【書評】『いま世界の哲学者が考えていること』(岡本裕一朗)

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 お薦めの本の紹介です。
 岡本裕一朗さんの『いま世界の哲学者が考えていること』です。

 岡本裕一朗(おかもと・ゆういちろう)さんは、西洋近代思想がご専門の哲学者です。

今、「哲学」と何を問うているのか?


 科学技術が大きく飛躍し、グローバリゼーションが猛烈な勢いで進む現代社会。
 そのなかで、「哲学」が果たす役割とは、どのようなものでしょうか。

 岡本さんは、以下のように説明しています。

 歴史を眺めてみれば、時代が大きく転換するとき、哲学が活発に展開されているのが分かります。しかも、そうした時代の転換には、科学技術の状況が密接に関係しているのです。たとえば、中世から近代へと移行する時期、近代科学が形成されるとともに、羅針盤や活版印刷技術が普及しました。それによって、グローバルな経済活動が引き起こされたり、宗教改革が進展したり、近代国家が組織されたりしました。こうした社会的変化に対応するように、哲学として大陸合理論やイギリス経験論が勃興しています。
 こうした時代転換に匹敵する出来事が、まさに現代において、進行しているのではないでしょうか。たとえば、20世紀後半に起こったIT(情報通信技術)革命やBT(生命科学)革命は、今までの社会関係や人間のあり方を根本的に変えていくように見えます。また、数百年続いてきた資本主義や、宗教からの離脱過程が、近年大きく方向転換しつつあるのは、周知の事実となっています。さらに、近代社会が必然的に生み出してきた環境問題も、現代においてののっぴきならない解決を迫っています。こうした状況をトータルに捉えるには、どうしても哲学が必要ではないでしょうか。
 物事を考えるとき、哲学は広い視野と長いスパンでアプローチします。日々進行している出来事に対して、一歩引いたうえで、「これはそもそもどのような意味なのか?」「これは最終的に何をもたらすのか?」という形で問い直すのです。一見したところ、悠長な問いかけのように感じますが、時代がドラスチックに変化するときには、こうした哲学の姿勢が欠かせません。このような考えにもとづいて、私は本書を執筆いたしました。ここで考察するどの問題も、根本的な問題ばかりなので、解決には程遠いかもしれませんが、すくなくとも問題の所在については確認できると思います。この視点が果たしてどれほど有効なのか、皆さんにご判断していただければ幸いです。

『いま世界の哲学者が考えていること』 はじめに より 岡本裕一朗:著 ダイヤモンド社:刊

 今、私たちは、時代の大きな転換点にいます。
 だからこそ、より広い視野と長いスパンでアプローチする「哲学」がより有効だということですね。

 本書は、現代の哲学者が、社会の諸問題に対して、どのように向き合い、解明しようとしているのか、わかりやすくまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「言語論的転回」とは何か?


 19世紀末から20世紀初頭にかけて、哲学上の大きな転換がありました。
 リチャード・ローティは、それを「言語論的転回」と位置づけました。

 この言葉はもともと、グスタヴ・バーグマンによって使われたものですが、ローティの編集による『言語論的転回』(1967年)によって、広く普及するようになりました。しかも、その後ローティの文脈からも離れて、20世紀の哲学的な展開全般を指すようになったのです。ローティにおいて言語論的転回は、ゴットロープ・フレーゲから始まる「分析哲学」の成立・展開を示しているのですが、一般的な用法としては、それだけに限定されるわけではありません。
 たとえば、フランスのソシュールやヤコブソンの言語学に影響された構造主義や、それ以後のポスト構造主義も、言語論的転回のうちに算入されます。また、ドイツで展開された、ガダマーなどの解釈学や、ハーバマスが提唱する「コミュニケーション理論」も、言語論的転回のうちに位置づけることができます。
 そこで、この言葉を狭い意味と広い意味に分け、狭義の「言語論的転回」は分析哲学の展開、広義の「言語論的転回」はフランスやドイツの哲学をも含めた、20世紀哲学の展開として理解しましょう。この言葉を使うメリットは、複雑な現代哲学の展開を、全体としてシンプルに表現できることです。
 そのうえ、この表現には、言語論的転回以前と以後を示唆する点で大変興味深いと思います。一方で言語論的転回以前、哲学はどうだったのか、他方で言語論的転回以後、哲学をどう考えたらいいのか、問題になります。そもそも、言語論的転回は今も続いているのか、それとも現在は、それに代わる新たな展開が引き起こされているのか、問わなくてはなりません。
 まず、言語論的転回が20世紀に起こったとするならば、それ以前をどう表現すればいいのか、考えてみましょう。それについては、大よそのコンセンサスができていて、表現としては「認識(知識)論的展開」と呼ばれています。近代哲学は通常、デカルトに始まる大陸系の合理論とロックやヒュームからのイギリス経験論に分けられますが、このいずれも主観と客観の関係にもとづいた「意識」の分析に集中します。こうした問題設定が、「認識論的展開」という言葉によって表現されています。
 17世紀の認識論的展開以後、近代哲学が数百年続きましたが、19世紀末頃から20世紀初めにかけて、言語論的転回が引き起こされたのです。こうして、主観―客観関係における「意識」ではなく、むしろ「言語」を分析することが、哲学の主要なテーマとなりました。
 20世紀の後半において、英米では分析哲学が展開され、フランスでは構造主義やポスト構造主義が流行し、ドイツでは解釈学やコミュニケーション理論などが提唱されましたが、それらは総じて言語論的転回の一環として理解されることになります。

『いま世界の哲学者が考えていること』 第1章 より 岡本裕一朗:著 ダイヤモンド社:刊

言語論的転回 とは 第1章 P34
図1.「言語論的転回」とは?
(『いま世界の哲学者が考えていること』 第1章 より抜粋)


 ソクラテス以来、2500年にわたって受け継がれてきた「哲学」という学問。
 時代のエッセンスを取り入れながら姿を変え、現代に至っています。

 哲学の思想は、大きな川の流れに例えられます。
 私たちがいる場所は、まさにその流れの最先端です。

 哲学という大河は、この先、どのような進路をたどって私たちを導くのか。
 興味がありますね。

「人間と同等に会話できるAI」は生まれるか?


 急速に発展するIT(情報技術)革命は、私たちの生活を大きく変えつつあります。
 その中のひとつが、「AI(人工知能)」です。

 膨大な量の情報(ビッグデータ)を短時間で処理する。
 それが可能になったことで、人工知能研究の爆発的な発展が、引き起こされようとしています。

 しかし、はたして人工知能は、人間のような知性(知能)をもつことができるのでしょうか。たしかに規則的な計算や情報処理などは、人間の能力をはるかに超えています。しかし、自然言語での会話を考えると、子どもでさえも可能な自然な会話が、まだできません。文脈に応じて適切に答えたり、問いかけたりすることが、苦手なように見えます。とすれば、人工知能は人間のように対処することができるのでしょうか。
 この問題を最初に提起したのが、「チューリング・テスト」と呼ばれるものです。これは、イギリスの数学者アラン・チューニングが提唱した、一種の模倣ゲームです。彼は、1950年の論文で「機械は考えることができるのか?」という問いを提起し、その確証のためにあるテストを考案したのです。それを簡略化して示しますと、質問者と、壁に隔てられた人間と機械(コンピュータ)が文字のみで交信できるようにしておきます。質問者が、壁の向こうの人や機械に質問(文字入力)をして、どちらが人間かを判定するわけです。
 チューリング・テストについては、1990年以来毎年コンテストが行なわれています。このコンテストでは、5分間の自由会話をして、審査員の30%以上の人たちが「人間」と見なしたとき、合格とされています。今まで、合格者は出てきませんでしたが、2014年に初の「合格者」が誕生した、ということで話題になりました。しかし、コンピュータの専門家からは反論が多く出ているようです。人間と同等に会話できる人工知能は、まだまだ、出現していないようです。

『いま世界の哲学者が考えていること』 第2章 より 岡本裕一朗:著 ダイヤモンド社:刊

チューリング テスト 第2章 P105
図2.チューリング・テスト
(『いま世界の哲学者が考えていること』 第2章 より抜粋)


 チューリング・テストをクリアした。
 だからいって、「人工知能が、人間のような知性をもった」と断定はできません。

 ただ、人工知能の研究は、日進月歩です。
 いずれ、現在の私たちの想像を、はるかに超える人工知能が生まれる日も近いでしょう。
 期待と不安が入り混じります。

「脳」を見れば犯罪者が分かる?


 バイオテクノロジー(生物科学)の進展も目覚ましいものがあります。
 MRIなどにより、これまでブラックボックスとされてきた「脳」の働きが視覚化されました。
 脳のどの部位が、どのような働きに関わっているのか、一目瞭然となったわけです。

 最近の研究では、知的な活動と道徳的な活動が、脳の異なる領域で行なわれていることがわかってきました。
 この問題に、心理学的な立場から取り組んだのが、ハーバード大学の心理学者ジョシュア・グリーンです。
 グリーンは、以下の「トロッコ問題」という仮想実験からアプローチしました。

 トロッコ問題というのは、次の二つの状況を想定するものです。ブレーキの利かない暴走電車の進路の先に、5人の作業員がいるとき、ポイントを切り替えると進路が変わるが、その先には1人の作業員がいる、という状況(A)と、同じく暴走電車の先には5人の作業員がいるが、線路の上の陸橋にいる1人の太った男を突き落とすと5人が助かる、という状況(B)です。
 この二つを質問すると、多くの場合、対立する答えが返ってきます。Aの状況では、「5人を救うために、1人を犠牲にする」のですが、Bの場合には「5人を救うために1人を犠牲にしない」のです。「5人か1人か」という問題なのに、同じ人の内部で答えが変わります。この違いが生じるのはなぜか、長い間論争されてきたのですが、グリーンは脳画像法を使って、一つの解答を与えたのです。
 グリーンによると、Aの状況で判断しているのは、前頭前野背外側部(DLPFC)であり、この部分は冷静に知的な推論を行なうことができます(5人>1人)。これに対して、Bの状況で判断するのは、前頭前野腹内側部(VMPFC)であり、ここでは情動や感情が大きく作用するのです。太った男を落とすかどうかは情動に作用し、動揺させるため、選択されないわけです。(中略)こうして、道徳的な態度と脳の活動が連関づけられるようになったのです。

『いま世界の哲学者が考えていること』 第3章 より 岡本裕一朗:著 ダイヤモンド社:刊

グリーンのトロッコ問題 第3章P161
図3.グリーンのトロッコ問題
(『いま世界の哲学者が考えていること』 第3章 より抜粋)


 知的な活動は、前頭前野背外側部(DLPFC)。
 道徳的な活動は、前頭前野腹内側部(VMPFC)。
 どちらの脳の部位を働かせるかで、人の行動は変わってきます。

 このような研究は、いすれ司法の判断にも影響を及ぼすかもしれません。
 また、教育や医療などの現場で応用が期待されます。

「人間中心主義」は、環境破壊につながるのか?


 今日、「地球環境問題」がクローズアップされています。
 その背景には、1967年に科学史家リン・ホワイト・ジュニアが発表した論文が大きく寄与しています。

 この論文でリン・ホワイトは、「われわれは20世紀の最後の三分の一に入って行くにつれ、生態学的きしみの問題に対する関心が熱っぽく高まりつつある」と語ったうえで、具体的な問題として次のことを明らかにしています。

 人口爆発、無計画な都市化のガン、下水や廃棄物のいまや地理学的となった処分、たしかに人間以外のいかなる動物も、これほど短期間にその巣を汚してしまうことはなかったであろう。

 それでは、このような生態学的危機の原因はどこにあるのでしょうか。リン・ホワイトによれば、かつて人間は自然の一部であったにもかかわらず、18世紀の半ばには、「科学」と「近代技術」が融合することによって、人間が自然を搾取するようになったのです。

 今から1世紀ちょっと前に、それまで全く離れていた活動であった科学と技術が一緒になり、多くの生態学上の結果から判断して、抑制のきかなくなる力を人類に与えたのであった。

 ここまでの議論であれば、ある意味では常識的な論調と言えるかもしれません。近代科学と技術が発展することによって自然界が汚染された――この発想は、よく言われるところです。ところが、リン・ホワイトはこの発想を、キリスト教にまで広げていきます。たとえば、「われわれの科学と技術とは、人と自然との関係に対するキリスト教的な態度から成長してきた」と主張するのです。彼はこの態度を、人間が自然を超越しており、当然自然に対する支配権をもつという考えと説明したうえで、人間中心(anthropocentric)と表現しました。
 彼によれば、キリスト教は人間中心的な宗教であり、人が自分のために自然を搾取することが神の意志であると考えています。そして、19世紀の半ばごろ、この宗教から科学の融合が生まれ、それによって現在の生態学的危機が引き起こされたわけです。
 環境破壊の原因を「人間中心主義」に求めるリン・ホワイトの主張は、現在からみると、ありふれた議論のように見えます。ところが、当時としては、きわめて衝撃をもって迎えられました。というのも、キリスト教や科学技術といった西洋の根幹をなすものが、環境破壊の根本的原因と断定されたからです。そして、この論文以後、生態学的危機の原因として、人間中心主義を批判することが、環境を論じる際の定石になったわけです。

『いま世界の哲学者が考えていること』 第6章 より 岡本裕一朗:著 ダイヤモンド社:刊

 キリスト教の考え方では、自然は、「神が人に与えた恵み」です。
「人が自然を搾取するのは当然のこと」という考え方が主流だったのですね。

 世の中の常識は、時代背景の違いによって大きく変わる。
「地球環境問題」は、そのいい例です。

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 IT、バイオテクノロジー、資本主義制度、宗教、地球環境。
 本書で取り上げられているテーマです。
 いずれも、私たちの生活と密接に関わってくる重要事項ですね。
 これらは、絶対的な答えのない問題、人類にとって「永遠のテーマ」です。
 私たちは、これらの難問と真正面から向き合い、折り合いをつけていく必要があります。

 そのためのツールとなるのが、「哲学」です。
 哲学は、抽象論であり、机上の理論です。
 普段の生活には、あまり訳には立たないかもしれません。
 ただ、普遍的で、大きな問題ほど、その威力を発揮します。

 哲学の特長である「広い視野と長いスパンでのアプローチ」。
 それが、これまで誰も考えつかなかった発想を、私たちに授けてくれます。

 皆さんも、本書を手にとって、時代の最先端をゆく「知」に触れてみてはいかがでしょうか。


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