【書評】『「神様アンテナ」を磨く方法』(桜井識子)

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 お薦めの本の紹介です。
 桜井識子さんの『「神様アンテナ」を磨く方法 誰もが感じているのに気づいていない幸運のサイン』です。

 桜井識子(さくらい・しきこ)さんは、霊能者・介護士です。
 神仏関係の波動の高いものを見たり、神様や仏様の声を聞くことができる特殊能力をお持ちです。
 人気ブログ『ひっそりとスピリチュアルしています』の執筆者でもあります。

気づいて、心を動かす


 どんな人でも、人生では、苦しいことやつらいことがやってきます。
 神仏にすがりつきたくなることも、あるでしょう。

 桜井さんは、そういう時ほど、神仏は「頑張れよ」「負けるなよ」と応援してくれているのだと述べています。
 しかし、多くの人は、そんな神仏のありがたい慈悲を感じることができません。

 まずは自分がどれだけ神仏に愛されているか、そこに気づくことが出発点だと思います。こんなに愛されていたんだ、とわかれば「神仏が味方でいてくれるから私は大丈夫」と自信が持てるようになります。神仏を心から信頼できるようになって、困難に立ち向かう元気も湧いてきます。
 その愛情は自分からわかろうとしなければわかりません。これは自分から求めていかないと得られないのです。
 そこで重要になってくるのが、神仏に対する感性のアンテナです。
 これは霊感とはちょっと違っていて、幽霊などの低級なものに向けてはいけません。低級なものに照準を合わせると、そちら側のものしか拾えなくなってしまうからです。
 あくまでも神仏やその眷属(けんぞく)といった高級な存在にだけアンテナを向けます。そしてアンテナが錆びついたりしないように、さらによい信号が受け取れるように磨くことも大切になってきます。
 どう磨くかというと、①気づいて、②心を動かす・・・・・その繰り返しになります。
 自分の感覚で気づく、というのはとても大切です。まずは神様が示してくれているわかりやすいサイン、現実的なサインに気づくことから始めます。
(中略)
 私が紹介した神社仏閣に行って、私が気づかなかった素晴らしい彫刻だの、宝物だのに気づいた方は、より歓迎されています。私は教えてもらえなかったけれど、気づいたその方は神仏に教えていただいているからです。このような小さなサインも見落とさず拾うことが大切なのです。
 しかしそこに気づいても、「歓迎されているのね、よかった」だけで終わるとアンテナは磨かれません。歓迎されているとは他の参拝客よりも愛されているということですから、「嬉しい!」「私もここの神様仏様が大好き!」「神様仏様、ありがとう!」等、神仏に対して心が動かなければなりません。
 その心の動きはピュアな信仰心につながっていきます。するとますます神仏の波動に近くなって、感じる能力がアップしていくのです。
 このアンテナは誰もが持っています。使うか使わないか、磨くか磨かないかの違いだけです。神仏がせっかくサインをくれているのに、気づこうとしなければそのままです。何も変わりません。

『「神様アンテナ」を磨く方法』 はじめに より 桜井識子:著 KADOKAWA:刊

 桜井さんは、気づきはアンテナを磨く材料となると述べています。

 本書は、「神様アンテナ」を磨き、神仏がくれたサインに気づいて、より多くのご加護を頂くための方法をまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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神様は「血」が苦手


 神様にはタブーがあります。
 それが「穢(けが)れ」です。
 一般的に、神様は「血」が嫌いなので、女性は生理中の参拝は避けたほうがいいと言われます。

 桜井さんは、神様は“血”だけが苦手なのではなく、「人間の体の内部が出ている状態」が苦手だとの述べています。

 もしも大ケガをして、例えばざっくり太ももが切れて肉が丸出しとか、もしくは肉がえぐれて骨が見えているとか、はたまたお腹から内臓が飛び出しているなど、それらすべてが苦手だそうです。
 鼻水や唾液、涙、汗なども内部のものですが、それらは体の表面、浅いところにあるもので、種類が違うのだそうです。体の内部奥深くにあるべきものが、表に出た状態がダメなのです。ですからケガをして血液がダラダラ流れ出たままでの参拝もよくないし、肉がえぐれて骨が見えている体で参拝してもいけません。
 人間は、体の内部が長時間外にさらされてしまうと死に至ります。
 これは現代の抗生物質だの手術だのがなかった時代、人間という生物が生まれた太古の昔・・・・・マンモスを追っかけていたような時代で考えてください。システムはその頃、人間という生物が誕生した時にできたものだからです。
 当時の大ケガは死を意味していたと思います。内部が体外にさらされると、確率の高い可能性として“死”が身近になります。
 ざっくり太ももがえぐれるように切れて肉が丸出し、となると昔は消毒なんぞありませんからそこからばい菌が入って大変なことになったと思います。太古の人間は簡単に死んでいたのではないかと思われます。
 さらに、体の内部を露出していると、「生のエネルギー」もそこからどんどん放出されてしまうのだそうです。生のエネルギーが減っていく、という部分でも死が身近になるわけです。

『「神様アンテナ」を磨く方法』 第1章 より 桜井識子:著 KADOKAWA:刊

 血が流れるということは、死が近寄ってくるということ。
 つまり、「黄泉の国」に通じる扉が近づくということです。

 神様は、「血」そのものよりも、それにつながる「死」を忌み嫌います。
 神社に参拝する際には、注意したいですね。

「喪中の参拝」が歓迎されない本当の理由


 もうひとつの穢れは、「喪」です。
「喪の穢れ」は体の中ではなく、体の周りにつきます。
 ゆで卵の黄身の周りを白身が厚く覆うような、桃やさくらんぼみたいにタネの部分を果肉が覆っているような感じでつくのだそうです。

 人間がいて、その人の周囲に透明で見えないけれども“喪”という物体が覆っています。“喪”は頭のてっぺんからつま先まで、全部をぐるりと巻いています。
 喪のバリアは厚くて人間の形に合わせた細長い楕円形ですが、その背部にはパイプのような、太い紐のようなものがついています。そのパイプ・紐状のものが伸びていく先に「黄泉の国」の入口があります(これは無理やり3次元に置き換えたイメージです)。
 つけている本人には何の影響もありませんが、霊的な部分を含めすべてが見え、感じてしまう神様には、そのくっついている黄泉の国までが見えて感じてしまい、影響を受けます。
 “喪”をつけて境内を歩くということは、この黄泉の国を背中の後方にくっつけて神域を歩くということです。

 亡くなった方と血のつながりがあれば、行き来がまったくなくて安否すらわからない叔母であろうと、生まれて一回も会ったことがない叔父だろうと、“喪”はつきます。
 小さい頃に親が離婚して以来どこにいるかもわからない、完全に縁が切れているという父親がいたとして、そういう関係でもその父親が亡くなれば“喪”はつきます。血族とはそういうことです。一族というか、同じ団体というか、血のつながりがあれば同じ括(くく)りになるのです。
 では、血のつながりがない、息子の嫁や娘の夫が死んだらどうなのか・・・・・?
 これは同居しているかしていないかで変わってきますが、血のつながりがありませんので、血族としての“喪”はつかず“死”に対面した「一般的な喪」だけがつきます。
 とても仲が良かった嫁ですごく悲しいのに一般的な喪でいいの? と思われるかもしれませんが、これは血族という括りで構成されています。ですので、亡くなったことによって受けるダメージの大きさと、見えない世界で霊体につく“喪”に関連性はないのです。
 母親が再婚した義理の父親、血のつながった叔母の結婚相手の叔父、など血のつながりのない場合も同じです。“喪”のつくランクが一番低いところの一般の“喪”だけになります。
 しかし、同居していると家自体が「喪の状態」になりますので、同居の場合は49日は参拝を控えます。
 ではその「一般的な喪」は何日なのか? というと、これは7日です。遺体に接した場合の穢れですね。
 仕事で遺体に接したという場合や(介護職もたまにあります)、知人友人などのお葬式に出席した、などが一般的な「喪」にあたります。こういう場合は“遺体に接する”ことで薄〜くさらっとついているので一週間もすれば消えてしまいます。

『「神様アンテナ」を磨く方法』 第1章 より 桜井識子:著 KADOKAWA:刊

 喪中の日にちの数え方は、神様の場合、「遺体に接した翌日」を1日目として、そこから数えていきます。
 桜井さんによると、神様は生理よりも喪のほうがはるかに苦手とのこと。
 こちらも、参拝に際して、心に留めておきたいですね。

効果絶大! 金運エチケットおまじない


 桜井さんは、 トイレの神様と金運はなにかしらのつながりがありそうだと述べています。
 便器がわずかでも汚れたらその場で“ただちにする”掃除が大切とのこと。

 トイレには神様がいます。
 人間が入っていくと、神様はささーっと天井の方向、上空に逃げて人間のために場所を開けてくれます。
 ということは、人間が用を足してトイレから出ると、またささーっと「すぐに」天井方向から戻ってこられるわけです。
 オシッコの時はすぐ戻るけど、ウンチの場合は臭いから10分後ね、などということは考えられません。トイレという空間を守るのであれば、オシッコだろうとウンチだろうと、人間がいなくなればすぐに戻ると思われます。
 ちなみに、トイレの神様としゃべれないの? と思われるかもしれませんが、交信は不可能な存在です。なんというか、濃い実体がそこにいるのではないからです。
 いることは確実なのですが、ちょっと薄いです。雲や霞で構成されたようなほんのりとした神様、という表現がわかりやすいかもしれません。
 私も子供の頃に一度見たきりで、それ以来、お姿は見たことはありません(見ようとしなかったからかもしれませんが)。ひっそり控えめにいるという印象です。
 トイレの神様が用を足した後にすぐ戻って来るのであれば、この強烈な臭い匂いを毎回嗅がせていたわけで・・・・・うわー、私はなんという失礼なことをしていたのか! と思いました。
(中略)
 それ以来、ウンチをした後は、とりあえず消臭剤をシュッシュッと噴射することにしました(シュ〜〜〜〜とたくさんはしていません)。
 それも便器に向かってするのではなく、神様が降りてくる方向、天井に向けて噴射しています。
 これで神様が臭くなくなるといいな、気持ちよく戻ってきてくださるといいな、という思いやりの念も毎回持っています。
 この“エチケットおまじない”を始めると同時に、便器に便を一瞬たりとも付着させたままにしない、というのも一緒に検証し始めました。
 朝、時間がなくてバタバタしている時など、便器掃除は省略したいぃーっっ! 強めに思ってしまいますが、自分を叱咤して頑張っています。そういう日のお化粧は手を抜きまくりです。
 目に見えるか見えないか、わずかに付いている? という場合もあるので、最近はもう、大きい方をしたら便器掃除をする、と決めています。

 この2つの方法を始めてから、私の金運は良くなってきました。

『「神様アンテナ」を磨く方法』 第3章 より 桜井識子:著 KADOKAWA:刊

 桜井さんによると、トイレの神様がどうして金運と関係あるのか、そこはまだ謎とのこと。
 ただ、風水でも、トイレなどの水回りをきれいにすると、お金も回りもよくなるといいます。

 桜井さんが実際にやってみて、効果があった方法です。
 皆さんも、ぜひ、試してみてください。

人からの親切はなるべく断らないこと


 桜井さんは、人の親切はなるべく断らないほうがいいと指摘しています。
 相手のことを思って行う行為は、見えない世界において“絶対神”や“神仏”に奉仕をしていることになるからです。

 席を譲ってあげたい対象のおばあさんは人間の姿をしていて、普通の人間、普通のおばあさんですが、その向こうには“絶対神”や“神仏”の存在があるわけです(くどくなりますので、“絶対神”や“神仏”の部分を、神仏、に省略します)。
 高齢者に席を譲るのは、神仏に席を譲っているのです。
(中略)
 つまり、するほうとしては目の前の相手にじかにしてあげている、と思うかもしれませんが、実はする人とされる人のあいだには、“絶対神”や“神仏”がいるというわけです。
 言い方を変えると、その人は“天に対して親切をした”ということであり、それは“天に徳を貯金している”ということになります。
 他人を思いやる、他人に親切にする、他人のために何かをする、という美しい行為は、確実にあちらの世界に届き、貯金となります。それはその人の霊格を磨く大切な、小さな修行のひとつなのです。
 ですから、私が「私なんかのために、そこまでしなくていいですよ」と言うのは、驕(おご)りというか、偉そうというか、すごい勘違いをしているということになります。なぜなら相手は“天”に対してしているのですから。
 霊格を高める、天に貯金するチャンスを奪うということにもなります。
(中略)
 親切をする人とされる人のあいだに“絶対神”や“神仏”がいるというのは、もらうほうから考えてもおわかりになると思います。
 美味しい新米をお隣さんからいただいた、あ〜、ラッキーだなぁ、神様ありがとう、と神さまに感謝したりしないでしょうか?
 財布を落として真っ青になっていたら誰かが拾って交番に届けてくれた。拾った人は「財布の持ち主さん、困っているだろうな」と持ち主に対して親切にしたわけですが、拾ってもらったほうは、「神様ありがとう!」と手を合わせて感謝すると思います。
 親切をするほうは“天”に対して奉仕をし、もらうほうは“天”から親切をいただいているわけです。
 そこに気づくと、例えば、
「私、あの人によくしてやってるのに、当たり前みたいな顔してる!」とか、
「いろいろ世話してやったのに、あいつは感謝が足りない! 最低なやつだ」
「私がしてあげるばかりで、向こうは何もしてくれない」などと文句をいうのは的外れであるということにも気がつかれると思います。
 親切な行為は相手を思ってしたことですが、神仏にしたわけです。それで徳も貯金しましたし、相手を思う美しい心で霊格も上がりました。
 ここで、“完了”なのです。
「対象である人間の感謝」は、なくてもいいのです。
 それを求めるのはちょっと違うのですね。そこを求めだすと、話は変わってきます。“絶対神”や“神仏”が、よしよしよくやった、と褒めてくれているので、それで十分なのです。
 人に親切にしてもらったら、相手は小さな修行をしているのだと考え、なるべく受け取ったほうがいいです。
 受け取ることにより、天に徳を積むという尊い行為の「お手伝いをさせてもらう」ということにもなります。電車で譲られた席に座ることによって、願ってもいないお手伝いをさせてもらえるわけですから、“ああ、ありがたい”と譲られた席だけでなくそこにも感謝をしたほうがいいと思います。
 そしてその親切は相手を通して神仏が与えてくれたものです。
 “できれば”断らずに、にっこりと笑顔で受け取ったほうがよろしいかと思います。

『「神様アンテナ」を磨く方法』 第3章 より 桜井識子:著 KADOKAWA:刊

 誰も見ていなくても、神様だけは、すべてお見通しだということです。

 相手のためにするのではなく、自分の霊格を上げるためにする。
 そういう気持ちで親切にすれば、相手から感謝されなくても、イヤな気分になることはありませんね。

「情けは人のためならず」
 この言葉の本当の意味は、こんなところから来ているのでしょう。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

 人は、自分の理解できないこと、考えの及ばないことを恐れます。
 普通の人には目に見えない存在である神仏の世界についても、それは当てはまります。

 存在するのは間違いないけれど、その姿は見ることができない。
 だからこそ、大昔から敬われ、畏れられてきたのでしょう。

 神様から、より多くのご加護をいただきたい。
 そう願うなら、神仏の世界について、より多くのことを知る必要があります。
 何も知らないで参拝するよりも、いろいろ知ったうえで参拝するほうが、ご利益も大きいでしょう。
 神仏の世界の仕組みや神仏の喜ぶことを知り、日々実践することで「神様アンテナ」は磨かれます。

 見えない世界を知り、「神様アンテナ」から幸福の波動を受信する。
 本書は、そのための入門書として、うってつけの一冊です。


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