【書評】『ブッダにならう 苦しまない練習』(小池龍之介)

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 お薦めの本の紹介です。
 小池龍之介さんの『ブッダにならう 苦しまない練習』です。

 小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ)さんは、日本は日本初期仏教の僧侶です。
 現在は、月読寺(神奈川県鎌倉市)と正現寺(山口県山口市)の住職を務めるかたわら、執筆活動にも積極的に取り組まれています。

ブッダに習う「苦しまない」ための練習とは?


「苦しみ」は、人間にもともと備わっているもので、生きるために必要な感情です。
 ちょっとのことですぐイライラしたり、ムカついたりして苦しんでしまう。
 それは、苦しみの神経回路が強化されて「苦しむクセ」がついてしまっている状態です。

「苦しむ」ことが考え方のクセなのならば、それを取り除くことで「苦しまない」状態を作り出すことができます。

 今からおよそ2500年前のインドで、苦しみの根本をとことんまで追求し、悟りを開いたのがブッダです。
 ブッダは、誰が正しくて誰が間違っているかの判断の基準の問われたとき、「それが苦しみを増やすものなら間違っている。苦しみを無くすものなら、それが正しいといえる」と答えたとのこと。

 小池さんは、「苦しみ」のリトマス試験紙によって確かめて、自分が苦しまない選択ができれば、私たちは心穏やかに、幸福に生き抜くことが叶うと述べています。

 本書は、「ブッダ」の言葉をもとに今の時代を苦しみなく愉快に過ごすための智慧を解説し、「むやみに苦しまない練習」をするためのヒントを与えてくれる一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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必ず誰かが、あなたに反感を抱く


 人の好き嫌いは千差万別です。
 自分が「好き」だからといって、他の人も「好き」とは限りませんね。
 自分にとっての「好き」を語ることは、必ずどこかの誰かの「嫌い」を刺激するもの。
 そうである以上は、絶対に誰かからは非難されるようにこの世界はできています。
 
 人類の歴史を通じても、陰口を叩かれない人や非難されない人なんていませんでした。
 よく考えれば当たり前かもしれません。

 しかし、実際に自分が他人から非難されたり、批判されたりすると、傷ついた怒りのせいで、しばらくの間、ものが手につかなくなったりしてしまいます。
 小池さんは、それは、私たちの心のどこかに、「この偉大な私が否定されるのはおかしい、誰もが認めてくれないと許せません」という妄想があるからだと指摘しています。

 ある見解を立てたら、その見解を受容できず反感を抱く人が必ずこの世に一人以上、存在する。どんな見解に対しても必ずや反対者は出るのは当たり前。その反対者は心のなかで非難の言葉をデータ処理して、それが高じると言葉や行動としてアウトプットするであろう。それが、この世界の成り立ち、人の心の成り立ちなのだと認識していた方が良いということ。
 つまるところ、世の人々に「わかってほしい」という甘えや期待を抱くのをスパッと捨てて、先に幻滅しておくことが肝要とも申せましょう。
 甘えているからこそ非難されると腹が立つのでありまして、幻滅しておきますと、「ああ、反撃されたッ」という衝撃がいちいち生じません。世界の成り立ち通りの「ごく自然(ナチュラル)なことが起きているだけなんだ」と流せます。
 そしてさらに余地があれば、このように考えてみます。「そうか、自分がそういう非難を受けた背景には、その人が非難したくなるような意見を確かに自分が述べていて、その人の何かしらの見解や過去を傷つけてしまったという以上、自分自身の蒔いた種だよね。傷つけてダメージを与えて、可哀想なことをしてしまったなあ。その人はそうして傷ついた結果、その人特有の自己保存欲求に基づいて、無意識的な自己防衛本能により私を攻撃して、自分自身を納得させたいのだろうね。それはそれで必然的なプロセスみたいだし、ま、いっか。仕方のないことだから、受け入れてしまいましょうか」と。
 もちろん非難する人は一人ではなく、もっといるかもしれません。ある見解を立てた以上、それは必ず生じることで、当たり前の結果が生じているのだな、という認識を常に持つ、つまり「幻滅のバリア」で防御すること。そうすれば、何を言われてもジタバタすることなく、「うう、苦しい・・・・と思ったけれど、ま、いっか。言わせておいてあげましょう」と涼しく放っておけることでしょう。

 『苦しまない練習』 Lesson 1 より 小池龍之介:著 小学館:刊

「相手は自分のことをわかってくれる」というのは、単なる妄想だということです。
 非難されても傷つかないためには、最初から「わかってほしい」という甘えや期待を抱かないこと。
 
 他人なんて、分からないのが当たり前。
 そう思っていれば、自分のことを理解してくれる人のありがたさが更に重みを増しますね。
 普段から「幻滅のバリア」でしっかり自分を防御することを心がけたいですね。

真の論理性とは「心が明晰なこと」


 小池さんは、ブッダの教えから、「君の人生の道のりで、自分より高いレベルか、せめて自分と同レベルには性格の良い人に出会えないなら、いっそのこときっぱりと独り歩むのがいい」という言葉を引用しています。
 ブッダの言う「性格の良い人」とは、心が安定しているとか自己制御力があるとか、穏やかさや柔らかさがあるといった、心の諸性質が自分よりも優れている人という意味です。

 自分よりもスッキリしている思考の人。
 シンプルにものごとを考えることで自分の悩みを解きほぐしてくれる人。

 つまり、「心が明晰であること」が重要だということです。

 この「心が明晰である」というのは、論理的であることとほぼ同じものと考えて良いでしょう。
 けれども、問題は、一般的に論理的と言われている人の論理性の背景には、自説を押し通そうという衝動、ないしは相手を論破しようとする攻撃性が含まれているのではないかと思われることです。
 一見すると論理的に見える文法や難解な言葉を使い、「これが正論だ!」と言い張って強引に人を説得しようとする人がいますけれども、そういう自我や自意識が含まれていると、聞いている側からしてみれば、とても嫌な感じがするものです。
 一般的にも、「論理的な人」とか「理屈っぽい人」は、どこか面倒くさい人といったマイナスイメージがあるように思われます。
 なぜ理屈っぽい人が面倒くさがられるのかを考えてみますと、相手が聞きたくないことをくどくど理屈をこねくり回しているからです。くどくどと感じられるということは、必要以上に話しているのです。
 しかしながら、本来、論理的であるということは、複雑に見えることをスッキリ簡潔にまとめられる性質のはず。すると人に嫌がられる理屈っぽさは、「理屈っぽい」のではなく、「知識っぽい」のです。自分を良く見せたい、自分の説を押し付けたいという欲が自らが持つ知識を並べているだけで、並べているもの同士の関係性や階層秩序、因果関係や法則をわかりやすく示せていない結果、何ともスッキリしないものになってしまっているのです。
 本来、論理そのものは非常にシンプルで、そこに感情がこもっていませんので、相手の心をスッキリさせ、リラックスさせる働きを持ちます。
 ですから、明晰な人というのは、言うことがシンプルで、そこに人を論破してやろうなどという余計な感情がなく、心が静まっているもの。そしてそのシンプルさは、物事の因果関係、つまり原因と結果を俯瞰(ふかん)的に見てズバッと整理する力に裏打ちされています。

 『苦しまない練習』 Lesson 8 より 小池龍之介:著 小学館:刊

 自分の分からない単語や理論でまくしたてられると、何となくそれが正しいような気がしますね。
 それは本当に理解した上でのことではなく、どこかにごまかしや無理があることが多いです。
 
 真実は、誰にでもわかるくらい単純でシンプルなもの。
 単純にシンブルに語れる人、つまり「心が明晰な人」ほど、真実を語っているともいえます。
 相手が「論理的な人」なのか、「理屈っぽい人」なのか、見極める必要がありますね。

共有しているという“幻想”がさまざまな弊害を生む


 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及などにより、いつでもどこでも「つながる」ことができる時代になりました。
 しかし小池さんは、その「つながり」は、軽く短い言葉のやりとりによるもので、きちんと通じ合えていないのではないかと指摘しています。
 誰かと「つながっている」というのは単なる錯覚で、私たちはお互いのことをまったくわかっていないのかもしれません。
 小池さんは、世界を「共有している」というのは幻想であり、それゆえに、さまざまな弊害が生じていると述べています。

 何をどう感じるかは、私たちの記憶のフィルター(仏道では「想」と言います)を通じて解釈され、感じ方が変わってきます。何かを見たり聞いたりするたびに、「想」のフィルターを通じて、潜在的にそれに関連する莫大(ばくだい)な量の情報が参照され、それに基づいて、気持ち良いとか不快であるという感情が生じます。
 ですから、一見、同じように快楽を感じていても、記憶のフィルターの違いによって決して同じものは出てきません。生まれた時からまったく同じ体験をして、同じ感情を持つ人間はいませんし、誰かにコピーして移植することもできませんから。
 しかしながら、私たちは世界を「共有している」という幻想に基づいて、思いが通じあったと錯覚しているため、その結果、「君も自分と同じように考えるべき」とか、「同じような感想を持ってほしいよーっ」という押し付けをしてしまうのです。相手に同じ感情を強要しようとしても、記憶を相手に移植しない限り無理なことですのに。
 ある意味、人は一つずつ宇宙があって、少しずつ交わりながらも、自分だけの宇宙に孤立している。
 もしも、自らの宇宙の中に孤立しているという事実を受け入れられないとしたら、その元凶は、「寂しいよー、自分を愛してほしいよーっ」という依存によるものです。
 私たちは、寂しがり屋なために、やたら他人と「つながれた」「共有できた」と錯覚したがるのですけれども、そのために人間関係がうまくいかなくなるのです。つまり、必死になって相手を自分と一緒にさせようとするので、うまくいかない。
 孤独を受け入れないことで、世界は共有できるという錯覚が生まれ、結果、相手に求める感情が爆発し、余計に寂しくなっていくというスパイラルが生じてしまいます。
 裏返しますと、もともと別々の宇宙なのだと思うことで、1対1の人間として接することができましたら、たとえ夫婦でも、たとえ親子でも、あくまで一定の距離を取りながら接することで新鮮な気持ちで過ごせるでしょう。
「実は世界は共有されていないんだね」。潔くそう覚悟することで、別世界は別世界として尊重することができ、お互いに独立したスマートな関係でいられるのです。

 『苦しまない練習』 Lesson 14 より 小池龍之介:著 小学館:刊

 人にはそれぞれ自分の「宇宙」があり、普段はその宇宙の中に孤立している。
 人と交わるということは、お互いの「宇宙」がその瞬間だけ触れ合うということです。

 持っている「宇宙」が、人それぞれまったく違う。
 そう考えれば、「共有している」と考えるのが幻想であることを理解するのは難しくありません。

『人は誰でも、もともと、自分の「宇宙」の中で生きる孤独な存在である』

 そう考えることが、ますます複雑になる社会で、シンプルに生きるための秘訣ですね。

「自分の体の動き」を意識し続ける


 小池さんは、「自分の自然な身体動作がどうなっているのかを、常に意識し続けましょう」と述べています。

 普段は、「今、本を持っている」と思っても、すぐにそのことを忘れてしまうでしょう。ところがここではそれに抗して、あえてそのことをずっと意識し続けるのです。
「今、本を持っている・・・・・」「今、手を動かしている、動かしている・・・・・」という具合に。座っている状態から立ち上がる時は、「腰を浮かせている、今、腰を伸ばした、立ち上がった、立ち上がった・・・・・」という具合に。
 あらゆる動作において、今、自分がこれをしているという認識を保つ。
 意識し続けることによって、常にその現象に対して集中するようにいたします。他のことや過去のこと、未来のことに意識をさ迷わせるのではなく、常にこの瞬間にやっていることの中に心を留めておきます。
 話している時も、食べている時も、汗を拭く時も、足を伸ばす時も、排泄(はいせつ)している時も、鼻をかむ時も、ほとんど日常的な行為は意識することなく無意識にしてしまうでしょう。そうした無意識の動作をすべてなくし、細かいこともいちいち意識します。
 慣れないうちは、自分の行為をすべての心の中で言語化していくのも認知の練習として役立つこともあるでしょう。
「手を上げている」「本に手を触れている」「ページをめくっている」「本を閉じている」「手を戻している」「手を戻し終わった」「手をひざに向けている」「手をひざに置いた」「暑さを感じる」「車の音が聞こえている」「足を動かそうとしている」・・・・・。会話中も同じように、「今、話している」「今、黙った」「今、話し始めた」「手を口の前で揺らしている」・・・・・。
 普段からこれを心がけていれば、今していることを明晰に認知する訓練ができます。
 そして、悩み苦しみのない生活を送るための特効薬になります。なぜなら、悩む理由はただ一つ、今やっていることとは関係のないことを考えているからです。
「考える」というのは、「今これをしている」に意識を留めるのではなく、「次にこれをしたい」とか、「さっき、あんなことがあって嫌だった」など、今、この瞬間に行っていることから心が逃げてしまうことによって生じてまいります。
 それをストップして、今している行為、例えば食べることにひたすら意識を向け続け、あるいは見ることにひたすら意識を向け続け、そうじをすることにひたすら意識を向け続ける。それも大雑把に動作を意識するのではなく、細かい動作も意識し、じぃーっと感じ続けていますと、それ以外の雑念は考えられなくなります。
 すると、とても心が充実して、リフレッシュしてくるのです。

 『苦しまない練習』 Lesson 19 より 小池龍之介:著 小学館:刊

 今やっていることを心の中で常に認知し、ありありと感じとること。
 小池さんは、それが「考えない練習」であり“瞑想”なのだ、と述べています。

 私たちにとっての現実は過去でも未来でもなく、「今、この一瞬」のみ。
 苦しみは、「過去に対する後悔」か「未来に対する不安」から生じるものです。
 今この瞬間に集中することが、苦しみから逃れる最も有効で確実な手段といえますね。

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 小池さんは、苦しまないための一番のコツは、自分が苦しんでいるということに、まずは気づくことだとおっしゃっています。

 ブッダは自らの教えの核心を、「四諦(したい)」として表しています。
 そして、その最初に置かれているのが「苦諦(くたい)」です。

 苦諦とは、「生きることの苦しみに気づく」ことです。
 苦しみに気づくことは、それだけ重要なことだということ。

 自分自身の考え方のクセのせいで苦しんでいる。
 そのことに気づいていない人が多いことの証でもありますね。

 苦しみの原因は、起こった現象そのものではなく、その人の捉え方にあります。
 幸せを感じるためには、その根本に目を向けなければならないということですね。

「苦しまない練習」で自分自身を見つめ直し、心軽やかにシンプルな人生を送りたいものです。


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