本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『育てる力』(栗山英樹、小松成美)

 お薦めの本の紹介です。
 栗山英樹さんと小松成美さんの『育てる力』です。

 栗山英樹(くりやま・ひでき)さんは、元プロ野球選手、解説者で、現在は、北海道日本ハムファイターズで監督を務められています。

 小松成美(こまつ・なるみ)さんは、人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクションの分野を中心にご活躍中の作家です。

人生を救った『論語と算盤』

「自分を滅したい」

 栗山さんには、そう思い詰めるほど、人生に絶望したことが、何度かあります。

 2013年、日本ハムの監督になって2年目のシーズンを最下位で終えたときも、その中の一つです。

 後悔や恐ろしさで絶望し、眠れない夜を過ごした栗山さんを救ったもの。
 それが、渋沢栄一の『論語と算盤』でした。

 渋沢栄一訓言集の中にこうした言葉がある。
「良くことを通じて、勤勉であっても、目的通りにことの運ばぬ場合がある。これはその機のいまだ熟せず、その時のいまだ至らぬのであるから、ますます勇気を鼓して忍耐しなければならない」
 何度も読んでいた言葉が、まったく違う意味を持って私の旨を射貫(いぬ)いた。目的通りにことが運ばない場合は、未だに機が熟さず、時を迎えていないと腹を括る。そこには、勇気を鼓しての忍耐が必要となる。私に足りなかったのは、肚を括る覚悟と忍耐なのか。
 書斎から取り出した『論語と算盤』を読み耽(ふけ)った私は、人間の真理、本質は変わることも古びることもないと確信する。大河ドラマさながらの激動の人生の折々に体験し考えたことが、分かりやすい言葉で記されているのは、その大半が彼の講演録であったからだ。
 1840年(天保11年)から1931年(昭和6年)の生涯を送った渋沢は、現在の埼玉県深谷市の豪農の長男に産まれ、その跡取りとなるはずだった。しかし、時は幕末。ペリー艦隊の来航、日米和親条約の締結、尊王攘夷論の勃興、桜田門外の変と、日本に押し寄せてきた維新の大きな波は、彼の人生を一変させるのだった。
 勉強に魅せられ諸国の歴史・哲学に精通した若き天才は、尊皇攘夷を掲げて帯刀すると、やがて士官し徳川慶喜の家臣となる。この時にはパリ万博の随行員として渡欧し、1年をパリで過ごすのだ。この時、栄一が“資本主義”を目の当たりにしたことが、後の日本を変えていくのである。
 帰国した渋沢は明治新政府から請われ、幕臣から転じて大蔵省の官僚となり、資本主義社会の礎を築くために奔走。やがて民間に転じると、約500社の企業設立・発展に貢献する。
 経済の真髄、ビジネスの指南書と呼ばれている『論語と算盤』を私はページが捲(めく)り上がるまで読んだ。そこには、不安や迷いこそが勇気を生み、挫折こそが人の力を育み、敗北という手痛い経験こそが叡智を授け、決して曲がらぬ志こそが勝利をもたらす、と綴られていた。繰り返し、渋沢が経験してきたいくつもの情景を描きながら。
 その一行一行を胸に刻みながら、「本当に監督ができるのか?」と疑問を持った。そしてその弱い自分を私は封印した。『論語と算盤』にある渋沢栄一の数々の言葉は、私に目指す場所を教えている。
 私の仕事は、勝利を目指すこと。そのためのチームを築き、そこで躍動する選手たちを育てること。今もこうして『論語と算盤』を持ち歩くのは、最下位のどん底から救ってくれたからではない。日々、新たな気付きを与えてくれるからだ。
 才能ある選手を、ひたすら育むという使命を、私にもできると教えてくれた日本経済の巨人の言葉。渋沢栄一との対話は、私の日課になっている。

『育てる力』 序章 より 栗山英樹、小松成美:著 宝島社:刊

 本書は、栗山さんの座右の書である『論語と算盤』から学び、実践してきた人生哲学をまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「自分らしさ」を持っている人間が、一番強い!

 2018年、日本のプロ野球からMLB(Magor League Baseball)へ旅立ち、ロサンゼルス・エンゼルスの一員となった、大谷翔平選手。

 監督として、身近に接していた栗山さんは、彼ほど、自分の身の丈を正確に把握し、それに相応しい決断を下せる選手はいないと指摘します。

 翔平の素晴らしさは、何事も自分で考えることだ。監督やコーチの言葉であっても、自分自身の指針で物事を計り、行動する。コーチが「大谷はミーティングに来なくてもいい」と言っても、参加したほうが良いと思えばそこにいる。たぐいまれな体躯を持ち、野球の才能に恵まれた者は、往々にして自分は選ばれている、特別なのだ、と考える。
 ところが翔平にはそれがない。むしろ、臆病なほどコンディションに気を遣い、身体を鍛え、リスクを遠ざけようとする。
 例えばナイトゲームの翌朝。翔平は朝10時にトレーニング場に入る。週に1、2度でいいにも関わらず、彼は毎日そこにいるのだ。朝10時にトレーニングを始めるために逆算して就寝時間を決め、起床して身支度を整え、食事をして、ゆっくりと現れる。
 夜であってもチームメイトと食事に行き、適度のアルコールを摂ることは禁止事項ではない。仲間と騒いでストレスから逃れることも悪いことではない。活躍すればわがままや驕りは出てくるものだ。許される範囲が広がると勘違いする者もいる。しかし、翔平はそうしない。朝一番でトレーニング場に颯爽と立ち、気負いなく肉体を感じていることが彼の自分らしさなのだ。
 この「自分らしさ」を持っているものは強い。ぶれずに自ら描いたロードマップを進んでいけるからだ。
(中略)
 私でも、翔平でも、中田翔でも、斎藤佑樹でも、自分が自分に課すハードルがあり、周囲が求めるハードルがある。そのハードルを高い、苦しいと思ってしまえば、成長は止まる。それどころか、何か理由を付けては、ハードルを下げることに躍起になる。逆に、高いハードルをクリアしていく喜びを全身で謳歌できれば、おのずと限界はなくなる。
 その際、何より重要なのはプロとしての自覚だ。プロとしての範疇を逸脱する者がいれば、私はこう言葉を投げ掛ける。「勘違いしないでくれ。これはお遊びじゃない。途轍もない金額を対価として受け取る者として、相応しい行動、相応しいプレーを見せてくれ」と。
 コントロールが効かないほどのエネルギーを湛(たた)え、それを持てあましている選手もまた魅力的だ。翔平のように自己をコントロールし、デザインしていける選手ばかりではない。野放図な熱量を振りまき、それを熱きプレーに替えていく選手を私は育てたい。
 実は、監督やコーチが“手を焼く”選手ほど、ファンの心を掴むものだ。ファンはヒーローにスタンダードを求めない。型にはまらない選手を私も待ち望んでいる。

『育てる力』 第1章 より 栗山英樹、小松成美:著 宝島社:刊

 MLBでも、「二刀流」として、大活躍を続ける大谷選手。

 彼の成功は、もちろん、彼自身の才能と努力によるものです。
 ただ、才能の芽を刈り取らず、思う存分実力を発揮させる環境を整えた、栗山さんの存在なくしても、あり得なかったでしょう。

 選手を型にはめず、個性を最大限に発揮させる。
 それが、栗山さんを名将たらしめた要因のひとつです。

「異質なもの」を組み合わせることが大事

 2018年、栗山さんは、チームのキャプテンに中田翔選手を据えました。

 中田選手は、日本ハムの中軸バッターで、独特のファッションで最も人気のある選手です。

 栗山さんは、中田選手は、新時代の日本プロ野球選手のスタイルを作る一人だと信じていると述べています。

『論語と算盤』の中で、渋沢栄一が菅原道真の「和魂漢才」を引き合いにする箇所がある。「和魂」とは日本民族固有の精神のことであり、「漢才」は中国伝来の知識・学問のことを指す。「和魂漢才」とは、中国の学問を学んで、それを日本固有の精神に即して消化することを言うのだそうだ。より良きもの、より高き志を目指すためには、広い視野と新たな知識が必要になる。違うものを別々に置いたり、遠ざけたりするのではなく合わせてみる。二つを合わせるからこそ、新たな価値を生むのだ。
 野球という明治時代の日本人の心を掴んだスポーツは、途切れることなく受け継がれ、今日も数々のドラマを誕生させる。遠い過去から変わらない日本人の野球への愛着と、翔の世代が作るプロ野球のゲームは、「古き」と「新しき」を併せ持っている。
 日本の魂を持ってMLBへ渡った大谷翔平は、日本とアメリカのハイブリットになり得る存在だ。能力が高い選手だからということだけではなく、彼の野球に対する思いや姿勢は、国が違っても伝わるはずだ。熱狂的なファンを誕生させるだろう。
 渋沢栄一も菅原道真が示した“ダブル”を提唱する。彼が掲げたのは「士魂商才」という言葉だ。栄一は、武士の精神と、商人の才覚を併せ持つことが必要だと説いている。「この世の中で自立するためには、武士のような精神が大切なのはもちろんのこと、武士的精神だけに偏りすぎて商才がなければ、経済的な面で自滅を招いてしまう。だから『士魂』とともに『商才』がなければいけないのだ」
 そして栄一は、孔子の『論語』を読めば自分が語る「士魂」も「商才」も十分に養える、と書いている。私は、『論語』の良き参考書とも言うべき『論語と算盤』を読み、「士魂商才」を、自分のこととして思うようになった。

『育てる力』 第2章 より 栗山英樹、小松成美:著 宝島社:刊

 流行や流儀は、時代とともに移り変わります。
 一方、変わらないもの、変えるべきでないものもあります。

 それが、「魂」の部分です。

 中田選手の、野球に対して全力で取り組む真摯な姿勢。
 栗山さんは、その中に日本プロ野球が長年培ってきた「魂」を感じ取ったのでしょう。

チームをまとめる「忠信孝弟」

 渋沢栄一は、青年たちに人格を磨くことを説いています。

 その具体的方法は、孔子や孟子という中国の思想家が唱えた「忠信孝弟」という考え方を中心に据えることです。

「忠」は、真心を込めること。
「信」は、信じ信じられること。
「孝弟」は、親や年長者を大切にすること。

『論語と算盤』の言葉の数々は、自分だけ豊かになり、国家や社会、市民を置き去りにしてはならないと繰り返します。

 それらはまさしくスポーツにも当てはめられる。アスリートは自己実現の手段としてスポーツ選手を職業にするのだが、社会や国民の期待に応えることが最大の使命だ。
 だからこそ、スポーツにおいて人格を磨くことは必須だ。相手の成果を讃え、その立場を尊び、礼節とルールを持って相まみえるから「ゲーム」は成立する。
 集団スポーツでは、自分だけが成功を得ようと思っても、一人で勝利することはできない。時には自己犠牲を払ってチームのために貢献しなければないこともある。
 チームは、まったく別のバックグラウンドを持ち年齢も考え方も違う選手たちが集う中で、勝利という目的のために同じ方向を向かなければならない。そこには、渋沢の説いた「忠信孝弟」、つまり良い心、信頼、先輩を立てる心が、当然のこととして必要になる。
 私は良いチームになるためには、次のようなステップが必要だと思っている。
 まず「イメージをする」ことだ。戦いのために、どのような準備をするか、どのような努力をして、仲間とどのようなプレーを作り上げたいのか、自分と仲間がともに勝利するためのイメージを、いつも思い描いて欲しいのだ。
 次に「人の話に耳を傾ける」こと。同じチームのメンバーがどのような哲学を有しているのか、何が好きで、何が嫌いか、どんな言葉を使うのかなど、朗らかに愛嬌を持って相手の話を聞くことができれば、そこで得られる情報は膨大だ。普段から相手の言葉を受け止めることができれば、それは意思や使命の共有に繋がるはずだ。
 最後に「自らも言葉を尽くす」こと。以心伝心で臨むのも悪くはない。しかし、相手の思いを無言で鑑みるなど、実際には簡単ではない。また勝手に思い込み、互いに思うことが少しでもずれていれば、不安や不信感が生まれ、ゲーム中ならば戦術ミスにも繋がる。だから、自分の言葉で誠実に思いを伝えられるようにならなければいけない。もちろん、思いを伝えるためには話しやすい環境作りにも心を砕かなければならない。
 最初の思い描いたイメージは、聞くこと、話すことの際にしっかり伝え合うのである。
 若い投手が悩み、口にしたある言葉が私の耳に入った。
 彼は「サインに“ノー”と首を振りたいんです。でも、大先輩に首を振るのは、やっぱり気が引けます」と言うので、私は「そんなことで打たれてしまったら、本当に後悔してしまうような」とその選手に話をした。
 普段から捕手である先輩を立て、その話を聞き、自分の思いを話しておけば、サインに対し首を振った瞬間に通じるはずだ。
 もし、先輩捕手が嫌な顔をして「首振りか・・・・・」と言ったなら、その時には自分のやりたい野球、投げたいボールを今一度しっかりと伝えなければならない。「イヤー、先輩、おれの投げたいのはこのボールだったんです!」と、愛嬌を持って話せば良いのだ。普段からの朗らかな関係があれば、反目するはずがない。
 渋沢の重んじる「忠信孝弟」は、ファイターズのチーム作りの機軸である。

『育てる力』 第3章 より 栗山英樹、小松成美:著 宝島社:刊

 野球は、団体競技の中では、個人の要素が強い部類に入ります。

 それでも、個人の能力やスキルを単純に足し合わせたものが、チームの結果と一致すると限らない。
 それが、団体競技の面白いところです。

 個々の能力を最大限に引き出す。
「1+1=2」以上の相乗効果を発揮する。

 そのためには、「忠信孝弟」というしっかりしたバックボーンが必要だということです。

「自分で箸を取る」ことが大事!

 栗山さんは、プロ野球選手として7年間、現役生活を続けました。
 特筆すべき成績を収めたわけではなく、「成功した」とは言い難いものでした。

 しかし、栗山さんは、不甲斐ない、けれど命を燃やすようにして野球に打ち込んだ7年間は、現在に繋がっていると思えると述べています。

 私は、プロ野球選手になるべきではなかったのだと思う。本来、私の体では、激闘のシーズンを過ごすことはできなかった。それでもプロ野球の世界に飛び込んだのは、このスポーツが心を捉えて放さなかったからだ。
 1軍でも2軍でも、ファイターズの選手と向き合う時、私はまずそのことを考える。
 彼らは、野球に魅了されている。それぞれを人生があり、それぞれの価値観があり、資質がある。立場や状況は違えども、「野球を愛する」という一点では固く結ばれている。
 勝利を目指す原点はここにある。野球ができる喜びと感謝はそのまま目標に立ち向かう強さに繋がるはずである。監督の私は、日々そこに立ち返る。私が折りに触れ「情熱」「愛情」を唱えるのは、これ以上の信頼はないと思うからだ。
 私は監督がどんな存在か、プロになって初めて知った。経験とデータ、時には直感を活かして勝利のためのロードマップを描き、辿る。そして、素晴らしい投手の、素晴らしい打者の、素晴らしい野手のプレーの数々を観察することなのだ。それは、すべてノートに記した。目を見張る技術や思考、強靭な肉体とその個性について、それぞれのチームの特徴、監督の采配、様々な場面での選手たちのスキルと心理など、夜を徹して文字に綴り、野球というゲームの深遠さに一人で感激したものだった。
 野球には潮流があり、選手のポテンシャルもまた時代の推移がある。当時のデータや感想は今の野球にスライドできるものではない。だが、普遍的で妥当性のある野球の真実と、監督と選手たちのほどばしる野球への熱情は、監督となった私の中に生きている。
 私自身は、1軍と2軍のボーダーラインにあった選手で、学生時代からチームの主軸であった選手とはメンタリティが違う。野球の申し子のようなスター選手は、自分のスタイルを持ち、記録を目指し、自らの価値に対価を求めていく。私は、そうした選手の脇にいて、自分とは違う存在に憧憬し、自分とは何かを見つめ続けた。
 ファイターズにも私が憧れた選手と、プロ野球選手であるためにでき得ることのすべてを厭わない選手が存在する。私は勝利のためにその双方を駆使するが、自分の心をスライドさせれば、即座に後者の思いを共有することができる。圧倒的勝者ではない私の経験はチームを築く上で不可欠だと感じている。自分の個性を磨き、それを野球で表現することに喜びを感じる選手がいるからこそゲームは面白い。
 渋沢栄一の『論語と算盤』にある「何か一つ仕事をしようと決心する人は、自分で箸を取らなければダメなのである」という言葉に触れた時、私はとにかく、箸だけは取った、と思っている。野球というご馳走を前に、ただ指を銜(くわ)えて見ているだけでなく、自分で箸を持ち食べることを試みた。
 渋沢の訓言集の中には「尽くすべきことを尽くしたら、その先の運命は天命に委(まか)せよ」という言葉もある。私の現役の7年間は、尽くすべきことを尽くした時代であった。これが、この使命に繋がっていたのなら嬉しい。

『育てる力』 第4章 より 栗山英樹、小松成美:著 宝島社:刊

 栗山さんの人生は、決して順風満帆ではありませんでした。

 山あり谷ありの人生で、決して変わらなかったもの。
 それが「野球への愛」です。

 選手としての経験。
 キャスターとしての経験。

 それらが今、血となり肉となり、プロ野球の監督として花開いたのでしょう。

「何か一つ仕事をしようと決心する人は、自分で箸を取らなければダメなのである」

 心に刻みこみたい言葉ですね。

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 渋沢栄一が活躍した時期は、幕末から明治にかけての激動の時代でした。

 価値観が大きく変化し、この先どうなっていくのか、誰もが不安におびえる。
 渋沢は、そんな世の中において、自らビジネスを興して、新しい時代の旗手となりました。

 私たちも、当時と同様、大きな時代の転換点に生きています。
 渋沢の遺した『論語と算盤』は、朽ちるどころか、その輝きを増しています。

 同時に、「渋沢イズム」を現代に甦らせた、栗山さんのリーダー哲学、人心掌握術も、ますます脚光を浴びることになるでしょう。

 これからのご活躍に期待したいですね。

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