【書評】『頭を「からっぽ」にするレッスン』(アンディ・プディコム)

LINEで送る
Pocket

お薦めの本の紹介です。
アンディ・プディコムさんの『頭を「からっぽ」にするレッスン 10分間瞑想でマインドフルに生きる』です。

アンディ・プディコム(Andy Puddicombe)さんは、元仏僧で、イギリス保健医療委員会公認の臨床瞑想コンサルタントです。

まずは「からっぽ」を知ること!

不安や怒り、悲しみなどの負の感情を和らげ、穏やかで充実した人生を送る。

その秘訣は、何も考えず、人にどう思われるかを気にせず、なんらかの結果にこだわることもなく、ただやることです。
瞑想は、それを習慣化するためのとても有効なツールとなります。

プディコムさんは、目の前の瞬間により注意して生きていれば、正しいことを感じとれるようになってくるものだとし、正しいことが自然にわかるという感覚は信じられないほどの解放感をもたらしてくれると述べています。

 私は瞑想を教えたいという思いをずっと抱いていましたが、それと同時に、細部まで気にかけ心を配るという私自身が師から教わったことについて、人々に伝えなければならないというある種の義務感も感じていました。世間一般の瞑想の教え方を見ると、いったいこれで少しでもメリットを得られる人がいるのかと疑問に思うことが多かったからです。テクニックだけが一切の文脈から切り離されていました。これでは学ぶことなどできっこありません。瞑想を試してみたものの、すぐにやめてしまった人があなたのまわりもいるでしょう。それどころか、自分には向いていないと決めつけて、ためしたことさえない人もたくさんいるでしょう。でも、瞑想を本当に理解することも、そのテクニックへのベストなアプローチ法について基本的に指導を受けることもなく、どうして効果を上げられるでしょう。
マインド・トレーニングの一環としての瞑想を紹介すべく、2010年に正式にスタートしたのが〈ヘッドスペース〉です。その理念はごくシンプルで、瞑想を身近にし、現代人の生活にもフィットするとっつきやすいものにすることです。怪しくもなければ神秘的でもない、人々が「頭をからっぽにする」ために利用できる純粋なツールにすることです。また、瞑想について読むだけでなく、なるべく多くの人に実際に体験してもらおうというもくろみもありました。そこで生まれたのが「10分間瞑想」と「マインドフルネス」というふたつの方法です。頭をからっぽにするために一日10分、座って瞑想することが、散歩するのと同じくらいあたりまえになる人がいずれ必ず来ます。10〜15年ほど前までは、ヨガという言葉を口にしようものならたいてい冷笑を浴びたものです。けれども今では、スポーツジムに行ってヨガのレッスンを受けるのは、エアロビクスをするのと同じくらい(むしろそれ以上に)おかしくもなんともないことになっています。
プロジェクトを実現させるには、何年もの研究と計画と開発が必要でした。しかし、それも瞑想の歴史に比べれば一瞬に等しいものです。何しろ瞑想は数千年にわたって師から弟子へと受け継がれてきたテクニックなのです。技を磨き、完成させるのにも、欠点を修正するのにも十分以上の時間が流れています。新しいものがもてはやされ、めまぐるしく流行が入れ替わる現代でも、この伝統に裏打ちされた信頼感はかなりのものがあります。医師との協力によりこのテクニックを医療に取り入れることが可能になったのも、この信頼感ゆえです。また、私が臨床マインドフルネス・コンサルタントとして開業できたのもこの信頼感のおかげで、この仕事ではこれまでに多くの不眠症やEDなどの患者を診療してきました。
30年以上前に、幾人かの進歩的な西洋の医師が瞑想を医療に取り入れようとしました。しかし、彼らの働いていた病院ではまるで相手にしてもらえませんでした。それでも彼らは諦めず、「マインドフルネス」に呼び名を変えて研究を続けました。「マインドフルネス」とは、「注意する、心を配る」という意味です。西洋にもち込まれたマインドフルネスは、ルーツが仏教の瞑想にあるとはいえ、今では基本的に仏教徒はかかわりのないものになっています。マインドフルネスは、ただ目を閉じて座るという形を超えた、瞑想のテクニックの中心となる要素です。マインドフルネスとは、気をそらさずに「今、ここ」に存在することを意味します。心を落ち着け、一切のこだわりも予断も捨てて自然な意識を保つということです。素敵だと思いませんか。私たちは日々、ありとあらゆるささいな(時には重大な)考えや感情にとらわれ、自分や他人について批判したり決めつけたりして毎日を過ごしています。それとは対照的な状態です。本書ではこのマインドフルネスの実践方法を紹介していきます。

『頭を「からっぽ」にするレッスン』 第1章 より アンディ・プディコム:著 満園真木:訳 辰巳出版:刊

重要なのは、「マインドフルネス」の状態を保つこと。
つまり、ほかのことに気をとられたり、上の空で考え込んだりせず、「今この瞬間」に目の前で起こっていることをそのまま体験することです。

プディコムさんは、瞑想とは、今この瞬間をじかに体験することであり、マインドフルネスを実践するために最適なコンディションをつくりだすテクニックだと述べています。

本書は、日々の生活の中で、マインドフルネスを学ぶ理想的な環境をもたらす「10分間瞑想」のテクニックをわかりやすく解説した一冊です。
その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

スポンサーリンク
[ad#kiji-naka-1]

心をコントロールしようとしない

プディコムさんは、導師から、瞑想とは思考を止め、心をコントロールするものではないということを学びます。

瞑想とは、コントロールを手放して1歩下がり、受身の姿勢で注意を集中することを覚え、その一方で心を落ち着けて自然な意識を保つプロセスです。

心はコントロールしようとすると、静まるどころか、逆に暴れ出します。
湧き出てくる思考に逆らうと、さらに余計な考えが生まれてしまいます。

そのことに悩んだプディコムさんは、導師から次のようなアドバイスを受けます。

 導師の話 野生の馬

「野生の馬を飼いならすところを見たことは?」と導師は尋ねました。なんの関係があるのだろうと思いながら、私は首を振りました。導師は少しがっかりしたようでした。たぶん、チベットの草原で生まれ育つということは、イギリスの小さな村で育つのとは違うのでしょう。導師はそのまま野生の馬の話を続けました。それらの馬は捕まえるのが難しく、飼いならすのはさらに難しいといいます。「では、その野生の馬を1頭捕まえて、それを1か所にとどめておこうとするところを想像してみなさい」私は馬の隣でしっかりとロープを握っているところを想像しました。「それは無理だ」と導師は言いました。「野生の馬をおさえておける者はいない。とにかく力が強いのだ。何人で束になってかかろうと、1か所にとどめておくことはできない。野生の馬を飼いならすにはそれでは駄目だ。捕まえた時にまず肝に銘じなければならないのは、野生の馬は自由に走り回るのに慣れているということだ。長いあいだじっとしていたり、いたくもないのに1か所にとどめられることには慣れていない」私にもだんだん導師の話の方向が見えてきました。「瞑想のために座った時の君の心は、この野生の馬のようなものだ。君が瞑想とかいうものをするために銅像のように座っているからといって、それが突然そこにじっとしていてくれると思ったら大間違いだ。だからこの野生の馬――野生の心――とともに座る時には、相当のスペースを与えてやる必要がある。ただちに瞑想の対象に集中しようとするのではなく、少し落ち着いてリラックスする時間を与えてやるのだ。なぜそんなに急ぐ必要がある?」
またも導師の言う通りでした。私は瞑想の時に焦り、なぜか一瞬も無駄にできないかのように思って、あいかわらずある心の状態にたどりつこうとしていました。そのくせ、どこを目指しているのかもはっきりしないのです。「野生の馬を飼いならすときのような方法で心にアプローチしてみなさい。どこか広い場所、たとえば開けた広大な草原の真ん中にいるところを想像してみなさい。馬はたっぷり長さのあるロープにつながれていて、そのロープの端は君が握っているが、馬には十分に動き回れるスペースがある。捕まっているとかつながれているという感じはまったくしない」私は馬が草原を自由に走り回り、自分がロープの端を軽く握ってその様子を見ているところを想像しました。「そこで片手をもう一方の手に重ね、ロープをそっと引いて少しだけたぐりよせる。たくさんではなく、ほんの少しだけ」導師はそれを強調するように親指と人差し指のあいだを5ミリほどあけてみせました。「そっとやれば、野生の馬はその違いにまるで気づかない。あいかわらず全世界を走り回れるように感じている。これを繰り返して、少しずつ馬をたぐりよせていく。同時に片時も馬から目を話さず、馬が不安にならない、安心できるだけのスペースをつねに与えてやるようにする」
この話はとてもわかりやすく、その過程を思い浮かべるだけで、私はよりリラックスした気分になりました。「つまり、座った時に心が落ち着かなかったら、自分の心にもこのようにする必要がある。焦らずそっと、必要なだけのスペースを与えてやることだ。馬が自然に落ち着ける場所に来られるように、安心し、リラックスして1か所にとどまれるようにしてやるのだ。最初は逆らうこともあるかもしれない。その時はまたロープを少しゆるめてから、同じことを繰り返せばよい。このように瞑想すれば、君の心はとても幸せなはずだ」

『頭を「からっぽ」にするレッスン』 第2章 より アンディ・プディコム:著 満園真木:訳 辰巳出版:刊

支配しようとすればするほど、抵抗する。
追いかければ追いかけるほど、離れる。

それが人間の心に備わった、普遍的な性質なのでしょう。

泡のように、次から次に浮かんでくる思考。
それらに対しても、抵抗しない、追いかけないことが重要です。

力を緩めて、思考のなすがままにする。
縛りつけるのではなく、十分に動き回れるスペースを作ってあげる。

それが、心を落ち着ける秘訣ですね。

心を静め、深い理解を得るために

心から集中して物事に取り組んだとき、心がとても落ち着き、穏やかな気持ちになる。
皆さんも、そのような経験をしたことはあるでしょう。

これは、瞑想によく似た現象です。

プディコムさんは、心が静まるほど、深い理解が増すと指摘し、以下のように解説しています。

 私はこれまで、このプロセスについて様々な説明を聞いてきましたが、これからお話するたとえ話がもっともわかりやすいと思います。

大切なイメージ 静かなプールの水

とても静かで透きとおったプールの水を思い浮かべてください。水はかなりの深さがありますが、どこまでも透きとおっています。あまりに水が透明なので、プールの底まで完全に見通せます。そのため、実際にはかなり深いプールなのに浅く見えます。さて、このプールサイドに座って、水の真ん中めがけて小石を投げるところを想像してください。最初はごくゆっくり、ときどき投げる程度です。小石を投げ込むたびに水面にさざ波が立ち、再び静まるまでにはしばらくかかります。そこで、波紋が完全に消える前にさらに石を投げると、新しくできたさざ波が前のものと合体します。では、石を次々に投げ、水面全体がいっせいに波立つところを想像してください。水面がこのような状態の時、水の中を見るのはほとんど不可能です。水底など言うまでもなく見えません。
このイメージは、多くの点で私たちの(少なくともなんらかのトレーニングをはじめるまでの)心の表面をあらわしています。新しい思考は、水に投げ込まれた小石のように、表面にさざ波を起こします。私たちは小石を投げるのに慣れすぎ、波立つ水面に慣れすぎて、静かな水の様子を忘れてしまっています。それではいけないのはわかっていても、心を落ち着けようともがけばもがくほど、ますます波を立ててしまうのです。こうした心の落ち着きのなさが、座ってもリラックスできない自分に気づいた時の動揺を生むのです。言うまでもなく、心がこんなふうに波立っていては、水の下で何が起こっていて、そこに何が隠されているのかを見通すことはほぼ不可能です。だから私たちは自分の心というものを把握できず、感情の生まれるしくみやその理由が理解できないのです。したがって、まず心を落ち着かせない限り、深い理解は望めません。だからこそ、私の瞑想法では集中への比重を少しだけ多くしています。
あなたはどうかわかりませんが、私はずっと、瞑想における深い理解とは、日々の体験を瞬時に一変させる知恵のひらめきのようなものだと考えていました。けれども振り返ってみると、それは実際にはもう少し段階的なプロセスです。深い理解とは、だんだん心のことがわかってきて、起こっていることをしだいにはっきりと把握できるようになることと考えたほうがいいでしょう。そしてこの深い理解が増していくことが肝心なのです。つねに動揺し、混乱していて、心の方向が定まらなければ、安心や目的意識をもって人生を生きることはとても困難です。私たちはみな、意識をとぎすませなければわからない、知られざる一面を必ずもっています。時には、それが水面のすぐ下に隠れていて、私たちがまるで予想もしない瞬間に飛び出してこようと待ちかまえていたように思えることさえあります。実際、本当にわずかなきっかけでそれは起こります。ふとした何げない言葉でその感情が水面に浮かび上がってきて、プール全体を染めるのです。あなたにも覚えがありませんか? 人生を面倒にも豊かにもするこれらの気分や感情について学ぼうと思うなら、まず水中が見えるよう、静かな水面を手に入れなければなりません。

深い理解について覚えておいたほうがいいのは、「明らかになるべきことは、おのずと明らかになる」ということです。瞑想とは、心の奥のほうから古い記憶を掘り出してきて、それを分析したり、何もかも理解しようとすることではありません。それは瞑想ではなくて思考でです。そして、思考のせいで自分の今の状態があることを私たちはよくわかっているはずです。深い理解は勝手に、ひとりでに生まれるのです。深い理解とは、時には思考のプロセスをよりするどく意識できるようになることであり、また時には、その意識が感情や肉体感覚に向くこともあります。何が起こり、何をより意識できるようになったかにかかわらず、それが自然に起こるにまかせてください。不快で嫌な気分になるからといって抵抗したり、分析に没頭することで早く去らせようとするのではなく、ただそれがひとりでに勝手なペースで起こるのにまかせるのです。
これらの体験は、基本的に心と体が長いあいだ背負ってきた荷物から解放されていることだと覚えておいてください。よりはっきりものごとが見えるようになったのは、必ずしも愉快な体験ではないとしても、とてもいいことです。なぜなら、これを解き放つプロセスであり、解き放つことで人生が少し軽くなるからです。

『頭を「からっぽ」にするレッスン』 第3章 より アンディ・プディコム:著 満園真木:訳 辰巳出版:刊

私たちは、心の中を理解しているようでいて、実は、表面に浮かんでくる思考の断片しか認識していないということです。

思考という“小石”がつくる“波紋”が消えた、その奥に見えるもの。
それが、本当の感情であり、隠されていた意識です。

心を静めると、おのずと深い理解が得られます。
瞑想から得られる大きなメリットの一つですね。

「10分間瞑想」のやり方

プディコムさんが提唱する「10分間瞑想」の具体的な方法は、以下のとおりです。

瞑想をはじめる前に
1 背筋を伸ばして楽に座れる場所を見つける。
2 瞑想中に邪魔が入らないようにする(携帯電話の電源は切る)。
3 タイマーを10分間にセットする。

導入時に意識すること
1 5回深呼吸をする。鼻から息を吸って口から吐く。
その後、軽く目を閉じる。
2 体が椅子に触れている部分や床についている足の感覚に集中する。
3 上から下に向かって体をスキャンし、楽でリラックスしている部分、
こわばったり張ったりしている部分を感じる。
4 自分の今のムード、気分を感じる。

より深く瞑想するための呼吸法
1 呼吸の出入りをもっとも強く感じる場所をたしかめる。
2 1回毎の呼吸の感触やリズムをたしかめる。
長いか短いか、深いか浅いか、苦しいか楽か。
3 呼吸を静かに数える。息が出入りする感覚に集中し、
吸った時に1、吐いた時に2、という具合に10まで数えていく。
4 このサイクルを5〜10回、または時間のある限り繰り返す。

瞑想を終えたら
1 一切の集中をやめ、20秒ほど心を自由にする。
心がせわしなくても落ち着いていてもそのままにする。
2 体が椅子に触れている部分や床についている足の感覚に意識を戻す。
3 そっと目をあけ、準備ができたと思ったら立ち上がる。

『頭を「からっぽ」にするレッスン』 第3章 より アンディ・プディコム:著 満園真木:訳 辰巳出版:刊

プディコムさんは、さらに各段階で注意すべきことを詳細に解説しています。
ここでは、その中から「呼吸法」について紹介します。

「野生の馬」を自然に落ち着ける場所につれてきた後も、少しそわそわしたり、退屈しはじめるかもしれません。ですから、何か集中できるものを与えてやる必要があります。すでに述べたように、呼吸はもっとも簡単かつ柔軟な対象のひとつですので、このエクササイズでは主として呼吸に集中します。
まず、少しのあいだ(30秒ほど)呼吸を観察します。特に、息が出たり入ったりするのに合わせて、体の一部が上下する感覚を意識してください。最初に、その感覚をもっとも強く感じる場所を見つけてください。お腹、横隔膜のあたり、胸、あるいは肩という人もいるかもしれません。どこであれ、それを一番はっきり感じる場所で、呼吸とともに上がったり下がったりする体の感覚をしばらく感じてください。呼吸がとても浅くて感じにくい場合は、へそのすぐ下のあたりに軽く手をあてるといいでしょう。手が前後に動くので、簡単にお腹が上下するのを感じられます。その後は、エクササイズを先に進める前に、手を元の位置(膝の上)に戻してかまいません。
呼吸と心は密接に結びついているので、呼吸の位置が気に入らないということもあるかもしれません。妙な話だと思う人もいるかもしれませんが、実はとてもよくある現象です。自分が胸でしか呼吸を感じられないので、「正しく呼吸していない」と文句を言う人は珍しくありません。そういう人は決まって、お腹から深く呼吸するように本で読んだとか、ヨガのレッスンで教えられた、と言うのです。一見、これはもっともに思えます。私たちはソファでくつろいでいる時や、体を伸ばしてお風呂に入っている時など、とてもリラックスしている時には深くゆっくり呼吸しており、それはお腹からきているように思えます。同様に、不安や心配を抱えている時には短く浅い呼吸がつきもので、それは胸のあたりから来ているように思えます。座っていてこの不安な時の呼吸に似た感覚を覚えたら、何か間違ったことをしていると考えるのも無理はありません。けれども実際は何も間違っていません。思い出してください。瞑想には、気づいているかいないか、集中しているかいないかだけしかありません。このエクササイズに間違った呼吸とか悪い呼吸などというものはないのです。もちろんヨガなどでは決まった呼吸のしかたがあるのですが、それは本書のエクササイズの目指すところではありません。
あなたがこれまで生きてきて、今この本を読んでいるなら、今の今まで問題なく呼吸してきたはずです。むしろ、過去にリラックスのためのエクササイズやヨガなどをしたことがなければ、呼吸のしかたを意識したことさえほとんどないのではないでしょうか。呼吸は特にコントロールしなくてもひとりでにできます。普通は自然にまかせておけば、呼吸は勝手に機能しています。ですから無理にコントロールしようとするよりも、体にまかせておきましょう。体が勝手にすべてを調整してくれます。時には、ある場所での呼吸がより目立っていたのに、観察しているうちに移動することがあります。あるいは、お腹なり胸なり、ずっと同じところに心地よくとどまっていることもあります。あなたの仕事は、体が自然にしていることに気づき、観察し、意識することだけです。
ですから、呼吸の場所を変えようとするのではなく、体の感覚に、息が出入りする感覚に注意を集中してください。これをしながら、徐々に呼吸のリズムに意識を向けてもいいでしょう。呼吸はどんなふうに感じられますか。速いですか、遅いですか。すぐに答えを出さず、何秒か時間をかけて感じてください。呼吸は深いですか、浅いですか。また呼吸が苦しいか楽か、温かいか冷たいかも感じるかもしれません。妙な質問に思えるかもしれませんが、これも瞑想に対して適度の好奇心を向けるという考え方に従っているにすぎません。このプロセスは30秒ほどですませてください。
体に感じるこれらの感覚を十分に意識したら、次は呼吸の出入りに集中します。もっとも簡単な方法は、呼吸の数を心の中で数えることです。息が入るを感じたら、1、出ていくのを感じたら2という具合に、10まで数えます。10まで数えたら、また1に戻って同じことを繰り返します。簡単に聞こえるでしょうが、実際はそうでもありません。私がはじめた当初のように、毎回3か4まで数えたあたりで、心が別のもっとおもしろいことに向かいはじめる人もいるでしょう。あるいは、ふと気づくと62、63、64・・・・・と数えていて、10までで止めるのをすっかり忘れていることもあるでしょう。どちらも瞑想を学んでいる過程ではよくあることです。
気がそれて、心がどこかに行っていたと気づいた瞬間には、もう気はそれていません。ですから、ただそっと呼吸の感覚に注意を戻し、また数えはじめればいいのです。中断した数を覚えているならそこからはじめればいいし、覚えていなければ1に戻ってはじめてかまいません。きちんと10まで数えられたからといって賞品がもらえるわけではないので(残念ですが)、再び1からはじめるかどうかは問題ではありません。実際、毎回きちんと10まで数えることの難しさは笑えるほどですが、笑いたかったら笑ってもかまいません。瞑想はなぜかとてもまじめなものに見えるようで、厳粛な儀式か何かのように扱いたくなります。けれどもユーモア感覚や遊び感覚を取り入れるほど、瞑想がもっと簡単で楽しいものになるのです。
セットしたタイマーが時間の終わりを告げるまで、このようにして呼吸を数え続けてください。ただし、タイマーが鳴ったとたん、すぐに椅子から立ち上がってはいけません。まだとても大切なパートが残っています。

『頭を「からっぽ」にするレッスン』 第3章 より アンディ・プディコム:著 満園真木:訳 辰巳出版:刊

呼吸の方法には、決まったやり方はありません。
大事なのは「呼吸そのもの」に意識を集中することです。

最初は慣れないので、なかなか難しいと思います。
あまり堅苦しく考えず、ゲームのように気楽にチャレンジしてみたいですね。

歩きながら「今、ここ」を意識する

マインドフルネスは、「今、ここ」に在ること、自分が今どこにいて何をしているかを意識することです。
瞑想という形を取らなくても、普段の生活においても実践できます。

つまり、心がどこかに行っていたことに気づくたびに、ただその本来の焦点に戻せばいいということです。

例えば、歩いているときに行なうマインドフルネスのコツは、あくまでも自然に、ただいつもより少しゆっくり歩くことです。

 歩きはじめたら、体の感覚をたしかめてください。体が重いですか、軽いですか。こわばっていますか、リラックスしていますか。すぐに答えを出さず、少し時間をかけて自分の姿勢や歩き方をよく意識してください。
自分の歩き方を変えようとはせず、ただどんな感じかを観察してください。呼吸と同じく、歩き方も、わざわざ考えなくても、半ば自動化され体にしみついた動作です。ですから、ただ少しのあいだ観察し、意識してください。これをしていると人目が気になってくることがよくありますが、たいていその気分はすぐに消えていきます。
歩くという動作について考える必要はありませんが、身のまわりで起こっていることは意識する必要があります。エクササイズのあいだ、車やほかの人、信号や標識などに意識を向けてください。
まずは、身のまわりの目に入るものに気づいてください。にぎやかな街中なら、すれ違うたくさんの人や、店のウィンドウ・ディスプレイ、車、看板などが目に入るかもしれません。田舎に住んでいる人なら、畑や木々や動物などが目に入るかもしれません。その色や形、動き、さらにはじっと動かない様子にも気づいてください。見えるものについて何か考える必要はありません。ただ見て、認識するだけで十分です。これに30秒ほどかけてください。
次に、音に注意を向けてください。何が聞こえますか。自分の足音、走り去る車の音、木に止まった鳥の鳴き声や人の話し声などが聞こえるかもしれません。音の対象について考えるのではなく、それが自分の意識の領域を横切っていくようなイメージで、一瞬だけ意識を向けてください。これにも同じく30秒ほどかけてください。
次に、30秒ほどのあいだ匂いに注意を向けます。いい香りもすれば、悪臭もするかもしれません。香水やアフターシェーブ・ローションの香り、車のガソリンや排気ガスの臭い、食べ物や飲み物の匂い、切ったばかりの草木の匂いがするかもしれません。それぞれの匂いから、心が習慣的に物語をつくりだしたり、自然に過去のどこか、何かあるいは誰かを思い出す様子に気づいてください。
最後に、肉体的な感覚に注意を向けます。日の光の暖かさ、雨の冷たさ、風の涼しさを感じるかもしれません。1歩ごとに足の裏が地面に触れるのを感じたり、体の脇で揺れる腕の重みを感じたり、肩の凝りや古傷の膝の痛みといった痛覚を感じるかもしれません。ただ30秒ほどのあいだその感覚を意識することがポイントで、それらの感覚について考え込む必要はありません。
歩いているあいだ、これらが自分の意識の領域に入ってこないふりをしてはいけません。ただ入ってきて出ていくのに気づき、次々にあるものが別のものに入れ替わる様子を観察してください。道路のたとえを思い出してください。様々な色の車が次々に走ってきて、あなたのそばを通りすぎていきます。唯一の違いは、今は座っているのではなく歩いているということだけです。
1、2分したら、そっと体の動きの感覚に注意を移してください。一定のリズムで体重が右から左に移り、また戻るのを感じてください。スピードを調整したり、一定のペースで歩こうとしたりするのは(公園のような静かな場所や家にいるのでない限り)やめてください。そのかわりに、自分の歩き方や慣れたリズムを観察してください。このエクササイズをした結果、これからはもう少しゆっくり歩こうと思うかもしれませんが、それはそれでかまいません。
歩くリズムと足の裏が地面に触れる感覚を意識のベースとし、心がどこかに行っていたことに気づいた時に戻ってくる場所にします。これは座ってする瞑想の時の呼吸が出入りする感覚と同じ役目を果たします。
周囲のものをすべて締め出すほど強く意識を集中する必要はありません。むしろ身のまわりで起こることにオープンな態度を保ち、心がどこかに行っていたことに気づいたら、体の動きと足の裏が1歩ごとに地面にあたる感覚をそっと注意を戻してください。
こうして、よりその場に在って意識をとぎすませられるようになると、自分の心の癖(普段の考え方)もよりはっきりするかもしれません。私たちは普段、考えそのものにとらわれすぎて、これらのことに対する自分の反応にめったに気づきません。たとえば、赤信号によって歩くリズムをくずされ、しばらく止まって待たなければならない時、どんなふうに感じますか。イライラし、早く進みたくなるでしょうか。人のあいだでいい位置取りを探そうとしますか。あるいは、しばらく休める機会がもててほっとするでしょうか。
このエクササイズは、いくつかのセクションに分けるとやりやすいかもしれません。たとえば、A地点からB地点まで歩く必要があって、それに10分から15分ほどかかる場合、通りごとに分けるのがいいでしょう。各通りのはじまりで、ほかのことを考えずに通りの終わりまで歩くという意思を自分に思い出させます。心がどこかに行っていたことに気づいた時点で、そっと足の裏の感覚に注意を戻します。通りの終わりに着いたら、また新しくエクササイズをはじめるつもりで次の通りに歩きだします。こうすればずっとやりやすいはずです。
家の近くに公園や川原など、気持ちのよい屋外のスペースがあれば、そこでやってみるのもいいでしょう。このような場所では気をとられる対象も少ないので、エクササイズの感触も変わるはずです。また、対照的な環境での心の働きの違いを知るうえでも有効です。

『頭を「からっぽ」にするレッスン』 第6章 より アンディ・プディコム:著 満園真木:訳 辰巳出版:刊

私たちが意識を向けられるのは、常に1つのことだけです。

歩くときは「歩く」という行為にだけ、食べるときは「食べる」という行為にだけ、意識を向ける。
それだけで、どんなときでもマインドフルネスのエクササイズになります。

日常のすべての行為を、いつもより深く味わって行なう。
マインドフルな生活を習慣にしたいものですね。

スポンサーリンク
[ad#kiji-shita-1]
☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆


プディコムさんは、マインドフルネスは、自分の思考や感情とのつきあい方を根本から変えるものだとおっしゃっています。

大事なのは、気分にかかわらず定期的に瞑想することです。
他のスキル同様、やればやるほど、マインドフルネスの感覚に慣れて、自信がついてきます。

何も知らずに、ただ目をつぶって10分間じっとしているのは、とてもつらいことです。

一方、“野生の馬”のように暴れる心を、徐々に馴らしておとなしくさせると過程。
瞑想のトレーニングをそのように捉えると、長い目で辛抱強く続けることもできますね。

続けること、モチベーションを保つことが何よりも大切。
そのためには、効果・効用をしっかり把握しておくことがとても有効です。

目的は、意識を「今、この瞬間」に集中させ、余計な思考(雑念)を止めること。
頭を「からっぽ」にして、落ち着いて穏やかな心を手に入れること。

瞑想は、実行することが優先されるあまり、理屈な部分が後回しにされてしまいがちです。
本書は、わかりやすい例え話などをふんだんに盛り込みながら、理論的な部分もしっかりフォローされています。

瞑想に興味あるけど、難しそうだから距離を置いている。
瞑想をやってみたけど、挫折した。

そんな方には、ぜひ、一度読んで頂きたい一冊です。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ(←気に入ってもらえたら、左のボタンを押して頂けると嬉しいです)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 15

フォローする

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です