本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『限りある時間の使い方』(オリバー・バークマン)

お薦めの本の紹介です。
オリバー・バークマンさんの『限りある時間の使い方』です。

限りある時間の使い方

オリバー・バークマン(Oliver Burkeman)さんは、ニューヨーク在住で、ニューヨーク・タイムズやウォール・ストリート・ジャーナルといったアメリカの有名紙などに記事を寄せている気鋭のライターです。

生産性とは、“罠”だ!

私たちの人生は、思っているよりも短いです。
80歳まで生きるとして、たったの4000週間しかありません。

そうだとすると、時間をうまく使うことが人の最重要課題になるはずで、人生とは時間の使い方そのものだといえます。

バークマンさんは、ところが現代の、いわゆるタイムマネジメントというやつは、あまりにも偏屈すぎて役に立たないと指摘します。

たとえ、タイムマネジメントやライフハックによって、より効率的に時間を使えるようになっても、時間に余裕ができることはありません。
より多くの「やるべきこと」ができて、さらに忙しくなるという“罠”にはまっていきます。

 こうして問題の核心に近づいていくと、さらに深いところに、なんとも言いがたい感覚が居座っていることに気づく。
どんなに大量の仕事をこなしても、どんなに成功しても、自分は本当にやるべきことをやっていないのではないか、という感覚だ。
本当はもっと重要で充実した時間の過ごし方があるんじゃないか。今こうやって黙々とこなしている仕事は、本来やるべきこととは違うんじゃないか。
この感覚はさまざまな形でやってくる。何か大きな目的のために自分を捧げたい。危機と苦しみに満ちたこの時代に、自分の力を労働や消費とは違うことに使いたい。こんな無意味な仕事を辞めて、自分の好きな仕事をしたい。限られた人生なのだから、もっと子どもと一緒に過ごしたい。自然のなかで過ごしたい。とにかく通勤から解放されたい。
環境保護活動家のチャールズ・アイゼンスタインは、物質的豊かさのなかで育った子ども時代に、これに似た感覚を初めて覚えたという。

人生はもっと楽しく、もっとリアルで、もっと意味があるはずだ。世界はもっと美しいはずだ。子どもながらに、そう思った。月曜日が嫌いで、週末や祝日を待ちわびるなんてまちがっている。おしっこをさせてもらうために手をあげなければならないなんてまちっがっている。よく晴れた日に、毎日毎日、室内に閉じ込められるなんて何かがおかしい。

生産性を高めようとするたびに、違和感は増していく。本当に大事なことが、なぜかどんどん遠ざかってしまう。
僕たちの日常は、どうでもいいタスクをひたすら片づける日々だ。いつか邪魔な仕事をすべて終えたら、そのときこそ大事なことができるはずだ。そう思って頑張るけれど、本当にそこに近づけるのだろうかという不安もある。自分の能力が足りないんじゃないか。時代のスピードに取り残されはしないだろうか。
「私達の時代を支配するのは、喜びを欠いた切迫感である」と、エッセイストのマリリン・ロビンソンは言う。彼女によると、ほとんどの人は「自分とまったく関係のない不可解な目的の手段となるために、自分や子どもたちをせっせと準備している」。
人に言われたことを必死で頑張れば、誰かの役には立つかもしれない。毎日毎日残業して、その残業代でたくさん買い物をすれば、経済のよりよい歯車にはなれるかもしれない。
だけど、そんなことで心の安らぎは得られない。限られた時間を、大切な人や物のために使うこともできやしない。

本書は、時間をできるだけ有効に使うための本だ。
ただし、いわゆるタイムマネジメントの本ではない。
これまでのタイムマネジメント術は失敗だらけだった。そろそろ見切りをつけたほうがいい。
時間がポッカリと宙に浮いたような今こそ、時間との関係を再考する絶好の機会かもしれない。先人たちが直面してきた問題を当てはめてみると、ある真実が明らかになる。
生産性とは、罠なのだ。

効率を上げれば上げるほど、ますます忙しくなる。タスクをすばやく片づければ片づけるほど、ますます多くのタスクが積み上がる。
人類の歴史上、いわゆる「ワークライフバランス」を実現した人なんか誰もいない。「うまくいく人が朝7時までにやっている6つのこと」を真似たって無駄だ。
メールの洪水が収まり、やることリストの増殖が止まり、仕事でも家庭でもみんなの期待に応え、締切に追われたり怒られたりせず、完璧に効率化された自分が、ついに人生で本当にやるべきことをやりはじめるーー。
そろそろ認めよう。そんな日は、いつまで待っても、やってこない。
でも悲しまないでほしい。それは実際、とてもいい知らせなのだから。

『限りある時間の使い方』 イントロダクション より オリバー・バークマン:著 高橋璃子:訳 かんき出版:刊

本書は、生産性の“罠”から抜け出し、本当の意味で時間をできるだけ有効に使うためのノウハウをわかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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生産性の“罠”にはまってしまう理由とは?

なぜ、私たちは生産性の“罠”にはまってしまうのか。

バークマンさんは、みんな何らかの現実を直視するのが怖くて、それを避けるために生産性やタイムマネジメントにしがみついているのではないかと指摘します。

 自分の生き方は正しいのだろうか、そろそろ諦めるべきことがあるんじゃないのか。
そんなことを考えると、心がとても不安になる。失敗を認めるのは怖いことだ。恋愛で傷つきたくない。仕事で挫折したくない。親の期待に応えられない自分がいやだ。いつも同じパターンにはまり込む自分がいやだ。病気が怖い。死ぬのが怖い。
人によって不安の対象は違うけれど、核心は同じだ。この人生しかないということーーこの欠点だらけで、傷つきやすくて、ものすごく短くて、思い通りにならない人生が、ただ一度きりのチャンスだということーー、その事実を、僕たちは認めたくないのだ。
心理療法家のブルース・ティフトの言葉を借りるなら「閉じ込められ、無力で、現実に縛られているという感覚を意識しなくてすむように」、僕たちはありのままの現実に抵抗する。不都合な現実から目を背けるためのそうした戦略こそ、精神分析家がいうところの「神経症」というやつだ。そこにワーカホリックや共依存、人づきあいの回避など、さまざまな症状が含まれる。
僕たちが時間のことで悩むのも、そんな症状のひとつだといえるだろう。
生産性を高めようとする努力が事態をかえって悪化させるのは、それが単なる現実逃避にすぎないからだ。

自分の時間は、あまりにも短い。その事実を直視するのは怖いことだ。
タフな選択は避けられない。やりたいことを全部やる時間はない。さらに、限られた時間の使い方さえも自分ではコントロールできない。すべてを完璧にこなせる人なんていない。体力や才能、その他いろんなリソースが足りない。
そんな現実を直視したくないから、僕たちは全力で現実を回避する。まるで何の制約もないかのように、非現実的な幻想を追いつづける。完璧なワークライフバランス、やりたいことがすべて実現できるタイムマネジメント。
あるいは逆に、先延ばしという戦略もある。難しいことに挑戦して失敗するのが怖いから、延々と先延ばしして「本気を出せばできる」と思いつづける。
忙しさも先延ばしも、結局は怖いことから目をそらすための方便だ。ニーチェは次のように言う。
「我々は生活に必要な以上に熱心に、夢中で日々の仕事に取り組んでいる。立ち止まって考える暇ができては困るからだ。世の中がこれほど忙しいのは、誰もが自分自身から逃避しているためである」
僕たちはスケジュールや計画に強迫的にしがみつき、未来をコントロールできないという事実を忘れようとする。
そして同時に、個人主義的に時間を支配しようとしている。
「時間は自分自身のものだから、好きなときに好きなことをやるべきだ」と現代人は考える。でも実をいうと、何かをやり遂げようと思うなら、他人との協力は不可欠だ。結婚や子育ても、ビジネスや政治も、やるべき価値のあることは自分ひとりでは実現できない。
その事実に直面しなくてすむように、僕たちは「自分の時間」という考え方にしがみつく。
他人に身を委ねて、心が傷つくのが怖いからだ。

しかし、現実を否定したところで、何もうまくいかない。
「いつかは完璧な世界がやってくる」という幻想にしがみついていれば、目先の安心感は得られるかもしれない。ところがいつまでたっても、自分が充分にやっているという感覚ーーそして自分は充分であるという感覚ーーは得られない。「充分」というのが、人間には不可能なレベルに設定されているからだ。
闘いは終わることがなく、人生はますます不安に、空虚になっていく。
「全部できるはず」という信念が強ければ強いほど、やるべきことは積み上がり、「本当にやるべきか?」と問う余裕がなくなってくる。その結果、どうでもいいタスクばかりが増えていく。
急げば急ぐほどと、時間のかかる仕事(あるいは幼児の世話)にイライラする。計画を完璧にこなそうとすればするほど、小さな不確定要素への恐怖が高まる。時間を自分の自由に使おうとすればするほど、人生は孤独になっていく。
これは「制約のパラドックス」と呼ばれるものだ。
時間をコントロールしようと思うと、時間のなさにいっそうストレスを感じる。人間であることの制約から逃れようと思うと、人生はいっそう空虚で、不満だらけになる。このままではどこにもたどり着けない。
それならば、制約に逆らうかわりに、制約を味方につけたらどうだろう?
自分には、限界がある。その事実を直視して受け入れれば、人生はもっと生産的で、楽しいものになるはずだ。もちろん、不安が完全になくなるわけではない。限界を受け入れる能力にも限界はある。だとしても、これだけは自信を持っていえる。
現実を直視することは、ほかの何よりも効果的な時間管理術だ。

限界を受け入れるというのは、つまり「何もかもはできない」と認めることだ。
自分がやりたいことも、他人に頼まれたことも、すべてをやっている時間はない。絶対にない。
だから、それを認めて生きる。そうすれば、少なくとも無駄に自分を責めなくてすむ。
タフな選択はいつだってやってくる。大事なのは、意識的に選択することだ。何に集中し、何をやらないか。どうせ全部はできないのだから、少なくとも自分で決めたほうがいい。
もうひとつ大事なのが、「選択肢を確保する」という誘惑に負けないことだ。選択肢を増やすというのは、要するに困難な決断から逃げることにほかならない。「そのせいでチャンスを逃してしまったら?」と、ためらう気持ちもあるだろう。でも考えてみれば、何らかのチャンスを逃すことはーーいや、ほとんどすべてのチャンスを逃すことはーー当たり前の現実だ。そうでなければ、そもそも決断に価値はない。
何かに時間を使うと決めたとき、僕たちはその他のあらゆる可能性を犠牲にしている。その時間にできたはずのことは山ほどあるけれど、それでも僕たちは、断固として、やるべきことを選ぶのだ。
念のためにいっておくけれど、僕がそういう断固した態度を完璧に身につけたというつもりはない。まだまだ道半ばだ。だからこの本は、自分のために書いたといってもいい。
作家リチャード・バックの、次の言葉を僕は信じたい。
「自分が学ぶべきことほど、うまく人に教えられるものだ」

自分の限界を意識すると、おもしろいことに気づく。
たとえば自由というのは、必ずしも自分が完全に裁量を持っていることを意味しない。時にはコミュニティのリズムに身を任せるほうが、自由になれることもある。いつ何をするかを自分で決められない、そんな他人まかせの状況に身をおいたほうが、大きな自由を感じられるのだ。
また、無理に急ごうとしないで「時間はかかるだけかかる」と思ったほうが、豊かな成果が生まれることもある。ドイツ語に「Eigenzeit(固有の時間)」という言葉があるように、何ごともちょうどいいタイミングというものがあるのだ。
さらに一歩進んで、時間を「使う」という考え方自体を疑ってみることもできる。
そもそも時間は、自分の持ち物ではない。時間を使うかわりに、時間に使われてみたらどうだろう。計画通りにスケジュールをこなす人生ではなく、歴史のなかの現在に身を置き、その時々の必要に応えて生きてみるのはどうだろうか。

誤解してほしくないのだけれど、時間の悩みがすべて気のせいだとは思わないし、考え方を変えれば何もかもうまくいくというつもりはまったくない。
人家のプレッシャーはたいてい外部からやってくるし、それは自分ではどうしようもないことだ。厳しい経済的状況、社会的セーフティネットの欠如、核家族化による孤立。女性が家事と育児の大半を担いながら仕事も完璧にこなさなければならないという差別的な社会規範。
どんなに考え方を工夫しても、そういう構造を変えることはできない。
ジャーナリストのアン・ヘレン・ピーターソンも、ミレニアル世代の燃え尽き症候群について書いた記事のなかで、若い人を押しつぶしているのは社会の大きすぎる期待であると指摘する。「休暇や大人の塗り絵、ストレス解消クッキング、ポモドーロ・テクニック、ヘルシーすぎるスイーツ」などはけっして、解決できない問題だ。
あなたは実際にみじめかもしれないし、逆に恵まれているかもしれない。
僕がいいたいのは、まず現実をありのままに見つめようということだ。
いつか不可能が可能になると信じて無理を続けているかぎり、あなたは暗黙のうちに、世の中の無理な要求に加担していることになる。一方、不可能は不可能なのだと理解すれば、それに抵抗する力が生まれる。
現実を理解したときに初めて、世の中の期待に振りまわされず、今できるなかで最善の生き方を選ぶことができるのだ。

時間が限られているという事実を否定することなく、受け入れる。そのほうが、僕たちの人生はずっと充実したものになる。
古代ギリシャや古代ローマの哲学者たちも、きっと賛成してくれると思う。人間のもっとも崇高な目標は、神のようになることではなく、真摯に人間であろうとすることだ、と古代の哲学者たちは考えていた。いずれにせよ、僕たちは限りある人間にしかなれない。それをまっすぐに受け止めたとき、僕たちは本当の意味で、強くなれる。
1950年代、チャールズ・ガーフィールド・ロット・ドゥ・カンという偏屈なイギリス人作家が、『生きることを学べ(Teach Yourself To Live)』という本を書いた。一言でいうと、自分の限界を受け入れろ、という内容だ。「なんて暗い考え方なんだ」と批判されると、彼はこう言い返した。
「暗いだと? まったくもってそんなことない。冷たいシャワーを浴びるのと同じくらい、目の覚める生き方だ。あなた方はもう、多くの人のように、誤った幻想に目を曇らされて困惑する必要がないのだ」
時間の使い方という難問に立ち向かう僕たちにとって、これはとても勇気づけられる言葉だ。無限の生産性やスピードを求める社会を、自分ひとりで覆すことは誰にもできない。それでも、馬鹿げた理想を今すぐ放り捨てることならできる。
現実を直視するのだ。
さあ、シャワーを全開にして、きりっと冷えた水しぶきを全身に浴びよう。

『限りある時間の使い方』 第1章 より オリバー・バークマン:著 高橋璃子:訳 かんき出版:刊

自分が本当にやりたいことをするのが、本当の意味で価値のある時間の使い方です。
そのためには「自分は何がしたいのか」を知る、つまり現実を直視することが必要になります。

本当にやりたいことがわからないのに生産性だけ上げても「やるべきこと」が増えていくだけです。

時間は限られていて、能力には限界がある。
それを自覚して、本当にしたいことに全精力を集中すること。

それが結局は、時間の価値を最大限に高めることになります。

「注意力」を自分に取り戻す!

時間管理において、見逃されがちな大問題。
それは、「気が散る」という問題です。

 限られた時間をどんなに有効に使おうと思っても、次から次へと気が散る情報が入ってきてはうまくいかない。スイカ動画を見ていた300万人だって、朝起きたときからスイカの破裂を見るために大事な時間を使おうとは思っていなかったはずだ。見ている最中でさえ、それを積極的に見たいと考えていたわけではないと思う。フェイスブックのコメントには次のようなものがあった。
「こんなの全然見たくないのに、見はじめたら止まらない助けて」
「スイカに輪ゴムをかけるのを40分も見てしまった。私の人生って一体・・・?」
スイカ動画の話は、デジタルな環境がいかに気を散らすかを教えてくれる。インターネットは集中に向かないツールだ。
ただし、この問題は今に始まったことではない。古代ギリシャの哲学者たちも、すでに集中力のなさを嘆いていた。彼らはこの問題を、外部から邪魔が入ってくるせいというよりも、その人の性格の問題として捉えていた。やりたいことに自分の時間を使えないのは、性格的な欠陥だと考えていたのだ。
なぜなら、何に注意を払うかによって、その人の現実が決まるからだ。

メディアでSNSの危険を語るコメンテーターでさえ、問題の本質を理解しているかどうかは疑わしい。たとえば、注意力は「限りある資源」だとよくいわれる。心理学者のティモシー・ウィルソンによると、僕たちが意識的に注意を向けることができるのは、脳内に氾濫している情報のうちわずか0.0004%程度だそうだ。でも、注意力を「資源」と表現してしまうと、その重みが充分に伝わらないのではないかと思う。
僕たちのまわりには食べ物、お金、電気などの資源があるけれど、そのほとんどは生活を便利にするためのものだ。それがなくても、少なくとも一時的には生きていける。
それに対して注意力は、生きていることそのものだ。
あなたの人生とはすなわち、あなたが注意を向けたあらゆる物事の総体である。人生の終わりに振り返ったとき、そこにあるのは注意を向けたことたちであって、それ以外の何ものでもない。くだらないものに注意を向けとき、僕たちはまさに人生の一部を削ってそのくだらないものを見ているわけだ。
そう考えると、問題は集中が途切れるというレベルにとどまらない。メールや着信音やSNSの炎上が気になって仕事が手につかないのも問題だけれど、その仕事自体だって、ある意味では注意力を奪っている犯人かもしれない。人生の一部である注意力を、本当はもっと大事なことに使えたかもしれないからだ。

セネカが『人生の短さについて』のなかで、怠惰に生きる人たちを手厳しく批判したのはそのためだ。たいして興味もないのに政治家をめざし、楽しくもないのに豪華な宴会を開き、ただ「太陽の下で体を焼いている」ローマ人たち。セネカにいわせれば、彼らは手軽な気晴らしに流されて、自分自身を浪費している。人生を台無しにしているのである。
セネカは一見、楽しみを嫌うケチな人間に見えるかもしれない(実際そうだった可能性もある)。でも彼が問題にしていたのは、楽しむことそのものではない。問題は、それが意図的な選択ではないという事実だ。
ビーチで日焼けするのも、スイカ動画を眺めるのも、それが本当にやりたいことであるなら問題はない。でも実際のところ、彼らはなんとなく楽なほうに流されているだけだ。彼らの注意は、自分にとって価値のないものたちに専有されている。
この問題への対処法として、よくいわれるのは「集中力をアップしよう」ということだ。瞑想したり、気が散るウェブサイトへのアクセスを遮断したり、高価なノイズキャンセリングヘッドフォンを買ったりすれば、気が散る可能性はいくらか減るかもしれない。
しかしそういうアドバイスは、肝心なことを見逃している。
時間と同じく、注意力にも限界があるということだ。
自分の注意を完全にコントロールすることは不可能だし、そんなことが仮に可能だとしたら、困った結果を招くことになる。外部の邪魔がまったく入らないほど集中していたら、たとえば道を歩いていて自動車がやってきても気づかない。部屋で赤ちゃんが泣いていても、鳴き声がまったく耳に入らない。あるいは、ふいに美しい夕日に心を奪われたり、カフェで偶然出会った人から目を離せなくなることもなくなってしまう。
ヒトが外部からの刺激によって注意を奪われるように進化したのは、そのほうが生存に有利だからだ。もしも自分で意識的に決断しないと音が聞こえないしくみだったなら、旧石器時代の狩猟採集民は、忍び寄る外敵に全滅させられていただろう。茂みのガサガサという音に注意を奪われる人たちのほうが、はるかに生き延びる確率が高かったはずだ。
意識しなくても自然に入ってくる情報がなければ、人間は生きていけない。脳科学者はこれを「ボトムアップ型の注意」または「不随意的注意」と呼ぶ。一方、僕たちはある程度まで、意識的に注意をコントロールできる。「トップダウン型」の注意、つまり自発的な注意力だ。
トップダウン型の注意をうまく使えるかどうかで、人生の質は左右される。
その典型的かつ極端な例が、『夜と霧』を書いたオーストリアの心理療法家ヴィクトール・フランクルだ。ユダヤ人である彼は悪名高いアウシュヴィッツに収容されたが、絶望することなく過酷な環境を生き延びた。なぜそんなことが可能だったかというと、強制収容所の看守が侵すことのできない唯一の領域、つまり自分の内面に注意を向けていたからだ。
看守たちは彼を虫けらのように扱った。人の尊厳をとことん損なおうとした。それでも、自分の内面を見つめているかぎり、周囲の圧力に惑わされず、人間らしく行動することができたのだ。
この感動的な事実はしかし、裏を返せば、恐ろしい真実を明らかにする。どんなに恵まれた環境にいても、注意の使い方によっては、何の意味もないみじめな人生を送ってしまうということだ。
意味のある体験をするためには、その体験に注意を向けなくてはならない。注意を向けていないことは、起こっていないのと同じだからだ。
ミシュラン星付きレストランでの最高の食事も、心がどこか別の場所にあれば、インスタントラーメンと変わらない。誰かと一緒にいても、自分のことしか考えていなかったら、一人でいるのと同じだ。
詩人のメアリー・オリバーは「注意を向けることが、献身の始まりである」と言った。注意散漫な状態では、相手を気遣うこともできなからだ。パートナーや子どもを愛したり、キャリアや目標に身を捧げたり、公園を散歩する喜びを味わったりするためには、そもそも献身する対象に注意を留める力が欠かせない。

そのように考えれば、最近話題の「アテンション・エコノミー」がなぜ深刻な問題なのかも明らかになる。
アテンション・エコノミーとは、人々のアテンション(注意・関心)に値段がつけられ、SNSなどのコンテンツ提供者がそれを奪い合っている状態のことだ。ネット上にあふれるコンテンツは、興味のないことに無理やり注意をひきつけ、僕たちの注意をまちがった方向に誘導する。
それは人々の関心を操作し、ひいては限りある人生の使い方までコントロールしようとする巨大な機械だ。その誘惑はあまりに大きく、人の限りある注意力でそれを完全に跳ねのけることは難しい。
知っている人も多いと思うけれど、僕たちが利用している「無料」のソーシャルメディアは、実は無料ではない。そこではあなたは顧客ではなく、商品だからだ。
テック企業はあの手この手でユーザーの注意を手に入れ、それを広告業者に売って儲けを出している。さらに、みんな薄々気づいていると思うけれど、スマートフォンは僕たちの操作をすべて追跡している。どこでどうスワイプし、クリックしたか。どこにじっと目を留め、どこをさっさとスクロールしたか。そんなすべてが記録され、収集される。企業はそのデータを使って、僕たちをもっと夢中にさせるようなコンテンツを正確に表示する。
ユーザーの注意を引くのは多くの場合、怒りや恐怖をかき立てるコンテンツだ。つまり、ソーシャルメディア上の論争やフェイクニュースや炎上は、プラットフォーム側から見れば欠点ではなく、ビジネスモデルに不可欠な要素だといえる。

ユーザーの注意を引くために、テック企業は説得的デザイン(またはパースエーシブデザイン)を活用する。説得的デザインとは、カジノのスロットマシンの技法を転用したもので、依存症になるくらいユーザーをハマらせるための心理学的テクニックのことだ。
たとえばSNSなどの「スワイプで更新」するデザインは、「やってみるまで新しいコンテンツが現れるかどうかわからない」という不確実性を利用して、人をハマらせる。次は何かおもしろいコンテンツが出てくるかもしれないと思うと、スロットマシンのように何度も何度もやってみたくなるわけだ。
こうしたアテンション・エコノミーが高度に進化すると、「ユーザーが商品である」という決り文句さえも通用しない新たな状況がやってくる。
企業はふつう、自社の商品にいくらかの敬意を払うものだ。でも現在の状況を見ると、一部の企業はユーザーを商品以下のどうでもいいものとして使い捨てている。フェイスブックに早くから投資していたロジャー・マクナミーに言わせれば、僕たちはただの燃料であり、シリコンバレーの炎に投げ込まれた丸太だ。僕たちの注意は個性を剥ぎ取られてデータの貯蔵庫に投げ込まれ、そこで企業に使いつくされる。
問題は他にもある。本当に深刻なのは、アテンション・エコノミーが僕たちの注意力を叩き壊し、限りある時間を有意義に使おうという努力さえも徹底的に損なってしまうことだ。
フェイスブックでうっかり1時間を無駄にしたとき、被害はその1時間だけにとどまらない。ハマることを何よりも優先し、その他の価値を無視してデザインされたアテンション・エコノミーは、僕たちの頭のなかの世界像をどんどん書き換えていく。
何が重要か、どんな危険に直面しているか、政敵がどれほど腐敗しているか。そんなあらゆる認識が、ソーシャルメディアによって偏った方向に歪められる。それはインターネットを見ていない時間の過ごし方にも大きく影響する。
たとえば「自分の住む街は暴力犯罪だらけだ」とSNSで信じ込まされたら、街を歩くのが怖くなって家に引きこもり、警察権力の強化を叫ぶ扇動的な政治家に投票してしまうかもしれない。思想的に対立する人たちのひどい面ばかりをインターネットで見ていたら、政治的立場が違うという理由だけで、大事な友人や家族と疎遠になってしまうかもしれない。
スマホなどのデバイスは単に、気を散らして重要なことを見えにくくするだけではない。そもそも「何が重要か」の定義さえ、簡単に書き換えられる。哲学者ハリー・フランクファートの言葉を借りるなら、それは「自分の欲しいものを欲しがる能力」を壊してしまうのだ。

『限りある時間の使い方』 第5章 より オリバー・バークマン:著 高橋璃子:訳 かんき出版:刊

インターネットやSNSの普及で、さまざまな情報に誰でも簡単にアクセスできます。
一方で、気を散らせるものが、私たちの周りに溢れていることでもあります。

雑音に惑わされず、大事なことを聞き取るには「聞きたいこと」に強い注意を向けることが大切。
「トップダウン型」の注意力は、これからますます重要になってきます。

「楽しみにしていたこと」が楽しくない理由

タイムマネジメントして時間をコントロールしようとすると、弊害がいくつか生じます。
その一つが「時間をうまく使おう」という強迫観念です。

バークマンさんは、時間を使おうとすればするほど、今日や明日という日は、理想的な未来にたどり着くための単なる通過点になってしまうと指摘します。

 これは時間の「道具化」とも呼べる問題だ。
「時間を使う」と考えるとき、時間はやかんや洗濯機と同じように、単なる道具になる。
つまり、何か別のことをするための手段になるのだ。誰もやかんを使うのが好きだから湯をわかすわけではないし、洗濯機を操作するのが好きだから靴下を洗うわけでもない。やかんも洗濯機も、望む結果を手に入れるための手段にすぎない。
多くの人は、時間をそのような手段として捉えている。自分がどこに向かっているのかを考えるあまり、自分がどこにいるのかを忘れてしまうのだ。人生の本当の価値は、どこか遠い未来に置かれる。そして、そこにたどり着くことは、おそらく一生できない。
心理学者のスティーブ・テイラーが、著書『正気に戻る(Back to Sanity)』のなかで興味深い指摘をしている。ロンドンの大英博物館を訪れた観光客たちが、古代エジプトの遺物ロゼッタ・ストーンを前にして、スマホの画面ばかり見ているのだ。
せっかく目の前に貴重な展示品があるというのに、みんな写真や動画を撮ることに夢中で、ろくに実物を見ようともしない。後で動画で振り返るために、現在の体験を犠牲にしている(それにしても、実際にそんな動画を見返す人がどれだけいるだろう?)。
まあこうやって若い人たちのスマホの使い方に文句をつけたがるのは、中年男性の悪い癖かもしれない。でも、僕はみんな、テイラーが指摘するような過ちをあまりにも頻繁に犯しているのではないだろうか。つまり、自分が今やっていることーー今まさに生きている人生ーーを、何かの準備に使わなければ気がすまないということだ。
そういう未来志向の態度は、「いつか何かをしたら」という考え方につながりやすい。
「いつか仕事が落ち着いたら」「いつか素敵な人に出会ったら」「いつか心理的な問題が解決したら」、そのとき初めてリラックスして、本当の人生を生きられるというわけだ。
「いつか何かをしたら」というマインドの人は、まだ大事なことが達成されていないせいで現在の自分が満たされないのだと考える。問題が解決しさえすれば、人生は思い通りに動きだし、時間に追われることなくゆっくり生きられると思っている。
でもそんな考え方をしていたら、いつまでたっても満たされることなんてない。なぜならそれは、現在を永遠に先延ばしする考え方だからだ。たとえ仕事が落ち着いても、たとえ素敵な人に出会っても、そのときはまた充実感を先延ばしにするための別の理由がいくらでも見つかることだろう。
状況が苦しいのを否定するつもりはない。今がつらいとき、未来に期待するのは自然なことだ。公衆トイレの清掃員が「早く仕事を終えて一杯やりたい」「いつかもっといい仕事に就きたい」と考えていても誰もとがめない。けれど、夢を叶えて建築家になった人が、報酬もたっぷりもらっているのに、日々の仕事に楽しみを見いだせないのは不自然ではないだろうか。
なぜ毎日毎日、プロジェクト完成のために、出世するために、あるいは早くリタイアするために時間を犠牲にしなくてはならないのだろう。
そんな生き方は、ちょっとおかしくないだろうか。ニューエイジ思想家のアラン・ワッツはその不条理さを次のように批判する。

教育について考えみればいい。まるで詐欺だ。まだ幼い子どもの頃から保育園に入れられる。保育園では、幼稚園に行くための準備をしろと言われる。幼稚園に入ったら1年生の準備、1年生になったら2年生の準備。そうやって高校まで行ったら、今度は大学に行く準備だ。そして大学では、ビジネスの世界に出る準備をしろと言われる。・・・・・こんな人生、顔の前にぶら下がったニンジンを追いかけるロバみたいなものだ。誰もここにいない。誰もそこにたどり着けない。誰も人生を生きていないんだ。
(中略)
限りある時間を未来のための道具にしてしまうのは、僕たち自身のせいばかりではない。何もかも単なる道具とみなす経済システムのなかで生きていれば、そうなるのも当然だ。
資本主義とは、あらゆるものを道具化する巨大な機械であるといっていい。地球の資源、時間、あなたの能力。すべては将来的な利益を生むための手段だ。そう考えれば、資本主義社会の大金持ちがなぜ不幸であるのかも理解できる。
彼らは自分の時間を、利益を生むための道具として使うことに長けている。それが資本主義社会での成功の定義だ。
ところが時間を有効活用することに躍起になるあまり、彼らは現在の生活を、将来の幸福に向かうための移動手段としか考えられない。現在を楽しむことができないのだ。
経済的に貧しい国の人たちのほうがどこか幸せそうに見えるのも、きっとそのせいだ。将来の利益のために人生を道具化しない人たちは、現在の喜びを充分に味わうことができる。実際、メキシコはアメリカよりも貧しいけれど、幸福度の指標ではアメリカを上回ることが多い。
こんな小話を聞いたことがあるかもしれない。メキシコの漁師が1日に2〜3時間しか働かず、太陽の下でワインを飲んだり、友達と楽器を演奏したりして過ごしている。それを見て愕然としたアメリカ人のビジネスマンは、漁師に勝手なアドバイスをする。
「もっとたくさん働きなさい、そうすれば利益で大きな漁船をたくさん買って、他人を雇って漁をさせ、何百万ドルも稼いで、さっさと引退することができる」
それを聞いた漁師は「引退して何をするっていうんだ?」と尋ねる。ビジネスマンはそれに答えて言う。
「太陽の下でワインを飲んだり、友達と楽器を演奏したりできるじゃないか」

時間を有効活用せよという資本主義の圧力は、人生の意味を徐々に食いつぶしていく。その顕著な例が、企業弁護士のケースだ。
カトリック法学者のキャスリーン・カヴェニーによると、高給取りの企業弁護士が往々にして不幸である理由は、ビラブルアワー(請求可能な時間)という慣習にある。企業弁護士の報酬は実際に仕事をした時間で決まるので、ビラブルアワー、つまり金になる時間を増やさなくてはならない。自分の時間を、言い換えれば自分自身を、1時間単位でできるだけ多く売るということだ。売れない1時間は、すなわち無駄な1時間となる。だから、弁護士が家族との夕食や子どもの発表会に現れない場合、それは文字通り「忙しすぎる」からとはかぎらない。金にならない活動に自分の時間を使う意味がわからなくなっているのかもしれない。
「ビラブルアワーの価値観に染まった弁護士は、商品としてしか時間の意味を理解できなくなり、それ以外の活動に参加することに価値を感じられなくなります」とカヴェニーは言う。報酬を請求できないことに時間を費やすのは、弁護士にとっては、お金をドブに捨てるようなものなのだ。いやひょっとしたら、そう感じるのは弁護士だけではないかもしれない。僕たちも実は、自分で思っている以上に、そういう価値観に染まっていないだろうか。
ただし、こういう現代人の生きづらさを、すべて資本主義のせいにするわけにはいかない。本当のことをいうと、僕たち自身も、すすんで資本主義的な道具化に加担しているのだ。
「自分自身を将来のための手段として使う」という自虐的な行動を、僕たちはあえて選んでいる。そうすれば、自分の人生をコントロールしているという全能感が手に入るからだ。
人生の本当の意味は未来のどこかにあると信じていればーーいつの日かすべての努力が報われて、何も思い悩むことのない幸福な黄金時代が訪れると信じていればーー、人生のゴールがどこにもないという気まずい現実に直面しなくてすむ。将来の価値を最大化することに心血を注いでいるかぎりは、人生には「今」しか存在しないという真実から目をそらしていられる。
人生の「本当の意味」が未来にあると信じることで、今この時を生きることから逃げているわけだ。

経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、これらすべての根底にある真実を見抜いていた。
ケインズによると、人が未来の目的のために邁進するのは(現代風にいうなら「生産性向上」に躍起になるのは)、究極的には「死にたくない」という願望のためだ。
「目的思考の人間は、つねに自分の行動の利害を未来へと先送りすることによって、その行動の不死性という怪しげな幻想にしがみついている。彼は猫を愛するのではなく、その猫が産む子猫を愛する。いや実際には、その子猫よりも子猫の子猫を愛する、というふうに延々と先送りする。彼にとって、ジャムとは明日のジャムであり、けっして今日のジャムではない。ジャムをつねに未来へと押しやることで、彼はジャムをつくるという行動に不死性を与えようとするのである」
そうやって先送りしていれば、自分がやっていることの意味を今ここで「精算」する必要はなくなる。まだ何も確定していないのだから、未来に無限の期待を抱くことができる。
けれども、その代償は大きい。彼はけっして目の前にいる猫を愛することはできないし、甘いジャムを味わうこともできない。
時間を有効活用するあまりに、彼は人生を生きることができなくなるのだ。

『限りある時間の使い方』 第8章 より オリバー・バークマン:著 高橋璃子:訳 かんき出版:刊

将来の目標のために、今は頑張る。
そんな誰でも持っていそうな考え方の中に、大きな“落とし穴”があります。

幸せは、心の状態ですから「今、ここ」にしかありません。

存在しない「未来の幸せ」のために、貴重な「今」この瞬間を犠牲にしていないか。
私たちも、しっかり振り返ってみる必要がありますね。

「忍耐」を身につける3つのルール

私たち現代人は、知らないうちに「忙しさ依存」に陥っています。

空いた時間ができたら、すぐに予定を入れてしまう。
何もすることがなくなると不安になり、スマホをいじる。

そんな「忙しさ依存症」の私たちが、そこから抜け出すために必要なのが「忍耐」という力です。

バークマンさんは、忍耐のメリットを誰もが急いでいる社会では、急がずに時間をかけることのできる人が得をし、大事な仕事を成しとげることができるし、結果を未来に先送りすることなく、行動そのものに満足を得ることができると述べています。

 日々の生活で忍耐力を発揮するには、いくつかのコツがある。ここではとくに役立つ3つのルールを紹介したい。

 1「問題がある」状態を楽しむ

僕たちは何か問題があると、すぐに解決済みのチェックを入れたがる。急いで問題を解決していけば、いつか「何の問題もない状態」に到達できるのではないかという幻想を抱いているからだ。
その結果、目の前の具体的な問題だけでなく、「問題がある」こと自体が問題であると感じられ、二重に苦しまなくてはならない。でも、何ひとつ問題がない状態なんて、もちろん不可能だ。なぜなら、問題のない人生にはやるべきことがなく、意味がないからだ。
そもそも「問題」とは何か? 一般化して定義するなら、それは自分が取り組むべき何かだ。そして取り組むべきことが何もなくなったとしたら、人生はまったく味気ないものになるだろう。
「すべての問題を解決済みにする」という達成不可能な目標を諦めよう。そうすれば、人生とは一つひとつの問題に取り組み、それぞれに必要な時間をかけるプロセスであるという事実に気づくはずだ。

 2小さな行動を着実に繰り返す

心理学者ロバート・ボイスは、学者たちの執筆習慣を長年研究してきた。その結果、もっとも生産的で成功している人たちは、1日のうち執筆に割く時間が「少ない」という意外な事実が明らかになった。
ほんの少しの量を、毎日続けていたのだ。
彼らは成果を焦らない。たとえ1日の成果が少なくても、毎日コツコツ取り組んでいけば、長期的には大きな成果が出せると知っているからだ。1日の執筆時間は短ければ10分程度、長くても4時間を超えることはなく、週末はかならず休んでいた。
ボイスはこのやり方を博士課程の学生たちに教えようとしたが、みんなパニックに陥って最後まで話しを聞こうともしなかった。締切は次々と迫ってくるのに、そんな悠長なことを言っていられない。とにかく早く論文を仕上げなくては、と。
その反応こそ、ボイスの主張を証明するものだった。学生たちは早く仕上げようと焦るあまり、適切なペース配分ができていなかったのだ。創造的な仕事には時間がかかるものだが、学生たちは実際よりも早く仕上げたいという欲求に駆られていた。そして思い通りに進まない不快感から目を背けるために、ある日は書くのをサボり、ある日は焦って1日中ひたすら書きまくるという状態になっていた。
適切なペースをつかむためのコツは、1日に割り当てた時間が終わったら、すぐに手を止めて立ち上がることだ。
たとえエネルギーがあふれていて、もっとできると感じていても、それ以上はやらない。あるプロジェクトに50分間取り組むと決めたなら、絶対に51分やってはいけない。もう少しだけやりたいという欲望は、ボイスに言わせれば、「終わらない状態への不満や、生産性が上がらないことへの焦り」を反映したものにほかならない。
途中で思いきってやめることで、忍耐の筋肉が鍛えられ、何度もプロジェクトに戻ってくることができる。そのほうが長期的に見れば、ずっと高い生産性を維持できるのだ。

 3オリジナルは模倣から生まれる

フィンランド出身の写真家アルノ・ラファエル・ミンキネンは、ヘルシンキのバスターミナルのたとえ話を使って、忍耐の大切さを語る。
ヘルシンキのバスターミナルには20数個のプラットフォームがあり、それぞれのプラットフォームから複数の異なる路線が出発している。そしてひとつのプラットフォームから出発するバスは、途中までまったく同じ道を走り、まったく同じバス停を経由する。
ミンキネンは、写真を学ぶ学生たちに、それぞれの停留所を自分のキャリアの1年分と考えなさい、とアドバイスする。たとえば自分のアートの方向性をプラチナ・プリントのヌード写真に決めたとしよう。コツコツと写真を撮り、3年後(つまり3つめのバス停)に、自分のボートフォリオをギャラリーへ持ち込んでみる。ところがギャラリーのオーナーは、「まるでアーヴィング・ペンの作品のコピーだね、独創性が足りないよ」と言って作品を突き返す。
「3年間を無駄にした」と落胆したあなたは、バスを降りてタクシーを拾い、もとのバスターミナルに戻る。今度は別のバスに乗り、別のジャンルの写真を撮ることにする。ところが、いくつか先の停留所で、同じことが起こる。新しい作品もまた、誰かのコピーみたいだと言われるのだ。またバスターミナルに戻ってみるが、いつまでたっても同じパターンの繰り返しで、自分のオリジナル作品がつくれない。いったいどうすればいいのか?
「簡単なことだ」とミンキネンは言う。「バスから降りるな。バスに乗りつづけるんだよ」
都市部をちょっと離れれば、ヘルシンキのバス路線は分岐して、それぞれのユニークな目的地へ向かう。そこからが個性的な仕事の始まりだ。でもそこにたどり着けるのは、人真似だと言われてもくじけずにつくりつづけ、粘り強く技術を磨き、経験を積むことのできる人だけだ。初期の試行錯誤の段階で諦めてしまうようでは、けっしてオリジナルの作品はつくれない。
クリエイティブな仕事に限った話ではない。人生のさまざまな局面で、僕たちは選択を迫られる。結婚するかどうか。子どもを産むかどうか。地元に残るかどうか。サラリーマンになるかどうか。平凡な選択よりも、刺激的で独創的なことに挑戦すべきだというプレッシャーを感じることもあるだろう。しかし、平凡な道が平凡に終わるわけではない。辛抱強くみんなと同じ道を歩んできた人だけがたどり着ける、豊かで独創的な境地というものもある。
3時間じっと絵画を見るのと同じで、まずは立ち止まり、その場に留まってみることだ。現実を速めようとするのをやめて、現在地をゆっくりと楽しもう。長く連れ添った夫婦のように誰かを理解するには、目の前の相手と長年結婚生活を続けなくてはならない。ひとつの土地やコミュニティに深く根づく体験をするには、動きまわることをやめなくてはならない。
かけかえのない成果を手に入れるには、たっぷりと時間をかけることが必要なのだ。

『限りある時間の使い方』 第11章 より オリバー・バークマン:著 高橋璃子:訳 かんき出版:刊

忍耐力とは、継続する力のこと。
気を散らすことや気を引くものが身の回りに溢れている現代社会だからこそ、余計に重要な力です。

小さくてもいいから、できることを確実に続けていくこと。
最初は、誰かの真似でもいいから、それを突き詰めること。

同じバスに乗り続けて、誰も見たことのない景色を眺めたいものですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

“生産性の罠”から抜け出し、時間の呪縛から逃れるために、最初にすべきこと。
それは「希望を捨てること」です。

理由は、何かしらの結果を「望む」ということは、つまり自分の外側にある力に頼ることだからです。

バークマンさんは、自分の限界を認めるとは、すなわち希望を捨てることであり、希望を捨てたとき、あなたは自分の力で歩みだすことができるとおっしゃっています。

時間さえあれば、やりたいことは全部できる。
作業の効率、生産性は、時間の使い方次第で、いくらでも上げられる。

そんな考えは、単なる幻想でしかありません。

希望を捨て、現実を直視すること。
そうすることで、本当に大切なこと、本当にやりたいことが見えきます。

やりたいことを増やすのではなく、やらなくてもいいことを減らしていく。
忙しさで今を犠牲にするのではなく、本当にしたいことして今を楽しむ。

これまでの「足し算の生き方」から「引き算の生き方」へ、大きく転換する。
本書は、私たちの人生の質や価値観を根底から変えてしまう、そんなインパクトのある一冊です。

限りある時間の使い方


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