本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『人生を思い通りにクリエイトするしくみ』(Rumi)

お薦めの本の紹介です。
Rumiさんの『願うから、叶わない⁉ 人生を思い通りにクリエイトするしくみ 人生のラストピースを埋める奇跡の視点』です。

Rumi(るみ)さんは、量子力学を基にした自我浄化メソッド『Quantum Love Creation(QLC)』の開発者であり、作家です。
株式会社 人間根本問題研究所の代表取締役を務められています。

なぜ、「心からの幸せ」を感じられないのか

Rumiさんは、これまで多種多様な人たちと関わってきました。
そんな中で、いつも、感じていたこと。

それは、「心からの充足感・幸福感で毎日を過ごしてる人が、とても少ない」ということでした。

 多くの人は「こうなったら幸せ・・・・・・」と、「幸せが感じられそうな状況」を追い求めて生きています。「幸せになるために、その状況が必要」だと思って、もっとキレイになったら! もっとカッコよくなったら! もっといい仕事に就けたら! もっと有能だったら! あぁ、結婚できたら!・・・・・・と、「それが叶えば幸せになれる!」と思い込んで、「幸せになれそうな状況」を追い求めて、多くの人が、日夜、励んでいるのです。
けれど、その状況を手にしたとしても、
得られる幸せは、実は、一過性でしかありません。

一瞬、幸せを手に入れたような感じがしても、それは、すぐにまた手の平から、こぼれ落ちる・・・・・・。「状況に依存する幸せ」は、追えば逃げる陽炎のように、あまりにも儚いのです。

そして、驚くべきこともありました。それは、「もう『こうなったら幸せ』なんて、思う必要もないほど、すべてを手にしている人」でさえ、一抹の「愛の欠乏感」や「不充足感」「不安」を抱えて生きている、ということです。

もしかしたら、あなたも、「あぁ、もっとお金があったら・・・・・・」「あぁ,愛ある家庭があったら・・・・・・」「あぁ、もっと有能だったら ・・・・・・」「あぁ、自分の使命が見つかったら・・・・・・」「あぁ、もっと心が穏やかだったら」「あぁ・・・・・・・〇〇だったら・・・・・・」・・・・・・・なんて、思っていませんか? そして「それが叶えば幸せになれる!」と、それを追い求めたり、叶えるために頑張ったりしていませんか?

もし、そうだとしたら・・・・・・それを叶えること自体もなかなか難しいですし、仮にそれをなんとか叶えられたとしても・・・・・・「叶えたら叶えたで、また次の悩みがやってくる」って、なんとなくお気づきではないでしょうか。

たとえば、あんなに結婚したかったのに、結婚したら今度はお互いがうまくいかない。「独身の頃はもっと気楽だったのに・・・・・・」みたいな、次のステージに進んだからこそ! の悩みって、次々に出てきますよね。
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☘あんなに「お金があったら・・・・・・」と思っていたのに、成功してお金を手にしたら、今度はそれが当たり前になって、喜びは束の間、お金があることが普通になる。そればかりか、逆に「減る恐怖」や、周りの人が「お金に寄ってきているのではないか?」と猜疑心が強くなって、前より苦しくなってしまったり・・・・・・
☘せっかくパートナーから愛され始めたのに、そしたら今度はそれが煩わしくなったり・・・・・・
☘自分の有能さを感じられる職場にやっと転職できた! と思ったら、人並以上の大量の仕事がやってきてイヤになったり・・・・・・
☘使命が見つかった! と思ったら、それを果たすために自己犠牲をして辛くなったり、自分の足りなさを嘆く羽目になったり・・・・・・
☘心穏やかになった! と思ったら、それはそれでなんだか刺激がなくて、つまらなくなったり・・・・・・(笑)
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人間って、本当におもしろい生き物です。
こんなことを、ずっと繰り返しているとしたら・・・・・・、「毎日を心からの充足感や幸福感で満たされて生きるなんて、至難の技!」ですよね(笑)。

わたしは、幼少期から、両親が身を粉にして働く姿を見続けてきました。そして、決して裕福とはいえない時から、一貫して、「教育だけが財産だから、大学は好きなところに行きなさい」と言い続けてくれた親の言葉を胸に育ちました。そのせいか、「親孝行したい、一角の人になりたい・・・・・・」と、かなりの上昇志向で生きていました。もの心ついた時から、上を、上を、目指し、左脳派、効率追求で、毎日を行き急ぐように駆け抜けていたのです。それは、もう幼少期からで・・・・・・。大人になって当時を振り返ってみた時、「すごい子どもだったなぁ」って、我ながら笑ってしまう程でした。
その甲斐あってか、わたしは、普通に生きていたら出会うこともできないような方々と接することができ、同じ時を過ごさせてもらうことができました。若くして役職にもつかせてもらい、数々の経験をすることもできました。今では、たくさんの世界を見せてもらったことに本当に感謝かありません。思い出しても、すべてが、かけがえのない宝物です。けれど、あの当時のわたしは・・・・・・、幸せとは、真逆のところにいました。
どんなに周りから「すごい人」と思われても、当の本人は・・・・・・、どこまで行っても、自分を認められず、逆に、焦燥感と無価値感の中で、いつも心は、カラカラと虚しい音を立てていたのです。
周りの優秀な人も(わたしの見てきた範囲内にはなりますが)、ほとんどの人が、そうでした。「もっと上へ! もっと上へ!」と、上昇志向で生きている人は、何かを達成したとしても、そこは一瞬で通過して、また次の目標に向かって自分のお尻を叩き始めます。その在り方は、「毎日を心からの充足感や幸福感で生きる」のとは、真逆の方向性です。「何かを達成した、その瞬間」だけは、充足や幸福を感じたとしても、それは瞬く間に通り過ぎるのです。何かを達成しても、すぐ、またその翌日から、更に上を目指す、生き急ぐ感覚に包まれていくのです。

実は、上昇志向は無意識に「『今の自分は、まだまだだ』という自己否定や自己卑下」をつくり出すのです。

では、上昇志向をやめて立ち止まれば、充足や幸福感を感じられるのでしょうか?
わたしは幸い、二度ほど、この「立ち止まる経験」もしました。
一度目は、在り方に疑問を持った所属先を辞め、次の身の処し方を考えようと暫く休むことにした時。そして、二度目は独立起業後、ウツを経験した時です。
あんなに休みたい、休みたいと思いながら頑張ってきて、「やっと休める状態を自分でつくった一度目」も、「強制終了させられて、その状態がつくられた二度目」も、あの時のわたしは、どちらの経験でも、まったく心が休まりませんでした。ずっと上昇志向で駆け抜けてきたわたしが、やっと立ち止まれた。休んでもいい時を迎えたのに・・・・・・。今度は、立ち止まっていることが辛かったのです。
結局わかったことは、駆け抜けても立ち止まっても、これまでの在り方では「どちらも辛い」ということでした。

日々、出会う方々も、そうです。
バリバリ頑張ってきて「休みたい、休みたい」と思ってきて、何かのキッカケで、やっと休めるタイミングが来たのに、そこでまた、「仕事以外に、何もやりがいを持っていない自分」に気づいて、愕然とされたり・・・・・・、「休む罪悪感」が出てきて苦しまれたり・・・・・・。心から休める境地には、皆さん、なかなかたどり着けません。
バリバリとは逆で、あまり頑張ってきた自負がなく、どちらかといえば「なぜ自分は頑張れないのだろう・・・・・・」と、そもそも、そんな立ち止まっているような方も、多くの場合、自分のダメさを嫌って(自分がダメなように見えて)、苦しんでいらっしゃいます。

つまり人は、「駆け抜けても、立ち止っても、どちら側で生きても、心からの充足感や幸福感を感じながら生きるのは、ほとほと難しい」生き物なのです。

『人生を思い通りにクリエイトするしくみ』 第1章 より Rumi:著 Clover出版:刊

「良い・悪い」「正しい・間違い」「優れている・劣っている」・・・・・。

本書は、そんな二元思考から抜け出し、これまでとまったく違う新しい価値観を手に入れ、思い通りの人生を創造するノウハウをまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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不安を消すには「受け入れること」

求めても、なかなか得ることができないのが「幸せ」。
逆に、消そうと思ってもなかなか消すことができないのが「不安」です。

不安は、どうすれば消すことができるのか。
それを知るためには、まず、不安の正体を知る必要があります。

「不安」って、一体なんなのでしょう?
そもそも不安って、完全に消し去ることができるのでしょうか?

実は、世の中には、「悩んでも仕方がない=悩む必要がない」ことがあります。
「不安」も、その一つです。
そもそも人間は、危険回避の本能があるから、「これは大丈夫なのかな?」「あの人にこう思われていないかな? そうだとしたら説明しないといけないよね?」などと危険な目に遭わないように、常に備える習性があるのです。だから、人間である以上、「不安」があるのは正常なのです。「不安があるのは良くない状態(=問題)」だと思って、なんとか消そうとしているとしたら、それこそが、終わらない負のループにはまり込む原因だったのです。

「不安があるのは当然=正常!」
つまり、そもそも完全に不安を消し去ることはできない。

これを知ると、「なーんだ、不安ってあっていいんだ!」と受け入れられるようになります。

すると、

勝手に、不安って消えていくのです。
逆説ですから!
消そうとすると、消えない(笑)。
「受け入れると、消えてゆく」という、しくみ・・・・・・。

これが、不安を解消できる本質的な方向です。
これは、不安だけではなく、「あらゆる問題をも解消できる方向」の一つです。
「不安や悩みの原因」って多岐多様にあるように思われていますが、実は、突き詰めれば、「受け入れられないこと」たった一つと言えるのです。だって、その相手や出来事を受け入れられたら、もうそれは苦悩ではないですよね。

ある成功者の方とお話していて、印象的だった言葉があります。
「寝る間もないほど働いているのに、寂しさ、虚しさでいっぱいなんだよ。
そしてふと見回すと、周りには誰もいなくてね・・・・・・」
なんて切ないのでしょう。当時、胸が張り裂けそうになったのを、覚えています。

最初に「成功・成幸」について、少しお話しさせてください。
人はなんとなく、多くの人がイメージする「成功」を追い求めて生きています。
けれど、求めるべきは、本質的な意味での「成幸」だと思います。
これまでお目にかかった多くの成功者たちも、冒頭の切ない言葉に代表されるように、やはり最終的には「幸福感」や「愛し愛されること」を求めていらっしゃいました。どんな「強面の男性」でも、「すべてを手に入れたような人」でも、です。
つまり、一般的な「世に言う成功」を収めたとしても、必ずしもそれは「成幸」にはならないのです。
実は、裕福な、物質的には何不自由ない層にいる人のほうが、悩みが深かったりします。そして、孤独や寂しさや猜疑心、お金で紛らわせる(紛らわされる)虚しさ・・・・・etc。わたしのような一般庶民には知り得なかった、深い苦悩があることも知りました。
庶民からしたら「さぞ、幸せなんだろうなぁ・・・・・・」と思ってきた階層の人たち。
でも、その方たちのほうが、もしかしたら苦悩が多いのかしれない・・・・・。
そんな風に感じたこともあります。

あなたは、一般的なイメージの成功をしたいですか?
それとも、本質的な成幸をしたいですか?

最初は、生活のためにガムシャラに頑張っていたとしても、生計を立てることが軌道に乗って、ある程度、生きていくことはできるようになると、やはり誰しも、その先に求めるのは「幸福感」と「愛」ではないでしょうか?

そうであれば、「世にいう『成功』をしていない(ように思える)人」でも、日常で「幸福感」を感じられて「愛し愛され」ていたら、それはもう「成功者」も羨む、真の「成幸者」なのだと思いませんか?

わたしは、自らもいろいろな体験をしてきて、やっぱり「成功」ではなく「成幸」を求めたいと思っています。そして本質敵な「成幸」、そこに至る人をたくさん増やしたいと思っています。

なぜなら、心からの幸福感や、本質的な愛に満たされた人が増えると、
「その愛や幸せが集合意識に満ち渡り・・・・・、社会や、世界や、地球が、
元々の愛に戻っていく」と確信しているからです。

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イライラしている人がいると、周りもイライラしてきますよね? 逆に、癒し系・和み系の人がいると、その場がやわらいで、和んでいきます。人の内面は目には見えないけれど、確かに作用し合っています。
音叉のように、お互いの心が、その人の発するバイブレーションによって共振共鳴し合うのです。愛に満たされた人がいると、その人の周りには愛のバイブレーションが広がっています。愛あふれる人がそばにいると、なんだかこちらまで幸せな気持ちになっていきますよね! そんな人とは、いつも一緒にいたくなってしまう。
だからその人の周りには、いつも人が集まってきて、愛のバイブレーションがどんどん広がっていく。すると、周りの人が嬉しいのはもちろん、そう! その発信元でであるとその人自身も、孤独ではなくなる。愛で満たされていく・・・・・・。
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この世は、
「自分が発しているものが、周りから返ってくるしくみ」になっています。

よく外側に(=自分以外の他者に)愛し愛されることを求める人がいますが、実はこれも逆です。あなたの中を、まず愛で満たす。すると自然と、他者との間にも、愛が循環するようになるのです。自分を犠牲にして相手のために頑張っていた時よりも、はるかに楽に軽やかに、愛し愛される循環に入っていけるのです。

自分が幸せになることに罪悪感を抱く人がいますが、そうではないのです。まず、あなたが自分を愛し、幸せにし、あなたがあなたのハートのコップを満タンにするのです。イメージしてみてください。コップのお水って満タンになったら、勝手に、中身があふれますよね? そう、あなたが自分のコップを自分への愛で満タンにすると、そこから勝手に愛はこぼれ落ち、あふれ出すのです。
自分のコップの中身はカツカツなのに、人に愛を与えようと自分を犠牲にする人がいますが、それでは、自分も相手も幸せになれません。自分が何かの犠牲になっていたら、人の幸せを素直に喜べないばかりか、「なんで、あなたも犠牲にならないの?」と、人の不幸さえ願ってしまいかねませんから。

人は、自分が幸せであって初めて、人の幸せも心から喜べる生き物です。
自分が幸せだったら、勝手に人の幸せを喜べるし、人に優しくなれるのです。

だから、あなたは、一点の曇りもなく幸せになっていい。

あなたが幸せになっても、周りは不幸にはなりません。
むしろ、逆です。あなたが幸せにならなければ、周りは不幸になります(これ以上詳しく書くと、それだけでも一冊の本になってしまいますので、「自分が幸せになることに一抹の罪悪感」を持っていたり、「自分が幸せになると周りが不幸になる」と感じてしまう方は、ビデオブック『ガマン大迷惑の法則(Amazon)』もご参照ください)。

あなたが「自分のハートのコップ」を自分への愛で満たすことで、
周りにも、あなたからの愛が勝手にあふれ、広がっていく。
そんな循環が、わたし達一人ひとりにできる
「真の社会貢献」だと思うのです。

一人ひとりの人生のラストピースを埋めるもの、それは、本当の意味での「成幸」をすることです。
そしてそれは、大きな意味では、社会・世界を愛で満たす=世界平和を達成するラストピースでもあったのです(この辺りは第2章で詳しく書きますね)。

わたしの元には、日々「輝いていたい!」「充実していたい!」「使命を見つけたい!」・・・・・そんな願いを持っている人が、たくさん集まってこられます。
けれどそう言っている人に限って、新しいことに踏み出すのが怖かったり、「自分なんてこんなもの」と自分を制限して、自分で自分に「退屈な毎日」を強いていたりします。

「毎日輝いて、充実して、使命に命燃やして生きている人」は、「毎日輝いていたい!」「充実したい!」「使命を見つけたい!」なんて思っていません。そんなこと頭にも浮かばないほど、もう今、すでに、「やりたいことに邁進」しています。

ただ、「だから幸せか!?」というと、実は、そうでない場合もあります。同じ「輝いて、充実している(ように見える)行為・行動」でも、その行動の出どころが、これまでの在り方(=状況で幸せになれると思って、その状況を達成するためにガムシャラに頑張っていたり、自分の欠乏感を埋めるために何かをやっている在り方)だったら、周りに、どんなに輝いているように見えても、当の本人は、心が疲弊してしまって、「できることならすべてをやめたい」「誰かにやってほしい」「休みたい」と、切に願っている場合も多いからです。

おもしろいですね。どちらの人も「成幸」していない。

つまり、これまでの在り方だったら、情熱的に生きている(ように見える)人も、退屈に生きている(ように見える)人も、心からの「幸せ」や「愛」に、日々、満たされて過ごすことはできないのです。

良く、極から極に行く人がいます。
「退屈人生」を嫌って、「情熱人生」に行ったり、
「情熱人生」に疲れて、「退屈(非活動的)人生」に行ったり・・・・・・。
でも、この極から極は、結局、どちらの極に行っても、同じ。
どちらも「心からの幸せ」や「愛」に包まれた、
本当の「成幸者」にはなれないのです。
では、どうすればいいのでしょうか?

それは・・・・・、
両極を超越したところで、
どちらの曲も楽しめる、
新しい在り方に移行することです。

『人生を思い通りにクリエイトするしくみ』 第1章 より Rumi:著 Clover出版:刊

不安を消すコツ。
それは、「消そうとしない」こと。
そして、「受け入れる」こと。

なくそうとすればするほど増えていく。
求めれば求めるほど逃げていく。

人間の心は、なかなか一筋縄ではいきませんね。

不安や苦しみなどのマイナスの感情が湧く理由

Rumiさんは、この世は、実は、あなたの内面があふれ出した世界だと指摘します。

それは、「その出来事や相手、自分をどう見ているか」という内面意識が、その日常をつくっているということです。

つまり、日々「どんな感覚で過ごしているのか(発している振動数)」が、共振共鳴して、それに見合った現実がつくられているということです。

では、不安や苦しみなど、マイナス感情が湧くしくみは、どうなっているのでしょうか。

 マイナス感情は、その時の出来事や相手によって
生まれるのではなく、あなた自身の、「二元思考」と、
「結果追及型思考」によって生み出されています。

どういうことなのでしょうか。進んでいきましょう!

日常で何か不安を感じたり、苦しいことがあったり、空虚感に襲われたりすると、嫌な感じがしますよね。
たとえば「将来のためにこのくらいお金が必要なのに、まったく間に合わない」「そんなつもりで言ったんじゃないのに、誤解されて苦しい」「子どもが巣立っていって一人暮らしになり、なんだか心にポッカリ穴が空いてしまった」みたいな、何か特定の状況があって、不安や苦しみ、空虚感を感じているとしたら、その「目の前の現象や出来事に、原因がある!」と、これまで思ってきましたよね。
「でも実は、違うんじゃないか・・・・・・」と、ここまで読んでこられたあなたは、なんとなく感じられるように変わってきているのではないでしょうか。具体的な現象や出来事は何もなくても、漠然とした、不安や苦しみ、空虚感に苛まれる時もありますから、ましてや! ですよね。

出来事があってもなくても起こる、マイナス感情。
それは、思考に原因があったのです。

多くの人が、日々、いろいろなことに不安や苦しみを感じ、それをなくしたいと思って生きています。不安や苦しみを嫌って、それを消そうと、様々な学びをしている人が、世の中にはたくさんいます。
わたしも、多くの学びの現場を通過してきましたが、「やっても、やっても、変わらない」だけならまだしも、あろうことか「やればやるほど、ひどくなる」人もたくさん見てきました(冗談ではなく、本当の話です。でも、水から茹でられるカエルのように、じわりじわりひどくなるので、「最初より悪化している」ことに気づいていない、無自覚な人も多くて本当にビックリしたものです)。

なぜ、不安や苦しみは消えないのでしょう?
なぜ、良くなるために様々に学び努力しているのに、変われない・・・・・。
そればかりか、ひどくなることもあるのでしょう?

ここでちょっと考えてみてほしいのですが、体調が悪い時に病院に行って「原因不明です」と言われたら、どんな気がしますか? ・・・・・怖いですよね? 治しようがないですよね? でも原因がわかったら、どうですか? どこを治せばいいかわかりますから、病気自体は心配だとしても、「治し方の目処が立つ」という意味では、安心ですよね。

けれどわたし達は、不安、苦しみ、空虚感が湧いてくる原因を知らない。
不安や苦しみ、空虚感を消したいと思っていても、もし、それらが消えていないとしたら、それは、原因を知らないから。闇雲に努力しても、原因に届いていないのだから、治りようがなかったのです。

だから、安心してください。あなたが悪いのではないのです。
何も悪くない。もし悪いことがあるとすれば、それは、「しくみ」を知らなかったことです。

では、ここから、不安や苦しみ、空虚感が沸くしくみをお伝えします。

不安、苦しみ、空虚感といった、マイナス感情が起こる原因。
それは、思考です。
「良い悪い、という二元思考」と、
「理想や結果を追い求める追及型思考」が原因です。

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もちろん、脳の危険回避本能として、常に危険はないか察知しようとマイナスを拾ってしまう(=そもそもがマイナス)思考は、当たり前に、全員に付帯されているので、それは一旦脇に置いておきます。
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最初に二元思考についてお伝えします。人間は、ほぼいつも、ものごとを二元で捉える生き物です。

あの人にこう言われた。 ←そのことについて、良かった・悪かった
こういう出来事が起こった。 ←そのことについて、良かった・悪かった
自分は、こんな行動をとった。 ←そのことについて、良かった・悪かった
みたいな感じです。
絶えず、目の前に繰り広げられる出来事や相手に、無意識に、「良い・悪い」のジャッジをしているのです。

こう言われて、嬉しい(=これは良いこと)。
こう言われて、嫌だった(=これは悪いこと)。

これこれが、できてよかった(=これは良いこと)。
これこれが、できなかった(=これは悪いこと)。

これこれができたのに、思った評価が得られなかった(=これは悪いこと)。
できたからこそ、更に要求がきて辛い(=これは悪いこと)。

結婚して良かった。
結婚して悪かった。

美味しいお店で食事ができて良かった。
もっと美味しいお店だと思ったのに残念(=これは悪いこと)。

といったように、絶えず頭の中で無意識に「良い・悪い」の二重奏がこだましているのです。本当に、忙しいですよね(笑)。

そこで! ちょっと意識的になってみたいのですが、
そんなに忙しく、「良い」「悪い」の二重奏をこだまさせているけれど、
果たして、「良いこと・悪いこと」って、ハッキリ決まっているのでしょうか?

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わたしのセミナーで、おもしろいシーンがありました。
休憩時間に、お二人のマダムが、こんな会話を始めらられたのです。

「あなた離婚できてすごいわね!」
「いえいえ、ガマンができなくて、全然ダメですよ」

「えー、わたしなんて勇気がなくて結婚し続けていますから、羨ましいですよ」
「えー、嫌なことがあっても結婚し続けていらっしゃるなんて、そちらのほうがすごいですよ!」
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おもしろいですよね。同じ「離婚」という現象について、羨望の眼差しで見る人もいれば、ダメな眼差しで見る人もいる(笑)。そして更にこれは、同一人物の中でも変化します。最初は良かったと思っていたことも、後からやっぱり悪かったと思ったり、またその逆もありますよね。

過去に自分が体験した「挫折」にしてもそうです。それを、「良かったと見るのか、悪かったと見るのか」で、その人の人生は心地よくも、悪くもなります。

今まさに「挫折中」だとしても、それをどう見るのか・・・・・。
「もうダメだ」と見るのか、
「今ここで、自分の根っこが深く育っている」と見るのか。

その見方によって、その後の展開が変わっていきます。想像がつきますよね?

実は、「出来事や、ものごと自体」で、
あなたの人生がつくられているのではなく、
あなたの「出来事や、ものごとへの見方・捉え方」によって、
人生はつくられていたのです。

日々起こる出来事に、純然たる「良い・悪い」ってないのです。
「悪い」と捉えたら悪い方向に、「良い」と捉えたら良い方向に出来事は収束していくだけなのです(なんとなく、肌感覚でわかる方もいると思います)。

なのに、わたし達は、無意識に「純然たる『良いこと・悪いこと』がある」と思い込んで、自分の中のその「良い・悪い」のジャッジで、日々、一喜一憂しているのです。この辺りは、第3章で詳しく書いていますが、不安や苦しみが生まれる原因は、「『良い・悪い』の二元思考でものごとを見てしまうこと」だと伝わりましたか?
何かの出来事や、誰かを「悪い」と判断すれば、その出来事や誰かに「どうしたらいいのだろう?」と不安になりすまし、「なんでこうなるの!」と憎しみや苦しみが生まれるのです。
次に、理想や結果を追求する、追及型の思考、これも、多くの人がやっている苦しみの元です。

日本人の多くは小さい時から「将来の夢は何?」「夢を持て」と言われて育ちますし、「高得点を取った」とか「試合で勝った」とか、何か結果ができると褒められて育ちます。子どもながらに、褒められる(=愛される)と思って、結果を出そう、出そう(=もっと愛されよう)と、頑張ってきたと思うのです。だから、もう無意識に、常に夢や理想をつくり、「それを叶えよう」「その結果を得よう(=愛されよう)」と、大人になってからも懸命に頑張っています。

逆に、もし、今、頑張れなくなっている人も、最初は、頑張っていたと思うのです。ただ、「思うような結果が出せなかったり、途中で心折れてしまって、がんばれなくなっていたり・・・・・」、あるいは、最初から「自信のなさとかで、頑張るよりも頑張らないほうを選んでいたり」もありますね。でも、どちらでもいいんです。生きていくために、それでバランスをとっただけなのですから。
そして実は、この「夢や理想を追求する思考」も、まさかの空虚感、虚無感、無価値感・・・・・など、様々なマイナス感情を生み出す原因だったのです。
だって、「何かを叶えたい」と思った瞬間、「今、それが叶っていない=欠けた自分」だと認識しますし、理想の自分になろうとすればするほど、今がそうでないように思えて、そのギャップがドンドン広がっていくからです。

「じゃあ、夢や理想を持ってはいけないのですか?」「夢や理想を持って頑張らないと、ダメ人間になるんじゃないのですか?」と、よく質問されるのですが、そうではありません。「そうなったら自分を認められる」とか「そうなったら、もっと幸せになれるはず」とか、「今、それが叶っていない=欠けた自分」からの夢や理想は持たずに、「今すでに、このままでも素晴らしい自分」で、夢や理想のためというよりただ愉しいから、心地よいから、嬉しいから・・・・・・、みたいな感じで、自分のハートが喜ぶことを「ただやる」のです。純粋な動機、「ただ一つでやる」のです。
二つに分かれるものは不純です。幸せになるからやる、認められるからやる、愛されるからやる・・・・etc。これらは、「もう少しこうなったら・・・・・」という、たとえ軽微なものてあっても、「それを達成したい=今、そうではない」という認識が出どころですから、その、「今、そうではないという現実」をつくり続けますし、「〇〇だから、やる」というのは、実は不純なのです。

無償の愛・・・・・。純粋性が高いほど人は感動し、満たされますよね。「〇〇だから、やる」というのは、実は条件付きで無条件ではないことに気づく必要があります。
条件付きでやるのは、その条件がそろわなかった時、不満に変わります。

たとえば、「喜んでもらえると思ってやったのに、思ったほど喜んでくれなかった。ショック・・・・・」なんてことは、よくあると思うのですが、これも、「喜んでもらえる」という結果を求めてしまった(喜んでもらえるから、という条件を付けてしまった)ので、苦しみが生まれたのです。「これをしてあげるのがわたしの喜びだから、してあげた」ただそれだけだったら、相手に思ったほどの反応をしてもらえなかった時でも、自分のハートは満足なのです。純粋に喜びでやる時は、「〇〇だから・・・・・」が、そもそもないのですから、不満は発生しません。

出た結果を、「良い・悪い」で見ると、二元思考の苦悩が生まれるかもしれませんが、二元思考も超えていれば、ただハートが喜ぶことをやっている、プロセスとしての「今、現在」の喜びに包まれて日々暮らすことができますし、そこには、「理想の自分」と、「今の自分」のギャップも、存在しません。

「これまで数々学んできましたが、理想の自分と今の自分が一致したのは、ここが初めてです!」「Rumi先生は、現代のスマホを持った如来さまです」と言って下さった方がありましたが、理想や結果を手放せば、逆に、理想の自分になっているという結末なのです。

『人生を思い通りにクリエイトするしくみ』 第2章 より Rumi:著 Clover出版:刊

出来事には、それ自体に決まった意味はなく、ニュートラル(中立)です。
それに意味づけしているのは、私たちの意識(思考)です。

ある出来事に「苦しい」と思うから、「苦しい」体験になる。
その「苦しい」体験が、その出来事は「苦しい」ものだという思い込みを増長させる。

この負のスパイラルを抜け出すには、「二元思考」を超えることが必要不可欠です。

それには、自分がやりたいと「感じた」ことを、「ただ一つでやる」こと。
頭(思考)ではなく、ハート(感情)で判断することが求められます。

「真! ニュートラル思考」で、二元思考を超える!

Rumiさんは、「プラス思考」も「マイナス思考」も「中庸」も超えた「まったく新しい思考!」。これで生きると、人間らしくいろいろな想いも湧き上がり、決して心穏やかばかりではないけれど、「良い・悪い」という二元を超え、どんな感情も味わい愛でることができる(=起こること、すべてを愛おしむことができる)ようになると指摘します。

 最初に、大前提の話をします。
「この人は、こうだ」「あの人は、ああだ」「仕事って、こうだ」「お金って、こうだ」「男って・・・・・」「女って・・・・・」「わたしって・・・・・」「俺って・・・・・・」と、すべてにおいて人は、「自分がそうだと思った世界をつくって生きている」ことを前章で、お伝えしました。
たとえば「自己否定がある人」は、否定される人生、否定したくなる人生を、「自分が好きな人」は、周囲から愛され、周囲を愛する人生を送っています。なんとなく、わかりますよね?

子どもの頃から周囲に愛されて育った人は、自己肯定感が高く、その「自分を肯定している認識」が、その人自身の行動や雰囲気としてかもし出されて、周囲からも肯定的に見てもらえます。
しかし、子どもの頃から否定されて育った人は、自己肯定感が低く、その「自分は、ダメな人間だ」という認識が、その人自身の行動や雰囲気としてかもし出されて、周囲からもダメ人間として扱われます。
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ただこれは認識だけなので、周囲から否定されて育った人でも、自ら学び、根っこを深く掘り下げ理解し、「自分が自分を肯定できる」ところまで到達できた人は、もちろん肯定的な人生を送っています。だから環境が原因ではなくてその環境によって、自分がどう認識したか? が、その人の人生を形成する要因なのです。
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アル中の父親の元で育った二人の兄弟のこの話、ご存知でしょうか。
片方はアル中になり、片方はアル中にならなかったのですが、
インタビューを受けて、二人はこう答えていました。

質問者 なぜ、あなたはアル中になったのですか?
兄   父親がアル中だったからだ

質問者 なせ、あなたはアル中にならなかったのですか?
弟   父親がアル中だったからだ

おもしろいですよね。同じ状況下でも、二人は真逆の人生を、歩んでいるのです。

時々、誰かのせい、何かのせい、にする人を見かけます。その人は、本気で、そのせいで「自分はこうなった」と、思い込んでいます。でも実は、そんではないのです。
その「誰か」や「何か」を、自分がどう見たか(どう認識したか)、その見方(捉え方)が、その人の人生をそうしているのです。

状況そのものではなく、
「自分がその状況を、どう見たか」が、
人生に多大なる影響を与えている。

また、その人が「そうだ」と信じてしまえば、たとえそれが真実でなくても、真実になります。
「そんなこと言ってないよ!」と伝えても、「いいえ、どうせわたしが悪いんでしょ!」とガンとして聞き入れない人って、時々いますよね。話が噛み合わない感じ。
これは、その人が絶対に、「あなたは『わたしが悪い』と言った」と、信じて疑わないから起こります。あなたは、本当にそんなつもりで言っていないのに、でも、それはあなたの真実であって相手は、相手の受け取り方で受け取った、それが真実になっているから噛み合わないのです。

信じたものは、たとえ嘘でも真実になる。

何かもめごとがあった時に、「どっちが言っていることが本当なんだろう?」って、よく真実探しをしますよね?でも、これも、泥沼化してしまいます。片方を真実、としてしまうと、必ずもう片方は承服しません。真実として採用されなかった方は、根に持ち、恨み、後々にわたって、禍根さえ残しかねません・・・・・怖いですよね(笑)。
じゃあ、どうしたらいいのか?
それは、「どちらも真実」だと知ることです。その人からしたら、それが真実なのです。どちらも、真実なのです。どちらが良いとか悪いとか、どちらが正しいとか間違っているとか、そんなこと、もうどちらでもいいじゃないですか。
そんな二元思考は軽やかに超えて、
「あなたからしたら、そうなのね。わたしからすると、こうなのよ」
「なるほど! 立場が違うから、そっか、あなたからすると、そんだったのね!」
ってノージャッジで、お互いがお互いの気持ちを、ただ受け取りあえばいいのです。
すると、調和が生まれて、その時に妙案が浮かぶなど、事態は勝手に解決の方向に向かっていきます。これはわたし自身もそうですし、わたしの元に集う多くの方々も、日々、体験してくれていることです。

真実は、人数分だけある。
それが真実。

これを知り、ただ相手の主張を受け取り合う、という実践をされた方たちは、相手との間に調和を生み出し、起こる出来事をすべて、最適な結果に収束させていかれました。

「善・悪」についても、もう少し触れておきましょう。
巷では、「どっちが悪いの?」って、よく「犯人探し」をしますよね。でも、これも泥沼化します。「どっちが悪いの? 誰が悪いの?」ってやっても、実は、「どっちも悪くない」からです。そこにあるのは、お互いの事情です。
Aさんからしたらそれがよかったし、そうするしかなかったのかもしれない。
Bさんにしたら、それは嫌だったし、もっと違う風にして欲しかったのかもしれない。「ただ、それだけ」だったりするのです。
本当に、どっちが善とか悪とか、ないのです。この思考が、世界に広がっていけば、世の中に被害者も加害者もいなくなるし、誰も悪くない、平和な世界が実現します。故意に悪意を持ってなされる場合は別ですが、そうでなければ、本当に誰も悪くないのです(ただ、もし悪意から為されたとしても、「愛が叶わず憎くなってやった」としたら・・・・・悪意さえ愛に帰結する場合もありますけどね)。

少し余談になりますが、悲しい事件になるような出来事ってありますよね。
たとえば、いじめ。いじめは、子どもの話だけではなく、職場や家庭など、大人になってからもあらゆるシーンで存在している、と言っても過言ではないと思いますが、これも多くの場合「犯人探し→加害者に謝罪させる、させたい!」みたいな感じで、人は行動しがちです。

ですが,これでは根本的な解決にはなりません。実は、そこには、「意識のつながりあい」も、あるからです。

どういうことかというと、たとえば、ケンカをして罪悪感を持っていると、相手にグチグチ言わせてしまいます。でも、ケンカしても一切罪悪感なし、「お互いの気持ちが伝え合えてよかったね♪」みたいにケロっとしていると、相手も「ぷっ」と笑って元に戻れたり、「ぷっ」とまではいかなくても、「ま、いっか」みたいに、元に戻るのは早いです。ジメジメしているほど、長引きます。
何か加害されたと感じて「被害者意識」を持つと、自分も苦しいし、誰かを恨みたくなります。すると、今度は、その恨みを晴らしたくなり、相手を加害したいと思い始めます。そう、「被害者意識」は「加害者意識」に転じる可能性大なのです!

いじめられっ子が、相手の名前を書いて自ら命を断つ。すると、そうされた加害者は、一生、その罪を背負って生きる被害者になる。そんなことをし合っていて、誰が幸せになるのでしょうか。世の中で騒がれるような大きな事件ではないにしても、一人ひとりの日常の中で、ささやかな悲しい事件は、日常茶飯事となり続けています。

だとしたら、そんな悲しい事件を早々に終わらせるために必要なのは、「罪悪感」や「被害者意識・加害者意識」を早めに終わらせることだと思いませんか? よかったら、これを読んだあなたから、もし、自分の中にそんな意識が起こったら、それを癒やし、終わらせていきたいと、少しずつでもいいので思ってみてもらえませんか?

意識のつながりあいから見ると、自らの被害者意識を癒せば、人から加害されることがなくなります。すると自分も安心ですし、それは、加害者を生み出さない立派な社会貢献になります。わたしや、わたしの元に集う方たちは、この被害者意識を癒し終わらせていくので、日常で責められたり、攻撃されたりすることが本当になくなっていきます。もし、学びが必要なプロセスの人(=今は未熟と呼ばれるステージの人)から、何らかの攻撃的な言葉を受けることがあったとしても、被害者意識が癒えている人は、至って普通に、その人の学びとして、動じずに受けとめ、見守ることさえできるようになっていかれます。それは、被害者意識の増幅を抑止しているので、相手を必要以上の加害者にせず、事態は穏やかに収束していきます。

わかりやすい事例がありますので、こちらの話も追記しておきます。
先日、職場の「ハラスメント研修」について、話をしてくれた方がいました。
研修で「自分に悪気がなくても、相手が『傷ついた』と感じたら、それはもう立派なハラスメントになります。気をつけましょう」みたいなことを、教えられたそうです。でも、彼女は、わたしのところで、「真! ニュートラル思考」に触れていらっしゃったので、「それって、変ですよね!」と言ってきてくれました。

そうです。それは変です。だって、それでは、「わたしも傷つきました」「わたしも!」って、被害者が増幅&増長していきます。本来、ハラスメントを減らしたり、なくしたりするための研修なのに、逆に、ハラスメントを増やしてしまう・・・・・・。本末転倒だと思いませんか?

だから、そうではなくて、「心が痛い。傷ついた」と感じる人がいた時には、その人の内面に「その痛みを感じさせる・・・・・・、その出来事に反応する・・・・・傷がある」と、まず知ってください。そして、その傷を癒すことにフォーカスするのが、ハラスメント根絶に必要なことです。

自己否定のある人は、どんな言い方をされても「否定された」と、とってしまいがちです。それを、悪い目で見るのではなく、「そうだよね。自己否定があったら、そんな風に感じてしまうよね」と、理解してあげたうえで、「じゃあ、その自己否定を癒しましょうね!」って、傷を治してあげるのです。そうしたら、それ以降、もうその人は、同じ類のことでは、傷つかなくなります。それが根本的な解決です。

わかりやすい事例で言えば、たとえば、仕事で単に「今度からこうしてね」と言われただけで、「これまでのやり方を否定されました」とか、「あの上司、自由にさせてくれない! わたしを尊重してくれない」などと、拗ねてしまう人っていますよね。こちらからしたら、「業務上、そういう風にしてもらったほうが円滑に進むから、『今度からそうしてね』って、お願いしただけ」の話なのに、訴えられれば、まさかのハラスメント上司にさせられてしまう・・・・・・。そんなの不毛ですよ(涙)。
なぜ、こういうことが起こるのか・・・・・・というと、それは、「傷ついた」と拗ねている人の中に、自己否定があるからです。自己否定がなければ、「今度からこうしてね」と言われた時、「りょうかいです! (心の中では、そのやり方について「どうかなぁ・・・・・」とか、仮に少し思うことがあったとはしても)わかりました、やってみましょう!(みたいな感じ)」で終わります。その「こと」には意識がいくけれど、「自分が否定された」には、意識がいかないのです。

明らかに悪意を持って為される行為は別として、そうでなければ、
ほとんどの出来事が、誰もどちらも悪くないのです。

もし悪いことがあるとすれば、「『傷つけられた』と感じる人側に、心の傷がある」ことなのです。そして、もし、まさかの自分が「悪意をやめられない」としても、それも「心の傷かある」からなのです。
ケガをしていなければ、海に入っても痛くないですよね。でも、ちっちゃな切り傷でもあれば、海水は滲みる。刺すような痛みを感じるのです。「わたしは認めてもらえない」「出しは価値がない」「わたしは愛されない」・・・・・etc。そんな心の傷を抱えていたら、人生という大海の中で(=職場・家庭・異性・友人関係といった、日常の出来事の中で)、痛みを感じて仕方がないのです。

だから、本当にハラスメントを終わらせたかったら、「人を傷つけないようにしましょう」ではなくて、「傷ついた(と感じた)人の、心の傷を癒やしてあげましょう」なのです。アプローチは、犯人撲滅ではなくて、被害者撲滅(=被害者の癒やし)なのです。

いろいろ、余談になってしまいましたが、今の社会を見渡すと、本当に本末転倒なことばかりで、切なくなります。根本的に解決できるのに、その方法を知らないために、人は傷を増幅させあって暮らしている・・・・・。
だから、この本を書くことにしました。
よかったら、少しでも共感していただけるなら・・・・・・。
これを読んだあなたから、「善・悪」で、物事を判断して、被害者意識に苦しんだり、加害者を懲らしめようとするのではなく、傷つけられたのなら、自分の傷を癒やす方向に向かってほしいのです(逆に、傷つけたい場合も、自分の傷を癒やす方向に向かってください)。

わたし達の意識は、つながっています。イライラする人が近くにいると、こっちまでイライラしてくるように、見えない意識は、見える現象として現れ続けてきます。そのことに、わたし達はこれまで、あまりに無自覚に生きてきました。「勧善懲悪」「正義感」って、これまで「良いもの」とされてきたものが、実は、その意識は、争いを生み出すのです。あなたが正義側に立てば、相手は悪になる。相手が正義側に立てば、あなたは悪になる。ただそれだけで、本来どちらも悪ではないのに、戦いが終わらないのです。

誰も悪くない。
その人には、その人の事情が・・・・・・、心の傷が・・・・・・、その人なりの真実が・・・・・・、あるだけなのです。

今、世界は混沌としていて、目覚めている人の中には、支配する側を悪の根元として、責める心を持っている人も少なくありません。しかし、攻撃のエネルギーを出したら、それが集合意識に蔓延して、争いが大きくなってしまいます。

「戦うなかれ・・・・・・」。これは、これまでも言われてきた言葉ではありますが、本当にそうなのです。ただ、同じ「戦わない」という行為・行動であっても、じゃあ、「戦いを放棄して屈することなのか」というと、そうではありません。それでは、プラスとマイナスの極から極に行くだけで、二元思考の範囲内です。

根本的な解決は、「戦う」も「戦わない」も、
二元思考の範囲を超えた、
「真! ニュートラル思考」のゼロ磁場の位置で、
みんなが内面をクリアーにしていくことです。

「敵は外にいるのではなく、自分の中にいる!」というのは、武術やスポーツの達人が、よく口にされる言葉ですよね。先述した、童話『青い鳥』の話も・・・・・・。これらは、本当に、普遍的で汎用的だと感じます。

敵を、外に見出すのではなく、「戦う」も「戦わない」も、二極を超えたところで、何か、出来事や相手に心が反応するのなら、
一人ひとりが、その発生源である、
自分の内面意識をクリアーにしていくことなのです。

たとえば・・・・・、何か、悪を見た時に、その当事者を責めたくなったとしたら、一人ひとりが、「自分にもそういうところがないか?」と、内面をクリアーにしていく。

人間誰しも、自分より下からこられたら、つい上から出てしまう、と思いませんか? 何でもすごく言うことを聞いてくれる人がいたら、ついつい甘えて増長しちゃったりしますよね。悪気はないけれど、「え? この人、こんなにわたしのためにしてくれるの!?」と思ったら、ついつい、気づけば、あれも、これも・・・・・・と、お願いしていたり・・・・・・。
また、なんでもかんでも平謝りする人がいると、ドンドンその人に対して文句を言いたくなって、その人を、つい自分の気持ちの捌け口にしてしまったり・・・・・・。悪気はなくても「つい・・・・・・」と、そんな経験がある人も、少なくないのではないでしょうか?

わたし達の意識はつながり合っています。下からこられたら、つい上から出てしまったりすることもあるし、自ら、下に入れば、相手に上からこさせてしまいがち・・・・・・。 ガマンし過ぎれば、相手を増長させてしまうのです。
モンスターペアレンツ、という言葉が流行って久しいですが、世の中には、モンスター上司、モンスター妻、モンスター夫・・・・・・etc。様々なハラスメントが蔓延していますよね。これも、実は、被害者側が下手に出て、ますます相手を増長させている、というケースが少なくありません。だから、モンスター側に対して、「やめてください」と言っても終わらないのです。被害者が、下手に入ったり、ガマンしたりすることをやめない限り、マウント(支配)してくる人は、マウントをやめないのです。

だったら、一人ひとりが、もし、自分の中に「下に入って身を守ろう。ガマンして事態が通り過ぎるのを待とう」みたいな意識を持っていたら、それをクリアーにして、相手に支配させないことが大切だし、もし逆に、「自分より下だと思う人がいた時に、『この人、わたしの要求なんでも聞いてくれる!』と、相手に少し横暴になりかけること」があったとしたら、意識的に、それをやめていく。
自分のなかの支配する、される、を終わらせることが大切なのです。

身近な家庭でも、たとえば、親は子を支配(自分の善悪でジャッジして、自分が思う「良い」を押し付けていたり)、子は親を支配(「絶対この治療がいいよ!」とか、自分が思う「良い」を押し付けていたり)、夫は妻を支配(俺の言うことを聞け! とか)、妻は夫を支配(わたしはこんなに頑張っているのに、あなたはこうしてくれない・・・・・・、と被害者な感じだけれど、実は、結局、自分の思う通りに動いてほしいと支配しようとしているカラクリとか)、そういうことをやめていくと、どうでしょうか。

わたしの元に集う方達は、勇気を持って、それらをやめていってくれます。すると、見事に! 家庭に、会社に、学校に、病院に・・・・・・etc。真の平和が生まれ、そこに暮らす人たちの間に「本当の愛」が循環し始めるのです。「よかれ」の押し付けは、本当の愛ではありません。それは、その人の「良かれ」であって、相手からしたら、他人の善悪を押し付けられる「悪かれ(=支配)」なのです。

わたしは、この、真! ニュートラル思考で、
地球を愛に戻したいと思っています。

もし、本節に綴られた内容を、少しでも「そうかもしれない」と思っていただけたら、ぜひ一緒に、ささやかであっても、ご自分の中に「攻撃」や「支配」を見つけたなら、それを終わらせていきませんか?

すると、あなたが、「愛し愛される・・・・・・、愛あふれる日常で暮らすことができる」のはもちろん、それは世界平和にもつながります。外面は内面の投影。世界は一人ひとりの放つエネルギーの収束なのですから!

少し、熱くなってしまいましたが(汗)、話を元に戻しますね(笑)
そんな風に、人は認識で自分の世界をつくり、また互いにつくり合っています。
だから、冒頭でお話した、そもそも「苦悩ありき(=苦悩がある)で世界を見れば、苦悩が存在し続ける」のは、当然だと思いませんか「そもそも苦悩が存在する」からスタートしているすべての学問や方法論は、「苦悩」を存在させ続けてしまうわけです。何かを解決しようとすればするほど、それを「問題」だと認識し続けているので、皮肉なことに、その「解決しようともがく大きさ」に比例して、問題は大きくなり続けます。

だから!

「そもそも、それは苦悩なのか?」という問いが、
この世界から苦悩を終焉させる、唯一のカギ!
ラストピースになります。
「苦悩と認識してきたものが、実は苦悩じゃなかったー!」
そこに到るしか、苦悩って、終わらなかったのです。

なぜ、苦悩が生まれるのか。
それは、「良い・悪い」「正しい・間違っている」・・・・・・そういった、二元的な思考で、ものごとを見るからです。

「真! ニュートラル思考」は、
二元をも、中庸をも超える思考です。

その「ものごと自体」「相手自体」には、「良い」も「悪い」も、「正しい」も「間違っている」もない。
すべての出来事は、自分の中の「癒されることを待ちわびている傷」を炙り出してくれる、ありがたい宝物だったのです。
その傷を癒やし、終わらせていけば、自分が楽になるだけでなく、すべてを許せ、受け入れられ、寛容になれます。本質的な愛の最上位は、わたしは、今のところ「寛容」だと捉えています。中庸を超えた、寛容は、あらゆる出来事、あらゆる人(未熟な魂)も、慈愛の目で、慈しむことができます。

苦悩は、「その出来事や相手を受け入れられない」から起こります。
日々、起こる出来事や、目の前の相手、自分の人生や、自分自身まで・・・・・・etc。
あらゆることすべてを「受け入れ、許すこと」さえできたら、あなたの世界から苦悩はなくなるのです。

その出来事自体が「問題」だったのではなくて、
それを「問題」と捉えていた思考だけが
「問題」だったのです。

さぁ、あなたも、本質的な愛の世界で暮らし始めませんか?
そこは、お互いがお互いを、そのまま受け入れ合える、愛あふれる世界。
毎瞬,毎瞬、「生まれてきてよかった! 生きていることが愉しい!」を、実感できる世界です。

二元も中庸も超えて「真! ニュートラル思考」に切り替えてしまえば、プラスもマイナスも、それをそのまま愛おしめる感覚を手にします。電池も、プラスとマイナスを合わせるから電気がつきます。日常で起こる「良いと思える」こと、「悪いと思える」こと、人生で起こった「良いと思った」こと、「悪いと思った」こと。
それらすべてが、実は、あなた自身の壮大なエネルギー源になっていたのです。

「真! ニュートラル思考」で生きられるようになると、マイナスの奥にあるプラスを感じられるようになります。「憎んでしまったのは、愛があったら」だし、「自己否定するのは、自分が大好きだから」です。「病気をしたとしても、周りからの愛を受け取れるギフト」だったり、「騙されたとしても、それは自分が自分のハートを切り捨て、『自分が自分を騙していた』ことに気付けるギフト」だったりもします。

もう、この思考で生きれば、
愛しかない日常で、暮らすことになるのです!

愛は、求めても得られません。
なぜなら、「愛を求めるのは、今、ない」と、思っているからです。

健康な人は、「健康になりたい」と思いませんよね? 健康なのが当たり前すぎて「健康になりたい」なんて、頭にも浮かびません。だから、「健康になりたい」と思う人は、「今、健康じゃない(=病気の)人」です。

であれば、「愛を求めている」ということは、自覚があるにせよないにせよ、「今、愛がない」と認識しているということです。この世界は、あなたが捉えたように(=認識したように)できている世界。

だから、愛を求めて、どんなに学び実践しても、「今、ない」と認識している、それが現実化するのですから、どこまでいっても、愛はえられないのです。くしくも、「愛がないから、それを求め続けている」という、その「愛がない」現実がつくられ続けていくのです。

愛し愛されるために必要なのは
愛されようと頑張るのではなく、
すでにある愛が、見える目になること。

幸せになるために必要なのは、
幸せになろうと頑張るのではなく、
幸せを感じる力を育てること。

『人生を思い通りにクリエイトするしくみ』 第3章 より Rumi:著 Clover出版:刊

現実は、ただ起こっているだけ。
それこそ「ニュートラル(中立)」です。

現実を意味づけしているのは、私たちの意識であり思考。
それに気づくと、世界はいかようにもなることがわかります。

人の数だけ真実がある。
世界を変えることは、世界の見方を変えること。

それを理解することが「真! ニュートラル思考」で生きるコツです。

Rumiさん流「心の痛みへの処方箋」

Rumiさんは、日常のいろいろなシーンでお役に立つ、「心の痛みへの処方箋」的に、詩をプレゼントしてくれています。
ここでは、その中からいくつかを紹介します。

☘自分に愛がないと思う時

自己嫌悪
なんてわたしは、愛がないんだろう・・・・・・

もし、今
あなたがそんな風に感じているとしたら

なんてあなたはステキなんでしょう!

本当に愛がない人が
自分に愛がないことを嘆くことができますか?

なんてわたしは冷たいんだろう!

そう思えるのは
あなたが温かいからじゃないですか!?

本当に愛がない人は
自分の愛のなさを嘆くことはできない

☘自己否定が終わらない時

自分のことが大嫌い!
なんでわたしは、こんなに能力がないんだろう
なんでもっと社会で活躍していないの?
人生失敗してしまった
この年齢でこの程度なんて、本当にイヤ!・・・・・・etc

もし、何か自分のことを否定しているとしたら、
それはとても苦しいことだよね
自己否定を終わらせたいって
いろいろ学んでいるかもしれないし
自己否定する自分を更に否定して、
嫌っているかもしれないね
でもね

その自己否定・・・・・・、あっていいよ

なぜなら
どうでもいい人のことを、そこまで嫌ったりできないでしょ?
通りすがりのあなたと関係ない人を、
「なんでそんなに能力ないの?」
「なんでそんな失敗したの?」なんて、
そこまで気にもしないでしょう?

なぜそこまで、自分を否定したくなるの?
なぜそこまで、自分をもっとステキな人で、
いさせたいと思うの?

目を閉じて、少しの間、感じてみて・・・・・・
そう! それは・・・・・・

☘自分の価値がわからない時

わたしなんて何の価値もない
わたし、生きている価値あるのかな
そんな風に思う時は
それは、あなたが「すごい自分」になりたい時
何かの結果を求めている時だよ

理想をつくると途端に自分がダメに見えるというしくみ
何も理想をつくらなければ・・・・・・
「他の誰かのようになりたい!」と、自分を放棄しなければ・・・・・・
いつしか無価値感から解放されているよ

「生まれたての赤ちゃんに何も求めない」ように・・・・・・

無条件に、生まれてきてくれただけで、
そこにいてくれるだけで、心癒される存在として・・・・・・

自分が自分に、その眼差しを向けてあげませんか?

いろんな体験をしたくて、
魂を磨きたくて生まれてきたのだから、
今、いろいろな体験をして、いろいろな想いを感じている・・・・・・

それだけで、もう、すでに、
生まれてきた目的を、達成していた
=すでに価値はあったのですよ

☘相手に愛がないと思う時

〜愛しかない愛し方

メールの返事がなかなかこない
大切にしてくれない・・・・・・etc
相手の行動に何か言いたくなったら
それは「愛されたい」ばかりを、求めているサイン
すると、相手は苦しくなる
もちろんあなたも苦しくなる

でも捉え方を変えてみて・・・・・・

こんなにメールの返信が待ち遠しいほど愛している

こんなに大切にされたいと思える相手に出逢えている
(どうでもいい人から大切にされたいと思わないでしょう!?)

この奇跡を感じてみる・・・・・・

そして、あなたの中にある
相手への、想いや愛を抱きしめて、大切に過ごしてみる

自分の中にある愛を、相手を通して知ることができる、豊かさ

愛は、相手からもらうものではありません
愛は、感じるもの

自分の中にある愛を・・・・・・
相手を通して、感じさせてもらったその愛を・・・・・・
自分の中で大切に愛しんで過ごしていたら
ケンカや、本来 別れなくてもいい別れは、起こらないのです

あなたの中にある愛を、大切に抱きしめて生きる

「あなたにそんなに愛があること」を知らせてくれる相手にただ感謝し

共に紡ぎだせる時間を、ただ楽しむ

これが、愛しかない愛し方・・・・・・
幸せにしかならない愛し方・・・・・・

☘自信がない時

未来は いま 刻々とつくられる
成っている未来から〜現在(いま)に
刻々と与えられる 状況やひらめきがある

「本当の自分」を生きていたら
次々と開く扉
未来を現在(いま)の連携で
そのプロセスを、楽しんで進むだけ
その経験が 過去として、紡ぎ出される

状況が与えられ
ひらめきが湧き
ビジョンを見たら
その具現化に必要なことを
そのプロセスを 愉しんで進むだけ

できるのか できないのか なんて
言っている時間が、あまりにも無意味

今回の人生は・・・・・・
時は・・・・・・
限られている

できるのか できないのか・・・・・・で グルグルしても
まぁ、それさえも、体験だからいいけれど
「できるの? できないの?」なんて
本気で、はまり込んで悩むのではなく
人間の機能として
「変わらないこと=安定」を望む
脳の現状維持が働いているだけ、と知る
同じ悩むのなら
それを見破ったところから 悩みきってほしい

なぜなら
☘そうやって、悩み続けるのか、
(それは、そこに止まっていると安定が得られると思い込んでいるだけなのだけれど)
☘未知で不安はあるけれど
成っている未来との連携で、その道を楽しんで進むのか

あなたは、自由に選べるのだから
だから、「自ら、そちらを選んでいる!」と
自覚して体験してほしい

「したくないのに やめられない」
「したくないのに しなきゃいけない」
と思うことが人間の苦悩の始まりだから

できるのか できないのか
悩みたくないのに悩んでしまうのではなくて
自ら「そう悩んでいたい」とハッキリ自覚して悩みきってほしい

すると無自覚に「やめたいのにやめられない」と言っていた頃とは、
確実に、何かが変わるから・・・・・・。次の扉が、開くから・・・・・・

未来は
いま
刻々と紡ぎ出されている

『人生を思い通りにクリエイトするしくみ』 第4章 より Rumi:著 Clover出版:刊

Rumiさんの詩を読むと、苦しみや悲しみなどは、自分自身でつくり出していることがよくわかります。
ネガティブな状況が自分自身でつくったのなら、それらを自分自身でポジティブなものに変えることも可能です。

世の中の“からくり”が見えてくると、幸せへの道のりも見えてきますね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

二元を超えて、どんな「プラス」も「マイナス」も愛おしめる、ゼロ磁場のような領域で暮らせる「真! ニュートラル思考」と、「結果を追求する視点」ではなく、純粋に「『今ここ』の、このプロセスを愉しめる視点」を得ること。

それが内面が愛で満たされ、本質的な愛で暮らしていかれるためのラストピースです。

Rumiさんは、それは、くしくも世界を平和にする最後のワンピースでもあるとおっしゃっています。

愛も幸せも「自分の内側」にあり、外の世界の出来事は「自分の内側」の反映である。
そのしくみに気づいて「二元思考」を抜け出した人たち。

そんな愛で溢れた人が増えることで、愛で溢れる世界が創り出されます。

私たちも本書を手に、そんな新時代の創造者(クリエーター)を目指したいですね。

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