【書評】『超訳 ブッダの言葉』(小池龍之介)
お薦めの本の紹介です。
小池龍之介さんの『超訳 ブッダの言葉』です。
小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ)さんは、日本は日本初期仏教の僧侶です。
現在は住職を務められながら、執筆活動にも積極的に取り組まれています。
人生の核心を突く「真理の言葉」
ブッダ(仏陀)は、仏教の開祖であるお釈迦様のことです。
本名(俗名)は、ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)。
紀元前7世紀から紀元前5世紀頃、現在のネパールのあたりのシャーキャ(釈迦)族王の息子として誕生しました。
王子として裕福な生活を送っていたゴータマは、29歳で出家を決意します。
そして、さまざまな苦行、修行の後に35歳で悟りを開き、ブッダ(「真理を悟った者」という意味)となりました。
その後、各地を転々として、自らの覚りを説いて伝道し、80歳で入滅(死去)したとされています。
現在の仏教は、様々な宗派に分かれ、それぞれに教義や戒律があり複雑な構造となっています。
ただ、ブッダ自身の言葉は、死や生、苦しみや悲しみ、そして喜びなど、私たち現代人も多く関心を寄せていることについて、シンプルに説いたものが多いです。
誰の心にスーッと染みこんでくるような、核心をついた言葉の数々。
それらが、今も古い経典を頼りに語り継がれています。
本書は、それら古い経典たちから分かりやすいフレーズを訳者の小池さんが選び出し、テーマごとにまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。
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「怒り」という手料理を食べずに帰る
ブッダの教えは、煩悩を消し去ることで、苦しみや悲しみから解放されるための方法を説いたもの。
その言葉の中にも、感情をコントロールするための秘訣がたくさんちりばめられています。
小池さんは、以下のような例えで、「怒り」の感情から逃れる考え方を解説しています。
君が友人・知人をディナーに招待して、手によりをかけた料理でもてなそうとしたと想像してみよう。
けれどもあいにく、かれらには用事があり、すぐにそそくさと帰ってしまった。
すると君のお家のテーブルには、手つかずのまま皿に盛られた料理がどっさりと残り、誰もいなくなったあとで、君はたった独りで寂しくそれらを食べるはめになるだろう。
ちょうどそのように、誰かが君に怒りをぶつけて攻撃してきたとするなら、それは相手が君を、怒りという毒を盛った料理のディナーに招待しているようなもの。
もしも君が冷静さを保ち、怒らずにすむなら、怒りという名の手料理を受け取らずに帰れるだろう。
すると怒っている人の心には、君に受け取ってもらえなかった毒料理が手つかずのまま、どっさり残る。
その人はたった独りで怒りの毒料理を食べて、自滅してくれるだろう。
相応部経典『超訳 ブッダの言葉』 1 怒らない より 小池龍之介:著 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊
怒りの感情は、炎のようなもので、燃料に火をつけることで燃え上がります。
怒りの原因になるようなものが周りにいくらあっても、自分自身がそれに火をつけなければ、怒りの感情を味わずにすみます。
相手の怒りに対して怒りで対応するのは、互いに燃料を与え合っているのと一緒です。
相手の挑発に動じず、冷静さを保てるようにしたいですね。
「歪んだ愛情」という呪縛
人を苦しめる「際限のない欲望」を仏教では、「貪欲(どんよく)」といいます。
自分の内側を見つめるのを忘れると、心に欠乏感のブラックホールが開きます。
そして、「もっと、もっと」という「渇愛(かつあい)」が増幅します。
渇愛の原因は、物や人に対するわがままな欲求、つまり「執着」です。
家族や恋人や子飼いの部下など身近な人々に対しては、
愛情があるからこそついつい甘えてしまって、
「私を大事に思ってくれているなら、このくらいはしてくれるはず」
と思い込んでしまう。
けれども、そのわがままな欲求はたいていの場合、
満たされず、憂鬱(ゆうゆつ)になる。このように愛情により執着が強すぎると、
自分のことを大事に思ってくれるかどうか不安になり、恐れが生じる。
すなわち、歪んだ愛情ゆえに、憂鬱さや恐れが生じる。
歪んだ愛情という呪縛から解放されるなら、
もはや君に憂鬱さや恐れは存在しなくなるだろう。
法句経212『超訳 ブッダの言葉』 3 求めない より 小池龍之介:著 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊
愛情も、自分勝手なものになる執着になります。
「将来のことを思って・・・」と、子供に自分の思い通りの道を進ませようとする親がいますね。
彼らは、子供を縛り付けるだけではなく、自分自身も歪んだ愛情で縛り付けています。
誰もが知らず知らずのうちに陥る可能性がある“罠”。
気をつけたいですね。
「自分自身の内面」を見張り続けること
ブッダは、自分自身の内面を見張り続ける人は、心の安らぎと自由にたどりつく
と述べています。
愚かにも、自分を背後から操る無意識の命令に気づかず、自分が心の闇に操られているのを知らないままの人々は、自分の心の奥底がどれだけドロドロに汚れているかなんて知りもしない。
そんなイヤな真実を見たくないからこそ君は、自分の内面から目をそらすことに専念する。
内面から目をそらすために、他人の悪口を言ったり、映画やゲームやドラマの世界に浸ったり、好きな音楽や思想に夢中になり依存する。心の自由を求める人は、自らを支配する依存症や嫌悪感の正体を見極め打ち破るべく、自分の内面を見張り自分の心の奥底へと探検することにこそ専念する。
法句経26『超訳 ブッダの言葉』 7 自分を知る より 小池龍之介:著 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊
仏教では、真理に暗く、智慧の光に照らされていない状態を「無明(むみょう)」といいます。
さまざまな苦しみや迷いの原因となる煩悩も、この無明から生じているとされます。
無明は、光が届いていない状態です。
自分の心の中の“闇”を見つめる。
そうすることで、無明の支配から逃れて、自由な心を手に入れることができます。
今の自分を操っているものは何か。
それを見極めるべく、自分自身の内面を見張ることを怠らないようにしたいものです。
快感と苦痛から自由になる
人間には、眼や耳、鼻などの感覚器官(六門)から、絶え間なく大量のデータが送られます。
快や不快、苦痛などの感情は、すべてのそれらのデータを脳が処理することによって生じます。
ブッダは、六門にデータが接触するたびに心を防御することで、それらのデータに翻弄(ほんろう)されなくなり、自由が君の手に残るだろう
と説きます。
自らの内面の声に耳を澄ますための
意識のセンサーを研いているなら君は、
欲望のせいで苦しくなっていることに気づいて、
欲望をサラッと手放すだろう。
「それ、今しゃべらなくても、よさそうなのにね」
と思われかねないような自分語りを、
君が欲望のままにしたくなったとしよう。
その欲望ゆえに心身が不快になっていることに君が気づくなら、
くだらない無駄話をストップする奥ゆかしさが生まれるだろう。
「快楽がほしいよー、苦痛は嫌だよー」
という欲望を捨てているなら、
君の心は落ち着いていられる。
誰かに優しくされて快感が生じても、
その快感に浮かれない。
誰かに冷たくあしらわれる苦痛を受けても、
その苦痛に落ちこまない。
こうして君の手には、
快感と苦痛に支配されなくなった自由が残るだろう。
法句経83『超訳 ブッダの言葉』 9 自由になる より 小池龍之介:著 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊
外部から感覚器官から入ってくる情報は膨大だけれど、単なるデータです。
それらに余計な意味付けをするのは、私たち自身だということですね。
余計なことは考えない。
感じるままにして、ただ過ぎ去るに任せること。
それが、心を平静に保つ秘訣です。
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ブッダは、およそ2500年も前に活躍した偉人です。
自らは本を著さなかったため、周囲の人に言い聞かせていた言葉を弟子がまとめました。
それらが、本書に引用されている経典たちです。
さまざまな苦難を超えて、悟りを得たブッダ自らの言葉。
それらは、具体的かつエネルギッシュで、時代を超えて輝き続けています。
人生に悩み、疲れたとき。
どうしようもない怒りや悲しみに囚われたとき。
本書を開けば、優しく、力強く後押ししてくれるブッダの言葉に出会えることでしょう。
いつまでも手元に置いておきたい、そんな一冊です。
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