本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)

お薦めの本の紹介です。
三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です。

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なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) [ 三宅 香帆 ]
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三宅香帆(みやけ・かほ)さんは、文芸評論家です。
高知県のご出身で、京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程を修了(専門は萬葉集)されています。

「労働」と「読書」は両立しない?

「社会人になって、本を読まなくなった」

そう感じている人は多いでしょう。
本書の著者、三宅さんも、その一人です。

 ちくしょう、労働のせいで本が読めない!

社会人1年目、私はショックを受けていました。

子どものころから本が好きでした。読書の虫で、本について勉強がしたくて、文学部に進学した文学少女。でなせあるとき、本を読み続けるにはある程度のお金がいることに気づいたのです。ハードカバーも文庫本も、買い続けるにはお金がかかりました。そこで就職活動をしたところ、運良くIT企業に内定をいただけた。私はこれ幸いと就職しました。
はっきり言って、好きな本をたくさん買うために、就職したようなものでした。

しかし就職して驚いたのが、週に5日間毎日9時半から20時過ぎまで会社にいる、そのハードさでした。
ーー週5でみんな働いて、普通に生活してるの? マジで? 私は本気で混乱しました。
・・・・・こんなことを言うと、社会人の先輩各位に怒られそうです。「いやいや9時半から20時くらい、働き方としてはハードじゃないでしょ」と苦笑されるでしょう。私も学生時代はそう思っていました。でも、やってみると案外それは疲れる行為だったのです。
歯医者に行ったり、郵便物を出したり、宅配の荷物を受け取ったりする時間が、まったくない。飲み会が入ってくると帰宅は深夜になる。なのにまた翌朝、何事もなかったかのように同じ時間に出社する。ただ電車に乗って出社し帰宅するだけで、けっこうハードだなあ、と感じました。
とはいえ、仕事の内容は楽しかったのです。会社の人間関係は良くて、やっていることも興味があって面白いものでした。
しかしーー社会人1年目を過ごしているうちに、はたと気づきました。
そういえば私、最近、全然本を読んでない!!!

正直、本を読む時間はあったのです。電車に乗っている時間や、夜寝る前の自由時間、私はSNSやYouTubeをぼうっと眺めていました。あるいは友達と飲み会で喋(しゃべ)ったり、休日の朝に寝だめしたりする時間を、読書に充てたらいいのです。
だけど、それができなかった。本を開いても、目が自然と閉じてしまう。なんとなく手がスマホのSNSアプリを開いてしまう。夜はいつまでもYouTubeを眺めてしまう。
あんなに、本を読むことが好きだったのに。
そういえば最近書店にも行ってない。電子書籍も普及してきて、その気になればスマホで本が読める時代なのに。好きだった作家の新刊も追えていませんでした。なんだか自分が自分じゃないみたいだった。だけど翌朝電車に乗ると、またSNSを見るだけで、時間が過ぎる。同級生は器用に趣味と仕事を両立させているように見えるのに。
私には無理でした。

働いていると、本が読めなくなるのか!
社会人1年目。そんな自分にショックを受けました。が、当時の私にはどうすることもできませんでした。

結局、本をじっくり読みたすぎるあまりーー私が会社をやめたのは、その3年半後でした。
今の私は、批評家として、本や漫画の解説や評論を書く仕事に就いています。会社をやめたら、やっぱりゆっくりと本を読む時間をとれたのです。それゆえに今は、たくさん本を書く仕事ができている。ですが今の読書量は、あのまま会社員を続けていたら無理だっただろうな、と思います。会社で働きながら充分に本を読むことは、あまりに難しいからです。

こんな経験をネットに綴(つづ)ったところ、大きな反響がありました。私のもとに、さまざまな「私も働いているうちに本が読めなくなりました」という声が集まったのです。
本書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、2023年1〜11月にウェブサイト集英社新書プラスで連載した内容に加筆修正したものです。ウェブ連載をしているとき、一番私のもとに集まった感想は、「自分もそうだった」と言う声でした。
「私も働き始めて、本が読めなくなりました」「私の場合は音楽ですが、働き始めるとなかなかバンドを追いかけられなくなりました」「本を読もうとしても、疲れて寝てしまって、資格の勉強ができないんです」

そんな声がたくさん、たくさん寄せられました。
「ああ、働いていると本が読めなくなるのは、私だけじゃなかったんだな」そう感じました。そもそも日本の働き方は、本なんてじっくり読めなくなるのが普通らしいのです。そういう働き方がマジョリティなのです。たしかに週5日はほぼ出社して、残りの時間で生活や人間関係を築いていたら、本を読む時間なんてなくなるのが当然でしょう。
しかしーー私は思うのです。

「いや、そもそも本も読めない働き方が普通とされている社会って、おかしくない!?」

最初に伝えたいのが、私にとっての「本を読むこと」は、あなたにとっての「仕事と両立させたい、仕事以外の時間」である、ということです。
つまり私にとっての「本も読めない社会」。それはあなたにとっては、たとえば「家族とゆっくり過ごす時間のない社会」であり、「好きなバンドの新曲を追いかける気力もない社会」であり、「学生時代から続けていた趣味を諦めざるをえない社会」である、ということ。
私にとっては、読書が人生に不可欠な「文化」です。あなたにとってはまた別のものがそれにあたるでしょう。人生に必要不可欠な「文化」は人それぞれ異なります。
あなたにとって、労働と両立させたい文化は、何ですか?
たとえば「海外の言語を勉強すること」「大好きな俳優の舞台を観に行くこと」「家族と一緒にゆっくり時間を過ごすこと」「行きたい場所へ旅行に行くこと」「家をきちんと整えて日々を過ごすこと」「やりたかったこと創作に挑戦すること」「毎日自炊したごはんを食べること」・・・・・・など、自分の人生にとって大切な、文化的な時間というものが、人それぞれあるでしょう。そしてそれらは、決して労働の疲労によって奪われていいものではない。
もっも簡単に言うと、「生活できるお金は稼ぎたいし、文化的な生活を送りたい」のは、当然のことです。しかし、週5フルタイムで出社していると、それを叶(かな)えることは、想像以上に難しい。私はそれを社会人1年目で痛感しました。
私だけではないはずです。今を生きる多くの人が、労働と文化の両立に困難を抱えています。働きながら、文化的な生活を送るーーそのことが、今、とっても難しくなっています。
ChatGPTが話題になり、AIが私たちの仕事を奪う、と言われている世の中で、私たち人間が生きる意味とは何でしょうか。仕事をただ長時間こなすだけのマシーンではなく、文化的な生活をしてこそ、人間らしい生き方をしていると言えるのではないでしょうか。しかし労働によって文化的な生活をする余裕がなくなっているのだとすれば・・・・・それこそ、そんな働き方はAIに任せておけ、と言いたくなります。
自分の興味関心や、生活によって生まれる文化があってこそ、人間らしい仕事が可能になる。
AI時代における、人間らしい働き方。
それは、「労働」と「文化」を両立させる働き方ではないでしょうか。

労働と文化の両立の困難に、みんなが悩んでいる。
その根底には、日本の働き方の問題があります。
具体的な例を挙げましょう。
たとえばフルタイムで働いている男性が育児に関わろうとすると、「育児休業」を取れ、と言われるでしょう。しかし本来、育児は子どもが家を出るまで十数年以上続きます。が、労働と育児を両立させる働き方の正解は、いまだに提示されていないのです。
あるいはコロナ禍を経て、政府は副業を推奨しています。しかし週5フルタイムで働いている人がそれ以外に副業をしようと思ったら、過労になりかねないはず。なぜ私たちはフルタイムの労働時間を変えずに、副業を推奨されているのでしょう?

現代の労働は、労働以外の時間を犠牲にすることで成立している。

だからこそ、労働と文化的生活の両立が難しいことに皆が悩んでいる。
ーーこれは、現代日本を生きる私たちにとって、切実で困難な悩みなのです。

しかし、現代日本に文句ばかり言っていても、話は進みません。

本書はまず、「なぜ私たちはこんな悩みを抱えているのか」という問いに挑んでみます。キーになるのは、近代以降の日本の働き方と、読書の関係です。あらゆる文化のなかでも、読書の歴史は長い。明治時代から日本人は読書を楽しんできました。さらに読書は、自分の人生を豊かにしたり楽しくしたりしようとする自己啓発の感覚とも強く結びついています(これについては第一章で詳しく書きます)。だからこそ労働と読書の関係の歴史を追いかけることによって、「なんで現代はこんなに労働と読書が両立しづらくなっているのか?」と言う問いの答えが導き出せるはずです。
そして最終的に本書は、「どうすれば労働と読書が両立する社会をつくることができるのか 」という難題に挑みます。ぜひ最終章までたどり着いて、私の回答を読んでみてください。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 まえがき より 三宅香帆:著 集英社:刊

本書は、日本の近代以降の労働史を並べて俯瞰(ふかん)することによって、「歴史上、日本人はどうやって働きながら本を読んできたのか? そしてなぜ現代の私たちは、働きながら本を読むことに困難を感じているのか?」という問いについて考えた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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戦前サラリーマンはなぜ「円本」を買ったのか?

1923年(大正12年)、関東大震災が日本を襲います。
書籍の原料となる紙がたくさん燃えてしまい、書籍の値段が上がります。
さらに不況も相まって、大正末期の出版業界はどん底にありました。

そんな出版界に革命を起こしたのが、「円本」でした。

三宅さんは、大正の終わり、昭和になるとともに突風のようにはじまった「円本」ブームは、日本の読書を変えたと指摘します。

 この「円本」とは何だったのだろう? 要は「全集」のことだが、会社で働くサラリーマンたちが、せっせとこの「円本」を集めていたようなのだ。なぜ彼らは円本を集めていたのだろう?

円本という言葉の由来は、1冊1円というその価格による。
円本を日本ではじめて売った、改造社の「現代日本文学全集」ーーそれは当時の日本の作家たちの「これを読んどきゃ間違いない」という作品集だったーーはまず全巻一括予約制をとった。つまり「予約した人しか買えない」うえに、「欲しい巻だけを買う」ことができない「全巻を買うことが必要」という形態。消費者の身になると、全巻予約とはなかなか思い切ったシステムだと感じるのではないだろうか? 現代でも、読んだことのない名作漫画全集を全巻予約必須と言われたら躊躇(ためら)ってしまう。
しかし出版社側には、この「全巻予約必須」システムに踏み切るだけの理由があった。1冊1円、という価格設定は、当時において破格の金額だったのだ。
当時、書籍の単行本は2円〜2円50銭が相場だった。しかも『現代日本文学全集』には、通常の単行本の4〜5冊分の量が収録されている(現代の文庫本で言うと、約5冊分の文字数だ)。つまりは10分の1ほどの値段だった。安い。
出版社側はその安さを、初版部数の多さで補うと言う大博打を目論(もくろ)んだ。そしてその博打は大勝利に終わる。予約読者は23万人を超えた。結果的に募集を繰り返し、40〜50万の予約に至ったという。改造社は当初全37巻、別冊1巻だった出版計画を変更する。結果的には全62巻、別冊1巻に及び、6年以上かかって刊行は完了した。
そしてその「円本」システム、つまりは全集をまとめて安く売ることの大成功っぷりに驚いたほかの出版社も、さまざまな円本全集を刊行した。それは当時の「現代日本作家」の作品にとどまらず、海外文学編や思想編に至るまで、多様なジャンルの全集ブームとなっていった。
戦前は、本が安くなって、みんな本を読むようになった時代だった。そこにはこの円本という仕掛けがあった。
そして戦前のサラリーマンたちは円本を購入していたのだ。サラリーマンが本を買う文化も、円本全集の登場を契機に、本格的にこの時代からはじまるのだった。
なぜこの「円本」は売れたのだろう? 値段が安くなったからといって、皆が突然、本を買うようになるだろうか? そこまで豊かではない家計と忙しいはずの時間のなかで、どこに『現代日本文学全集』を買うモチベーションがあったのだろう?
本章はこの昭和初期の円本ブームと、戦前のサラリーマンの読書の風景に迫ってみたい。

一、本全集あれば、他の文芸書の必要なし。
二、総額壱千円のものが毎月たった一円。
三、内容充実し、普通版の四万頁に相当す。
四、明治大正の普及の名作悉(ことごと)く集まる。
五、菊版六号活字総振仮名付最新式の編◯法。
六、瀟洒(しょうしゃ)な新式の装幀(そうてい)で書斎の一美観。
七、全日本の出版界は其(そ)の安価に眼を円(まる)くす。

これが『現代日本文学全集』の内容見本に挙げられた、八つの特色だった。注目したいのが、「瀟洒な新式の装幀で書斎の一美観」つまり“書斎”に置く本として美しいインテリアであることを強調している点だ。
塩原亜紀は、2002年(平成14年)の論文「所蔵される書物ー円本ブームと教養主義」で、昭和初期の中流階級の間で増えていた和洋折衷(せっちゅう)住宅において、洋式の「書斎」の部屋が誕生し、さらにその「書斎」は「応接間」の役割を兼ねていたことを指摘する。つまりいえに客人が来たときに、書斎の本棚を見せるような設計になっていた。そして当時の本棚にぴったりだったのが、円本全集だったのだ。
実際改造社の『現代日本文学全集』の装幀を担当した杉浦非水(ひすい)は、「室内装飾」としての書物というコンセプトを提示した。たしかに単行本をそれぞれ買って並べるよりも、統一された全集の背表紙のほうが、インテリアとして映える。円本全集は当時増えていた洋式の部屋にインテリアとして重宝された。
ちなみに当時本をインテリアとして買うことを、揶揄(やゆ)する人もいた。1928年(昭和3年)の『出版年鑑』で評論家の武藤直治は「現在は、いわゆる円本が読まれるよりは飾られ、貯(たくわ)えられるために出版され、購求されている観がある」と述べる。つまり「円本は読まれてない、飾られているだけだ」ということだ。
昭和初期、本を読んでいることは、教育を受け学歴がある、すなわち社会的階層が高いことの象徴だった。中高等教育を受けた学歴エリート階層=新中間層が、労働者階級との差異化のために「教養としての読書」を重視していたことは、第二章に見た大正時代から続く傾向である。そう、ずらりと本棚に並べられる円本全集を購入することは、「実際に読まなくても読書している格好」をするための最適な手段だったのだろう。
読書することで自分の階層を「労働者階級とは違うんだ」と誇示したい新中間層=当時のサラリーマンーーそれはまさに円本全集のターゲット層だった。
たとえば新潮社が出した『世界文学全集』の新聞広告には、こんな宣伝文句が掲載されている。

丸ビルだけでも一万幾千からの勤め人が居られますがその方々の悉くが私共書店としていちばんの得意である
読書階級でありますので、お昼の時間など実物見本の引っ張り合です。
(「東京朝日新聞」1927年2月10日に掲載された『世界文学全集』の広告における書店員の言葉)

書店員の言葉を載せる新聞広告の手法は今も昔も変わらないのだな、と微笑(ほほえ)ましくなってしまうが。それはそうとして、この書店員が述べている「読書階級」という言葉に着目したい。
丸の内のオフィス街で、お昼の時間に書店に寄るようなサラリーマンーーつまり労働者階級ではない新中間層こそ、全集を買ってほしい、そのような出版社の狙いが見て取れる。出版社としても、「新しく家を持つような少しお金を持ったサラリーマンが書斎に置いて自慢する材料」としての円本全集を企図していたのだ。
そしてそれは当時の日本に登場したサラリーマン層の需要とぴったり噛(か)み合っていた。自分は労働者階級ではない、自分はちゃんとした家のちゃんとした主人なんだ、と誇示したい当時のサラリーマン層にとって円本の全集は打ってつけのインテリアであった。
時代の嵐と、的確な企図意図。その組み合わせの妙によって、円本全集はサラリーマンの家のインテリアとして君臨することに成幸したのだ。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 第三章 より 三宅香帆:著 集英社:刊

円本には、もちろん百科事典や名作全集という知的財産という意味合いもありました。
そしてもう一つ「室内装飾」つまり、インテリアとしての価値もあったということ。

自分の家の書斎に一揃いの「円本」を飾っておく。
それも、当時の人たちの大きなステータスだったということですね。

「ミリオンセラー」と「長時間労働サラリーマン」

「若者の読書離れ」という言葉が聞かれるようになって久しいです。

三宅さんは、実は「若者の読書離れ」という言葉が定着したのはなんと40年も前のことだったと指摘します。

つまり、日本人は80年代から、ほぼ半世紀にも間、ずっと「若者の読書離れ」を憂いてきたということです。

 しかし少なくとも1980年代、出版業界の売り上げはピークを迎えつつあった。
1985年(昭和60年)のプラザ合意からはじまった「バブル景気(バブル経済)」の後継機日本社会は沸いた。そして世間と同様、出版業界もまた、バブルに沸いていた。出版科学研究所の算出した出版物の推定販売金額によれば、80年代の売り上げは右肩がり。70年代には1兆円の売り上げだった出版業界が、90年代初頭には2兆円を超える。ほとんど倍の盛り上がりだ。出版業界倍増計画の時代、それが80年代だった。
80年代に刊行された具体的な書籍の名前を挙げると、黒柳徹子の私小説『窓ぎわのトットちゃん』(講談社、1981年)は500万部を突破し、村上春樹の小説『ノルウェイの森』(講談社、1987年)は上下巻合計350万部、俵万智の歌集『サラダ記念日』は200万部を突破、吉本ばななの小説『TUGUMI』(中央公論社、1989年)は140万部を突破した。どれも1〜2年で売れた数である。売れすぎである。歌集や私小説が、何百万部も売れる世界。
2023年現在、YouTuberの本が30万部超えで「売れすぎだ」と驚かれ、新人歌人の本が書店にたくさん並ぶだけで「短歌ブームだ」と感動する世界であることを考えると・・・・・80年代はもはや異世界だ。景気が良すぎる。
80年代、読書離れなんてしていたはずがない。ーー80年代から40年後の今となっては誰もがそう思うだろう。
一方で、長時間労働をしているサラリーマンもまた、右肩上がりで増えていた。80年代の終わりごろ、平日1日あたり10時間以上働くフルタイムの男性労働者の割合は3人に1人ほどになっている(黒田祥子「日本人の労働時間は減少したか?ー1976-2006年タイムユーズ・サーベイを用いた労働時間・余暇時間の計測」)。そして平日の余暇の時間も、70年代と比較すると減りつつあった(黒田祥子「日本人の余暇時間ー長期的な視点から」)。
平日の長時間労働が増えた結果、余暇が減っていたのである。働く男性たちは、どんどん余暇がなくなっていく。
はたしてなぜ80年代には、長時間労働も増えているのに、読書文化もまた花開いているのだろう。
考えてみれば、バブルという華やかな時代の印象と、読書という地味なメディアの印象は、どうにもずれているような気もしてくる。景気がいいとき、本は売れるのだろうか? みんな長時間労働で疲れて本なんて読めないのではないだろうか?
「嫁さんになれよ」と言う男たちは、そして言われていた女たちは、いつ本を開いていたのだろう。

第五章で見たように、1970年代のサラリーマンの読書風景として象徴的だったのは、通勤電車で読む司馬遼太郎の文庫本だった。それは高度経済成長期を終え、徐々に「自助努力」が説かれつつあった企業文化の産物でもありながら、それでいて教養や修養を重視する勤勉なサラリーマン像の象徴だった。
対して、80年代の出版バブルを支えていた存在。それは、雑誌であった。
たとえば1980年(昭和55年)に創刊された雑誌「BIG tomorrow」(青春出版社)は、男性向け雑誌のなかで圧倒的な人気を博していた。
同じビジネス雑誌ジャンルでも当時の「will」や「プレジデント」はエリート層サラリーマン向け雑誌だった(谷原吏「サラリーマン雑誌の〈中間性〉ー1980年代における知の編成の変容」)。これらの雑誌の内容は「歴史上の偉人から教訓を学ぶ」教養重視。つまりは通勤電車で司馬遼太郎の小説を読み、登場人物の生き様から教訓(と朝礼の訓示のネタ)を得ようとするサラリーマン層の延長線上に位置する雑誌である。そこに知識人、教養人を目指すエリート的自意識を見出してもいいかもしない。
しかしそれよりも人気だったのが「BIG tomorrow」だった。
「BIG tomorrow」は、「職場の処世術」と「女性にモテる術」の2つの軸を中心にハウツーを伝える、若いサラリーマン向け雑誌である。この2つの軸を示すだけでも分かる通り、この雑誌に教養主義的な側面はほとんどなく、すぐに使える具体的な知識を伝えることを重視する。そしてその知識は、読心術や心理話法といった、90年代的な「心理主義」に近いものである。
司馬遼太郎の歴史小説から教訓を学ぶよりももっと即物的に、即日使える知識を伝える雑誌。それが「BIG tomorrow」のコンセプトだったのだ。

なぜ処世術やモテ術を語った「BIG tomorrow」は1980年代に人気を博したのか? 答えは簡単で、サラリーマンの間で「学歴よりも処世術のほうが大切である」という価値観が広まったからだ。
80年代、大卒イコール少数のエリートという意識は薄れ、それよりも入社した後の企業内の昇進が注目されるようになった。つまり学歴で最初からコースが分かれるというよりも、学歴に関係なく「自分も出世できるかもしれない」という期待を入社後も持つことができる文化が醸成されていたのだ。
そして企業に入った後の出世コースの「選抜」においては、学歴や知識ではなく、処世術、つまりコミュニケーション能力が重視されていた。
こうして60〜70年代にあったサラリーマンの間の教養主義の残り香は、80年代は、消え去ることになる。労働に教養が貢献しなくなったからだ。
70年代にはまだ、進学できなかったことによる学歴コンプレックスから教養を求める労働者が多数存在した。だが80年代になり、進学率が高くなるにしたがって、学歴よりも、コミュニケーション能力を求める労働者のほうが多くなった。
労働に必要なのは、教養ではなく、コミュニケーション能力である。ーー当時のサラリーマンがおそらく最も読んでいたであろう「BIG tomorrow」のコンセプトからは、そのような当時の思想が透けて見える。
70年代までは、教養ーーの延長線上にある「学歴」こそが労働の市場に入り込む必須条件であり、それを手にしていないことへのコンプレックスも大きかった。
しかし80年代になると、学歴ではなく、「コミュニケーション能力」を手にしていないコンプレックスのほうがずっと強くなったのだ。

このような補助線を引くと、1980年のベストセラー文芸ーー『窓ぎわのトットちゃん』が500万部超、『ノルウェイの森』が350万部超、『サラダ記念日』が200万部超ーーという華麗なる発行部数にも、ある種の合点がいく。というのもこの3作品、どれも一人称視点の物語なのだ。
『窓ぎわのトットちゃん』と『ノルウェイの森』と『サラダ記念日』の共通点。それは作者の私小説的なフォーマットに則(のっと)っていることである。
『窓ぎわのトットちゃん』が自伝的フィクションなのは明白として、『ノルウェイの森』は、ワタナベという主人公の名は村上春樹とは別にあるものの、描かれた学歴や時代性などは作品本人の私小説かと読者に思わせる。本当に私小説かどうかはさておき、読者にそのような印象を与えているということだ。そして『サラダ記念日』は短歌という、主語が作者であることが前提の文芸だ。
つまりこの3作品、どれも「僕」や「私」の物語なのである。

一週間たっても電話はかかってこなかった。直子のアパートは電話の取りつぎをしてくれなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけてみた。彼女はいなかったし、ドアについていた名札はとり外されていた。窓はぴたりと雨戸が閉ざされていた。管理人に訊くと、直子は三日前に越したということだった。どこに越したのかはちょっとわからないなと管理人は言った。
僕は寮に戻って彼女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。
(村上春樹『ノルウェイの森』)

70年代のベストセラー文芸が松本清張や小松左京といった社会と自分の関係をしっかり結んでいる作家の作品だったのに対し、80年代ベストセラー文芸は、「僕」「私」の物語を貫き通す。「僕」から見た世界は、「私」から見た関係は、今こうなっている。そしてその「僕」「私」視点は、ほかの人に届くかどうか、分からない。もしかしたら届かないかもしれない。しかし「僕」「私」の思いは、コミュニケーションで伝えられなくとも、自己表現されうる。それが80年代ベストセラー文芸に見る傾向なのだ。
そう、70年代と比較して、80年代は急速に「自分」の物語が増える。そしてそれが売れる。これは当時、コミュニケーションの問題が最も重要視されていたからではないか。
自分と他人がうまくつながることができない、という密(ひそ)かなコンプレックスは、翻って「僕」「私」視点の物語を欲する。
社会ではなく、「僕」「私」の物語を、みんな読みたがっていた。
それは労働市場において、学歴ではなくコミュニケーション能力が最も重視されるようになった流れと、一致していたのだ。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 第六章 より 三宅香帆:著 集英社:刊

ミリオンセラーの書籍が乱発していたバブル期。
そんな中でも、静かに「若者の読書離れ」は進行していました。

社会の変化によって、読書に求める価値も徐々に変わっていった。
その転換点になったのが、80年代だったということですね。

本は読めなくても、ネットはできるのは、なぜ?

本格的な「読書離れ」が始まったのは、2000年代になってからです。

その大きな原因の一つが、インターネットの普及に象徴される「IT革命」です。

『読書世論調査』(毎日新聞社)の調査によれは、2000年代を通して増減を繰り返していたが、2009年(平成21年)にはすべての年代で前年よりも読書時間が減少した。
そう、たしかに「読書離れ」がはじまったのが、2000年代なのである。
では00年代に何が起きていたのか。ーーそこにあったのは、「情報」の台頭だった。00年代、IT革命と呼ばれる、情報化にともなう経済と金融の自由化が急速に進んだ。情報化とグローバル化が一気に進み、先述した新自由主義改革が社会に浸透していく。デジタル化・モバイル化が加速し、インターネットが新しい地平をつくっていた。
「情報」が輝いていたのだ。あのころは。

ベストセラーのなかにも「情報」の輝きを誇る小説が登場する。
『電車男』(中野独人(ひとり)、新潮社、2004年)である。インターネットの電子掲示板である(当時の)「2ちゃんねる」への書き込みをそのまま掲載した同書は、ドラマ化や映画化を経てベストセラーとなった。
同書の特徴は、語り手の男性が片思いする場面からはじまる純愛物語でありながら、さらに実話であり、何よりも掲示板の人々が伝えてくれる「情報」によって恋愛を成就させていくプロセスが描かれているところにある。つまり、当時流行していた韓流ドラマ『冬のソナタ』(2002年に韓国で放映、日本での地上波放送および「冬ソナ」流行語大賞トップテン入りは2004年)や小説『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一、小学館、2001年)、『恋空-切ナイ恋物語』(美嘉、スターツ出版、2006年)と連なるような「純愛ブーム」の王道であるのと同時に、インターネットの「情報」の価値を知らしめる作品になっていた。
興味深いのは、『電車男』という物語が、エルメスと呼ばれる手の届かない女性に対して、さまざまな掲示板の「情報」を駆使して、モテない主人公の男性(電車男)がアプローチをかけていくところである。つまり、「モテ」の階級を超えた恋愛を成就させるための武器として、掲示板で買わされる「情報」が存在するように描かれている。ちなみにこの階級とは現実での社会的階級という意ではなく、「モテ」というヒエラルキーを基準にしたとき、エルメスは主人公にとって手の届かない位置にいる女性として描かれることを指す(それにしても主人公ふたりが、「エルメス」という貴族の乗り物だった馬車の用具のメーカーからはじまった高級ブランドと、「電車」という誰でも乗れる近代的インフラとして対置されている点は興味深くはある)。
掲示板にいる人々は、デートのときのお店の選び方からコミュニケーションの方法に至るまで、電車男をサポートする。それは「情報」が電車男とエルメスのヒエラルキーを飛び越える存在だったからだ。

インターネットの本質は「リンク、シェア、フラット」にある、と語ったのはコピーライターの糸井重里だった(『インターネット的』)。とくに「フラット」というのはつまり、「それぞれが無名性で情報をやりとりすること」と糸井は説明する。

インターネットのやりとりに、本名ではなくハンドルネームというものを使い合っているというのは、悪いことばかりじゃなく、みんなを平らにするための、ある種の発明だったとも言えます。ネットというのは、ある種の仮面舞踏会でもあったわけです。       (同前)

現実での階級を仮面で隠し、ただ情報を交わすことに集中する。そこには、現実のヒエラルキーを無効果する、という効果もあった。
つまり『電車男』と『インターネット的』はほとんど同じことを語っている。インターネットの情報とは、社会的ヒエラルキーを無効化し、むしろ現実の階級が低い人にとっての武器になりうる存在だった。それは、「フラット性」というよりもむしろ「転覆性」という性格を帯びているのかもしれない。つまりインターネットにおいては、社会的ヒエラルキーを転覆する道具として、情報を使うことができる、ということである。現代でもSNSで、権威のある人物が情報によって転覆されている様子を見ることがあるが、これと同じような構造をもたらす性質がインターネットの情報にはそもそも備わっていたのだ。
このようなインターネット情報を持つ「転覆性」ともいえる性質をうまく使ったのが、「2ちゃんねる」掲示板の創設者でもある、ひろゆきという人物だった。そう説明するのは社会学者の伊藤昌亮(まさあき)である。

そうして彼は自らを、いわば「情報強者」として誇示する一方で、旧来の権威を「情報弱者」、いわゆる「情弱(じょうじゃく)」に類する存在のように位置付ける。その結果、斜め下から権威に切り込むような挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独特な優越感に満ちた態度が示され、それが彼の支持者をさらに熱狂させることになる。
このように彼のポピュリズムは、「情報強者」という立場を織り込むことで従来のヒエラルヒーを転倒させ、支持者の喝采を調達することに成功している。
(「〈特別公開〉ひろゆき論ーなぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」)

情報には、従来のヒエラルキーを転倒させる力がある。「歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知」や「リベラル派のメディアや知識人など、とりわけ知的権威とみなされている立場」に対して、ひろゆきは情報という価値をもって、その権威性を転覆させようとする。それはまさに、インターネットの情報が、従来の知的権威を転覆させる性格を帯びていることを利用したトリックスターの在り方だった。

伊藤はこのようなひろゆきの発信する情報を「安手の情報知」と呼び、「安直で大雑把」だと批判する。

実際、彼のライフハックはその自己改造論にしても社会批判論にしても、自己や社会の複雑さに目を向けることのない、安直で大雑把なものであり、知的な誠実里は縁遠いものだ。
しかしその支持者には、彼はむしろ知的な人物として捉えられているのではないだろうか。というのも彼の反知性主義は、知性に対して反知性をぶつけようとするものではなく、従来の知性に対して新種の知性、すなわちプログラミング思考をぶつけようとするものだからだ。
そこでは歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知に対して、いわば安手の情報知がぶつけられる。ネットでの手軽なコミュニケーションを介した情報収集力、情報処理能力、情報操作能力ばかりが重視され、情報の扱いに長(た)けた者であることが強調される。
(同前)

しかし、このような“新種の知”は、本当に「安手」だろうか?
そもそも現代の人々が読書よりもインターネットの情報を好む理由は、ここにあるのではないか。読書はできなくても、インターネットの情報を摂取することはできる、という人は多いだろう。人文系の教授の言うことは聞けなくても、ひろゆきの言うことを聞くことができる人はたくさんいるのだ。私たちは後者を「安手」と安直に言ってしまっていいのだろうか。
仮にこの対比を、〈読書的人文知〉と〈インターネット的情報〉と呼ぶならば、そのふたつを隔てるものは何だろう?
〈インターネット的情報〉は「自己や社会の複雑さに目を向けることのない」ところが安直であると伊藤は指摘する。逆に言えば〈読書的人文知〉には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性や文脈性を重んじようとする知的な誠実さが存在している。
しかしむしろ、自己や社会の複雑さを考えず、歴史や文脈を重んじないところーーつまり人々の知りたい情報以外が出てこないところ、そのノイズのなさこそに、〈インターネット的情報〉ひいてはひろゆき的ポピュリズムの強さがある。
従来の人文知や教養の本と比較して、インターネットは、ノイズのない情報を私たちに与えてくれる。
情報の氾濫するインターネット空間で、いかに必要のない情報を除去し、ノイズのない情報を伝えるかが重要視されることは、説明の必要もないほど私たちも痛感するところだろう。働いていて、本が読めなくてもインターネットができるるのは、自分の今、求めていない情報が出てきづらいからだ。
求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で、読むことができる。それが〈インターネット的情報〉なのである。

インターネット的情報は、現実での階級を仮面で隠し、ただ情報を交わすことに集中できるという特徴がある。そう述べたのは2001年(平成13年)の糸井重里だった。一方で前章も参照した、自己啓発書を研究する牧野智和は、自己啓発書もまた読者の階級を無効化し、今ここの行動に注目するところが特徴だと説明する。

啓発書は読者の出自に関係なく、今ここで新たに獲得されようとする感情的ハビトゥスによって今までの自分、あるいは他者との差異化・卓越化を促していると考えられる。
(前掲『日常に侵入する自己啓発』)

実際、牧野の調査によれば、啓発書購読行為と親の学歴の間には有意な関連が見られなかったという(同前)。
2000年代、自己啓発書は1990年代にも増して売り上げを伸ばしていた。出版科学研究所の出すベストセラー一覧には『生きかた上手』(日野原重明、ユーリーグ、2001年)、『人は見た目が9割』(竹内一郎、新潮新書、2005年)、『夢をかなえるゾウ』(水野敬也、飛鳥新社、2007年)など多数の自己啓発書が入っている。
インターネット的情報と自己啓発書の共通点は、読者の社会的階級を無効化するところだ。
コントロールできない社会のノイズは除去し、自分でコントロールできる行動に注力する。そのための情報を得る。それはバブル崩壊後、景気後退局面に入りリーマンショックを経ながらも、社会の働きかたとして「自己実現」が叫ばれていた時代に人々が適合しようとした結果だった。就職氷河期の若者にとって、自分の社会的階級を無効化して勝者になるべく求めていたものが、まさにインターネットや自己啓発書のなかに存在していたのである。
インターネット的情報が転覆性を帯びるように感じられるのは、そのような時代背景のなかで、社会的階級を転覆させようとした人々が連帯した結果だったのではないだろうか。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 第八章 より 三宅香帆:著 集英社:刊

確かに、インターネットは手軽で簡単に情報を得ることができる便利なツールです。
インターネットに割く時間が増えた分、読書の時間が減ったという相関関係はありますね。

自分に必要な知識だけを、できるだけ少ない労力で得たい。
そんな“タイパ重視”の世の中の流れが「読書離れ」を加速させています。

「半身社会」こそが新時代だ!

三宅さんは、自分から遠く離れた文脈に触れることーーそれが読書であり、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がないということだと指摘します。

「働いていると本が読めなくなる」のは仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるから。

では、どうすれば「働いていても本が読める」ような、余裕のある社会になるのでしょうか。

三宅さんは、「半身で働く社会」を提案します。
その理由は、半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだからです。

日本社会では、これまで仕事でも家事でも、100%「全身全霊」で臨むのが美徳とされてきました。

しかし、三宅さんは、本も読めない働き方ーーつまり全身のコミットメントは、楽だが,あやういと述べています。

 なぜなら全身のコミットメントが長期化すれば、そこに待っているのは、鬱病だからだ。それは今まで参照してきたとおり『疲労社会』や『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』といった先例が教えてくれている。過剰な自己搾取はどこかでメンタルヘルスを壊す。
あるいは、もし個人が鬱病にならずに済んだとしても、社会全体で見ればたとえば長時間労働が少子化の原因のひとつになっていることは明らかにされている。そう、つまりは仕事に全身のコミットメントを果たすことは、たとえば家庭にコミットメントできないという結果を招く。あるいはゲームをしていたら仕事に身が入らなかった経験はあなたにもあるかもしれない。また、仕事に全身コミットメントすることは、一緒に住んでいる他人によるケアを必要とする場合が多い、あるいは一人暮らしでも、仕事に全身全霊の人が、疲れすぎて部下にパワハラしていたなんて話はしばしば聞く。
全身のコミットメントは、現代においては、他者によるケアを必要としたり、社会全体で見ると不利益になることが多いのだ。
もちろん何に自分をコミットメントさせるかーー有限な時間をどう使うかは、個人の自由だ。仕事に使ってもいいし、人はどんな文脈に思考と身を委ねるか、自由に決められる。
しかし一方で、ひとつの文脈に全身でコミットメントすることを称揚するのは、そろそろやめてもいいのではないだろうか。
つまり私はこう言いたい。
サラリーマンが徹夜して無理をして資料を仕上げたことを、称揚すること。
お母さんが日々自分を犠牲にして子育てしていることを、称揚すること。
高校球児が恋愛せずに日焼け止めも塗らずに野球したことを、称揚すること。
アイドルが恋人もつくらず常にファンのことだけを考えて仕事したことを、称揚すること。
クリエイターがストイックに生活全部を投げうって作品をつくることを、称揚すること。
ーーそういった、日本に溢れている、「全身全霊」を信仰する社会を、やめるべきではないだろうか?
半身こそ理想だ、とみんなで言っていきませんか。
それこそが、「トータル・ワーク」そして「働きながら本が読めない社会」からの脱却の道だからである。

半身のコミットメントこそが、新しい日本社会つまり「働きながら本を読める社会」をつくる。本書の提言はここにある。
たとえば本を読むことだって、当然ではあるが、半身の取り組みでいいのである。社会で生きて、仕事したり家事をしたりするなかで気づいたことが、読書の役に立つ。現代では「にわか」つまり半身のコミットメントをする人は趣味の世界においても嫌われがちだが、私は「にわか」でなにが悪いんだと心から思っている。全身のコミットメットを趣味に求めていると、どこかで均衡を崩す日がやってくる。それはちょうど、映画『花束みたいな恋をした』の麦と絹が、文化的な趣味に「全身」浸りすぎて、わずかでも浸れなくなった瞬間、うまくいかなくなったように。
麦だって、働きながらイラストを描けばよかったのに、と私は今も思っている。もちろん社会人1、2年目は無理かもしれない。忙しいかもしれない。しかし仕事に慣れて数年経って、きっとイラストを再開するタイミングができたはずだ。それのなにが悪いのだろう。イラストレーターになるためには、覚悟を持って全身全霊で頑張らなくてはいけない、なんて誰が決めたのだろう。
仕事も同じだ。
なぜ正社員でいるためには週5日・1日8時間勤務+残業あり、の時間を求められるのだろう。それは仕事に「全身」を求められていた時代の産物ではないのか。そのぶん、家事に「全身」をささげていた人がいたからできたことではないのか。今の時代に、「半身」ーー週3日で正社員になることが、なぜ難しいのだろう。
もちろん何かに全身全霊を傾けたほうがいいタイミングは、人生のある時期には存在する。しかしそれはあくまで一時期のことでいいはずだ。人生、ずっと全身全霊を傾けるなんて、そんなことを求められていては、疲労社会は止まらないだろう。
私たちは、そろそろ「半身」の働き方を当然とすべきではないか。
いや、働き方だけではない。さまざまな分野において、「半身」を取り入れるべきだ。「全身」に傾くのは容易だ。しかし「全身」に傾いている人は、他者にもどこかで「全身」を求めたくなってしまう。「全身」社会に戻るのは楽かもしれない。しかし持続可能ではない。そこに待ち受けるのは、社会の複雑さに耐えられない疲労した身体である。
「半身」とは、さまざまな文脈に身をゆだねることである。読書が他者の文脈を取り入れることだとすれば、「半身」は読書を続けるコツそのものである。
仕事や家事や趣味やーーさまざまな場所に居場所をつくる。さまざまな文脈のなかで生きている自分を自覚する。他者の文脈を取り入れる余裕をつくる。その末に、読書という、ノイズ込みの文脈を頭に入れる作業を楽しむことができるはずだ。
それは決して、容易なことではないかもしれない。複雑なことかもしれない。しかし私たちは、その複雑さを楽しめるはずだ。
私たちは、さまざまな文脈に生かされている。仕事だけに生かされているわけじゃない。
読書は、自分とは関係ない他者を知る文脈を増やす手段である。
だからこそ、「半身」で働こう。
そして残りの「半身」を、ほかのことに、使おう。
「全身」で働けない人は、「半身」でいいよ、というような言い方をするのではなく。
みんなが「半身」で働ける社会こそが「働きながら本を読める社会」につながる。
たとえば、こんな働き方はどうだろうか。従来の日本企業は、「全身」で働く少数の男性正規雇用者に固定費用をかけ、バッファとしての残業代を支払っていた。しかしこれからの日本は、「半身」で働くたくさんの多様な人々に残業代なしで働いてもらうことが重要ではないだろうか。同じ仕事をこなすにしても、「全身」の男性雇用者5人の仕事量より、「半身」の人種も年齢もジェンダーも多様な10人の仕事量を求めたほうが、ドロップアウト=過労による鬱や退職を防げるのではないだろうか。
そう、「全身」は過去のものだ。「半身」こそが、「働きながら本を読める社会」をつくる、私たちが望むべき新しい生き方なのである。

最後に、『疲労社会』でハンが引いたこの言葉を、私も引きたい。

君たちはみんな、激務が好きだ。速いことや、新しいことや、未知のことが好きだ。
ーー君たちは自分に耐えることが下手くそだ。なんとかして君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている。
もっと人生を信じているなら、瞬間に身をゆだねることが少なくなるだろう。だが君たちには中身がないので待つことができないーー怠けることさえできない!
どこでもかしこでも、死を説く者の声が聞こえる。この地上には、死を説かれる必要のある連中が、いっぱいいる。          (フリードリヒ・ニーチェ 『ツァラトゥストラ』)

「全身」でひとつの文脈にコミットメントすることは、自分を忘れて、自我を消失させて、没頭することである。
そういう瞬間が、楽しいこともあるだろう。楽なこともあるだろう。私もそうだから、すごくよく分かる。すぐに忙しくしたがるし、ひとつのことだけ頑張れたらどんなに楽だろう、仕事だけしていていいならどんなに、とよく思う。反対に、読書だけしていい日常だったら、どんなに楽しかっただろう、とよく夢想する。自分のことなんか忘れちゃいたい、没頭してたい。すっごくよく分かる。
しかしニーチェは首を振る。そんなのは人生を信じていないのだ、と。
人生を信じることができれば、いつか死ぬ自分の人生をどうやって使うべきか、考えることができる。
瞼(まぶた)を開けて、夢を見る。いつか死ぬ日のことを思いながら、私たちは自分の人生を生きる必要がある。だからこそニーチェは「自分を忘れるために激務に走るな」と言うのだ。
自分を覚えておくために、自分以外の人間を覚えておくために、私たちは半身社会を生きる必要がある。
疲れたら、休むために。元気が出たら、もう一度歩き出すために。他人のケアをできる余裕を、残しておくために。仕事以外の、自分自身の人生をちゃんと考えられるように。他人の言葉を、読む余裕を持てるように。私たちはいつだって半身を残しておくべきではないだろうか。

働きながら本を読める社会。
それは、半身社会を生きることに、ほかならない。

といっても、具体的な「半身社会」の実現のためのステップは本書で書けるところではない。これはあくまで、あなたへの提言だ。具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない。
だからこそ、あなたの協力が必要だ。まずはあなたが全身で働かないことが、他人に全身で働くことを望む生き方を防ぐ。あなたが全身の姿勢を称賛しないことが、社会の風潮を変える。本書が提言する社会のあり方は、まだ絵空事だ。しかし少しずつ、あなたが半身で働こうとすれば、現代に半身社会は広がっていく。
半身社会は、旧来の全身社会よりも、複雑で面倒だろう。
半身社会は他人との協力が不可欠だし、自分の調整も常に必要だ。どうしてもさまざまな文脈を許容する面倒さが存在してしまう。誰かと関わるのは大変だし、いろんなトピックに頭を使うのは苦労するかもしれない。なにより仕事をしながら本を読むなんて、面倒臭いかもしれない。いろんな文脈を知ることは、複雑で耐えられないことかもしれない。
でも、それでも私はあなたと半身社会を生きたい。それは自分や他人を忘れずに生きる社会だからだ。仕事とケア、あるいは仕事と休息、あるいは仕事と余暇が、そして仕事と文化が両立する社会だからだ。
半身社会とは、複雑で、面倒で、しかし誰もバーンアウトせずに、誰もドロップアウトせずに済む社会のことである。まだ絵空事だが、私はあなたと、そういう社会を一歩ずつ、つくっていきたい。

働きながら本を読める社会をつくるために。
半身で働こう。それが可能な社会にしよう。
本書の結論は、ここにある。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 最終章 より 三宅香帆:著 集英社:刊

「専業主婦」という言葉が、ほとんど死語となった今の世の中。
働き方は、もっと多様でフレキシブルになるべきでしょう。

ChatGPTなどの生成AIなど、仕事を劇的に効率化するツールも次々と開発されています。
三宅さんがいう、希望する人が皆「半身」で仕事する社会が実現する日は、意外と近いかもしれませんね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

三宅さんが社会人1年目で感じた「働いていると本が読めない」という悩み。
深く突き詰めていくと、日本社会の奥深くに根づいていました。

「全身で働くことが当たり前」

問題の根本は、これまで当然のように受け入れていたそんな価値観にまでたどり着きます。

三宅さんは、「働きながら本が読めなくなるくらい、全身全霊で働きたくなってしまう」ように個人が仕向けられているのが、現代社会だとおっしゃっています。

読書は、自分から遠く離れた文脈に触れることであり「ノイズ」ですから、余裕がなければ受け入れられません。
それを可能にするのが、「半身」の働き方です。

読書に限らず、全身全霊で働くことで、私たちが失ってきたものは多いです。
今こそ、働き方を含めた、生き方全体を設定し直す時期なのかもしれませんね。

本書は、日々忙しく働きながら心の余裕をなくしている人すべてに一読して頂きたい一冊です。

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