【書評】『人を見抜く技術』(桜井章一)

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 お薦めの本の紹介です。
 桜井章一さんの『人を見抜く技術──20年間無敗、伝説の雀鬼の「人間観察力」』です。

 桜井章一(さくらい・しょういち)さんは、伝説的な雀士として有名な方です。
「代打ち」として、二十年以上に渡って一度も負けたことがないという無敗伝説を作り、“雀鬼(じゃんき)”の異名を持ちます。

人を正確に見るのに“モノサシ”は不要


 人が人を見るとき。
 ほとんどの場合、自分の思考や価値観などの“モノサシ”を当てて見ています。

 じつは、相手を正確に見るには、そんなモノサシはあまり必要ありません。
 それよりも、本能に近い感覚で素直に相手を捉えることが重要です。

 大切なのは、自分も変化しているのだという自覚と、目の前の変化に対応しようとする柔軟さです。

 つまり、自分のモノサシに囚(とら)われることなく、目の前の変化を感じ取り、柔軟に対応していけば、たえず新しいものが生まれていることに気づき、それを発見できるということ。

 本書には、絶え間なく変化していく物事に対応できる、柔軟な観察力を身につけるヒントがつめ込まれた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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無駄な力みで両手の親指が反る


 桜井さんは、なにかにコンプレックスを感じ、過剰な羞恥(しゅうち)心を抱えて生きている人には、どこかに無駄な力が入っていると指摘します。

 無駄な力の入る身体部分として多いのは、「両手の親指」です。

 パソコンやテレビゲームをやりすぎても親指が反(そ)ってしまうと聞いたことがあるが、過剰なコンプレックスを抱えて生きている人の親指は、自然と反ってしまったのだと思う。力んで生きているから指に変な力が入ってしまう。さらに力んで体を硬直させると、精神的にも影響が出てくる。固定観念に囚われ、心が固まってしまうのだ。
 固定観念は、あらゆるものの本質を見えにくくしてしまう。しかし、固定観念というものは、人間なら誰もが持っているものだ。だから私は、固定観念をそのつど消し、新たにまた書き直すという作業をくり返している。
 はたして、あなたの親指は反っていないだろうか?反っているとしたら、まずは自分の内面と向き合い、コンプレックスを認識し、固定観念と上手につき合っていくことをおすすめしたい。そうすれば徐々に、無駄な力が抜けていくはずだ。

 『人を見抜く技術』 第一章 より 桜井章一:著 講談社:刊

 無駄な力が入っていても、意外と本人は意識できないものです。
「体」と「心」はつながっています。

 体に無駄な力を入れずに、自然に柔らかな状態にする。
 そうすれば、心も、固定観念にとらわれない、柔らかなものになります。

「貧乏揺すり」が秘める意味


 人の癖でも多いのが、「貧乏揺すり」です。
 貧乏揺すりは、不自然な動きなので、周りの人も気づきやすいです。

 貧乏揺すりに限らず、不必要な動きが繰り返されると、それは、やがて癖となります。
 動きの癖は違和感の元になり、いろいろな問題を生み出します。

 たとえば人間は、“まずいな”と感じたときに不必要な動きが出てくることが多い。仕事上のまずいこと、金銭的にまずいことなど、日常生活で頻繁に起こる「まずい」と思う気持ちが無意識のうちに動作として表れるのだ。
「まずいな」と思ったときに出てくる不必要な動作は誰にでもあるものだ。出ない人はほとんどいないといってもいいだろう。この社会で生きていて“まずいこと”がない人はいない。ただ、“まずいこと”が多い人は、それに心が囚われてしまい、不必要な動きも必然的に多くなってくる。
 不必要な動きを収めるには、“まずいこと”は大した問題ではない、全然どうってことないと思うことが大切だ。世の中には美味いものもあればまずいものもある。そう思えば“まずいこと”もどうってことのない問題になる。
 いつもよいもの、美味いものばかり狙っていると、まずいものに出くわしたとき、その対処法に戸惑ってしまう。そしてその焦りは不必要な動きとして体に表れる。「焦るなよ、落ち着けよ」とよくいわれる人は、いつもよいもの、美味いものばかりを狙っているからそうなるのだ。

 『人を見抜く技術』 第二章 より 桜井章一:著 講談社:刊

 料理と同様に、世の中の出来事も「まずいものがあって当たり前」という意識で日々過ごすことで、心も落ち着いた状態でいられます。

 心が落ち着くことにより、体も落ち着き、不必要な動きが収まるということでしょう。

夢や希望がなくても生きられる


 人は母親の胎内から生まれてきたとき。
 まず、「不安」「恐怖」を感じます。

 さらに、すべて親がやってくれる、“裸の王様”の期間に、「依存心」を植え付けられます。

 十月十日の間が体内胎児だとすれば、赤ん坊の頃は“体外胎児”だ。人間には一人ではなにもできない、ふたつの時期があるのだ。そして幼児期に、今度は妄想や幻想も植え込まれる。
 だから、大人になってそれをどうにかごまかそうとしても、もう無理なのだ。妄想や幻想をごまかすために、人は“夢”や“希望”という言葉を使うが、私はそれがおかしくてたまらない。
 夢や希望というものは、妄想や幻想をごまかすためにあるのだということをまずは自覚することが大切だ。夢や希望を錦の御旗(みはた)として掲げたら、それこそ嘘っぱちだらけの人間になってしまう。夢がなければ生きられないとか、希望があるから生きていけるとか、そんなものは人間の“生”とはまったく関係のないことだ。現に、私は夢や希望を抱いたりしたことはない。でも、今、こうして私は生きている。
 夢や希望よりも、私にはそのときどきの環境の中でやらざるを得ないことがあった。その中で自問自答をくり返しながらやるべきことはやる。やりたいことはやる。そんな生き方をしてきた。

 『人を見抜く技術』 第四章 より 桜井章一:著 講談社:刊

 不安や恐怖を感じてしまうのは、ある意味、仕方のないこと。
 それを無理に隠そうとしても、簡単に見透かされてしまいます。

「夢」や「希望」は、現状から目をそらすための手段になりがちです。

「その時その時、目の前のことに集中すること」

 それが周りに惑わされずに、真実を見抜くために重要です。

「愚痴」をいう人は「愚図」な人


 桜井さんは、愚痴(ぐち)は聞かないほうがいい述べています。

 子どもがいうことを聞かず泣き出したりすることを“愚図る”というが、愚痴をいっている大人も、愚図っている子どももたいして変わらない。いくら喚いていても、泣き言をいっても、そこから次の展望が開けることはない。
 いっている本人は愚痴と思っているかもしれないが、それは愚図なだけなのだ。そんな話を聞いていたら、こちらまで愚図になってしまう。愚痴に相槌(あいづち)を打っているのが優しさだと思ったら大間違いだ。愚痴に合わせるということは、自分にもやはり、その愚図な部分があると認めてしまっていることの証(あかし)なのだ。
 愚図の深みにはまりたくないのならば、相手の話が愚痴だと思ったら、すぐに相手の口を閉ざしたほうがいい。その話が相談なのか、愚痴なのか、そのレベルを測ることも必要だろう。愚痴だと判断したら、その話はすぐに打ち切る。愚痴とそれへの相槌からはなにも生まれない。愚図二人が揃い、愚図愚図になるだけだ。
 愚痴をいっても、気分を紛らわすことはできないし、なにかを発散させることもできやしない。愚図というのは引きずっていくものなのだ。だから、なるべく早く、そういう思考を断ち切れなければならない。

 『人を見抜く技術』 第五章 より 桜井章一:著 講談社:刊

 愚痴は、子どもが愚図っているのと一緒。
 そう言われてみれば、その通りです。

 相手の愚痴に付き合わないことは大切です。
 また、自分からも愚痴を言わないようにしなくてはいけません。

 愚痴も癖ですから、自分ではなかなか気づかないもの。
 お酒の席でも、自分の口から出てくる言葉には十分注意を払いたいですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

「明鏡止水」という言葉があります。
 曇りのない鏡と澄んだ水面のように、安らかに落ち着いた心境という意味です。

 曇った鏡や流れの激しい川が、人の姿を映すことはありません。
 同様に、曇った心や落ち着かない心が、人の心の動きを映すことはありません。

 周囲の変化を敏感に感じ取り、真実を見抜く目を持つ。
 そのためにも、日頃からフラットな心の状態でいることを心掛けたいですね。


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