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【書評】『ニュータイプの時代』(山口周)

 お薦めの本の紹介です。
 山口周さんの『ニュータイプの時代』です。

ニュータイプの時代

山口 周 ダイヤモンド社 2019年07月05日
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by ヨメレバ

 山口周(やまぐち・しゅう)さんは、独立研究者・著作家・パブリックスピーカーです。

これからの時代をリードする「ニュータイプ」とは?

 これまで高く評価されてきた、従順で、論理的で、勤勉で、責任感の強い、いわゆる「優秀な人材」。
 彼らは、今後「オールドタイプ」として急速に価値を失っていく。

 一方、自由で、直感的で、わがままで、好奇心の強い人材=「ニュータイプ」が、今後は大きな価値を生み出し、評価され、本質的な意味での「豊かな人生」を送ることになる。

 今後起こるであろう世の中の大きな流れは、以上のようにまとめられます。

 山口さんは、私たちは「オールドタイプ」から「ニュータイプ」にアップデートすべきだと指摘し、その理由を以下のようにまとめています。

 1つ目のポイントは、オールドタイプの思考・行動様式が、「社会への価値の創出」という観点から、すでに有効ではなくなりつつあるということです。
 筆者は拙著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』で、これまでオールドタイプの多くが依拠していた「論理とサイエンス」が、「モノが過剰になり、正解がコモディティ化していく」世界において有効性を失いつつあることを指摘した上で、今後は「美意識とアート」を武器にする新しい人材=ニュータイプが求められている、という主張をしましたが、これはまさに「価値創出」の源泉が「問題を解決し、モノを作り出す能力」から「問題を発見し、意味を創出する能力」へとシフトしていることを受けてのものでした。
 いわゆる「優秀さ」は文脈依存的な概念であることに注意が必要です。どのような時代にあっても、その時代において「望ましい」とされる人材の要件は、その時代に特有の社会システムやテクノロジーの要請によって規定されることになります。これはつまり、世の中の要請に対して相対的に希少な能力や資質は「優秀さ」として高く評価され、逆に過剰な資質や能力は「凡庸さ」として叩き売られる、ということです。
(中略)
 さて次に、オールドタイプからニュータイプへのアップデートが必要だと指摘する2つ目の理由として挙げなければならないのが、これまで活躍していた人材=オールドタイプが発揮してきた思考・行動様式によって、資本主義というシステムが生み出す問題が拡大再生産されている、という点です。
 たとえば現在、世界中の都市で「ゴミ」は深刻な問題になりつつありますが、これは「量的な向上」を無条件に是とするオールドタイプの思考・行動様式が生み出した結果といえます。
 確かに、かつてのようにモノが不足している状況であれば、ひたすらに「量的な向上」を目指すというオールドタイプの行動様式は、時代の要請と整合していたかもしれません。しかし、現在のようにモノが過剰に溢れている状態で、ひたすらに「量的な向上」を目指せば、すでに過剰にあるモノを次々にゴミにしていくしかありません。
 こういった問題の原因を「資本主義というシステム」に求めて、これを何か別のシステムに切り替えることで解決しようということが、かつては考えられました。1960年代に世界中で盛り上がりを見せた学生運動はその一つの例と言えますが、結局のところ、これらの取り組みは、壮大な実験の結果、うまくいかないことが明らかになっています。
 つまり、今の私たちを取り巻いている「システムの大きな問題」を解決するには、システムそのものをリプレースするのではなく、システムそのものを微修正しながら、その中に組み込まれる人間の思考・行動様式を大きく切り替えることが必要だということです。

『ニュータイプの時代』 はじめに より 山口周:著 ダイヤモンド社:刊

 山口さんは、「オールドタイプ」から「ニュータイプ」へのシフトを促す力として、次の6つのメガトレンドを挙げています。

  1. 飽和するモノと枯渇する意味
  2. 問題の希少化と正解のコモディティ化
  3. クソ仕事の蔓延
  4. 社会のVUCA化
  5. スケールメリットの消失
  6. 寿命の伸長と事業の短命化

 本書は、それら6つのメガトレンドを解説し、目指すべき「ニュータイプ」とはどのような人材かをわかりやすくまとめた一冊です。
 本書は、 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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問題は少なく、解決能力が過剰な時代

 これまで私たちの社会では「問題を解決できる人」が高く評価されてきました。
 過去の社会においては、ビジネスの規模を規定するボトルネックは「問題の解消」にあったからです。

 しかし、このボトルネックの関係は、今日では逆転しつつあります。

 つまり、「問題が希少」で「解決能力が過剰」になっているということです。

 ビジネスが「問題の発見」と「問題の解決」という組み合わせで成り立っているのであれば、今後のビジネスではボトルネックとなる「問題」をいかにして発見し提起するのかがカギになります。そして、この「問題を見出し、他者に提起する人」こそがニュータイプとして高く評価されることになるでしょう。
 一方で、過剰である「問題の解決」に対しては今後、これまでのような評価も報酬も与えられないということになります。つまり、これまで高く評価されてきた「問題の解決者=プロブレムソルバー」はオールドタイプとして急速に価値を失っていくことになる、ということです。そのような変化を示唆する象徴的な現象はすでにそこかしこに見ることができます。

 たとえば2018年の10月、ウォール・ストリート・ジャーナルはアメリカにおけるMBAへの応募数が、4年連続で前年割れしていることを報じました。同紙によれば、ハーバードやスタンフォードなどのエリート校も含めて応募数が減少傾向にあり「Degree loses luster =学位としての輝きは失われた」というのです。一体何が起きているのでしょうか?
 言うまでもなく、経営大学院という学校は、経営における問題を「解決」するための技術や知識を体系的に学ぶ場所です。しかし、1章のメガトレンドですでに指摘したように、正解がコモディティ化していく世界において「正解を出す能力」が高く評価されることはありません。
 なぜなら、仮にある個人や組織が「正解」を出すことができたとしても、その「正解」は他の個人や組織が出すものと変わらないからです。経営というのは本質的に差別化を求めますから、たとえそれが論理的な「正解」であったとしても、経営の文脈ではそれは「良い答え」ではないのです。
 MBAという学位を保有している人が相対的に希少で、市場に多くの不満・不安・不便といった問題が山積していた20世紀の後半であれば、MBAホルダーは労働市場で高く評価され、高額の報酬を得ることができたでしょう。
 そのような状況を見た人々がMBAという学位の経済的価値を認め、ビジネススクールの門を叩くことでMBAホルダーの数は中長期的には増加したわけですが、その結果として、ビジネスにおける問題解決の能力は現在、供給過剰の状態に陥りつつあります。
 財の価値は需要と供給のバランスで決まることになります。問題が希少化する世界で、問題解決の能力が過剰に供給されれば、「問題解決の能力」の価値が減少するのは当たり前のことです。このような時代になりつつある中、いまだに「正解を出す能力」にこだわり続けるオールドタイプは、急速に価値を失っていくことになるでしょう。

『ニュータイプの時代』 第2章 より 山口周:著 ダイヤモンド社:刊

 この「解決能力の過剰」問題に追い打ちをかけるのが、「AI(人工知能)」です。

 AIは、正解を出す速さにおいては、すでに人間の能力を凌駕(りょうが)しています。
 その進化のスピードは、ますます早まることでしょう。

 一方、そんなAIの苦手なことは、自ら「問題を見出す」ことです。
 この点に関しては、まだまだ人間の足元にも及びません。
 私たちが、進むべき方向性も自ずと決まってきますね。

「モチベーション」は、現代社会の最大の資源

 現在の企業で、経営資源として希少化しているもの。
 それは、「モチベーション」です。

 山口さんは、仕事に「意味」を与え、携わる人から大きなモチベーションを引き出すのがニュータイプだと指摘します。

 他者からモチベーションを引き出すには「意味」が重要であり、「意味」の与え方によって働き方には雲泥の差が生じてしまうということになれば、この「意味」を引き出すニュータイプの能力こそが組織の競争力を左右することになります。
 特に、これから先、多くの組織において中核をなすことになるミレニアル世代の人々は「意味」の有無に対してきわめてシビアな評価視点を持っています。
 たとえばコンサルティング会社のデロイトが2015年に世界29カ国のミレニアル世代(1980年から2000年までに生まれた世代)を対象に行った調査によれば、就職先を選ぶ基準として、給与でも製品でもなく、「その企業が事業を行っている目的」を重視すると答えた回答者が6割を超えています。
 また、イギリスのガーディアン紙によるミレニアル世代を対象とした調査では、高い給料をもらうよりも人のためになる仕事をしたい=44%、勤務先が社会に貢献していると働く意欲が増す=36%となっています。この社会貢献志向ともいえるミレニアル世代の傾向はリクルートワークス研究所による調査でも指摘されています。つまり、彼らは職業選択にあたって「意味」を極めて重視している、ということです。
 このような傾向について「最近の若者は草食系で元気がない」という指摘をする年長者もいるようですが、これは自分の枠組みでしか世界を評価できない典型的なオールドタイプのコメントと言えます。そうではない、むしろ「社会をより良い方向に変化させたい」というエネルギーのレベルはミレニアル世代の方が高く、その発露の仕方や方向性が違うということなのです。
 現在の年長者がまだ若者だった1980年以前の時代は「モノ」が希少で「意味」が充足している時代でした。一方で現代という時代は先述した通り「モノ」が過剰で「意味」が希少になっています。
 つまり、いつの時代にあっても、その時代の「若者」というのは、常に「その時代に足りないもの」についてハングリーなだけだということです。モノが過剰に溢れる一方で、意味が枯渇している社会にあって、若者が「モノ」に対してハングリーになれないのは当たり前のことです。
 このような時代にあって、ひたすらに金銭やモノを褒美としてチラつかせながら、意味を与えることもなく他人をコントロールしようとするのは典型的なオールドタイプのマネジメントパラダイムであり、今後は有効に機能しません。
 一方で、ニュータイプは「意味」を明確にします。常に大きな背景として「意味」を示しながら、その前景にクリアすべきタスクと目標を示すのがニュータイプなのです。

『ニュータイプの時代』 第3章 より 山口周:著 ダイヤモンド社:刊

 一般的に、経営資源は「ヒト・カネ・モノ」の3つに分類されます。
 そのうち「カネ」と「モノ」は、いったん量が決まったら、それ以上変わることはありません。

 一方、「ヒト」は、与えられた「意味」つまり「モチベーション」次第で、その能力(価値)が大きく変わってきます。

 モノもカネも、世の中に溢れかえっている現代社会。
 ヒトの資源としての価値を高めることがより重要になります。

 また、それができる経営者、つまり、モチベーションを与える能力が高い経営者が、より高い評価を得るのは、当然の成行きといえますね。

相対的に「直感」が重要な時代

 オールドタイプは、頑(かたく)なに論理的であることを求めます。
 それに対して、ニュータイプは、状況に応じて論理と直感をしなやかに使い分けます。

 ニュータイプが「論理」と「直感」を使い分ける際の判断の立脚点はどこにあるのか。

 それについて、山口さんは以下の2つの着眼点を提示します。
図11 顧客に提供する価値の市場 ニュータイプの時代 第3章
図11.顧客に提供する価値の市場
(『ニュータイプの時代』 第3章 より抜粋)

 1つ目の着眼点は、先述した「役に立つ」と「意味がある」というフレームです(上の図11を参照)。「役に立つ」方向でパフォーマンスを高めたいのであれば、主軸となるのは「論理」です。「役に立つ」ということは効果関数で記述できるということですから、要素を分解した上で数値目標を設定し、目標を達成するための活動計画を実施すればいい、ということになります。
 一方で「意味がある」方向でパフォーマンスを高めたいのであれば、「論理」は役に立たず、センスに代表される「直感」が決め手になります。どのような「意味」や「ストーリー」を紡ぎだせば顧客に刺さるか、という問いに「論理」は答えを出すことができません。
 あらゆる企業も組織も個人も、最初は「役に立たない×意味がない」という地点からスタートし、どこかに自分の居場所をつくろうとします。このとき、始点からどの象限に向かって、どれくらいの傾きで成長させるかを考えるのが、まさに成長戦略だということになるわけですが、このとき「役に立つ」というY軸の方向に成長させるのであれば、相対的に「論理」が重要になり、「意味がある」というX軸の方向に成長させたいのであれば、相対的に「直感」が重要だということになります。
 さて次に「論理」と「直感」の使い分けに関する着眼点として2つ目に指摘したいのが「希少なものと過剰なもの」という対比です。言うまでもなく「希少なもの」の価値は高まり、「過剰なもの」の価値は減ることになります。つまり「論理」と「直感」を比較してみた場合、比較してみた場合、双方が生み出すものが「過剰なもの」なのか「希少なもの」なのかを考えることが必要だということになります。当然のことながら、すでに「過剰なもの」を生み出しても、得られる限界利益は小さなものでしかありません。一方で「希少なもの」を生み出すことができれば、そこから大きな豊かさを享受することができます。
 では一体、現在の世界において「何が過剰」で「何が希少」なのでしょうか。対置して整理すれば図13のようになります(下の図13を参照)。
 このリストを一覧すれば結論は明白です。「過剰なもの」がことごとく「論理と理性」によって生み出されているのに対して、「希少なもの」はことごとく「直感と感性」によって生み出されています。つまり、現在の世界において「希少なもの」を生み出そうとするのであれば、「直感と感性」を駆動させざるを得ない、ということです。
 ここで注意してほしいのが、ここに「過剰なもの」として挙げられている項目が、かつてはことごとく「希少なもの」だったということです。特に昭和の中期から後期にかけて、世の中には数多くの問題が山積しており、その問題を解決するための「正解」や「モノ」や「利便性」は逆に希少でした。だからこそ、これらの「希少なもの」を生み出すための論理やデータを扱える個人や組織には、大きな富がもたらされたわけです。
 しかし今日では、この「希少なもの」と「過剰なもの」の関係は逆転し、かつて希少だったものはことごとく今日、過剰になりつつあります。このような世界にあって、相も変わらず論理だけに主軸をおいて意思決定をはかろうとするオールドタイプの思考様式を続けていれば、すでに過剰になっているものを生み出すことになり、それは必然的に人材と組織のコモディティ化を招くことになります。

『ニュータイプの時代』 第4章 より 山口周:著 ダイヤモンド社:刊

図13 今の社会で 過剰なもの と 希少なもの ニュータイプの時代 第4章
図13.今の社会で「過剰なもの」と「希少なもの」
(『ニュータイプの時代』 第4章 より 抜粋)

 人の価値観や社会情勢が劇的に変わりつつある今の世の中。
 私たち働き手に求められる能力も、大きく変化するのは当然といえます。

「論理」重視から「直感と感性」重視へ。
 私たちも手遅れにならないうちに、頭の中をアップデートする必要がありますね。

武器としての「リベラルアーツ」

 オールドタイプは、サイエンスに依拠して「目に見える問題の解消」だけに関わろうとする傾向があります。
 一方、ニュータイプは、リベラルアーツに軸足を置いて未来を構想する傾向があります。

 なぜ、「リベラルアーツ」なのか。

 山口さんは、リベラルアーツというのは、私たちが「当たり前だ」と感じていることを相対化し、問題を浮き上がらせるためにとても役に立つからだと述べています。

 この問題を考えるにあたって、一つ読者の皆さんに質問をしましょう。それは「なぜ金利はプラスなのか?」という問いです。おそらく多くの人は「お金の借り手は、貸し手が失った機会分の費用を負担しなければならない」とお答えになるでしょう。確かに、現代を生きる私たちにとって「金利はプラスである」ということは常識となっています。
 しかし、これは現代にしか通用しない常識です。たとえば、中世ヨーロッパや古代エジプトではマイナス金利の経済システムが採用されていた時期が長く続きました。マイナス金利の社会では現金を持っていることは損になり、なるべく早期に、できるだけ長く価値を生むことになるモノと交換するのがいい、ということになります。
 では、最も長い期間にわたって価値を生み出し続けるものは何でしょうか? そう、宗教施設と公共インフラです。このような考え方のもとに推進されたのがナイル川の灌漑事業であり、中世ヨーロッパでの大聖堂の建築でした。
 この投資が、前者は肥沃なナイル川一帯の耕作につながってエジプト文明の発展を支え、後者は世界中からの巡礼者を集めて欧州全体の経済活性化や道路インフラの整備につながっていったわけです。
 私たちが当たり前の前提として置いている常識の数々は、実は常識でもなんでもない、「今、ここ」でしか通用しない局所的・局時的な習慣に過ぎないのだ、ということを忘れてはなりません。
 リベラルアーツを、社会人として身につけるべき教養、といった薄っぺらいニュアンスで捉えている人がいますが、これはとてももったいないことです。リベラルアーツのリベラルとは自由という意味であり、アートとは技術のことです。したがってリベラルアーツとは「自由になるための技術」ということになります。
 では、ここでいう「自由」とはなんのことでしょうか? もともとの語源は新約聖書のヨハネ福音書の8章31節にあるイエスの言葉、「真理はあなたを自由にする」から来ています。
「真理」とは読んで字の通り、「真の理(=ことわり)」です。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ことわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、そのとき、その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから自由になれる、と言っているのです。そのとき、その場所だけで支配的な物事を見る枠組み、それはたとえば「金利はプラスである」という思い込みです。
 つまり、目の前の世界において常識として通用して誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり「問う・疑う」ための技術がリベラルアーツの真髄ということになります。
 しかし一方で、すべての「当たり前」について疑っていたら日常生活は成り立ちません。どうして信号は青がススメで赤がトマレなのか、どうしてサヨナラのときには頭ではなく手を振るのか・・・・・いちいちこんなことを考えていれば日常生活は破綻してしまうでしょう。ここに、よく言われる「常識を疑え」という陳腐なメッセージのアサハカさがあります。
 つまり、常識を疑うのはとてもコストがかかる、ということです。一方で、目の前の常識について問い、疑うことをやめてしまえば未来を構想することはできません。
 結論から言えば、このパラドックスを解くカギは一つしかありません。つまり、重要なのは、よく言われるような、のべつまくなしに「常識を疑う」という態度ではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つ、ということです。そしてこの選球眼を与えてくれるのがまさにリベラルアーツということになります。

『ニュータイプの時代』 第7章 より 山口周:著 ダイヤモンド社:刊

 問題を「解決」するのではなく「創り出す」ことが求められる時代。

 私たちが「当たり前だ」と感じている常識の中に潜んでいます。
 常識というとらえどころのない暗闇から本質を照らし出すのが、「リベラルアーツ」という武器です。

 専門的な知識ではないので、直接何かの役に立つことは少ない。
 それがゆえ、いつの時代にも通じる普遍的な価値を持っている。

 リベラルアーツは、知識やノウハウが簡単に手に入る今の時代こそ、その真価が発揮されるということですね。

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 山口さんは、人それぞれの思考・行動様式が、オールドタイプのそれからニュータイプのそれへと変換することで、新しい時代への転換が起きるとおっしゃっています。

 社会のシステムや常識が、どこかのタイミングで一変に入れ替わる。
 そんな分かりやすい変化ではないということですね。

 急激な社会の変化が、少しずつ私たちの意識を変えていき、いつの間にか、まったく新しい時代に切り替わっていた。
 そんなイメージなのでしょう。

 今は、まさに古い時代から新しい時代へと変わる過渡期です。

 気づいてから慌てても、遅すぎます。
 新しい時代の生き残り対策は、早く始めるに越したことはないです。

「オードタイプ」から「ニュータイプ」へ。
 私たちも、本書を片手に意識のアップデートを始めましょう。

ニュータイプの時代

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