本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『学校や塾へ行かずに、いかにして4人の子どもたちは独学力を身につけたのか?』(内藤浩哉)

お薦めの本の紹介です。
内藤浩哉さんの『学校や塾へ行かずに、いかにして4人の子どもたちは独学力を身につけたのか?』です。

学校や塾へ行かずに、いかにして4人の子どもたちは独学力を身につけたのか?

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 内藤浩哉(ないとう・ひろや)さんは、ご自身の4人の子どもさんを、誰一人、小中高に通うことなく16年以上ホームスクーリングを実践されました。
ウェブサイト「誰でも独学ねっと(daredoku.net)」を運用されています。

「自分の人生を自分で生きる」ための学びとは?

ホームスクーリングとは、学校へ通わず、自宅などで勉強していくことをいいます。

内藤さんの4人の子どもたちは小学校、中学校、高校へとまったく行かず、塾も家庭教師もなく、親が勉強を教えることもなく、完全独習で勉強してきたとのこと。

内藤さんは、そもそもわが家は、ホームスクーリングにこだわったわけでなく、わが家のために最善を求めて試行錯誤した結果だと述べています。

 私たち夫婦にとっては、「自分の人生を自分で生きる」ということが、「大事なこと」のなかで一番なのです。お金は大事ではあっても、その下です。
「自分の人生を自分で生きる」というのは、誰もたよらず自力で、などという意味ではありません。自分の人生を自分で考え、自分で責任をもって選択するというような感じです。
自由という言葉が近いですが、何をしてもいい自由ではなくて(そんな自由はありえないでしょう)、ずいぶん重たい自由です。
私たちは誰も一人きりでは生きていけないので、いろんな形で社会に参加します。そのとき、なんとなく流されるように参加するのではなく、しっかりと意志をもって、できるるかぎりの責任をもって参加したいと思います。だから、世の中のみんながそれぞれに生きていけるように望みますし、世の中がよくなるようにわずかでも力になりたいと望みます。世の中のありとあらゆる出来事や問題に自然と関心がおよびます。
自分さえよければいいという考えは、わが家では好まれません。なるべく、自己中はやめようね、という努力目標です。
わが家でホームスクーリングの中心にあるのは、こういう姿勢でした。
つまり、誰からも教わらずに自分で主体的に学ぶということなのです。しかも、点数や偏差値を意識しません。ならば勉強する目的は誰かに勝つことでなく、人びととともに生きるための勉強におのずからなっていきます。

高い学歴を身につけるほど、お金を稼ぎやすくなる、と考える人は多いでしょう。教育格差が問題になるのは、生涯にわたって収入に差ができてしまうということがあるからです。
私は、子どもたちに「いい大学に入って、いい会社に勤めて、たくさん稼いで・・・・・」などと望むことはいっさいありません。とにかく、自分の人生を自分で生きることを大事にしてほしい。そこさえゆるがなければ、あとはどうでもいいと考えています。
学歴は問題ではないし、仕事も思うようにすればいい。親がああしろ、こうしろなどと、野暮ったいことを言いません。そのために、必要な力はつけてやらないといけません。それが、わが家で考える「勉強」なのです。

自分の人生を自分で生きた結果として、高学歴を得て、大企業に勤めることになったとしても良し。中卒でアルバイトしながらの人生を選んでも、それも良し。自分の決断と選択であるなら、親はだまって応援するのみです。
わが家では、成績を他人と競う発想がありません。ホームスクーリングだと、試験がありません。中高生なら必ず受ける定期テストもありません。受験もありません。中学受験はおろか、中高一貫校以外のほとんどの中学3年生が向き合う高校受験もありません。成績表も受け取ったこともありません。
もっとも、これらは大学受験で一変しますが。多くの模試を受け、そのつど成績が返ってきて、ライバルたちとはげしい競争をする。それも、本人の選択です。させられる競争ではなく、本人が望んだ競争です。

そもそも勉強とは自分のためにするのであって、他人と競争するものではない、と私は考えています。
学校で勉強している子どもたちは、試験のため、受験のため、進学のためと考える人が多いでしょう。これは、はたして勉強といえるでしょうか?
受験のために勉強するとどうなるでしょうか。試験科目、試験に出ることがらに集中します。そうせざるをえません。すると、試験にない科目や、試験に出ないことがらは無意味に見え、へたをすると邪魔ですらあるかもしれません。
数年前に知り合った地学の先生が言っていました。
「大学入試センター試験で地学を選ぶ人は少ないし、二次試験に地学はほとんど選べないので、高校で地学を勉強することが無意味に思われている。地震、大雨、台風、火山なんかの災害には地学の知識が生死を分けることにもなりかねないのに」
高校の社会科の科目、日本史、世界史、地理、政治経済、倫理は、現代社会を生きるうえで欠かすことのできない最低限の教養だと思いますが、受験第一だと、深刻な欠落をもたらしかねません。
大学進学しない、あるいは私立文系志望だと、数学に力を入れないというケースもあるようですが、数学は筋道を立ててものごとを考える際に不可欠です。理系だけやっておけばいいというものではありません。
古典(古文・漢文)もそうです。人生をよりよく生きるために、不可欠です。理系はやらなくてもいいというものではありません。
私は勉強をとても大事なものと考えています。しっかりと、深く、広く、学ぶべきです。学歴はまったく大事ではありません。勉強そのものが大事なのです。
もっとも、勉強(教科学習)が大事なら学校へ行けよってことになるんでしょうけど。
では、学校は勉強を大事にしているのでしょうか?
学校が勉強を大事にしていないのではなく、親の問題でしょうね。親の学歴信仰が強いので、学校はそのニーズに応えざるをえないというほうが、実態に近いでしょう。
親の学歴信仰というのは、親でなく、就職の有利さや学歴の社会的評価からくるのかもしれません。もつれた糸ですね。

『学校や塾へ行かずに、いかにして4人の子どもたちは 独学力を身につけたのか?』 第1章 より 内藤浩哉:著 フォレスト出版:刊

本書は、内藤さんの経験にもとづいたホームスクーリングのノウハウをわかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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ホームスクーリングを可能にする「独学の力」とは?

内藤さんのホームスクーリングのやり方は、あれこれ試行錯誤した結果、パソコンやインターネットを勉強では使わないスタイルです。

 日々の勉強は参考書(電子ではなく、紙!)が中心で、問題集で確認します。
小学生では、増進堂・受験研究社の『自由自在』というぶ厚い参考書を使いました。2学年ごと、科目ごとに1冊となっています。たとえば、3・4年用の理科、5・6年用の算数、といった感じです。1・2年生は算数のみです。だいたいどこの本屋さんも置いてあるでしょうから、気になれば手にとってみてください。教科書をうんと詳しくした説明で、基礎的なことがらから、その学年の内容を飛び抜けたことがらまでカバーしています。
中学生になると、旺文社の『総合的研究』を使いました。中学3年間の内容が1冊に詰まっていて、科目ごとにつくられています。高校で習う内容にまでふみこんでいます。
うちの子たちは、『自由自在』も『総合的研究』も苦もなくこなしました。
今は、4人とも中学の勉強を終えていますが、子どもたちに確認すると、『自由自在』や『総合的研究』を難しいと思ったことはない、わからなくて困ったこともない、と言っています。
さあ、このあたりから核心部分です。2022年に出版された『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)という本で、石井光太さんが子どもたちの読解力の衝撃的な現状を報告しています。2018年に出版された『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)では、新井紀子さんが教科書をちゃんと読めない子どもたち多いという報告をしています。
子どもたちの読解力がそうとう危機的な状況にあるという認識が世の中でいきわたりつつあります。
かたや、うちの子たちは、小学1年生からぶ厚い参考書で初めて学ぶ内容を学習してきました。

うちの子たちは、生まれつきの天才なのでしょうか?
まさかそんなことはありません。生まれてから身についた力によって、小学1年生から完全独学が可能だったのです。
ではそれは、なんの力? ここですよ、ここ。
この力を、私は「独学の力」と名づけました。これは、方法やスキルではありません。勉強にかぎらず、あらゆるすべての土台なのです。
スポーツにたとえてみましょう。
ある小学生が野球を上手になりたいと思いました。そこで、コーチに教わりました。ボールの投げ方、グローブの使い方、バットの振り方。だんだん上手になっていきますが、ある程度上手になると、上達しにくくなってきました。そのうち、体を痛めてしまいました。何が足りなかったのでしょう?
べつの子は幼いころから走るのが好きで、ひまさえあれば走ってばかりいました。その子は、高校生になってから野球を始めました。最初はヘタでしたが、順調に上達していきました。上達のスピードはほかの子よりも速いです。
もうおわかりですね。体の土台ができているかどうか、なのです。
走るの大好きっ子は、野球だけでなく、どんなスポーツをやっても、仕事をするようになっても、活力があることが想像できます。
「独学の力」とは、ランニングのようなものです。競技そのものではない、つまり勉強そのものではない。ランニングをいくらやってもその競技の練習をしないとできるようにはなりません。でも、ランニングをしていない人より、より良くその競技が上達するでしょう。
「独学の力」も同じです。「独学の力」をいくらつけても勉強ができるわけではありません。勉強は別です。けれども、短い時間で、はるかに良く習得できます。
さて、この「独学の力」の正体ですが、言ってしまえば「読み書き」です。「読解力」といってもいいでしょう。
しかし、多くの方がイメージする「読み書き」や「読解力」そのものではありません。もっと根源的な、想像を超えたパワフルなものです。
その一方で、あまりに平凡な、あまりに簡単なことなのです。お金もかかりません。平凡で、簡単で、お金もかからないことは、価値がないように見えるものです。だから、続けるのが難しい。ランニングを続けるのが難しいように。

『学校や塾へ行かずに、いかにして4人の子どもたちは 独学力を身につけたのか?』 第1章 より 内藤浩哉:著 フォレスト出版:刊

テレビ、ゲーム、スマホ。
この3つは、「独学の力」を身につけるのを大きく阻害します。

その中でも「スマホ」は、子どもにダメージをあたえるリスクが最も高いと指摘します。

独学の力を身につけることは、スマホの魔の手から身を守る防御にもなります。

聞かせない「読み聞かせ」からスタート!

「独学の力」は、以下の3つの実戦からなりたちます。

・大量の読み聞かせ(昔話!)
・大量の読書
・大量の書き写し

その中でも土台となるのは、1番目の「大量の読み聞かせ」です。
内藤さんは、生後6カ月から読み聞かせを始めたそうです。

 6カ月から読み聞かせというと、ずいぶんムチャに聞こえるかもしれませんが、完全にだいじょうぶです。聞くことを求めないからです。読み聞かせにしても、6カ月の子どもはわからないかしれません。わかったとしても、そのお話に興味をもてないかもしれません。読み聞かせ自体が気に入らないかもしれません。
まったくだいじょうぶです。
いってみれば、子どもを抱っこして親が声を出して本を読んでいるだけ。子どもが聞こうと聞くまいと、ただ読んでいる。それだけのことです。
ハルは、ゴロンゴロンところがっていったり、関係ないものを指さして何か言っていたり、聞いていないように見えることも、しばしばありました。そんなとき、「ちゃんと聞きなさい」などと言わずに、好きなようにさせています。すると、徐々に聞くようになっていきました。
読み聞かせを教育の一環だ、と思っていたら、子どもに「聞かせ」たくなるかもしれません。成果を求めたくなるかもしれません。私が考える読み聞かせは、幼児教育でも情操教育でもありません。
ただただ、読んでいるだけで、子どもに何も求めません。

ハルは最初の子ですから、「読み聞かせが最重要事項だ」がスタートです。
私が子どものころ親しんだ絵本、オススメとしてよく見かける絵本、子どもが本屋さんや図書館で興味をしめす絵本を買っていきました。
3世代読みつがれてきた絵本が力のある良い絵本だ、という意見もあります。私が子どものころすでに定番だった絵本が、だいたいそれに該当します。私は子どものころ親しんだ絵本をよく覚えているので、容易に選べます。
ナナは子どものころ、読み聞かせをあまりしてもらわなかったそうですし、絵本にも親しんでいないので、読みつがれてきた絵本がわからない、と言っています。
これは、教育格差の見えにくい部分かもしれません。
親が読み聞かせをしてもらった経験がなく、絵本についてわからないと、子どもに読み聞かせをすることが大切だという意識をもちにくいでしょうし、読み聞かせをしようとしても、本選びに苦労するでしょう。
絵本には対象年齢があります。ストーリーのある絵本を6カ月の子どもに読むのはムチャだと考える人は多いと思います。私はあえて無視。子どもが理解しようとすまいと、聞こうと聞くまいと関係ないのですから。幼児向けに、音を繰り返すような、ストーリーのない絵本もあります。そのようなものも読みましたが、ストーリーのある絵本も、6カ月の子どもに、ふつうに読んでいました。
1歳になるころには、どんな絵本でも、ひざにすわって、あるいは横に寝転んで、じっと聞いていました。どこかへ行ってしまったり関係のないことをして遊んでいたりすることがだんだん減っていきました。1歳でもストーリーを理解しているとはあまり思えませんが、まったくわかっていないわけでもなさそうです。それよりも、親が読んでくれているという、そのいっしょにいるひとときに満足しているようにも見えました。
教育しようとしたら、あたたかい関係が、冷たい関係になってしまうかもしれません。
絵本を読んでいると、すごく楽しんで聞いているとみえることが増えてきます。そして、気に入った絵本は、指でさして、「もういっかい」とおねだりします。そういうときには、いくらでも(その前に親が疲れてしまいますが)、エンドレスに同じ絵本を読みつづけます。子どもはずっと楽しそうに聞いています。

『学校や塾へ行かずに、いかにして4人の子どもたちは 独学力を身につけたのか?』 第2章 より 内藤浩哉:著 フォレスト出版:刊

子どもが理解している、していないは気にする必要はありません。
とにかく大量に読み聞かせること、それが大事だということです。

親子のスキンシップの一環として、毎日の習慣にしてしまうのが一番ですね。

自然と「本好き」になっていく子どもたち

独学の力の2番目は「大量の読書」です。

子どもの学力向上に読書が大事だということは、多くの大人たちが理解しています。
ただ、子どもたちを読書好きに育てることは、なかなか難しいです。

 うちの子たちは、自然と本好きになっていきました。無理なはたらきかけはしていません。ただただ、昔話を大量に読み聞かせすることで、自然と自分でも読むようになっていったのです。
最初は、読んでもらっている本を自分で読もうとします。昔話は子どもをひきつけるので、自分でも楽しんで読んでいきます。昔話が子どもを読書へ導くという感じです。
ハルは読み聞かせのとき、昔話がぜんぜん足りていませんでしたが、ナツ、アキと進むにつれて昔話の割合が増えていき、ハルは年齢が上がってからもいっしょに読み聞かせを聞いていました。9歳前後で読み聞かせから自然とフェードアウトしていきました。年齢が上がるにつれて昔話に入っていったという感じです。6歳ごろ自分で本を読むようになって、昔話をどんどん読んでいました。
昔話は、子ども向けばかりではありません。大人向けに再話を収録した本もたくさんあります。小学生になると、大人向けの昔話の本を積極的に読んでいました。「昔話っておもしろいなあ」と言っていました。ハルは読み聞かせに飽きたのではなく、自分で読めるようになってくると、どんどんと読書をしたくなっていったのです。
大人向けの昔話の本は良書がたくさんありましたが、多くが絶版になっています。現在入手可能なものとしては、未来社の『新版 日本の民話』シリーズなどがあります。岩波文庫にも世界各地の昔話、民話があります。絶版になった本でも図書館にはあります。司書さんにたずねれば教えてくれるでしょう。
4人の子どもたち、好きな本はそれぞれですが、あきらかにその年齢には難しいだろうという本を求めていました。創作児童文学も、自分で読むようになってからかなり読みました。
私が子どもの頃に読んだような本は今では多くが絶版になっていますが、中古(古本)では買えます。古い時代の本はしっかりつくられています。今の時代も良い本がたくさんありますが、古い時代ほど重厚な内容の本が目立ちます。子どもたちは、古い時代の本を好みます。私からすると懐かしい本です。

小学高学年あたりになってくると、子ども向けの本ではものたりなく感じるようで、大人向けの本を読みたがります。そのなかでも、文学の割合がだんだん大きくなっていきました。
文学といっても、重厚なものを好みます。高度経済成長期あたりでは、世界文学全集か日本文学全集とか、函入りのぶ厚い、2段組で小さい字がぎっしりつまった数十冊シリーズがたくさんつくられていました。そういった文学全集に入っているような文学作品です。
中高生の子どもたちが好んで読むのが、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、太宰治、樋口一葉、ドストエフスキー、スタンダール、千夜一夜物語、ダンテ、シェイクスピア、ディケンズ、バルザック、カエサルのガリア戦記、カミュなどで、びっくりするほどたくさん読んでいます。古文を読めるようになると、『源氏物語』『南総里見八犬伝』『平家物語』『今昔物語』などを古文のままでふつうの読書として読んでいます。英語の原書もいろいろ読んでいます。
このような歴史的名著を日常的にたくさん読んでいたら、読解力がみがかれて当然でしょう。4人とも、テレビもゲームもいくらか楽しみますが、のめりこむことはないようです。そもそも私は子どもを管理するのは好きではないので、大きな問題が起きないかぎり、何を考え何をしていても首をつっこまないようにしています。
ホームスクーリングでありながら、子どもたちがどのように過ごしているかをチェックしていないし、把握もしていません。あきらかに言えることが、読書好きになると、テレビを見てもゲームをしてもスマホをしても、ほどほどで本に帰ってくる、ということです。テレビ、ゲーム、スマホ、本のうちで、本がいちばんおもしろい、というようです。
だから、子どもに与えたくないもの3つ、テレビ、ゲーム、スマホについて、何も管理せず、何も心配ありませんでした。自然と、うまくいったのです。
ちなみに、ゲームを親は買い与えてはいませんが、禁止もしていません。子どもたちは小遣いやお年玉で買っていました。とくにハルは数台もっていたようで、小学生時にけっこうゲームをしましたが、中学生以降は生活のバランスがとれてきて、ほどほどにゲームとつきあっているようです。
自己管理ができるなら、ゲームもやったほうがいい、知っておいたほうがいいと、私は考えています。

『学校や塾へ行かずに、いかにして4人の子どもたちは 独学力を身につけたのか?』 第2章 より 内藤浩哉:著 フォレスト出版:刊

読み聞かせで本になじんだ子どもが、自分で本を読むようになる。
それは、とても自然な流れです。

そして、夢中になれる本に出会うたびに「もっと、もっと」とより多くの本を求めるようになります。

最初から本が嫌いな子どもはいません。
きっかけ作りが、いかに大切かということがわかりますね。

知識を活用するために必要な「書く力」

独学の力の3つめは「大量の書き写し」です。

書き写しは、もちろん、手書きで、原稿用紙に、心を落ち着けて、ていねいに書き写すという方法です。

 複製や複写の必要があって書き写しをしていた時代には、書き写しの効用が自然と認識されていたようです。
書き写しには、知性をきたえる働きがあります。だから、私より上の世代には、書き写しをしているというだけで、何の説明もないのに、「いいことをしている!」という反応がでます。パソコン全盛の時代に書き写しをしたって、無意味でムダな作業にしか見えないという人も多いでしょう。それが、私より若い世代の反応です。世代の違いは、書き写しが知性を鍛えるということを知っているかどうか、です。
「読み書きが基本だ」という言い方は昔から定番でしたが、最近はそれすら言われなくなったかもしれません。パソコン入力がふつうになると、「書く」ことが必要ありません。手書きをしているなんていったら、非効率でムダな作業とバカにされるでしょう。会社や役所で手書き作業をしていたら、ひどく怒られるかもしれません。手書き撲滅運動ですね。
そして、「読む」ことさえ撲滅ぎみです。しっかりした内容の文章を時間をかけてじっくり読むなんて非効率なので、誰かが要約したものにさらっと目をとおすだけ。文書自体がことばの断片。読む時間がもったいない、という世の中ですね。でも、この本は読んでくださいね。
「読み書き」そのものがムダで無意味。そうなると、勉強自体がムダで無意味。ムダを削りつづけると、最後は人生も意味がなくなり、ムダにならざるをえません。
私たちは、生命を受けて、身体をもって生きています。作業や仕事のムダを省いて、効率的にやっていこう、ということはまったくそのとおりでしょう。でも、頭や身体を使うことにムダや無意味をもちこむと、おかしなことになりかねません。

私より年配の方々が、書き写しに対して「いいこと」とコメントしがちなのは、書き写しの効用、すなわち書き写しが頭にいいと知っていたからです。
似た話を、第1章でしましたよね。漢文の素読です。
江戸時代から明治初期そうそうたる知識人たちは、漢文の素読で骨太の知性を鍛えました。意味がわからなくても、漢文を覚えるまで声を出して読みつづける。いまふうに考えるなら、必要があれば本を見ればいいだけなので、覚えるために多大な労力を使うのはバカげています。ムダで、無意味でしょう。書き写しとおなじ構図です。ムダで無意味にみえるバカげた行為のうしろに、とても大きな、とても大切な「意味」がかくれています。かくれていて見えないものだから、「無」意味だと勘違いします。見えないこととないことはまったく別ものなのです。
頭で考え、身体で学ぶ。頭で学び、身体で考える。足りないところはインターネットも人工知能も活用しましょう。
まずは、頭であり、身体です。読み書きは、身体を鍛えることであり、身体で学ぶことです。デジタルでは代替できません。

書き写しに必要なものは、原稿用紙と鉛筆とお手本だけです。原稿用紙はどんなものでもいいですが、20字20行の400文字詰めが標準です。スーパーやホームセンターの文房具売り場や文房具店なんかでふつうに売っていますし、ごく安いものです。なんなら、パソコンとプリンタがあれば、A4コピー用紙に原稿用紙マスを印刷してもいいです。わが家では原稿用紙を大量に使うので、プリンタで印刷しています。
筆記用具は鉛筆です。シャーペンやボールペンではダメなのか、と問われても答えにこまります。鉛筆はごく安い文具で、どこででも容易に買えるのに、鉛筆をさける理由もないでしょう。字を書くときの基本です。
書き写しとは、お手本を見て、そのとおりに書くだけなので、何も難しくありません。字が書ければ、誰にでもかんたんにできます。お金もかかりません。改行も、カギカッコも、句読点も、感じもひらがなもカタカナも、お手本のとおりに、そのままに、原稿用紙に書き写します。
人間とはまったく不思議ないきもので、お金がかかるものほど値打ちがあると錯覚します。難しいことほど価値があると錯覚します。
だから、お金に余裕がなかったり、難しいことができなかったりすると、「わたしって、どうせダメな人間なんだ」とか「ぼくって、生まれつきダメなんだ」とか、自己暗示をかけてしまいます。なんとバカげたことでしょう! なんともったいないことでしょう!
ほかの方法で高い学力をつけられる人は、それでいいではないですか。そうできない人は、やってみませんか? 安価すぎて、簡単すぎて、信じられないでしょうか?
高額な塾に行けないと学力がつかないと思い込んでいませんか? 高額な塾に行って学力が伸びることもあるでしょう。じっさい、そういう人も多いでしょう。「〇〇塾では△△高校に100人合格」というような実績が示されますね。りっぱな実績です。一方で、「〇〇塾に行かなければ△△高校に合格できない」とはひとことも語っていないのですが、そこのところを、誤解しがちです。
お金がなくて、あるいは学力がたりなくて〇〇塾に行けない人も、だいじょうぶ。「独学の力」を積み上げていけば、どんな未来でもひらけます。

『学校や塾へ行かずに、いかにして4人の子どもたちは 独学力を身につけたのか?』 第3章 より 内藤浩哉:著 フォレスト出版:刊

内藤さんは、書き写しは、自分の中に、形をつくることであり、つくりたい型を書き写しのお手本としなければならないと述べています。

書き写しは、どんな本を選ぶかが重要なポイントになります。
1日1ページで十分効果があるとのこと。
内藤さんのオススメは「文学作品」です。

原稿用紙を前に、夏目漱石、芥川龍之介など文豪の世界にどっぷりと浸かる。
コスパ重視の今の社会だからこそ、アナログな書き写しを習慣にする意義は大きいですね。

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ホームスクーリングを可能にする「独学の力」を手にする。

内藤さんは、そのノウハウを公開することで、3つの教育格差(経済格差、地域格差、家庭間格差)を越えていこうという提案をしたいとおっしゃっています。

世の中の価値観が多様化して、教育についても、画一的な従来のやり方では成り立たなくなりつつあります。

何らかの理由で、学校に通えなくなった子どもたち。
ホームスクーリングは、そんな彼ら彼女らの救済策となりうるものです。

それでなくても「独学の力」は、何かを学ぶときに大きな武器になることは間違いありません。

環境に左右されず、学びたい子どもが、必要なだけ学ぶスキルを身につけてほしい。
経済状況によらず、自分のやりたいことを学び続けてほしい。

子どもたちにそんな願いを託す、すべての人に一読頂きたい一冊です。

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