本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『Z世代化する社会』(舟津昌平)

お薦めの本の紹介です。
舟津昌平さんの『Z世代化する社会 お客様になっていく若者たち』です。

舟津昌平(ふなつ・しょうへい)さんは、経営学者で、東京大学大学院経済学研究科の講師です。

「Z世代」を語る意味とは?

舟津さんは、若さというのは、考えてみるとなかなか不思議な概念だと指摘します。

それは、人それぞれだとか言いがちなイマドキの個人主義的多様性社会においても、すべての人間は現在若いか、過去に若かったことがあるので、一切の例外なく万人にとって身近で普遍的なテーマだからです。

 若者と接するのは、楽しさもあるけど正直けっこうシンドイ。精神を削られる出来事も少なくはない。ほとんどの若者は大学の授業に前向きに取り組めてはいないということを加味しても、同じ人間同士のコミュニケーションは、本当に難しい。
若者は単純に経験に乏しく、無知ゆえに無礼を働くことかある。それは仕方がない。ただそれを差し引いても、なんでそうなんねん、どういうことやねん、と叫びたくなるようなアレコレが、若者と接する場面では多々起きる。Z世代なんて呼称も、どこか未知のエイリアンが来襲したような否定的なニュアンスをにおわせる。
でもそれは若者が悪いということではなくて、学校や大学の在り方、就活や会社をはじめビジネスの在り方、がおおいに影響した結果である、というのが筆者の意見である。にしても、若者はいかにも理解し難く、不思議な言動をとることがある。なんでこんなに若者はヤバいのか、ほぼ若者でなくなった立場からそれを追究したいというのが、筆者の偽らざる執筆動機である。
否定的なことは述べたものの、それでも若者と接し対話することには、得難い価値があると筆者は確信している。若者「ではない」人の多くは、じっくり若者と話す機会がない。親御さんでさえ(だからこそ)そうだろう。その点で大学教員というのは、いろんな場面で若者と話す機会を得ることができ(授業は最高の場だ)、一般的に気付きづらいようなことを見つけやすい、特権的な立場にあると感じている。
若者はいつも新鮮で、そして新しくありながらも、どこかわれわれと地続きでもある。同じ社会に生きるのだから、当たり前かもしれない。
筆者は立場を繰り返し表明しておくと、そろそろ若者と言い難くなった年齢(30代半ば。もっとも、コミュニティによっては十分な若者である、はず・・・・・・)、大学教員という立場から若者と接しており、経営学という分野やビジネスといった角度から、若者について語っていく。
本書の結論を、たとえ話を用いて述べれば、次のようになる。このたとえ話は、後半にも何度か登場させる。「たとえ」だとしても、病気という表現を用いるのは不適切かもしれない。ただ、われわれの社会が抱える「病理」を考えたいという思いも率直に含ませている。

「ある村で、若者だけに感染する病が発見された。若者が次々と病気にかかっていく。それを見て、お偉いさんや親族は『これだから若者は』『若者の生活がたるんでいるのでは』『昔はこんなことなかった』などと若者を責め、病の原因を若者の資質に求める。ところが、この病気は『若者であるほど早く感染する』というだけで、実はすべての年齢層に感染するものだった。かくして、村は老若男女、この病気に侵されていくのだった」

ヤバい若者、理解し難い若者について深く究明するたびに思うことがある。良質な答え、より深みのある答えに行き着いたと思うほどに、思う。そうか、若者はこういう理由で、あんなヘンなことをするんだな! と気付いたとき、じゃあ自分はそういう理由と無関係だろうか、自分はそういうことはしないのだろうか、という疑問が同時に浮かぶのだ。
「深淵を覗くとき〜」というニーチェの有名なフレーズを借りるまでもなく、若者を若者たらしめるものーーざっくりいえば「社会構造」ーーは、われわれにも同じように影響している、ということに気付くたびに、筆者はいつもゾッとする(読者の皆様も、読み進める中でたまにゾッとしてみてほしい)。ミイラになる可能性を常に背負ってでしか、ミイラ取りは成立しないのだ。
理解を容易にするために、繰り返し本書のスタンスを説明しておこう。Z世代と呼ばれる若者たちを観察することで、われわれが生きる社会の在り方と変化を展望しようというのが、本書のねらいである。

『Z世代化する社会』 はじめに より 舟津昌平:著 東洋経済新報社:刊

本書は、大学の教員である筆者(ゆとり世代)が、Z世代と呼ばれる年代の若者について解説し、彼らから世の中の変化をわかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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インスタが象徴する若者文化

ここでいう「若者」とは、どのような特徴を持っているのでしょうか。

舟津さんは、ザ・若者とも言うべき、自他ともに認める若者ツールである「SNS」を取り上げて、以下のように説明しています。

 ZenlyというSNSが流行ったことをご存知だろうか。フランス発のこのアプリは、一言で言えば「登録した人の位置情報を、リアルタイムで共有する」アプリである。つまり友達同士で登録したら、スマホで互いの位置がわかるのだ。今どこにいるの? と訊く前にスマホで確認できるし、学校を休んでる友達が家にいる、ってこともわかるかもしれない。
若者は「何のために」Zenlyを使うのだろうか。幼稚園の子どもならGPSをつける気持ちもわかる。がしかし、大学生になって、誰が何のために他人の位置情報を確かめるのか。直感的には、束縛の強い恋人同士が使いそうな気もする。大学生に訊くと、こんな答えが返ってきた。

「遅刻癖のある友達を待つことが多くて。10分20分待たされるくらいなら、位置情報を見ておいて、合わせて行こうと」
「仲良い友達だと、近くにいたら会いたいので。でも、ある程度仲良くないと登録したくないし、パートナー[筆者注:恋人、彼氏、彼女]にはむしろ使いたくない」

こうした声から見えてきたのは、Zenlyは「相手を束縛したい」という、ちょっと重い動機から用いられるというより、「コスパ」「タイパ」を高めるアプリ、として人気を得たようなのである。友達を待つ時間が惜しい。近くにいるか訊く前にアプリを見たらわかる。こうした用途のために、若者はZenlyを使っていたようだった。
かつて著名な哲学者ミシェル・フーコーは「パノプティコン」を引き合いに出して監視社会を語った。その背景には、誰かに自らを監視される社会への強い忌避感と懸念があったと推される。パノプティコンのアイデアは時代を経て、著名人のプライベートを見世物にして楽しむ「シノプティコン」、IT大手企業に代表される個人情報の網羅による「クリプトプティコン」など、変遷を遂げていく。
こうした小難しくも見える議論に通底する前提がある。「監視されたくはない」という思い、自由への渇望である。平民が自由を得るなど考えられなかった時代を経て、現代人は自由を勝ち取った。ただ、現代の、特に若者を見ていて思うことがある。若者は、監視されることに対する抵抗がかなり薄いのではないだろうか。なんなら自由だとかどうでもよくて、ZenlyをはじめとするSNSの隆盛の背景には、監視と管理を受けることへの安寧が、たしかにあるように感じられる。
若者は、とてもきめ細やかに互いを監視している。友達全員に使うわけではなくて、特定のこの友達とだけつながる、恋人とはつながらない、など実に丁寧に人間関係をマネジメントしている。この「相手による使い分け」が実に細かいのも、若者の特徴であり、また若者は監視しながらも監視されているという、ちょいとヤヤコシイ関係にある。
自由とか自主性ってのは、大げさに言えば進化してきた人類の証し、闘争の末の戦利品だったはずだ。でも、ホントのところ若者はそっちの方が便利だから別に監視されていたってよくて、自由を自ら手放しているようにすら見える。Zenly自体はサービスを終了してしまったものの、後継アプリはいくつか出ているようである。現代の檻の種は尽きまじ。

若者を語るにおいて、インスタ(Inseagram)はきわめて象徴的だ。執筆時現在、若者の人気をTikTokと二分しており、かつTikTokよりも普及率が高い。インスタの特徴はいくつかあり、その1つに「フィルター」はじめとする加工機能が充実していることが挙げられる。特に女性は、今や加工をせずに画像を上げる方が珍しい。
加工文化は、ときに嘲笑の対象でもある。あまりにも実物と違う画像の中の人。加工しまくりの画像でバズったインフルエンサーが動画配信したところ画像とかけ離れた見た目だった、なんて話もある。
そして、そのくらい若者も自覚している。つまり、インスタの世界は「虚」だってことを(若者のこういう嗅覚は、けっこう鋭敏だ)。そこで流行り始めたのがBeReal.というアプリ。このアプリは、不定期で「今、投稿してください」というアラートが鳴る。その指示が出た2分以内にその瞬間の「リアル」を投稿する、というSNSなのである。
昨今のこの手のサービスは本当によくできていて、かつ若者はそれを乗りこなしている。流行りを決して逃さず、嬉々としてBeReal.に興じる。あっ、通知きちゃった! えー今投稿するの? というハプニング感と、半強制でリアルをさらけ出すことを求められるスリル。もはや監視を受容するどころか、監視を楽しんですらいる。
若者にとってリアルとは何だろうか。リアルとバーチャルという二分法すら陳腐に思えるほどに若者はバーチャルに耽溺し、リアルを、だいたいは加工されたリアルを、バーチャルに投じて他者と共有している。

監視されることへの抵抗が薄れているかもしれない。という話をした。とはいえ若者がZenlyやBeReal.を共有するのはだいたい友達同士であり、気を許した相手にしか監視を許さない。
最近の大学では、ガイダンスのような1年生向け授業を提供することが珍しくない。「入門演習」とか「ファーストイヤーゼミ」とか呼ばれていて、単位も出る。だいたい1限にあって、早起きして友達作って、大学になじめる機会を大学側が用意しているのだ。
その授業で、グループに分かれて自己紹介をする時間をとった。連絡先でも交換したら、と促すと、みなスマホを取り出す。学生らを眺めていて、あることに気付いた。

ーーこういうときに最近の学生は、インスタ交換するんだね。
「あー、そうですね」
ーー僕らの頃はメールだったよ。知ってる? キャリアメール。
筆者は2000年代後半に大学時代を過ごした。記憶している限り筆者がラインに出会ったのは23歳で、インスタは20代後半である。
ーーラインは交換しないんだね。
「ラインはちょっと・・・・・・・」
ーーわかるよ。「重い」んでしょ。ラインは。
「! そうです。そうなんですよ」

この些細なやりとりには、実は現代の若者のコミュニケーションの本質が詰まっている。
ちんぷんかんぷんな方のために、少し解説しよう。初対面同士が連絡を取り合うためになんらかの情報を交換する、というのは当たり前である。ところが、その媒体は世代や集団によって異なり、最近の若者は、初対面ならばまずインスタのアカウントを教え合うのだ。
では、「重い」とはどういう意味だろうか。
若者が、インスタをはじめSNSを用いる特徴には以下のようなものがある。匿名であり、鍵がかかっていること。つまり、検索できない、無関係の人が簡単にフォローできないようにしているのだ。昨今、本名のアカウントで鍵をつけずに発信して炎上する人々がまま見受けられるが、若者はこういった愚は絶対に犯さない。その辺りのマネジメントは丁重である。
メールの時代には考えられなかったくらい、SNSは開かれているし、閉じられている。SNSを介せば世界中の人々とつながれる。だが匿名なので、本名で検索しても決して出てこない。そして、一度フォローし合うと互いの情報が逐一共有される。また鍵がかかっていると、鍵アカウント同士で何が行われているのか外からは見えない。
さて、なぜそのインスタが重宝されるのだろう。なぜラインは重くて、インスタならよいのだろう。ちなみに、既に仲良くなった同士なら、ラインを使うらしい。
端的にいえば、若者はこう思っている。ラインはもっと仲良くなってから。初対面程度の「友達候補」に、最も重要な連絡先を教えるのはリスキーである。まずインスタを教えて、もし「ハズレ」の相手なら、「ブロ解」すればいい。
ブロ解、とは? これはインスタの仕様で、フォローされている相手を一度ブロックする。その後解除すれば、なんと相手に通知されずにフォローを外せるのである。つまり、もう関係を切りたいな、って思った相手にブロ解することで、連絡手段を絶てるのだ。
そもそもそんな相手に連絡先を教えるなよ、とか、かえってめんどくさくない? って思うのは浅い。友達候補はたくさんいないと不安である。かといってラインを教えるのはリスクがある。インスタを交換しておいて、いざとなればブロ解。これが若者のコミュニケーションスタイル、のようなのだ。
少し笑い話を。授業で知り合った相手とインスタを交換していると、笑いだす一群がいた。

ーーどうしたの?
「いや、実は交換しようと思ったら、もう友達同士になってて」

なんと、既にインスタを交換していた相手だと気付かず、再度交換しようとしたらしいのだ。大学入学直後は、100人くらいと連絡先を交換することもあり、インスタの友達が増えすぎて管理しきれなくなる。また、本名(フルネーム)出ないことも多く、「この人誰だろう」となることが多いらしい。リアルとバーチャルが紐づかないのだ。このユウキってアカウント、誰だっけ。そもそも男か女かもわからない・・・・・・。
学生の1人は、「もう、大学生でも名札つけといてほしいです」と言っていた。小学校みたいに。

『Z世代化する社会』 第1章 より 舟津昌平:著 東洋経済新報社:刊

リアルなつながりより、SNSを介したバーチャルなつながりが重視されるのが今の若者です。

インスタでフォローしていて名前も知っているけど、実際には会ったことがない。
ということも、普通に起こるわけですね。

コミュニティには所属していたいし,仲間外れは嫌。
でも、面倒くさいかったり、束縛される関係は嫌。

そんな「若者」の繊細な心理が浮き彫りになりますね。

経営者化する社会

若者は、オトナが作った構造の中に在って、よりピュアに反応し、行動します。
つまり、若者を観察することで、オトナであるわれわれがどんな構造の中にあるかがわかります。

若者の観察から見えてくる構造の変化。
舟津さんは、その一つに「経営者化する社会」の進行があると指摘し、以下のように解説します。

 若者を象徴する概念に「コスパ」「タイパ」がある。コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスの略語である。動画や映画を倍速再生して視るという「異常な」現象が観測され、その根拠がタイパである、といった話が昨今話題になった。
若者のコスパ志向・タイパ志向は必要なものを切り捨てており、それこそ効率化された社会の権化である、と言われることが多い。ここでは別の角度から考えてみたい。つまり、そもそも若者がなぜコスパを気にしないといけないのか、という問題である。
コスパという言葉も多義的である。こんな美味しいランチが500円ってコスパ良いね〜いう使い方なら、そんなに批判は起きないだろう。残業ってコスパ悪くないですか? と言って若者が仕事を拒否したら、批判の嵐である。
大学生を念頭に置くと、次のような場面をよく目にする。学期が始まって、授業1〜2回目。友達と駄弁りながら学生が言う。

「あの授業、コスパ悪いから切ったわ」

要は、課題が多いとか出席確認が厳しいとから、「ダルい」授業だったから履修を止めたということだ。なお、なぜかこういうことを言うときの学生はちょっと誇らしげだ。
このコスパの用法はとても若者らしいと同時に誤用を含んでいる。この学生さんは、コストがかかる、つまり授業に出ないといけないとか提出物を求められることを理由に、授業の履修を打ち切っている。つまりコストは節約できたとして、対価としてのパフォーマンスは何も得られていない
もちろん、ここで言うパフォーマンスはまず「単位の取りやすさ」だろう。「神」と呼ばれる大学の先生たちがいる。単位を楽に取らせてくれる先生のことだ。無作為に神と崇める社会がかつてあっただろうか。筆者はいつも自分の存在意義について自問自答している。話が逸れた。単位の取りやすさをパフフォーマンス指標として採用し、このコスパを鑑みて、履修を打ち切った。まあ、それはいい。
でも、その対価として得られたものは、特にない。時間を得たとして、それは別にパフォーマンスではない。授業がダルくて来なくなるような人が空いた時間でできることなんてせいぜいYouTubeを視ることくらいなので、パフォーマンスも何もあったものではない。
つまり、コスパ志向の罠とは、コストを惜しむあまりパフォーマンスを何も得ていないということが往々にして起きる点にある。コスよりパの方がよほど大事である。でも、コスパとのたまう人のほとんどはコストを惜しんでるだけのケチなので、残念ながら別にたいしたパフォーマンスなど発揮できてはいない
コスパはパフォーマンスありきの概念であるはずなのに、いかにコストを減らすかと言う話になぜか主眼が置かれがちである。

ではなぜ、コスパなんて概念が流行るのか。コスパは、誰のためのものだろうか。
コスパは、端的には経営者が経営に用いる指標である。ROIとかROEといった指標がわかりやすい。ROIはReturn On Investmentの略で、投じた費用に対してどれだけの利益が出たか。ROEはReturn On Equityの略で、株主の出資金を元手に企業がどれだけ利益を上げたのかという、株主目線のコスパ。これらが、保守本流のコスパの意味である。
つまり現代とは、経営者に求められるような指標を、当たり前のように一般人に転化して用いている時代であり、あたかもわれわれ一人一人が経営者であるかのように、コスパに監視の目を光らせる時代なのだ。授業を切ったことを仰々しく友達の前で発表するさまは、あたかも株主総会で事業の打ち切りを伝える経営者のようだ。話していることの軽重にかなりの差があるが。
第1章では、SNSを介して他者の目に怯える若者の言が語られた。一般人ですら、言動を監視され、炎上を恐れる。まるで一挙手一投足が株価に影響するがゆえに注目される経営者のようではなかろうか。実際のところ、若者は自分の「株価」を異常に気にしている。株価を下げないよう生きて、たまに粉飾決算をする。
「コンプラ」も同様である。コンプライアンスの略語。昨今ますます浸透すると同時に、その息苦しさを訴える声も小さくはない。2022年のM-1グランプリで、毒舌を武器とするウエストランドさんが優勝したのも、反動を期待する世相の反映とはいえよう。
コンプライアンスは、本来は企業が守るものである。もちろん結果的には企業を構成する従業員も遵守しないといけないのだけど、企業の舞台でのみ求められるもののはずが、若者の私生活にまで侵食して、コンプラ遵守を求める。まるでわれわれ個人が、経営者であるかのような、張り詰めた社会。
しかし当たり前だが、われわれと経営者は異なっている。経営者は多くの責任を負い、激務や大任を負い、その代わりに大きな報酬を得ている。われわれは別に何のリターンもないわりに、経営者のごときリスクを負った、大きな判断を迫られているかのような生き方をしてしまっている。それこそ経営者のように、わずかな失敗も許されない、ストレスフルな日々を送っている。

『Z世代化する社会』 第2章 より 舟津昌平:著 東洋経済新報社:刊

「コスパ」「タイパ」それに「コンプラ」。

それらは、若者から広まったものです。
ただ、元々は経営学から来た言葉の略語で、ビジネスの世界で普通に使われてきたもの。

若者の方が、感性が鋭敏なため、社会構造の変化に素直に反応するので、目立っているだけです。
近いうちに、これらの言葉も、何の違和感もなく、社会全体に受け入れられるようになるでしょう。

「怒られない職場」の病理

職場において、Z世代の若者とのコミュニケーションに悩む人は多いです。

そこには、労働環境が改善されているにもかかわらず不安感や疲れは増大している背景があります。

脱ブラック化が進む社会で、若者の不安が大きくなっている。
その一因に「職場で怒られたことのない割合が急増している」ことが挙げられます。

 ある学生に、ビジネスを始めるんですと教えてもらった。手作りのアクセサリーを販売するというビジネス。手広く拡大できるようなビジネスではないものの、お小遣いくらいの売り上げはあるかもしれないし、何より経験として楽しめるものではあろう。
いいじゃないですか、と言いつつ、せっかく経営者なので何か言おうかなと思って、あるエピソードを紹介した。筆者がスタッフとして参加した起業家向けのセミナーで、投資経験の豊富なゲストが、「まずはベイビーステップ(赤ちゃんの歩み)のように、第一歩を踏み出すこと。それはつまり1人でいいから顧客を見つけてきて、その人に価値提供して、関係をつなぐことだ」と発言した。
これは名言だし、シンプルだし、役に立つかなと思って「まず1人、お客さんがつくといいですね。最初のお客さんが大事だって、経営学でも言うんですよ」と伝えた。ところが、なんだか反応が鈍い。少し会話を進めると、まったく予想外の反応が返ってきた。

「あーよかった。何か説教されてるのかと思いました

つまり、アドバイスは説教なのだ。さらに言えば、オジサンのコメントはすべて説教なのだ。

説教という言葉も、見ただけで嫌になるようなツラい言葉だ。他者からのあらゆる苦言やコメントは、説教とラベリングした瞬間に無意味化する。ヤレヤレ感を出しながら「また説教ですか」と言って苦笑いするだけで、自分は悪くない感じが出せるし、相手に「嫌なことしてしまったなあ」という感覚を植え付けられる。説教ラベリングは本当に悪質だ。
いくらその人を思った言葉でも、説教と言ってしまった瞬間に無意味化できる。自分は悪くない、相手にデリカシーがなくて非常識なんだ、という構図を作ってしまえる。
当たり前だが、こんなの言葉だけの、唯言の世界だ。実際にビジネスするなら、仮に目の前のオジサンが嫌なヤツで気持ち悪くてクサい(そこまで言ってない)説教オジサンだとしても、最初のお客さんが重要な役割を持つことに違いはない。
大風呂敷は広げるけど具体性がないとか、自分は良いと思ってるけど誰も買わないとか、そんなビジネスや商品はごまんとある。まず1人のお客さんを獲得せよ、ビジネスはそこから始まる、というのは格言を超えた実践的な知とすらいえる。でも、説教なのだ、そう捉えるならば。
要は年長者や先生に求められる役割は、いいね! すごいね! ヤバいね! と、まったく惜しみない100%の、そして何の中身もない称賛をすることだけなのだろう。不快を取り除いた世界。それは教育でもなんでもなく、安っぽい接客業に他ならない。
接客業とてただ褒めときゃいいだろみたいな安直さだけではやっていけないし(それを接客業と呼ぶのは接客業に失礼だ)、イマドキのキャバクラやホストクラブでも、ここまで単純なやり口は通用しないだろう(知らんけど)。
何か余計なことを言えば説教になる。褒める以外は嫌われる。でも、褒めたところ何が得られるわけでもない。そんな関係に陥った人々にとっての解決策は1つしかない。互いに関わらない、である。

説教という概念は、怒ることとつながっている。当たり前だが怒る(怒られる)というのは古今東西世にあふれる普遍的な現象だ。だが、現代の若者は、怒られなくなってる。なぜだろうか。誰しも、怒られるのはイヤだ。普通に考えたら、優等生は怒られないし、悪ガキは怒られる。世の若者は良いヤツばっかになったのだろうか。
違う。明らかに、オトナが怒らなくなったのだ。つまり怒られなくなったのはZ世代のせいではなく、オトナの事情なのである。
怒るということが社会規範として否定されつつある、という流れは見逃せない。アンガーマネジメントという概念が流行るように、怒る人はそもそも間違っていて、なんかの病気かもしれなくて、人前で怒ること自体が恥ずかしいし避けられるべきだ、という志向性がますます定着している。
これは、怒ることに教育効果がないというより、怒ること自体を絶対的に否定する時代の流れである。
よく出るのが、怒るのではなく叱るべきだ、みたいな話。アンガーマネジメントの講習でも、頭ごなしに感情に任せて怒るのではなく、相手を否定せず改善点を丁寧に伝え同意を確かめながら諭す、これが叱るである、みたいなのはよく聞く。言いたいことはわかるけども、暴論を承知で、そんなのは言葉をいじっただけの唯言の産物であり、実践的にはほとんと意味を持たない。だって、アドバイスしただけで説教って言われるんやで。
実際、現場はもっとシビアに振り切っている。「怒るということ」について雑談していたところ、とある大企業の管理職の方が言い放った。

「いやもうね。怒ると叱るとは違うとか、もはやそういう問題じゃないんだよね。会社の研修でも、もう絶対怒らないでください、叱ると諭すとか関係なく、それに類すると思われるようなことは一切止めてください、って言われるよ」

一度も怒られたことのない割合が近年急増している一因は、管理職研修にもあるだろう。怒る/叱る問題は、実は怒る側の方便にもなってしまう。ハラスメントに類する問題が浮上したとき「怒ったんじゃなくて叱ったんだ」という唯言的な言い訳を許してしまうことにもつながる。だから「疑わしきは禁止せよ」で、一切怒るな、と指導されるそうなのだ。

みんな上司をやり玉に挙げるのだけど、見過ごされている事実がある。上司は会社の代理人として振る舞っているにすぎないという点だ。チェスター・バーナードという著名な経営学者が「組織人格」という概念を提唱している。組織における人格が、個人の人格とは別に存在するというのだ。
多くの上司は、個人的にどう思うかにかかわらず、会社に命じられて、怒るかどうかを決めている。個人的にはどうでもいいけど組織人として対処することもあるし、個人的には注意すべきだと思ったけど組織人としてスルーした、ということも起きうる
ちなみに、いわゆる大企業ほどこの傾向は強まるだろう。大企業ほど管理職向けには丁寧に研修をするし(一般論としては、研修など社員教育にリソースを割く企業はよい企業である)、コンプラインアンスを気にして強い統制を行っている。
つまり結論としてはにべもないものだけども、会社として揉め事にならないように怒らなくなった、というだけといえばだけなのだ。

最近の若者を見ていると、冗談ではなく、怒った人を見たことがないのではないかと思うことがある。怒ることが教育として間違っているという観念が浸透し、ご家庭の方針として怒らないと決めているケースもあるだろう。先生や上司はさらに(組織の事情で)怒らなくなっている。
この経験のなさは危険でもある。「怒り」について免疫がなさすぎるのである。いくら間違ってるとか悪だとかラベリングしたところで、喜怒哀楽というように「怒」は人間のきわめて基本的な感情である。怒る・怒られることから逃れて生きることは珍しいし難しい。
怒りを排除した教育は、車の一切通らない道で交通マナーを学ぶようなものだ。実際の道路には車がバンバン通るし、車は重大な交通事故の主要因なわけだから、車を排除して交通マナーを学んでも、実践的意味は薄い(これはもちろん、怒ることの正統性ではない)。
結果として、驚きあきれるようなことが、教育現場では起きがちだ。ちょっと怒るとこの世の終わりみたいな顔をする学生は、けっこういる。めちゃくちゃ楽しそうに笑顔でおしゃべりしていて、うるさいよ静かにして、と言うと一瞬でこの世の終わりのようなツラに変わる。
この人ら、私語をしたら怒られるって知らないのか? って思ったりする。たぶん知らないのだ、怒られてこなかったから。怒ることを、オトナが放棄してきたから。私語をする若者に怒ると、逆にオトナが怒られる。若者が萎縮してしまったらどうする。トラウマになったらどうする。前向きにしゃべっているだけだ。自分で考えて更生する機会を奪うのか。お前が不機嫌なだけではないのか・・・・・。
何の中身もない言葉で怒りを排除してきたのは若者ではなく、オトナである。
このような背景を経て、怒られたときの若者のリアクションは2パターンある。まずはこの世の終わりのような顔をする。次に、徹底して「自分が悪くて怒られたわけではない」と抗弁するパターンである。言葉は悪いが、怒った学生から粘着質的に、しつこく絡まれることは珍しくない。筆者にとっては希少例ではない。
たとえば、リアクションペーパーで私語への苦情があったので、私語止めてねって怒ると、怒られた学生からこういう反応が来る。

「リアクションペーパーへの返答は時間がもったいないので止めてほしい」
「私たちは授業を受けに来ているので、苦情対応のために来ているのではない」

自分たちが怒られたという事実からは論点をそらしつつ、怒られる背景となった要因(たとえば、授業コメントへの返答)についてネチネチと苦情を述べる。「私たち怒られましたけど、あれ、私たちは悪くないんですよ。授業の構造の問題なんです」と言いたいかのようだ。
なんでここまでしつこく絡むのだろう。なんでそんなに怒られたくないのだろう。よほど自意識が強いのだろうか、と思ったこともある。たぶん違う。怒るというのはありえないことで、だから怒られるのはよほど恥ずかしいことをした証明だ、と教わってきたからだ。
怒ることを世の中から排除した結果、よっぽどのことをしないと怒られないので、怒られるヤツというのは相当恥ずかしい、ヤバいやつだということになる。こう認識した結果、怒られるお前は最低だ、社会の底辺だ、みたいに感じてしまうのだろう。とんでもない勘違いである。怒りという基本的感情を排除した余波は、こんな意外なところにも及んでいるのだ。

ただし、ほとんどの若者は必ずしも怒る・怒られること自体を否定してはいない(怒ることを忌避しているのはオトナである)。怒られることに異常ともいえる反応を示すのはごく一部である(が、たしかに存在しているし、増えていくだろう)。
本章冒頭の遅刻の例で、学生に「自分が部下だとしたら怒られるべきだと思いますか?」と訊いても、案外「怒られるのが当然」と言う人は少なくない。ざっくり半数くらいは、まあそれは怒られるべきじゃないの、と思っている。
理由として多いのは、「怒られないのは逆に、見捨てられているような気がする」という意見だ。怒ることを正当化するわけじゃないけど、愛情ゆえの怒りというものも当然存在する。若者は過度なくらい感情の世界で生きていて、だからこそ愛してほしいのだ。
ただまあ、ちょっと都合が良い。「メンタルにくるようなのは止めてほしい」ら「諭すように怒ってほしい」「頭ごなしに・・・・・・」「感情的に・・・・・・」非常に細かい注文がつく。お金払っているお客さんにだったら細かいニーズでも応えようとするのだけど、相手は部下だ。お金もらってるんじゃなくて払ってる相手だ。一番選ばれやすい答えはきっと、そうだ。「めんどくさいから怒らないで、放っておく」だ。

本書を執筆している当時、ちょうど元プロ野球選手のイチロー氏が、高校生らに向けて話す動画が話題になった。北海道の旭川東高野球部に招待され色々話をする中で、次のようにグラウンドで語りかける(書き起こし・句読点は筆者加筆)。

「指導者がね、監督・コーチ、どこ行ってもそうなんだけど、厳しくできないって。厳しくできないんですよ。時代がそうなっちゃっているから。導いてくれる人がいないと、楽な方に行くでしょ。自分に甘えが出て、結局苦労するのは自分。厳しくする人間と自分に甘い人間、どんどん差が出てくるよ。できるだけ自分を律して厳しくする」

ええことおっしゃる。本当に、現代にこそ必要な至言だ。大学でも職場でも、厳しくすることがほんとにできなくなっている。オトナは若者を怒らないし、怒れなくなっている。結果的に若者の機会を少なからず奪っているとすら思うけど、でもこの流れは止められない。それが「時代」なのだ。
時代って何なのか誰もよくわかってないけど、そうなっていったらもう抗えない。あまりに強い濁流。この令和の新しい時代に、若者はとても「むごい教育」を、残酷なことをされているのかもしれない
怒られない社会、怒られない職場の病理は2つある。まず、若者の免疫があまりにも弱体化して、かえって怒(られ)ることを過大視しすぎてしまっていること。私語を注意するなんて何の気なしにされるようなことなのに、された方が人格否定のように、取り返しのつかない過ちを犯したかのように感じてしまう。
もう1つは、怒ることをネガティブに捉えすぎるがゆえに、もし若者が怒ってほしい・怒られるべきだと思っているときでさえも、上司は怒らないことを選択し、それが最善手になってしまうという問題である。

『Z世代化する社会』 第5章 より 舟津昌平:著 東洋経済新報社:刊

イマドキの若者の打たれ弱さ、周囲を気にしすぎる繊細さ。
それらは、怒られた経験のなさから来ているということです。

それも、元を正せば、怒りを排除した教育が原因です。
つまり、「怒りを忌避する社会」を作り出した、彼らの親世代の責任だということですね。

「Z世代」は社会の構造を写し取った存在

私たち上の世代の人間は、Z世代と呼ばれる若者たちをどう理解し、彼らの言動から何を学べばいいのでしょうか。

舟津さんは、Z世代はわれわれのーーZ世代以外を含むーー社会の構造を写し取った存在であり、写像であると強調します。

 若者は経験が浅く、雑味がなく澄んでいて、だから外からの影響を受けやすい。社会の構造なるものが生まれるーーたとえば不安を利用したビジネスが横行するーーとき、社会に在るわれわれは、多かれ少なかれその影響を受ける。なかでも若者は感度が高く適応が早いので、いち早く構造を反映して言動に移す。
だから、異様に見える。でも異様に見えるZ世代は決して地球外から来たエイリアンではなく、社会構造をより純粋に敏感に写し取った、先端を往く者なのだ。ビジネス化する社会も、不安を利用する社会も、唯言的な社会も、若者の方が影響を受けやすいというだけで、確実にわれわれにも影響している。Z世代はこれから就活に挑むし、われわれはもう就活を終えてしまったというだけの違いである。
Z世代と、それ以外の他者としてのわれわれをつなぐかすがいは、ここにこそ在る。協働のための、一緒にうまくやっていくための鍵は、共有できるものは、同じ推しを推すことではない。同じYouTubeを視聴することでも、一緒にテーマパークに行くことでもない。社会の中で、われわれのあいだに同じ構造があることを認識し、どうやってそこから生きていくのかを一緒に考えることにあるのではないだろうか
現代社会とはいわばZ世代化する社会である(タイトル回収)。時代の最先端を走るトッププランナーでありアーリーアダプター(最初期に適応する人)である若者を観察すれば、われわれの置かれた社会構造がより鮮明に見える。Z世代が、意識・無意識によらず感取し現前化させたものこそ、われわれの生きる社会を表したものなのだ。

もう1つ、主張しておこう。若者が社会構造を先取りしていて、いずれどの世代もそうなっていく、という構図そのものは、時代によらず共通しているだろうということだ。なぜわざわざそんなことを強調するのかというと、Z世代だとかこの手の若手論は、「時代」という言葉で簡単に処理され、忘却されがちだからだ。
そもそも時代ってなんだろうか。現代人は本当に時代が好きだ。「令和の時代」って、何度見たことか。でも、時代ってよく考えたら、「みんなそうやってるから」という同調圧力に他ならない気もする。
同調圧力と言ったら日本人特有のなんだかんだとネガティブに捉えられるのだけども、時代って言い換えれば、有無を言わせない正しさを備えたような気分になれる。
たとえば「体罰」について考えてみる。現代では体罰は限りなく忌避されるし、加害側が明示的に罰を受けることも多い。
ところで、なんで体罰がダメなんですか? と理由を考えてみよう。多くの方は「そういう時代だから」と答えるのではないか。
あえて断言しよう。時代だからって言う人は、時代が許せば「やる」側に回りうる。つまり、みんなダメって言うからやらないってことであって、こういう方は、時代が許せばやる側に容易に回っていく。殴る時代が(再び)来れば、体罰を糾弾していた同じ人が、堂々と殴るようになるはずだ。それって怖いことじゃいだろうか。
つまり、筆者としては、時代は容易に繰り返すと考えている。今、世の中は怒ることか忌避されて、若者に極度のストレスを与えないようにできている。でもそれは、多数派が変われば容易に覆される構造なのだということを知っておかないといけない。

「怒ることが嫌われるっていう話、納得感はすごくあります。と同時に、予備校なんかだと、暴力的な講師とか、人格否定する講師でもけっこう人気があって好かれてたりするんですよね」

なるほどなあ、と思った。つまり、状況やノリが許せば、怒っても厳しくしても、なんなら人格否定してもアリなのだ。受験勉強って、生徒側はけっこうハイになってたりもするので、叱咤やきつい物言いは興奮状態を喚起することがある。受け取る側によっては、忌避されるはずのことが受容されてしまうのである。
われわれが安易に乗っかる「時代」は、その程度のあやふやなのだと思うべきだ。時代が許せば、人々はいとも簡単にハシゴを外せてしまうのだから。

Z世代は、われわれの社会の構造を写し取った存在である。
で、だからなんやねん(So what?)と思ったかもしれない。まあ要するに、不安型離職をするのはZ型世代だけじゃないかもしれないよ、ということだ。Z世代はより経験がなくてピュアだから報道を信じやすいというだけであって、30代も40代も、ふとユルい職場に気が付いて、手応えのなさに不安を持って、離職を考え出すかもしれない。そういう意味で、若者とわれわれは何も違っていない。
Z世代は不安で離職するらしいぞ、お前なんとかしとけ、と命じられたオジサンが、気付けば離職していた・・・・・・なんて、笑えない話じゃないだろうか。
つまり、本書で紹介したようなZ世代の危機は、われわれにも同様に襲い掛かる。そんなとき、われわれはどうしたらいいのだろうか。

「ジョブ・クラフティング」という概念かある。仕事をクラフト(工芸)のように捉え、自主的に再創造することを意味する。ジョブ・クラフティング自体、不安や離職の解決法に直結しうるものの、本書では深入りしない。
日本の代表的なジョブ・クラフティング研究者である高尾義明『「ジョブ・クラフティング」で始めようーー働きがい改革・自分発!』を、筆者のゼミで輪読したことがあり、その話を聞いた高尾先生が直々に学生にメッセージをくれたことがあった。その一節を(勝手に)引用したい。

「もちろん、ジョブ・クラフティングという考え方がより効力を持つのは、就職してからです。自分にぴったり合った仕事というのは、世の中に存在しないことが普通です。それでも、自分にとっての仕事の手触り感を自ら高めていくことは可能だということを、何かの折に思い出すと、仕事への向き合い方が変わるかもしれません」

これ自体金言である。で、筆者をくぎ付けにしたフレーズ。自分にぴったり合った仕事というのは、世の中に存在しないことが普通です
卓越した経営学者は言う。ぴったり合った仕事など、ふつう世に存在しないのだと。ミスフィットは、必然的に生じるのだと。ほんと? なぜ? どうして? 転職エージェントは、(ガチャを回せば)あなたにぴったり合った仕事が見つかる、って言ってたじゃない。

ミスフィットが必ず起きる理由は、いくつか考えられる。まず、仕事の評価軸が非常に多様であるからだ。第5章の調査でも、質負荷・量負荷・人間関係負荷という3つの指標が登場した。仕事の難しさ・仕事の多さ・仕事の人間関係、である。他にもたくさんある。社会的ステータス(友達に自慢できる)、などなど。
何者かになりたいZ世代は、何者かになったことを他者に自慢したい。今働いてる会社、かなりいい感じだ。人間関係は良好だし、給料も良い方みたいだ。再開した大学の友達に自慢する。すると、半笑いで返されるのだ。

「どこ? その会社。知らない(笑)」

途端に、自分の会社に価値がなく思えてくる。極端な例だが、友達に依存した唯言の世界に生きていると、こういうケチのつけられ方が効いてしまう。
余談ではあるが、学生は知っている会社、つまり知名度を目当てにして就活をしがちである。しかし、「知らない会社」には優良企業、知られざるホワイト企業がたくさんある。そのほとんどはB2B企業である。
逆に学生でも知っているということは、広告宣伝にかなり注力している企業、つまり、巨額の広告宣伝を行わないと顧客が獲得できない企業だということである。ほんとに違いはそれだけである。友達が知っているかなんてほんとにくだらない基準だけど、友達と切り離されると生きていけないZ世代は往々にして気にしがちである。
まあ、つまり、仕事のどこかは自分にフィットしていないはずなのだ。
経営学者・関口倫紀が「フィット」についてまとめた論文によると、そもそもフィットの種類はかなり多様である。会社とのフィットなのか、それとも仕事(職)か。グループになじむフィット、会社が必要としてくれることのフィット、天職と感じるフィット・・・・・・。
フィットはとても多義的で、その中のどれかが当てはまれば十分なものだ。でも、そのすべてがフィットしてないと、少しでも不快が交じるとイヤだと思ったら、フィットなど永遠にめぐってこない。
また、大学の楽しい生活と比較して相対的に楽しくない、という不満も考えられる。大学はテーマパークだから楽しい。でも、会社は楽しくない。当たり前である。会社はお金を払っている。不快を排除して楽しいことだけ与えてくれるわけでもない。つまり、テーマパーク化された生活に慣れきって楽しさの水準をそこに合わせてしまっている人は、仕事が絶対に楽しくなくなる。テーマパーク化の罠である。

次なる、ミスフィットの理由。ミスフィットとは当たり前ながら、何かと何かが不一致であるという意味だ。この場合、仕事に対する事前の期待と事後の結果がフィットしていない、と解釈できるだろう。
リアリティショックという概念がある。早期離職や、若者の職場への不満因子として注目されている。いざ会社で働き初めて現実(リアリティ)に直面してショックを受けるというのだ。人間関係がよさそうと思って入った会社が日常ではギスギスしててショックを受けるとか、配属が希望する部署と異なっていた、などもリアリティショックに含む。
リアリティショックでは「事後結果の低さ」が注目されがちだ。つまりリアルは甘くなくて醜悪である、と。「社畜」なんて言葉(とてもよくない言葉だ)を弄する人々からすれば、会社に期待なんかするのが間違いなのさ、なんて思っているかもしれない。
筆者の読みでは、リアリティショックは逆に事前期待の高さゆえに起きているのではないかと推察している。つまり、(何も知らないのに)会社に期待しすぎているのだ。たとえば、やりがいのある仕事。1年目からバリバリ頑張れる仕事。そんなものを期待していたら、ユルい職場で拍子抜けする。1年目は研修と雑用ばかり。いつになったら大事な仕事を任されるのだろう? 不安が湧いてくる。ヨソだと通用しなくなるんじゃないか

社会心理学者の古川久敬は「内発性信奉」という概念を提示している。世の中で内発性が過大視されすぎているのではないか、という指摘だ。内発性とは、外発性つまり外部から与えられるのではなく、自分の内部から動機付けされていることを指す。要は、「好きな仕事だから頑張れる」みたいなアレだ。
もちろん、好きなことを仕事にできるとか、仕事が好きになるとかは素晴らしいことだ。そういう人は幸せだとも思う。同時に、それはかなり難しい。いろんな意味で難しい。古川は「マルチタスクの罠」について解説する。すなわち、マルチタスクを求められる職場において特定の仕事に内発的動機付け高い人は、他の仕事の内発的動機付けが低くなる傾向があったというのだ。
具体的には、百貨店の店員が挙げられる。百貨店の店員は、ざっと接客、商品棚の補充や整理、バックオフィスでの事務仕事、後輩への教育や上司への報告など社内コミュニケーション、といった複数の仕事(マルチタスク)をこなすことが求められる。このうち、たとえば接客が大好きで自分は接客業が転職だと思っている従業員は、逆に他の仕事にモチベーションが湧かない、ということが起きるのだ。
非常に納得できるメカニズムではある。「好きな仕事には前向きになれる」というキラキラした想いは、「好きじゃない仕事は前向きになれない」に簡単に転化する。この2つの命題は「裏の命題」の関係にあって、片方が正しかろうがもう片方が正しいとは限らないのだけど、この2つが同時に成立すると思っている人はあまりにも多い。「仕事を好きにならなきゃ」という真っ直ぐで美しい志向は、なぜか「好きじゃないと頑張れない」にすり替わって、内発性を信奉する人々自身を苦しめている
決して「現実は醜悪なんだよ。夢を見るな」なんて言いたいわけじゃない。ただ、「仕事を好きにならないと」「仕事を楽しめないと」と思うことは、自縄自縛につながる。特に職場では自分で自分を苦しめるような規範になってしまう可能性が高いのだ。
ましてや、オトナが無責任に「楽しめる仕事を選ぼう」なんて、とてもじゃないが言うべきことじゃない。そういう観念が浸透してるとしたら、そりゃリアリティショックは起きるわけだ。
もっと言えば、楽しい仕事なんて、ない。仕事を楽しめるかどうかはあなたが楽しみ方を知っているかに尽きる。つまり、あなたが楽しみをクラフトして(再)創造しない限り、仕事に楽しさなんて生まれることはない。仕事はテーマパークでも、ゲームでもない。あらかじめ用意された楽しみをしゃぶり尽くすようなエンタメではないし、楽しむためのチュートリアルをしてくれる娯楽でもない。
楽しい仕事に就くのじゃなくて、楽しさを見つけるように生きることで、われわれは簡単に消費されない楽しさを享受することができる。教育とは、そのためにあるものだ。楽しさを発見する過程を支えるためのものだ。

『Z世代化する社会』 第6章 より 舟津昌平:著 東洋経済新報社:刊

最近、就職してもすぐに辞めてしまう若者が話題になります。
それも社会の変化の流れを先取りした現象だということです。

「いまどきの若者は・・・・」

そう嘆くより、彼らから見習って、生き方や働き方を軌道修正していきたいですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

Z世代に象徴される若者たちは、社会の構造を写し取った存在であり、写像であり、社会の変化に最も影響を受ける世代です。

一方で、新しい環境に適応する力が最もあるのも若い世代です。

舟津さんは、若者は強靭に生き抜く力をたしかに持っているとおっしゃっています。

いつの時代も、世の中を変える画期的なアイデアを創り出すのも、それに一早く反応して使いこなすのも、若者の役目でした。

私たち上の世代が、彼らを理解し、サポートする。
それが社会全体をより良く買えていくためのポイントになります。

今日、世界的に見ても、世代間の格差や分断が大きな問題としてクローズアップされています。
今以上に、相互の理解やコミュニケーションが重要視される時はないかもしれません。

本書は、Z世代とオトナ世代のギャップをつなげてくれる“架け橋”のような存在です。
皆さんも、ぜひ、お手にとってみてください。

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