【書評】『あなたの魂を照らす60の物語』(Osho)

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 お薦めの本の紹介です。
 Oshoさんの『あなたの魂を照らす60の物語』です。

 Oshoさん(1931〜1990)は、現代の神秘家であり、その人生と教えは、今もあらゆる世代の何百万という人々に影響を与え続けています。

 Amy Okudaira(奥平亜美衣)さんは、主婦であり、ブロガーです。
 一冊の本をきっかけに、「引き寄せの法則」を実践したところ、現実が激変し、人生が変わり始めます。
 その経験を伝えるために立ち上げたブログ「人生は思い通り」は、わかりやすい引き寄せブログとして評判です。

人生は「自分自身の創造」である

 Oshoさんは、人生は、自分自身の創造であり、死んだようなものにもできるし、永遠をつくることもできるーー自分の選択次第だと述べています。

 そして、それは、熱心な探求や努力、決意や絶え間ない挑戦によってのみ手に入れることができると指摘します。

 自分の内面を見つめ、自分の中の可能性を引き出すことで、人生を劇的に変える。
 Oshoさんは、それを「寓話」という形で示します。

 寓話というのは、物事を間接的に伝える一つの方法だ。真実というのは、直接的に伝えることのできるものではない。そのやり方はとても暴力的であり、攻撃的であり、男性的である。真実は、非常に間接的な方法でのみ伝えることができる。それは、言外にほのめかされたり、指し示されたりする。真実を確信するということできない。あなたは、真実について説かれるだけなのだ。
 そして、マスターとは真実をあなたに確信させようとする人ではない。あなたを真実へと誘う人なのだ。寓話は、あなたを誘い込む。真実など探求していない人でさえ、寓話に不意打ちをくらうことがある。彼らは思いもかけず、何かを手に入れるのだ。
 人々は、物語が好きだ。そして、物語はあなたの意識の周りに漂っているものである。それを忘れることは難しく、覚えていることは容易(たやす)い。物語は、あなたという存在の最も深い中心まで届く方法である。
『あなたの魂を照らす60の物語』 まえがき より Osho:著 Amy Okudaira:訳 大和書房:刊

 本書は、私たちの魂を照らし、真実を映し出す叡智を、60の寓話に込めてわかりやすくまとめた一冊です。
 その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

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「劣等感」と「野心」は、同じ感情の両極端

 Oshoさんは、燃えるような野心は、人生を台無しにすると述べています。
 なぜなら、野心の嵐に惑わされた思考は、平穏や調和、そして喜びを感じることはないからです。

 野心の根本的な原因、それは劣等感、つまり不足感です。

 Oshoさんは、「劣等感」と「野心」は、同じ感情の両極端だと指摘します。

 私の見解では、健やかな精神状態であるために必要なことは、野心から解放されていることだ。野心は病気であるが故に身の破滅を招く。どんな病気であろうと、それは死への旅の道連れである。野心は破壊であり、暴力である。野心は病んだ思考から出てきた憎悪であり、嫉妬である。また野心は人と人との間に起こる絶え間ない闘争、つまり戦争なのだ。
 悟りへの野心ですら破滅をもたらす。これは自分への暴力である。自分自身への憎悪なのだ。世俗的な野心は他人への暴力であり、悟りへの野心は自分への暴力だ。野心のある所には暴力が存在するーー外に向かっているか内に向かっているかのだけの違いだ。暴力はどのような形や状態であれ、必ず破滅をもたらす。健全で穏やかな思考から生まれる知性だけが創造的になりうるという理由がここにある。
 健やかな思考は自分自身に集中している。自分以外の存在でありたいという衝動がそこにはない。自分以外の存在になろうとすると、自分自身を知ることができなくなるーー自分を知らないということは、根本的、核心的な弱さであり、そこから全ての劣等感は生まれる。
 自分を知るということ以外にこの弱さから救われることはない。野心ではなく、自分を知ることでのみ、別の存在になりたいという願望を手放すことができる。そしてこれを実現するには、思考から野心を完全に取り除かなくてはいけないのだ。
 タンバレイン大帝(ティムール朝建国者のティムールのヨーロッパでの呼び名)とバイザッド王のこんな逸話を思い出す・・・・・。

 バイザッド王は戦争に破れ、勝者であるタンバレイン大帝の前に連れて来られた。バイザッド王を見て、タンバレイン大帝は突然大声で笑い出した。それを聞き侮辱されたと思ったバイザッド王は、堂々と頭をあげて言った。「タンバレインよ、勝利に思い上がらないことだ。覚えておくがいい、他人の敗北を笑うものは、いつか自分の敗北に泣くことになる」
 バイザッド王は目が一つ、そしてタンバレイン大帝は足が一本しかなかった。一つ目のバイザッド王のこの言葉を聞き、足の不自由なタンバレイン大帝はさらに大声で笑いながら言った。「こんな小さな勝利を笑うほど私は愚かはない。私は自分たちの状態を笑っているのだ、お前と自分の状態をな! 見てみろ!お前は目が一つで私は足が不自由だ。なぜ神が一つ目のお前や足の不自由な私に王国を授けたのかを考えて笑っていたのだ」

 今は墓で眠るタンバレイン大帝に、これは神の間違いではないと言ってやりたい。実際、足の不自由な者や一つ目の者以外に、誰が王国を望むというのだ。これは真実ではないか?人間の思考が健やかになった暁には、王国など存在しなくなるというのは真実ではないのか? 健やかな思考を手に入れたものは必ず王国を失ってきたというのは真実ではないだろうか?
 劣等感を自分の内側に発見すると、人はそこから逃げ出したくなる。そして真反対の方角に走り出すが、その行動自体が間違いであるーーなぜなら、劣等感は貧しさの現れ以外の何ものでもないからだ。
 誰もが心の奥底で内なる貧しさに苦しんでいる。同じ空虚感を誰もが感じている。外から得ることでこの内なる空虚感を満たそうと努力するが、内なる空虚の隙間をどうやって外から埋めることができるというのか? 外にあるものは外側に存在するのだから、内側を満たすことはできない。富や地位、人格、権力、宗教、慈善活動、手放し、知識、神、救済ーー結局これらは全て外側に存在する。では内側には何があるのか? 不足感、空虚感、無。それら以外に内側には何も存在しない。私たちが無から逃げるということは、真の自己から逃げることになる。逃げるということは、自分の本質的な存在から逃げるということなのだ。
 無から逃げるのではなく、それとともに生きることだ。自分の人生に注意して生きる勇気のある者は、この空虚感を満たすことができる。このような者には、空虚感こそが最大の救済になるだろう。無の中に全てが存在する。空虚の中に実在が宿り、その実在が神性である。
『あなたの魂を照らす60の物語』 第八話 より Osho:著 Amy Okudaira:訳 大和書房:刊

「自分には足りないものがある」
「自分には劣っていることがある」

 そんな自分に対するネガティブな思考、つまり「劣等感」が、意識を「自分の外」に向かわせます。
 それが「野心」となるのです。

 満たされないものを自分の外に求めても、見つけることはできません。
 自分の内面を見つめて、劣等感と向き合うことが唯一の解決への道だということです。

 無から逃げるのではなく、それとともに生きること。
 自分の人生に注意して生きる勇気のある者は、この空虚感を満たすことができる。

 まさに人生の真理を表した言葉ですね。

「内なる黄金」を見つけ出せ!

 世の中には、どんなに富や権力を持っていても、不安で夜も眠れない人がたくさんいます。
 それはなぜでしょうか。

 Oshoさんは、本当の安心は、自分の中にしか存在しない。だが、それを発見するためには、あらゆる状況において安心を手放す勇気が必要になると述べています。

 ある所に大きな街があった。その街にある聖者がやって来た。これまで多くの聖者が来ては去って行ったが、この聖者には特別な何かがあった。何千もの人々が彼の住まいを訪れた。そしてそこを訪れた人たちは皆、岩だらけの滝に打たれたような、もしくは完全なる静寂の森の中にいるような、また夜空の星空の下にいるような香(かぐわ)しさや清々しさを漂わせながら戻って行くのだった。
 聖者は名前も風変わりだった。彼の名はコティ・カルナ・シュロンと言った。サニヤス(サニヤシン、インドにおいて、伝統的に世間を捨てた求道者のこと)になる前、彼はとても裕福で、耳に1千万ルピーもするイヤリングをはめていた。そのため、彼の名はコティ・カルナーー1千万の耳ーーになったのだ。お金持ちではあったものの、お金では内なる貧しさが消えないことが分かった時、彼は富を手放すことで豊かさを手に入れた。
 彼はこのことを他の人たちにも伝えていた。呼吸から起こる音が、目から流れ出る安らぎが、彼の言葉や静けさから降り注ぐ喜びが彼を表す象徴であった。思考が成熟していれば、富、名声、社会的地位、野心からの解放はとても簡単だ。これらは所詮、子供のゲームなのだ。

 聖者シュロンを一目みたい。話を聞きたいと願い、何千もの人々が街の郊外に集まった。彼の言葉に耳を傾けると、人々の思考は静まった。それは、風のないところで灯るキャンドルのゆらめきのようだった。この群衆の中に、カティヤニという名の修道女がいた。夕暮れが近づくと、カティヤニは付き添いの者に言った。「家に戻って、明かりをつけておいておくれ。この場を去って、神の言葉を聞き逃したくはない」
 カティヤニの召使いが帰り着くと、家が泥棒に入られているのを見つけた。泥棒たちが家の中の貴重品をかき集めている間、グループのリーダーが家の外で見張りをしていた。
 召使いは急いでカティヤニの所へ戻って行った。泥棒のリーダーはその後を追って行った。召使いはカティヤニの傍に寄ると、寄ると、高ぶった声で言った。「ご主人様、家に泥棒が入っています」だが、カティヤニは全く気にする様子がなかった。カティヤニは別の世界にいたのだ。
 カティヤニはその時、聞いていることを聞き続け、見ているものを見続け、座っている場所に座り続けた。カティヤニは別世界にいた。愛の涙がカティヤニの目から流れ出た。召使いは心配になり、カティヤニを揺すりながら言った。「マザー、マザー! 泥棒たちが家に押し入っています。家にある金の装飾品を全て持って行ってしまいます」
 カティヤニは目を開けて言った。「おやまあ、気にすることはないわ。心配しなくていいのよ。泥棒たちに盗みたいものを盗ませればいいわ。服や装飾品はみんな、偽物なのよ。私が無知だった頃は、本物に見えていた。泥棒たちの目が開かれる日、彼らもまた、服や装飾品が偽物だと気づくわ。目が開かれたとたん、本物の金は盗まれたり持ち去られたりできないと気づくのよ。今、私は黄金を見ている。自分の中に存在している黄金を」
 カティヤニの召使いは何のことやら全く理解できなかった。召使いは途方に暮れ、言葉を失った。ご主人様に何が起こったのだろうか?
 だが、まるで内なる扉が開かれたように、まるで魂のランプに火が灯ったように、泥棒のリーダーの心はこの言葉に動かされた。リーダーは仲間の所に戻って行き、こう言った。「友よ、盗んだものをここに置いていくのだ。この金の装飾品は、みんな偽物だ。一緒に来い。この家の女主人が見つけた富を探すんだ。この金の装飾品が偽物だと気づかせてくれた富を、私たちも探そうではないか。今まで私も同じ黄金を探し続けてきた。黄金のある場所は遠くない。すぐ近くにある。その黄金は自分の中に存在するのだから」
『あなたの魂を照らす60の物語』 第二十四話 より Osho:著 Amy Okudaira:訳 大和書房:刊

 私たちが持っているお金や宝石、地位や名声などは、所詮、自分の外から来た“偽物”です。
 外から得たものは、いずれ手放す運命にあります。
 遅かれ早かれ、その日は必ず来るのは間違いありません。

 いつか手放さなければならないものを拠り所としても、不安を完全に取り除くことはできません。
 やはり、本当に見つけるべき宝は、自分自身の中にあるということです。

 私たちも、決して奪われることのない「内なる黄金」を見つけ出したいですね。

「思考を手放す」ためには?

 Oshoさんは、思考を手放すことは、思考自身の試みや努力によって達成されることはないと述べています。
 なぜなら、思考が何を試みようとも、結局のところ思考を強め、思考に力を与える結果になるからです。

 思考それ自身の行動によって、思考が解放されるのが不可能な理由がここにある。どうすれば、思考が思考自身の死の原因になれるのか? 思考はこの世の欲望で成長する一方、救済への願望においても命を見出す。この世に存在する欲と同じものが、宗教の世界にも存在するのだ。この世で失敗したり、失望したり、退屈したりして、俗世での享楽を欲していた思考が、平穏を望み、真実を求め始めるのだ。基本的に願望という意味では同じであるため、思考も同じなのだ。
 願望のあるところには、思考がある。願望は俗世のものでもあり、手放しでもある。全ての手放し、俗世を捨て去るという行為の全ては、願望から生まれる。手放しに関わる行為は全て、享楽に反応して起こっているーー反応が起こっている限り、そこに自由はない。行為が何かの反応である場合、それは縛られたものであり、そこから生まれたものである。反応は行為の別の形態であり、実は同じものなのだ。
 手放しもまた、享楽である。手放しは俗世界そのものである。享楽であれ手放しであれ、俗世界であれサニヤスであれ、思考の本来の形ーー思考の中心的核ーーは、どちらからも影響を受けない。思考の命は願望からくる。何かでありたいという渇望、何かを手に入れたいという渇望、どこかへ到達したいという渇望は、どれも思考の基盤そのものである。享楽と手放しのどちらからも平穏が見つからないのは、これが理由だ。

 思考が存在しないところ、そこには平穏がある。そこでしか、平穏は存在できない。思考が存在するということは、平穏がないということだ。思考が存在しない場所に、真実が存在する。だが、あなたたちはこう尋ねるだろう。「どうすれば、思考が存在しない状態になれるのか?」友よ、尋ねるな。尋ねているのが思考だ。「どうすればいいか」という探求が、思考に属している。方法や手段を探すことが、思考に属しているのだ。何かになるための探求は、思考に属しているのだ。思考はいつも「どうすればいいか?」と尋ねている。
 そうではない。こう問わずに、思考の作用の仕方を観察するのだ。どんな方法で思考が入り込んでくるのか? どんな方法で増大するのか? どんな手段で強くなるのか? もちろん、思考の作用の仕方は巧妙だ。そのやり方に、目を向けるのだ。何も行動する必要はない、ただ目を向けるのだ。思考の形態やそれに付随した形に注意し、意識を向けるのだ。思考を理解し、思考の全体像を認識するのだ。思考の行為や反応、思考が執着するものしないもの、思考が好むもの好まないものに目を向けるのだ。絶えずこのことを思い出せ。忘れるな。そして、思考に向ける意識は、自然でなくてはならない。私たちの目は、自然と思考に向けられている必要がある。革命は、緊張や集中することなしに思考を理解し、知ることでのみ実現する。実際、思考を知ること自体が革命なのだ。
 思考を知ることで、思考が消える。思考を認識する学びの中で、思考を捨て去ることができる。なぜなら、知ることや気づいている状態は、願望ではないからだ。これらの状態は、何かになろうと競っているわけではないし、何かになろうとしているわけでもない。存在しているものへの目覚めであり、起こっている出来事への目覚めでしかない。願望は常に未来へと向かい、知るということは常に今に存在している。知るということの出現が、常に未来へと向かい、知るということは常に今に存在している。思考を知ることは、思考から自由になることだ。
 これは思考の解放ではなく、思考そのものからの解放であることを覚えておくのだ。ここから、自由という無限の光の中、神を知ることができるだろう。
『あなたの魂を照らす60の物語』 第二十五話 より Osho:著 Amy Okudaira:訳 大和書房:刊

「どうすれば、思考を手放すことができるか」

 そう考えた時点で、思考の罠にはまっているということ。

 思考の罠から抜け出すには、思考の作用に目を向けること。
 つまり、「思考している自分」を外から見つめている「もう一人の自分」が観察しているようなイメージですかね。

 思考から解放されるには、まず、思考のメカニズムを知ることが大切だということです。

「エゴ」から自由になるためには?

 Oshoさんは、自分が「私」だと考えているもの、つまりエゴは、「偽り」であり、現実には存在しないと述べています。

 エゴを使ってエゴから解放されようとする試みは、自分のブーツの紐を引っ張りあいながら起き上がろうとするほど馬鹿げたことです。

 エゴは存在しないのですから、手放すことはできません。
 できるのは、エゴは偽りであり、本当の自分ではないことを「知ること」だけです。

 Oshoさんは、エゴである「私」を完全に知り尽くすことは、エゴから自由になることだと述べています。

 自分自身の内側を隅々まで探し、「エゴは存在しない」ことを知る。
 そうすることでしか、エゴから完全に逃れることはできません。

 エゴは奉仕を求める。実際、エゴは何でも欲しがり、何も与えない。与えることができないのだ。与えるということは、エゴには不可能なのだ。エゴはいつだって何かをせがんでいる。エゴイストが誰よりも惨めで貧しいのは、それ故だ。
 王だけが、奉仕することができる。内側に何も持たない人が、何を与えることができるというのか? 与える前に、何かを持っていることが必須だった。
 奉仕とは何だろう? 愛そのものが奉仕ではないか? 「私」が死んで忘れ去られることで、意識の中に愛が生まれる。
「私」の死の中に、愛が誕生し、愛が生きる。
「私」を仮想する薪の山から、愛の種が発芽する。
「私」でいっぱいの人は、愛が空っぽだ。「私」は搾取の中心だ。奉仕ですら搾取になってしまう。奉仕の中ですら、同じように「私」が成長し、強くなっていく。人類は、奉仕家のエゴに気づいていないのか? 搾取者のエゴですら、慈悲という覆いに包まれているが、奉仕家の謙虚さほどエゴを大々的に宣言しているものはない。愛は主張せず、奉仕は無言の中にあることを覚えておくのだ。
 そしてまた、愛はそれ自身が感謝であり、奉仕はそれ自身が恩恵だ。
 私は、とても変わった取り決めの話を思い出した・・・・・。

 二人の友人同士が、絵画を学びに先生のところに行くことにした。二人はとても貧しかった。火をおこすための二本の棒すら持っていないほどだった。そこでこんな取り決めをした。まず二人のうち一人がアートを学び、その間もう一人は仕事を見つけて二人分の生活費を稼ぐ。その後、先に学んでいたほうが仕事に就き、もう一人がアートを学び始めるという具合だ。
 二人のうち一人が、先生から絵画を学び始めた。何年もの年月が訪れては去って行った。過酷な鍛錬の道だった。時間については問題にならないほど、若者は持てる力を全て注ぎ込み、努力を惜しまず精進した。徐々に、若者は有名になっていった。アートの世界で、彼の人気はうなぎ登りだった。若者の名はアルブレヒト・デューラーといった。
 だが、彼の友人であるもう一人の若者の努力は、デューラーよりも困難なものだった。友人は穴を掘り、石を砕いていた。木を伐(き)り、それを運んでいた。徐々に、彼は自分も絵画を学びたかったということを忘れていった。アートを学ぶ番がついにやって来た時、彼の手はあまりにも堅くこわばり、形もいびつになっていたため、絵を描くことはできなくなっていた。
 この不運に、最初に学んだ若者は泣き始めたが、彼の友人はとても幸せだった。友人は言った。「絵を描くのが君の手だろうが、私の手だろうが、違いなんてないだろう? 君の手は、私の手でもあるんじゃないのかい?」

 最初に学んだ男は偉大な画家になったが、汗と苦しい労働で彼を画家にした友人の名は、誰にも知られていない。だが、この知られざる奉仕こそが、愛の輝ける見本ではないだろうか? 人に知られることなく奉仕を行い、また奉仕をする機会を探している人こそが、祝福されるべきではないか?
 知られている人のみならず、知られざる人も創り出している。知られざる愛の手が行った奉仕ほど、大きな努力や愛は存在しない。アルブレヒト・デューラーは、祈りを捧げる友人の手を描いた。このように美しい手を見つけることは、容易だろうか? この手ほど神聖な手を見つけることはできるだろうか? この手ほど、愛を捧げ、祈りを捧げるという幸運に恵まれた手は、ほとんどないだろう。
『あなたの魂を照らす60の物語』 第三十九話 より Osho:著 Amy Okudaira:訳 大和書房:刊

 奉仕をしたい。
 その思いすら「エゴ」から発生したものだということですね。

 絵を書くのが、君の手だろうが、私の手だろうが、違いなんてない。
 デューラーの友人のような「私」を超越した奉仕こそが、本当の愛であり、魂からの行為です。

 Oshoさんは、エゴの死は、魂の誕生であり、新たな人生を始めるために、偽りの人生で一度死ぬ必要があると述べています。

 偽りの「私」つまりエゴを取り除いて、取り除いて、最後に残ったもの。
 それが「魂」であり「本当の自分」であり「愛」なのでしょう。

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☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

 Oshoさんは、序文にて、以下のようにおっしゃっています。

 人間を深く見つめるとき、私がそこに見つけるものは何であろうか? それは、人間はこの世のランプであるということだ。しかしそれは、ただの粘土でできたランプではない。その中には、太陽に真っ直ぐ向かう光の炎もある。人間の肉体は、土でできたものであるが、その魂はまさに炎なのだ。しかし、その上昇し続ける光の炎を忘れてしまった人間は、ただの粘土となる。その人は、上昇することをやめてしまったのだ。上昇することがなければ、そこに人生はない。
 友よ、自分の内側に目を向けるのだ。思考(マインド)の中の煙を全て追い払い、意識の炎を見るのだ。限りある生命を超えてあなたのヴィジョンを掲げ、永遠不滅のものを認知するのだ。永遠不滅であるものを認知することより重要なことはない。なぜなら、これを認知することで、あなたの中の獣性が死に絶え、神性が生まれるのだから。
『あなたの魂を照らす60の物語』 序文 より Osho:著 Amy Okudaira:訳 大和書房:刊

 魂の炎を忘れ、ただの粘土として生きるか。
 それとも、魂の炎を燃やし続け、人間として「この世のランプ」となるべく生きるか。

 その選択は、私たち自身の手に委ねられています。

 私たちの魂に炎を灯す珠玉の60の物語。
 ぜひ、皆さんも手に取って、その深い含蓄を含んだ真実の言葉の数々に触れてみてください。

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