本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『場を支配する「悪の論理」技法』(とつげき東北)

 お薦めの本の紹介です。
 とつげき東北さんの『場を支配する「悪の論理」技法』です。

 とつげき東北(とつげき・とうほく)さんは、中央省庁に勤務されている公務員です。
 麻雀の科学的研究の第一人者で、各種学会で講演なども行っておられます。

物事を正しく考えるための処方箋

「なぜ人を殺してはいけないのか」

 そう子どもに聞かれて、明快な理屈で答えることができる人は、なかなかいないのではないでしょうか。

 何がしかの答えを探しているうちはまだましだ。説明に困ってしまい、それを悟られまいと「そんなことは常識でしょ!」と声を荒げる以外の手立てを持たない不格好な大人もいる。無教養で恥ずかしいことである。筆者なら、この無邪気な子どもの問いに、わかりやすく、明確に答えることができる。
 その答えがどんなものかはあとに述べるとして、論理をうまく操れない人、知識が不足している人、直感力に優れない人は、人生でいろいろな失敗をしてしまう。他人とすぐに対立したり、上司の理不尽な指示にイライラしたり、行きたくもない会社の飲み会を断れず、ストレスをため込んでしまう。物事の根本的な考え方や哲学を理解していないからだ。そういう状態にあることは、人生の楽しみをたいへん損なっている。せっかく日本という比較的豊かな国に生まれてきたのに、思想が不足しているために、他人とうまくやっていけないのだ。
 他にも、次のような例だとどうだろうか。
「自分で選んだ道だろう? 自己責任だ」
「文句があるなら政治家になって変えてみろ」
「騙されたと思ってやてみてよ。体験すればきっとわかる」
「オレの意見はオレの自由だろ? 価値観を押しつけるな!」
「批判ばかりせず、対案を出してくれ」
「ウチの会社に不満があるなら、辞めればいい!」
 ほんの一例だが、こういった言葉は、割と頻繁に使われる。どうもおかしい、何か言い返したいが、うまくいかずモヤモヤしたことはないだろうか。
 本書は、たとえばこうした怪しげなコトバに惑わされて悩む読者、ビジネスでうまく論理が扱えない読者、中高生や大学生で――あるいは大人も含めて――、物事を正しく考える術を身につけていない読者への贈り物である。哲学や論理学の知識及び読解力などを高め、社会で通用する一流の思考法を披露する。最初の構想時点から20年以上熟成されてつくられた、最良の処方箋である。数々の知恵を惜しみなく記述するにとどまらず、とても具体的な例を数多く示すことで、「物事を考える」「他人と議論する」「他人を説得する」「自由自在に論理を操る」「世の中の仕組みを理解する」「思想を使って楽しむ」ことができるようになるよう、渾身の力で執筆した。
 本書を読むと、どうなるか。まず、いくばくかの哲学的知識や論理的思考力が身につくだろう。
 それらはとてもすばらしい体験である。だが、さらにすばらしいことは、思想を自由に操り、思想で「遊べる」ようになることだ。
 人は普通、人生においていろいろ悩みや不満を抱える。時には重々しく生きづらい精神に陥る。しかし、明快でわかりやすく、とても厳密かつ明るい思想を身につけることで、それらから解放されて、ふわりと軽い気持ちになり、重圧から解き放たれるのだ。読者が幸せになれるのである。

『場を支配する「悪の論理」技法』 まえがき より とつげき東北:著 フォレスト出版:刊

 本書のタイトルにある「悪の論理」という言葉。
 これは、端的に言うと、「理屈では間違っているのに、一見正しいとされる論理」のことです。

 とつげきさんは、他人から押しつけられる悪の論理を喝破(かっぱ)することで、おかしな意見から身を守ることができると述べています。
 さらには、逆に自分が悪の論理を使いこなして他人を操ることができれば、圧倒的に有利な立場に立つこともできると指摘します。

 本書は、実践的な論理を使いこなして「思想で遊ぶ」ためのノウハウをわかりやすくまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「じゃあお前が、◯◯すれば?」

「悪の論理」において典型的に用いられる「悪の名言」
 その中のひとつが「じゃあお前が◯◯すれば?」です。

「じゃあお前が◯◯(◯◯は法令等に違反する等、一般に「悪い」とされる行為)すれば?」という名言がある。
 たとえば刑法や刑罰という制度の正しさ、あるいは善悪といった問題等について、原理的な議論をしている際に用いる、自らの怠慢とセンスの欠如によって長年信じ続けてきてしまった信念が打ち破られそうになったときに、とっさに口にすべき呪詛(じゅそ)としての「じゃあ、お前が人を殺せば?」等がある。

 話者は、相手の憎たらしい理屈(たとえば、「殺人が原理的に悪だということは、自然科学的にはどうやっても説明できない」など)にはとても賛同する気にはなれない。とは言いながらも、粗野なままの状態で放置してきた自分のゴミのような「思想」に対して、今さら手探りであれこれと根拠を求めてみても見つかるはずもなく、よって適切な反論を提示することなどできはしない。
 そこで、万一相手の主張が正しいと認めたとしても「結局お前(論敵)は殺人ができないだろう」といった摩訶(まか)不思議な確認をするとともに、仮に論敵が殺人をしたとすれば論敵にもたらされることが想像される、論敵にとって不都合な状況――話者にとって好ましい状況――をかすかに頭によぎらせてみることによって、何がしかの快感を得ているものだと考えられる。
 ここには以下の3点の錯誤が存在する。

①論敵がある行為を「しない」ことは、その行為が正しくないことの根拠にはならない。しかし、話者はこれを認識せず、論敵が当該行為を行わないだろうことをもって、論敵の主張に誤りがあるのだと考える。
②論敵がある行為を「しない」ことは、論敵が当該行為を遂行する能力が欠如していることとイコールではない。しかし、話者はこれを認識せず、論敵が殺人を「できない」ことを確認し、論敵の「無能さ」や「覚悟のなさ」を漠然とイメージする。
③論敵がある行為を「しない」ことと、論敵と無関係の他人がその行為をしないこととは異なる。しかし、話者はこれを認識せず、「論敵がその行為をしない」ことのみから、「世の誰も、殺人をしない」という結論を捏造する。

 あることが「正しいこと」だとして、それを行うかどうか、行うことが可能かどうかに論理的なつながりはない。
 たとえば小便を飲んでも死にはしないし、ビタミン信仰に躍らされて大量のビタミンCを摂取し続ける類型の人間の尿は身体にいいくらいかもしれないが(「栄養価が高い小便が存在する」は正しい)、だからといって、その事実を語る人間が小便を飲まなければならないわけではない(ほかにいくらでも栄養価の高いものを摂取する方法はある)。しかるべき必要がある際に、「能力的に飲めない」わけでもない。そしてそれらと独立に、世の中には「飲尿健康法」の実践者が実際に存在する。
「◯◯になることは簡単だ」といった発言に激昂した浅はかな論者が、しばしば「じゃあお前が◯◯になれ」などと口を滑らせるのは、右記錯誤の一部である。

『場を支配する「悪の論理」技法』 Ⅰ より とつげき東北:著 フォレスト出版:刊

 私たちが、いたるところで目にする、身勝手で独りよがりの主張。
 それらは、もっともらしく見えても、論理的に破綻しているものがほとんどです。

 主張の根拠となる土台を冷静に見極めること。

 それが「悪の論理」から身を守る秘訣です。

「悪の論理」の見破り方と使い方

「悪の論理」には、いくつかの典型的なパターンが存在し、その多くは、「詭弁(きべん)」と呼ばれるものに含まれます。

 詭弁とは、推論や誤りや選定の誤りを意図的に使う議論の方法を表します。
 そのなかのいくつかをご紹介しましょう。

【選言肯定】
「ビジネスマンには、新しいことにチャレンジする人としない人がいる。A氏は新しいことにチャレンジしないタイプの人間だ」

こういった短絡的な主張を、選言肯定という。論理的には、

 AまたはB
 Aではない
 ゆえにB

 という形をとるものがこれだ。
 人間は複雑なもので、気分や対象によっては新しいことにチャレンジしたり、時にはしなかったりする。普段は新しいことにチャレンジしなくても、A氏の得意分野の仕事を与えれば次々と新しいことをはじめるかもしれない。そういう観点から考えても、この種の発言は悪の論理となる。

【排中律と矛盾の悪用】
 古典的な論理の基本原則に、「排中律(はいちゅうりつ)」というものがある。

 Xまたは notX
 が常に真になるというものだ。確かに「イヌは動物か、または動物でないかのどちらかだ」言われたら、当たり前だと思うだろう。
 少し似た形として、「矛盾律(むじゅんりつ)」があり、

 Xかつ notX

 が常に偽になるというものもある。「イヌは動物で、かつ動物ではない」などと言い出す人がいたら、ちょっとおかしいだろう。
 これらが不適切に使われる場合がある。
 前者の例として、筆者が昔、犯罪報道の番組を見ていたとき、元警視庁の人がこんなことを言っていた。
「犯人は20代から30代、もしくは40代から50代と考えられる」
 ほとんど全部じないですか・・・・いや、これは恒真命題(常に真の言葉)にはあたらない(10代や60代を入れていない)ので。冗談だが。
 矛盾については、現実世界では「厳密には」ほとんど生じないことだと理解しておきたい。現実には「隠された前提」があって矛盾でなくなったり、時間の経過とともにXだったものがXでなくなったりするものだ(たとえば熱い水は、放っておくと冷めるが、矛盾ではない)。
 本当に、「XかつXではない」が同時に成り立つとしたときのみ、矛盾が生ずるのだが、「君はAだと主張しているが、行動が伴っていない、矛盾だ!」といったふうに悪用することができる(主張と行動が違っていることくらい、オトナの世界では当たり前なのだが)。

【誤った二分法】
「ウチの会社の待遇が嫌なら、辞めればいい!」

 こういったものも悪の論法だ。先の選言肯定と似ているが、「XでなければYだ」という構造をしている。会社の待遇が嫌でも、やめて無職になるのはもっと嫌だ、ということはあるだろう。その会社に留まって、待遇を改善する努力をすることで、問題をすりかえることができる。
「日本の政治に不満があるなら、日本から出て行け!」等も同様。

『場を支配する「悪の論理」技法』 Ⅱ より とつげき東北:著 フォレスト出版:刊

 無理が通れば道理が引っ込む。

 世の中には、とても理知的とは言えない、乱暴な理論がまかり通っていますね。

 詭弁はすべて、論拠に誤りがあります。
 冷静に向き合えば、必ず論理的な矛盾が見つかります。

相手の論理と同じ論理を使って矛盾を導く

 では、相手に詭弁を使われたとき、自分が利用したいとき、どういう方法があるのでしょうか。

 とつげきさんは、「相手の論理と同じ論理を使って矛盾を導く」方法を例に挙げています。

「歩きタバコは迷惑だ、やめなさい」
 今の時代、当然のようにこうしたことが言われるようになった。しかし、このロジックにも、いろいろな前提が隠されている。しっかりと論理的に書くなら、次のようになるだろう。

  歩きタバコは私(たち)にとって迷惑だ。
  私(たち)にとって迷惑なことをしてはならない。
  ゆえに、歩きタバコをしてはならない。

 こう書くと、ずいぶんと乱暴な発言になってくる。「私にとって迷惑だからやめろ」とは、あまりにもワガママではないか。だが、「迷惑」というのは、そうだと感じる主体がいてはじめて成立する言葉であり、「一般に」とか「客観的に」といったように誤魔化してすむものではない。もし、どうしても歩きタバコをしたい人がいたら、こう言い返せるだろう。

  歩きタバコは私(たち)にとって迷惑ではない。
  私(たち)にとって迷惑ではないことはしてもよい。
  ゆえに、歩きタバコをしてもよい。

 これもまたワガママな言い分だが、先の「迷惑だ」と論理構造は同じで、どちらの主張が「正しい」のかは、これらの論理だけからは判定できない。結局、どちらが正義たるべきかという倫理的・社会的問題になり、これはより広範な範囲で議論されなければならないことだ。あたかも「歩きタバコは一般的に迷惑なのだ」と断定できるかのごとく相手を批判するのは少し乱暴である。
 このように、相手の使った論理を噛み砕いて、同じ論理の使い方をすることで、相手の主張を無効にする手法はかなり使える。特に、「迷惑」といったような、個人によって考えが異なる事柄については、その論理そのまま「迷惑」自体に当てはめることで矛盾を導くこともできる。

 「歩きタバコは迷惑だ」と言って禁止されることは、私(たち)にとって迷惑だ。
   あなた(たち)も言うように、私(たち)にとって迷惑なことはしてはいけない。
   ゆえに、「歩きタバコは迷惑だ」と言って禁止してはいけない。

「迷惑だからやめろ!」と言っている人は、必然的に、それを言われる人間からすると迷惑な存在であり、どちらの「迷惑」が押し通せるかはわからない。少なくとも論理的には、矛盾を導くことができるのである。

『場を支配する「悪の論理」技法』 Ⅱ より とつげき東北:著 フォレスト出版:刊

「毒をもって毒を制す」

 そんな言葉がぴったりです。

 相手からしてみれば、攻撃をすればするほど、自説の綻(ほころ)びが露呈してしまう。
 これほどやっかいな戦法はありません。

 相手の勢いを利用して、そのまま自分の攻撃にしてしまう。
 鮮やかな返し技ですね。

マグカップの中の嵐(カフェオレ問題)

 とつげきさんが「カフェオレ問題」と名づけた問題があります。

 これは、「この世で最も美味しいカフェオレ」を、多くの人々が決めつけるという問題です。

 まず仮に、カフェオレの美味しさが、コーヒーとミルクの量の比率だけで表されるとしよう(温度とか銘柄とかは問わない)。さてそのとき、客観的に最も美味しいカフェオレは、コーヒーとミルクが何対何で混ぜられたものだろうか、と考えてみる。
 わかるだろうか? まあ、少し考えれば、そんなものは簡単に決められるものではないと気づくだろう。
 たとえば人によって好みの違いがあるし、体調にもよる。単純に濃いめが好きな人もいる。とある不幸な理由で、10分前にブラックコーヒーを30杯も無理やり飲まされた残念な人は、「ミルクを多めにしてほしい」と涙目で懇願するかもしれない。コーヒーとミルクの理想的な比率は、決してはじめから客観的に与えられたり、普遍的にいつでも誰にでも妥当とするものでないことは明らかだ。
「誰が」「何に対して」「どういう状況で」「どれくらい」といったさまざまな要因によって、最良の判断や評価は変化するのが当然であり、1つの基準だけを絶対視して「客観的に最も美味しいカフェオレは、コーヒーとミルクの比率が7:3だ」と真面目に強弁するのはみっともないことだ。
 もう一例考えてみよう。「能力」という言葉がよく使われるが、これもまた、「客観的な能力」というものを考えるのは難しい。「数学の能力」を取り上げよう。数学の能力はある種のテストで点数化されるが、このテストの「配点比率」が結果を大きく左右する。「微分積分は得意だが、図形問題は苦手」な人は、解析学重視のテストでは高得点を取れても、幾何学重視のテストではそうはいかない。「解析学と幾何学とが何対何の比率で配点されたテストが、客観的に最も正しく数学の能力を表すか?」――ほら、これはカフェオレと同じではないか。
 では「解析学」と「幾何学」とに分けてテストを行ったらどうか。これも結局は根本的解決にならないだろう。幾何学といっても、角度を求める問題が重視されるべきなのか、円の性質を考察する問題が重視されるべきなのか、それとも・・・・。
 仮に誰かが、数学の能力の客観的な評価は、解析学と幾何学の比率が1:1のテスト得点で表されるのた、と主張したとしよう。しかし、その基準で計られた「数学の能力」で、実際の現実的な数学運用能力が正確に表されるだろうか? 中学校の数学教師には微分積分の知識は必要ないから、たとえ「客観的な評価」が悪くても、必要な分野がよくできれば仕事に向くだろう。
 結局のところ、「能力」というものも、便宜的に計測するものでしかなく、「客観的な能力」などというものは、「客観的に最も美味しいカフェオレ」と同様、存在するはずもないものなのだ。
 それにもかかわらず、常に「これは客観的だ」という態度で迫ってくる人が実在する。「偏差値が高いだけの人より、心の優しい人のほうが立派」だとされたり、「偏差値ではない賢さこそが大切だ」と言われたり、あるいはそれらの「バランスが重要だ」とされたり、結構な頻度でそういう断定を見かける。これらは、「コーヒーとミルクの割合が6:4が最高のカフェオレだ」と無理強いしているに等しい。
 それはあなたの考えでしょう、自分は違います、偏差値こそすべてです、と考える人がいないとも限らないし、それを間違っていると決めつけることもできない。そういう人がいると、「その考えは偏っている!」と憤る人が登場するのが世の常だが、それこそが「客観的に最も美味しいカフェオレ」を押しつけるうさんくさい行為なのだ。いやいや、あなたの判断こそ、コーヒーが多めに偏っている、と指摘してやりたい。「客観的に最も美味しいカフェオレ」は、想像上にしか存在しない。これが「カフェオレ問題」である。

『場を支配する「悪の論理」技法』 Ⅲ より とつげき東北:著 フォレスト出版:刊

 とつげきさんは、何らかの判断の「客観的な」正しさといったものは、最初に基準を決めてからしか計測できないということを常に念頭に置く必要があると述べています。

「正しさ」に絶対的な価値はないということ。
 根拠となるもの(法律や宗教的価値観、一般常識など)が崩れれば、定義も変わります。

 もちろん、違う価値観を持つ人は、違う「正しさ」を主張するでしょう。
 どちらの「正しさ」が本当に正しいかをめぐって、争いが起こるわけですね。

 世の中の問題の根底には、必ず「カフェオレ問題」が含まれている。
 そういう目で捉え直してみると、より深い真実が見えてきますね。

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 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が全盛の現代社会。

 何気なく書いた意見が、見ず知らずの人の不評を買い、噛みつかれる。
 そんな危険は、いつ誰の身に起こっても不思議ではありません。

 暴力的で感情的な意見は、得てして論理的な正当性を欠くもの。
 冷静に対処すれば、簡単に撃退できるものがほとんどです。

 彼らが駆使する「悪の論理」とは、どんなものなのか。
 それを頭に叩き込んでおけば、いざというときも、100戦して危うからず、です。

 ネット社会を生き抜くための「転ばぬ先の杖」。
 皆さんも、ぜひ、ご一読してみてはいかがでしょうか。

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