。すべての人が、気候難民問題に間接的に影響を与えているし、ときには問題の要因でもある権力関係を再生産する共犯関係になっている。
一例として、気候難民と人種の問題がある。気候変動と移住に関する言説は、多くの場合、白人中心的な人間観や先進国視点を土台としており、気候難民というカテゴリーを通じて特定の集団に対して、人種的な意味と立場を刻み込む傾向がある。その結果、人種的な他者との間で二項対立の社会的ヒエラルキーーー発展している側/遅れている側、支援する側/支援される側ーーという関係が再生産され、固定化されてしまうのである。気候変動と移動に関する話題はグローバルで、大きなスケールの話が中心的になりやすい。そのため、「日本とはあまり関係ないんじゃないの?」と思った人もいるだろう。
日々の暮らしの中で、気候変動が移動に与える影響を感じることは、ほとんどないかもしれない。しかし、気候変動が多様な移動に与えるネガティブな影響は他人事ではない。なぜなら、移動という観点から問題化されていないだけで、既にさまざまな形で問題は生じており、多くの人が気候変動の負の影響を受けているからである。
2024年8月下旬、台風10号の接近に伴いJR各社が1日から複数日にわたり運休もしくは計画運休を実施した。鉄道が運休や運転見合わせを行うと、「◯万人に影響」と報じられる。飛行機や在来線,バスなど他の交通機関も合わせれば台風や豪雨による交通機関への影響で帰宅が遅くなったり、足止めを経験したりしたことかある人は少なくないだろう。私も、最近は年に数回はこうした影響を受けているように思う。
鉄道が30分以上遅れたり運休したりすることを、「輸送障害」と呼ぶ。国土交通省によると、2021年度の輸送障害は過去最多の6410件にのぼり、1992年度(2574件)と比べて約2.5倍に増加した。このうち風水害や地震といった災害原因は全体の約3割にあたり、その数は1992年度の3倍増となっている。このことについて、国土交通省の担当者は、「猛烈な大雨など激しい自然災害の多発が増加の一因になっているではないか」と語っている(日本経済新聞:2023)。
実際、気象庁が全国のアメダスで調べた結果によると、大雨の年間発生回数は増加しており、より強い雨ほど増加率が大きくなっている(気象庁:2023)。さらに、1時間降水量80ミリメートル以上、3時間降水量150ミリメートル以上、日降水量300ミリメートル以上などの強い雨は、1980年頃と比較して、約2倍に頻度が増加してもいる。被害を与えたり災害をもたらしたりする気象現象は、増えているのである。
猛烈な大雨や激しい自然災害は、たとえ僅かであったとしても移動によって排出されたCO2による地球温暖化と気候変動が要因の一つとなっている。再帰的に、直接的・間接的に日々の暮らしの移動に影響を与えているのである。
交通機関の運休や運転見合わせ、麻痺などによる帰宅困難現象は、毎日、同じ時間に、同じ電車に乗れることが当たり前ではないこと、少しの誤差もなく時間通りに発着する(特に日本の)公共交通が繊細で複雑なシステムに支えられたものであることを気付かせる。
同時に、鉄道システムが通常通りの運行が難しい中でも出勤し、外を歩く人たちの姿がメディアで映し出されると、日本ではどんな状況であっても移動すること、所定の場所でも移動せざるを得ない人たちがいることを考えさせられる。『移動と階級』 第4章 より 伊藤将人:著 講談社:刊
私たちの移動資産が増える、つまり全体の移動人口が増えるほど、エネルギーが多く使われます。
エネルギー、とくに石油や天然ガスなどの化石燃料の使用量が増えるほど、環境への負荷は高くなります。
温室効果ガスの放出が増えることで、地球温暖化は進み、海面上昇やゲリラ豪雨などの異常気象が急増します。
すると、鉄道や飛行機などの輸送機関にも大きな悪影響を与えます。
エネルギー問題は、環境問題、ひいては移動資産の保護に直結する、人類全体の喫緊の課題だと言えます。
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☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
伊藤さんは、「移動」は、21世紀という時代を考えるうえで、最も重要なキーワードの一つだという確信がある
とおっしゃっています。
インターネットなどのITが発達し、その場にいながら、多くのことができてしまう便利な社会。
それでも、いや、だからこそ、物理的に「移動」することの価値が高まっているということてす。
お金などの金融資産の価値は、今後、相対的に下がっていくともいわれています。
一方、「移動資産」の価値は、それと反比例するように高まっていくのかもしれません。
移動できることは、「当たり前」ではありません。
太陽の光を浴びたり、空気を思いっきり吸ったりすることと同じで、なくなってから、その本当の価値に気づくものです。
大地震や火山の噴火などの震災や戦争が、いつ身近に起こるかわかりません。
私たちも、平和な今の時代だからこそ、本書を片手に、自由に移動できることの大切さ、ありがたさを噛み締めることから「移動」について考えてみましょう。
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【書評】「土と生命の46億年史」(藤井一至) 【書評】「ヒーリングレッスン」(寺尾夫美子)


