【書評】『神との対話 普及版〈1〉』(ニール・ドナルド・ウォルシュ)

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 お薦めの本の紹介です。
 ニール・ドナルド・ウォルシュさんの『神との対話 普及版〈1〉個人的な真実について』です。

 ニール・ドナルド・ウォルシュ(Neale Donald Walsch)さんは、米国の著述家です。

生徒の準備が整ったところで、教師が現れる


 神と対話をする。
 そんな、不可能なことだと思われてきたことが、ごく普通の一人の男性、ウォルシュさんに突然起こります。
 1992年の春のことでした。
 
 質問を紙に書くと、「霊感」としか言いようがないものが降りてくる。
 ウォルシュさんは、ただ、それを書き留める。

「神との対話」は、その繰り返しで続いていきます。

 この対話については、黙っていたほうがずっと楽だったと思う。だが、この対話が行われたのは、楽をするためではなかった。だから、この本のために(神を恐れぬ者、インチキ、これまで真実の生き方をしてこなかった偽善者、あるいはもっと悪いことに聖者と呼ばれて)苦労することになっても、もう立ち止まることはできない。それに、立ち止まりたいとも思わない。この出来事のすべてに背を向けようとすればできたが、わたしはそうしなかった。ここにお見せする内容について、世間の言葉に耳を傾けるよりも、自分の直観に従おうと決めたからだ。
 この本はナンセンスでもなく、欲求不満の想像力の暴走でもなく、人生の過ちを弁解しようとする男の自己正当化でもない。私の直感がそう語っている。じつはわたしもそれが不安だった。そのすべての可能性を考えた。そこで、原稿を何人かに読んでもらったところ、みんなが感動し、泣いた。この本にこめられた喜びやユーモアに笑い、胸を打たれ、力を得た。おおぜいのひとが、自分は変わったと言った。おおぜいのひとが、この本のおかげて自分は変わったと語ってくれた。この本はすべてのひとのためのものだ、出版されなければならないと気づいたのは、そのときだ。この本は、一心に答えを求めているひとたち、まじめに問いかけているひとたちへのすばらしい贈り物だ。真剣な心と、魂のあこがれと、開かれた精神をもち、真実を求める旅を始めたひとたちすべてへの、すばらしい贈り物だ。つまりは、わたしたちみんなの本なのだ。
 この本は、私たちがこれまでいだいてきた疑問について、すべてとはいかなくても、ほとんどをとりあげている。人生と愛、目的と働き、人と人間関係、善と悪、罪と罪悪感、赦しと償い、神への道と地獄への道など、じつにさまざまなことが話題となっている。セックス、力、金、子供、結婚、離婚、ライフワーク、健康、将来、過去と現在・・・・・すべてが率直に語られている。戦争と平和、知と無知、与えることと奪うこと、喜びと悲しみについて探っている。具象と抽象が、見えるものと見えないものが、真実と真実でないものが見つめられている。
(中略)
 ほんとうは、神はすべての者に語りかけている。善人にも悪人にも。聖者にも俗人にも。そして、もちろん、そのいずれでもないわたしたちにも。たとえば、あなた。神はさまざまな方法であなたの人生を訪れる。この本もそのひとつだ。“生徒の準備が整ったところで、教師が現れる”という古い格言がある。この本はあなたの教師なのだ。

 『神との対話 普及版〈1〉』 はじめに より ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

 本書は、ウォルシュさんが、口述筆記を通して、神と“対話”した内容をまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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神とコミュニケートするには?


「神はどんなふうに、誰に語りかけるのか」

 ウォルシュさんのこの問いに、神は以下のように答えます。

 第一に、「語る」ではなく、「コミュニケートする」と言うことにしよう。神とのコミュニケーションは、言葉よりもすぐれた、言葉よりずっと豊かで正確なものだからだ。言葉で語りあおうとすると、とたんに言葉のもつ制約にしばられることになる。だからこそ、わたしは言葉以外でもコミュニケートする。それどころか、言葉はめったに使わない。いちばん多いのは、感情を通じたコミュニケーションだ。
感情は、魂の言語だ。
何かについて、自分にとっての真実を知りたいと思ったときには、自分がどう感じるかを探ってみればいい。
感情というものは、なかなか見つからない。自覚するのはさらにむずかしい。だが、最も深い感情のなかに、最も高い真実が隠されている。要はこの感情をつかむことだ。
(中略)
 わたしはコミュニケーションの手段に思考も使う。思考と感情は同じではないが、同時に生まれることがある。思考を通じたコミュニケーションには、イメージや画像が使われる。
だから、単なる言葉よりも思考のほうが、コミュニケーションの道具として効果的だ。
感情と思考のほかにもうひとつ、経験という、偉大なコミュニケーション手段がある。
感情と思考と経験のすべてが失敗したとき、最後に言葉が使われる。言葉はじつは、最も非効率的なコミュニケーション手段だ。最も曲解されやすいし、誤解されやすい。
どうしてか? それは言葉の性質のためだ。言葉やただの音にすぎない。感情や思考や経験の代用だ。シンボル、サイン、しるしでしかない。真実ではない。ほんものではない。言葉は理解の助けにはなる。あたがたはものごとを、経験によって知ることができる。
しかし、経験できないこともある。だからわたしは、知るためのほかの手段を与えた。それが感情と呼ばれるものであり、思考と呼ばれるものである。
さて、皮肉なことに、あなたがたは神の言葉ばかりを重視し、経験をないがしろにしている。
経験をないがしろにしているから、神を経験しても、それが神について教えられていたことと違うと、たちまち経験を捨てて言葉のほうをとる。ところが、ほんとうは逆であるべきなのだ。
 経験や感情によって、ひとは直感的に知る。いっぽう、言葉は知っていることをシンボル化しようとする試みにすぎず、混乱の原因になることも多い。
ところで、わたしは経験や感情、言葉をコミュニケーションの道具として使うが、経験や感情、言葉のすべてがわたしからのコミュニケーションだというわけではない。すべての感情や思考、経験、それに言葉が、わたしから発せられたものだとは限らない。
わたしの名で、べつの者がたくさんの言葉を口にしてきた。わたしとは無関係なものによって、たくさんの思考や感情が支えられ、その結果、たくさんの経験が生まれてきた。
 神からのメッセージと、そうでないものとを見分けることは、なかなかむずかしい。この二つの違いはわかりにくい。区別するには、基本的なルールをすなおにあてはめなければならない。
わたしのメッセージはつねに、あなたの最高の考え、最もくもりのない言葉、最も偉大な感情である。それ以外はべつの源から生じている。
 そう考えれば、簡単に区別できるだろう。どんなに未熟でも、いちばん気高く、くもりがなく、偉大なものはすぐにわかるからだ。

 『神との対話 普及版〈1〉』 第1章 より ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

 人間は、コミュニケーションの道具として「言葉」に多くを頼っています。
 そのため、言葉以外でのコミュニケーションがおろそかになりがちです。

 感情を押し殺し、直感を無視し、論理的な思考だけで物ごとを判断する。
 目には見えない大いなる存在を否定し、五感で感知するものだけを信じる。
 そんな状態では、神と対話することはおろか、メッセージを受け取ることすらできません。

存在するすべては「愛」である


 神が創ったこの世界を支配する法則は、非常に単純で、以下の3つに集約されます。

  • 思考は創造につながる
  • 不安や恐怖は似たエネルギーを引き寄せる
  • 存在するすべては愛である
 3番めの「存在するすべては愛である」とは、どのような意味でしょうか。

 愛は究極の現実だ。それが唯一であり、すべてだ。愛を感じるということは、神を体験することだ。
至高の真実のなかでは、存在するすべては愛であり、存在したすべて、これから存在するであろうすべても愛である。絶対領域に入るとき、あなたがたは愛のなかへ歩み入る。
相対性の領域は、わたしが自らを体験するために創り出したものだ。このことは、もう説明した。だからといって、相対性の領域が現実になるわけではない。それはあなたかたとわたしが自分を体験的に知るために工夫した、そしていまも工夫しつづけている、創られた現実だ。
だが、この創られた現実はほんとうに現実的に見える。現実的に見せて、ほんとうに存在すると思わせるのが目的だからだ。この方法によって、神は自分以外の「べつの何か」を考案した(厳密な意味ではこれは不可能なのだが。なぜなら、神、すなわちわたしは「すべて」であるから)。
「べつの何か」、つまり相対性の領域を創造することで、わたしは、あなたがたが神であると言われるだけでなく、神であることを選択できる環境を創り出した。その領域で、あなたがたは概念ではなく創造行為として、神格を体験できる。
不安や怖れは愛の対極である。これが第一の両極。相対性の領域を創ったわたしは、まず自らの対極を創り出した。さて、あなたがたが暮らす物質的な領域には、二つの在り方しかないと言った。不安と愛である。不安に根ざした思考が、ひとつの物質的な場を生む。愛に根ざした思考がもうひとつの場を生む。
地球に生まれた〈マスター〉たちとは、相対性の世界の秘密を発見したひとたちである。そして、それが現実だと認めなかったひとたちである。要するに〈マスター〉とは、愛だけを選択したひとたちである。あらゆる時に、あらゆる環境で、彼らは愛を選択した。自分たちが殺されても、殺害者を愛した。迫害されても、迫害者を愛した。
このことを理解するのは非常にむずかしいだろうし、まして見習うことはできにくいだろう。だが、〈マスター〉はすべてそうしてきた。哲学はどうでもいいし、伝統も、宗教もどうでもいい。すべての〈マスター〉は愛だけを選んできたのだ。
あなたがたはそんな例をはっきり見てきた。大昔から何度も何度も、目にしてきた。あらゆる時代、あらゆる場所で、それは示されてきた。あなたがたの人生のなかで、いつも見せられてきた。宇宙はあらゆる設定を利用して、この真実をあなたがたの前に差し出してきた。歌や物語、詩、踊り、言葉、動き、動く絵つまり映画、そして、本と呼ぶ言葉の集まりを通じて。
その真実は最も高い山頂から声高に叫ばれ、最も低い場所でささやかれてきた。人類のあらゆる経験の回廊に、この真実がこだましている。答えは愛、それが真実だ。だが、あなたがたは聞こうとしなかった。
いま、この本にめぐりあったあなたは、神が数えきれないほどの回数、数えきれないほどの方法で語ってきたことを、もう一度語ってほしいと言う。それでは、もう一度――ここで――この本のなかで語ろう。今度はあなたは耳をかすだろうか。ほんとうに聞こうとするだろうか。
何があなたをこの書物に導いたと思うか? どうして、あなたがこの本を手にすることになったと思うか? わたしが自分のしていることに気づかないとでも思うのか?
宇宙に偶然などというものはない。

 『神との対話 普及版〈1〉』 第1章 より ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

 神が、自分ではないもの、愛ではないものを、私たちを通じて経験するために創った場所。
 それが、「相対性の世界」、つまり、私たちの生きている世界です。

 愛を体験的に知るためには、愛ではないもの、つまり、不安や恐れがどのようなものなのか、体験する必要があるということ。
 私たちが、神と一体だったときの記憶を忘れて、この世に生まれてくるのは、そのためなのですね。

神には何も必要ではない


 神は、私たちに対して従順を求めていませんし、仕えてもらう必要もありません。
 それらのことは、昔から支配者が人民に求めてきた態度だと指摘します。

神には何も必要ではない。「すべて」、それが神だからだ。欠けているもの、必要なものは何もない。それが神という存在なのだ。
神が何かを必要とする――それが手に入らなければ、怒って相手を罰すると考えるなら、あなたはわたしよりもずっと小さな神を信じることになる。あなたがたは劣った神の子だということになる。
わが子たちよ、もう一度、はっきり言う。わたしには必要なものはない。わたしは何も求めない。
だからといって、わたしに欲求がないわけではない。欲求と必要性は同じではないからだ(同じだと思っている者が多いが)。
欲求とは、すべての創造のはじまりである。最初の考えである。魂のなかの偉大な感覚である。それは神であり、つぎに何を創造するかの選択である。
では、神の欲求とは何か。
第一に、栄光のなかでわたし自身を体験することを願った。わたしが何者であるかを知ることを願った。あなたがたを、そして宇宙の世界すべてを創り出す前には――それは不可能だった。
第二に、あなたがたに「自分で選んで創造し、体験する」という力を与えて、真の自分を知って体験させようと願った。
第三に、生命プロセスのすべてがたえまない喜びと創造の体験であり、終わることのない拡大で、一瞬一瞬が充分に満たされることを願った。
欲求を実現させるために、わたしは完璧なシステムをつくりあげた。そのシステムはいまも働きつづけている。いま、この瞬間にも。あなたがたとわたしとのたったひとつの違いは、それを知っているかどうかだ。あなたがたがすべてを知った時には(その時はいつきてもおかしくない)、あなたがたも、わたしと同じように感じるだろう。大きな大きな喜びと愛と受容と祝福と感謝を感じるだろう。
この五つは神の姿勢である。あなたがたもこの五つを実践すれば神性が得られることを、この対話のなかで教えてあげよう。短い質問なのに、ずいぶん長い答えになった。
そう、自分の価値観に従いなさい。それが役に立つと思う間は。ただし、その価値観が役に立っているかどうか、最も気高く、すぐれた考えを体験する場を与えてくれているかどうか、思考と言葉と行動を通じて、点検しなさい。
価値観をひとつずつ検討しなさい。外の光にあててみなさい。世界に向かって、自分が何者か、何を信じているかを、ためらわず、はっきりと言いきれるなら、あなたは幸せだ。

 『神との対話 普及版〈1〉』 第2章 より ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

 全知全能である神が、人間に対して怒ったり、罰を与えたりする。
 よく考えると、おかしなことです。
「間違い」を犯すのが嫌なら、最初から、間違うことのない“完璧な”存在として、人間を創り出せばよかったのですから。

 神は、意図的に干渉することはありません。
 それは、私たちに、自由に、自分の価値観にしたがって生きることを望んでいるからです。

 決して干渉せず、決して見捨てないこと。
 それが、神の私たちへの最大の「愛」といえますね。

魂の言うことに耳を傾けるためには?


 神は、欲求不満や不安は、魂の言うことに耳を傾けないから起こると指摘します。
 では、どうすれば、自分の魂の声に耳を傾けられるのでしょうか。

 まず自分自身を批判するのをやめなさい。何が魂の望みかを知って、それに従いなさい。魂とともに行きなさい。
魂が追求しているのは――想像しうるかぎりの最高の愛の感情だ。これが魂の欲求、目的だ。
魂は感じようとしている。愛を知ろうとしているのではなく、感じようとしている。
最高の感情は「すべてである」存在と合体する経験だ。それは真実へとかえることであり、魂が切望しているその真実が、完璧な愛である。
完璧な愛とは色のなかの完璧な白のようなものだ。多くの人は白とは色がないことだと考えているが、そうではない。あらゆる色を含んでいるのが白だ。白は存在するあらゆる色が合体したものだ。
だから、愛とは感情――憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望など――がないことではなく、あらゆる感情の総和だ。あらゆるものの集合、すべてである。
だから、魂が完璧な愛を経験するには、「人間のあらゆる感情」を経験しなければならない。
自分が理解できないことに、共感できるだろうか。自分が経験しなかったことについて、他人を許せるだろうか? そう考えれば、魂の旅がどんなに単純で、しかもすごいものかがわかるだろう。そこでようやく、魂が何をめざしているかが理解できるはずだ。
人間の魂の目的はすべてを経験すること、それによってすべてになりえることだ。
一度も下降したことがなければ、どうして上昇できるだろう? 一度も左になったことがなくて、どうして右になれるだろう? 冷たいということを知らなければ、どうして温かくなれるだろう? 悪を否定していたら、どうして善になれるだろう?
選択肢がなければ魂は何も選べない。魂が偉大さを体験するためには、偉大であるとはどういうことかを知らなければならない。
そこで魂は、偉大さは偉大でないところにしか存在しないと気づく。だから、魂は偉大でないものを決して非難しない。それどころか祝福する。そこには自らの一部、別の一部が現れるために必要な一部があるから。
もちろん、魂の使命はわたしたちに偉大さを選ばせること――選ばなかった部分を避難せず、最善の自分を選ぶようにさせることだ。こんな大きな使命を果たすには、いくつもの生涯が必要だ。あなたがたはすぐに批判しようとし、自分が選ばなかったものを祝福しないで、ものごとを「間違っている」とか「悪い」とか「充分ではない」と決めつけたがる。
非難するよりも、もっといけないこともある。自分が選ばなかったものを傷つけようとするのだ。破壊しようとする。自分が賛成できない人間や場所やものごとがあれば、攻撃する。あなたがたの宗教と対立する宗教があれば、間違っていると言う。自分と違う思想があれば、ばかにする。自分と違う考え方があれば、拒否する。だが、それは間違っている。それでは宇宙の半分しか創造できない。そして、残る半分も拒否していたら、自分の側の半分さえ理解できない。

 『神との対話 普及版〈1〉』 第3章 より ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

 私たちは、「完璧な愛」を経験するため、つまり、すべての感情を経験するためにこの世に生を受けました。
 悲しみや苦しみ、嫉妬や罪悪感などのネガティブな感情を抱くのも、ある意味、不可避なことだともいえます。

 悲しみがなければ、喜びはありません。
 苦しみがなければ、楽しみもありません。

「人生で起こることは、すべてに意味がある」

 まさに、この言葉は真理を表した言葉ですね。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

 ウォルシュさんの「神との対話」が、日本で刊行されたのが1997年。
 それから、20年の月日が過ぎましたが、色褪せるどころか、ますます輝きを増しています。

 私たちが生まれてきた理由、この世界が苦しみや悲しみにあふれている理由。
 そして、そもそも神がこの世を創った理由。
 神は、これまで宗教に委ねられてきた難問を、論理的に、誰でもわかる言葉で説明してくれます。

 ウォルシュさんと対話したのは、本当に「神」なのか?
 それを疑う人は、大勢います。
 ただ、本書の内容は、とても、普通の一人の人間が想像で描けるものではないです
 どう考えても「神が語った」としか思えないほど、奥が深く、真理に近いのは間違いありません。

 本当に「神との対話」なのか、そうでないのか。
 それは、大きな問題ではないです。

 大事なのは、「誰が書いたか」ではなく、「何が書かれているか」。
 くだらない偏見や先入観は抜きにして、多くの人に読んで頂きたい名著です。


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