本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『静寂の技法』(ジャスティン・ゾルン他)

お薦めの本の紹介です。
ジャスティン・ゾルンさんとリー・マルツさんの『静寂の技法 最良の人生を導く「静けさ」の力』です。

ジャスティン・タルボット・ゾルン(Justin Talbot Zorn)さんは、経済学者・心理学者です。
アメリカ合衆国議会で政策立案者や瞑想講師としてもご活躍されています。

リー・マルツ(Leigh Marz)さんは、主要な大学や企業、連邦政府関係機関を対象とするコラボレーション・コンサルタントでリーダーシップコーチです。

答えは「静寂」の中にある

あなたが体験した最も深い静寂は、どんなものだったでしょうか。
それは、必ずしも聴覚的に静かな、完全に無音の状態とは限らないかもしれません。

著者は、深遠な静寂の時間は、驚くほど高デシベルの状況で訪れることがあると指摘します。

 轟音を立てる急流を一直線に進んでいるとき。

耳をつんざくようなセミの大合唱のさなかの、深い森の中の夕暮れ。

込み合ったダンスフロアでビートを刻む音楽にすっかり身を委ね、自意識を失くしたとき。

これらの信じられないほど多様な深い静寂のすべてに、唯一共通するものがあるとすれば、それは、みなさんに提示したうちで最後の疑問に対する答えを通して見つかると、私たちは信じている。最も深い静寂は、たんなる不在だけではなく、実在でもある。それは、私たちを落ち着かせ、癒やし、教え導くことができる実在なのだ〔訳注 本書でいう「実在」とはおおむね、人が気を散らされることなく、その瞬間にその場にしっかりと存在することを意味する〕。
(中略)
騒音の世界に空白を見つけるのは難しい。今日、強大な力がいくつも働いていて、それらがもっぱら人々の注意をハイジャックし、物事をやかましい状態に保ち続ける。ビジネスと政府と教育の最も強力な機関が、私たちの責務は、精神的な刺激をより多く、より効率的に生み出すことだ、と告げる。広告の喧騒(けんそう)と多忙を当然とする見方は、社会統制の巧妙な手段だ。
とはいえ、静寂には大きな強みがある。いつでも手に入るのだ。
静寂は呼吸の中にある。呼吸や思考、会話で友人と交わす言葉の合間にある。目覚まし時計が鳴りだす寸前に、毛布にくるまっている心地良い時間の中にある。キュービクル(仕切られた作業スペース)を離れ、外のベンチに座って日差しを浴びている3分間の休憩の中にある。立ち止まって耳を傾けるーー鳥たちや雨音に耳を傾けたり、特別何にということはなく、そこにあるものの純然たる本質にただ波長を合わせたりするーーことを思い出したささやかな瞬間の中にある。誰もが日々、騒音のある場所に気づいて音量を下げれば、この空白に出合いはじめることができる。
人はこの上なく深遠な静寂を探し求めるとき、それが本当は、自分の生活の聴覚的な状態や情報の状態次第ではないことに気づくだろう。それは、常に今ここに、心の奥底にある不変の実在だ。それは生命の脈動なのだ。
そして、なぜ、どのようにそれに波長を合わせるかについて語るのが本書だ。
(中略)
人はみな人間として、異なるやり方や好みを持っているし、異なる学び方をし、人生を送りながら異なるかたちで意味を生み出していく。毎日、毎週、毎月、毎年を、どれほど思いどおり自主的に組み立てていけるかは人それぞれだし、こうした現実は時が過ぎるうちに変化する。そのうえ、通常はマインドフルネス瞑想と呼ばれるもの(主に仏教に由来する修練であり、長時間にわたって怠りなく気を配りながら座るか歩くかしつつ、呼吸と思考を観察すること)に対する、文化的障害や宗教的障害、心理的障害、物理的障害もありうる。
だとすれば、騒音の猛攻撃には、どう対応すればいいのか? もし瞑想が万人向けではないのなら、今日の世の中に必要なだけの規模の救済を、どうやってもたらせばいいのか?
本書では、1つの答えを提案する。

騒音に気づくこと。そして、静寂に波長を合わせること。

この過程には3つの基本的なステップがある。

1 自分の生活の中で現れるさまざまな形の聴覚や情報や内部の邪魔に注意を払う。それらにどう対処するかを学ぶ。

2 ありとあらゆる音声と刺激のただ中に点々と息づく束の間の平穏に気づく。それらの空白を探し求める。それらを堪能する。その静寂がほんの数秒しか続かなくても、その中にできるかぎり深く浸る。

3 ときどき、深遠な静寂の余地をーー恍惚状態の静寂の余地さえもーー育(はぐく)む。

騒音のただ中に均衡と明確さを見つけようとするときには、近頃は通常、「瞑想」と呼ばれているものの正式な規則や道具にこだわる必要はない。「きちんとできているだろうか?」といった疑問は忘れてかまわない。私たちの誰もがその人なりのやり方で、静寂とはどんなふうに感じられるかを知っている。人間である以上、本来それがわかっている。かくされているときもあるとはいえ、それは、私たちがみな手に入れられる、「再生」という贈り物だ。

『静寂の技法』 第1部第1章 より ジャスティン・ゾルン、リー・マルツ:著 柴田裕之:訳 東洋経済新報社:刊

本書は、「騒音に気づき、静寂に波長を合わせる」方法を、わかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

スポンサーリンク
[ad#kiji-naka-1]

「静寂」の5つの同義語

深い静寂は、たんに騒音の不在というわけではありません。
深い静寂は、実在であり、耳には静かで、心の中でも静かでありながら、意識の中では雷が轟(とどろ)くような経験になりうるものです。

著者は、さらに「静寂」の意味を下記のように解説しています。

 静寂は謙虚さだ。それは、知らないという姿勢であり、手放す場だ。静寂は、空白を満たさなくても構わないという事実を受け容れる事だ。ただあるがままに存在しているのは良いことだ。最低でもそれは、現実を形作ったり導いたりしようとしなければならないというプレッシャーから1歩身を引く機会だ。会話や議論や娯楽を継続させることであらゆるものを管理しなくてもいい。これは、個人的なくつろぎの状態というだけではない。トロント大学の心理学者ジェニファー・ステラーによれば、謙虚さは「道徳性の基盤を成す必須の徳であり、社会集団の中で生きていくうえでのカギ」だという。多くの知恵の伝統が、謙虚さが最高の精神的な美徳に含まれることを、何かしらのかたちで説いている。競争したり良いところを見せようとしたりなくてはいけないというプレッシャーを手放すことには、本来の良さがある。
静寂は再生だ。私たちが『ハーヴァード・ビジネス・レヴュー』誌の論説を書いていた頃、本書の共著者であるジャスティンの友人のレナタが、「静寂は神経系をリセットできる」と言った。当時彼女は、私たちがこのテーマで書いていることを知らなかった。私たちの直観についても知らなかった。レナタの言葉を聞いて思い出したのが、瞑想と祈りの禁欲的な生活を送るためにローマを逃れてエジプトに向かった。初期キリスト教の砂漠の教父たちと教母たちだ。彼らは修練の的を、自らが「クイエス(quies)と呼ぶ「安息」の状態を見つけることに絞った。「quies」は、「休息」や「静穏」を意味する「quiescence」と同じ語源を持つ。だが、今日「quiescence」が含意することのある類の休眠状態とは関係ない。むしろ、神学者で社会活動課のトマス・マートンによれば、何か「崇高な」ものだという。彼らの安息は、「内に持つ自由の極致に我を忘れたおかげで、もはや自らを眺めなくてもいい者の穏健と落ち着き」だった、と彼は書いている。これらの瞑想者にとって、安息は「偽りの『自己』や限られた『自己』への没頭をいっさい失った、一種の、たんなる無所在、あるいは雑念のなさ」だった。聴覚騒音と情報騒音を超越すれば、人は自分のくたびれた条件づけをリセットできる。世の中の知覚の仕方を改められる。
静寂は明確さだ。サイラス・ハビブは私たちに、「本当に心の中にあるもの」を見分ける能力について説明してくれた。彼は、静寂は「頭に真っ先に浮かんできたことを、たとえたった30秒間だけでも、口に出さない」能力だという。これは、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)を生き延びた心理学者のヴィクトール・フランクルの言葉とされることが多い教えに似ている。それは、「刺激と応答との間には隙間がある。その隙間に、私たちが自分の応答を選ぶ力がある。その応答の中に、私たちの成長と自由がある」という教えだ。私たちは「思考の明確さ」や「論理の明確さ」を強調しがちな文化の中で暮らしているものの、正真正銘の明確さは、計画や議論や戦略を超越する。それはその「空白」の中、すなわちその輝かしい隙間に息づいている。精神的な刺激を超えた明確さに力を得て、人は自らを知ることができる。それは世間から孤独へと引きこもることの根拠ではない。正しいものに向かって物事を移す起点となる、安定した支えなのだ。神秘主義者のカビールは、次のように述べている。

心の中で沈黙せよ。感覚の中で沈黙せよ。体の中で沈黙せよ。そして、これらすべてが沈黙したなら、何もするな。その状態にあれば、真理があなたに正体を現すだろう。あなたの前に現れて、尋ねるだろう。「お前は何望んでいるのか?」と。

しばらく想像してほしい。最低限必要な人々が、この種の正真正銘の意図に波長を合わせることができたとしたら、どうなるだろう? 想像してほしい、気晴らしや娯楽、利益と権力のゲームを超えて、最高水準の繁栄をもたらしてくれるものに波長を合わせることができたら、どうなるだろう? 想像してほしい。人々がみな、そのような明確さを持つことができたとしたら、どうなるだろう?
静寂は拡張だ。それは、注意の空間の展開だ。その空間にいっそう深く入っていくと、本当に感じることのできる余地がどんどん見つかる。深い静寂にたどり着くと、言語の限界が消えてなくなる。何が何かや誰が誰かではなく、たんに何が存在しているかを知ることが肝心になる。この上なく深い静寂の中では、独立した自己の束縛を超越する内的自由が見つかる。
静寂は生命そのものの本質だ。意識を奪おうとするものがないときには、人は創造のキャンパスに出合う。この上なく純粋な注意を払っているときには、根本的な振動に波長を合わせることができる。あらゆるものの本質に出合うことができる。発話と思考の音と刺激が、何をする必要があるかを知らせるのだとすれば、純粋なままの認識は、その逆を知らせる。それは、何一つなされる必要のない状態だ。内と外の両方のおしゃべりの下に入り込めば、人を覚醒させるこの実在にアクセスすることになる。これが全き状態だ。

『静寂の技法』 第1部第3章 より ジャスティン・ゾルン、リー・マルツ:著 柴田裕之:訳 東洋経済新報社:刊

仏教では、完全な静寂、心が完全に鎮まった状態を「泥の中に根を張って咲くハスの花」に例えることがあります。
周囲がどんな状況でも、保たれている心の平穏が、本当の静寂だということです。

静寂を感じるかどうかは、外部の環境によるものではなく、心の状態によるもの。
静寂に波長を合わせられるかどうかにかかっているということです。

「自己のミュートボタン」は存在する?

最新の脳科学は、静寂状態の脳の仕組みをどこまで解明できているのでしょうか。

(前略)今日の最も進んだ神経画像テクノロジーを使って「静かな」心を示すシグナルか、あるいはその代わりとなるものを見極めことが可能かどうか、私たちはガザレイに訊いてみた。
「静からしくものなら」と彼は言って、くすくす笑った。
測定可能な脳の特定の活動を、それに呼応する実体験と直接結びつけることができる段階には、依然として程遠いが、それでも神経科学では、脳の「地理」が前よりよくわかってきている。この、思考する器官のどの領域やネットワークが、不安や心配や自己参照的思考と最も関係が深いかの解明に近づいている。こうした進歩は、心の中の騒音と静寂の意味を理解するうえで重要な価値を持っている。
デューク大学の心理学と神経科学の教授マーク・リアリーは、かつてこう言った。「自己はしばしば幸福の邪魔となるが、もし人間の自己にミュートボタンあるいはオフ・スイッチが備わっていたなら、そうはならなかっただろう」。リアリーの意見に触発された私たちは、次のような疑問に答えることに取り掛かった。脳にとっての「ミュートボタン」に近いような神経生物学的なメカニズムはあるのか? もしあるのなら、それはどこで見つかるのか?
私たちは最近、ベイルート・アメリカン大学の神経科学者アルネ・ディートリックに話を聞いた。彼は、ジャマルがバスケットボールをしているときのような、脳の神経認知的メカニズムを専門にしており、フロー状態の内的静寂の中で起こっていることを指す、「transient hypofrontality(一過性前頭前皮質活動低下)」という用語を造った。「transient」は、この形態の意識が一時的状態であることを示し、「hypo」は、「frontality」すなわち、脳の前頭前皮質の活動の鈍化を意味している。前頭前皮質は、人が独立した自己の感覚を組み立てる部位だ。ディートリックによれば、フロー状態やその他の意識が拡張した状態(幻覚物質や精神活性物質によってもたらされる精神状態も含む)は、ワンネス(自分と森羅万象との一体感)の経験を促進するという。なぜなら、自己や時間の感覚を組み立てる脳の領域がばらばらになるからだ。ディートリックは、これにまつわる皮肉をすぐに指摘する。こうした状態は「より進化した意識の形態」として歓迎されることがよくあるものの、人間の最も進化した、最も称賛されている脳領域である前頭前皮質の活動を減らすことを通して生じるのだ。
進化か退化かは脇に置くとして、ディートリックが行っているのは、心の中の静寂への道筋だ。彼は、現代世界のこれほど多くを苦しめている注意散漫の内的要因を超越するための、生物学的メカニズムについて語っている。
彼は、「ミュートボタン」に相当しうるものについて語っている。
もっともこれは、静かな心の神経生物学的基盤を構成するものについての、唯一の考え方ではない。前頭前皮質は、激しい身体活動を伴う一部のフロー活動の間に不活発になるものの、計算やジャズの即興演奏のような他のフロー活動には、通常以上の実行制御と、前頭前皮質の活動の増加が必要とされるらしい。だから「ミュートボタン」は、じつは脳の一部を休ませるだけのものではないかもしれない。脳全体に及ぶ複雑な活動を開始させている可能性がある。
前章では、トップダウンとボトムアップという、注意の押しと引きの力に関するアダム・ガザレイとラリー・ローゼンの説明を紹介した。フロー研究のなかには、たんなる前頭前皮質の活動減少ではなく、さまざまな注意ネットワークの一種の同期を説明していものものもある。たとえば、ジャマルが3点シュートを狙い(トップダウンの目標)」ながらも、近づいてくるディフェンダーにも相変わらず注意を払っている(ボトムアップ)ときがそれに当たる。それらの研究は、ドーパミンのような神経伝達物質がかかわる報酬ネットワークの役割にも光を当てている。このネットワークは、注意の集中を強める一方、衝動性と注意散漫を抑えるようだ。この「同期」説は、異なる機能と活動の巧みな配列がやかましい心を静める、としている。
「ミュートボタン」に相当しうるもののありかについては、過去数十年にわたって行われてきた、人間の心の「デフォルト(初期設定状態)」についての研究を通して、非常に有力な手掛かりがいくつか得られている。
大半の専門家が最近まで、「休止中」の脳は弛緩(しかん)した筋肉のようなものだと考えていた。生きてはいても、おおむね働いておらず、ほとんとエネルギーを使っていない状態だ。ところが2001年、ワシントン大学医学部の神経学者マーカス・レイクルと共同研究者たちが、この思い込みを覆した。彼らは、一部の科学者が想像していたこと、すなわち、脳は常に盛んに活動しており、大量の、本当に大量のエネルギーを消費していることを発見した。じつは、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)、つまり休止状態と関連づけられている一連の脳領域は、とんでもない量のエネルギーを貪る。
マイケル・ポーランは著書『幻覚剤は役に立つのか』で、最近の科学の成果を簡潔に要約し、次のように述べている。「デフォルト・モード・ネットワーク」は、精神的構成概念あるいは投影の生成に役割を果たしているように見える。そうした精神的構成概念あるいは投影のうちでもっとも重要なのが、自己あるいは自我と呼ばれる構成概念だ。だから、このネットワークを『私(ミー)ネットワーク』と呼ぶ神経科学者もいる」。ポーランは、内省的自己意識や、それが含むありとあらゆる心配や反芻(はんすう)、自己物語、自尊について語っている。そこから、人間の「デフォルト」であるDMNは、「私」のやかましい思考を特徴とするという、人間の特質についての、当惑するような論評が生まれるのだ。
最近の研究で、DMNが脳の注意ネットワークと負の相関にあることがわかった。言い換えれば、DMNが活性化したときには、人の注意力を支える構造とプロセスが静かになり、注意ネットワークが活性化したときには、DMNの活動が減る。ボーランは、たとえとしてシーソーを使っている。一方の端にはDMNがまたがっており、もう一方の端には注意がまたがっている。フローの感覚を生み出すもののような、注意ネットワークを必要とする活動は、DMNの活動を減らし、それとともに、自己参照思考と自己没入も下火になる。
ジャドソン・ブルワーは、人間の意識のもっともやかましい側面が、DMNと関連づけられている脳の2つの主要部分、すなわち前頭前皮質と後帯状皮質の活動に対応していることを、自分の研究を通して発見した。前頭前皮質が本人の名前や知的アイデンティティの言語化された感覚を司っているのに対して、後帯状皮質は、自己のフェルトセンスのほうをもっと重点的に司っている。後帯状皮質は、自己意識の言いようのない騒音ーー罪悪感や自己像にまつわる不安に関連する種類の、「うっ!」という一種の身体的感覚ーーと結びつけられている。熟練の瞑想者であるブルワーは、一人称的経験と、神経活動についての三人称的報告との隔たりを痛感している。だから、神経画像検査を、何が起こっているかについての本人の描写と組み合わせる、革新的な「グラウンデッド・セオリー」の手法を応用する研究を主導してきた。たとえば、研究の参加者に、f MRI装置かEEG(脳波検査)装置の中でほんの数分間、瞑想をしてもらい、それから、「あなたは、どんな経験をしていましたか?」と尋ねた。すると、参加者が、瞑想をしていて、うまくいかず、それから「なんとかやり抜こう」と本当に一生懸命頑張っているときのような、締めつけられる感じの精神状態あるいは感情状態に入っていくと説明した時点で、DMNが活性化する場合が圧倒的に多いことがわかった。それとは対照的に、参加者が拡張と結びつけられている精神状態や感情状態に入り、安らぎやたやすさや試合を感じているときには、DMN、特に後帯状皮質の働きが緩やかになることがわかった。
ブルワーは自分の研究で、瞑想をしたことのない人を対照被験者として使った。これらの参加者は、午前中に瞑想のやり方を教わり、それから午後にスキャナーに入って、学んだことを実践に移そうとした。「じつは彼らのほうが、瞑想の経験者よりも多くの点で興味深かったです」と、彼は最近のインタビューで、瞑想指導者で著述家のマイケル・タフトに語った。ブルワーによれば、瞑想初心者の数人は、後帯状皮質領域の「脳活動を」赤(活性化)から青(不活性化)へと「文字どおり切り替えて」いたという。彼らはわずか9分間の神経画像フィードバック(「厳密には、各3分間を3回」)をしただけで、そのやり方を習得したのだった。彼らは即座に適応していた。自分の邪魔をしたり邪魔をやめたりするように感じられることを学んでいた、とブルワーは推測する。これらの参加者は、後帯状皮質の活動を一時的に減らすことができた。これは、「ミーネットワーク」を管理できる見込みがあるということだ。
たった1回の瞑想セッションで、やかましいデフォルト設定を超越する精神状態を生み出せるように見える一方、瞑想やその他のさまざまな形態の集中を長期的に実践すると、より持続的な静寂の精神的特性を生み出せるかもしれない。ハーヴァード大学の博士研究員のキャスリン・ディヴァニーと研究者のチームは、2021年の研究で、経験豊富なヴィパッサナー瞑想者と対照群の参加者に、集中タスク(注意ネットワークの重労働を要するもの)と、明確なタスクを伴わない休息(DMNを活性化を誘発するもの)という、2種類のタスクを与えた。すると、瞑想者は対照群よりも、休息している間のDMNの活動が少なかったことがわかった。ディヴァニーと共同執筆者たちは、研究結果をこうまとめている。「瞑想の長期的な実践は、くどくど考えがちなDMNを効果的に抑制制御できるようになることで、脳の健康と精神的ウェルネスに貢献する」。ブルワーも、熟練の瞑想実践者が長年の間に自分の脳を配線し直して、休息中にさえDMNの活動を抑えられるようになることを発見した。
これは朗報だ。私たちは自分のデフォルト状態のやかましさを減らすことができる。そうするスキルを磨き、練習を重ねれば、心の中の環境を整え、緊縮的である度合いを下げ、より拡張的になる能力を身につけられる。前頭前皮質と後帯状皮質を訓練すれば、ときおり一時的な「ミュートボタン」を見つけられるだけではなく、自分の意識の環境で日常的な騒音を減らす方法を見つけることができる。
こうした研究はすべて、心の中の静寂について、直観に反することを指し示している。私たちが普通に考える「休息」は、必ずしも静かではないのだ。スマートフォンの電源を切り、テレビも消し、コンピューターもシャットダウンし、周りを取り囲む、注意散漫の原因となる外部の聴覚要因と情報要因の他の源泉もすべてオフにしたところを想像してほしい。それは良いスタートだ。だが、もしあなたがまだアイスクリームの容器を手に、ソファに座り、最悪の被害妄想に浸りながら、自己中心的な夢想の好き勝手にさせているようなら、それは意識の中の静寂とは言えない。ぼーっとしているのは、最もやかましい状態になりうる。
私たちは、昔ながらの素晴らしい空想をこき下ろしているわけではない。ハーヴァード大学のキャスリン・ディヴァニーと共同執筆者たちが認めているように、「心の迷走がすべて、くどくど考えることではない」。非実際的な種類の思考もある。たとえば、記憶に浸ったり、新たな可能性を想像したり、ふわふわした雲がウサギへ、ドラゴンへと形を変え、またウサギに戻るところを眺めていたりするときがそうだ。それらは、自分のことしか頭になく、くどくど考えがちな心の、陰鬱な回り道とはほとんど共通点がない。だが、ディヴァニーと共同研究者たちは、瞑想のような営み、あるいはただ静寂に意識的な注意を払うことが、騒音をいつも確実に超越するのに役立つと結論している。「本研究の主要な結果は、DMNの抑制に対する瞑想のトレーニングのポジティブな効果と一致している」
というわけで、たとえ完璧な「ミュートボタン」がなくても、騒音の音量を下げる方法を学ぶことはできるのだ。

『静寂の技法』 第2部第6章 より ジャスティン・ゾルン、リー・マルツ:著 柴田裕之:訳 東洋経済新報社:刊

自分の頭の中の騒音(内部騒音)については、それを静めるための方法はある程度わかってきています。
その鍵となるのが、瞑想だということです。

今後、さらに脳の仕組みの解明が進めば、より簡単に頭の中のおしゃべりを静める方法が見つかるかもしれませんね。

自分に「制御できる範囲」を見極める

人は、音の世界でどうやって静寂を見つけるのでしょうか。
著者は、その答えは人それぞれで、自然に見つかることもあるが、意識的な努力の結果だと述べています。

 私たち人間は、静けさの見つけ方がみな異なる。瞑想の指導者であるジャーヴィスでさえ、独りで座って瞑想するのが唯一の道だとは言わないだろう。
自分の日々の送り方や、人生の組み立て方をどれだけ自分で決められるかは、一人ひとり違ってくる。最低賃金の仕事でフルタイムで働いているひとり親は、退職者や大学生や中小企業経営者とは、日々を構成する能力が異なる。このような自律性の程度の差は、人が日々の暮らしの中でいつ、どのように静寂を見つけられるかを左右する。
ジャーヴィスは、この自律性の範囲の一方の極端にいる。毎日23時間を房で過ごす。刑務所の運営陣が、シャワーを浴びられるかどうかまで含めて、彼の生活のほとんどすべての面を支配している。彼は自分を取り巻く騒音や気を散らすもののレベルは、事実上まったく制御できない。それにもかかわらず、自分の生活の中の騒音をうまく処理できるようになった。静寂の時間を確保することができる。不安と恐れのやかましい振動を調節する。静かで落ち着いた時間は乏しいものの、彼は深い注意力を持ってそうした時間に入っていける。これがいちばん重要かもしれないが、彼の人生が慈悲深い静寂に恵まれたときには、その静寂のために実在することができるーー薬の瓶のラベルを読んで、「自分のことを考えている場合ではない」という言葉が浮かんできたときのように。彼が言うとおり、感謝の念を抱くことで、「それに気づき、それを受け取る」ことができた。
静寂の「専門家」を見つけたければ、世間を離れた修道院の修道士や、どこかの小屋に暮らす隠者を探すのが当然に思える。だが、それでは見当違いになる。私たちがジャーヴィスに目を向けているのは、彼が騒音に満ちた、地獄のような場所で生きているからにほかならない。人里離れた所にあるヒマラヤの隠者の庵(いおり)で静寂を見つけるのもいいけれど、不安と、騒音だらけのサウンドケープと、恐れと、トラウマのただ中で静寂を見つけるとなると、話はまったく別だ。そして、今この瞬間に生きている人の大半にかかわりがあるのは、後者のほうだ。
ジャーヴィスにとって、静寂を見つけるカギは、自分に「制御できる範囲」を見極めることだった。最初に「生き埋めにされている」と思ったときに、この想いは、紛れもない真実を含んでいるように見えるとはいえ、破滅を招くことが彼には本能的にわかった。彼は主導権を握り、その思いを根絶する意志の力を見つけなければならなかった。そして、彼はそれをやってのけた。仏教の修練を通して正式な心のトレーニングを始めるのは何年も先のことになるが、当時彼は、ファンクバンドのファンカデリックのリーダー、ジョージ・クリントンの歌から、個人的な指針となるモットーを学んでいた。「心を解放しろ。そうすれば、尻(ケツ)はついてくる」だ。彼はこれを、自分の思考を管理するには梃子(てこ)の支点のようなものを見つける必要があるという意味で捉えた。それを見つけてようやく、自分の状況を多少なりとも制御する方向を進める。そして初めて、いくらかの自由を見つけることができる。
人はたいてい「制御」という言葉を疑わしく感じる。
私たちは、腸内の微生物から、連邦準備制度理事会の金利政策や、天空の惑星や恒星の配置まで、自分の周りのあらゆるものを、無数の目に見える力や目に見えない力を形作っている、確率の世界に暮らしている。それでもなお、この「制御できる範囲」という考え方は、やかましい世界に対処しようとしているときには、とても役に立つ。
リーはかつて、この「制御できる範囲」の考え方を示して、ジャスティンが苦境を脱するのを助けたことがある。ジャスティンは、活火山のような男性ーー大きな影響力を持っているものの、はなはだ激(げき)しやすい政界関係者ーーと仕事上のつきあいがあった。その仕事は、ジャスティンが重要だと考えている建設的な社会活動を支援するもので、子どもの数が増えていた彼の一家にとっては、金銭的に絶好の機会を提供してくれた。だが、彼の世界でその仕事が生み出した騒音は、容赦がなかった。
騒音の一部は、ありきたりのもので、やたらに多い電子メールやショートメッセージ、確認の電話、ビデオ会議などだ。だが、1日24時間対応できるようにという不健康な期待や、通常のやりとりが緊迫した議論や完全に敵対的な口論にさえ変わってしまう傾向といった、もっと微妙なものもあった。ジャスティンは対立を避けるために、スマートフォンを手元に置き、いつでも着信メロディがなるようにしておいた。こびへつらうような態度を取れば、緊張が緩和する助けになることを願って、強迫観念に駆られるようにスマートフォンをチェックするようになった。だが、うまくいかなかった。ジャスティンがいっそう努力するにつれて、意識の中の騒音も大きくなった。彼は、頭の中での独り芝居で、難しい会話や、予想される破滅的な筋書きを繰り返した。彼の神経は、高電圧の送電線のように、唸りを上げていた。
ジャスティンは、ストレスの多い仕事は初めてではなかったし、瞑想を長い間学び、教えてきてもいた。だから、そうとうの数の対処メカニズムを持っていた。いや、少なくとも持っていると本人は思っていた。
ジャスティンは、その場を離れて短い瞑想をしたり、人知的リフレーミングの戦略を使ったりするたびに、順風満帆の状態を回復できたと思っていた。ところが、そのクライアントの所に戻ると、またしても内部騒音の渦に巻き込まれるのだった。彼は、このパターンが自己強化型のサイクルになることに気づいた。望まない会話をひっきりなしに交わし、スマートフォンなどを日夜チェックしてばかりいると、ますます心配がふえ、心が奪われていく。へとへとになった彼は、この混乱状態をいっそうの騒音で取り繕った。電話で不機嫌そうに友人たちと哀れみ合ったり、深夜にネットフリックスでラテンアメリカの最も美味しそうな海辺のキッチンカーの映像を続けざまに見ることに慰めを求めたりするのだった。
このような混乱の中で、ジャスティンは自分についてひどく厄介なことに気づいた。そんなとき彼は、たとえ可能だったとしても、静寂を探し求めなかっただろう。自分自身と向き合いたくなかったのだ。現実に直面するよりも、気を散らしてくれるものを探すほうが心地好かった。
リーは様子を知るためにかけた電話で、ジャスティンは間(ま)を置き、砂漠の空高くから降り注ぐ日差しの下で椅子に腰掛けた。何度か息を深く吸い込んだ。休みやワーク・ライフ・バランスをただ切望していたのではなかった。彼が切望していたのは、具体的な感覚、ほとんどエネルギーとでも言えそうなものだった。それは、早朝に静かな海の前に立っているイメージとして、彼の頭に浮かんできた。彼がその切望を説明した後、リーは、何をいちばん恐れているのか尋ねた。するとジャスティンは、今と同じ騒音に耐え続けなければならないことと、この海のような「リセット」の感覚から遠ざけられたままになることを恐れている、と答えた。
リーはジャスティンに、1つのイメージを示した。アーチェリーの標的だ。中央の円は、彼が制御できるもの、その外側の円は影響を与えられるもの、さらに外側の円は、それ以外のすべてだ。内側の2つの円に集中するように、とリーは言った。
ジャスティンにとって、それは、「こんな仕事、くそくらえ」の類の瞬間ではなかった。彼は、あっさり辞める立場になかった。少なくとも、すぐには。そこで、何が自分に「制御できる範囲」にあり、何が「影響を与えられる範囲」にあるかを、もっときちんと見直しはじめた。それは、自分が以前として自律性を発揮して、自分の人生で必要な静寂を取り戻せる範囲だった。
ジャスティンは「制御できる範囲」という枠組みを使い、騒音が手招きしているとき、自分の体の中の感覚と、心の中のおしゃべりに、もっと細かい注意を払いはじめた。ときどき、ただその場凌(しの)ぎのセンタリングの実践する代わりに、日常の静寂を見つけるための多様な戦略を、もっと自制心を持って使うようにした。そのなかには、ずっと以前に学んだ呼吸エクササイズや、日光を浴びながらの短い休憩、スマートフォンも持たずに定期的に出掛けるハイキングも含まれていた。彼は、このままの働き方では持続できないのではないかという懸念を伝えることで、状況に影響を与える方法にも思いを巡らせた。そして、自分の心身に騒音が及ぼす影響についてじっくり考え、そのクライアントと現状変更の交渉をした。話し合いは予想以上にうまくいった。こうして彼は、自分の生活状況に多少の静寂をもたらす可能性を取り戻した。
いちばん重要なのは、大切なものがじつは自分に「制御できる範囲」にあるのをジャスティンが発見したことだった。彼は、ジャーヴィスなら言うだろうように、「騒音に対する自分の応答を静めることによって騒音を静める」ことができた。知覚と反応に、前より巧みに取り組むことができた。騒音は、本質的に悪いものではなかった。たしかに、苛立たしかったし、苦痛でさえあった。だが、その騒音は、その根底にある状況で、変える必要があるものを指し示していたのだ。少し距離を置くと、ジャスティンは、騒音のうちで最悪のもの、すなわち内部騒音は、クライアントや仕事そのものとの接し方に無理があるせいなのが見て取れた。彼は、結果にこだわり過ぎていたのだ。そしてそれは、完全にジャスティン自身の力だけで変えることができた。

『静寂の技法』 第4部第9章 より ジャスティン・ゾルン、リー・マルツ:著 柴田裕之:訳 東洋経済新報社:刊

私たちは、自分ではどうにもならないことを、どうにかしようとしてイライラします。
自分が「制御できる範囲」を知ることは、それ以外のことに対しては「委ねる」ことになります。

「制御できる範囲」と「影響を与えられる範囲」を示した二重円。
私たちも、普段からこのアーチェリーの標的を意識するようにしたいですね。

静寂の力は「シグナルに気づく能力」

『砂の言葉ーー先住民の思考がどのように世界を救いうるか』の著者、タイソン・ユンカポルタは、静寂の力を「シグナルに気づく」能力、あるいは、「本当の真実に波長を合わせる」能力と呼びます。

 たとえば、神経生物学の観点から、脳のデフォルト・モード・ネットワークを超越する、というふうに言うことができる。
あるいは、宗教的な言葉を使い、現実の「アポファティックな」本質ーー概念を超え、呼び名を与えることができるものも超越した本質ーーとして描くこともできる。
あるいは、サイラス・ハビブが「森羅万象の目利き」となることについて語っていたように、詩的な表現に目を向けることもできる。
あるいは、激しく揺れる大海を眺めたり、涼しいそよ風を肌で感じたりしているときの明確な感覚のように、物語や分析を挟まずに、自分の直接体験の中でどのように感じられるかに注目することもできる。
静寂のダイナミックな本質を描写するとりわけ強力な方法の1つが、「拡張」という言葉を通じたものだ。それは、注意のスペースが展開され、独立した自己の拘束が緩むことを意味する。「拡張」という言葉は、私たちの世界で静寂がこれほど稀である理由や、今日人々が、タイソンが「機能不全の怪物」と呼ぶ騒音と暮らしている理由を理解するカギになる。
神経科学者のジャドソン・ブルワーは私たちとの会話の中で、彼の学術調査研究ーー思考や行動と脳の生物学的メカニズムとの相互作用の、何十年にも及ぶ探究ーーの事実上すべてが、収縮と拡張の間の人間の経験のスペクトルを指し示していることを説明してくれた。収縮の状態では、人々は物事にレッテルを貼る作業に没入し、過去と未来に固執し、個人化したアイデンティティの騒音に囚われる、と彼は言った。拡張の状態では、内部の静寂の中に実在し、そこで自己と他者の硬直した境界を超越することができる。
私たちの社会がじつは収縮した状態を称賛する傾向にあることを、ブルワーは指摘した。あるいは、ジョイス・ディドナートが言ったように、「社会の本当に多くが生産を念頭に構築されていますーー夜更かしし、時代を先取りし、物事にうまく対処し、進み続け、やり続けることに」。人々が「興奮」という感情を追い求め、賛美しがちであることを、ブルワーは指摘した。興奮するのは少しも悪いことではないものの、それは収縮した状態だ。「興奮は、幸福と同じではありません」と彼は言う。
束の間の慌ただしい活動以上のものに基づく、もっと深くて持続可能な種類の喜びが存在する。アリストテレスは、「ユーダイモニア」と呼ばれる種類の幸せーー徳と真理に根差す人間の繁栄体験ーーについて語った。それは人々が、個人化した自己の限られた利益を超えて拡張しているときに感じる素晴らしさだ。明確さと平穏に満ちた、広大で、浸透する幸福だ。ガンディーは、このより拡張的な種類の満足感を、「マナサ」と「ヴァチャー」と「カルマナ」(サンスクリットでそれぞれ「心」「発話」「行動」の意)の調和としている。彼は、「幸せとは、考えることと言うこととやることが調和しているときを指す」と言ったとされている。この観点に立てば、彼が世界でも有数の熱心で名の知れた政治指導者でありながら、あれほど多くの時間を静寂の中で過ごしたこともうなずける。彼のウェルビーイングの考え方が、それを必要としたのだ。
どの文化にも、何をもって良い人生とするかについてのビジョンがある。どの社会にも、何が人間の繁栄に役立つかという疑問への答えがある。本書ーー昔からの新鮮味のない対立関係を超越し、二項対立の文化を乗り越えるのを助ける静寂の力に関する本ーーを書くきっかけとなった直観は、人々の指標を収縮から拡張へと移すことについてのものだ。スピードや娯楽、競争、精神的な刺激や物質的なものを目一杯蓄積することへの固執から、実在や明確さ、あらゆる発話と思考の間やその向こうの黄金のスペースなどの正しい認識へと向かう、移行についてのものだ。
本書では、この転換を行うためのーー騒音の世界で静寂の記憶を呼び起こすためのーーさまざまなアイデアを探ってきた。私たちは、自分に「制御できる範囲」と「影響を与えられる範囲」を見つけるという、ジャーヴィスが説明したものなど、個人の慣行から始めた。それから、職場で純粋な注意を尊んだり、友人や家族といっしょに静かな時間を過ごしたりできるような方法を見てみた。最後に、社会全体のレベルで静寂を奨励する機会を調べた。
だがじつのところ、これらの戦略は本書の最初のほうで紹介したごく単純なアイデアに煎じ詰められる。

騒音に気づくこと。

静寂に波長を合わせること。

ほんの数秒しか静寂が存在しないときにさえ、できるかぎり深くその静寂の中に入り込むこと。

ときどき、深い静寂のスペースをーー恍惚状態の静寂のスペースさえもーー育むこと。

こうすれば、真のシグナルを求めて耳を澄ましはじめることができる。それが思い出すことの本質だ。それは、私たちの個人と集団の両方の自覚を拡張するための最も明確な道筋だ。

『静寂の技法』 第6部第15章 より ジャスティン・ゾルン、リー・マルツ:著 柴田裕之:訳 東洋経済新報社:刊

真実や真理などの絶対的なものは、説明も補足も必要ありません。
ただ、黙ってそこにいるので、まさに静寂そのものといっていいでしょう。

この騒音が溢れた世界で、それらを見つけるのは、至難の業かもしれません。

自分の五感に集中し、真実が発する微かな音に気づく。
まさに「シグナルに気づく能力」を研ぎすます必要があります。

スポンサーリンク
[ad#kiji-shita-1]
☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

私たちの世界は、つねに音や情報に囲まれています。
騒音の洪水の中を生きている、と言っても過言ではありません。

こんな状況で静寂を得ることは、ほとんど不可能ではないか。
そんな不安に「ノー」と力強く応えてれるのが本書です。

本当の静寂は、外部ではなく自分の内側にある。
つまり、自分の意識の向け方、心の在り方次第で、どんなシチュエーションでも静寂を得ることはできるということです。

最初の一歩は、騒音に気づくこと。
そして、静寂に波長を合わせること。

巻末には、本書の内容が「静寂33通りの見つけ方」として、シンプルにまとめられています。
私たちも、それらを活用しながら“静寂マスター”への道を進んでいきましょう。

Comments are currently closed.