本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『縁の扉をひらく』(Kan.)

お薦めの本の紹介です。
Kan.さんの『縁の扉をひらく 運の良し悪しを超えた世界へ』です。

Kan.(かん)さんは、クンルンネンゴン継承者です。
古代より伝わるタオの教えを現代に伝えられています。

自分の「奥底」に潜んでいるものと出会う生き方

今、この世界は、ものすごいスピードで変わりつつあります。

これまで当たり前だった価値観が崩壊し、これからどう生きていけばいいのか悩む人もますます増えています。

Kan.さんは、この状況に対してこれまでは、根底にあったものと表面的なものがあまりにもかけ離れていて、それが今、露呈し始めていると指摘します。

 しかし、どういう時代になっても変わらないものがあります。それを考察し掘り下げることができれば、これから生きていくためにも遅いということはありません。では、考察し掘り下げるとはどういうことか。それは、頭であれこれ考えることでもなければ、状況をただ眺めているだけとも違います。どんなに大変なときでも、しっかり「奥底」に入っていけるかということです。

調教されて模範的な生き方をしようとすると、うそが生まれます。人から「こう生きましょう」と言われたからそうするのではなく、自分で本当のことを見つけていく。今こそ、自分の「奥底」に潜んでいるものと出会う生き方をすべきときに来ているのです。
人生とは「生まれてから死ぬまでのあいだ」。死がいつ訪れるかはわかりませんが、生まれてきた以上死ぬことは決まっています。予言ではなく事実です。魂がこのボディを離れるときに気づくのは、この人生が価値あるものだったかどうかです。周りの人に気に入られることに労力と時間を費やしても、息を引き取るとき、「本当にこの人生に納得したか」と突きつけられます。誰かに教わったように生き方を変えるのではなく、自分が納得する生き方を探求し続けるほうがはるかに重要なのです。
自分ひとりが体験できることは少ししかありません。さまざまな人が、他の人には体験できないような領域を持っています。ですから人の話を聞くことは大切なのですが、そのまま鵜呑(うの)みにするのは違います。

私は若い頃から旅多き人生であり、注目すべき人々との出会いがありました。あるとき、道教の秘術「クンルン・ネイゴン」と出会い、私は還元の人生に入りました。
注目すべき人々に共通するのは、「人の話を鵜呑みにしない」ということでした。どんなに偉い人の言うことでも、決して鵜呑みにしてはいけない。いかなる人の話も、ヒントにするくらいがいちばんいいのです。自分の考え方を編み出し、そこに人の考えを入れて、さらに自分で答えを出す。人と自分の答えが違うなら「違う」でいい。自分で腑(ふ)に落とすことが大事です。

ここからお伝えする話は、考える材料としての価値はあると思いますが、決して鵜呑みにしないでください。一度自分の中にちゃんと入れて、自分なりの答えを出すようにしてください。
ときには矛盾しているではないかと憤ることもあるかもしれません。そして、皆さんの頭の中にたくさんの疑問符をつけることになるでしょう。でも、急いで答えを見つけようとしないでください。頭で理解しようとしても無理だからです。ただ、一度疑問を持ったことは、一年かかろうが十年かかろうが必ず自分の射程圏内に入ります。だから焦らなくて大丈夫です。

『縁の扉をひらく』 はじめに より Kan.:著 フォレスト出版:刊

これまで通り表面的なものに関わりながら生き続ける人。
自分の「奥底」に潜んでいるものに気づき、それを大切にしながら生きていく人。

Kan.さんは、両者の距離はますます広がり、ますます二極化が進んでいくと指摘します。

本書は、自分の「奥底」に潜むものと出会い、自分自身が本当に生きたい人生を生きるためのノウハウをまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「意識」とは、何か?

私たちが、自分の「奥底」に潜んでいるものと出会うために気をつけるべきこと。

それは「意識」です。

「今」に意識を向けることは簡単です。今あなたがいるこの部屋、この椅子、本の感触をしっかり五感で認識できるはずです。では十年前、あなたは何をしていましたか。十年後は何をしているでしょうかか。
十年前の今頃、自分は何をしていたのかと思いを巡らせたり、十年後は「こんなふうに過ごしているだろう」と思いを馳(は)せたり。そのときあなたは過去や未来を意識したと思われるかもしれませんが、それは意識というより想像です。十年前、十年後を思っても、それは大体「今」を意識しているにすぎません。
よく「胸に手を当てて考えてごらん」という言い方をしますが、そのとき胸に手を当てたらそれは意識です。「頭がちょっと痛いな」、これも意識です。「ちょっと食べ過ぎたのでおなかが痛い」、これも意識です。意識は大体限定的で、胸に手を当てる、頭が痛い、おなかが痛いなどわかりやすいのです。現代人の意識の使い方は、狭い範囲にフォーカスするだけです。
私のいう意識とは、「本当に十年前に意識を持っていけるのか」「ちゃんと十寸先に意識を持っていけるのか」。これは、自分の肉体を構成する60兆個の全細胞に意識を持っていくことと同じ。文字通り、「すべて」に意識を向けることは可能なのか、ということなのです。そして、意識をどう持つかによって、人生はいかようにもなります。

2019年、ブラックホールの撮影に成功したというニュースがありました。ブラックホールの画像が地球上を駆け巡ったのです。
ブラックホールは時間と空間の最果てにあるゆえ、それまでは推測でしかありませんでした。見えた瞬間見えなくなり、次の瞬間は見えるようになる、そのぎりぎりのところが撮影された。つまり、「ブラックホールがちゃんと目に見えた」ということです。
これは地球の住人にとって快哉(かいさい)すべき出来事でした。誰かがブラックホールの撮影に成功したら、それは個人の出来事ではなく、人類全体の出来事です。興味があろうがなかろうが、自分の潜在意識からスーパー意識まで、ブラックホールが浮上したことを意味します。
ブラックホールは、すべての物質が吸収されてなくなっていくところです。今まで物質だったすべてのものが、物質ではないところに消えてしまうのです。

では、さっきまで生きていた人が息を引き取り、抜け殻になったとき、それまでその人を生かしめていた本体はどこにいったのか?
これは大命題です。生きている人がどう解釈してもすべて推測です。
このように、今まであったものが跡形もなくなってしまうものの代表が、時間と空間でしょう。時間と空間の中にいることを人生と言います。私たちは人が息を引き取ることを、「なくなった」と言います。何がなくなったのか。それは、時間と空間がなくなったのです。人が時間と空間のないところに行ってしまうことを、「死」と呼びます。消失するのではなく、「時間と空間のないところ」に行くのです。
「時間と空間のないところ」はずっと存在していました。ブラックホールは宇宙のあらゆるところに無数にあるからです。人体の中にもあります。ブラックホールはごく普通にそこかしこに存在します。ところが今までは、「ブラックホールはわからない」という前提で歴史が進んでいたので、「時間と空間のないところ」は言及されてこなかっただけです。
そこへブラックホールの撮影成功が発表になったということは、「時間と空間のないところは存在する」という説にゴーサインが出たことを意味します。すなわち「人が死を迎えたら、『時間と空間のないところ』に行くことがわかった」ということでもあります。つまりこれからは、「時間と空間のないところに行くことがわかった時代」に突入しました。今まで私たちは時間と空間の中にいましたが、ここから先は時間と空間を超えた世界で生きていくのです。
これからは、時間と空間のないところが存在すると認識した後の世界に入っていく覚悟をしたほうがいい。そうすると、そこに一条の光が入ってきます。本当に世界は既にガラッと変わっているのです。そろそろ自分の呪縛を解いていい頃です。
ただし頭で考えようとすると難しく感じます。頭で考える癖がついているのは、今まで「時間と空間に閉じ込められた星」という前提があったからです。でもここからは、本当の認識までポテンシャルを開いていける可能性が出てきたということになります。
そして、絶対に私の話を鵜呑みにしないように。私の話を一生懸命理解したら、それは私の話になってしまいます。そんな時代遅れなことはやらないでください。私たちには寿命があるのですから。

ありとあらゆることは変わっていきます。たとえば、19世紀に生まれた機械式蓄音器は、20世紀になると電気式蓄音機になりました。昭和の後半になるとレコードからカセットテープに録音し、やがてCDが出て、平成の時代になるとダウンロードが普通になり、令和の今は直接クラウドにアクセスするようになりました。
人為的に電気をつくる方法を発見したのは18世紀から19世紀にかけて。その方法を今も使っています。ただ、私たちは電気のつくり方は知っていますが、その電気がどこからくるのかは誰も知りません。
電気は蓄積でないため、一日当たりの電力を計画的につくります。自然災害も含め何か深刻なアクシデントがあると、地域全体が停電になります。
特に現代の都市は停電になると大騒ぎになります。今の私たちの生活は電気がすべて。高層ビルもエレベーターも電気で動きます。もしエレベーターがなかったら、60階のオフィスに行くのに階段で上らなければいけません。体力の問題もありますが、時間もかかります。そして上がったら下りなければいけません。人間の生理学で言えば下りるほうが大変。上がったら最後、死ぬ思いで下りることになります。
電気が一瞬にしてこの文明から消えることはあり得ることです。そうすると、まずエレベーターが動かなくなります。マンションのドアが開かなくなり、水洗トイレも流れなくなります。今の生活から電気がなくなると、生きていくのは大変になります。そうなったら、恐らくこの文明は簡単に滅びます。
そして500年ほど経(た)ったとしましょう。この文明の末裔(まつえい)たちがわずかに生き延びています。その人たちが語り部になり、この文明を伝えていくのですが、説明できないことがたくさんあります。文明が進化したため電気システムは過去のものとなり、もはや存在しません。高層ビル群はただの遺跡となっています。
そこで観光客は遺跡ツアーに出かけます。500年前の人々が、狭い箱で上層階まで上っていたことはわかるのですが、何を動力源にしていたのかがわかりません。
「当時の人たちは、こんな箱で何十階もの上までどうやって行き来していたのだろう」
これが500年後の人たちの関心事になります。同じことが、現在のピラミッドで起こっているのです。

『縁の扉をひらく』 第1章 より Kan.:著 フォレスト出版:刊

私たちは、「意識」という枠組みで切り取って、この世界を認識しています。
意識という枠組みが大きくなるほど、私たちの認識する世界は広がり、知識や可能性も広がります。

そして、個人の意識の集合体が、人類全体の意識になります。

私たちの意識が「時間と空間のないところ」を、当たり前のように認識できるようになったとき。
この地球は、これまでとはまったく違う姿を見せてくれるでしょう。

「みぞおち」は、心を映す“水面の月”

Kan.さんは、自分の中から来るものを発見できること。これが人にとって非常に重要であり、そのヒントこそみぞおちにあると指摘します。

 ギャップに苦しんでいる人々を丁寧に観察していると、ほとんどの場合、みぞおちが硬いことに気づきます。みぞおちが硬いと、本来の状態に戻れないのです。
みぞおちは、心と身体の両方をカバーする唯一の部位です。みぞおちにふれることができれば、心も身体もともに癒されます。そしてみぞおちは、弾力性のある状態が望ましい。柔らかすぎても失われるものがあります。みぞおちに程よい弾力性があれば、みずみずしい人生を生きることができるのです。

胸骨とお腹の境目をみぞおちと言います。東洋医学では「鳩尾(きゅうび)」と書きますが、わが国の古流の武術でいうと、「水月(すいげつ)」と呼びます。なぜ昔の人は「水月」と言ったのか。
昔は、剣術の果たし合いというものがありました。当時の果たし合いは宿命。剣を交えたいわけではないけれど、組織の代表となれば仕方がない。ただの殺生(せっしょう)や暴力ではありません。そしてこの果たし合いは高い確率で、月明かりのもとで行われました。
昔の人は、夜の池や湖、海など、水面に映る景色を愛(め)でていました。私たちもそうでしょう。海に映った月や、池に映った夜桜はなお美しい。誰もが目を細めて眺めています。私たちの原風景に違いありません。果たし合いが月明かりのもとで行われたのは、「命のやり取りをしなければいけないのなら、自分がともに生きた『自然』の中で」、そう思ったのです。
剣を構えて敵と対峙(たいじ)した時、水面に月が映ります。自分の心がざわざわしていると、水面の月もざわざわしている。そんな感覚を昔の人は持っていました。明鏡止水という言葉がありますが、無念無想になったところでお互い勝負したいという一つの願いです。どうせ命を落とすならこの出会いを大事にしようとしたのです。
よこしまなことがあると心はざわざわします。それを水面の月は映し出す。ざわざわしたまま剣を交えるのと、ざわざわした心を感じそれをどうにかしてから剣を交えるのとでは、違いがあります。このざわざわする感覚をどうにかして弾力がある状態に持っていこうとするのが人間です。水月という言葉はそこから来たのです。

今は果たし合いこそありませんが、誰もが大災害に遭遇し、生死の境に直面する時代です。ある時、大地震の報告をしてくれた人がいました。
「Kan.さん、よかったです。以前、セミナーで教えてもらったことが役に立ちました」
強い揺れが来たと思った直後、彼はしばらく意識を失っていたと言います。我に返ると、自分が瓦礫(がれき)の下に埋もれていることに気づきました。暗く狭く、動けない。自分がどこにいるのかもわかりません。助けが来る確証もない。大変な状況で、「セミナーで教えてもらった」ことを思い出し、それが役に立ったというのです。私は「何をお伝えしただろう」と考えを巡らせていると、意外な返事が返ってきました。
「目を開ける前に息を吐くやつですよ」
「ああ、それか」
私は拍子抜けしました。正直いうと私もまだ若かったので、もっと派手なメソッドで感謝されたかったのです。が、いざという時、本当に役に立ったのは、「目を閉じて息を吐く」という非常にシンプルなことでした。

いちばん簡単なやり方は、目を閉じたまま、息を吐く。そして、リキまずに。これだけです。どうして息を吐くところから始めるのかというと、みぞおちを緩めたいからです。
身体の自由がきかない、何をやっていいかわからないという窮地が、人生に一度や二度はあります。そういうとき、とりあえず息を吐きましょう。ただし息を吐いたけれど何も起こらないということもよくあります。それならまたさらに息を吐けばいいのです。自分にベストの呼吸をすること、これはテクニックではありません。いつ何どきそういうことが身に降りかかるかわからない時代に、呼吸は自分を支える助けになります。

生まれてから死ぬまでのあいだ、私たちは、さまざまな人と、さまざまな価値観とともに、さまざまな制約の中で生きています。思うように生きられなかったり、自分を満足させられなかったり、仕切り直しがうまくいかなかったり、心がモヤモヤざわざわすることも数多くあります。どんな人でも、一日を過ごすと必ずどこかが汚れます。みぞおちも硬くなります。人生にはいろいろありますからそれでいいのです。そのモヤモヤざわざわを引きずることなく、いったん断ち切るやり方を、私たちは何かしら持っておいたほうがいい。私たちは、日常でも目を閉じる機会はあります。再び目を開いた時、リセットできているかどうかが鍵。そこで呼吸をするわけです。
何らかの感情とともに思い出が蘇(よみがえ)ったとき、目を閉じたまま息を吐いてみてください。息を吐けば、自然と新しい息が入ってきます。折にふれて思い出し、繰り返し実践すると貴重な財産になります。

ここで注意すべきなのは、単に息をいっぱい吸い、いっぱい吐けば、身体にいい効果があるという錯覚です。
本質的に大切なことは、すべてのことは絶妙なバランスのうえに成り立っているということです。つまり、「あらゆる『仕組み』を熟知しているならば問題はないが、果たしてそうだろうか?」ということです。息を吐ききることが最善につながるという思い込みが、吸いすぎになってしまう過呼吸をもたらします。生きていくうえで大切なことは、酸素と二酸化炭素のバランスです。酸素を細胞に有効に届けるためには、体内の二酸化炭素も必要なのです。息の吐き過ぎ吸い過ぎは、最終的に悪影響をもたらします。
極端に陥らないことが肝要です。呼吸に関しても深く学ぼうとするならば、ちゃんと習うことが必要となります。

巷(ちまた)には「〇〇呼吸」と呼ばれる技法が数多くありますが、必ずしも自分に合うとは限りません。たとえば腹式呼吸の素晴らしさは広く認知されていますが、現代人のやり方だと正しく機能しないのです。現代人は呼吸が浅く、たいてい肩先で息をしています。そんな状態で腹式呼吸をすると、息を吸うとき、肩に力が入ります。これだと息が入らないのです。
息を吸うとき肩が上がってしまう人は、息を吸うことは肩を上げることではない、と知っておいてください。そして「息を吸うとき肩を上げない」と心掛けるだけで、肩を上げずに息を吸えるようになり、息がお腹の奥まで入っていきます。
さきほどの「基本の呼吸」に慣れたら、さらに三回呼吸してみてください。こちらも息を吐くところから始まります。目を閉じた状態から始めます。まず息を口から吐き、そのままにします。すると自然に息を吸います。そして吐きます。この深呼吸を三回してから目を開けます。
心と身体を結んでいるのは呼吸です。しかし、心や身体が疲れてくると、質の良い呼吸ではなく、最低限の呼吸となってしまいます。そんな時、外から習った呼吸法をしてしまうと、みぞおちを緩めるプロセスが省略され、みぞおちが硬いままとなり、何の変化も起こりません。
そんな時こそ、今ある息をふーっと吐いて、放っておく。それから肩を緩めて息を吸う。こうすれば、その人にとって害のない呼吸になります。どんな行法を習うよりも前に、まずはシンプルに目を閉じて息を吐く。これがもっともその人に合った呼吸です。呼吸を三回ゆっくりやっても1分以内に終わります。生活の中で仕切り直しをしたいとき、取り乱した時、この呼吸で落ち着くことができます。とにかく、息を吐けば活路が開かれます。これは一つの生活の知恵として覚えておいてください。
基本の呼吸ができるようになってから世の中の「〇〇呼吸」を習えば、それが自分に合うかどうかわかるでしょうし、意味のあるものになるはずです。

『縁の扉をひらく』 第2章 より Kan.:著 フォレスト出版:刊

みぞおちの状態は、心の状態がそのまま反映されています。

みぞおちが固いのは、心が固くなってしまっている証拠とも言えます。

心を緩めるには、みぞおちを緩めること。
みぞおちを緩めるためにカギとなるのが「呼吸」です。

私たちも「基本の呼吸」をマスターし、習慣にしたいですね。

人間関係のカギは「足首」にあり!

Kan.さんは、人間関係の悩みをシンプルに言えば、思考と感情の問題だと指摘します。

ほとんどの人は、頭とハートが見えない配線でつながっているだけで思考と感情が通じ合っていないためです。

 では、自分の中の頭とハートが通じ合うためにはどうすればいいのか。
首には血管や筋肉、骨といった、物理的なたくさんの配線があります。それだけでなく、首は頭とハートをつなぐ大切な部位です。そして、足首も「首」です。身体を支える足首をケアできたら、首の状態もよくなります。これは解剖学の話ではありません。思考と感情の話です。足首をケアすると、思考と感情が自分の中で整ってくるのです。
思考と感情のバランスが整うと、人間関係が面白くなってきます。思考と感情が整わないと、人間関係が悩みの原因になります。足首のケアは、健康と人間関係を出会わせることです。足首のケアは、どんな人にもできます。

人体は常に体温を一定に保とうとする力があります。これが恒常性維持機能です。健康とは、いきすぎたら戻ろうとする力、足りなかったら戻ろうとする力が正常に機能していることです。
では、自分の平熱を常に保とうとする力は、どこからくるのか。それこそが宇宙と人とを結びつけている力です。
私は人生の前半、世界を放浪していましたが、特に印象に残っているのは砂漠で遭難した経験です。砂漠で遭難したときに頼りになるのは自分の平熱です。しかしこれは、体温計で測る数値のことではありません。
砂漠の気温は、たとえば昼間は48度でも、夜はマイナス30度なります。一日のうちに80度近い差がある環境に身を置くと、熱とは何かが非常に理解できます。「地球は生きている」と実感するのです。
地球にも太陽にも寿命があり、私たち人間にも寿命があります。長さは違いますが、「一定の時間内での寿命」という約束事がある。その意味では、地球も太陽も人類も同じ。そして地球も太陽も人類も、それぞれの寿命は同じものに支えられています。その実感が生まれると、生命の向こう側があることに気づくのです。
恒常性維持機能が働くということは、地球と私たちの力が通じ合っているということです。通じ合っていれば私たちは生きていられます。そして、地球と私たちの関係が終わるとき、私たちは肉体とのつながりを手放します。つまり寿命を迎えるのです。

地球も、地球だけで存在しているわけではなく、さまざまな星とつながって生きています。私たち人間も個体で生存しているわけではなく、文字通りさまざまな存在とつながって生きています。つながった力によって、血液が流れ、リンパが流れ、体温が一定に調節されている。その力に、私たちはもう少し目覚めたほうがいいと思うのです。
そういう意味の健康が足首にはあり、足首が思考と感情の関係を正していきます。思考と感情の関係が整ってきたら、「待合室」の登場人物たちと、本当の交流ができるようになります。
それなら、人生で出会う人たちと本当の交流ができれば人間関係がうまくいくかというと、そうとも言えません。がっかりするかもしれませんが、うまくいく場合もあればうまくいかない場合もあります。その両方があるから「人間関係」なのです。すべての人間関係がうまくいくなら、私たち生まれてくる必要がありません。うまくいかないことをうまくいかせようとするから発展があります。うまくいく人だけに囲まれる人生は、出会いの半分を無視しているのです。

すると、こんな人が現れます。
「『人間関係がうまくいかないならそれを面白いと思え』と言われた、だからこのうまくいかない人間関係を面白いと思うようにしよう」
これでは誰かの言いなりです。自分で納得しなければ、ポテンシャルは発動しません。「待合室」の出来事はよく吟味すること。誰かの言いなりになることではありません。
そのために足首をケアするのです。

足首のケア
まず足首をよく回すところから始める。右の指を左足の指の奥まで入れてがっちり噛(か)ませ、左足首を回す。次は左右を入れ替えて行う。充分回し終わったら、今度は足指を一本ずつ回していく。

これは体操ではありません。探求です。おおげさに考えず、どこまで響くかなと興味を持って回します。すると不思議なことに、今まで感じたことのないものが足首を行き来し始めます。やがて響く箇所が上がってきて、最後は脳に達します。足首や指を回すだけだと体操ですが、探求を始めると不思議なもので、「旅」が始まるのです。「さわる」と「ふれる」は違います。「さわる」は表面にタッチすることですが、「ふれる」はさらに内側に入っていくことです。「ふれる」ようにすると、手も足も指が大切だったことを思い出し、足首の重要性に気づくのです。

宇宙は、私たちの身体の反映です。私たちの身体のセンターが、宇宙のセンターとつながっているからです。ただ、宇宙のセンターが何なのか、私たちはうかがい知ることができません。
宇宙から常に何かが降り注いでいるという感覚。これを見つけてほしいのです。たとえば、宇宙線は地上に無数に降り注いでいます(これは科学から借りてきた言葉なので実はあまり使いたくない言葉ですが)。
赤ちゃんは成長するとハイハイ状態になり、そしてつかまり立ちして二本足で立ち上がります。赤ちゃんが初めて二本足で立ち上がるのは、「降り注いでくる」ものを受け入れたときです。

ハワイのカフナやシャーマンたちはそのことを感知しているので、足首を重視しています。足首をケアすると、私たちは「降り注いでくるもの」に支えられて立っているという感覚が戻ってきます。足が不自由だとしても、降り注いでいるものは一緒。生きている人全員に起こっていることです。そのことに対して自分の心を開くか開かないかだけです。

大地震が来ると立っていられなくなります。震度6以上が来たときは、無駄な抵抗はやめて、まず近くにおいてある軍手をはめて移動すること。生き延びることが大事です。自分のベッドの傍(そば)には登山靴と軍手を必ず置いて寝てください。大地震になると住居は凶器になります。凶器と化した室内は歩けません。いちばんしんどいのは、すぐそこに救わなければいけない家族がいるのに、床にガラスの破片が散らばって歩いて行けないことです。そんな中でも、がっちりした登山靴を履けば移動できますし、軍手をはめれば倒れた家財を退けることができます。
大地震が起こって最初に影響するのが足首です。足首がぐらぐらしたら動転してしまい、防災知識など吹っ飛んでしまいます。経験以上の揺れに接したとき、足首は今までの知識が役に立たなくなるのです。揺れは5分ほどでおさまりますが、この5分間が大事。そして、決まった練習をしていたらダメなのです。

時々、足首がガチガチに硬くなっていないかを確認してください。脚を伸ばし、足首をニュートラルにして、微細に振ります。振れば振るほどいいですし、スピードはあまり上げません。ここで自覚すべきは、戻る力です。私たちは、立って歩いてはいても癖があります。身体の中でも、かなり使うところとまったく使っていないところがあります。自分の支え方があまりにも偏っているのです。その時点で考え方も感じ方も偏ってしまっています。
しかし、地球上で偏っていない人は誰一人いません。大事なのは、偏っていることを自覚しているかどうかです。
たとえば、偏っていると家がどんどん汚くなります。すると「掃除しなければ」と思います。今度は潔癖症になり、朝から晩まで掃除をして、何のためにそこに住んでいるのかわからなくなります。
私たちはこうした偏りのあいだを行き来しているのです。自分の人生を尊重したいなら、まずは偏る。自分の中に潜む偏りを体験したら、必ず「ああ、生きている」という実感がやってきます。これがバランスの崩し方を覚えるということです。「身体に居る」ということは偏っていること。偏っても、戻る力が誰にでもあります。

『縁の扉をひらく』 第3章 より Kan.:著 フォレスト出版:刊

足首は、私たちの身体を支える要です。
それだけでなく、自分と宇宙それに地球をエネルギー的に結びつける働きがあります。

また、足首の状態が良くなると、首の状態も良くなり、頭とハートのつながりがスムーズになります。
頭とハートがしっかり連携されるようになると、自分の中のバランスが取れ、人間関係もよくなるのですね。

私たちも、足首回しを日々の習慣にしたいですね。

源泉から降りたものを源泉に返す

私たちがこの地球に生まれてきた目的。
それは「源泉から降りたものを源泉に返す」ことです。

Kan.さんは、そのことを以下のように説明しています。

 世の中に「読めない本」というのがあります。わかる人にしかわからない本。私も、誰かに「わかった」と言われたら焦ってしまうような本を書きたいと思っています。
バッハがそうでした。バッハは第三の力が来たとき、それを譜面に起こしました。ところが同時代の人たちや、亡くなってからしばらくの時代、誰もバッハに興味を持ちませんでした。なぜなら誰もその譜面を弾けなかったからです。読めない本があるように、読めない譜面もあるのです。バッハは、絶対感覚で譜面を書きました。バッハ自身も降りてきた曲を聴いたことがありません。演奏できる人がいなかったからです。しかし確実に、自分の中では鳴っていました。
そして歳月は流れ、ある海岸沿いの古楽器店に、一人のチェロ奏者が導かれるように入っていきました。彼は楽器コーナーを通り過ぎると、奥にあった古い譜面の前で足を止めました。本人は「それが落ちてきた」と言っていますが、本当はふれたのかもしれません。
「見てはいけないものを見てしまった」
彼はその古い譜面を見なかったことにして、店の外に出ました。「あんなものが弾けるなんてとんでもない。取り組んだら最後、人生めちゃくちゃになる」と思って逃げたのです。でも、出会ってしまったらどうしようもない。演奏家である以上、「自分がこれを弾かなければ」という義務感もあったでしょう。しかしそれは、とてつもない挑戦の始まりだったのです。
彼こそかパブロ・カザルス。名曲と言われるバッハの「無伴奏チェロ組曲」を世の中に知らしめたチェリストです。今となっては、プロのクラシックチェロ奏者なら弾けるであろう名曲ですが、カザルスがこの譜面と出会わなければ、バッハのこの曲が世の中に生まれることができなかったのは事実です。演奏方法の革命を起こしてまで奏でた「無伴奏チェロ組曲」。その音、かつてバッハに訪れたものでした。時を経てカザルスが弾くことによって、源泉に返したのです。

誰も鳴らすことのなかった楽譜。しかし、弦を弾いて空気を振動させることができれば、多くの人が初めてその音を聴くことができます。それを聴けたら、何かが心の中に入っていきます。そこに源泉があります。バッハという天才に降ろされた曲が、もう一人の天才によって演奏された。それは、源泉から降りたものが源泉に返ったということ。地球が進化するのはそういうときです。時代を経ると、その音は当たり前になります。当たり前になると、表面的に処理されてしまう。そうなると、源泉からバッハに来たものは、カザルスが逃げたほどの「本当のもの」との出会いとはならないでしょう。源泉から降ろすだけではダメで、源泉に返さないといけないのです。
カザルスが源泉に返すことができたのは、彼の才能だけではありません。それまで地球に生まれてきた数々の人の人生がサポートしたからでしょう。それがカザルスの演奏を可能にしたのです。遺産が生まれるためには、個人の力だけでは絶対無理です。全員の人生がどこまでも必要になります。だからこそ、自分の人生を顧みてほしいのです。
私たちがこの三次元で送る人生という「待合室」でやることは、源泉にそっくりそのまま返すということです。それを還元というのです。

誰もが、時間軸ではご先祖様から続く流れで両親から生まれます。しかし大胆なことを言えば、今ここにいるのはご先祖様の流れではなく、今、宇宙から生まれたばかりの自分です。そして両方正解です。
ご先祖様の流れで親から生まれた「時間軸の中の私」。だけど、「私がいる」という感覚は、父母からきた私ではない。今いる感覚というのは、今、初めて宇宙から生まれたという感覚なのです。それなのに、人は時間と空間の世界を引っ張ってきてしまう。時間も空間もなく、「今ここにいる」というところに迷わず入れたら、「今」になります。

昔、カタカムナを伝えた楢崎皐月という人が、星を見上げてこんな話をしたそうです。
「今、星の光が地球上に届いていますが、それは何万光年もの先から発せられたものです。何万光年先ということは、もしかすると現在その星は存在しないかもしれない。皆さんはそう思いますか? 私はそうではないと思う。確かに何万光年の時間をかけたかという計測の仕方もあるでしょう。でも、光は今届いているのだから、絶対それは『今』の話なのです」

バッハに降りてきた音を、数百年後のカザルスが取り出した。それは歴史の話ではありません。カザルスが奏でるバッハの音を私たちが本当に聴けたとき、それは源泉からきているのです。言葉も同じです。言葉以前があり、言葉が今編み出された。どう考えてもそれが正しい順番なのです。

私たちはふだん言葉で考えています。では、言葉ではないもので考えるときはあるでしょうか。
今は言葉が確立されているために、私たちは言葉を駆使して生きています。しかしおそらく、言葉に引きずられて生きてしまうことがほとんどでしょう。だから私たちは今一度、言葉の源泉を本当に手に入れることが大切なのではないか。つまり、源泉から言葉をしゃべる人になり得る可能性があるのではないか。私たちはいつでも言葉以前に戻ることができるのです。
たとえば、二番煎じ、三番煎じだとわからないことがあります。翻訳業が悪いわけではないのですが、仮に翻訳を例にすると、翻訳という一手間が入ると、オリジナルでわかるべきことがわからなくなる可能性があります。だから、オリジナルの人と出会うことは大きな意味があるのです。言葉も同じです。
この世界にはさまざまな次元があります。高次元の人たちのほうが優れているのはないかと思いがちですが、高次元の人たちですら「源泉が見つからない」と悩んでいるのです。どの次元からも源泉は一つ。だから、高次元に行く必要ない。スピリチュアルな問題であれこれ悩むくらいなら、しっかりビジネス中心で生きたらいい。そしてこの時代、起業家も、新しいビジネスを生み出していく人たちも、二番煎じ、三番煎じをやっていてはダメなのです。
だから源泉からキャッチする。源泉からキャッチすることで、仕事も人生もしっかりはまります。せっかくビジネスの世界で生きるのなら、自分の源泉にふれること。時代はそこを求めています。作り変えや組み合わせなら機械やAIがやったほうが優秀かもしれない。けれども源泉は違う。源泉は機械やAIではふれることができません。

言葉で思考する世界をロジックと言います。言葉で組み立てる論理的思考の世界です。論理的思考が成立し得るとするなら、日本の伝統ではなくヨーロッパ、特にギリシャの伝統のなかにおいてでしょう。ギリシャの伝統なら、論理的思考でかなりのところまで研ぎ澄ますことができます。源泉にいくことも可能です。論理的思考にも言葉以前はあります。
一方、日本の伝統では、ほとんどの人が論理的思考で源泉までいくことはできません。堂々巡りになる可能性があるので、日本語で論理的思考に力を注ぐのはあまり建設的ではないのです。しかし日本の伝統にも、言霊という言葉があります。
では、言葉以前とは何のなのか。

私たちはいつも言葉で考えます。「どうなっているのか」「どうやればいいのか」と論理的思考を始めます。
今、星の光を見た。その時、「すごく遠いところから光っているんだろうな」と思ったら、それはただの取り組みになります。私たちは地球にいるため、時間と空間を考えてしまうからです。しかし、時間と空間に属してしまうと、自分の思考パターンにからめ取られてしまいます。
瞑想ですらそうです。委ねることを大事にして瞑想を始めたはずなのに、気づくと人は、「どうすればいい線に行けるの?」と、ハウツーに戻ってしまいます。よしんば委ねて「いい線」になったとしても、「この『いい線』はどうやってキープするの?」と考え始めるのです。こうなったらまったく委ねていません。ハウツーの世界に戻っています。「委ねないといけない」と気づき、再び委ねる世界に入っていく。しかし気づいたら、またハウツーの世界に戻っている。この繰り返しが絶え間なく起こっています。
源泉は、自分で努力して行けるものではありません。「恩寵(おんちょう)」というしかない世界です。恩寵に委ね続けていくと、その恩寵によって、自然と源泉に引き戻されるのです。
委ね続ければ、努力や論理的思考に戻ることはありません。想像するより簡単に、源泉に引き戻されていきます。

太陽は宇宙空間にあります。自分の外側にあるともいえます。私たちは太陽を見たとき、目のレンズを通して像が入ってきます。その像は視神経を通って脳内のスクリーンに投影され、太陽となります。
ただその前に、自分の中の太陽がなければ、太陽を見ても認識できないのです。つまり、太陽を見て「太陽だ」とわかるのは、太陽を内側に持っているからです。これは習うことはできない。これが太陽だよと覚えさせられたものではなく、最初から人間の内なる世界に太陽がある。そのことをわかったほうがいい。逆に、内なる太陽を持って全人類が生まれてくるから、外なる太陽があるという言い方もできます。順番が逆なのです。だから、外の世界と内の世界の両方を認識したときに、本当のものがわかるのです。
ところが多くの人は本当の太陽と出会えません。なぜなら外の太陽しか見ていないからです。これが本当の覚醒に至らない理由です。最初は太陽を見て感動したのに、やがて感動しなくなるのは、だんだん「太陽とはこういうものだ」と習うからです。でも、習う前の内なる太陽を常に心の中に持っている人は、本当の太陽と出会います。言葉をちゃんと言葉に返す。これと同じことなのです。

人は、内なる世界があるから外なる世界をつくって生まれてきます。素粒子や原子構造といった外なる世界を認識できるのは、それが内なる世界にあるからです。外の世界にあらゆる物質があるのは、もともと内側にすべての原型があったからです。外の世界を探求しても何もありません。言葉以前の言葉、太陽以前の太陽、あらゆることがそうです。

『縁の扉をひらく』 第7章 より Kan.:著 フォレスト出版:刊

私たちは、この宇宙を創り出した母なる「源泉」から生まれて、この地球に来ています。
「源泉」の分身である人間は、「源泉」と同じく、すべてを創り出す能力を与えられています。

ただ「創り出す」だけでは不十分です。
創り出したものを体験して味わって、初めて完結します。

それが「源泉から降りたものを源泉に返す」ということです。
私たちは、もともと一つの存在「源泉」ですから、誰が創ったものとかは関係ないわけですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

私たち人類は、今、大きな分岐点に立っています。
それは、三次元から五次元へと次元上昇を続ける地球と一緒に昇っていけるか、振り落とされるかの瀬戸際にいるということです。

Kan.さんは、これは個人レベルの挑戦ではなく、全人類のレベルで過去の限界を突破しようとしていて、時代を最悪にしていくのか、時代を開いていくのかは、私たち一人ひとりにかかっているとおっしゃっています。

私たちは、「源泉」を旅立ち、はるか遠い道のりを進んできました。
そして、「源泉に戻ろう」、そう決めたのが、今このタイミングです。

「源泉」に戻るとは、「自分が源泉の一部であることを思い出す」こと。
それは、自分の奥底に入っていくことです。

そして、そこに潜むもの、“源泉の一部”を見つけ出し、それを表現すること。
それが、「源泉に返す」ことです。

一人ひとりが、源泉に返し続けることで、本当の自分につながっていくことで、人類全体の波動が上昇していきます。

自分の外ではなく、内側にすべてがある。
奥底へ入っていくことで、自分を変えて、世界を変える。

これまでの常識を覆す、まったく新しい自己実現のノウハウを、ぜひ皆さんもお試しください。

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