本一冊丸かじり! おいしい書評ブログ

本を読むことは、心と体に栄養を与えること。読むと元気が出る、そして役に立つ、ビタミンたっぷりの“おいしい”本をご紹介していきます。

【書評】『走りながら考える』(為末大)

 お薦めの本の紹介です。
 為末大さんの『走りながら考える』です。

 為末大(ためすえ・だい)さん(@daijapan)は、400mハードルがご専門の元アスリートです。
 トラック競技の日本人選手として初のプロ陸上選手となり、話題なりました。
 オリンピックに3大会連続で出場、世界選手権では日本人としてトラック競技初のメダルを獲得するなど、日本のトラック競技の開拓者として長年活躍されました

下っていくなかで、「見えてきたもの」

 陸上選手として、華やかな経歴をお持ちの為末さん。
25年にも及ぶ競技生活は、「勝ってきたというよりも、必死に生き抜いてきたという感じと告白しています。

 とくに、アスリートしての30代は、「下り坂の競技人生」をひたすら歩んできたという実感であるとのこと。

 しかし、為末さんは、そんな「老い」のような感覚を味わいながら、もがき苦しむ中、下っていく中で、見えてきたもあるとも述べています。

 本書は、為末さんが走ることを通じて、人生と向き合い、試行錯誤を繰り返してきた中で感じたこと、考えたことをまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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立ち上がった瞬間が自信になる

 本番で勝負強い選手は、自己肯定感が強い、とよく言われます。

 為末さんは、自身について振り返って考えると、コンプレックスも持っていたし自己嫌悪感も人並みに持っていたし、勝利そのものは自信にはならなかったと述べています。

 それでは、自己肯定感はどこから生まれたのかというと、「あのとき転んだけど逃げなかったじゃないか」という自分の「立ち上がり際」でした。

 何かに勝つにはさまざまな要素が必要で、努力や本人の気持ちの強さ以外、運や偶然も関係してくる。しかし、「立ち上がる」には、運も偶然もなく、そこには本人の意思しかない。自分の意志で切り開いたという感覚しかない。
 結果がうまくいったかどうかはどうかは別として、大事なのは切り開こうという意思。例えば誰かに殴られて、顔が横を向いてもその顔を自分の意志でフッと正面に戻した瞬間、その記憶が保存されて、それが自分の自信の鍵になると僕は思っている。
(中略)
「自分が自分をあきらめた瞬間」というのは何歳であろうと、自分でよくわかっている。
 そして、そっとフタをして見ないようにしたことは、何年経とうが、またいつか自分のところに返ってくる。

 本当にこんな自分でいいのか。この自分で大丈夫なのだろうか。何事かを成し遂げられるのだろうか。自己の能力と向き合うとき、さまざまな疑問や質問が出てくる。どんどん涌き上がる疑問をやり過ごしながら、腹が決まる瞬間がある。腹は決めさせられるわけでも、決めなければいけないわけでもなくて、自分の腹は自分で決めにいく。できるという確証はないけれど、よしやるんだと意志を持って選択する瞬間が大事だと思う

 『走りながら考える』 1章 より 為末大:著 ダイヤモンド社:刊

 跳び越えられなかったハードルは、いつまでもその場に残り続けます。
 目を背けても、忘れようとしても、ことあるごとに目の前に立ち塞がります。

 前に進むには、目の前のハードルを一つ一つ跳び越えていくしかないということ。

 跳び越えられる、跳び越えられないという結果。
 それよりも、「跳び越えていこうという勇気」と「転んでも起き上がろうという覚悟」を持って挑戦できるかどうか。

 その積み重ねが、強い自己肯定感につながります。

限界を超えた先の「足りない自分」とつき合う

 為末さんは、23歳のときに世界陸上で初めて3位となって表彰台に上りました。
 しかし、その実績が仇(あだ)となり、2年ほど結果が伴わない苦しい時期が続きます。

「スランプ」から脱出したきっかけ。
 それは、25歳のときに所属する会社を辞めてプロに転向したことでした。

 スポンサーが見つからず、本当にゼロからのスタートだ、と思ったとき、ようやく「もう1回、上に上がるぞ」という気分になり、闘志が涌き上がってきたそうです。

 一度でも「栄光」と思えるような記録や成績を出した場合、ついそのときの自分と比較してしまい、足らなければ常にそことのギャップとともに生きていかなければならなくなる。
 頭がいいこと、優秀であることを誇っている人であればあるほど今の自分を下方修正できず、(昔は)頭がよかった人、優秀だった人になりやすい。
 本当の意味での成長とは、未知の領域を認めること。
 そして自分の無知を認めることで、成長は促される。
 だから今の自分評価、他人からの評価に重きをおく人間は、こだわりが捨てきれずに伸びが止まる。「今はこんなものでしかない自分」をちゃんと認めて、それでも前を向き続ける人が成長できる人なのだと思う。
 もちろん容易なことではない。それはまるで自分の前を過去の自分がゴーストのように走っているような感覚で、自分が何と戦っているのか、わからなくなることもある。そこをうまく克服し、目標を再設定できなけば、本当の意味で自分を超えることはできない。
 怖がらず、現実と向き合い、時には目標を下げながらも、現時点での全力を尽くす。
 そうやって人は、人として成長するのだと思う。

 『走りながら考える』 2章 より 為末大:著 ダイヤモンド社:刊

「過去の自分」を基準に今の目標を決めると、それが大きな足かせとなることがよくあります。
 いわゆる「過去の栄光にすがる」ということ。

 今の自分は、過去の自分に及ばない部分もあるかもしれない。
 しかし、過去の自分にはできないけれど、今の自分ならばできることも多くあります。

 まずは現状をしっかり認識する。
 そして「今の自分」としっかり向き合い、それに見合った新しい目標を決め、最善を尽くす。

 それが成長につながるということです。

本当に強いのは、気づいたら努力していたという人

 為末さんは、努力したらうまくいったという成功体験を持つ人は、「努力はうまくいくためのプロセスである」という確信を持っていると述べています。

 努力を娯楽のように楽しんでできる人と、努力が義務になっている人。
 その二人では、努力の「質」がまったく違います。

 成功の鍵は、その状況に自分がうまくハマれば勝ちやすいという法則以外に、自分がそのことに無我夢中になれるかどうかにもかかっている。
「苦しさ」や「一生懸命」「必死」でやっている人は、「無我夢中」「リラックスした集中」でやっている人にはどうしたって勝てない。
 歯を食いしばって走る人と、走ることが楽しくて笑ってゴールを切る人。実力が同じだったら、楽しいと思っている人のほうが勝ちやすい。例えば試合の日に雨が降ったとする。前者は雨を恨み、転ばないよう細心の注意を払い、いつもと違う走りをして全力を出せない。後者は多少滑っても構わない、楽しいのだからと、肩の力が抜けたいつもの走りでよい結果を出してしまう。こんなことが、現実にはままある。
(中略)
 本当に強いのは、苦しい努力を頑張って根気よく続ける人よりも、そのことが面白くてつい努力していたという人。子どもが教えてもいないのに車や駅の名前をどんどん覚えてしまうように、自分の興味を刺激して、無我夢中になれるところで勝負することは、成功の最初のステップなのだと思う。
 何かに夢中になるための方法などない。
 だからそれを意図的に生み出すことは難しいのだけれど、言い換えれば、「無我夢中」を目指すことが、一番を目指すこと、そのもののように思う。

 『走りながら考える』 3章 より 為末大:著 ダイヤモンド社:刊

 自分のやっていることに、時間を忘れるくらい没頭できる。
 そんな人は、どんな分野でも一流の域にたどり着けます。

 周りの人から見ると、ものすごく大変そうなことでも、本人にしてみれば「楽しいこと」で、普段どおりのことです。
 敵うはずはありませんね。

「必ず終わりがくる」という感覚を持つこと

 為末さんは、自分の競技人生がいつか終わると強く意識した日から、目の前の景色が変わって見えたと述べています。

 競技人生の終わりを意識したとき、父の最期の5ヶ月を思い出した。
 そしてあるときハッとした。「僕は今日も走っているじゃないか」と。

 8歳からずっと走り続けてきたのだから、それはどこか不思議な感覚だった。アスリートはよくそういう感覚をケガの後に持つのだけど、嫌だった練習も、「走れるって実は素晴らしい」とまったく新しいものとして感じられる。離れてみて、もしくは失くしてみて初めてわかるという感覚に近い。
 いつかこの感覚がなくなる、年齢的に無理になるとしたら、全身で思いきり風を感じられるこの状況や、何かを目指して頑張れている毎日は、実はすごく貴重なんじゃないかと思ったら、その日々がとてつもなく愛おしくなってきた。
 永遠に続くことが当たり前のように思っていた「今」。キツく辛いもので、やってもやっても終わらないと感じていた練習。それが、「必ず終わりがくる」という感覚になると、辛さ度合いも変わり、残された時間の使い方も変わってくる。
(中略)
 死に向かって日々、人間がひた走っている感覚と、肉体の衰えを感じながら結果がでないところでも満足を得る感じは、なんだかとても近いような気がした。そして、大事なものは「いつか」の先にあるのではなく、「今」にあるのだと、非常に哲学めいているけれど、幸せだって今この瞬間にしかないんじゃないかと思った。
 これからの時代は、ビジネスパーソンも、「終わり」に向かってどう働くかについて、より身近なテーマとして語られていくのではないかと思う。

 『走りながら考える』 5章 より 為末大:著 ダイヤモンド社:刊

 普段の日常でも、何気なく過ごしていると、それが当たり前と感じてしまいがちです。
 いつまでも続くと錯覚しがちですが、どんなことでも、いつかは終わりが来ます。

「必ず終わりがくる」という感覚を持って日々過ごすこと。
 それが、それ以降の人生の過ごし方に大きな意識の変化をもたらします。

 それまで以上に、「今」この瞬間を大事にすることになるでしょう。
 周りの人や与えられた環境への感謝の気持ちも大きくなります。

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 人生は有限で、すべては手に入らない。
 為末さんは25年の競技生活で、そう悟られました。

 しかし、それを悟っていくと段々と思いが絞られていき、その絞られた思いは、もっと高次元におかれるようになったともおっしゃっています。

「思い」の次元が高くなればなるほど、それを達成する手段はいくつも現れます。

 行きたいところへ行く道は、実はたくさんあることを競技生活で学んだとおっしゃる為末さん。

 ハードルというフィールを離れて、次に目指す道はどんな道なのでしょうか。
 これからのご活躍にも期待したいですね。

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