【書評】『禅が教える 人生の答え』(枡野俊明)

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 お薦めの本の紹介です。
 枡野俊明さんの『禅が教える 人生の答え』です。



 枡野俊明(ますの・しゅんみょう)さんは、曹洞宗徳雄山健功寺の住職であり、庭園デザイナーとしても国内外から高い評価を受けられている禅僧です。

「はからいごと」から解き放つ


 枡野さんは、「人生の答え」について、以下のように述べています。

「人生の答え」は、けっしてひとつではない。それぞれの人たちに、それぞれの答えがある。ひとつの人生の中にさえ、星の数ほどの答えが隠されている。そして、その一つひとつの星は、どれもがキラキラと輝いてるわけではありません。たとえ今、輝きを放っていたとしても、いつかはその輝きがくすんでくる。今は暗闇に隠れている星でも、未来に輝きを放つこともある。
 もしも「人生の答え」なるものがあるとすれば、それは人生を歩く中でどんどん移り変わっていくものなのかもしれません。その中のひとつの答えをしっかりと手にしようとすることは、霞の中の一粒の水滴をつかもうとする行為に似ている。私はそう思います。

 『禅が教える 人生の答え』 序 より  枡野俊明:著   PHP研究所:刊

 そもそも、禅の世界には「答え」という発想さえ存在しないとのこと。
 禅における「真理」である「仏」についても、「これが仏だ」と開示できるものではありません。

 ある禅師は、仏はそこら中にいる。その辺の垣根や壁、足下に落ちている石の中にいるという言葉を残しています。

 枡野さんは、この言葉を噛み砕いていえば、「仏とは、はからいごとのないところにこそ存在している」ということになると述べています。

 大自然の中に身を置くと、人間は清々しい気分になります。
 現世で起きている嫌な出来事からも、少しだけ解放された気分になり、重くのしかかっていた不安感も薄らぐことがあります。

 枡野さんは、それはきっと、「はからいごと」のまったくない世界に身を投じるからだと説明しています。

 損得勘定のない、計算のない世界にこそ「真理」があり、「仏」の姿が現れる、と説く枡野さん。

 本書は、偉大な前人たちの智慧の結晶である禅の教えを通じて、「人生の答え」を探す多くの人々のヒントとなるべく書かれた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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生かされていることを知ってこそ、周りを生かせる


 枡野さんは、私たちは自分の力で生きているのではない。何か大きな力によって生かされている。そのことに気がついた時、すっと心が軽くなるような気がすると述べています。

 さらに、周りのものを自分の都合に合わせようとするのではなく、まずは周りのもののためになることを考える。こうした姿勢こそが、禅の基本となる姿勢だと強調します。

 枡野さんは、庭づくりの秘訣に触れて、以下のように述べています。

 石には「石心」がある。草花が雨粒ひとつにも心がある。その石がもつ隠れた表情がだんだんと見えてきます。その表情が見えた時、その石をどこにどのように捉えれば、一番美しい姿に見えるかが自ずと分かってくるものです。一本の木を植える時も同じです。どこにどのように植えてほしいのか。木の声に耳を澄ますこと。これこそが、周りのものを生かすということなのです。
 人間の社会も、これとまた同じであると思います。ついつい私たちは、周りの物事や人間を自分の都合に合わせようとします。「こうするとあなたのためだ」といいながら、結局は自分の都合のいいように動かそうとする。他人を生かすふりをしながら、自分を中心に考えることがままある。まさに「はからいごと」の社会です。
 邪念や我欲ばかりにとらわれていてはいけない。何らかの目的や夢をもつことは大切なことです。それらは生きる上での大きな支えにもなります。しかし、それだけに執着してはいけません。自分の夢ばかりに執着してしまうと、周りのものが見えなくなってしまいます。他の人があなたを支えてくれていることを忘れてしまいます。そして結局は、自分の夢さえも見失うことになるのです。

 『禅が教える 人生の答え』 第1章 より  枡野俊明:著   PHP研究所:刊

 存在するすべてに意味があり、命があります。
 今、ここに自分がいるのは、周りに働いている「大きな力」のおかげです。

「生きている」ではなく、「生かされている」。

 そういう感謝の気持ちは忘れないようにしたいですね。

心配や不安はいつも浮かんでは消えていくもの


 人間はもともと孤独な存在です。
 生まれてくる時も、死ぬ時も、独りです。

 そういう意味からすれば、人間とは「個」の存在であることは間違いありません。
 枡野さんは、孤独になることは悪いというのではなく、孤独を必要以上に恐れてはいけないと述べています。

 ただ、その一方、そんな孤独な生きものであるからこそ、けっして独りでは生きてはゆけないと指摘します。

 自ら引きこもっている人というのは「孤独」を味わっているのではなく、「孤立」の中でもがいているのでしょう。
「非思量」(ひしりょう)という言葉が禅語の中にあります。これは坐禅を組むときの心構えを教えた言葉です。坐禅を組む時には、いっさいのことを考えてはいけません。頭の中にある考えをすべて捨て去って、空白の状態で臨むわけです。とはいっても、何も考えないということはなかなか人間にはできるものではない。どうしても何かを考えてしまうものです。足が痛くなれば「早く坐禅の時間が終わららないものか」と考えますし、寒さを感じれば「もうすぐ冬だな」と考えてしまう。それは当たり前のことです。
 何かを考えることは仕方がない。しかし、その考えに執着せずに、すっと受け流すようにする。色々な考えが頭の中で浮かんでは消えていく。そういう状態を求めることが「非思量」なのです。

 『禅が教える 人生の答え』 第2章 より  枡野俊明:著   PHP研究所:刊

 心配や不安は誰にでもあり、浮かんでは消えていき、なくなるものではありません。
 大事なことは、それらにとらわれないこと。

 枡野さんは、自分を苦しめる妄想から逃れるには、頭の中で考えてばかりいないで、とにかく外に出かけることだと指摘します。

 体を動かしていれば、余計なことなど考えなくなるものですね。

曖昧という変幻自在の心をもつ


 枡野さんは、あまりいい意味で使われることがない「曖昧」という言葉は、裏を返せば変幻自在の心をもつことでもあると述べています。

「悟無好悪」(さとればこうおなし)という禅語があります。「人に対しても、あるいはどんなことに対しても、先入観をもつことなく、あるがままの姿を認めることさえできれば、好き嫌いなどはなくなってしまう」という意味です。
 思えば人と人との関係は、とても不思議でとても曖昧な縁で成り立っています。夫婦になるのもそうです。同じ時代に生まれたもの同士が、何かの縁があって出会う。それは生まれつき決められていたものではなく、不思議な縁がふたりを結びつける。出会って結婚する人もいれば、別れてしまう人もいます。それもまた明確な理由があるわけでなく、言葉には言い表せない縁なのでしょう。
(中略)
 そんな「曖昧で素晴らしき縁」を大切にしたものです。相手と自分との関係。そんなものを決めつけたところで意味などありません。もしも望まない縁だと思っても、あえて切ることもせず、自然の流れに委ねていればいいのです。人生の中で、自分にとって善き縁は必ず残っていきます。自分が望まない縁というのは、必ず消え去っていきます。不思議なもので、縁とはそういうものなのです。
 今自分の周りにあるたくさんの縁。その縁に感謝しながらも、執着をしないことです。「この人とは一生つきあいたい」「この人とは早く別れたい」。一時期の感情から決めつけてしまうのではなく、なんとなく曖昧なままにしておけばいいのです。それはけっして優柔不断ということではなく、生きていくためのひとつの知恵だと私は思っています。

 『禅が教える 人生の答え』 第3章 より  枡野俊明:著   PHP研究所:刊

「好き・嫌い」「良い・悪い」を決めつけないこと。
 それが、選択肢の幅を大きく広げることにつながります。

 人間関係でも同じです。
 曖昧さがつなげる縁も、たくさんあるということです。

「一期一会」

 すべての人との出会いに感謝し、「曖昧で素晴らしき縁」を大切にしていきたいですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

 人を幸せから遠ざけるものは「執着」です。

 人、カネ、モノ、名誉などを必要以上に追い求めることが、すべての苦しみの始まりです。

 執着は、外からくるものではありません。
 自分の中から生まれるものです。

「禅の教え」は、自分の中の執着を一つひとつ取り除いていくためのヒントを与えてくれます。

 本書には、いつも頭の片隅に置いておいて、ふとしたときに思い出せるようにしておきたい、そんな素晴らしい言葉が詰まっています。

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