【書評】『「ゆるす」という禅の生き方』(枡野俊明)

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 お薦めの本の紹介です。
 枡野俊明さんの『「ゆるす」という禅の生き方』です。

 枡野俊明(ますの・しゅんみょう)さんは禅僧です。
 曹洞宗徳雄山健功寺の住職であり、庭園デザイナーとしても国内外から高い評価を受けられています。

「ゆるす」ための禅の教え


 私たち現代人は、多過ぎる情報の刺激にさらされ、ストレスを抱えながら生きています。

 些細なことでいら立ちを覚えるのは、ストレスによって心が乾いているからです。
 心が乾くと、しなやかさを失います。
 心がしなやかさを失うと、ちょっとしたことで動揺し、穏やかな状態ではいられなくなります。

 枡野さんは、ゆるしがたいと感じていることの中には、心が変われば、もっといえば、心がしなやかさを取り戻したら、ゆるせることがかなりあるのではないかと述べています。

 ものごとを「あるがまま」「そのまま」に受けとめる。
 禅の根本的な考え方はそこにあります。それは同時にゆるすための前提でもあります。たとえば、上司をゆるせないと思うことがあるかもしれません。しかし、ゆるせないのは、「上司ならこうあるべきだ」という自分の価値観に照らして、相手を見ているからです。自分のものさしを相手に押しつけているといってもいいと思います。
 それならば、ものさしを一度外してみることです。すると、「人はそれぞれなのだから、このような人がいても不思議はない」と思えてきます。それが、あるがまま、そのままに受けとめるということでしょう。そう考えられたら、他人のふる舞いも違った捉え方ができませんか? 上司がどうであろうと、憤りを感じたり、怒りを覚えたりすることなく、自分は自分のやるべきことに集中できる。逆にそんな上司に振りまわされない自分でいられるのです。それは広い意味で、相手を「ゆるしている」ことになるのだ、と私は思います。

『「ゆるす」という禅の生き方』 はじめに より 枡野俊明:著 水王舎:刊

 本書は、日常の様々な「ゆるしがたい」状況について、禅の視点から導かれる対処法をまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「えこひいき」に心を乱されないためには


 仕事上での「ゆるしがたい」ことに、「上司が特定の人間をえこひいきしている」ことがあります。
 自分以外の誰かが、上司から特別に目をかけられると、つい、心を乱されてしまいます。

 枡野さんは、そのような状況に陥ったときの対処法を以下のように述べています。

 えこひいきや優遇などは「されなくて幸(さいわ)い」と受け取ったらいかがでしょう。えこひいきを受けて“いい思い”をしても、それは一時的なものでしかないのです。やはり、自分を磨いて確実に力をつけていくというのが、ビジネスパーソンが本来歩むべき王道でしょう。
「それでは、自分がえこひいきをされている立場だったら?」
 上司の都合ですから、そういう状況もあり得ます。ここはふる舞い方がポイントです。もっとも控えるべきは、えこひいきされていることを鼻にかけるふる舞いです。それでなくても周囲は苦々しい思いで見ていますから、上司の覚えがめでたい自分は特別な存在、みんなとは違うのだといった言動は、その思いを煽(あお)ることになります。
「ちょっと目をかけられているからって、調子に乗っているんじゃないよ」
「いい気になっていると、そのうち墓穴を掘るぞ」
 といった空気が蔓延する。えこひいきしてくれていた上司が去って、周りが敵ばかりということにもなりかねないのです。
 禅では「自然」を「じねん」と読みますが、その意味はたくらまないこと。すなわち、素の自分を失わないということです。これが働く上での基本姿勢ではないでしょうか。えこひいきされていることで自分を大きく見せたり、偉ぶったりするふる舞いは、厳(げん)に慎むべきだと思います。
 その上で、周囲に対しての気配り、心配りのあるふる舞いが望まれます。忙しそうにしている同僚には「何か手伝うことがあったらいってね」などの声をかける、「おはようございます」の挨拶をみずから率先してする、といったことを着実に実践していくことです。その心得があれば、“不幸にして”えこひいきをされたとしても、惑わされることも、振りまわされることもありません。

『「ゆるす」という禅の生き方』 第1章 より 枡野俊明:著 水王舎:刊

 世間の評価、評判などは、実に変わりやすいものです。
 風向きによっては、一瞬で山頂から谷底に転げ落ちてしまいます。

 実力以下の評価に腐らず、実力以上の評価に驕(おご)らず。
 つねに謙虚に、自分のすべきことに全力を注ぐ。

 そのような姿勢を保つことが、世間の荒波をくぐり抜けるポイントです。

人と人とのつき合いはすべて「縁」


 人付き合いは、多くの人の悩みの種です。

 周りから「よい人」と思われたい。
 そんな思いが、精神的な重荷となり、自分自身を苦しめます。

 枡野さんは、そんな悩みを抱えている人に、以下のようなアドバイスを送ります。

 誰かとうまく付きあいたいという思いの底には、ともすると損得勘定が蠢(うごめ)いていることがあります。
 あの人と親しくなったら、かなりメリットがありそうだ、あの人に信頼されたら、いいポジションに引き上げてくれるかもしれない、人脈がグンと広がるのも期待できる――。
 そんな損得勘定が“よい人”になることを唆(そそのか)すのです。そして、心ならずも相手が望む虚像に自分を近づけざるを得なくなる。しかし、そんな人づき合いはやめるべきだとは思いませんか? ありのままの自分でいいのではないですか? 人と人とのつき合いはすべて「縁」です。自分らしいままで、自分らしい縁を結んでいけばいいのです。
 しゃべりが苦手なら、話し好きな人とつき合わない。引っ込み思案な性格なら、主張が強い相手が好みという人と無理に縁を結ぶことはないのです。
 朴訥(ぼくとつ)とした話し方に誠実さを汲みとり、親しくなりたいと感じる人は必ずいます。控えめな姿勢に奥ゆかしさ、慎ましさを見て、好感を持つ人は必ずいます。
 自分らしくしていたら、自分にふさわしい縁が結ばれるのです。その縁を大切に、丹念に育てていきませんか?
 禅語にこんなものがあります。
「花無心招蝶、蝶無心尋花(はなむしんにしてちょうをまねき、ちょうむしんにしてはなをたずぬ)」
 蝶を招く花、花を訪ねる蝶も、お互いに私心などどこにもなく、ただ、自分の本分をまっとうしている。それでいながら、両者は縁を結び合い、花は蝶に蜜を与え、蝶は花の花粉を運ぶという役割を担っている、という意味です。
 人と人の縁もそのように結ばれるのが本物だと思います。
 本分をまっとうするとは、自分らしくある、自分らしく生きる、ということです。そうしていれば縁は必ずめぐってきます。
 人づき合いにうまいもヘタもありません。私はそう思っています。
 その縁の中で、相手を思いやる自分、自分を思ってくれる相手を感じられるかどうか――。
 大切なことはその一点ではないでしょうか。

 『「ゆるす」という禅の生き方』 第2章 より 枡野俊明:著 水王舎:刊

 損得勘定が結びつける人間関係は、虚しいものです。
 どちらかにメリットがなくなれば、すぐに切れてしまいます。
 そんなもののために、多くの労力を割くのは、ばかばかしいですね。

 損得がなくても、お互いに自然と引き寄せられて、離れない。
 それが、本当の人間関係です。

「花無心招蝶、蝶無心尋花」

 あるがままの自分で、蝶と花のような関係を築いていきたいですね。

立ちはだかる「壁」の乗り越え方


 人生では、何度も「壁」にぶつかります。
 そして、目の前の壁を乗り越えていくことで、人は成長をします。
 枡野さんは、壁を前にして立ちすくんでいる人に、以下のようなアドバイスを送ります。

 どう壁に挑んだらいいのかは、悩ましいところかもしれません。しかし、ヘタな考え休むに似たりです。いくら考えていても、一気に壁を乗り越えるような方法などはないのです。まず一歩進んで、とにかく行動する。それしかありません。
 仕事のプロジェクトの進行中などでも、問題が生じることがあると思います。そんなときは連日ミーティングを開いて、対策を話し合っていても、プロジェクトは前に進みません。具体的な行動が問題解決への道を開くからです。
 過去のデータを徹底的に検証する、その分野の知識を持っている専門家に足を運んで話を聞く、問題解決に繋がりそうなことは、とにかく何でもやってみる。
 石でせき止められた水の流れは、その石を取り除くことでしか、ふたたび流れ始めません。石を取り除くという行動が、停滞状況を打ち破るのです。
 こんな禅話があります。
「三級浪高魚化龍(さんきゅうなみたかうしてりゅうとかす)」中国の夏王朝を開いた禹(う)帝が黄河の治水をした際、上流にある龍門山を三段に切り拓いたために、三つの滝ができます。「龍門三級(龍門瀑)」と呼ばれたその滝を登ろうと、たくさんの鯉が挑みます。しかし、なかなか登り切ることができない。滝を越えられるのは、あくまで挑戦をあきらめず、挑み続けた何万匹に一匹ですが、その鯉は天に昇っていくというのがこの禅話の内容です。
 到底できそうもないと思えることでも、挑戦をあきらめずに行動を重ねていけば、いつかは達成でき、新しい境地が開ける、ということをこの禅語は語っています。
 動けば景色が変わります。壁に近づけば、何かとっかかりがあるかもしれない。そこに手をかけることが、壁を登る第一歩になります。米国メジャーリーグで大活躍し、シーズン最多安打記録を塗り替えたイチロー選手は、こんなことをいっています。
「壁というのは、できる人にしかやってこない。越えられる可能性がある人にしかやってこない。だから、壁があるときはチャンスだと思っている」
 けだし名言です。ポジティブ・シンキングとはこうした考え方をいうのです。壁は試練であると同時にチャンスでもあるのです。

 『「ゆるす」という禅の生き方』 第4章 より 枡野俊明:著 水王舎:刊

 失敗は、誰にとって怖いものです。
 しかし、失敗を恐れて挑戦することを諦めてしまっては、壁を乗り越えることは絶対にできません。

 壁は、越える可能性がある人にしかやってこない。
 どんなときも、自分に与えられたチャンスに、全力で向かっていきたいですね。

「不動心」の本当の意味とは?


 うれしいことや楽しいことがあれば、喜び、心がウキウキと弾む。
 逆に、悲しいことやつらいことがあれば、悲しくなり、心はシュンと沈む。
 人として、そのような感情を持つことは、自然なことです。

 ただ、それらの感情が心にとどまり続けるのは、ちょっと問題ですね。

 喜怒哀楽の感情で心が動くのは自然なことですし、そこにこそ人間らしさがあるのだと思います。問題はその後でしょう。

 禅にはこんな言葉があります。
「八風吹不動(はっぷうふけどもどうぜず)」
 生きている間に、人は様々な風に吹かれます。つまり、いろいろな状況に遭遇する。ここでいう八風とは、「利(り)」「誉(よ)」「称(しょう)」「楽(らく)」「衰(すい)」「毀(き)」「譏(き)」「苦(く)」の八つのこと。それぞれ、成功すること、陰で褒めること、面と向かってほめること、楽しいこと、失敗すること、陰でそしること、面と向かってそしること、苦しいこと、を意味しています。
 この風の中で生きるのが人生。しかし、どの風が吹いても動じないで生きなさい、というのがこの禅語の意味です。地上に風が吹き渡れば、草木も揺れますし、砂も吹き飛ばされます。しかし、そんな中でも天辺(てっぺん)の月は動くことなく、静かな光をたたえている。心もまた、その月のようにあるのがよいというわけです。
 禅では月を真理の象徴ととらえています。たしかに、真理を究めた人ならば、月のごとき心のあり様でいられるのかもしれません。
 しかし、それは理想であって、誰もが容易に到達できる境地ではありません。そうであるならば、こう考えたらいかがでしょう。
 そのときどきの状況の中で心が動くのはいい。ただ、それは瞬間であって、すぐに静かな状態に戻る。たとえば、竹は風が吹く方向に逆らうことなくしなります。しかし、風が止めばスッと背筋が伸びるように、もとの姿に復(かえ)りますね。心に求められるのはそうしたしなやかさです。
 世間では、「不動心」という言葉がよく取りざたされます。何ごとにも動じない心と受け取られているようですが、本当の意味は違うと思います。戻るべき場所がわかっていて、動いてもすばやく、しなやかにそこに戻ることができる心。それが本当の不動心なのではないでしょうか。
 つらいことがあってへこたれそうになっても、ふっと思い返して前向きな心に戻っていく。嬉しいことがあり、舞い上がりそうになっても天狗にならず、平静な心に戻っていく。そのようにしてこそ不動心といえるのではないかと思います。
 何があってもまったく動じないという状態は、一見強く見えても、じつは脆(もろ)さと背中合わせです。巨木はしなることなく、強風にも耐えますが、風の勢いがさらに増すとポキリと折れてしまいます。動じない心もそれに似ています。
 心が感じたまま、素直にしなる。それでいいのです。ただし、そうした気持ちは瞬時のここと捉え、すぐまた静かな心にしなやかに戻る。
 喜怒哀楽を晦(くら)まさず(誤魔化さず)、とらわれず、の心を育ててください。

 『「ゆるす」という禅の生き方』 第5章 より 枡野俊明:著 水王舎:刊

「不動心」の“不動”とは、「微動だにしない」ということではありません。
「一所に留まり続ける」という意味です。

 さまざまな方向からの“風”に吹かれて揺れ動きながらも、決して自分の立ち位置を忘れない。
 風が収まれば、すぐに元の位置に収まることができる。

 そんな「竹」のようなしなやかさ、柔軟さ。
 ぜひ身につけたいですね。

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 禅の言葉に、「雲無心(くもむしん)」という言葉があります。
 雲は、風の向くまま、形を自在に変えながら、流れていきます。
 それでいて、どこにあっても、その本質が変わることがありません。

 雲は、まさに「心をひとところにとどめないこと」という、“無心”の境地を象徴する存在です。

「ゆるせない」のは、過去の出来事にこだわりや執着を持っているから。
 それらをすべて手放し、自由になることが「ゆるす」ということです。

 悩みや苦しみから解放されて、「今」を生きる。
「ゆるす」ことは、相手のためというより、むしろ自分のため。

 禅の教えは、心に余裕がない現代人こそ、参考にすべき“生きるための指南書”といえます。

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