本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『Chatter(チャッター)』(イーサン・クロス)

お薦めの本の紹介です。
イーサン・クロスさんの『Chatter(チャッター)』です。

Chatter(チャッター)―「頭の中のひとりごと」をコントロールし、最良の行動を導くための26の方法

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イーサン・クロス(Ethan Kross)さんは、意識する心のコントロールに関する世界的第一人者です。

「チャッター(頭の中のしゃべり声)」の正体とは?

頭の中のしゃべり声のことを「チャッター」と呼びます。

チャッターを構成するのは、「循環するネガティブな思考と感情」です。

クロスさんは、チャッターは、私たちの行動、意思決定、人間関係、幸福、健康を危険にさらす危険があると指摘します。

 私たちは、自分自身に話しかける。
そして私たちは、自分自身の言うことに耳を傾ける。
文明の夜明け以来、人類はこの現象と格闘してきた。初期のキリスト教神秘主義者は、黙想を絶えず邪魔する頭の中の声にひどく悩まされてきた。それを悪魔の声だと考える者さえいた。同じ頃、東洋では、中国の仏教徒が人の心象風景を曇らせる乱れた思考状態について理論を立てた。彼らはそれを「妄念」と名づけた。
それにもかかわらず、まさにこれらの古代文明が、内なる声は「知恵」であると信じていたのだ。こうした信念こそ、黙祷や瞑想(私の父の個人的な哲学)といった何千年も続いてきたいくつかの慣習を支えるものだ。多くの精神的伝統が内なる声を怖れるとともに、その価値を強調してきたという事実は、内なる対話へのいまなお続く相反する態度を物語っている。
「内なる声」について語るとき、人びとは当然にも、その病的側面について思いをめぐらす。私はよくプレゼンテーションの冒頭で、聴衆に向かって、頭の中で自分自身に話しかけるかどうかをたずねてみる。すると、多くの人は判で押したように、ほかの人も自分と同じように手を挙げるのを見てホッとした表情を浮かべるものだ。
あいにく、私たちが頭の中で耳にする正常な声(たとえば、自分自身、家族、同僚のそれ)は、ときとして、心の病に典型的な異常な声へと転落することがある。こうした場合、当の人物はその声が自分自身の心から発せられているとは思わず、別の存在(よくある幻聴の例を挙げれば、敵対する人びと、よそ者、政府など)から出たものだと考える。
重要なのは、私たちが内なる声について語るとき、心の病と健康の違いは、二項対立ーー病的対健康的ーーの問題ではなく、文化や程度の問題だということだ。人間の脳が持つ一つの奇癖は、およそ10人に一人が、声が聞こえるとそれを外部要因に帰するところにある。なぜこうしたことが起こるかについては、依然として解明の努力が続いている。

要するに、私たちはみな、頭の中に何らかの形の声を持っている。言葉の流れは私たちの内面生活から切り離せないので、音声障害に陥ったときでさえ途絶えることはない。
たとえば吃音のある人は、声に出して話すときより、心の中でのほうがより流暢に話せるという報告がある。手話を使う聾者は、独自の内的言語を持っているにもかかわらず、やはり自分に話しかける。そこには自分自身を相手にした暗黙の手話が伴っている。耳の聞こえる人が言葉を使って内心で自分に話しかけるのと似たようなものだ。内なる声は精神の基本的特徴なのである。
電話番号を覚えるために頭の中で繰り返したり、何を言うべきかを想像しながら会話を振り返ったり、ある問題やスキルをめぐって自らに言葉で指示を出したりしたことがあるとすれば、あなたは内なる声を使ったことがある。
ほとんどの人は毎日、内なる声を頼り、そこから恩恵を得ている。彼らが現在とのつながりを断つとき、それは往々にしてその声と会話するためか、その声が言わなければならないことを聞くためだーーそして、その声には言うべきことがたくさんあるかもしれない。
思考における言語の流れは非常にせわしないため、ある研究によれば、私たちの内面における独り言のスピードは、声に出して1分間に4000語を発するのに匹敵するという。
こうした事態を客観的に見るため、現代のアメリカ大統領の一般教書演説は通常、約6000語で構成され、1時間にわたって続くことを考えてみよう。
私たちの脳は、それに近い数の言葉をたった60秒間に詰め込む。これが意味するのは、私たちが日々、たいていの人がそうであるように16時間目覚めており、内なる声がその時間の約半分のあいだ活動しているとすれば、理屈のうえでは約320回分の一般教書演説を毎日聞けるということだ。頭の中の声は実に早口なのである。

内なる声はたいていうまく機能するものの、私たちがそれを最も必要とするときに限ってーーつまり、ストレスがたまる、リスクが高まる、冷静さを損なうような厄介な感情にさらされるなどといったときにーーしばしばチャッターへと変わってしまう。
ときに、こうしたチャッターはとりとめのない独り言の形をとる。ときに、チャッターは私たち自身との対話である。ときに、チャッターは過去の出来事の強迫的な蒸し返しである(反芻)、ときに、チャッターは未来の出来事の不安な想像である(心配)。ときに、チャッターは否定的な感情と観念の自由連想的ピンボールである。ときに、チャッターはある特定の不愉快な感情や見解への病的執着である。
だが、チャッターが姿を現すのは、内なる声が暴れ回り、チャッターが心の中のマイクを握るとき、つまり、私たちの心が自らを苦しめるだけでなく、自らを麻痺させるときだ。チャッターはまた、自分に害をなすよう私たちを導くこともある。
だからこそ、深夜に滑稽なほど短いバットを握りしめ、リヒングルームの窓からこっそり外を伺うような事態に陥ってしまうのだ。

私が研究生活の中で手にした最も重要な洞察の一つは、次のことだ。チャッターを減らし、内なる声を制御するのに必要な手段は、探す必要はないのである。それは往々にしてありふれた風景の中に潜み、私たちが出番を与えるのを待っている。それは、私たちの精神的習慣、突飛な振る舞い、日常茶飯事の中に、また、私たちが交流する人びと、組織、環境の中に存在している。
本書において、私はこれらのツールを明るみに出し、それらがどう働くかだけでなく、それらがどう組み合わさって道具箱(ツールボックス)を形成するかを説明する。この道具箱は進化を通じてつくりあげられたものであり、私たちが自分自身との会話をうまく管理するのを助けてくれる。

『Chatter(チャッター)』 はじめに より イーサン・クロス:著 鬼沢忍:訳 東洋経済新報社:刊

本書は、チャッターとは何かを脳科学的な見地から解説し、チャッターを減らす方法についてまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「チャッター」を生み出す脳の仕組みとは?

チャッターは、どのようにして生まれるのでしょうか。
クロスさんは、その仕組みを脳の構造から以下のように解説しています。

 神経科学者は脳の働きについて論じるとき、神経再利用という概念をよく持ち出す。これは、自由に使える限られた神経資源から最大限の結果を得るために、同一の脳回路を使って多様な目的を達成するという考え方だ。
たとえば、海馬は脳の奥深くに位置するタツノオトシゴの形をした部位で長期記憶を形成するが、それとともに、私たちが空間を横切ったり移動したりするの助ける。脳は実に有能な「マルチタスカー(複数の処理を同時に実行する者)なのだ。さもなくば、脳の無数の機能をすべてこなすには、バス1台分の大きさが必要になってしまうだろう。私たちの内なる声も、同じく並はずれたマルチタスカーであることがわかっている。

脳にとって必要不可欠な仕事(タスク)は、いわゆる「ワーキングメモリー(作業記憶)」のエンジンを動かすことだ。
人間は記憶というものを、ロマンチックで、長期的で、ノスタルジックな意味で理解しがちである。記憶とは過去の世界であり、永遠に自分とともにあって人生の物語を織りなす瞬間、イメージ、感覚に満ちあふれているのだ、と。
ところが実際には、私たちは1日のあいだずっと、人の気を散らすさまざまな刺激(音、景色、匂い、などなど)に次々に襲われながらも、絶えず物事の詳細を思い出さなければ活動できない。情報が役に立たなくなればその大半を忘れてしまうとしても、問題はない。情報が活用できる短時間のあいだ、支障なく活動するためにワーキングメモリーを必要とするのだ。
ワーキングメモリーのおかげで、私たちは職場での議論に加わり、ディナーの席で即興の会話ができる。誰かが数秒前に言ったことを思い出し、進行中の会話へうまく取り込める。メニューを読み、料理を注文できる(会話の一つを続けながら)。急を要するものの、長期保存用のストレージにしまうほど重要ではないメールを書ける。
要するに、ワーキングメモリーのおかげで、私たちは社会に出て人として支障なく活動できるのだ。それが働かなくなったり、最適に機能しなくなったりすると、ごく平凡な日常的活動(子供に歯を磨くようしつこく言いながら子供の弁当を詰め、さらにその日に予定されている会議について考えるといったこと)でさえ、それを行なう能力は損なわれてしまう。そして、ワーキングメモリーは内なる声とつながっているのだ。

ワーキングメモリーを構成する重要な要素は、言語的情報の管理に特化した神経系である。「音韻ループ」と呼ばれるこの神経系は、次のように理解するのが最もわかりやすい。つまり、それは脳の情報集散センターであり、私たちの周囲で現に起こっている言葉に関わるあらゆる問題を処理しているのだ。
音韻ループは二つの部分から成っている。一つは「内なる耳」で、それによって私たちは聞いたばかりの言葉を数秒間保持できる。もう一つは「内なる声」で、スピーチの練習をしたり、電話番号を記憶したり、マントラを繰り返したりするときのように、頭の中で言葉を反復できるのはこのおかげだ。
ワーキングメモリーは音韻ループの力を借りて、言語的な神経回路を絶えず稼働させておく。それによって私たちは、自分自身の外側で生産的に活動しつつ、自分の会話を内面へ向けつづけることができるのだ。
私たちは心と世界のあいだのこうした言語的な出入り口を幼少期に形成し、それができあがるやいなや、精神的発展の次なる重要段階(マイルストーン)へと進む。実際、音韻ループは、目の前の状況に対応するという領域にとどまるものではない。

私たちの言語の発達は、感情の発達と密接に関連している。よちよち歩きの頃に声を出して自分に話しかけることは、自分を制御する術を身につける一助となる。
20世紀初頭、ソ連の心理学者レフ・ヴィゴツキーは、言語の発達と自己制御のつながりをいちはやく探求した。彼は、声を出して自分に話しかけ、自分を励ます一方で、自己を批評もするという子供の不思議な行動に関心を抱いた。
子供とともに長い時間を過ごしたことのある人なら知っているように、子供はしばしば自分自身と本格的・自発的な会話を交わす。これは、ただの遊びや想像ではない。神経や感情の成長のしるしなのだ。
こうした行動は単純な発達のしるしだと考えていた当時の指導的な思想家たちとは違い、ヴィゴツキーは、言葉は私たちが自己を制御できるようになる過程で決定的な役割を演じていると考えた。この理論はのちにデータによって証明されることになる。感情を管理する方法の習得は、主要な養育者(たいていは両親)との関わり合いから始まると、彼は信じていた。こうした権威者は私たちを指導する。私たちは往々にして彼らが言うことをまねて、その指導を自分自身に向かって声に出して繰り返す。初めはそれを聞こえるようにやる。ところが、時が経つにつれ、私たちは保護者のメッセージを沈黙の内語として内面化する。
やがて、さらに成長すると、私たちはそれ以降の人生で自らの言葉を使って自らを制御するようになる。もちろん、だからといって、私たちはつねに両親が望むことをするようになるわけではないがーー私たちの言語の流れは最終的に、自分の行動を創造的に導く独自の輪郭を発展させるーー人生の初期におけるこれらの発達経験は、私たちに大きな影響を与える。

ヴィゴツキーの観点は、私たちが内なる声を使った自己制御をどう習得するかを説明するだけではない。それはまた、一つには養育を通じて、内なる会話がどう「調整」されるかを理解させてくれる。社会化に関する数十年の研究が示すところでは、私たちの置かれた環境は、自己制御についてどう考えるかを含め、私たちの世界の見方に影響を与える。
家庭の中で、私たちが子供の頃に両親は自己制御の模範を示す。両親の教えは私たちの発展途上の内なる声に浸透する。父親は、争いを解決するために暴力を使わないようにと繰り返しうかもしれない。母親は、失望することがあっても決して諦めないようにと繰り返す。そして、それらの言葉は私たち自身の言語の流れを形成しはじめる。
もちろん、両親の権威的な声はそれ自体、より広範な文化的要因によって形づくられている。たとえば、大半のアジア諸国では、目立つことは社会の一体感をおびやかすため顰蹙(ひんしゅく)を買う。対照的に、アメリカ合衆国をはじめとする西洋諸国は自主性を重んじるため、両親は子供の個人的な探求を称賛する。
社会が教える宗教や価値観も同じく、家庭の規範の中に滲み出る。要するに、文化の声は両親の内なる声に影響し、それが今度は私たち自身に影響し、さらにそれが引き継がれていくのだ。いくつもの文化や世代が一体となって、私たちの心を調整しているのである。私たちは、心の会話のマトリョーシカ(ロシアの入れ子人形)のようなものなのだ。
とはいえ、文化、両親、子供の間の影響は一方的なものではない。子供の振る舞い方が両親の声に影響することもあるし、私たち人間が、より大きな文化の形成・再形成において役割を演じてもいるのは言うまでもない。
したがってある意味で、私たちの内なる声は、子供の頃は外側から内側に入ることによって自分の中に住みつくが、のちに内側から外側に向けて私たちが語ることで、周囲の人びとの内なる声に影響を与えるのだ。

『Chatter(チャッター)』 第1章 より イーサン・クロス:著 鬼沢忍:訳 東洋経済新報社:刊

私たちは、脳の中の「ワーキング・メモリー」を使って、いろいろな作業をしています。

「音韻ループ」を構成する「内なる耳」と「内なる声」。
その二つの部位を繰り返し「ループ」することで、短期間の記憶が可能になります。
これがチャッターの正体です。

言語を覚え、感情を抑え、自我を獲得する。
音韻ループは、そんな子供の成長する過程でも大きな働きをします。

子供の頃の「内なる声」が、大人になっても残って、チャッターとして悪さをすることもあるということですね。

「問題と心理的な距離を置く」ことの効果

私たちを悩ませるネガティブな心の対話「チャッター」を鎮めるには、どうしたらいいのでしょうか。

クロスさんは、「問題と心理的な距離を置く」ことが重要だと指摘します。

自分の経験をより効率的に振り返るために「一歩下がる」。
そのために必要となるツールは、想像力を使って「視覚化する能力」です。

 この種の強力な視覚装置は、人間の精神に組み込まれている。つまり、自分を遠くから見る能力のことだ。過去の不愉快な体験について考えたり、不安を呼ぶ将来のシナリオを想像したりするとき、こうした心のホームシアターがさまざまなシーンを映し出すことがわかっている。携帯電話に保存された動画のようなものだ。
だが、これらのシーンは完全に固定されているわけではない。研究によれば、私たちは毎回同じ視点から記憶や空想を眺めるわけではないという。異なる視点から見ることができるのだ。
たとえば、私たちはときに、自分の目を通して、あるシーンをあたかもその出来事の主人公として経験したかのように一人称で再現する。だが、自分を「外側から」他人の視点に立ったかのように見ることもできる。まるで壁に止まったハエのように、こっそり他人を観察する存在となるのだ。この能力をうまく利用して、内なる声をよりよく制御できないものだろうか?
オズレムとウォルターと私は、被験者を研究室に招き入れ、答えを探すことにした。そのために、一方のグループには、動揺した記憶を自分の目を通して心の中で再現するよう依頼した。傍観者として視覚的に自分を観察するのだ。その後、それぞれに指示された視点から感情と向き合うよう求めた。両グループを特徴づける言葉の流れの違いは際立っていた。
「埋没者」ーー一人称の視点から出来事見た人びとーーは、感情と自分が解き放った言葉の洪水にとらわれてしまった。思考の流れを説明しようとする彼らの表現は、苦痛に照準を合わせることが多かった。ある被験者は「アドレナリンが噴出した。いらいらした。裏切られた」と書いている。「頭にきた。犠牲になった。傷つけられた。恥をかかされた。踏みつけられた。屈辱を受けた。見捨てられた。感謝されていない。無理強いされた。境界線が踏みにじられた」とも。「内面に目を向け」内なる会話と向き合おうとする彼らの努力は、さらにネガティブな感情を生み出しただけだった。
一方、「こっそり他人を観察」のグループの語りは対照的だった。
埋没者が感情に絡めとられてしまったのに対し、「傍観者」は視野を広げ、そのおかげで気分も楽になった。「口論をより明瞭に眺められた」と、ある人物は書いている。「最初は自分自身に感情移入していたが、その後、友人の気持ちもわかりはじめた。理不尽だとは思うが、彼の動機は理解できる」
傍観者の思考のほうが明晰で複雑であり、案の定、第三者としての洞察力をもって出来事を見ているようだった。彼らは建設的な物語のおかげで経験から抜け出すことができた。この実験によって、一歩下がって経験の意味を理解することは、内なる声のトーンを変えるのに有用であることが証明された。

それからまもなく、さらに多くの研究で、私たちをはじめとする研究者が次のような発見をした。こうしたズームアウトによって、人びとのストレスに対する心臓血管系の闘争・逃走反応が抑制され、脳内の感情活動が沈静化し、人びとが怒りを煽(あお)られてもーーチャッターをかきたてる肥沃な土壌となる状況であるーー敵意や攻撃性はより控えめになるのだ。
また、距離を置くというこのテクニックは、無作為に選んだ大学生の集団だけでなく、より極端な形で内なる声に苦しめられている人にも有効であることがわかった。たとえば、鬱(うつ)状態にある人びとや、子供がつらいがん治療を受けていることで不安に苛まれいる両親などだ。
だが、私たちの研究成果は、この時点ではまだ限られていた。明らかになったのは、距離を置くと、その瞬間私たちにどのような影響が及ぶかということだけだった。その影響が持続し、人びとが反芻(はんすう)に費やす時間を短くできるかどうかも知りたかった。
この問題の探求に興味を抱いていたのは、私たちだけではなかった。
私たちが最初の研究成果を発表してまもなく、フィリップ・ヴァーダイン率いるルーヴァン・カトリック大学(ベルギー)の研究チームが巧妙な一連の研究を考案した。研究室以外の日常生活において、距離を置く傾向が人びとの感情エピソードの持続時間に影響するかどうかを調べるものだ。
彼らの発見によれば、傍観者の視点に立つことで問題から距離を置くと、怒りや悲しみを感じる出来事を経験したあとで人びとが抱く否定的な気分は持続時間が短くなる。距離を置くことによって、チャッターという局地的な火事を、長時間燃え続ける大火災になる前に鎮火できるのだ。
とはいえ、距離を置くことの抑制的な性質には予期せぬ影響もある。距離を置くことによって、ネガティブな経験とポジティブな経験がともに短縮されてしまうのだ。つまり、職場で昇進したところで、一歩下がって、大局的な見地からすれば地位や金などどうでもいいことだとか、どうせ最後はみんな死ぬのだなどと考えれば、湧いて当然の喜びが減ってしまう。
よって、次の点に注意することだ。もしポジティブな経験を長く味わいたければ、決して、壁に止まったハエのような存在になってはいけない。そういうときには、ひたすら埋没するといい。
この頃には、感情を揺さぶる経験を振り返るときに、私たちは心理的に埋没するか、心理的に距離を置くかのいずれかになりがちだということが明らかになっていた。とはいえ、どちらかの状態に閉じ込められるわけではない。私たちが持つこれらの傾向は内なる声のパターンを形づくるが、幸いにして、意識的に視点を変えるという人間の能力も同様に内なる声のパターンを形づくるのだ。
私たちの研究とヴァーダインの研究に加え、同時期に発表されたその他多くの研究を通じて、距離を置くことが感情をコントロールする際に果たす役割について、私たちの理解は変わりはじめた。
たとえばスタンフォード大学の研究者たちは、中立的な傍観者の視点に立つと、時間が経つにつれて反芻が少なくなると発表した。大西洋の向こう側では、ケンブリッジ大学の研究者たちが、「大局的に見る」ことを人びとに教えると、侵入思考(脳の実行機能を消耗させるタイプの思考)と辛い記憶の回避が減少することを発見した。別の実験では、想像すると苦しくなる映像の大きさを縮小するだけでも、その映像を見た人々の動揺を抑えられることが証明されさた。
さらに別の研究では、距離を置くという概念が教育に応用された。それによると、宿題をする大局的な理由に注目するよう9年生を指導するーーたとえば、学校でいい成績をとればやりたい仕事に就けるし、大人になったとき社会に貢献できると強調するーーと、彼らの成績平均点は上がり、退屈だが重要な課題にいっそう集中しつづけるようになることがわかった。
したがって「距離」というものは、動揺するような状況で覚える激しい感情だけでなく、仕事や学校の重要だがうんざりする時間につきもののいらだちや退屈といった、ささいだが無視できない日々の感情的な難題ともうまく折り合いをつけられるようにしてくれるのだ。

『Chatter(チャッター)』 第3章 より イーサン・クロス:著 鬼沢忍:訳 東洋経済新報社:刊

映画を観ていても、スクリーンの中にいるかのように完全に登場人物になり切るのと、客観的に座席からスクリーンを眺めているのでは、リアル感が違います。

「内なる声」に対しても、それと同様のことが言えるということですね。

チャッターは、繰り返されることで、どんどん強くなっていきます。
それと比例するように、ネガティブな感情も膨れ上がります。

感情のコントロールの秘訣は「距離を置くこと」。
覚えておきたいですね。

「距離を置いた自己対話」の恩恵

内なる声から「距離を置く」。

そのためのツールの一つとしてクロスさんが紹介しているのが「距離を置いた自己対話」です。

 私たちの実験や、その後のさまざまな研究によって、一人称の「私」の代わりに二人称の「あなた」や三人称の「彼」「彼女」を使うことで、感情的な距離をとるためのメカニズムが手に入ることが証明されている。つまり、距離を置いた自己対話は、人間の言語構造に埋め込まれた心理的技術なのだ。いまでは、その多様な恩恵がわかっている。
別のいくつもの実験を通じて、人びとは距離を置いた自己対話を使うことで、第一印象を良くし、ストレスのかかる問題解決課題でパフォーマンスを改善し、賢明な推論を促進できることが示されてきた。「こっそり他人を観察する」ことで距離を置く作戦とまったく同じである。
距離を置いた自己対話は、合理的思考を促しもする。たとえば、2014年のエボラウイルス危機に際して、アメリカでも伝染するのではないかと怯える人がいた。そこで、私たちはアメリカ全土を対象にインターネット調査を実施した。
エボラウイルスを心配しつつも、エボラがその後どれほどの脅威となるかについて、「私」の代わりに自分の名前を使って考えるよう指示された人びとは、事実に基づき、心配するには及ばない理由をより多く見つけた。そのため、彼らの不安とリスク認識は低下するものと予測された。彼らはもはや、自分がエボラ熱に罹患(りかん)しそうだとは考えていなかった。これ、より正確な現実認識であり、それまでパニック状態だった内なる声に口輪をはめるものだった。

研究から次のようなこともわかっている。距離を置いた自己対話は、私が研究してきた中でも最もチャッターを誘発しそうなシナリオの一つ、つまり、大切な人への愛と道徳原則のどちらかを選ばなければならない場合にも役に立つ可能性がある。たとえば、知り合いが罪を犯してしまい、彼を守るか、それとも罰するべきかの選択を迫られるような場合だ。
こうした内的葛藤が生じると、人びとは罪を犯した知り合いを通報するよりも、守る傾向がかなり強いことが研究によって示されている。私たちは常日頃、こうした現象が決断を左右するのを繰り返し目にしている。たとえば、大学の管理者や体操関係者は、少女への猥褻(わいせつ)行為によって有罪判決を受けたラリー・ナサール医師を止めることができなかった。
特定の相手を守るよう動機づけられる理由が、その人物と近しいからというものなら、距離を置いた自己対話をすれば、自分自身から、また他人と共有する関係から一歩退くことができるため、相手を守ろうとするこうした傾向を抑えられるはずだ。
案の定、いくつかの実験を通じて、私たちはまさにそうした事実を発見した。たとえば、ある研究で、教え子と私はこんな状況をありありと想像してほしいと被験者に頼んだ。大切な人が他人のクレジットカードをこっそりと使ってしまうといった罪を犯すところを目撃したあとで、やってきた警察官に何か見なかったかとたずねられたとする。どうすべきかについて被験者が自分の名前を用いて考えた場合(たとえば「この決断を下すとき、マリアはどんな事実を考慮するだろう」)、警察官に重大な犯罪を報告する傾向が高かったのだ。

こうした発見は、距離を置いた自己対話の力を実証したものの、それを価値あるものとするもう一つの特性、すなわち「スピード」については何も語っていない。
自分の名前を口にして気持ちを落ち着かせることに関して何より興味深いのは、それが実に簡単だということだ。感情をコントロールするには時間がかかるのが普通である。あることに関する感じ方が将来どう変わるかを想像するため、心の中でタイムトラベルをする、自分の考えや気持ちについてじっくり考えるために日記をつける、あるいは、こっそり他人を観察する視点から過去の経験を振り返るために目を閉じることでさえ、どれだけの努力を要するかを考えてみてほしい。
これらはいずれも、自分と距離を置くためのツールとして、実験によって効果が確かめられている。ところが、それには努力が必要なので、おいそれと実行に移すのは必ずしも容易ではない。
そこで、私の経験について考えてみよう。私は自分の名前を口にしただけだったが、それによって私の内なる声はまったく異なる軌道に乗った。まるで、Y字の分岐点に差しかかった列車が方向転換するかのように。距離を置いた自己対話は、ほかの多くの感情統制戦略とは異なり、迅速にして強力であるように思える。それはどうしてだろう。

言語学において「転換子」とは、人称代名詞(「私(I)」や「あなた(you)など)のように、誰が言っているかによって意味が変わる言葉を指す。たとえば、ダニーが「ケチャップをこっちにくれる?(Can you pass me the ketchup?)」と頼み、マヤが「はいどうぞ(Sure,here you go.)」と答えた場合、「you」が表す人物は変わっている。最初はマヤを、次はダニーを指しているのだ。
たいていの子供は、言葉がこのように機能することを2歳までに理解し、数ミリ秒以内という信じられない速さでこうして視点を切り替えられるようになる。
「転換子」の概念から明らかになるのは、視点を切り替えるのに、特定の言葉がどれほど大きな力を持っているかということだ。距離を置いた自己対話も同じようなメカニズムで機能し、最小限の労力でバーチャルかつ自動的に視点を転換させるのではないかと、私たちは考えた。

ミシガン州立大学の心理学者ジェイソン・モーザーと私は、言葉と心理的距離に関わるこうしたレンズを利用して、距離を置いた自己対話がどれほど速やかに機能するかを測る実験を考案した。だが、人びとの内なる声に耳を傾けるのではなく、脳に注目した。
この実験では、心をかき乱すような写真を見るたびにどんな気持ちになるかを被験者に考えてもらったのだが、その際に埋没した言葉(「私はどんな気持ちだろう?」)が、そうしてもらっているあいだ、私たちは脳波計を使って彼らの脳の電気的活動を観測した。この装置は、さまざまな心理的作用が脳内でどれほど速やかに働くかを測るのに役立つ。
測定結果を見ると、心をかき乱すような写真を見たあとで、距離を置いた言葉を使って自分の感情を振り返ったときのほうが、被験者の脳の感情的な動きははるかに小さかった。
だが、重大な発見は、被験者が距離による安心感を覚えるのにどれくらい時間がかかるかという点だった。人びとに不快な写真を見せてから1秒もしないうちに、感情的な動きに変化が現れたのだ。
わずか1秒。それだけだった。

私たちを同じくらいわくわくさせたのは、この種の自己対話が脳の実行機能を酷使する証拠が見つからなかったことだ。これはきわめて重要だった。距離を置くためにもっと労力を要するテクニックだと、一種の板挟み状態が生じるからだ。
つまり、チャッターがやかましいと、集中し、距離を置き、内なる声の主導権を取り戻すのに必要な神経資源を奪われてしまう。だが、距離を置いた自己対話はこの難局をうまく回避する。首尾は上々でありつつ、労力は少なくてすむのだ。

自分について考える際に使う言葉を変えることで、ストレスに対処するための距離を超高速で確保できるなら、そのことが内なる声の流れにも影響を及ぼすのは当然だ。
結局のところ、距離を置いた自己対話にそれができるのは、人間が誰しも備えている能力を利用するとによってである。つまり、ストレス源を脅威ではなく挑戦と解釈する能力だ。

『Chatter(チャッター)』 第4章 より イーサン・クロス:著 鬼沢忍:訳 東洋経済新報社:刊

自己対話の主語は、当然「私」です。
それを「あなた」や「彼」「彼女」に置き換えることで客観的に眺めることができます。

私たちが使っている日本語は、主語が曖昧になりがちです。
なので、余計に視点の切り替えを意識してやる必要がありますね。

「儀式」がチャッターを鎮める!

チャッターを鎮める道具の一つが「儀式」です。

クロスさんは、儀式が個人的か集団的かにかかわらず、多くの人が、チャッターを経験する際に自然にこの魔術じみた行為に頼り、それによって内なる声が軽減されることが、研究から明らかになっていると述べています。

 儀式はたんなる習慣や日課ではないと肝に銘じることが重要だ。いくつかの特徴により、儀式は私たちの生活にあふれている実務的習慣とは一線を画する。
まず、儀式は厳密に同じ順序で行われてる一連の行為から成ることが多い。習慣や日課とは、そこが違う。習慣や日課は、行為の各段階の順序がもっと大まかだったり、たびたび変わったりする。
私の日課の一つを例にとろう。私は毎朝、起床後に三つのことをする。甲状腺の薬を1錠口に放り込み(腺の働きがほんの少し悪いので)、歯を磨き、お茶を1杯飲む。主治医は薬を先に飲むように勧めるが(空っぽの胃に入れたほうが代謝がいいそうだ)、いつもそうするとは限らない。真っ先にお茶を飲む日もある。起きるやいなや歯を磨く日もある。それで問題はない。決まった順序にしないからといって、一連の行為をやり直すべきだとは感じないし、行為の順序が、良くも悪くも、私に大きな影響を及ぼすことはないとわかっているからだ。
さて、私が毎朝することと、オリンピックに出場したオーストラリアの水泳選手ステファニー・ライスが毎回試合の前にすることを比べてみよう。
彼女は両腕を8回回し、ゴーグルを4回押さえ、キャップに4回触れる。いつもそれをやる。この動作の連続は、他の多くの個人的儀式と同様に、ライス個人が独自に編み出したものだ。実のところ、儀式を構成する個々の手順は、実現を目指す幅広い目標とは何の関連もないように見える。たとえば、ライスがゴーグルとキャップを4回押さえることが、なぜ速く泳ぐことに役立つのかはわからない。それでも、彼女に取ってはそうすることに意味があるのだ。こうして、私たちは儀式の2つ目の特徴に導かれる。
儀式には意味が込められている。儀式が意義に富むのは、その陰に肝心な目的があるからだ。死者への敬意を込めて墓石の上に小石を置く場合でも、穀物の生育を願って雨乞いの踊りをする場合でも、聖体を拝領する場合でも、それは変わらない。
儀式がより大きな意味を帯びるのは、一つには、私たちが直接的な関心事を超越して自分自身よりも大きな力とつながるのを助けてくれるからだ。儀式は私たちの視野を広げると同時に、他の人びとや力との連帯感を強めてくれる。

儀式が内なる声の制御にこれほど役立つのは、儀式はチャッターを減らすカクテルであり、複数の経路を通じて効くからだ。
儀式はまず、心を乱すものから注意を逸らしてくれる。儀式という課題を実行せよと作業記憶に要求するため、不安や後ろ向きな心の声が入り込む余地がほとんどなくなる。試合前の儀式がスポーツ界で広く実践され、不安が最も高まる時に気を紛らわしてくれる理由は、ここにあるのかもしれない。
多くの儀式が秩序感覚ももたらしてくれるのは、私たちが自らコントロールできる行為を行なうからだ。たとえば、親はわが子の一生に起こることをすべてコントロールすることはできず、子供を守れるとしても限度があるため、それが多くの親にとってチャッターの源となる。それでも、子供が生まれたときには、洗礼をはじめとするさまざまな誕生の儀式を行なって、コントロール可能という幻想を抱くのだ。
儀式は意味を吹き込まれており、個人的関心事を超越した目的あるいは力に結びつくことが少なくないため、大切な価値観やコミュニティとのつながりも感じさせてくれる。このことが私たちの感情的欲求を満たし、孤立を防ぐ働きをする。
儀式のそうした象徴的特徴はしばしば畏怖の念を抱かせ、その畏怖が私たちの視野を広げ、自分の気がかりなど取るに足らない懸念だと感じさせる。もちろん、儀式はプラセボ(偽薬)としても頻繁に作用する。儀式が助けてくれると信じれば、助けてくれるのだ。

儀式の最も興味深い側面の一つは、しばしばそうとは知らずに行われていることだ。
チェコ共和国で行われたある実験では、大学生たちは高いレベルの不安を体験させられると、儀式化された清掃行動をとる回数が増えたという。子供たちについても同様の研究結果が出ている。ある実験では、仲間から社会的に排斥された6歳児は、繰り返し儀式めいた行為をする傾向が、排斥されていない他の児童よりも強かった。
私自身にも、同様に儀式に頼った個人的経験がある。本書の執筆に行き詰まってコンピューターの画面を見つめ続け、この本を完成できるだろうかという疑念が内なる思考の流れを満たすと、いつの間にかキッチンへ向かい、食器を洗い、カウンターを拭き、仕事部屋に散らかった紙類を整理していた(妻はそうした目新しい行動を奇妙だと感じたものの、普段は散らかし放題で片づけをしない私の性向を知っているので、反対はしなかった)。
本章に取り組みはじめてようやく、それが執筆の遅れと迫りくる締め切りという絶望に対処する私なりの儀式であることに気づいた。
儀式のこのような有機的発生は、脳の素晴らしい能力の産物のように思える。望ましい目標ーー目的を達するために、内なる声がひどく後ろ向きになってしまうのを避けるという目標ーーを達成しつつあるかどうかを監視する能力だ。
多くの有力な説によれば、人間の脳はサーモスタットのようにできていて、現在の状態と望ましい状態とのあいだに生じる差異を検知するという。差異が検知されると、温度を下げるよう信号が発せられる。儀式を行なうことは、そのための一法なのだ。

私が強調したいのは、チャッターが生じたとき、儀式を行なうよう無意識に促されるのを待つ必要はないということだ。
儀式は意図的にも行なえる。いまでは私も、仕事で行き詰まったと感じたときにそうしている(うちのキッチンと仕事部屋はかつてないほど片づいている)。やり方はいくつもある。そのうちの一つは、自分なりの儀式をつくり出し、ストレスの元となる出来事の前後に行なったり、チャッターへの対処に役立てたりすることだ。
完全に恣意的だが厳密に手順を定めた行為を促すのも効果的であることが、複数の実験により明らかにされている。
たとえば、ジャーニーの「ドント・ストップ・ビリーヴィン」を歌ってもらうカラオケの実験では、被験者たちは、自分の気持ちを絵に描き、その上に塩を振りかけ、1から5までを声に出して数え、それからその紙を丸めてくずかごに捨てるよう指示された。この1度限りの儀式に頼るだけでも、歌の出来がよくなったのだ。
しかし、実験の場で人々が行なう儀式からは、文化的意味が取り除かれている。文化的意味は、畏怖の念、社会的つながり、超越の感覚をもたらすため、さらなる恩恵を与えてくれることがわかっている。
それを念頭に置けば、チャッターに対処するために儀式を利用する際、帰属する家庭や、職場や、より広範な社会的組織の文化が伝える儀式に頼るのも一法だ。宗教を頼って礼拝に赴くのもいいし、あるいは、その家庭ならではの風変わりだが有意義な儀式を頼みとするのもいいだろう。たとえば、私は毎週日曜日の朝、ジムで運動して帰宅すると、子供たちのためにワッフルを焼く。
儀式の由来や、どのように形成されたかどうかはどうでもいい。儀式はとにかく役に立つのである。

『Chatter(チャッター)』 第7章 より イーサン・クロス:著 鬼沢忍:訳 東洋経済新報社:刊

儀式は、その行為をすることで、注意が逸れるというメリットがあります。
チャッターで溢れているワーキングメモリーを意識的に使うことで、その支配力を弱めるわけですね。

それだけでなく、「この儀式をすれば、大丈夫」という心理的な暗示をかけることができます。
私たちも、生活の中に儀式を取り入れて、チャッターと上手に付き合っていきたいですね。

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チャッターという「頭の中のしゃべり声」を鎮めていくと、聞こえてくるもの。
それは心の奥底から湧き上がってくる「内なる声」です。

内なる声は、私たちの本質、つまり「魂」から発せられる声です。
それは、私たちの生活をより質の高いものにし、幸せな人生へと導いてくれるでしょう。

人生に迷ったり、不安を感じたりするのは、チャッターに惑わされているからです。
まるで太陽の日差しを遮るぶ厚い雨雲のようなもの。
雲がなくなれば、誰でも暖かいお日様を拝むことができます。

本書は、そんな心の曇りを取り除く手助けとなること間違いなしです。

Chatter(チャッター)―「頭の中のひとりごと」をコントロールし、最良の行動を導くための26の方法

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