【書評】『理不尽に勝つ』(平尾誠二)

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 お薦めの本の紹介です。
 平尾誠二さんの『理不尽に勝つ』です。

 平尾誠二(ひらお・せいじ)さんは、元ラグビー日本代表選手であり監督です。
 大学時代に史上初の大学選手権三連覇を成し遂げ、入社した神戸製鋼では、七年連続日本一を経験されています。
 W杯にも三大会連続で出場されるなど、一時代を築いた名選手です。

「理不尽」こそ、成長の糧になる!


「一生懸命やっているのに、どうして報われないのか」
 そんな悩みを抱えている人は多いのではないでしょうか。
 組織の中では、とくに若い人や地位の低い人ほど強く、そのような思いを抱きがちです。

 世の中の仕組みは、決してフェアではありません。
 生まれからして平等ではない人間同士がつくりだしものですから、当然といえば当然ですね。
 人間が不完全である以上、世の中から理不尽さがなくなることはないでしょう。
 私たちは、その理不尽な社会の中を生き抜いていかなければなりません。

 絶望の縁からはい上がり、前に進んでいくためには力がいります。
 理不尽に立ち向かうには、強い気持ちが必要です。

 平尾さんは、「状況を変えるには、自分が変わるしかない」と指摘しています。

 人は理不尽を経験すればするほど、より大きな理不尽を体験すればするほど、鍛えられ、強くなれる。間違いなく成長する。そして、理不尽が大きければ大きいほど、それに打ち克ち、乗り越えた時の喜び、達成感は大きくなるとのこと。

 本書は、理不尽の必要性を解説し、理不尽に屈せず、それを乗り越えるヒントをまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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理不尽だからおもしろい!


 理不尽を前向きにとらえる。
 そのためには、「そこにおもしろさを感じられるかどうか」も大きなポイントです。

 平尾さんは、見方を変えれば、理不尽は「おもしろみ」ととらえることもできると述べています。

 その最たるものがラグビーだと私は思っている。ラグビーというスポーツは、基本的には「陣地取り」ゲームといえる。ボールをキーブしながら前方に運んでいって、最終的に相手ゴール内にボールを置けば「トライ」となり、得点が入る。
 ところが、前に進むことを目指す陣地取りゲームでありながら、ボールを前に放ってはいけないのがラグビーなのだ。後ろにパスをしながら前に進んでいかなければならない。これほど矛盾を抱えているというか、理不尽なことはないだろう。
 加えてラグビーは、前にも述べたが、接触が多い格闘技としての面が強いにもかかわらず、柔道やボクシングのようなウェイトによる階級制をとっていない。ラグビー日本代表は、ヨーロッパや南半球では標準の、1メートル90センチ、120キロクラスの大男たちと徒手空拳(としゅくうけん)で戦わなければならない。日本にとって理不尽なのは事実だろう。
 じつは、ラグビーにかぎらず、ほとんどのスポーツには理不尽がつきものだ。なかでもサッカーとかゴルフとかテニスとか、イギリスで生まれたスポーツにその傾向が強い。
 サッカーは得点を奪うことが目的なのに、人間の最大の武器といえる手を使うことを禁じているし、オフサイドというルールをつくったり、ゴールキーパーを置いたりして、得点することをさらに難しくしている。ゴルフはもともと狙う穴が小さいうえに、わざわざ草むらや砂場や池や林をつくり、さらにグリーンに微妙なアンジュレーション(起伏)をつけるなどして、小さなボールをカップに入れることをいっそう困難にしている。
 でも、だからこそ、スポーツはおもしろい。
 イギリスでは教育のひとつとしてスポーツが採り入れられており、そのせいか、とくに日本ではスポーツの教育的価値ばかりが指摘されることが多い。けれども、じつはそれは後づけで、初めは楽しむためのもの、娯楽だったに違いないと私は思っている。そして、よりゲーム性を高め、楽しみを増加させるためには、理不尽なルールを設けたほうがいい――そう考えたのではないだろうか。そうすると、プレーするほうも観るほうも、よりエキサイティングするからだ。

 『理不尽に勝つ』 第1章 より  平尾誠二:著  PHP研究所:刊

 スポーツは、あえて理不尽なことを付け加えることで、よりエキサイティングなものになります。
 世の中の理不尽も「自分の人生のゲーム性を高め、楽しみを増加させるためにある」と発想を転換すれば、状況を楽しむことができます。
 理不尽を乗り越えようという力も湧いてきますね

媚びない、キレない、意地を張らない


 平尾さんは、高校三年でキャプテンに就任し、意識の低い部員をまとめるためにもがき苦みながらも、日本一の座を手に入れました。
 その体験から「リーダーが備えるべき条件」として、「媚びない、キレない、意地を張らない」の三つを学びました。

 まず、なぜ「媚(こ)びない」ことが大切なのか。「媚びる」とは、言葉を換えれば、自分に確固たる意志と自信がないということだ。自分なりの尺度や考えがないから、周りと意見が違ったりして衝突すると不安になり、つい妥協しようとしてしまう。
 でも、それでは周りの人間になめられてしまうし、足元を見られてしまう。言葉にも説得力を持ちえない。何より、周囲に迎合(げいごう)したり、すり寄ったりしては、状況は何も変わらない。理不尽の側に身を寄せることで気持ちは楽になるかもしれないが、だからといって、理不尽な状況はいっさい解決しない。
 そもそも、理不尽に感じるのは、自分が「よかれ」と思っていることをしているのに、物事が進展しないことが原因になっているケースが多いはずだ。だとすれば、周囲に妥協するなんて、本末転倒(ほんまつてんとう)というしかない。
 次の「キレない」を心がけていたのは、キレてもまったく意味がないからだ。普段は冷静な人間がたまにキレるのはそれなりの効果があるけれど、しょっちゅうキレていては周りはついてこない。一瞬の鬱憤(うっぷん)晴らしにはなるけれど、事態は好転するどころか悪化してしまう。だから、キレてはいけないのだ。
 そして、最後の「意地を張らない」は、「媚びない」ことと矛盾する、もしくは「媚びる」ことと同じではないかと思われるかもしれない。けれども、「媚びない」というのは、ある種の達観というのか、「自分の信ずるところを見失わないということ」だといっていい。対して、「意地を張る」というのは、「無理やり我を通す」という感じだろうか。
 こちらが意地を張れば、相手も意地になる。そうなれば、最終的な目的地、つまり最初に掲げた理想に辿(たど)りつくことはますます難しくなってしまう。だからキャプテンとしての私は、ほかの部員と真っ向から対決することはなかった。一種の正義感から対決しても、「キレる」のと同様、自己満足にしかならない。それで状況が好転するかといえば、おそらくならないのだ。

 『理不尽に勝つ』 第2章 より  平尾誠二:著  PHP研究所:刊

 リーダーたるもの、自分の信念やビジョンを持っていなければなりません。
 それがころころ変わるようでは、ついていく人も不安になります。

 とはいえ、自分の思い通りにならないからとキレてばかりいたら、人の心は離れていきます。
 リーダーには、剛柔あわせ持った度量の大きさが求められるということですね。

「勤勉」はいいことなのか?


「勤勉」であることは、日本人の美徳であると、よくいわれます。
 しかし、平尾さんは、「勤勉さ」がことさら称賛される日本社会の風潮に違和感を感じています。

「日本人の勤勉さが戦後の高度成長を支えたのだ」
 そういう言説をよく聞く。そして、それは事実だろう。戦争によってマイナスからのスタートになったうえ、資源に恵まれていないにもかかわらず、先進国の仲間入りをし、それどころか一時は世界有数の経済大国になった。その根底には日本人の勤勉さ、生真面目さがあったと私も思う。
 ただ、そのことが強調されるあまり、勤勉に見えない人の評価はとても低くなってしまっている。でも、私は思うのだ。
「必ずしもそうではないんじゃないの?」
 ラグビー選手を見るかぎり、さぼり癖のある選手のほうがじつは練習を真剣にやっている。これは厳然たる事実だ。ふだんは「練習がいやだ」とか「休みたい」とか言って、ちゃらんぽらんに見える奴のほうが、やるときは集中して真剣にやる。
 現に、毎日行っていた全体練習を週三回に減らした神戸製鋼ラグビー部は、毎日のように練習しているチームを制して日本一になった。神戸の部員はみんな全体練習以外に個人練習をしていたのは事実だけれど、練習時間が大幅に減ったのはたしかだ。それでもわれわれは勝った。
 どうして勝てたかといえば、やはり練習の密度が高まったことが大きかったと思う。量より質というか、短くなったぶん、集中力が明らかに上がった。時間を無駄にしたくないから、みんな課題に貪欲(どんよく)に取り組んだ。
「勤勉さがことさら強調されるなんて、すごく低次元の話じゃないの?」
 私はつねづね感じていた。勤勉さがことさら称賛されるのは、悪く勘ぐれば、「自分はこれだけがんばっているんだ」と周囲にエクスキューズ(言い訳)するためではないだろうか。
 もちろん、ほんとうに勤勉であるならすばらしいことだし、評価されるべきだ。でも、なかにはいわば「練習のための練習」にだらだらと時間を費やしている人もいる。だから、「勤勉が美徳との価値観は、ほんとうに正しいのか」と、一度見なおしたほうがいいのではないかと私は思う。少なくとも、「勤勉に見せかけている人」より、「ちゃらんぽらんに見えるけどやる時はやる人」のほうを高く評価するべきだろう。

 『理不尽に勝つ』 第3章 より  平尾誠二:著  PHP研究所:刊

 勤勉な人は、プロセスにこだわり、努力したこと自体に満足してしまいがちです。
 結果が出なくても、「あれだけ努力したのだから」と納得して終わりです。
 仕事で結果が出せない人に限って、夜遅くまで残業しているパターンです。

 大切なのは「やる気」と「集中力」と「向上心」。
「練習のための練習」にならないよう、気をつけたいですね。

幸せの基準はひとつではない


 最近の内閣府の世論調査によると、日本の二十代の約70%が「現状の生活に満足」と答えています。
 一方、別の機関の調査では「二十一世紀は人類にとって希望に満ちた社会になるだろうか」という問いに対しては、62%強が「そうは思わない」と答えているとのこと。

 将来を悲観し、無気力で向上心に欠けているようにみえる今の若者を叱咤(しった)する人たちが多いのは事実です。
 それについて、平尾さんは、かつての若者と今の若者では、幸せの尺度が違うと指摘しています。

 そもそも、自分がかつて描いたような夢や希望を今の若者が持っていないからといって、「今の若い奴は不幸だ」と決めつけ、若者を貶(おとし)めたり憐(あわ)れんだりするのはおかど違いだろう。もちろん、自分のイメージする夢や希望や目標を若者に押しつけるのも間違っている。
 それは結局、「今の若い奴に比べて、おれたちはしっかりしてたよな」と、たんに自分を肯定したいからではないのか。あるいは、自分たちが実現できなかったことを今の若者に託している、もしくは「これからも若者は、そして未来はこうあってほしい」という勝手な願望、思い込みにすぎないのではないだろうか。
 だから、若い人もそんな年寄りの戯言(たわごと)は聞く必要がないし、もし言われたら、聞き流していればいい。
 そのうえで、「でも・・・・」と、私はあらためて思う。
「やはり、夢や希望を持つこと。明日を楽しみに待てることは大切だ」
 たしかに、これまでの価値基準でいう幸せという意味では、これ以上幸せになることはできないかもしれない。でも、かつての若者と今の若者の幸せに対する尺度が違うように、何をもって幸せと感じるかの基準はひとつではない。幸せかどうかを決めるのは、他人ではない。自分自身だ。今までの尺度ではかれば、あるいは他人から見れば、必ずしも幸せとみなされないようなケースであっても、本人は幸せだと感じられることもあるはずだ。
 そうであるならば、今以上に幸せになることは決して不可能ではなく、十分可能なのではないか。その実現に向けて、日々を能動的に生きることはできるのではないか・・・・。

 『理不尽に勝つ』 第4章 より  平尾誠二:著  PHP研究所:刊

 世の中の格差はますます拡がるばかりで、それにつれて理不尽もますます増えていきます。
 世の中のシステムが不公平さを作りだしているのならば、それにとらわれない新しい「幸せの尺度」を自分で考えだす必要があります。
 幸せになるための“マイ・ルール”をみつけて、日々を能動的に生きていきたいですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

「世の中はすべての人に公平であるか」
 そう問われても、「イエス」とは決していえない厳しい現実があります。

 世の中は理不尽なことばかり。
 だからといって、そこで諦めてしまっては何も変わりません。
 理不尽に対して真っ向からぶち当たることも、ときには重要です。
 行く手をさえぎる壁が高ければ高いほど、乗り越えたときの感動も大きくなります。

 求められるのは、倒されても、何度でも立ち上がって再びチャレンジする不屈の精神。
 海外の巨漢選手と対峙(たいじ)しても怯(ひる)むことなく、捨て身のタックルで自らの活路を切り開いてきた平尾さん。
 私たちもぜひ、その姿勢や考え方を見習いたいですね。


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