【書評】『どうしようもない不安を乗り越えるとんでもなく賢い人生の送り方』(ゲイリー・ジョン・ビショップ)

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お薦めの本の紹介です。
ゲイリー・ジョン・ビショップさんの『どうしようもない不安を乗り越えるとんでもなく賢い人生の送り方 Wise as Fu*k』です。

ゲイリー・ジョン・ビショップ(Gary John Bishop)さんは、スコットランドのグラスゴー生まれです。
1997年に米国へ移住し、特に存在論と現象学について数年間学んだ後、世界有数の人材開発企業でシニアプログラムディレクターを務め、世界中の何千人もの人にコーチを行われています。

本当の変化をもたらす「知恵」の身につけ方

仕事、人間関係、健康、お金・・・・・。

多くの人は、さまざまなトラブルを抱えて、それらを持て余しながら生きています。
その原因はどこにあるのでしょうか。

ビショップさんは、ほとんどの人は知恵を獲得し、それを使って人生を根本的に変えるためのアプローチを完全に間違っていると指摘します。

知恵とは、自分にとっての真実であり、考え方の土台、あるいは人生の紆余曲折を切り抜ける際に立ち戻るべき視点だと述べています。

 なぜ人生には知恵が必要なのか。それを知るためには、あなたがそうした疑問を抱き、この本を買ったことがちょっとしたヒントになるだろう。
というのは冗談だが、まじめな話、知恵というのは私たちが実体験や読書、会話を通じて身につけてきた、全幅の信頼を置く全能のものだ。
私の言う知恵がどういうもので、どういう仕組みかを説明するために、簡単な例をあげよう。

「あなたは今の人生に甘んじることを自ら望んでいる」

1分間、この言葉と付き合ってみてほしいゆっくりとかみしめて、自分の今の人生と照らし合わせてほしい。何か見えるだろうか。自分の人生に当てはめていたら、どこかのタイミングで何か考えなくてはならないことが頭に浮かんでこないだろうか。

この言葉にはいろんな含蓄があるが、何よりもまず、あなたをスポットライトの下へ無理やりにでも引きずり出す力がある。この言葉を突きつけられて、それでも自分の人生や状況について責任逃れを続けるのは難しい。
この言葉を目にした人の心には、「自分の人生をなんとかするには自分ががんばらなくちゃいけない」「妥協したり、先延ばしにしたりはもうできない」という人生観が浮かぶ。
この言葉は、自分の人生に引きつけて考えることを求め、真実を教える。
単純な一言だが、他人に責任をなすりつけ、ゴシップを交わし、被害者面をしたい誘惑への防波堤になる。何かイヤなことを誰かのせいにしたくなったら、この言葉を思い浮かべてほしい。自分が何をすべきかが見えてくるはずだ。

知恵とはこういうふうに、まずは理解し、次に自分に当てはめて考え、最後に実生活に応用するという過程をたどる。この大切な流れを頭に入れてから、この先を読み進めてほしい。人生の主人公は自分しかいないのに、人はすぐ、主人公に助けを求めるほうの役を演じたがる。
しかし、優れた知恵はこうした日々に終止符を打つ。あなたを人生や未来に責任を持てる人間に引き戻す。望むような人生を生み出せるのは自分だけだし、その権利をあなたから奪うことは誰にもできない。これはとても心強いことだとは思わないだろうか。

では、知恵が心の内から湧き起こり、人生の指針となる真実の数々だとしたら、その中から「自分に合ったもの」を見つけるにはどうしたらいいだろうか。
まずは思考のプロセスを考えてみよう。あなたは何かを「熟考」したことはあるだろうか。とりとめのない考えや、簡単な振り返りなんかじゃない。ある考えや疑問にじっくり腰を据えて取り組み、その過程で自分の新しい可能性が見えてくる体験だ。そういう個人的に腑に落ちる瞬間、自分ならではの発見に出合ったことはあるだろうか。
この本の知恵をあなたの人生に根付かせるには、そこが出発点になる。そうやって自分に何かを問いかけ、振り返り、顧みることで、これまでぐったりとマヒしていた何かがよみがえり、輝き、刺激を受けて元気になる。

最高なのは、本物の知恵には賞味期限がないことだ。脳天を突き刺す稲妻のような発見は、自分にとって本当に大切なもので、どこかへしまい込むことは絶対にできない。しかも見つけて終わりじゃなく、意識的に活用し、人生にそのまま組み込んで、参考にもできる。それが単なる知識と知恵との一番の違いだ。何かを読んだり、憶えたりは誰だってできるが、そこから何かを学び、教訓に基づいた人生を送るのは、誰にでもできることじゃない。
とはいえ、人生の中心に据える真実を見つけ出すには多少の練習がいる。だから「ハウツー型」の人生攻略法を見つけるほうがずっと簡単に思える。しかし、そういった上っ面をなぞるだけのやり方はうまくいかない。「成功の五つのステップ」みたいなポイントのずれた人生の攻略法は、どこかで絶対に破綻する。誰だってシンプルな答えがほしい。成功やスリムな体や愛情を手に入れる方法を知りたいし、自分の混乱や無関心、あるいはこれまで築いてきたストーリーの枠を超えて考えるなんてイヤだと思っている。しかし心の奥底へ飛び込んで見つけた無限の知恵は、人生のちょっとした問題に対するその場しのぎの解決策にとどまらない影響をもたらす。
また多くの人は、生まれ変わった自分を維持するには何か新しいことを見聞きする必要があると信じているが、それも違う。すべては自分にかかっている。その情報にしっかり向き合って意味のある変化を起こせるか、それとも単にデータを取り込んで一時的にいい気分になって終わるだけなのかは自分次第だ。

『どうしようもない不安を乗り越えるとんでもなく賢い人生の送り方』 第1章 より ゲイリー・ジョン・ビショップ:著 高崎拓哉:訳 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊

本書は、「知恵」をテーマに、本当の変化をもたらす学びとはどういうものかを解説した一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「相手のすべてを愛する」という選択

最初は、「愛情」についてです。
人間の根本的な感情であるにもかかわらず、その意味は人によってそれぞれ、まさに千差万別です。
それゆえに、愛情で喜ぶ人も多いですが、苦しむ人も多いというのも事実です。

ビショップさんは、「愛情」とは、あなた自身が愛をどう捉えているかを指すと述べています。

 愛とは本質的に無条件なはずだ。ここで言う無条件とは、愛する以外の選択肢を持たないことを指す。すべてを包みながら流れゆく、抵抗できないもの。無償の愛こそが、この世に存在する唯一の愛だ。「条件付きの愛」なんてことを言う人もいるが、それは愛ではなく別の現象でしかない。
ためらいや計算、判断といったものは、心の底からの愛情表現を邪魔する障害だ。そんなものは愛情じゃなく、単なる作戦でしかない。そんなことはないという声が聞こえてきそうだが、反論は認めない。

愛は誰かを傷つけない。愛情は本当にすばらしいものだ。逆に、失意は人を傷つける。期待をするほど、人は少しずつその落とし穴に近づいていく。
愛のある人生に腹を立てる人はいないが、手に入ると思っていたはずの愛が手に入らないと人生に怒りだす。そのとき人は、自分を今の状況の外に置き、観察しながら判断する。それまでのように状況の内側で生きることはもうできず、愛に手が届かない。愛の重みを相手に押しつけ、相手を外から見つめている。
逆に、相手をつま先まで愛しているとき、条件なんてものは頭の片隅にもないはずだ。
とはいえ、勘違いしないでほしい。私は、一度愛した人は何があってもずっと愛し続けろ、発言や行動にまったく納得できなくても、のみ込んで生きろと言ってるわけじゃない。
ふたりの人間が一緒になれば、不健全で危険な結末にたどり着くことは当然ありえる。そして、自分がそういう状況に陥っていると気づいたなら、永遠に愛し続ける必要はない。

愛は一瞬の中に存在する。今という瞬間の中に。愛は常に現在形だ。本物の無条件の愛の中にいるからといって、ほかのすべてを無条件に許す必要はない。相手を愛しつつ、意見に反対したっていい。だけど関係に暗い影を落とすまで、相手を否定するのはダメだ。そこまでいくと、自己正当化や恨み、怒り、苛立ちといったものが周囲を覆い、念のためにと、旅立ちの荷物をまとめた心のスーツケースを手元に置くようになる。
そうやって、傍目(はため)にはなんでもないふりをしながら、「逃げ出す」瞬間を夢想する日々を送るようになる。最悪なのは、まるで今という瞬間を想像上のお試し期間であるかのように生き、心ではまったく別の新しい道を考えながら、関係を続ける人が多いことだ。
そして10年後か10日後、相手にどうしてもがまんできない瞬間がやってくる。もうその相手を選びたくないと思う、場合によっては憎む瞬間がやってくる。だまされたり盗まれたりした、あるいは相手が悪い癖を全然直さないという人もいるだろう。相手の人生があなたにとって納得のいかない方向へそれつつある状況だ。
あなたはそれが気に入らない。
そういうときは、自分の拒絶反応をコントロールしなくちゃならない。誰かのせいにしたり、けんかをしたりはもうやめにして、新しいアプローチを取ろう。関係を終わりにしたいなら、相手がどんな反応を示そうと、出逢ったころのような相手への思いやりと、自分への誇りを持って去ろう。それが品位ある人間の行動だ。尊厳を損なうことは、大きな危険を伴う。
「いや、でも・・・・・」と思う人は、どうぞ、自分なりの方法でご自由に。
とはいえ今肝心なのは、自分がまるごと愛せる人、長所も短所も含めて愛せる人こそ、真に愛すべき人間だということだ。それこそが完全な愛情だ。

『どうしようもない不安を乗り越えるとんでもなく賢い人生の送り方』 第3章 より ゲイリー・ジョン・ビショップ:著 高崎拓哉:訳 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊

ビショップさんは、人間は本質的に、愛以外の何ものでもないと述べています。

それは、誰もが無条件の愛であり、それを相手に与えることができるということ。
生まれたての赤ちゃんは皆、愛の塊であることからも、それはわかります。

無条件の愛が表現できないのは、成長するうちに、それを妨げるものを身に着けてしまったからです。
それは「不安」であり「恐れ」といったネガティブな感情に根ざした記憶です。

愛は、「持つもの」ではなく「なるもの」。
愛は、「外」に求めるものではなく、「内」に求めるもの。

まさに人生を変える偉大な知恵ですね。

「喪失」と向き合うためには?

伴侶や家族、友人、ペットなどの大切な誰かが死ぬと、立ち直れないほどのショックを受けることがあります。
いわゆる「喪失」の感情とどう向き合えばいいのでしょうか。

ビショップさんは、喪失を克服できないのは、自分で抱え込んでいるからだと指摘します。

 痛いところを突かれた人もいるのではないだろうか。こう言われるとたいていの人が激しく怒りだすし、その気持ちはわかる。

だけどそれはなぜだろう。理由はふたつある。
まず、喪失という話題そのものが、核融合炉の炉心を扱うような慎重さがなければ触れてはならない、社会的なタブーとされているからだ。多くの人が、喪失は「立ち入り禁止」エリア、言い換えるなら困ったときに逃げ込み、追及の手を振り切れる安全な場所だと思っている。そうやって多くの人が、自分の体や健康といった話題になるたびに安全圏へ逃げ込み、同じ行動の繰り返しという罠に捕らわれる。人生はつらいことの連続だから、逃げ出したくなるのも無理はない。誰かから「病気なんだ」とか「うつなんだ」「悲しい」「放っておいて」と言われて、その発言にかみついたり、突っ込んで話を聞こうとしたりする人はまずいない。

次に、大半の人は、過去を自分で抱え込んでいるということにほとんど、あるいはまったく気づいていない。心の中では、過去のほうが自分にひっついているように思っている。
私もこれまでの人生の多くの喪失を経験してきた。同時に、同じような経験をした人たちを何人も指導してきた。
喪失のまっただ中でもがき、強烈な虚無感に囚われている人は、自分ではどうしようもない状況にいるように感じている。喪失の言いなりで、自分の側には主導権などないと感じている。
それなのに、まわりは「がんばれ」だとか「なるようになるさ」とか言うから、ものすごくイライラする。自分だって、同じ状況に陥ったらそんなことできるはずないのに!
本当にそうだろうか。
繰り返すが、その気持ちはわかる。だけどそういう状況で怒ったり、身構えたくなったりしたときは、気持ちを落ち着けて私と一緒に考えよう。私の手元には、みなさんのためのアドバイスがいくつかある。
もちろんその中には、喪失の影響がいつまでも消えないとか、ずっと荒れくるっているとか、受けるべきではないレベルの影響を受けていることに気づいている人も含まれる。
自分の胸にこう問いかけよう。

「このまま喪失感を引きずることで、自分はどんな人生を送ろうとしているか」
「今回の喪失で、自分自身に対してどんな言い訳をしているか」
「今回の喪失について語るのをやめたら、人生のどんな現実と向き合わなければならないか」

この三つの質問の答の中に、あなたがしがみついているものがある。それは自分が避けている、あるいは正当化しているものだ。正視したくない、不都合な現実が見つかるだろう。だけど、向き合うことはできる。自分自身の状況をひっくり返し、力強く立ち直って、人生に再び立ち向かう心構えをすることはできる。
多くの人が、喪失を口実に何かに取り組むのを避けようとする。「今は◯◯をどうにかしなくちゃならないから、✕✕をやってる余裕がない」という思考に陥り、逃げ道を作るかのようにふたつをつなげ、喪失のあとの人生に向き合わなくてもいいようにする。「確かに飲み過ぎてるよ、だけどそれは◯◯を乗り越えられないからなんだ」とか「体重が増えてるけど、離婚のせいだよ」「人間関係がこじれてて、でもそれは母さんが死んだからだ」とか言ったりする。
だけど、前者と後者に本来つながりはない。つながるのは自分がつないだからだ。
そう、大きな喪失感を味わった人は、酒やドカ食い、孤立、付き合いの拒絶が解決策になるかもしれないという考え方にさらされる。だけどその両者に「因果関係」はない。現象に何か原因があるという考えを強調し始めると、解決はどこまでも遠ざける。さじを投げて逃げ出すのは簡単だし、「自分のせいじゃない」と言われてしまえば、周囲としては引き留めるのは難しい。だけどこれは、誰のせいとか原因とかいった話じゃない。そんなことは誰も気にしてないし、今は関係ない。

これは、このあとどうするかという話だ。喪失を経験したあとの人生は、自分で思い描くほど荒涼としたものじゃない。どんなにつらく、心が折れそうに思えてもだ。
人は悲しみながらでも生きられる。悲しみながら仕事へ行き、ジムに通い、家族と過ごせる。喪失にエネルギーを吸い取られる必要はないし、引きずり下ろされたり、押し戻されたり、修復不可能なほど人生をゆがめられたりする必要もない。もちろん、ひとりの時間や同情、理解も欠かせないが、同時にあなたには未来と、喪失から学んで新しいレベルで探求できるようになった人生が必要だ。

『どうしようもない不安を乗り越えるとんでもなく賢い人生の送り方』 第4章 より ゲイリー・ジョン・ビショップ:著 高崎拓哉:訳 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊

こういう問題は、デリケートなだけに、周りから触れられることはほとんどありません。
だからこそ、自分から開示する必要があります。

抱えきれない苦しみや悲しみも、分け合うことで軽くなります。
失ってしまった人のためにも、乗り越えて、よりよい人生を送りたいものです。

人は何に「恐怖」を感じているのか?

人間の行動を妨げる感情に「不安」があります。
不安というと、失敗自体に対するものを考えてしまいますが、それでは掘り下げ方が足りません。

ビショップさんは、問題は失敗そのものに対する恐怖ではなく、失敗したとみなされることへの恐怖だと指摘します。

 足をすくませる失敗の恐怖は、他人や自分に評価されるのを避けたいという願望に近い。そうやって人はお決まりの言い訳や説明を口にし、今の道を行くしかないように見せかける。だけどあなたの足を引っ張っているのは、説明じゃなくて、そうしたちっぽけなストーリーの裏にある何かだ。そして裏にある何かとは、自分がどう見られているか、もっと言うなら、どう見られるべきかという、決して消えない不安なのだ。

そうやって人は強力なストーリーを作り上げる。ストーリーは絶対的で、無敵で、リアルで、重く、周囲がすぐに信じるものでなければならない。しかもそれは、他者と交わす暗黙の取引でもある。あなたのしょうもないストーリーを信じるから、かわりに私のも信じてくださいよ。そうやって人は親友になり、自分の人生から一緒に逃げる。
そのうちにストーリーは人生の真実になり、だんだんと本人は言い訳続きの人生を重荷に感じるようになって、自己啓発の本を読んだり、アドバイスを求めたりする。だが、それでも気分は沈む一方で、だけどなんとか現状を変えたいから、やがて幸運とか宇宙の神秘とかの理論に行き当たり、運や流れが向いてくれば人生は好転するはずだと思い込む。そうやって、言い訳続きの人生を居心地いいものにしていく。苦しみを耐えられるものにすることで精いっぱいになっていく。

では、苦しみのサイクルを終わらせるにはどうすればいいのか。
まず、行動そのものではなく、自分が恐怖を感じる瞬間に着目しよう。怖くなるのはどんなときかを突き止め、恐怖に伴う具体的でよく見知った思考や感情、気持ちを明らかにしよう。怖くなったとき、あなたは汗をかき始めるだろうか。それとも心臓がバクバクいいだすだろうか。
そうやって自分の恐怖の感じ方が自覚できたら、今度はその恐怖を客観視してみよう。恐怖を言い訳には使わず、恐怖とともに生きることを学ぶのだ。恐怖を感じないようにするんじゃなく、恐怖に慣れる。受け入れる。評価を避けるんじゃなく、人間はみんなまわりから評価される定めだと覚悟する。演技を続けて今いる予測可能で安全な小箱にこもり続けるよりは、評価されるほうがマシだと理解する。
そう、人はまわりから評価される。だけどそれがなんだっていうんだろう。あなただってこの本を読んでいる以上、私(もしくは私の文章)を評価している。自意識過剰はもうやめにしよう。あなたはじゅうぶんうまくやっている。だからもう一段上の人生を歩もう。

キェルケゴールは言う。「挑戦は不安を生むが、挑戦しなければ自分に負ける。そして最大の挑戦とは、自分自身を意識することなのだ」
言い換えるなら挑戦、つまり行動を起こすことは、ある程度の恐怖、さらには不安を呼び覚まし、そして突き進むほどに恐怖も高まる。だけどそれは命を脅かすようなものじゃない。そういう恐怖を感じるのは仕方かない。怖いのは生きているからだ。
あなたがすべきは、それを理解して恐怖を脇へどけることだ。

正直になろう。現代人のほとんどは、安全この上ない人生を送っている。エアコンの効いたオフィスで働き、安全機能のついた車を走らせ、ショッピングカートやクレジットカードを使って消毒済みの食べ物を手に入れる。血のついた槍を手に森の中へ分け入り、鋤(すき)を手に自然の厳しさと格闘する必要はない。要するに、あなたの感じる恐怖のほとんどは、たいしたものじゃない。行動を阻むものじゃない。自意識に対する不安でしかなく、命の危険を伴う怖がるべき恐怖でいないのだ。
人はみな恐怖を感じる。だけどそれは、行動を起こさない言い訳にはならない。

『どうしようもない不安を乗り越えるとんでもなく賢い人生の送り方』 第5章 より ゲイリー・ジョン・ビショップ:著 高崎拓哉:訳 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊

恐怖は、逃げようとすればするほど、大きくなって私たちに迫ってきます。

まずは、恐怖の「正体」を見極めること。
得体が知れないから、必要以上に怖がってしまうということです。

もし、その恐れが現実になったとき、どんな苦しみを受けるのか。
それをしっかり把握して、自分に危害を加えないことを知ることができれば、恐れの大半は消滅します。

人間誰でも、不安や恐怖は感じてしまうものです。
問題は、その不安や恐怖の正体を見極めて、コントロールできるかが重要だということです。

「成功」とは、自分が今いる場所

「成功」も、私たちにとって大きなテーマです。

ビショップさんは、成功とはこれから向かう場所ではなく、自分が今いる場所だと述べています。

私たちがすべきは、何者かになろうとすることじゃなく、今という瞬間を使って現在の自分を表現することです。
それを続けていれば、“結果”はあとからついてきます。

ビショップさんが日々の取り組みの根幹に置いていること。
それは人生の責任を自分以外に負わせたとき、被害者面をする人生が始まるという言葉です。

 私たちの頭には、うまくいかないことがあると、すぐ自分以外のせいにしたくなる回路が備わっている。だからこれは、あなたに限った話じゃない。誰かのせいだとすぐ口にしようが、あとで言い訳しようが同じことだ。気に入らないことが起こった瞬間、人は犯人捜しを始める。誰かのせいにしたいという思いが稲妻のようなスピードで襲ってきて、エネルギーを奪っていく。
取引が失敗に終わった。くそっ。「全部ジョンのせいだ」。誰かがバーベキューにポテトサラダを持ってくるのを忘れた。ちっ。「なあ、君が持ってくるはずだったんだろ」
私たちはそういう思考を自動的にするのがどんどん得意になっていき、どんな問題でも正確に犯人捜しができるようになる。会社へ行く途中で車のタイヤがパンクしたのも、口座の残高が寂しいのも、昇進を見送るひどい上司のことも、なんでも一瞬で誰かのせいにできる技を身につけるようになる。

こうした器用な曲芸が自分にどんな影響を及ぼしているか、考えたことがあるだろうか。
自分に対して責任を持つことから意識的に逃げ続けていると、問題にしっかり取り組むパワーがいつの間にか失せていく。自分で握るべき人生という車のハンドルを、誰かに明けわたして運転を任せ、自分は後部座席でため息をつき、目を白黒させながら、人生が悪いほうへ悪いほうへと否応なしに進んでいくのを黙って眺めているようなものだ。
自分の人生に起こったことは、人のせいにしても解決しない。誰かを指さしたところでなんにもならないし、謝罪を待つのも無意味だ。最終的にそれがうまくいっても、自分のためにはまったくならない。
もちろん、本当に相手が何か過ちを犯しているのに、その責任を問いただしてはいけないわけじゃない。だけど人生で成功を収めたいなら、自分自身の小さな宇宙の中心に自分を置く方法を見つけなくてはならない。
視点を変え、自分の方に責任をすべて担い、状況や環境の被害者ぶるのをやめなくちゃならない。

責任を持つ過程は、「現実にこうなっている。じゃあどうする?」と自分に問いかけることから始まる。答えが見つからないなら、問題の原因として、さらにそこから抜け出す道として、自分自身が見えてくるまで見つめ続けよう。
人生を好転させ、お金や、尊敬や、評価といった称賛や栄光を得たいなら、同時にうんざりするものも一部じゃなく、すべて受け入れる必要がある。状況の責任を完全に受け入れられてはじめて、答えが見つかるかどうかも、決意やクリアーな思考が手に入るかどうかも、自分次第になる。
そのためには、心のアクロバットを成功させなくてはならないかもしれない。繰り返すが、ほとんどの人は「なんでも人のせいにする」曲芸人生を続けているから、回路をつなぎ直して今までの直感を克服する必要があるのだ。その過程で、自分がこれまでいかに被害者面をしてきたか、絶望感やあきらめを、人生を投げ出す言い訳に使ってきたからに気づくこともあるだろう。

自分にはそれができるということを、ぜひわかってほしい。なぜなら、あなたこそが人生のすべての答えだからだ。善いことも悪いことも悲劇も、成功も失敗も全部ひっくるめて自分の人生の当事者になったとき、すべてが始まる。
過去の出来事への責任逃れをしてもなんにもならない。責任を逃れる生き方と、責任を取る生き方の大きな違いは、運転を考えればすぐわかる。誰かに操縦を任せながら運転することはできない。逆に自分の足でアクセルを踏み、人生という獣(けもの)に息を吹き込んだのなら、発進したとたんに言い訳がましくなったり、罪悪感や屈辱感、後悔の念にさいなまれたりすることもない。当たり前だ。自分で車を運転し、まわりの状況を頭に入れ、集中しながら、目的地まで走りきるためにやるべきことをすべてやるのだから。
人生も同じだ。人生の流れという体験に責任を持とう。

あなたもきっといつか、私と同じように、その責任に気づくはずだ。
責任は人生最大のプレゼントだ。
ハンドルを握り、人生というすごいドライブを始めようじゃないか。

『どうしようもない不安を乗り越えるとんでもなく賢い人生の送り方』 第6章 より ゲイリー・ジョン・ビショップ:著 高崎拓哉:訳 ディスカヴァー・トゥエンティワン:刊

自分が望む人生は、自分にしかわからないことです。

行き着くべき“目的地”に向けて、“ハンドル”を握って自ら運転する。
それが「自分の人生に責任を持つ」ということ。

人生で起こることすべてが、自分の責任である。
そう決意したときから、本当の人生が始まります。

「責任は人生最大のプレゼントだ」

この言葉、心に刻みこみたいですね。

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自分の人生を変えるには、見方を変え、ユニークな考えに対して心を開き、簡単ないつもどおりの道ではなく、正しい道を進む必要があります。
言い換えれば、「自分自身になる」ということです。

ビショップさんは、そのためには、まわりに好かれ、受け入れられ、なじみたいからといって自分をねじ曲げ、装い、壊すのではなく、自分の信念に対して誠実になる必要があるとおっしゃっています。

生きるのがつらく、苦しいのは、他の人の価値観で生きているから。
心の奥底に眠っている“本当の自分”を無視し続けてきたからです。

自分が本当に望んでいることは何なのか。
自分が本当にやりたいことは何なのか。

今こそ、外に向いていた視線の方向を「自分の内側」に向けるときです。
本書には、世間の常識や偏見に囚われている私たちを解き放ち、本来のあるべき姿に戻してくれる「本当の知恵」がちりばめられています。
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