本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『「自分」の壁』(養老孟司)

 お薦めの本の紹介です。
 養老孟司先生の『「自分」の壁』です。

 養老孟司(ようろう・たけし)先生は、著名な解剖学者です。

「自分」とは、どのような存在か?

「自分」という話題について幼稚園のころから考えていたという養老先生。
 当時は病気がちで休むことが多く、よく“登園拒否”をしていたそうです。

 その理由は、行ったときに周りがどう思うのか、それを考えると、イヤだから。
 その裏には、自分以外の人たちでできている世間、そこで安心して行動していいのかどうか、それがわからなかったという心理が働いていました。

 養老先生は「自分とはなにか」といった悩みを抱えたことがありませんでした。
 我を張ることはなく、いつも周囲を見て、周りが一番納まるところに身を置くようにしていたそうです。

 幼い頃から周囲との関係の中での「自分」を意識していた養老先生。

 本書は、知っているようで知らない「自分」について、さまざまな切り口から解説した一冊です。
 豊かな感受性に鋭い視点をもつ養老先生ならではの「自分」論が全編に展開されています。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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意識は自分を「えこひいき」する

「自分」と「世界」を区別しているのは意識の働き、つまり、脳の働きによるものです。
 臨死体験などで、自分という矢印が消えて世界と一体化すると、一種の至福の状態となります。
 自分が世界と一体化するということは、周りに敵や異物が一切ないということだからです。

 養老先生は、どんなに自分のことが嫌いで、自殺を考えているような人であっても、本能的には自分を「えこひいき」して、世界よりも自分のほうを大事に考えていると指摘します。

 自分を「えこひいき」している、と言われてもピンと来ない場合は、子供がよく発する、こんな素朴な疑問について考えてみてください。
「口の中にあるツバは汚くないのに、どうして外に出すと汚いの?」
 なかなか鋭い質問です。たしかに、口の中にツバがあることは気になりません。でも、ツバをコップに溜めていって、一杯分飲めと言われたら、いかに自分のものでもふつうの人は嫌がります。私も嫌です。
 どうしてさっきまで平気だったものが嫌になるのか。これにどう答えればいいのでしょう。なかなか、うまい答えが思いつかないのではないでしょうか。
 この答えは、人間は自分を「えこひいき」しているのだ、と考えればがわかってきます。
 人間の脳、つまり意識は、「ここからここまでが自分だ」という自己の範囲を決めています。その範囲のものは「えこひいき」する。ところが、それがいったん外にでると、それまでの「えこひいき」分はなくなり、マイナスに転じてしまう。だから「ツバは汚い」と感じるようになるのです。もうお前は「自分」ではない、だから「えこひいき」はできない、ということです。
 大便や小便についても同じことがいえます。いかに自分の体から出たものとはいえ、便を汚いと思うのがふつうです。しかし、体内にあるうちはその汚さを気にしないのもまた事実です。「あんな汚いものが体内にいつもあるなんて耐えられない」という人は、ちょっと問題があります。
(中略)
「自分」というものを確固としたもの、世界と切り離されたものとして、立てれば立てるほど、そこから出て行ったものに対しては、マイナスの感情を抱くようになる。「えこひいき」すればするほど、出て行ったものは強いマイナスの価値を持つようになるのです。
 さっきまで便はお腹の中にあった「自分」の一部だった。その時には別に汚いなんて思いません。でも、出て行った途端に、とんでもなく汚いものに感じられる。早く目の届かないところにやってしまいたい。だからサーッと流していまえる水洗トイレがいいのです。

 『「自分」の壁』 第1章 より 養老孟司:著 新潮社:刊

 私たちは、数秒前まで自分の体の中にあったものも、いったん外に出てしまうと異物、つまり、「自分」以外のものと意識は判断します。
 つまり、脳の決めている「自分」と「自分以外」の境界線は曖昧なものだということ。

 人種や宗教の問題から環境問題、いじめに至るまで、すべての社会的な問題の根本にあるもの。
 それは、意識の持っている「えこひいき」だということが見えてきますね。

「オリジナリティ」と「学問」

 日本の伝統芸能の世界では、入門した弟子は、まず徹底的に師匠の真似をします。
 ただ、師匠と弟子は別の人間ですから、どんなに真似をしようとしても違うところがでてきます。
 その違いこそが、「個性」となります。

 養老先生は、徹底的に真似をすることから個性は生まれると述べています。
 ところが、他の分野の世界では、最初から「オリジナリティ」、つまり個性を発揮することを求められることが多いです。

 養老先生は、この問題について、かなり真面目に考えました。

 結論は、そんなオリジナリティを求めても仕方がない、ということでした。むしろ世間と折り合うことを知る。世間並みを身につける。
 それでもどこか変なところが残れば、それが個性なのです。
「いいやつだけど、あいつのあの部分だけはしょうがないんだよね」と世間が言ってくれるようになれば、認められたということでしょう。
 きっと会社などの組織でも「あの人はしょうがない」と言われる人がいるはずです。それはいい意味の場合もあれば、あきらめられている場合もあるでしょうが、いずれにしても、その人の個性は何らかの形で受け入れられている。
 問題は、それぞれの人が個性を発揮するには、世間のほうがきちんとしていなければならないという点です。伝統芸能の例でいえば、師匠が基礎をきちんと学んで、その道をきちんと歩んでいるからこそ、徹底して真似る甲斐があるわけであって、でたらめな人だったら、どうしようもありません。
 ところが、今は世間のほうがきちんとしていない。それなのに、なおかつ人々に「個性を発揮せよ」と言っている状態です。世間が基準を失ってしまっていて、せいぜいきちんとある基準は大学受験とかその程度のものです。これでは若い人は困ってしまいます。
 本来は、人生はどうやって生きていけばいいか、といったことについての世間の基準、ものさしがあるべきなのに、それが揺らいでしまっている。そのくせ「個性を持て」だから、若い人がわけもわからず「自分探し」をしたがるというのが現状です。これは気の毒に思えます。
 実際には、「本当の自分」なんて探す必要はありません。「本当の自分」がどこかに行ってしまっているとして、じゃあ、それを探している自分は誰なんだよ、という話です。

 『「自分」の壁』 第2章 より 養老孟司:著 新潮社:刊

 確かなものだと思っている「自分」は、実際にはとても曖昧で変わりやすいものです。

 養老先生は、「本当の自分」は、徹底的に争ったあとにも残る。むしろ、そういう過程を経ないと見えてこないという面があると指摘します。
 
 出そうと思って出すのは、本当の個性ではない。
 どんなに頑張って消そうと思っても消えない部分、それが本当の個性です。

「無関心」もまたよし

 養老先生は、政治と生活のかかわりは、そんなに大きくないと考えてもいいのではないかと述べています。
『政治のシステムは後から入ってきたもの。だから、政治と生活は関係していないし、それで何とかなる』との考えからです。

 意識的に政治を考えることを放棄しろとまで言うつもりはありません。普通に生活していても、必要な時には興味を持たざるをえないし、時には直接かかわらないといけなくなる。
 私だって、政治にはかかわりたくないけれども、森林のことを考えていくうちに、ずいぶんかかわらざるをえなくなりました。C・W・ニコルさんは、私よりも積極性があるから、自分で森林を買って育てている。三十年がかりの仕事です。このほうが、政治よりもよほど現実を動かしているのではないでしょうか。
 表に出る言説では「この国を根本から変えるべきだ」といったものがあります。街中で、「この国を根本から変えるべきでしょうか」と聞けば、「その通り」と答える人もいるでしょう。でも、ホンネでは多くの人はそんなことを望んでいません。ここまでシステムができあがった国で、そんなに困らずに生活ができていれば、革命なんか望むはずがありません。
 日本のような煮詰まった状態の国では、政治の出番は大してない。万事が必然だからです。「これが悪い」ということにも、ある程度は存在理由があることが多い。
 つまり根本から変えることに、あまり必然性がない。それが保守の立場であり、自民党的ということです。日本の多くの政党は、自民党の派閥のようなものです。
 政治的無関心というものが広がっているとすれば、それは単に切羽詰まっていないと感じている人が多い、ということに過ぎません。
 ずいぶん前の話ですが、川崎の市長選挙で投票率が二十パーセント台ということがありました。その時、私は「川崎市民は別に市長なんか要らないと考えているのだろう」と書きました。七割以上が投票に行かないのならば、そう考えるほうが自然でしょう。憂慮する人がいるのもわかりますが、いてもいなくても構わないような市長がトップにいても何とか回っているということは、それはそれでいいのではないでしょうか(川崎市長の能力をどうこう言っているのではありません)。

 『「自分」の壁』 第7章 より 養老孟司:著 新潮社:刊

 みんながみんな、政治に関心を持っていることがよいことかというと、そうではありません。
 戦時中にみんなが関心をもっていたのは、政治と戦争の状況のことだけでした。
 政治に関心を持たない人が多い世の中は、平和で豊かな世の中の裏返しだともいえます。

「情報過多」の問題

 現代は「情報過多」の時代だといわれています。
 インターネットやスマートフォンなどのIT(情報技術)の発達で、どこにいてもほしい情報をいくらでも得ることができるようになりました。
 なにか知りたいことが出てくると、それを入力して「検索」とクリックすれば、たいていのことは調べることができます。

 養老先生は、簡単に「答え」を得ることができてしまう現代の環境に警鐘を鳴らします。

 何が問題か。それは数学を教わるのと同じようなものだからです。基本的に数学は教わってはいけない学問です。歴史などは、すでに事実とされている知識をおぼえていかないと、話が進みません。ふつうの人が、自ら史実をいちいち掘り起こす必要はない。
 数学の場合は事情が異なります。問題の解き方や答えを丁寧に教わると、かえって力がつきません。応用問題ができなくなるからです。
 もちろん、いくら何でもイコールの意味とか、基本的なことは人に教わらざるをえないという面はあります。実際の教育現場では、公式を教えることも仕方がないでしょう。すべての生徒に、二次方程式の公式を発見させるのは骨が折れます。
 しかし、公式を丸暗記することには意味がありません。生徒の側は、公式を教わったうえで、なぜそれが成り立つのかを、最初から自分でもう一回やってみなくてはいけません。その手間が必要なのです。
 現実のテストでは、公式を丸暗記しておくだけで、正解を出せる問題もあるでしょう。だから、それでテストの点数はある程度取れるかもしれません。
 しかし、それでは考える力が身についたことにはなりません。
 公式の丸暗記というのは、単なる知識を増やしているにすぎないのです。
 数学の場合は、公式を導き出すまでの論理が大切で、その論理をつくることが、考える、ということです。
 もしも公式を導くのが難しいとすれば、それは時間をかけないからです。
 数学ができない人の典型的な思考パターンは、「2aマイナスaは?」と聞かれて「2です」というやつです。念のために言っておきますが、正解は「a」です。
 では前者が絶対に間違いかといえば、そんなことはありません。2aからaを取れば2になる、というのは、数学とは別のルールのうえでは正しいとされることもあるのです。しかし、数学のルールでは違う、というだけです。これがわからない子どもには、「2aとは、aが二つあることを簡略化して書いているんだよ」というところから丁寧に説明しなければいけない。それは少々面倒かもしれませんが、そうむずかしい話ではない。
 ところが、丁寧に説明することを怠るから、ついていけない子どもが出てくる。そこでつっかえた子どもは、「算数って無茶苦茶だよ」と抵抗する。その抵抗は自然な反応ですから、それを乗り越えられるようにすればいいだけの話です。
 そういう過程を経ないで、ただ「2aマイナスaイコールaだ。つべこべ言わずにおぼえろ」と頭に叩きこませたところで、数学ができるようになるわけではないということは、おわかりでしょう。
 ネットで検索すれば、「答えのようなもの」はたくさん出てきます。そうした情報があふれています。しかし、さほど意味のない知識も多いのです。

 『「自分」の壁』 第9章 より 養老孟司:著 新潮社:刊

 社会に出てからの問題は、決まった答えや解き方のある問題ばかりではありません。
 むしろ答えの出ていない問題、自ら答えを作り出す必要のある問題で悩むことの方が多いです。

 前例のない問題、答えなき問いを解く。
 そのために大切なのは、すでにある答えではなく、答えを導き出す論理です。

 論理力は、ひとつの問題をとことんまで考え抜くことで鍛えられます。

 今の世の中、インターネットで「答え」を求めることは簡単です。
 しかし、それに依存し過ぎると、答えを導けない問題にぶつかったとき、どうしていいのかわからなくなりますね。

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 養老先生は、「自分」とはあくまでも周りの世界があってこそ、だと強調されています。

 本来は、「自分」と「自分以外」を分ける境界線はありません。
 その区分けをしているのは意識の働きですが、それもかなり曖昧なものですね。

 私たちは、「自分」という存在を、一個人としての「自分」という意識で区切られた狭い範囲で考えてしまいがちです。

 全体のなかにうまく調和しつつも、自分の個性を発揮する。
 自分は「全体のなかの一部」である。

 これからの時代は、そのようなひとつ高い視点が重要になってきます。
「自分」の在り方を見つめなおすきっかけになる一冊です。

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