本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】「22世紀の資本主義」(成田悠輔)

お薦めの本の紹介です。
成田悠輔さんの『22世紀の資本主義 やがてお金は絶滅する』です。

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22世紀の資本主義 やがてお金は絶滅する/成田悠輔【1000円以上送料無料】
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成田悠輔(なりた・ゆうすけ)さんは、経済学者・起業家です。
ご専門は、データ・アルゴリズム・・ポエムを使ったビジネスと公共政策の創造とデザインで、ウェブビジネスから教育政策まで幅広い社会課題解決に取り組まれ、多分野の学術誌・学会に研究を発表されるなど、ご活躍されています。

「百年後の資本主義」は、どうなっている?

みんなが大好きで、大嫌いなもの。夢であり、悪夢。
そして、一番話したがり、話したがらない存在。

それが「お金」です。

文明とともに、形を変えながら、絶えることなく進化してきたお金。
今後、どのような道をたどっていくのでしょうか。

 私はどうかって? もちろん年収も資産も断固として非公開である。そして私もお金が大好きで大嫌いである。お金は人の性格や本質が映し出されるように見えるからだ。お金持ちに限ってケチで人を安くこきつかうことが本能みたいに染みついていたり、お金に興味がないと言ってる人は大体そういう話でお金を稼ぐ人だったり。お金には人間の矛盾や葛藤がよく現れる。だからどうでもいいところで急に強気の値段交渉をして相手が狼狽(うろた)えるのを見たり、他人のお金事情をしつこく聞き出そうとして絶縁されたりするのが好きだ。人の不幸はもちろん大好物なので、株価や仮想通貨が暴落して苦しんでいる人いると胸が高鳴ってしまう。

でもちょっと待ってほしい。なんで人はお金が大好きで大嫌いなんだろう? そもそもお金とはなんだろうか? なぜお金はいるんだろうか? お金はこれからも必要でありつづけるだろうか? ふと立ち止まって考えてみると、こういった問いへの答えを私たちは持っていないことに気づく。巷(ちまた)のお金の本や投資動画は教えてくれないし、学校の政治経済の教科書にも載っていない。だったら素手でそういう問題を考えてみよう。一番答えを知りたい疑問はこれだ。お金なしで生きることはできないだろうか?

今ここの時事や情勢の話はしない。向こう十年の経済見通しも考えない。株価の予測などもちろんしない。わからないし興味がないからだ。むしろ、向こう数十年から百年くらいの未来を考える。お金や市場経済の仕組みはどう変化していくだろうか? 要は資本主義はどこにいくのだろうか? 国家vs.経済の役割分担は? 22世紀ごろに向けて資本主義が、市場経済が、そしてお金がどうなっていくのか知るための準備運動でもある。

投資でいくら儲けたとか資産がいくらになったとか生ぬるいことを言っている連中は滅びてほしい。そういうものが全部燃え尽きるような、本当の資本主義の話をしよう。

最後に、この本が目指すのはとっぴなSFではない。むしろ堅実な予測を目指す。脳内で生まれたばかりの夢を掬(すく)おうとする生卵のように繊細なSFではない。かといって、今ここで事業化できるほど固まったゆで卵でもない。その間の半熟卵を目指す。半熟卵にははっきりした境界がなく、始まりも終わりもあいまいだ。好きなところで読みはじめて好きなところで読み終わってほしい。ランダムに開いたいくつかのページだけつまみ食いするのもいい。22世紀までには食べ終わることだろう。

『22世紀の資本主義』 A お金という(悪)夢 より 成田悠輔:著 文藝春秋:刊

本書は、経済学者である成田さんが、100年後の資本主義やお金についての未来像をわかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「資本主義」と「お金」は、どう変化する?

成田さんは、本書において、変幻自在に中身を変化させながら有象無象の有形無形な未開拓領域を商品に稼いでいく運動をざっくり「資本主義」とし、資本主義を実行するために商品を値づけし売り買いし分配していく私たちが慣れ親しんだ仕組みを「市場経済」と呼んでいます。

 もう一歩踏み込もう。市場経済が値段をつける商品やサービス、事や物は色々である。いくつかの軸で分類してみよう(図6、下図参照)。

まず、いつ価値が生まれるかという時間軸で分類できる。今ここで価値を生み出してくれるものもあれば、将来に価値を生み出してくれるかもしれないものもある。価値の中身も多彩だ。わかりやすい便利さや経済的利益、流動性を与えてくれるものももちろんある。それとは違い、何の便益を与えてくれるのかよくわからないが、なぜか価値があるっぽい気分がしてしまうという価値もある。二度と再生できないかけがえのない歴史に触れたような感覚、体が軽くなって心が躍り出すような感覚、いい感じの雰囲気や高級感で庶民とは違う階層に上がったような感覚、世の中にいいことをしているという手ごたえを与えてくれる感覚もある。価値の時間に加え、そういう価値の中身でも分類できる。

具体例を考えよう。今ここでわかりやすい経済的流動性や利益を与えてくれるものの代表は純金や現金である。ちなみに私は業務スーパーのファンである。庶民派に見えて海外の缶詰セレクションが異常に充実していたりするのが乙である。成城石井は値段だけ立派な割に、惣菜生鮮食品がまずく感じる。

時間軸を未来の方に向けてみる。将来わかりやすい(不)利益を生み出してくれるかもしれない存在も身近に多い。すぐ思い浮かぶのは金融・保険・投資商品群だろう。今ここで流動性や利益を犠牲にする代わり、将来には利子や利益率が乗っかって返ってくる。損失や破綻が返ってくることももちろんある。現在の利益と未来の利益を交換する技術が金融だ。

金融の鬼っ子が株である。未来に実現するかもしれない物や事をスケッチやポエムで描く。ふたたび、十分に多くの人々の期待や資本を誘惑できればその期待そのものが現在の株式市場の中で値段を持ってしまう。予言の自己成就的な未来の価値の先取りのための道具を人類は様々に作ってきた。その代表が株式会社である。そこに暗号資産という新たな鬼っ子も加わった。

とはいえ、人類の歴史がこれだけ積み重なってくると,わかりやすい便益は掘り尽くされてくる。コンビニに行けば中世の王族より快適で清潔で美味な生活が手に入るし、金融・保険・投資商品も開発できるものは開発され尽くし、だんだん曼荼羅(まんだら)のように複雑になって詐欺と区別がつかなくなったりする。

だから、わかりやすい便益とは異質な、新しい価値が台頭してくる。雰囲気や意味だ。古典的な例がブランドだろう。寓話4のハイファッションだけではない。虎屋という名前を聞くだけで、Nikeのロゴを見るだけで、砂糖の棒やゴムの靴に何かえもいわれぬ深い価値があるような感覚に襲われる。数百年に及ぶ歴史と伝統がその雰囲気を下支えしていたり、ブランド名やロゴが象徴する物語やメッセージが燃料になっていたりする。

たとえば世界一有名な広告コピーであるNikeの“Just do it.”この言葉は有名アスリートの名言ではない。意外にもある死刑囚の最後の言葉に由来する。とっとと殺(や)ってくれということか。その言葉を転用したNikeの最初の広告(1988年)の登場人物も、有名アスリートではなかった。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを毎日20km以上走る80歳の老人だった。死にゆく死刑囚から今を生きる老走者へと同じ言葉がバトンタッチされる。“Just do it.”は有名と無名を乗り越え、残り時間の有無を乗り越え、善と悪を乗り越え、生と死を乗り越える。ただ何かをやる今ここへの賛歌がNikeのロゴにかけがえのない躍動を与える。

ブランドを支えるのは過去の歴史や現在の躍動だけではない。未来の描写に支えられるブランドも増殖している。たとえばテスラをはじめとする電気自動車会社を考えよう。テスラの時価総額はトヨタ、というか日本の自動車産業全体をはるかに凌(しの)ぐ。今ここでの売上や収益を見れば比べるべくもなかったときからそうである。その時価総額の爆発を下支えしたのは、未来に向けた社会的意味の躍動感だろう。車をスマホのようなネットワークサービスの端末として再定義し、ギガキャストやギガファクトリーで生産工程も再発明する。そうして生まれる新種の自動車産業が社会や生活の持続可能性を象徴したものになるという期待だ。未来駆動ブランドである。

未来駆動ブランドのさらに極端な例もある。ESG(Environment,Social,Governance)やSDGs(Sustainable Development Goals)だ。もはや特定の商品でもなければ企業でもない。ESGやSDGsの名を冠した言葉列やロゴそのものがまとう別の未来へ向かう予感が巨大な市場価格を持ってしまう新種の広告産業である。その予感は空疎でよく、実現するかどうかは二の次だ。というか、目標が実現できない方が産業として持続的である。実際、SDGsの目標群は当初の締切だった2030年までの実現には程遠い。

話を整理する。価値を(1)時間と(2)意味の二軸で分類する。すると、左下の現在×便益の側から右上の未来×意味の側へと市場価格の重心がズレて行っている。そういう印象がある。未来を手探る株式の価格が今ここで掴める純金の価格を置いてけぼりにしている(寓話2)。現在の収益の保証により未来の収益への期待が時価総額を駆動している(寓話3、5)。期待は時にただの詐欺だけれど(寓話1)。ロゴやブランドや物語やミッションこそ巨大な市場価格を獲得する(寓話4、5)。こうした事例やデータがその印象を強めてくる。

あらためて資本主義とは何か? 定義はない。定義できない変態性が資本主義だ。資本は常に未開拓領域を食べ、価格と利益を排泄し、中身を変化させながら肥える。その変化と増殖こそが資本主義の本質である。未来×意味へ侵食する資本主義は今もう一つのフロンティアを食べつつある。データだ。私たちがどんな人で未来にどんな意味を感じたり考えたりして何をしそうかを表す情報である。

「代替できないトークン」(Non-Fungible Token :NFT)の爆発を思い出そう。2021年頃の喧騒を覚えているかもしれない。表面的ニュースのレベルでは、Twitter創業者ジャック・ドーシーの2006年の初ツイートが3億円で売れ、どこにでもある猿のイラストにしか見えない「アート」に六本木のタワマン以上の値がつき、アーティストBeeple(ビープル)のデジタルアートのNFTが75億円で売れた。アートをはじめ創作業界を困惑させた新たなバブルがNFTだった。そのバブルは崩壊し、数年前にいっちょがみでとりあえず作ってみたNFTのほとんどは今ではデジタルゴミと化している。だがそれは些細で短期的な浮き沈みだ。歴史はいつもゴミと屍(しかばね)を乗り越えて進む。

NFTとは何か? 用語集的に解説するなら、いくらでもコピー可能なデジタルデータなのに「そのデータは他のコピーとは違うそのデータそのものだ」という唯一無二性(非代替性:Nonfungibility)を証明することがなぜかできてしまう技術である。唯一無二性の証明はブロックチェーンにより行われ、ツイートであれデジタルアートであれ、デジタルデータの所有者のアドレスなどを確立・記録し、そのデータに対する所有権のような権利を築くことができる。

NFTは資本主義に新領域への橋を渡す。デジタル化できるものはすべてデジタル化される流れを推し進めるからだ。デジタル化は、してもしなくてもいいただの好みや選択肢ではなく、IDや権利を守りたければ進めるしかない不可欠な手続きになっていく。そして、デジタル化されたものとはつまるところデータである。この潮流はしたがって、データ化できるものはすべてデータ化されることも意味する。

情報・物事・心身ーーデジタルデータ化できるものはすべてデジタルデータ化されていく。ゆくゆくは銀河系までデータベースが包み込むかもしれない。インターネットの初期構想が銀河間を繋ぐ情報物質生命ネットワークだったことが暗示するように。もちろん、あらゆるものが突如一気にデジタルデータ化されるわけではない。いくつかの段階を踏む。すでに触れたアート界でのNFTバブルが象徴するように、まずはあらゆる情報・コンテンツ・IDのデータ化が起こる。ソフトな情報はすでにほぼデータだからだ。

そして続くのがIoT(物のインターネット)化した物のデジタル化だろう。スマートデバイスから家具家電、建物から都市まで、ウェブに繋がれデジタル世界にデジタルツイン(電子双子)として複写され、計算機網に操作されるハードな物もすでに半分データである。

しかし、本番はその後に訪れる。あらゆる事のデータ化が起こる。あなたが街角でしたいいこと、私がカフェで言ったまずいことがセンサーに捉えられてデータに変換され、IDや所有権が確定され管理されていく。その端緒は中国をはじめ一部の監視社会で起きている。

『22世紀の資本主義』 第1章 より 成田悠輔:著 文藝春秋:刊

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図6.時間×意味による価値の分類
(『22世紀の資本主義』 第1章 より抜粋)
 今、ものすごい勢いで進んでいる情報のデジタル化。
お金も、その流れに乗って急激に変化しています。

NFTや電子マネーなどに象徴されるように、不可視化・流動化・高速化がますます進んでいくことでしょう。

「一物一価」から「一物多価」へ

お金のデジタル化は、私たちの生活にどのような影響を及ぼすでしょうか。

成田さんは、「デジタル決済」を切り口に、以下のように解説しています。

 デジタル決済はすべてデータとして記録されている。もちろん、すべての決済を記録した一つのデータベースがあるわけではない。だが各決済はどこかの事業者や銀行に記録され、少数の大企業と大銀行を足し合わせれば決済・取引活動の大方を捕捉することができる。国税や検察の怖い人たちが本気を出せば、各地に分散した決済履歴データをのぞき見ることもできる。

決済・取引のデータ化は太古への先祖返りともの言える。太古にはアナログに粘土や石の台帳などの物質に書き込まれていた経済活動データが、現在ではデジタルにデータベースに書き込まれているという違いはあるけれど。だから今日の経済はデジタルでグローバルに再生した太古の村落社会である。

デジタルでグローバルな村落経済の発生は強烈な帰結をもたらす。お金の価値が下がっていくという帰結だ。なぜか。経済の実態の大半を記録できる太古の台帳経済や現在のデジタルグローバル村落経済では、実態と記録のズレが小さい。ということは、実態と記録のズレを埋める装置としてのお金の必要性が下がるからだ。お金に頼らず記録に直接尋ねて、信用するかしないか、取引するかしないか、罰するかしないかを決めればいい。記録を覗き見て判断するのは、古代では人間だった。現在、そして未来ではプログラムであり、ソフトウェアであり、AIである。

お金の衰えの予感は1章ですでにあった。価値を(1)時間と(2)意味の二軸で分類した図6(上図)を思い出してほしい(60頁)。左下の現在×便益の領域から右上の未来×意味の領域へと市場価格の重心が移行していた。それは次の含意を持つ。左下の現在×便益の代表であるお金の市場価格が下がっていくという含意だ。

経済履歴データの膨張とともに、お金が衰退する。この仮説は、インフレ(物価上昇)とも関係がある気がする。インフレは最近の時事ニュースなだけではない。歴史を通じて起き続けてきた世界経済の経験則でもある。数百年の世界経済の歴史を通じてずっと成り立ちつづけている数少ない経験則が、インフレである。

インフレには胸が高鳴り胃がキリキリする超常現象的エピソードが満載である。たとえば農地改革に失敗して危機に見舞われたジンバブエでは、2008年11月に月間インフレ率が796億%に達した。796%ではない、796「億」%ある。パンを買うために列に並んでいる間に価格が2倍になる、と表現されるほどだった。

そういう一部の極端で短期の異常事例だけではない。長期の一般に成り立つ経験則がインフレである。「万物の利益率 1870〜2015」と題された学術論文がある。この論文は、物、土地から株式まで様々な資産の価格変遷を追うデータを数十ヶ国について作った。そこからわかる一見当たり前な経験則がある。どの国でもどの資産でも長期では値上がりしているという事実だ。デフレ隊長・日本でさえ、過去50年の長期で見れば物価も株価も明瞭に上がっている。

物価や資産の値段が上がるとはどういうことだろうか。ものと比べたお金の相対的価格が下がるということだ。歴史を通じてインフレが起きつづけてきたということは、お金の価値は長期では下がりつづけてきたことを意味する。なぜお金の価値が下がりつづけてきたのだろうか。どの国もばらまきの誘惑やロビーイングに負けてお金を刷りつづけてきたから。それも要因だろう。だがそれに加えて、経済活動を補足するデータが豊かになって記録が実態に追いついてきた結果、粗い記録としてのお金の必要性が下がりつづけてきたからだ、という仮説が考えられる。データはインフレの燃料である。

インフレに留まらない。お金が滅亡することさえある。「1700年当時は750あった通貨のうち現存しているものは20%以下。そのすべての価値が落ちている」という(ちょっと怪しげな)説もある。お金の滅亡の一因もまた、経済活動を捕捉するデータが豊かになり、お金の必要性が下がる潮流かもしれない。

滅亡まで極端でなくても、衰退は運命である。一次元化され匿名化されたお金、いま私たちが何の疑いもなく受け入れているお金が支える「一物一価(いちぶついっか)的な全員共通価格システム」の衰退だ。どういうことだろうか。

物やサービスに値段がついていて、その分だけお金を払えば誰でも買える。つまり値段は全員共通で誰が支払うかを問わない。こういう仕組みに私たちは慣れ親しんでいる。そんな一物一価的な全員共通価格システムが支配的なのは、またしても記録・データが貧弱だったからだろう。それぞれの人ごとに属性や履歴をたどってその物やサービスを手に入れるに値する人かどうか、いくらで取引するのがいいかを決めることが、これまではデータ的にも通信・計算環境的にも難しかった。売り手と買い手が出会うたびにいちいち価格交渉するのも面倒すぎる。だから全員共通価格システムを使えば、適切な買い手の選別を粗く雑に代行してくれる。特に単価が小さいものについては。一人一人にとってちょうどいい価格を計算したり交渉したりする手間も省いてくれる。価格の分だけお金を持っていればどんな嫌われ者でも前科者でも買える、単純明快で透明な仕組みだ。

経済の記録が実態に追いつくにつれ、しかし、データの制約は緩んでいく。一人一人のデータ履歴を追って、その人が何者か、取引していいか、いくらくらいの値段をつけるのがよさそうかが調べ決めやすくなっていく。通信や計算の制約も緩んでいる。一物一価的な全員共通価格システムを使わなければならない必然性が緩んでいくことになる。これまでも、交渉や一人一人にバラバラに配られたポイントやクーポンによって価格が人によって違うという状況はそこそこあった。それが全面化し、自動化し、あらゆる場所で不眠不休で起きる。お金で測られた全員共通価格に投影されてこなかった様々な履歴情報が声を上げはじめる

実際、今の一物一価のお金・価格や税金の仕組みは奇妙である。十席しかない小料理屋も、数千万人が自室で遊ぶスマホゲームも、同じお金で比べられて同じ税制があてはめられる。違う物理法則で生きる違う星の生物を同じルールでスポーツさせて競わせてるようなものではないだろうか? こんな不思議なことになっているのもまた、事業や企業を売上とか従業員数とか雑すぎるデータでしか捉えられない粗さのせいである。より豊かな属性や履歴に基づく一物多価経済は、より細かな区別によって価格も税金もそれぞれの個人ごとにより繊細にバラバラにできる。

わかりやすい例がデジタル金融だ。経済履歴データの膨張は、融資や保険などの金融の個人化を推し進めている。個人化、つまり商品や取引や内容や条件を個人ごとに変えるカスタマイズ、パーソナライズだ。経済活動の記録の量と質が高まるほど、金融契約の設計や実行に利用できる情報が増える。それが個人化を生む。典型がウェブプラットフォーム企業による金融サービスで、スマホ上の個人の行動履歴に基づき融資やカードの与信を細かく個別最適化して自動で即決する。いくら借りられるか、利子(=借金という商品の値段)がいくらか、個人ごとにバラバラになっていく。ウェブ企業による金融サービスが伝統的な金融業や銀行業を脅かしているのはよく知られている通りだ。

その一歩先に訪れるのはあらゆる価格が人それぞれに変わる世界だろう。商品やサービスの価格が、個人ごとの記録に基づき個別最適化され、価格が人により、時間や場所や状況により異なる一物多価の世界が現れる。なんのことはない、デジタル金融や価格が交渉で決まるような相対(あいたい)取引の拡張で、金のありそうな人には高く売るとか、過去の履歴から信用できなさそうな人には高く売るといったことの自動化と全面化だ。価格の個人化が経済のあらゆる領域へと広がっていく。

価格の個人化は金融の外でも起きはじめている。アメリカでアマゾンに次ぐ規模のEコマース企業Wayfair(ウェイフェア)は、同じ商品の価格が閲覧者により異なる仕組みを導入したという。各閲覧者が過去に何を見ていくらで何を買ったか、その履歴情報に基づいてその人がどれくらい価格に敏感かを推定。価格を気にしなさそうな人にはちょっと高めの値段を提示する。過去データに基づき機械が価格を個別最適化し、人によって同じ物でも価格が変わる。

オンラインで企業と求職者をマッチングするサイトで、サイトを利用する顧客企業ごとにサービス価格を変える試みもある。各顧客の属性や行動履歴により価格が分岐する世界になりつつある。スマホの移動情報を使い、コンビニの売れ残り商品の割引クーポンを最寄駅に向かって移動中の客にだけ配信するといったこともすでに行われている。位置と異動の情報に基づく価格の個人化である。もちろんホテル・空港・イベントチケット・電子書籍などでは、各時点で在庫状況によって価格が変わる動的価格(ダイナミック・プライシング)が古くから行われてきた。動的価格と個人価格を組み合わせれば、時空間や個人の属性・行動履歴空間上で価格が柔軟に変わる仕組みになる。誰がいつどこで買おうとしてるかで値段が自在に変わる世界だ。

柔軟な一物多価の価格設定をうまく行えば、より多くを払ってもいい人にはより多くを払ってもらい、事業者は収益を改善できる。さらに面白いことに、消費者の満足度も改善できる場合がある。うまく作られた一物多価は売り手・買い手の両方を満たせることになる。

もはや一つの価格というものはない。こうなると、価格やお金の意味が変わっていく。価格やお金が人それぞれに高次元化し、極端な場合には人の数と同じだけの数の価格が存在することになる。同じ一万円の購買力が人により異なり、ある人の収入や資産を別の人のそれと比較することも意味が薄れていく。あなたが年収500万円で私が年収1000万円でも、あなたの方がずっと購買力があるといったことがありえるからだ。価格が個人ごとに違ってしかも他人にはわからなければ、お金を使った経済力による比較が難しく無意味になっていく。お金は過去の経済活動の記録をより多角的に表現する装置へと脱皮する。

こうなると、価格やお金は私たちが「価格」や「お金」として慣れ親しんでいるものとは趣を異にするものになっていく。かつては、もともとは高次元で手触りを持った経済活動とその「価値」を、良くも悪くも一次元に単純化する装置が「価格」や「お金」だった。価格が多次元化し個人化した経済では、しかし、「価格」や「お金」自体が高次元で手触りを持った何かへと羽を広げる。「価格」や「お金」はその名に反して、高低大小を競ったり比べたりすることが難しい何かになる。

一物多価的に市場が柔軟化すると、市場にできることが増える。たとえば再分配や格差の是正だ。仮にそれぞれ取引・決済が収入や資産などの記録に紐づけられ、同じ商品でもお金持ちほど価格も高くなるような仕組みが動くとする。オンラインの買い物で同じ商品の価格が閲覧者により異なる仕組みのように。そうすれば、一物多価の価格システムの中に格差を緩める機能が内蔵される。市場経済と徴税&再分配の融合である。そんな進化を市場が遂げれば、国家と市場の役割も変わっていく。再分配は国家の専売特許ではなくなるからだ。

国家vs.市場なる二項対立が語られて久しい。その社会像では、米ドルや日本円のような昔ながらのお金を使った一物一価的な全員共通価格を使った市場経済がまず動く。

しかし、そんな市場経済は避けがたく格差や敗者を作り出してしまう。そして戦争・革命・疫病・恐慌でも起きない限り、市場経済の中で自然な再分配は起きにくい。いったん富を持った人間は複利の効果でますます富む。それが平時の法則だ。働かなくても資産が稼いでくれる資本家だけが潤った。日本だけじゃない。多くの国で経済が自動機械化するにつれ労働者がいらなくなって資本の収益率が上昇、資本家と労働者の格差が広がっているらしい。富める資産家がますます富み、働かなくちゃいけない労働者はみんな負けな時代なのかもという気さえする21世紀だ。

だから良心に訴えるしかない。勝者が余った休暇や資産で弱者救済のチャリティーをする良心だ。

「『あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産をもっていたからである」
ーー「マルコによる福音書」10:21-22

この悲しみを逆手にとって脅迫や洗脳で施しを仕組み化し、弱者を救済し格差を是正する。という名目で中抜きするのが国家(と宗教)の役割になる。

だから国家は高くつく。大量の役人や事務員を雇って膨大な手間と費用をかけて徴税した挙句、政府支持率が下がると全家庭に一律◯万円のバラマキをしたりする。だったら徴税するな。と言いたくなるが、徴税&再分配主体としての経済的国家は過去百年で驚くほど肥大化している。無数の中間組織と補助金スキームが吐き出され、競争圧力も弱く成果も測りにくい国家は、非効率と非合理の巣窟(そうくつ)になる。「いったい税収の何十%を中間コストと意味不明のばらまきでドブに捨てるんだろう」という疑問が私たちの中にずっとある。無駄だと思いつづけてきて、実際、無駄である。しかしそれもいたしかたなしということになってきた。他の再分配装置がないからだ。

だが本当だろうか? こうした市場vs.国家の分業はある技術的限界を前提としている。一物一価的な全員共通価格システムという硬直したインフラを市場が使わざるをえないという限界だ。私たちがいまお金や市場と呼んでいる存在のデザインが雑すぎるから国家による分配が必要になる、と言ってもいい。

だが、一物多価化された近未来の市場経済を想像しよう。そこではお金持ちほど高い値段をつけるといったことをルール化し自動化できる。一物一価の価格システムが格差を再生したあと税を取り立てて中抜き後に再分配するより、一人一人値段を変える柔軟な価格システムで直接再分配する方が社会保障や格差是正への近道になるかもしれない。

今でも、それに似た再分配や経済保障はできる。たとえばお金をゼロからデザインする仮装・暗号通貨であればベーシックインカム(最低限の収入)やベーシックアセット(最低限の資産)を保障するお金の仕組みは作れる。「どんなことが起きても収入や資産が一定以下にはならない」という制約を組み込めばいい。不完全ながらその芽はすでにある。仮想通貨GoodDollarやthe UBI(Universal Basic Income)Tokenはそれ自体が利用者へのベーシックインカムとなることを目指している。資産や収入に上限を設けることもできる。つまり、ビリオネアが絶対に生まれないような配分公式が埋め込まれたお金の仕組みを作ることはできる。自動化されたデジタルなグレートリセットである。

『22世紀の資本主義』 第2章 より 成田悠輔:著 文藝春秋:刊

これまで資本主義の屋台骨を支えていた「一物一価」という大原則。
それが、大きく揺らいできています。

同じ品物でも、人それぞれの状況にあった価格で売買される。
そんな「一物多価」の価格システムが常識になる日も近いですね。

「ベーシックインカム」は世界を救うか?

経済格差が極限まで進み、すでに破綻しているともいえる、今の経済システム。
その処方箋として、よく挙げられるのが「ベーシックインカム」です。

ベーシックインカムは、万人に無条件で一定の所得を政府が保障する制度です。

成田さんは、生活保護、失業保険など無数の保障がスパゲッティ状に絡み合ったいまの制度を一元化するベーシックインカムは、社会保障の究極的な簡略化・一元化・全面化だと指摘します。

 ベーシックインカムに託される夢はでかい。稼ぐためだけに生活を切り売りする労働から人類が解放され、好き勝手に人間に値段をつけてくる壊れた経済から自由になるという夢だ。自発的な強制労働から解放された人類は、市場の評価や値段など気にせずしたいことをすべきことに生活を捧げられるようになる。そんな筋書を、ベーシックインカムを後押しする資産家はよく語る。「次から次へわいてくるやかましい貧者どもに恨まれると大変だ、口に札束でも突っ込んで黙らせておけ」とでも言いたげに。

しかし私は、その夢は夢でしかない、ベーシックインカムは人類を経済から救わないと考える。なぜか? ベーシックインカムを待たずとも、すでに人類は市場経済での労働を必要としなくなりつつあるからだ。1970年から2018年にかけて、先進国の労働者1人あたりの時間あたりGDPは約3倍になった。同じ付加価値を生産するのに3分の1の時間しか要さなくなっていることになる。1章で書いたように21世紀に入ってから人類の生産性の伸びは鈍化しているにもかかわらずだ。

劇的に高まった生産性は、大して働かなくても生きていけることを意味する。先進国で生存のために必須なカロリー源やエネルギー源を市場価格で買うために平均的労働者が働かなければならない時間は、この百年で激変した。過去数十年でも激減している(図12、下図参照)。生存するために寝ても覚めても働きつづけるしかなかった20世紀前半までの世界からは想像を絶するほど、労働の客観的重要性は落ちているのだ。百年近く前にバートランド・ラッセルが描いた1日4時間労働の夢に、ジョン・メイナード・ケインズが描いた週15時間労働の夢に、牛歩の速度ではあるが近づきつつある。

にもかかわらず、労働の「主観的」重要性は衰えを知らない。約100の国・地域で実施されている世界価値観調査(World Value Survey)には「働かない人間は怠惰か」「労働の社会に対する責務か」といった質問がある。これらの問いに対する「そう思う」の率は、過去30年でほとんど変化していない。
奇妙である。物質的にはどんどん働かなくてもよくなっているにもかかわらず、働かなければならないという強迫観念が消える気配はない。だとすると、ベーシックインカムで街から失業中の路上生活者が消えたとしても、失業者の心から「働けず稼げないダメ人間」という負い目が消えることはないのではないだろうか?

ベーシックインカムによって人々の心境が悪化することさえあり得る。「ドラゴンボール」に「精神と時の部屋」があるのは暗示的である。可処分時間が可能にするのは、自己精神であり、自己反省であり、自己嫌悪である。人は暇だと鬱になる。小金と時間を与えられて人類が手に入れるのは、働けず稼げない自分へのより純化された自己嫌悪かもしれない。ベーシックインカムで救われるはずの貧乏人だけではない。金持ちも実は同じだ。健康でお金に困らない生活は暇との戦いである。暇は鬱を、そしてその裏返しとしての承認欲求を生む。SNSやテレビで豪邸案内をしている哀れな資産家どもを見ればすぐにわかる。

お金から解放されるにはまずお金が必要だという世界観の中に住むかぎり、私たちがお金から解放されることはない。市場が生み出す歪みを再配分で救わなければならないという世界観の中に住むかぎり、私たちが市場から解放されることはない。薬物から解放されるためにはまず薬物で落ち着く必要があるという中毒者の泥沼そのものだからだ。真に必要なのはベーシックインカムやお金ではない。再分配を内蔵した柔軟な市場経済でもない。稼げない人間、働けない人間、値段の低い人間でも何の引け目も感じずに生きられるような経済観と人生観への転換だ。

そんな新しい価値観を耕すにはどうすればいいだろうか? 一言で言えば、測ることを止(や)めなければならない。金持ちだとか貧乏だとか、成長しているとか衰退しているとか、そういう比較をしたくなってしまう尺度を忘れなければならない。

そもそもふつうの経済は測ることの支配だ。順位をつけられるものたち、数えられるものたちに注目し、交換や増殖などの変換を加えると経済が発生する。しかし、今日の世界を見渡せば、数えられるものは驚くほど少ない。というか、数えたり順位をつけたりして意味があると私たちがとことん思えるものが少ない。

「その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数やペニスのサイズに大して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失ない、ひとりぼっちになった」                 ーー村上春樹『風の歌を聴け』

にもかかわらず、私たちはすべてを測るよう調教されている。この洗脳は驚くほど私たちの全脳を覆っている。円やドルのような法定通貨はもちろん、平等を取り戻すことを目指した教育バウチャーのような疑似通貨でもそうだし、通貨の分散革新を目指したビットコインやイーサリアムのような仮想通貨もそうだ。一物多価の経済も目くそ鼻くそである。測って比べたらダメだということになっている、家族などいくつかの禁忌地帯を除いて、測れる価値が支配しない領域を見つけることは難しい。

歴史を振り返っても、測ることが放棄されたことはほとんどない。かつて、経済が壊れているという感覚は「資本主義」や「市場原理主義」「新自由主義」の問題だと叫ばれていた。それに対置されたのが、「社会主義」や「共産主義」、そして微温的な「社会民主主義」だ。そのいずれの主義も測定主義には手を触れなかった。人の労働を商品化して測ること(物象化)への嫌悪は示しても、小麦や布を測ることを停止しようとは考えなかった。あくまで数量を測り、値段をつけることは前提として、数量と値段の計算と配分とその結果としての格差をどう変革するかに腐心した。

ここに罠がある。測れるから大小が生まれる。ひとたび大小が生まれれば、大きいものが小さいものを制する。利益率の高い独占者が、競争で利幅を失う負け犬を駆逐する。正の利子がつけば富めるものがますます富む。スケールするものが勝つ。

測定こそ始原だという罠を逃れて、測らない経済は想像できないだろうか?

『22世紀の資本主義』 第2章 より 成田悠輔:著 文藝春秋:刊


図12.急降下する必需品の時間換算価格
(『22世紀の資本主義』 第2章 より抜粋)
 ベーシックインカムの導入によって、確かに失業者や生活破綻者は激減するでしょう。
ただ、「お金」に対する考え方を変えない限り、私たちがお金の呪縛から解放されることはありません。

お金の呪縛の根本にある原因は、「測ること」への欲望です。
測るから、他と比較して優劣をつけたり、ジャッジしたくなるわけですね。

「データを食べる招き猫」が経済を自動化する!

成田さんは、経済とは、データであり、経済のデザインは、したがって、(1)入力される欲求と能力にまつわるデータ、(2)出力される資源配分、(3)データから資源配分を計算するルールやアルゴリズム(計算手続き)、習慣をデザインすることに行き着きます。

今後、AI(人工知能)などのIT技術が発展することで、人の手がほとんど入らない自動化・機械化された市場経済アルゴリズムが導入される可能性が高いでしょう。

 人に喋(しゃべ)らせなくてもデータが喋る。今の世界ですら、人間に直接頼んで好みや欲求、メッセージを申告してもらわなくても、私たちが何を求めているかに関する好みの情報がデータベースに絶えず溜(た)まっている。店やネットで何かを買ったり評価したリピートしたりした情報はもちろん、様々なセンサーデバイスや監視カメラがとらえる日常の中での言葉や表情や体反応、安眠度合いや心拍数や脇汗量、ドーパミンやセロトニン、オキシトシンなどの神経伝達物質やホルモンの分泌量・・・・・あらゆるデータ源から、様々な商品やサービス、物やことに対する人々の意識と無意識の好き嫌いや、価値観が漏れ出してい。「これがないとほんと死ぬ」「うわぁ生理的に無理」といった反応がデータに刻まれている。

ならばこんなこともできる。それぞれの人の属性や過去の行動、選択反応の履歴データから人それぞれの好みを推定する。さらにその人の好みを代弁してくれるAI代理人を作ってもいい。データベースから推定されたそれぞれの人ならではの好みに基づいて、その人の好みにあった商品やサービスの配分を直接計算し推薦する。無数のデータ源から意思決定や資源配分の計算と推薦を行うのは自動化・機械化された市場経済アルゴリズムである。
そんな市場経済アルゴリズムを「招き猫アルゴリズム」と呼ぼう。そう、データから人を福へと誘う招き猫である(図14、下図を参照)個別の商品やサービスを誰が手に入れるかという狭く小分けになった局所的な意思決定が起こる場合もあるし、様々な商品やサービスを混ぜ合わせた市場レベルで多くの人を同時に巻き込んだ資源配分が行われる場合もある。望ましい配分を計算する招き猫アルゴリズム自体も、過去に様々なアルゴリズムを動かして試行錯誤したデータから自動設計出る。

もちろん「望ましい資源配分」は曲者である。望ましい配分はいくつかの目標を汲み取る必要がある。第一に、できるだけ多くの人の好みを汲み取って満足させること。効率性と呼ばれることも多い。選択や来歴のデータから推定されたそれぞれの人の好みにしたがって、その人が喜びそうな物や事を推薦する。この章の冒頭の招き猫の物語にあったみたいに、本人たちが気づいていない欲求に先回りで応えてしまってもいい。好みの中に好奇心や新奇性を調味料として含めてもいい。同じ人でも日によって気分が違うかもしれないし、ちょっと違う物や事を試してみたいかもしれない。だからまだ試していないものやごぶさたなものをランダム(無作為)に混ぜてみてもいい。過去のデータから未来に起きる取引を計算する招き猫アルゴリズムにランダムなホワイトノイズが入る。ノイズが未来を過去からちょっと解放する。

ただそれだけでは足りない。第二に、人々の望みを組み込むにももちろん限界がある。世の中にある資源や時間には限りがあるし、技術的に作れないものは作れない。そうした社会全体に存在する様々な資源や技術の制約を満たさなければならない。そして第三に、望ましい配分は再配分や公平性の欲求にも目を配らなくてはならない。ある人や集団だけがやたらと満足しているのは困る。限られた何かを分けて再配分するときに誰を重視するかによって色々な配分が立ち現れる。

人々の満足、社会的制約、そして公平性欲求。この三者をバランスするように、過去の履歴データに基づきどのような行動をそれぞれの人が取るべきか、招き猫アルゴリズムが計算し推薦する。望ましい配分はだいたいいくつもあるので、いくつもの候補を推薦してもいい。推薦群の中からどれを最終的に選ぶかは個人それぞれの自由に委ねられる。デフォルトの推薦にしたがってもそれに反してもよい。推薦から逸れた情報もその都度汲みとられ、招き猫アルゴリズムへの入力データに組み込まれる。招き猫アルゴリズムは人々の好みの変化も学習し、予測を更新していく。自分で考えて選ぶのが面倒臭ければ、アプリやAIに選択を委ねてしまってもいい。いまの生活でも無数のアプリが私たちが何を体験すべきか、何を購入すべきか、誰と関わるべきかを絶えず推薦して私たちの行動を操作してくる。それと原理は同じだ。その範疇(はんちゅう)があらゆる行動に拡張する。星の数ほどの商品やサービス、活動があるので、どちらがよいか決めかねるということも多い。そういうときはランダムに選んでしまう。

分権的で自生的な市場経済vs.集権的で意識的なメカニズムという二項対立は時代遅れになる。ゆっくりと、しかし着実に偏在するデータベースとアルゴリズムたちの群れが両者を乗り越えて統合する。

そしてお金の姿がない。値段や収入が見えない。これが招き猫アルゴリズムで起きるもう一つの大事な変化である。招き猫アルゴリズム経済では資源配分や意思決定がデータから直接に決まる。誰かが誰かに一宿一飯を与えるのかもしれないし、逆に誰かが誰かを密着取材してドキュメンタリー化するかもしれない。そこにお金や価格のようなわかりやすく測れる物差しはなくていい。ただ何かを制作したり労働したり親切したり交換したりする「やりとり」が起きるだけ、あるいは推薦され誘発されるだけだ。測らない経済が起こる。

不思議ではない。招き猫アルゴリズムが食べるデータはあなたが何者なのか、人にどれだけの貢献や寄生をしてきたのかをあけすけに物語る。お金の有無よりもずっと貴重で言い訳の利かない記録である。だからデータそのものがお金に代わる人の価値の表現になる。他の誰でもないその人ならではの、多次元で測りにくく比べにくい価値を表すアート作品のような存在である。

測れる物差しはいったんすべて忘れてみよう。ここに価格はない。利子もない。仮想通貨もない。バウチャーもない。それぞれただ一回きり、他と比べることのできない贈与や交換のような「やりとり」の連鎖があるだけの場所だ(図15、下図を参照)。招き猫アルゴリズムの手招き(推薦や指示)にしたがって、甲と乙の間でやりとりが起きた。甲が乙の肩を揉んであげたのかもしれないし、戦場で銃弾から救ったのかもしれない。突然暴言を吐きかけたということもありえる。ポジティブっぽくてもネガティブっぽくてもいい。ポジティブかネガティブかのラベルもいらない。ただそのやりとりが起きた。それだけでいい。

招き猫アルゴリズムが誘発するやりとりは取引のような、贈与のような、でもどちらとも違うコミュニケーションである。取引と違ってそこに金銭は発生しない。贈与によるやりとりには金銭が絡まない。計測を拒絶する。人からの贈り物がいくらしたか、それに価値がどれくらいあるかないか測ってはいけないのと似ている。

ただ、贈与と違ってやりとりは対称的である。贈った者が贈られた者に引け目を感じる必要はない。取引のように双方向的でそのつど解消されていく、しかしお金を介さない贈与がやりとりだ。招き猫アルゴリズムはそんなやりとりを不眠不休で引き起こしていく。

やりとりはただの一方公的な贈与を超えた双方向の行為である。それを可能にする仕掛けとして、招き猫アルゴリズムが食べて作るデータから唯一無二の証が発行される。やりとりを証明するこのかけらを「アートークン」と呼ぼう。アートのようにそれっきりの一つのもので、取り替えがきかず、複製できず、反復できない一回性と単独性を身に纏(まと)う。しかしトークンやお金のように経済取引を媒介する。アート+トークンだ。アートークンは量産できないばかりか、数えられず、比べられない。アートークンの身元保証と行先管理はブロックチェーンが分散実行する。アートークンはデータの一種だから、今の世界で暗号通貨やデジタルアートのID管理や偽造防止にブロックチェーンが用いられることの延長だ。1章での暗号通貨やNFTに関する議論を思い出してほしい。

あるやりとりが産み落とすアートークンは、そのやりとりとそれが行われるに至った来歴データの可視化である。アートークンの原料である招き猫アルゴリズムの入力データには、やりとりを行う甲と乙がどんな人々で、誰とどのようなやりとりをしてきたか、やりとり関係がいつどう破綻したかといった社会網情報が含まれる。過去の人生の時空間軌跡イメージの圧縮だ。その圧縮情報を写し込んだそのやりとり固有のアートークンを産み落とす。甲乙の来歴がアートークンに差異をもたらす乱数シード(種)になる。この一連の作業はぜんぶ、計算機内の招き猫アルゴリズムに組み込まれたプログラムが勝手に実行する。人の手は煩わせない。猫の手を煩わせる。

『22世紀の資本主義』 第3章 より 成田悠輔:著 文藝春秋:刊

図14.市場経済を自動化する招き猫アルゴリズム
(『22世紀の資本主義』 第3章 より抜粋)

図15.招き猫アルゴリズムが誘発するやりとりの連鎖とアートークン発行
(『22世紀の資本主義』 第3章 より抜粋)
 テクノロジーの進化は、日進月歩です。
近い将来、人工知能が人類すべての知識を追い抜く「シンギュラリティー(技術的特異点)」に達し、さらに凌駕していくことでしょう。

「招き猫アルゴリズム」は、今の段階では夢物語のように思えます。
しかし、“その日”は、意外と早くしかも突然、訪れるのかもしれません。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

属性や過去の履歴データが、それぞれのIDに紐づいて大量に蓄積されていく。
その履歴データに紐づけた一物多価化が進む。

成田さんは、お金で測った市場価格というものの意味がどんどん多次元で複雑で曖昧になっていき、その流れかある閾値(いきち)を超えたとき、測れる経済が蒸発するとおっしゃっています。

私たちの価値観は、すでに「お金」という一つの物差しで測るには、あまりに多様化し、流動化してしまっています。

近い将来、今の経済システムは破綻を迎えます。
そうなる前に(そうなってからか)、これまでとはまったく異なる経済システムが構築されることでしょう。

「測れない」ことを前提とした経済システムとは、どのようなものになるのでしょうか。
そこには、もはや「お金」は必要ないのかもしれません。

AIの進化が導く、新たな時代の資本主義。
あなたも、本書を片手に、その一端を覗いてみてはいかがでしょうか。

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