【書評】『アウンサンスーチー』(根本敬、田辺俊夫)
お薦めの本の紹介です。
根本敬さんと田辺敏夫さんの『アウンサンスーチー』です。
アウンサンスーチー、その影響力の源は?
2012年4月、ある一つのニュースが世界の注目を集めました。
ビルマ(ミャンマー)の民主化運動指導者アウンサンスーチーさんが率いる政党NLDが、国会の補欠選挙で圧勝したというニュースです。
44選挙区で43人当選という大勝利でした。
2010年11月に自宅軟禁を解かれたスーチーさん自身も、下院選に立候補し、85%強の圧倒的多数の支持を得て当選しています。
軍部出身のテインセイン大統領は、国内外の圧力などにより、それまでの軍部主導による独裁政治から民主主義的な統治体制への転換を打ち出します。
スーチーさんの解放も、その一環です。
テインセイン大統領とスーチーさんは、2011年8月に直接対話も実現しています。
お互いに信頼関係を築くきっかけとなり、民主化への大きな一歩となりました。
一人の女性でありながら、これほどまでに大きな影響力を持つスーチーさん。
その力の源や魅力は、どこからくるのでしょうか。
本書は、ビルマという国の成り立ちを含めて、スーチーさんのここまでの生い立ちを詳しくまとめた一冊です。
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アウンサンスーチーの生い立ちについて
アウンサンスーチーさんは、アジア・太平洋戦争末期の1945年6月19日、ビルマのヤンゴン(当時のラングーン)に生まれます。
父親のアウンサン将軍は独立運動指導者で「ビルマ独立の父」として尊敬を集めている人物です。
スーチーさんが生まれた当時、ビルマは、日本占領下の末期にありました。
アウンサン将軍が率いるビルマ国軍は、反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)の中核として抗日闘争を展開します。
太平洋戦争終結後は、ビルマ側の政治リーダーとして、宗主国の英国と粘り強い独立交渉を行ないます。
しかし、アウンサン将軍は、1947年7月19日、政敵による襲撃で32歳の若さで暗殺されます。
スーチーさんは、この時、まだ2歳。
父親との直接のふれあいをほとんど持つことがないまま、母親と祖父(母親の父)に育てられることになります。
母親のキンチーさんは、ビルマで多数派を占める上座仏教徒で、娘であるスーチーさんを厳しい躾のもとで育てます。
時間を守ること、正直であること、約束を守ることをはじめ、自らが有していた規律正しい生き方を娘にも求めた。一方で、いろいろな質問をしてくるアウンサンスーチーに対し、キンチーは嫌がることなく、いつも誠実に答えようとした。アウンサンスーチーは「考える」ことや「問いかける」ことの大切さを、母のこうした対応から自然に学んだと語っている。子どもの質問を遮る親だったら、物事を知ろう、考えようとする気持ちを失ってしまっただろうと彼女は言う。そのようなタイプの母親ではなかったキンチーに対し、アウンサンスーチーは今でも深い感謝の念を抱いている。
『アウンサンスーチー』 第二章より 根本敬・田辺寿夫:著 角川書店:刊
スーチーさん自身も、厳格な上座仏教徒として育ちます。
15歳の時、キンチーさんが駐インド大使に任命され、スーチーさんは、兄弟とともにデリーへ移ります。
その間、当時のインドのネルー首相一家と親睦を深めます。
その影響もあり、「インド独立の父」ガンディーの思想に傾倒していくことになります。
その後、23歳で英国のオクスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジに留学し、そこで哲学や政治学、経済学を学んでいます。
大学卒業後は、米国に渡って大学院に進みその後国連職員スタッフとして働いています。
1972年1月に大学時代から親交のあった、英国男性マイケル・アリスさんと結婚します。
英国に移り住んだスーチーさんは、二人の息子の子育てに追われますが、余裕が出てくると勉強を再開します。
父親のことを詳しく知るために、密接な関係があった日本人関係者から直接話を聞く必要があり、日本語の勉強にも熱心に取り組みます。
三島由紀夫の小説を原書で読めるまで力をつけ、1985年には念願の来日を果たしています。
そんなスーチーさんに転機が訪れたのは、1988年でした。
キンチーさんが危篤となり、ビルマへ戻ることになります。
折しも、ビルマ国内は軍主導のビルマ式社会主義体制に対する国民の不満が頂点に達し、前例のない全国規模の大衆運動が展開していました。
「ビルマ独立の父」アウンサンの娘が帰国するというニュースは、活動家らにもすぐに伝わり、彼女の家に積極的に出入りするようになります。
自分の祖国が大きく揺れ動く時期に直面していることを直感したスーチーさんは、ついに政治の表舞台への登場を決意します。
この大衆運動は、軍事政権の武力で封じ込められました。
しかし、スーチーさんは国民民主連盟(NLD)を結成し、自らは書記長に就任して反軍政・民主化への姿勢をアピール続けます。
ノーベル平和賞の受賞
スーチーさんの名前が世界的に脚光を浴びるきっかけとなったのは、1991年にノーベル平和賞の受賞です。
彼女の非暴力による民主化運動の指導が、高く評価された結果です。
当初、ノーベル平和賞選考委員会はチェコの「ビロードの革命」(1989年、無欠の民主革命)を成功させたハヴェル大統領を第一候補に考えたが、それを伝え聞いたハヴェルが、自分よりも、いま現在、非暴力の手段で民主化闘争を指導しているアウンサンスーチーを選んでほしいと言う意向を委員会側に伝え、その結果、彼女に平和賞が授けられることに決まったといわれている。同年12月におこなわれた授賞式に彼女は出席できなかったが、夫のマイケル・アリスと二人の息子が代理出席し、会場の喝采を浴びた。彼女のノーベル平和賞受賞は、国際社会(特に欧米)の彼女に対する関心をいっそう高めることになった。
しかし、このニュースを軍政は無視し、ビルマ国内での報道を禁じた。国民は短波ラジオを通じてニュースを知り、ヤンゴンでは大学生たちがキャンパス内で祝福の集会を開催したが、すぐに警察と軍が動員され封じ込められた。ヤンゴン市内の「ノーベル」という名の小さな自動車修理工場も、その名称の使用を禁じられた。軍政の滑稽なまでの対応が見て取れる。『アウンサンスーチー』 第二章より 根本敬・田辺寿夫:著 角川書店:刊
スーチーさんが、ノーベル平和賞の授与式に出席できなかった。
その理由のひとつが、一度ビルマを離れてしまうと、軍政は彼女の帰国を認めずに、二度と祖国の地を踏むことができなくなる懸念があったことです。
同じ理由で、夫のアリスさんがガンで余命数ヶ月と宣言されたときも、英国行きを断念しています。
アウンサンスーチーの思想について
「自力本願」の上座仏教思想に基づく、幼い頃の母親の教育。
ガンジーの「非暴力・非服従」の政治思想。
スーチーさんの政治思想は、このふたつに強く影響を受けています。
アウンサンスーチーはの行動の基盤となる思想の原点は「恐怖からの自由」という言葉で表現される。ただしそれは世界人権宣言などに謳われる「誰でも恐怖から自由に生きる権利を有する」という「権利」としてではなく、そういう意味合いも含むが、「一人一人が恐怖に打ち勝つ努力をおこなうべきである」という「義務」としてより強く語られる。アウンサンスーチーは「恐怖」こそ、あらゆる人々を堕落させ、社会を腐敗させていく根源であると断言し、人間はこの「恐怖」を克服して自ら自由になろうとしない限り、自分や自分の属する社会を改革することはできないと考える。
『アウンサンスーチー』 第二章より 根本敬・田辺寿夫:著 角川書店:刊
「恐怖」こそが、独裁者の一番の武器であることを、スーチーさんは見抜きます。
1989年6月の演説では、「大多数の国民が同意しない命令・権力すべてに対して義務として反抗しなければならない」と国民に訴えかけます。
人任せにせず、自らが軍政と戦うことを求める、彼女の意志が強く反映されていますね。
スーチーさんの素晴らしさは、その思想にブレがないことと、自ら率先して実行している点です。
軍政の圧力にも負けず、各地で民主化を求める講演をやデモを行っています。
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☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
スーチーさんのビルマ国内での人気の高さ。
それは、ただ単に、「ビルマ独立の父の娘」だからではありません。
自分の主義主張を堂々と述べて、それを自ら進んで行なっている意志の強さ、言動一致への信頼感から生まれています。
三度にわたる軍政による自宅軟禁生活は、延べ15年2ヶ月にも及びました。
しかし、スーチーさんのビルマの民主化への熱い想いは、消えることはありませんでした。
政治家へ復帰を果たし、国会議員に返り咲くことは叶いました。
しかし、国会では軍部関係者が圧倒的多数を占めている状況には変わりありません。
現行の不平等の憲法の改正には、さらに多くの時間と労力が必要です。
注目される次の総選挙は、2015年。
現在の状況では、スーチーさんのNLDが支持率において優勢であることは間違いありません。
しかし、独裁政権では、何が起こるか分かりません。
スーチーさんの希望通り、ビルマが民主化に向かって、着実に進んでいくこと願いたいです。
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