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【書評】『一般意思 2.0』(東浩紀)

 お薦めの本の紹介です。
 東浩紀さんの『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』です。

 東浩紀(あずま・ひろき)さん(@hazuma)は、哲学者、作家です。
 ご専門は現代思想、表象文化論、情報社会論です。

「一般意志」の新しい定義とは?

 本書は、「民主主義の可能性」について論じた本です。

 東さんは、民主主義の理念は、情報社会の現実のうえで新しいものへと「アップデート」できるし、またそうするべきだと主張します。

 情報技術が張り巡らされた社会の出現。
 それは、民主主義そのものを変え、政治や統治のイメージそのものまで変えてしまいます。

 カギとなるのは、「一般意志」と呼ばれる概念です。
 この言葉は、ジャン・ジャック・ルソーの造語で、「人民の総意」という意味です。

 ルソーは、1712年生まれのフランス語圏を代表する思想家で、政治思想書『社会契約論』の著者としてもっともよく知られています。

 東さんは、ルソーがその言葉に込めた思想は、2世紀半経ったいま、コンピュータとネットワークに覆われた情報社会の視点で読むと、驚くほどすっきりと、シンプルかつクリアに理解できる、と述べています。

 本書は、ルソーが考えついた概念を基に、グーグルやツイッターなどのソーシャルメディアと読み替えて、「一般意志」の新しい定義に迫り、そこから浮かび上がる「もうひとつの民主主義」の可能性を説く本です。
 その中から印象に残った部分をいくつかご紹介します。

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「一般意志」とは、「個人の意志の集合体」

 ルソーの考えついた「一般意志」とは、どのようなものなのでしょうか。
 ルソーにとっての社会契約とは、人民ひとりひとりが「自分の持つすべての権利とともに自分を共同体全体に完全に譲渡すること」を意味します。

 東さんは、社会契約が社会(共同体)を作り、その結果生まれるのが、個人の意志の集合体である共同体の意思、すなわち「一般意思」だと説明しています。

 ここで重要なのは、ルソーの考える社会契約が、政府(支配者)と臣民(被支配者)のあいだの契約ではなく、人と人とを「結合」させ、支配者も被支配者もともに属するところの共同体を生み出すためのものだということです。

 共同体の主権者は、あくまで「一般意志」です。

 市民は、一般意志に絶対に従わなくてはなりません。
 具体的にだれがその意思を担い統治を実現するにしても、それが大前提となります。

 政府は一般意思の手足にすぎない。これは、一般意思を実現するためにはさまざまな統治の形態があることを意味している。それゆえ、一般に抱かれているイメージとは異なり、じつは『社会契約論』は、国民が政府を運営するという意味での「民主主義」を決して擁護していない。たとえば彼は第三篇で、国家のおかれた地理的あるいは人口的な条件によっては、一般意思の執行には民主主義より君主制のほうが適するとあっさり記している。人民全員でひとつの意思を形成すること(一般意思)は、ルソーの構想においては、必ずしも人民全員で政府を運営すること(民主主義)に繋がらない。彼にとって重要なのは、国民の総意が主権を構成していること(国民主権)、ただそれだけなのであり、その主権が具体的にだれによって担われるかは、国民が望むのであれば王でも貴族でもだれでもよいのである。
(中略)
 社会契約は、あくまでも個人と個人のあいだで結ばれるものであり、個人と政府のあいだで結ばれるものではない。主権は、人民の一般意思にあり、政府=統治者の意思にはない。これが『社会契約論』の中核の論理だ。

 『一般意志 2.0』 第二章 より   東浩紀:著  講談社:刊

 ところで、一般意思と「全体意思(みんなの意思)」とは違うものです。
 どちらも、「特殊意思(複数の個人の意思のこと)」の集合を意味しますが、定義が異なります。

 全体意思は、[全体意思を構成する]特殊意思の単純な和にすぎません。
 一方、一般意思は、その単純な和から「相殺しあう」ものを除いたうえで残る、「差異の和」と定義されます。

 このふたつを私たちの知っている概念で例えると、全体意思は、体積や重さのように方向がない「スカラー量」の総和であり、一般意思は速度や加速度のように大きさと方向を持った「ベクトル量」の総和と表せます。

 東さんは、一般意思は政府の意思ではなく、個人の意思の単純な総和でもなく、数学的存在であると強調します。

「総記録社会」が生み出す巨大なデータベース

「一般意志は数学的存在である」

 それは、すなわち、「少数の代表者が作り出す合意」のようなものが介在できるようなものではなく、その方向性と強さが自動的に決まってしまうものであるということです。

 では、情報技術の発達と、ルソーのいう「一般意志」がどのように結びつくのでしょうか。

 東さんは、現代社会は、人々の意志や欲望を意識的なコミュニケーションなしに収集し体系化する機構を「現実的に」整備し始めていると言えるとの主張を展開します。

 現代社会は、リアルでもネットでも見境なく、膨大な個人情報を蓄積し始めている。いまはグーグルやツイッターの例を挙げたが、むろんそれはYouTubeでもFlickrでもフェイスブックでもいいし、またUstreamでもいい。というよりも、クラウド化の進む業界においては、そのようなサービスごとの区別すらもはや意味をなさなくなっていると言うべきかもしれない。アメリカではすでに、フェイスブック、Youtube、ツイッターなどさまざまなソーシャルメディアを横断し、それぞれのサイトで交わされる消費者の呟きを収集し分析することで、ブランド価値の推移を可視化するサービスが生まれているという。総記録社会が生み出す巨大なデータベースは、人々の欲望の在処(ありか)を、250年前のルソーが想像もおよばなかったようなかたちで浮かびあがらせている。
(中略)
 わたしたちはいまや、ある人間がいつどこでなにを欲し、なにを行ったのか、本人が記憶を失っても環境のほうが記録している、そのような時代に生き始めている。実際、現代社会はすでに、本人の記憶ではなく、記録のほうをこそ頼りに、ひとが評価され、雇用され、ときには裁かれる事例に満ち始めていないだろうか。たとえば、ネット検索だけを頼りに、政治家や芸能人の発言の齟齬(そご)を発見し揚げ足取りに夢中になっているネットユーザーを思い起こせばいい。
(中略)
 いずれにせよ、来るべき総記録社会は、社会の成員の欲望の履歴を、本人の意識的で能動的な意思表明とは無関係に、そして組織的に、蓄積し利用可能な状態に変える社会である。そこでは人々の意思はモノ(データ)に変えられている。数学的存在に変えられている。 

 『一般意志 2.0』 第五章 より   東浩紀:著  講談社:刊

「人々の意志はモノ(データ)に変えられている」

 いわゆる、「ビッグデータ」と呼ばれる巨大なデータベースの存在です。

 東さんは、この膨大な記録の集合であるデータベースそのものが一般意志なのだと主張します。
 そして、ルソーに忠実な意味での「一般意思」を「一般意思1.0」、ルソーのテクストを総記録社会の現実に照らして捉え返し、それをアップデートして得られた概念を、「一般意思2.0」と区別します。

「総記録社会」の目指すべき国家

 情報技術の進歩によって蓄積されるようになった、つぶやきや画像、動画などの膨大な記録。
 それらのほとんどは、支離滅裂な文章、頭の中で考えていることがそのまま表れたものです。

 本書の中の言葉を借りれば、便所の落書きと同じです。

 東さんは、このようなインターネットの、無意識を記録し、万人の目に見える形として保存する特徴を「無意識の可視化装置」と位置づけます。

「無意識」は、19世紀の精神学分析学者であるフロイトの提唱した概念です。
 東さんは、一般意思2.0をこの「無意識」の欲望の集合体であると捉えようとします。

 つまり、ブログやツイッターなどのテクスト系のサービスから、FlickrやYoutubeなどの画像動画系のサービスまで、ネットで公開し蓄積し始めている大量の個人情報は、人々の意識というより、「無意識」だと捉えるべきだと主張します。

 21世紀の国家は、熟議(意識)の限界をデータベースの拡大により補い、データベース(無意識)の専制を熟議の理論により抑えこむべきとのこと。

 だからおそらくは、国家もまた熟議のみに導かれ統治されなくてもよいのだ。そもそも国民国家の統治は膨大な量のデータ(無意識の可視化)がなければ立ち行かない。それはべつにネットの出現を待つまでもなくいままでの社会でも明らかで、国勢調査による個人情報の収集や公衆衛生や社会保障の整備こそが近代国家の権力――「生権力」――の柱をなしていることは、有名なフーコーの権力論の中核にある主張だ。しかし総記録社会の誕生は、そのデータの質と精度を決定的に変えてしまったように思われる。分析医が病者の無意識を丸裸にするように、情報技術はいま国民の無意識を丸裸にしつつある。だからこそわたしたちは、これからはその無意識をこそ統治に活かす手段を編み出さなければならない。それが本書の第一の主張だ。
 しかし、それは必ずしも、来るべき国家が無意識すなわちデータベースの奴隷となることを意味しない。わたしたちは、無意識の欲望につねに脅かされながらも、その抑制にときには成功し、ときには失敗し、さまざまな葛藤を抱えながらなんとか自我の統一を守っている。同じように国家も、ネットワークとコンピュータが産出する=無意識の欲望に脅かされ、その抑制にときには成功し、ときには失敗しながらも、よろよろと統治を進めていけばよいのである。まずいのは、むしろそこで自分の無意識の欲望を無視してしまうことだ。それが本書の第二の主張ということになる。

 『一般意志 2.0』 第八章 より   東浩紀:著  講談社:刊

「人間は意識のみに導かれて生きているのではない。人間は無意識がなければ生きていけない。そして無意識はときに意識の敵となる」

 それが、フロイトの発見でした。

 意識と無意識、双方の意思を汲み取らないと、民主主義は立ち行かなくなります。

 巨大な無意識の塊である「データベース」と、人間の意志の働きである熟議。
 それらをうまく組み合わせた、新しい統治機構の仕組みを作り出す必要があります。

「無意識民主主義」による政治制度導入

 東さんは、直接民主主義でも間接民主主義でもない、いわば「無意識民主主義」とでも呼ぶべき、まったく別の原理に基づく政治制度の導入を提案しています。

 来るべき国家においては、有権者が責任をもって民意を託す選挙、およびそのまわりに張り巡らされる熟議の空間(各種審議会、委員会、討論会、パブリックコメント、さらには論壇誌やブログ、そしてテレビ――すなわち国政を頂点として組織される膨大な言論空間)とは別に、大衆の不定形な欲望を対象とする巨大な可視化装置が準備されなければならない。
 筆者はつぎのような光景を夢想している。国会議事堂に大きなスクリーンが用意され、議事の中継映像に対する国民の反応がリアルタイムで集約され、直感的な把握が可能なグラフィックに変換されて表示される。舞台俳優が観客の反応を無視して演技を進められないように、もはや議員はスクリーンを無視して議論をすすめることはできない。すぐれた演説には拍手が湧くだろうし、退屈な答弁には野次が飛ぶだろう(ネットワークに投稿されると考えてみたい)。視聴者も民意を付託された議員だけである。しかし、視聴者の反応がそこまで可視化された状況で、私利私欲や党利党略で動くのはなかなか勇気がいるはずだ。そこでは、議員は、熟議とデータベースのあいだを綱渡りして結論を導かなければならない。
 
 あらゆる熟議を人民の無意識に曝すべし。ひとことで言えば、それが本書が掲げる未来の政治への綱領である。

 『一般意志 2.0』 第一一章 より   東浩紀:著  講談社:刊

 このような提案が、大衆迎合主義(ポピュリズム)の強化につながるとしても、その流れは押しとどめることはできない。
 ならば、最初から組み込んでしまったほうがよい。

 それが東さんの考えです。

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 250年前のルソーの考えついた「一般意志」という概念を、現代の情報社会に当てはめて、新しい民主主義の姿を浮かび上がらせよう。
 そのスケールの大きな構想に圧倒されます。

 東さんは、日本こそ、この「一般意志2.0」に基づいた民主主義が真っ先に達成されるのではないか、そして、本書の構想こそが、日本の政治の危機と混乱を好機へと変える、逆転の柱になるのでないかとおっしゃっています。

 本書からは、近い将来、そのような「夢」が現実になるのでは、と思わせてくれるのに十分な説得力と可能性を感じ取ることができます。

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