【書評】『ホワイトカラー消滅』(冨山和彦)
お薦めの本の紹介です。
冨山和彦さんの『ホワイトカラー消滅 私たちは働き方をどう変えるべきか』です。
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冨山和彦(とやま・かずひこ)さんは、経営コンサルタント、経営者です。
株式会社経営共創基盤(IGPI)の代表取締役CEOを務められるかたわら、数多くの一流企業の社外取締役を兼務されるなどご活躍されています。
AI革命がホワイトカラーの仕事を「消滅」させる!
2023年3月にリクルートワークス研究所が公表した報告書「未来予測2040 労働供給制約社会がやってくる」。
そこには、2040年に100万人の働き手が不足するという衝撃的なデータが掲載
されていました。
リクルートワークスが集計した図(下の図1を参照)では、2022年の時点で労働需要が依然として均衡しているようにも見える。若者の人口流入が続く東京圏を含めた全国の平均では確かにまだ何とか持っているのかもしれないが、私が警鐘を鳴らしたように、2013年の時点ですでに、地方のローカル経済では労働供給制約が始まっていた。
10年後の現在、当時より深刻度合いは増している。第2章で触れるように、人手不足によるさまざまな負の影響が露呈し始めている。このまま手をこまぬいていると、2040年どころではなく5年、10年というスパンで日本はきわめて厳しい状態に追い込まれる。
こうした労働供給制約社会が現実味を増す一方で、この10年で別の新たな問題が顕在化しはじめている。
三菱総合研究所の試算によると、2035年時点の労働供給市場において、約480万人の雇用減少が起きるという報告が出された。この最大の要因は、デジタル・トランスフォーメーション(DX)などによる省力化・効率化や、生成AIによって人間が行なっていた単純作業が代替されることである。この影響は、ローカル経済で販売やサービスを担う人材に及ぶ。もっともこれは、先ほど指摘した不足する労働供給を補うものとしてプラスに作用する。
むしろ、深刻な影響を受けるのはグローバル経済におけるホワイトカラーだ。仕事を奪われ、行き場を失う可能性が高い。
同じ試算で、三菱総合研究所は、2035年にホワイトカラー(事務担当)が180万人余剰になるとしているが、今後、グローバル経済圏におけるホワイトカラー、つまり都市部のオフィスでパソコンを前に働くビジネスパースンと呼ばれる人々の大半は必要なくなる。
そこでグローバル経済で勝負する企業が余剰人員を抱え続けると、人件費負担が重くのしかかる。あるいは余剰人員を抱え続けるためにDXの徹底が遅れる。これらは、グローバルにおける競争力の低下を招き、企業の稼ぐ力を停滞させる。すると、グローバル経済における過酷な競争に敗れ、日本の国力は低下の一途をたどる。
おそらく企業はこれまでのように余剰人員を抱え続けることができなくなるだろう。現に、不景気でもないのに継続的に40代以上の中高年のリストラを実施しているトップ企業は増え続けている。
一方、人手不足が深刻化しているにもかかわらず、ローカル経済における賃金上昇のカーブは緩(ゆる)やかなままで停滞していて、急激に進行しつつある物価上昇に耐えられなくなる恐れが出てきた。
このままでは、物価高で消費が停滞するインフレ下の不況、すなわちスタグフレーションに陥る可能性がある。日本の7割から8割を占めるローカル経済圏で生きる人々にとって回復不能な地盤沈下が進んでしまう恐れがあるのだ。従来、グローバル経済圏はローカル経済圏より生産性も賃金水準も高い。大雑把に平均すると倍くらいの違いがある。これはそのままホワイトカラー正社員サラリーマンと非正規の現場ワーカーの賃金格差でもある。東京大学の星岳雄(ほし・たけお)教授の分析によると、「失われた30年」の賃金停滞のもっとも大きな要因は、フルタイムワーカー(正規雇用)から時間賃金単価でその半分しかないパートタイムワーカー(非正規雇用)への移行が進んだことにあるようだ。
生産性格差を所与とし,この現象に素直に反応すると、所得の押し上げのためにグローバル経済圏の量的な再拡大とホワイトカラー正社員サラリーマンの再増加を政策的に模索することになる。いわゆる「分厚い中間層」の復活論というやつだ。
実際、国もそのためにさまざまな政策努力を続けてきたが、10年前に私が『なぜローカル経済から日本は甦るのか』で明らかにした通り、ローカルシフトには構造的な必然性があり、「分厚い中間層」復活論は大きな効果を上げていない。むしろその後も雇用のローカルシフト圧力は強まり、加えてこのあと縷々(るる)論じるようにグローバル経済圏の主役だったホワイトカラーサラリーマンというモデルが衰退モードに入りつつある。
こうした中で前述のような労働供給制約時代に入ったということは、漫然と従来の構造と発想を維持している限り、幻想の中間層モデルを追いかけながら、現実には賃金水準の国力は減退していくことになる。資源の乏しい島国である我が国とそこに暮らす人々の生活の持続性の危機はじわじわと深化していく。今、現象化しているスタグフレーション的な症状は、かかる構造問題が顕在化しているのである。
では、どうすればいいのか。
全体としての労働供給制約と、それを微分すると見えてくるグローバル経済圏の人余りとローカル経済圏の人手不足ーー。このような正反対の構造的不均衡を解消し、労働供給制約下の成長と実質賃金上昇を実現するためには、付加価値労働生産性を上げること、特に雇用者比率的な拡大を続けるローカル経済圏の生産性を大幅に上げるしか道はない。
実際2022年のデータで、ドルベースの国際比較において、日本の労働生産性はOECD加盟38か国中30位に低迷し、時間当たり52.3ドルでトップのアイルランドの約半分に甘んじた。名目なので為替の影響を受けるが、2022年は平均1ドル130円くらいであり、とくに円安感も円高感もない頃なので、低水準に低迷している事実は否定できない。これを、トップ水準を目指して思い切り引き上げるのだ。
付加価値労働生産性は、次の式によって求められる。付加価値労働生産性 =
付加価値額(売り上げ - 外部費用 ≒ 粗利) ÷ 労働量(人数 × 労働時間)式から明らかなように、付加価値労働生産性を上げるには、分子の粗利を増やす(売り上げを増やす・外部費用を削減する)か、分母の労働量を減らすしかない。
かつて世界最高水準の一人当たりDGPを誇った我が国の生産性は、なぜかくも低位に後退したのか。
付加価値労働生産性を上げる手っ取り早いルートは、IT化(デジタル化・DXなど)を積極的に進めることである。IT化は企業の管理業務を置き換えていく役割を担い、労働量の削減だけでなく、外部費用の一部も削減する効果がある。
しかし、日本ではIT化がなかなか進まなかった。
それは、もちろん経営者の能力が低かったことある。だが、企業には人材の余剰感があったため、真剣にIT化を進めると人材の余剰がさらに深刻化する恐れがあった。経営者が自覚的だったかどうかはともかく、そのせいでIT化に躊躇したという背景があったことは否めない。そういう意味では、それを乗り越える経営者の胆力、決断力が足りなかったということだろう。日立のように見事にそれを乗り越えた企業はあるのだから。
もう一つの要因は、日本社会が抱えてきたきわめて難しい構造問題である。
1990年代前半のバブル崩壊以後、「失われた30年」と呼ばれる停滞の間、日本社会には人材の余剰感が強かった。とくに、2010年代前半までの20年間については、明らかに人手が余っていた。
その主な要因は「人口のふたこぶラクダ」が生産年齢人口世代だったからだ。
1947年から1949年に出生した806万人におよぶ「団塊の世代」が、40代半ばから60歳の定年間際だったのがこの20年間である。加えて、1971年から1974年に出生した団塊の子ども世代にあたる「団塊ジュニア世代」も、1980年代後半から生産年齢人口に入った。そのため、この20年間は突出した人口を抱える世代が生産年齢人口に分布していたことになる。
日本社会は、この「ふたこぶラクダ」を吸収しなければならなかったが、バブル崩壊以降、経済成長率が急降下し、人材の余剰感はきわめて強かった。しかも、グローバル産業で戦う日本企業は、世界で急速に進みつつあった産業構造の転換についていけなくなった。グローバル化とデジタル化のダブルパンチで苦戦を強いられ、余剰人員を吐き出さなければ経営を維持することができなかった。
グローバル企業を中心に、日本企業は相次ぐリストラを行い、同時に新規採用を極端に絞り込む形で人材の余剰感を削った。その代償として行き場を失った人材の受け皿的に機能したのがローカル産業である。多くの人たちが、ローカル産業の非正規雇用や中堅・中小企業に流れた。
このとき、苦境に立たされたグローバル産業の多くが、世界との競争をお得意のコストダウンアプローチで生き残ろうとした。そこで国内従業員を一気にリストラして人件費の安い海外に活動拠点を移すと、失業問題がさらに深刻になりかねない。正社員として取り組むしかない。つまり、低価格戦略でなんとかビジネスを守り、余剰人員を抱えたまま経営を続けるという、低付加価値労働生産性戦略を選択することになる。グローバル産業における日本企業の概(おおむ)ねは、従業員に賃金上昇をできるだけ我慢させ、雇用の人数を安定させる方針を選択したのである。
「欲しがりません、勝つまでは」ーー戦時中のスローガンさながら、労使間の合意でも賃金よりも雇用を守ることが重視された。これが30年にわたる賃金停滞の真因である。一方、受け皿となったローカル産業も事情は変わらない。非正規雇用も中小企業もまったく同じで、付加価値労働生産性を上げると雇用の吸収力がなくなる。したがって、ローカル産業の中堅・中小企業は社会全体の調和のために低い労働生産性を受け入れた。政府も低生産性企業を色々な形で延命支援し、これを支えた。
人々が低賃金で働くことを受け入れ、利益を出すことよりモノやサービスの価格を下げて仕事をどうにか確保することを選択したのだ。
モノやサービスの価格を下げてしまうと、外部費用を積極的に削減しない限り付加価値額は下がる。IT化をせずに付加価値額の下落を受け入れるには、本来は分母の労働量を減らすしかないが、人材を切り捨てないとしたら、賃金を下げることを受け入れるしかない。ストレートに賃下げ、あるいは非正規化による実質賃下げ、長時間労働による賃金単価の押し下げなどなど、結果的にブラックなビジネスモデルが世に憚(はばか)ることになる。
こうしてグローバル経済圏、ローカル経済圏ともに付加価値労働生産性が下がり、賃金(≒付加価値労働生産性×労働分配率)停滞で消費が弱って、さらにモノやサービスの価格が下がるという負のスパイラルに陥った。
これは、典型的なデフレサイクルである。日本社会の「失われた30年」は、この負のスパイラル、もっと言えば現状維持的な低成長を容認することで、昭和の(正社員の)終身雇用と年功制を前提とした経営・社会モデルによる安定を引っ張ってきたのである。
ただし、その代償として手に入れたものもある。賃金が下がっても、同時に物価も下がっていたので、社会全体として極度の貧困状態に陥ることはなかった。
もちろん、相対的貧困問題はジワジワと深刻化していたが、これだけ賃金が増えず、経済が停滞した社会でも、安全や安心が大きく毀損(きそん)されることはなかった。人々の心がすさみ、スラムが出現し、うかつに街を歩くと刺されるという荒廃した状況にはならなかった。むしろ、凶悪犯罪は減り、日本を訪れる外国人から「日本はなんと安全で、リラックスして街を歩けるところか」と高い評価を得ているほどだ。それは、日本社会が「停滞なる安定」を選択し、30年にわたる経済の大停滞の代償として手にしたものだった。所得も税収も伸びず、少子高齢化も進むなかで家計の経済的安定を維持しようとすれば財政は悪化する。現在の極めて厳しい財政事情も「停滞なる安定」の代償なのだ。
仮に、日本社会が「失われた30年」を回避するために成長を選択していたら、もっと激しくダイナミックに産業、企業、事業、人材の新陳代謝を促さなければならなかった。当然、さまざまな摩擦や軋轢(あつれき)が生まれ、より多くの人々が劇的な変化、変容についていけなくなり、(それが一過性であっても)失業者になっていた、あるいはキャリアの出直しを強いられ、あるいはそれについていけずに格差の底に沈んでいただろう。日本社会はこれを回避するために、成長を犠牲にしたということなのだ。『ホワイトカラー消滅』 序章 より 冨山和彦:著 NHK出版:刊

冨山さんは、
日本社会が選択したこれまでの「デフレ的安定」から、いよいよ脱出しなければならない時期が訪れていると指摘します。
日本は今、賃金と物価が下がり続けるデフレ的均衡から、賃金と物価がどちらも上がり続けるインフレ的均衡に切り替わらざるを得なくなる
タイミングに差し掛かっています。
冨山さんは、日本経済をスタグフレーションの危機から救い、社会と経済の持続性を回復する道筋は、付加価値労働生産性を上げることに尽きる
とし、賃金上昇と労働生産性上昇のサイクルを構築するうえで重要なのは、外部労働市場を整備し、企業や事業や人材の新陳代謝を促進
し、労働生産性上昇のためのあらゆるイノベーションを促進し、労働生産性を高める新しいビジネスモデルや新しいテクノロジーを使いやすくする制度改革、規制改革を実行すること
だと指摘します。
本書は、日本が「停滞なる不幸」を回避し「ダイナミックな成長」「活力ある幸福」の時代を切り拓く
ために必要な処方箋をわかりやすくまとめた一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。
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AI革命でホワイトカラーの仕事が「ブルシット・ジョブ」化する
グローバル企業の経済的、社会的使命。
それは、グローバルにおける熾烈な競争に勝って日本の発展に貢献すること
です。
ただ、日本のグローバル企業の多くは、ホワイトカラーの雇用にだぶつきが
あり、この状態では、過剰な人員を抱え、不要な人件費を垂れ流したまま経営し続けなければならなく
なります。
さらに、冨山さんは、ここから、怒涛(どとう)の勢いで押し寄せる生成AIなどによる破壊的イノベーションがホワイトカラーの仕事をさらに奪っていく
と指摘します。
現状、人間でなくても対応できる、比較的間違いようのない問いに答える仕事は、世の中には案外多い。わかりやすい例は、カスタマーセンターの対応である。多数の問い合わせを分類すると、人間の判断が必要のない共通の問い合わせがほとんどだ。
かなりの部分の法律相談もそうだ。法律はアルゴリズムなので、限界事案は人間の判断が入るが、通常の事案は要件事実さえインプットすれば同じ答えになる。
会計、とくに簿記の処理も簡単に置き換わる。それは、ルールが決まっているからだ。つまり、ルールベースで動くもの、アルゴリズムベースで動く仕事は、確実に生成AIに置き換わる。ここに相当数のホワイトカラーの仕事が存在しているので、これは間違いなく減っていく。
今、簡単な原稿づくりなども初稿は生成AIでつくることが始まっている。しかし、そこから編集するのは人間にしかできない。編集においては、問いを立てる部分とディシジョン(決定)の部分は人間に残る。生成AIには問いが立てられないからだ。
意思決定には、ある種の直感や価値判断が必ず入り込む。逆に、それが必要ないものは本当の問いではない。「ボス仕事」は残るのである。
実際のホワイトカラーの職場は、ボス1人に対して部下が4、5人いる。だとすると、単純化すれば仕事は5分の1になる。あえて部下の仕事が残るとすれば、それは将来のボスになっていく人が、通過的にその仕事を経験する目的でしかない。いわばボスになるための教育プロセスとして、部下の仕事に取り組むという位置づけになっていく。
指示された仕事をある程度やっておかないと、AIを使うときにブラックボックス化してしまうからだ。AIは人間を真似ているが、真似られる側の仕事を通過体験的に行っておくことは、どうしても必要である。それは、付加価値を生む仕事ではないので、教育コストになる。顧客からお金を取れる付加価値を生み出す仕事は、ボスになってはじめて生まれる。グローバル経済における熾烈な国際競争に勝つためには、急速な進化を遂げつつある生成AIの導入は日本企業にとっても避けて通れない道である。
グローバル企業のホワイトカラー、より具体的にはデスクワーカーの仕事の多くは、すでに生成AIに代替され始めている。これからも、さらに代替が進むはずだ。生成AIの恐るべきところは、従来のIT化のようにオフィスの効率化、コストサイドイノベーションの枠を超えて、顧客に提供する付加価値サイドにおいて破壊的イノベーションを起こす可能性が高いことだ。
いわゆるネット時代の到来で、AVハードウェア産業周辺では、まさにこの付加価値シフトが起き、ネット上のソフトサービスへの付加価値シフトによってテレビやビデオ、ステレオ製造業は破壊的なダメージを被(こうむ)った。金融、会計、税務、法務、IT、広告、デザイン、コンサルティングや医療などのデスクワーク型サービス業では同様の付加価値シフトが起きる可能性が高く、産業丸ごと新しいタイプのプレーヤー、いわゆるディスラプター(既存の市場原理を破壊する可能性も秘めたベンチャー企業)、ゲームチェンジャーに取って代わられるリスクが出てくる。やられる前にやるしかない。「我が社は人間を補完するAI化を進める」などときれいごとを言っている場合ではないのだ。補完だろうが代替だろうが、どんどん導入を加速すべきなのだ。
ところが、日本企業の終身年功制のせいで、仕事もなく成果も上げていない「漫然とホワイトカラー」、さらには肩書も給料もインフレの「なんちゃって中間管理職」がなかなか減らない。
この破壊的変化に真剣に対応すると、「漫然とホワイトカラーせは淘汰されていき、新卒一括採用でホワイトカラーを目指す学生の採用も減っていくことになる。
ホワイトカラーに残る仕事は、本当の意味でのマネジメントである。現状、いわゆる中間管理職が担っている管理業務ではなく、経営の仕事だ。これまでは数多くあったホワイトカラーの「部下仕事」は、生成AIに急速に置き換わる。
問いのある仕事、正解がある仕事において、圧倒的な知識量、論理力、スピード、昼夜働く力に人間は勝てない。残るのは自ら経営上の問いを立て、生成AIなども使って答えの選択肢を創造し決断する仕事、すなわち「ボス仕事」だけである。いわば中間経営職ということになるが、そこで必要になる人員数は現状の中間管理職よりも一桁少なくなるはずだ。
企業は従業員に対して、数少ない「真のボス」ポストを目指して真剣勝負をしてもらうか、部下ホワイトカラーとしてAIの圧力で下がる賃金に耐えてもらうか、それとも人手不足かつ(後述するように)AI代替が起きにくいノンデスクワーカー技能職の世界に転職するか、を問うべきだと思う。冷たいようだが、長い目では厳しい現実を伝えないほうが不誠実だ。鬼手仏心(きしゅぶっしん)で臨むべし。
きわめて高度にクリエイティブなデスクワークも残るだろう。
クリエイティブなデスクワークとは、例えばデザイナーであればチーフデザイナーの仕事である。プログラマーであれば、プログラムを書く人ではなく、ソフトウェアの基本アーキテクチャを構築できる人である。文章を書くにしても、生成AIで事足りるウェブライターなどの仕事は代替され、記事としてのテーマを企画し、編集する人が担当する。アカデミー賞を取るような脚本を書く人もそうだ。誰もができる仕事ではなく、世界で戦える仕事に順化されていく。言わば「プロ」の世界のボスたちだ。これらの仕事で食べていける人は、これまたかなり限られた人だけである。
そうなると、社会全体として、ボス仕事を担うアッパーホワイトカラーだけがグローバル産業で生き残ることになり、ロウワーホワイトカラーは消滅していく、あるいは賃金水準は下がっていく。その人たちは、ノンデスクワーカーの世界に移動せざるを得なくなる。しんどい話にも聞こえるが、実はそれがグローバル企業の競争力を高め、ローカル経済の深刻な人手不足を埋めるために効果的な方法だ。
加えて日本の大学教育、特に文化学科は「漫然とホワイトカラー予備軍」を想定した教育を行っているので、これまた大きな変容を迫られざるを得ない。この点、日本の文系ヒエラルキーの頂点にいる東京大学法学部さえも例外ではない。2018年、デヴィッド・グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)が話題になった。グレーバーは、ホワイトカラーの5種類の無意味な仕事を挙げ、働き手は自分の仕事が無意味ではないふりをすると喝破(かっぱ)した。
アメリカは、日本よりははるかに高度なIT化を推進したため、ブルシットジョブが顕在化した。日本でも、いよいよブルシットジョブがあぶり出される時代になった。現在は「漠然とホワイトカラー」が最後の抵抗をしている状態かもしれない。
さまざまな時代で起こった産業革命は、必ずブルシットジョブを生み出す。
動力革命によって、筋肉の置き換えが起こった。労働者が農業から工業にシフトし、農作業の多くがブルシットジョブになった。
現在進行中のAI革命によって、脳の置き換えが起こっている。オフィスで働くホワイトカラーの仕事がブルシットジョブになり、ホワイトカラーが行き場を失いつつある。
もちろん、すべての仕事がブルシットジョブになるわけではない。完全代替はしない。非定型な仕事や複合的な仕事は人間の手に残る。とはいえ、従来の仕事のかなりの部分を機械やAIがやってくれるようになるので、置き換わる部分に関しては間違いなくブルシットジョブになる。
IT化、デジタル化の最終形態であるAI化には、やはり革命性があり、産業的、社会的に大きな構造転換とジョブシフトをもたらす可能性が高い(下の図2を参照)。
第一次産業革命時に起こった「ラッダイト運動」のように、仕事を奪われる恐怖や不安に駆られた労働者が、新たに導入された機械を打ち壊したい気持ちもわかる。同様に、現在のホワイトカラーが自分の仕事にしがみつきたい気持ちもわかる。
少し前までは、ホワイトカラーの仕事はブルシットジョブにはなっていなかった。懸命に勉強して少しでも偏差値の高い大学を目指し、誰もが知っている有名企業に入り、ホワイトカラーの仕事に颯爽(さっそう)と取り組むことを目指してきたのだから、その仕事がブルシットジョブになってしまうのは、つらい。この認知的不協和は時代の変化に対する抵抗感、反発心の温床になる。
でも、それに同情して現状維持を図っても時代は止まってくれない。
どのような時代でも、既存の仕組み(その多くはかつては新しい仕組みだった)に適応してその地位を確立して既得権を持つ人が必ず生まれる。仕組みが変わるときには、どの段階で変えても既得権を持つ人は抵抗する。これは、明治維新のときの士族と同様だ。明治当時、士族階級が不要になったのは、農民でも兵隊をやるように仕組みが変わったからだ。『ホワイトカラー消滅』 第1章 より 冨山和彦:著 NHK出版:刊

急激かつ破壊的なAI革命によって、グローバル産業から多くのホワイトカラーが行き場を失うでしょう。
彼らは、いったいどこへ向かえばいいのでしょうか。
冨山さんは、次に起こるシフトは、グローバル産業のホワイトカラーから、ローカル産業のエッセンシャルワーカーへのシフト
だと指摘します。
明治維新や産業革命に匹敵する大変革が、今、まさに起こっている。
そのことを改めて思い知らされますね。
「エッセンシャルワーカー」とは何か?
エッセンシャルワーカーは、ローカル経済の主な担い手ですが、深刻な人手不足に陥りつつあります。
エッセンシャルワーカーとは、人々が最低限の生活、あるいは快適な生活を維持するために欠かせない職業を指し、代表的な職種として医療、介護、交通、インフラ、物流、公共サービス、小売り、農水産に従事する人々
が挙げられます。
グローバル経済における多くの企業、とりわけ先ほどお話ししたホワイトカラーが所属するグローバル企業は、間接的にしか人々の生活に関わらない。そればかりか、景気などによって需給が左右されることも多い。家電メーカーは、製品として出荷されてはじめて人々の役に立つが、中で働いている人々の生活を直接意識することはない。大きな組織の歯車として目の前の仕事を日々こなしている。とくにホワイトカラーは販売管理系だから、もっとも間接的な仕事である。
これに対してエッシャルワーカーは、直接人々に対して付加価値を提供し、その対価を受け取る。感謝の言葉をもらうこともあれば、罵倒されることもある。質量のあるモノを扱い、生身のヒトを相手にしている仕事だ。また、どのような状況であっても、たとえばコロナ禍など社会が混乱しているさなかでも、人々の生活に必要な仕事である。エッセンシャルワーカーの働きは止まることがなく、直接的に誰かの役に立っている。
このエッセンシャルワーカーという言葉は、比較的最近言われるようになった。とくに頻繁に使われるようになったのは、コロナ禍の2020年ごろからである。
言うまでもなく、それまでも存在した仕事だった。だが、エッセンシャルであったことに誰も気づかなかった。改めてその重要性が見直されたのは、コロナ禍という社会が混乱した状況下だった。むしろ、その期間のホワイトカラーの仕事はそれほど重要ではなかった。誰が本当の意味で本質的な仕事をしているのか、誰が社会の営みに欠かせない仕事をしているのかーー世界はそこに気がついた。
本来、本質的な仕事をしている人は、相応の対価をもらうべきである。しかし、エッセンシャルワーカーは総じて賃金が安い。理由は二つあって、こうした仕事の多くは比較的幅広い人が従事可能で労働需給的には供給が多く、仕事の中身が労働集約的で資本装備による生産性を上げにくかったことがある。
しかし、ここに来て、世界的にこのセクターは人手不足に陥っていて、コロナ明けでもその状況はあまり変わっていない。中でも深刻なのは我が国である。先ごろ、タクシー運転手不足問題でいわゆるライドシェアの解禁問題が話題になったが、今後、運転手に限らずあらゆるエッセンシャルジョブに置いて深刻な人手不足に陥り、最低限の社会インフラ機能の維持さえも危うくなっていく。
そこで、エッセンシャルワーカーがさまざまなテクノロジーなどを駆使し、できるだけ少ない時間で、できるだけ多くの価値提供を行い、できるだけたくさんの対価がもらえるようにして担い手も増やし、実質的な供給力を増やさなければならない。これは、人手不足解消で社会機能の持続性を回復することであり、同時に働く人々の7割が従事するローカル経済圏の付加価値労働生産性と賃金と消費力を押し上げる、持続的な経済成長再生への(おそらくただ一つの)道でもある。
すなわちエッセンシャルワーカーの仕事の労働生産性を今の2倍、3倍、4倍へと押し上げられなければ、この国の未来はない。いくらグローバル企業が頑張っても、テックベンチャーが頑張っても、この国の社会基盤は崩れ、大半の日本国民が困窮に陥り、不幸になってしまうのだ。
このような高付加価値労働生産性の状態になったエッセンシャルワーカーを「アドバンスト・エッセンシャルワーカー」と呼ぶことにする。
もともとアドバンストになっている職業の典型が、医師である。医師は白衣を着ているが、その仕事の実質は典型的なホワイトカラーではなく、生身の患者さんを診察し、ときに往診し、手術をする。まさにデスク外のリアルな仕事で人の命と健康に関わるエッセンシャルな仕事をしている。
相当の勉強量を重ねて膨大な知識を保有し、適切な訓練が施(ほどこ)されたうえ、常に進化する医学というテクノロジーを吸収しなければできない仕事だ。人々は自分や家族の命や健康がかかっているため、保険制度という間接的なシステムではあるが、相応に高い対価を支払うことに躊躇しない。そして医師にはそれなりの所得は保証されている。これは医師が提供するサービスがエッセンシャルで価値が高く、かけがえのない仕事であるからだ。おそらくパイロットも近い類型のアドバンスト・エッセンシャルワーカーだろう。
他方、通常のエッセンシャルワーカーも実は本質的な仕事を担っているものの、業務特性として労働集約的な仕事なので、比較的労働生産性は低い。そのため、平成に入ってからのデフレと人余りの時代は、エッセンシャルワーカーは結果的に雇用の受け皿としての機能を果たしやすくなっていた。政策としてもそのメカニズムを利用せざるを得ず、政労使一致を見て、長くその役割を担ってきたのはすでに述べた通りだ。
実際、そこに非正規雇用をはじめとする弱い立場の人々が流れ込んだ。そのため、さらに労働生産性が下がるというスパイラルに落ち込んでいった。その構図は、日本だけでなく世界共通の問題となって噴き出している。労働者数が多いのに、労働生産性が低いために賃金の上昇が実現していない。この問題と移民問題が重なり合っている欧米諸国では政治情勢が極めて不安定になっている。ただ、繰り返しになるが、少なくとも日本では「労働者数が多いのに」という前提は完全に崩れ、元の過剰供給に戻る可能性はほぼない。分厚い中間層のある社会は健全である。1950年代の米国の白人社会がそうであったし、日本でも1960年代の高度経済成長期から90年代のバブル崩壊までは「一億総中流」の時代だった。社会的にも安定するし、生まれた家庭による不公平(いわゆる「親ガチャ」)は少なくなるし、家計消費力が堅調になるので経済成長の持続性も高い。
ただ米国も日本も「分厚い中産階級」が成り立った経済的な前提条件は大量生産・大量消費型の組み立て製造業の全盛期であり、それが崩れるとどうしても税と社会保障による所得再分配に過度に頼るようになり、結果、「成長か分配か」のジレンマに陥る。1990年代以降、米国は破壊的イノベーションの世界的エンジンとなることで成長力を取り戻したが、格差問題、分断問題が深刻化している。逆に日本は「停滞なる安定」を選択した。そしてエッセンシャルワーカーの仕事は、雇用の受け皿として分厚い中産階級が縮小することに対する安全弁としての役割も担っていたように思う。
このように日本で少子高齢化による労働供給制約社会が始まった今、エッセンシャルワーカーこそが質量ともに社会の主役となっていく波が拡大しつつある。
なぜなら、かつてはホワイトカラーが日本の中産階級を担ってきたが、第1章で説明した通り、ホワイトカラーは人手が余るフェーズに入り、それが回復する見込みがほとんどないからだ。さまざまな労働統計を見ると、ホワイトカラーは勤労者の3割から4割しかいない。すでに残りの6割はホワイトカラーではない。しかも、今後ますますホワイトカラーが減っていく流れは止められない。中高年サラリーマンだけでなく、全社会的、全世代的にジョブシフトは進んでいく。
そうなると21世紀の中産階級はローカル産業、とくにそこで働くエッセンシャルワーカーに担ってもらわなければならないのである。分厚い中産階級は社会を安定させ、経済を成長させていくうえで欠かせない存在なのだ。両極化するホワイトカラーのなかで、少数の富裕層がいくらお金を使っても、分厚い中間層の消費力にはかなわないからだ。
しかし、これまでのエッセンシャルワーカーは、むしろ低労働生産性(低賃金だが頭数での雇用創出力が高い)を梃子に雇用の受け皿になることで、ある種の社会的均衡がつくることは今や社会経済的な急務である。
そこでまずはエッセンシャルワーカーに多い非正規雇用の無意味な対正規雇用格差について、労働法の同一労働同一賃金規制、最低賃金制度や社会保険適用基準などの制度改革で徹底的になくすことが求められる。
それと同時に、経営的にはたびたび述べているようにエッセンシャルワーカーの付加価値労働生産性を上げる。裏返して言えば、政府は生産性が低い企業が人手不足や人件費高騰で淘汰されるのを黙って見過ごすべきであり、余計な支援をしないことである。
これが、これからの日本経済の成長においても、社会的なインフラの危機を回避する意味でも、最大公約数的な解になる。そのための方策については次章でさらに詳しく掘り下げる。
前にも述べたように、バブル崩壊後、非正規が増え、じわじわとローカル産業へ、エッセンシャルワーカー(ノン・デスクワーカー)セクターへと雇用がシフトするのに対し、政府(おそらく小泉内閣以外のほとんどすべての内閣)は四半世紀にわたり、それをふたたびホワイトカラー正規雇用に押し戻して「分厚い中間層」にしようとあれこれやってきた。非正規雇用を正規雇用に戻そうとする政策は、その典型例である。経済団体も、労働組合も、それによってホワイトカラーが復権すると夢想してきた。
しかし、それはうまくいかなかった。それどころか、ますますホワイトカラー中間層が危うい存在になっている。今流行りのEBPM(エビデンスに立脚した政策形成)的に言えば、エビデンスはもう十分。人手の余剰が続くホワイトカラーは、エッセンシャルワーカーにジョブシフトすることを前提に、新たな中間層を形成することを考えるべきなのだ。『ホワイトカラー消滅』 第2章 より 冨山和彦:著 NHK出版:刊
ホワイトカラーからエッセンシャルワーカーへの人材のシフトは、すでに大きな流れとして存在します。
それをさらに推し進めて、エッセンシャルワーカーが「分厚い中産階級」として社会の中核を担わなければなりません。
それを可能にするのが、「エッセンシャルワーカーの付加価値労働生産性を上げる」ことです。
そのためには、政策の大転換だけでなく、社会構造全体の抜本的な改革が必要になります。
エッセンシャルワーカーを「アドバンスド」する
冨山さんは、ローカル産業における中堅・中小企業の付加価値労働生産性を上げ、ホワイトカラーをエッセンシャルワーカーに労働移動させて人手不足を解消するには、エッセンシャルワーカーを「アドバンスト・エッセンシャルワーカー」に格上げする必要がある
と指摘します。
「アドバンスト」とは、「高度化した」「進化した」という意味合い
です。
今まで高生産性、高賃金とされていたホワイトカラーからのジョブシフトをスムーズに進めるためにも、エッセンシャルワーカー、ローカル産業のノンデスクワーカーがアドバンストになり、生産性と賃金が高くなる必要がある。この変化を実現することが、これからの日本の労働市場における最大のテーマだ。
繰り返すが、これまでのローカル企業とそこにある仕事は、雇用の受け皿にするために付加価値労働生産性が低くてもあまり問題がなかった。そのほうが労働需要は増え、頭数的により多くの雇用を吸収できるからだ。だが、もう雇用を吸収する役割は終わった。これからは、どれだけ高賃金体質に変えられるか、どれだけホワイトな職場にできるかが勝負になる。
もう一度確認するが、付加価値労働生産性は、労働価値(質)分の粗利で計算できる。分母の労働時間(量)が少ないほうが高くなるのは自明だ。分子の粗利を大きくするのはモノやサービスの値段を上げることなので、少ない時間でより高い付加価値を提供するには、質の高い働き手、したがって高賃金の労働者が必要になる。この循環がうまく回れば、付加価値労働生産性は上がり続ける。
日本経済を構成する要素のうち、資本は足りていないわけではない。今、圧倒的に足りないのは労働力、人的資源である。つまり、人的資源の生産性が経済成長を規定する社会になるので、社会の持続性という意味でも、賃金の持続的上昇という意味でも、経済成長という意味でも、あらゆる観点から見て必要な政策は、付加価値労働生産性の向上に尽きる。失業問題を考えなくてよくなったことで、政治家も経営者も労働組合も同じことを考えればいいというきわめてシンプルな時代に突入した。シンプルだからこそ、チャンスだとも言える。
しかしアドバンスト・エッセンシャルワーカーを新しい中産階級の中心にしていくには、教育体系にはじまり社会に出てからの能力開発に至るまで、教育、社会、経営、労働など、幅広い領域で我が国のあり方に関する大きなモデルチェンジ、すなわちソーシャルトランスフォーメーションが問われる。なぜなら明治以来、我が国の社会のありようにおいて、キャッチアップ型の工業化社会モデルで富国を目指すということを基本n軸に教育も社会もデザインされていることは、太平洋戦争を挟んで変わっていないが、そこに本格的なメスを入れなければならないからだ。
すなわち富国型の教育においては全国民に均質な初等教育を施して基礎学力(要は「読み書きそろばん」)を底上げしていった。当初は主に中等教育が現場人材を、高等教育(大学)が幹部候補と育成の場が分かれていたが、高度経済成長期頃から大学進学率が高くなった。
そして高等教育の役割は、産業界へ優秀なサラリーマン候補を送り出すべく、日本型のカイシャ(終身雇用、年功制、ジェネラリスト、メンバーシップ雇用)の仕組みにフィットする白紙状態で試験勉強(あらかじめ存在する正解にたどり着く能力)のできる若者、できれば協調性や空気を読む能力が高い若者(体育会のキャプテンタイプが理想)を育むことになった。要は、潜在能力が高く、白地の学生が好まれたのである。日本の大学(特に文系)独特のうんちく教養教育の重視と技能教育蔑視の風潮、さらにはモラトリアム的に4年間遊んでいることを容認する雰囲気もこれとシンクロしている。
企業においては、あえて専門性や即戦力性は求めず、若い時代は一様に雑巾がけをして時間をかけて出世の階段を上がっていく。その過程で〇〇会社の課長能力、部長能力と企業固有のスキル、能力を蓄積していく。男子はそういう日本型ホワイトカラーサラリーマンとなることを、女子はしばらく働いてからそういうサラリーマンと結婚して寿退職することを目指して成長していく。これが目指すべき標準的な生き方であり、分厚い中間層のモデルであり、そうした人々で構成されるのが日本社会という構図だった。
この仕組みが戦前において欧米列強に伍せるような急速な工業力の向上を可能とし、戦後においては奇跡的な復興と高度成長を可能にしたが、本書で繰り返し述べてきたように、この標準モデルは根底から崩れつつあり、元に戻ることはない。
そして次なる分厚い中間層を形成できる可能性のあるアドバンテスト・エッセンシャルワーカーの世界は明らかに従来のホワイトカラーサラリーマン型のモデルとは違う。本質的に技能職的、プロフェッショナル的な世界であり、それゆえに雇用の流動性も高くなるし、技術進化が続く中でその技能、プロフェッショナリティも更新を続けなければならない。漫然と組織の中で目の前の仕事をこなしていてもアップデートはできない。今言われているジョブ型へのシフトは、従来はホワイトカラーの仕事とされていた領域でも同じような変化が起きていることに起因している。
問題は極めて構造的で、変化の幅も大きい。だから対症療法では問題は解決しないのである。教育体系についていえば、私は初等中等教育に関しては我が国の仕組みは時代を超えて機能しており、また時代変化に応じた改良(例えば小学校へのプログラミング教育や英語導入など)も行われているので大きな変更の必要性を感じていない、あえて言えば、ある分野に卓越した才能に恵まれたギフテッドな子どもをどう扱うか、について課題は残るが、これは全体の数%の話で、一般的な制度論で対応すべき話ではない。
問題は高等教育である。文部科学省もこの問題には気付いていて、10年ほど前に「専門職大学」という技能教育に特化した大学制度の設立に取り組んだ。私もそれを検討する委員会のメンバーとなり、以前からの自説、すなわち総合的な教養を教え、アカデミアであれ、ビジネスや政策であれ、グローバルリーダーの養成を展望するタイプの大学(G型大学)は日本全国で10校くらいあれば十分で、残りの大学は専門技能の教育を行って地域社会に貢献できる人材を養成する技能大学(L型大学)に転換すべきで、専門職大学というのは例外的に捉えるべきではない、と論じた。
文系でも高尚な経済学よりもまずは簿記会計を徹底的に叩き込め、英語ならシェークスピアの原語ではなくTOEFLやTOEICで高得点する方法を教えるべき、とやった。
これが見事に炎上した。ネット上で「冨山何某は全大学人の敵」という有難いレッテルを貼られ、私はあっという間に大学業界の有名人となった。
理系は世界的にも評価の高い「高専」があるし、大学の教育も実務と大きな隔たりはないので、反発はそれほどでもなかったが、文系一般の反発は相当なものだった。しかし、聞いていて説得力のある反論はなく、要は「そんなことを言われても自分たちには実学教育の能力はない。あなたの言うような科目になったら自分は失業する」と言う怨嗟の声にしか聞こえなかった。
その後、どうなったかというと、少子化で学生集めに苦労している多くの普通大学がどんどん技能習得系の学科や資格取得に直結する学科を増やしていった。一つ格下と少なからずの大学人が見下していた高専の評価は国内外でうなぎ上りであり、最強の就職力を誇る世界のKOSENになっている。専門職大学でも中村伊知哉(なかむら・いちや)氏が率いるiU大学のようにイノベーションと起業を専門職と捉える先進的な教育機関が誕生している。
私は大学業界から追放されるどころか、多くの大学から講演を頼まれ、顧問を依頼され、母校の東大でも継続的に大学経営のお手伝いをしながら今日に至っている。
案の定、世の中の変化という現実が先行し、それに引っ張られる形で高等教育を巡る状況についても大きなシーソーが倒れつつあるのだ。
結論をもう一度言おう。高等教育は一部の本気でグローバル競争に挑む人材を鍛え、排出する少数の大学または学部と、圧倒的多数の人材を育む高等技能教育を行う大学に分かれていくべきである。漫然とホワイトカラー予備軍を大量生産する昭和な大学モデルには一刻も早く別れを告げるべきである。
ちなみに、最後に残る抵抗勢力が持ち出す議論が「教養」教育の重要性だ。そして慶應義塾の塾長だった小泉信三(こいずみ・しんぞう)氏が語ったとされる「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなるが、すぐに役に立たないもののなかにずっと役に立つものがある」という言葉を持ち出す。
ところが、肝心の慶應義塾創立者である福沢諭吉翁自身は『学問のすゝめ』において、いつ役に立つか立たないかわからない漢文や有職故実(ゆうそくこじつ)の勉強などをやっていないで、直ちに実用に足る実学を学ぶべきだという趣旨のことを言っている。
客観的事実に即して言えば、『学問のすゝめ』で提示されている実学のほとんどは昔もすぐに役に立ち、今も役に立っている科目である。
すぐに役立つものでずっと役に立つものと、すぐに役に立たないがいつか役に立つものと、どちらの数が多いか、少し考えれば自明である。昔も今も役に立っているものの多くはずっと役に立つ。その逆、すぐに役に立たないものがいつか役に立つ確率は低い。たいていはいつまで経っても役に立たない。
小泉信三氏の言葉の後半は確かにそういうこともたまにはあると思うが、前半部分はまったくの間違い。こんなわかったようなセリフで若い人たちを惑わすのは罪だと思う。
教養の原義であるリベラルアーツについては後でまた詳しくふれるが、起源は古代ギリシャの人間を自由にするための技法、すなわちよりよく生きるための知の技法である。技法と言う以上、当然に実践的なものであり、物知り博士的な知識の話ではない。
今日の大学教育で言うリベラルアーツは、そこから時が下がって英国の貴族階級、ノーブレスオブリージュで戦争があれば若くして死亡率の高い前線指揮官を務めることを義務付けられた若者に対して行うようになった全人格教育をベースとしている。だから大教室で教授のご高説、知識の切り売りを一方的に聴くと言うのはメインではなく、大量の読書を前提としたチュータリングによる少人数での議論や激しいスポーツなどを通じて心技体を鍛える教育である。日本の多くの教養系大学人が語っている教養教育≒リベラルアーツではない。この点、現代でも、リーダー的な職責を担う人材にとってリベラルアーツは極めて重要だが、それは私を敵視している大学人の皆さんが言っている教養とはまったく違うものである。むしろ体験的事実で言えば、技能教育過程で医療介護の現場、震災復興の現場、まさにローカルの現場に飛び込んだほうがはるかにリベラルアーツは身につく。ローカル経済圏の企業の多くは企業規模が小さい。また技能職的な仕事が多いので、今でも流動性が高い。看護師、介護士、運転手などは、スキルが企業横断的なものなので転職が比較的容易であるし、実質的に採用も職能採用、今で言うジョブ型なので、いわゆる日本型終身年功的な労使慣行になっていないところが多い。企業規模の小ささ、スキルの普遍性、流動性の高さから個別企業が長期的視点で人材育成をすることが難しい。
となると、学校のような社会的共通インフラでアドバンストにスキルアップする仕組みが重要になる。従来、専門学校がこの機能を果たしていたが、それをさらに一段レベルアップし、技術革新やビジネスモデルのアップデートが進む中で生涯型のリカレント学習ができる高等教育機関が極めて重要になってくる。繰り返すが、すでに世の中の7割ほどの勤労者がこのような職場で働いているのだから、高等教育一般にこうした役割を果たすことが主流になっていい。職業大学モデルこそが学部段階、大学院段階の両方でメインストリームを占めるべきなのだ。
アカデミックスクール至上主義からプロフェッショナルスクール重視へ、G(グローバル)型大学至上主義から、L(ローカル)型大学重視へ本格シフトする。そしてここでも両者を上下の序列で見ない、大学関係者のマインドセットの大転換が求められる。G型L型騒動のときにあった反発が「冨山何某は日本の大学の序列を固定化しようとしている」というものだった。当方は一言もGが上でLが下などと言っていないのだが、彼ら自身がそういう序列観、固定観念で凝り固まっていたのである。経営者教育の世界で頂点に立っていることになっているハーバードやスタンフォードのビジネススクールは正真正銘のプロフェッショナルスクールであり、この定義で言えば超一流のL型大学なのである。
欧米では日本のアカデミアにありがちな序列観はなく、ドイツなどの大陸欧州は学部段階から大学がアカデミアラインとプロフェッショナルラインに分かれているケースが多い。これから漫然とホワイトカラーというキャリアパスが衰退し、なんらかの技能職、ブロフェッショナリティが求められる時代において、高等教育システムに関して明らかに日本のそれは劣位にある。
この差が顕著に出ているのが観光産業のプロフェッショナル教育である。先進国の多くが観光業をこれからの基幹産業に位置付けていて、ツーリズムに特化した大学、大学院が設立され、そこから多くの人材を輩出している。日本でも星野リゾートの星野佳路さんが卒業された米国のコーネル大学が有名だが、今や世界ランキングではスイスやフランスの観光ツーリズム学校が上位を占めている。米国ではセントラルフロリダ大学(ここでは私と同世代の原忠之氏が教えている)やネバダ大学(ラスベガスやリノに立地)がランキングをどんどん上げている。いずれも世界有数の観光地、リゾートを抱えている場所であることは一目瞭然である。こうした地域の観光産業の成長、高付加価値化は、これら「グローカル」なプロフェッショナル高等教育機関が担っているのだ。彼の地のホテルなどのツーリズム関連企業の経営者はもちろん、地域単位で観光産業をけん引、経営するDMO(観光地域づくり法人)のトップもこうした機関で教育を受けた人材が多い。最近の数字だと、トップクラスの大学院の卒業生、概ね20代後半の初任給が15万ドルから20万ドルになっているそうだ。まさに超アドバンストな世界である。
ひるがえって我が国にはまだこの手の本格的な観光ツーリズム大学は存在しない。かろうじて観光学部をつくっている大学が和歌山大学をはじめ出てきているが、まだまだ「観光学」の域を出ておらず、本格的な観光産業、観光ビジネスのリーダー、経営者候補を鍛え上げるようなプロフェッショナルスクールの域には達していない。
日本でも欧米の成功から学ぼうとDMOが数多くつくられたが、その多くは従来の観光協会の域を出ておらず、その差はそれを担う経営人材の質の違い(他にもDMOの立てつけ、観光税などの財源の問題もある)にも起因している。これだけ世界クラスの観光資源に恵まれた日本に、世界クラスを目指すプロフェッショナルスクールをつくるべきことは論をまたない。そして、ここでも教えるべきは、観光産業を起立する基本経済性や産業構造とその変化動向であり、観光ビジネスの経営実務であり、観光ビジネスの経営実務であり、グローバル水準の経営やオペレーションノウハウとスキルである。あくまでも実学であって、アカデミズムに閉じこもった「学問」ではない。
残念ながら医学部、歯学部、獣医学部、そして高専を除いてプロフェッショナルスクールの伝統のない我が国では、この手の「高等職業専門大学」をつくることが難しい。文科省の設置基準や審査委員の頭の中身も高等職業専門大学の本質に対する手触り感がないので、どうしても従来の大学、大学院のモデルに引っ張られる。
ビジネススクールも随分とたくさんつくったが、放っておくとすぐ「経営学」に流され、経営実務家教育に関する組織能力が弱くなる傾向がある。シンプルに言語化するならば、文系的な世界も含めてどこもかしこも「高専」化を進めなければならないのだ。このあたりは文科省、大学関係者も本気でモード転換を急がないと、この国の未来も日本の大学の未来も危うくなる。『ホワイトカラー消滅』 第3章 より 冨山和彦:著 NHK出版:刊
ホワイトカラーからエッセンシャルワーカーへの人材のシフトがなかなか進まない。
その大きな理由の一つが、多くのエッセンシャルワーカーの待遇が改善されないことがあります。
待遇が改善されないのは、付加価値労働生産性が低いことが一番の要因です。
大切な仕事だけど、代わりはいくらでもいる。
その状況を、仕組みから根本的に変える必要があります。
G(グローバル)型からL(ローカル)型へ。
アドバンスド・エッセンシャルワーカーの養成は、大学だけでなく国全体で取り組むべき喫緊の課題です。
ホワイトカラーが身につけるべき「リベラルアーツ」とは?
今、終身年功型のサラリーマンモデルが終焉を迎えています。
ホワイトカラーの需要は減少の一途を辿っています。
一方、企業が抱える余剰のホワイトカラーサラリーマンは増え続けています。
彼らが新しい時代に適応するためのカギが「リベラルアーツ」です。
昨今、いわゆる「リスキリング」という言葉が流行っている。
とはいえ、言葉だけが先走りしている感が否めない。DX、CXの推進に伴って余剰人員があふれるグローバル企業のホワイトカラーがやるべきことを考えるうえで、リスキリングの本質的な意味について整理しておくのはきわめて重要である。そこで、まずは「スキリング」について言及することから始めたい。
そもそも、リスキリングはスキリングされていることが前提の議論である。だが、日本企業のホワイトカラーは「アンスキルド」と言っても過言ではない。大学時代にぼんやりと一般教養(リベラルアーツもどき)を「お勉強」しているが、ほとんどが突き詰めたところまで学んでいない。その水準では、アンスキルドにすぎない。
基本的に、リベラルアーツそのものを武器にして身を立てられる「スーパースキル」を手にできるのは、ほんのひと握りの人の話でしかない。多くの人々にとってリベラルアーツの共通価値は、もっと普遍的によりよく生きていくための基礎技能的な意味合いである。
この点、よく「リベラルアーツはいつか役に立つ」と言われる。だが、その言い方も誤っている。状況が役に立つかどうか、もっと言えば状況でその力を繰り出せるほどに身体化できているかどうかが有用性を決めるのだ。
例えば、自分の入った企業がすぐに潰れるような事態に陥ったとしたら、平時の企業で学ぶべきスキルは役に立たない状態になる。そのときにこそ、リベラルアーツがものを言う。前述の通り「よりよく生きるための知的技能」、すなわち思考や行動のベースとなるのがリベラルアーツだからだ。
リベラルアーツは、むしろマインドセットの問題とも言える。すぐに役に立つとは限らないが、ほとんどのスキル底流にある基礎能力であり、いざというときに本質的・決定的に役立つことがリベラルアーツと呼ばれるものである。基礎的素養と言い換えてもいいかもしれない。すなわち技法として身体化されていなくてはだめで、日本語でよく「あの人には教養がある」と言うときに使う物知り知識、うんちく知識では意味がない。
リベラルアーツには「基礎編」「応用編」がある。基礎編の基本要素は、いわゆる「言語的技能・技法」を指す。聖書に「はじめに言葉ありき」と書かれているように、人間は言語でものを考える。つまり「これが身についていないとものを考えられない」の「これ」を指すのがリベラルアーツである。
世界で仕事をしようとすると、英語を駆使できないと話にならない。ある国でコミュニケーションを成り立たせるには、その国の言語を習得する必要がある。自然言語をマスターしていなければものを考えられないし、コミュニケーションができない。その意味で、自然言語はリベラルアーツの基本中の基本である。言うまでもなく母国言語、すなわち日本人にとっては日本語の言語能力がまずは基礎中の基礎である。読む力、聞く力、話す力、書く力は人間がものを考える根っこである。
同様に、エンジニアリングの世界では、すべて数式で表現されるため、数学という言語的技能をマスターしていないとものを考えられない。数学に次いで熱力学や電気回路についても習得しなければ、実りある思考と議論ができない。
経済活動に従事するうえでは、経済学と簿記会計が欠かせない言語になる。法的ルールに基づいて社会の枠組みが構築されていることを考えると、基礎法学もこれに入るだろう。さらには統計学や基礎的な微分積分レベルの数学力も必要だ。企業の客観的・定量的評価方法は、財務数値に還元されるからだ。
以上、おわかりの通り福沢諭吉が『学問のすゝめ』に書いたような学科、古代ギリシャ時代にまでさかのぼればアルキメデスが築いた数学や物理などの基礎学問こそが、リベラルアーツ中のリベラルアーツ、実学中の実学なのだ。これは現代のビジネススクールの必修科目とも概(おおむ)ね重複する。最近の生成AIは作業としての言語的技能は代替してくれるか、考えるための言語能力を身につけていないと生成AIを使いこなすことはできない。だからこうした科目の重要性はこれからも変わらない。
また、高等技能教育機関で何を本当に教えるべきかについても同様で、当該技能領域で必要となる基礎的な言語的技能、肉体的技能を習得することが第一となる。その意味で専門職大学や高専ではリベラルアーツが学べないというのはまったくの虚偽である。もっと言えば次に述べる「応用編」についても、ぬるま湯のレジャーランド化している大学よりもはるかに学びのチャンスは多い。
現代のホワイトカラーサラリーマンにおすすめの学問があるとすれば、まずはこうした言語的技法を現代にアレンジして身体化することである。簿記会計は現代ならエクセルを使った財務三表の連動モデリング、および基礎的な企業財務技法(要は企業や資産の価値評価手法)の習得まで入るだろうし、デジタル空間でものを考えるときにプログラミング言語やAIの基礎構造、基本特性を理解しておくことは必要となる。まさに福沢諭吉の『学問のすゝめ』は現代にも生きているのだ。
言語的技法のいいところは、ものを考える手段として機能するレベルまでなら誰でも時間を使って反復と丸暗記をしていけば到達できる点である。ただ、若いほど習得率が早いので、今まで怠っていた人はできるだけ早いうちに習得努力を開始したほうがいい。社会人が働きながらゼロから始めると全科目習得するには早い人でも5年くらいは必要なはずだ。私が当時の言語的必須科目を概ね習得した実感を持てたのは30代半ばだった。
実はこうした言語的技法の基礎が身についてくれば、大抵のホワイトカラーは潰しが利く人材になれる。これらはビジネスパースンとして生きていく上で時代変化を超えて有効な「すぐ役に立ってずっと役に立つ」根本スキルであり、しかも日本のホワイトカラーの多くが身につけていない、すなわち身につければそれだけで十分な差別化要因になるからである。
また、これがしっかりとしているということは、スポーツで言えば体幹、足腰、心肺能力がしっかりしていることと同じなので、環境変化の中での学び直し力、リスキリング能力も格段に上がることになる。
ちなみに、残念ながらよくあるノウハウ本を読んでも、そもそもの言語能力がなけれは実戦には使えない。さまざまな人生の状況に対して「最初にありき」の言葉を持っていなければ、ものを考えられないからである。急がば回れ、である。とは言え、今さら言語能力と言われてたじろいでしまうホワイトカラーの人も多いと思うので、何点かその要諦をお話ししておく。
まず簿記会計やスプレッドシートは、ごちゃごちゃ言わずに丸暗記と反復から入るしかないので、市販の練習キットやソフトを買ってきてひたすら「借方・貸方」「モデリング」をやるしかない。かく言う自分も社会人になってから、あの伊藤邦雄先生から簿記会計の手ほどきを受け、スタンフォードの経営大学院に行っても会計理論などそっちのけでひたすら「簿記」をやらされた。モデリングも同じくである。否応なしに反復トレーニングをすることになるため、資格試験や学位を利用して動機付けを行うのは有効である。簿記会計なら簿記2級くらいが一つのいい目安だと思う。
次に自然言語の学び方だが、実は英語については中学レベルの英語で読む・聞く・話す能力が身についていればほとんどの人は十分である。これまた身体化が勝負なので、基本は丸暗記と反復によって語彙(ごい)と表現パターン、言語構造を叩き込むしかない。すなわちそんなに楽しい勉強ではないので、TOEICや英検といった資格試験を利用するのは悪くない。自分もちょっぴり帰国子女だったが、米国のMBAに行くためにTOEFLとGMATのスコアを上げる努力をしたことで英語力は飛躍的に伸びた。
ただ、外国語の習得は人によってはかなりの時間を要するので、私は中学レベルの英語でさえも職種によって不要だと考えている。ここに来てAIの飛躍的進化で翻訳ソフトはすごいことになっているし、音声自動同時通訳も早晩、人間の能力を超えるだろう。それよりもまずは、母国語である日本語の言語能力を固めておくことが大事なホワイトカラーのほうが多いと思う。
そこでの鍵は「読む力」と「書く力」である。私たちの日常生活のコミュニケーションは「聞く」ことと「話す」ことで成り立っている。だから普段から随分とやっているわけで、この二点だけ切り出しても意外と伸びしろはない。人間の知的活動としては文字と文章に関わるところがより高度で、そこに能力差が出る。だから「読む力」と「書く力」の学びにエネルギーを傾注することをすすめる。差が出るような「聞く力」「話す力」はその上に成り立つものである。
SNSの時代なので短文の読み書き能力は放っておいても向上するが、ビジネスパースンに問われる能力は、相当量のファクトを認識し整理し、一定の思考フレームワークを選択し、それらを当てはめて論理を構築する、さらにわかりやすく表現する力だ。仕事の世界で他人に物事を伝えるにはこうした最低限のファクトとロジックの「物語り」の基本構造が必要なのだ。言語化能力をセンスのように言う人が多いが、この物語りがしっかりしていることが前提で、そこから伝わりやすい語彙選択をする順番である。中身がない、中身がごちゃごちゃなものは、どう言語化してもぐちゃぐちゃである。
だから物語りの骨格はそれなりの長文になる。ざっくり言って最小単位は1500字くらい、原稿用紙3、4枚分くらいか。大きな論文になるとそれをさらに重層構造化していく。コラムには800字くらいのものが多いが、私の場合、いったん1500字くらいに膨らましてから、省略のアートで語彙選択や一部論理のスキップを行い、文字数を減らしている。物語りの王様で小説も実は同じである。短編か長編かは、層をいくつ重ねるか、の違いである。
ここで重要なのは、人間にとって読んで理解できないものを書くことはできないということ。だからそれなりの長文を読んで理解する能力がないと文章は書けない。そこで本を読むこと、長文を読むこと、それもできるだけいろいろな文章を読むことが大事となる。
今まで読んだ量が少ないと思っている人は今からでも遅くはない、とにかく濫読(らんどく)せよ、である。今から振り返ると、子どもの頃に好奇心に任せて読みまくった子ども百科事典、10代に格好つけて無理やり読んだ小説や哲学書、そして楽しくて読んだコミック、20代に入って嫌々読んだ大量の法律書、30代のはじめに大量に読まされたビジネススクールの英語のリーディングアサインメントに本当に救われている。もちろん仕事柄、最低限求められるレベルは違うので、多くのホワイトカラーにとって自分が経験したレベルの訓練は必要ないと思う。しかし、日本の大卒サラリーマン、特に文系のほとんどは長い文章を読む力が決定的に足りない。
それから「書く力」も同じで、いろいろな種類、言語領域の書き下し文をたくさん書くしかない。自分の場合、司法試験の論文試験準備で嫌というほど書かされたミニ論文、ビジネススクールでたくさん書かされた英語のペーパー、そして社会人になってからも仕事柄、小難しい文章から一般の人や中高生でもわかる文章まで、四十過ぎても、五十過ぎても結構な量を書き続けなくてはならなかったことが功を奏している。
ちなみに、パワポスライドを書く力は必ずしも文章を書く力を押し上げないので要注意である。あのフォーマットはかなり誤魔化しが利くからだ。アマゾンの会議では、パワポは禁止で、書く側(提案する側)も読む側(提案に対する議論に参加する側)も書き下し文で行うことを要求されるという話は、実は理にかなっている。最後に数理系の言語だが、ビジネスパースンとして必要な数理的言語能力は、実は高校までの学習要領の内容で十分だ。日本の初等教育は偉大なのだ。この限りにおいてはそれを問われる入試システムも有用である。私の時代の「数学Ⅱ」まで身についていれば、実はデリバティブさえも基本的なことは理解できる。できれば「物理Ⅰ」もセット有用である。これは数理言語で自然現象を表現する学域であるためだ。
自分もスタンフォード時代、大学受験で身につけた理数系学力にどれだけ救われたことか。もちろんデリバティブでご飯を食べようと思うなら、さらにその先まで専門スキルを磨かなくてはならないが、ビジネスパースンとして、マネジメント人材としてやっていくなら、今も昔も高校までの数学で十分である。
だから不安のある人は高校の教科書なり参考書で勉強し直すといい。今はリクルート社の「スタディサプリ」をはじめネット上の勉強アプリも充実している。我が国の入試システムのおかげで実に学びやすいシステムがごまんと用意されているのだ。
これはプログラミング言語も同様であり、ビジネスパースンにとってはデジタル技術をどう使いこなすかが本質的に重要なので、そのためにはコンピューターの仕組みと言語の基本構造を理解、習得することが必要十分となる。これはAIについても同じである。そこでコンピューターやプログラミング言語に関する基礎的な勉強を一通りやっておくことが重要となる。スーパープログラマーになるような道はほとんどのホワイトカラーにとって選択肢にならないので関係ない。ここでも学習ツールや(データサイエンスとAIについては私たちが松尾豊東大教授と立ち上げたGCI講座をはじめとして)研修プログラムはごまんと用意されているので、簿記会計と同じく資格なり修了証なり趣味なりで目標を設定して動機付けとし、学ぶことが有効だろう。『ホワイトカラー消滅』 第4章 より 冨山和彦:著 NHK出版:刊
冨山さんがいう「リベラルアーツ」は、仕事の職種や業種によらず、いつでもすぐに役に立つスキルのこと。
その中でも土台となるのが,日本語の能力「読む力、聞く力、話す力、書く力」です。
これらの力は、他のスキルを習得する速度やコミュニケーション能力の高さにも大きく影響します。
生成AIがいくら進化して、自動化が進んだとしても、人と人が関わる限り、人間に頼らざるを得ない力です。
人間に残された最後の、最も人間らしさが凝縮された能力。
それが「リベラルアーツ」だということです。
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☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
今、私たち日本人は、急激な人口減少と深刻な労働供給制約という極めて根源的で長期的な構造変化が顕在化
した過去の変曲点にはなかった、新しくかつ大きな変曲点
に立っています。
しかし、恐れることはありません。
今回の大トランスフォーメーションは、人手不足時代の到来が大前提にあるので、社会全体で見れば失業とそれに伴う貧困が長期大量に発生するリスクはほとんどない
からです。
冨山さんは、むしろ改革を迅速に進めて付加価値労働生産性を向上させることで、国民の多くの生活は向上するし、衰退するホワイトカラーサラリーマン身分の人たちもマインドセット技能のアップデート、すなわちリスキリングを正しく真摯に行えば、大半が新たな分厚い中間層の構成メンバーになれる
と指摘されています。
「ホワイトカラー」から「エッセンシャルワーカー」へ。
「G(グローバル)型」から「L(ローカル)型」へ。
労働力のシフトをスムーズに行えば、逆に、より生きやすく豊かな社会を創り出すことができます。
「ピンチの後にチャンスあり」です。
元々、勤勉で責任感の強い民族である日本人が、高い付加価値労働生産性を身につければ、怖いものなしです。
今こそ、国の総力を挙げて、この難局を乗り切っていきたいですね。
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